「天職一芸~あの日のPoem 281」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「老伴(おいのとも)十七代当主」。(平成20年6月3日毎日新聞掲載)

父のわずかな愉しみは お盆休みの里帰り            献花燈明墓参り 後は川原で太公望               伊勢路松阪老伴(おいのとも) 父は手にして懐かしげ      特急代が手土産に 各駅停車帰り道

三重県松阪市中町、名代の銘菓「老伴(おいのとも)」を作り続ける、柳屋奉善(ほうぜん)十七代目当主の岡久司さんを訪ねた。

伊勢の国の最北端、三重県松阪市。

近江発祥の豪商が軒を連ねる。

かつてはこの国の民の一割が、毎年参宮道を経て伊勢へと行き交った。

「家は豪商やありませんわ。子どもの頃なんて、晩御飯はうどんだけ。親父だけがトンカツとかステーキで。学生服も継ぎ当てだらけ。いつも両膝の継ぎ当てを両手で隠しとったら、周りの者(もん)らから皮肉にもお利口さんに見られて。それにみんなは銀シャリなのに、ぼくだけ『身体にええ』って麦飯の弁当持たされて、よう虐められたわ」。久司さんの風貌と優しげな笑みからは、とても創業433年を誇る老舗の当主らしさが感じられない。

ジーンズにカジュアルシャツ。

髪も白髪交じりの長髪で、まるで昔のフォークシンガーか写真家のようだ。

久司さんは昭和27(1952)年、4人兄妹の長男として誕生。

浪人の末、昭和52(1977)年に大学を卒業し、東京のマネキン会社に就職。

1年後、社内で見初めたみどりさんを妻に迎え、4人の子を授かった。

昭和54(1979)年、会社を辞し帰省。

十七代目を継ぐ決心を固め、家業に従事した。

老伴の由来は、天正3(1575)年に遡る。

本能寺の変の7年前だ。

近江の国(滋賀県)日野を発祥とする柳屋奉善の初代が、家宝として伝わる前漢時代の瓦の模様を意匠に「古瓦(こがわら)」と命名し、最中の皮の上蓋を硯に、流し込む羊羹を墨に見立てて銘菓に仕上げた。

模様は、不老長寿を意味する「延年」と、幸運を運ぶ「コウノトリ」が描かれている。

後に「古瓦」の名称は、松阪の豪商で茶人でもあった三井高敏により、白楽天の詩集から「老伴」と改名された。

ところが時代は一転、風雲急を告げ信長から秀吉の治世へ。

天正16(1588)年、蒲生氏郷は秀吉の命で伊勢の国松ヶ島(後の松坂)城主に。

それに伴い日野商人たちも所替えの末、松阪へと居を移した。

老伴は、前日から水に浸した糸寒天と白手忙餡(しろてぼあん)を釜で炊き上げ、砂糖を加え食紅で着色。

そのまま最中に流し込み、表面が少し固まり出せば砂糖蜜を刷毛で塗り上げる。

平成3(1991)年、世はバブルの真っ盛り。

店もビルに建て替えた。

しかしその年、借財を残し先代が他界。

バブルは無残にも崩壊し、売り上げは激減。

5年後には母も交通事故で失い、老職人2人も後を追うように他界した。

「精神的に滅入って引きこもったほどですんさ。でも家内はずっと黙って見守ってくれてましたわ。その内に『潰れるんなら潰れてまえ』って。お金が無い分、家族の絆が太く紙縒(こよ)られたんやさ。お金も余分にあると、逆に見失うもんもよけあるでなぁ」。

累代の先祖はいつしか神々となり、家業の行方を今も見護り続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 280」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市の「特殊造形師」。(平成20年5月27日毎日新聞掲載)

玄関先にランドセル 放り出したら一目散            棒切れ持って駆け出した 腕白どもの隠れ家へ          棒はチャンバラ剣となり 怪獣狙うライフルに          やがて善悪入り乱れ 最後はみんなヒーローや

岐阜県郡上市の郡上ラボ、特殊造形師の森藤弘美(ひろみ)さんを訪ねた。

長良川沿いに長閑(のどか)な田園が広がる。

何気ない風景の中に、あったはならない物が存在した。

大きな建物の入り口では、巨大な恐竜が今にも襲いかからんばかりに口を開く。

就学前の子どもが、羽交い絞めにでも遭ったかの様に、入り口で固まり動こうともしない。

「中にはオシッコちびってまう子もおる。そんな時は何だか勝ち誇った気になるで不思議やて」。弘美さんは、厳つい風貌とは似ても似つかぬ少年のような眼(まなこ)を輝かせた。

弘美さんは昭和17(1942)年、農林業を営む家に長男として誕生。

中学を出ると林業を手伝った。

「山から切り出した材木を農耕馬に積んで、トラックまで運ぶ毎日やった」。

昭和36(1961)年、19歳でダンプカーの運転手になり土建業へ。

「山仕事が嫌で嫌で。みんな周りの者らは都会へ出て行くし。でも俺は長男やで。うらやましくってな」。

それから三年が過ぎた。

「どうにも土建屋も向いとらん。それで名古屋へ出て何か探そうと。車の部品作りを覚えて、その仕事をここへ持ち帰ろうと考えたんやて」。

バイス加工の下請けを始めた。

昭和44(1969)年、青年団の活動で一緒になった芳子さんと結婚。

二男一女に恵まれた。

その2年後、天職との出逢いが訪れた。

「名古屋に歯科技工士になった弟がおって『何か仕事くれんか。くれるまで帰らん』って、座りこんだったんやて」。

入れ歯加工を3ヵ月で身に付け、郡上へと戻った。

意外にも手先の器用さは天下一品。

すぐに技工士の上前を撥ねる腕前に。

「そんな関係で、技工職人と出逢ったんや。技工にも様々な分野があって、顔面全体を造ったり、目や鼻、指なんかを補綴(ほてつ)する造形があることを知ったんやて。その職人は父親が映画のカメラマンだった関係で、ホラー映画のマスクを造ったりしとって。それが面白そうやもんで、俺も手伝っとったんや」。

歯科技工で生活を支える傍ら、お化け屋敷のお化け造りや、ぎふ未来博では山東竜の復元模型も手掛けることに。

いつしか歯科技工師から特殊造形師へ、時代の流れに身を委ねた。

「これまでに恐竜は40体くらいやろか。図鑑や骨格標本を眺めながら、頭の中で三次元に描くんやて」。

骨格から実寸を割り出し、完成後の動きを考え台座を鉄骨で組み立てる。

次に恐竜の下部から順に鉄骨を溶接し、足、胴、首、頭、尾と順に組み上げてゆく。

骨格の次は発泡ウレタンで肉付け。

表面に生ゴムを吹き付け、5~6回の上塗りを繰り返し、仕上げの塗装へ。

「作業しとる間は夢心地やわ。何万年も昔の時代に、旅しとるんやで」。

万年少年は眼(まなこ)を輝かせ笑った。

「自分がとことんのめり込まんと、人なんて驚いてくれんって」。

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「湖東三山の見事な紅葉④」

こちらは百済寺の寺内だったと思います。

何とも素敵な、自然が描き出した紅葉の模様です。

この熊笹の上に舞い降りた真っ赤な紅葉もメッチャ素敵で、思わずスマホのカメラをパシャリ!

百済寺の本堂へと続く、山道の見事な紅葉です。

金比羅山の石段よりも長い気がした山道をゼーゼー言いながら登り、本堂脇の鐘楼でコロナが早く終息し、もう一度Liveが開けますようにと、そんな願いを込め鐘を衝いてまいりました。

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「湖東三山の見事な紅葉③」

もう、どこがどのお寺だったのか、写真を振り返るだけでははっきり思い出せぬほど、いずれ劣らぬ紅葉の真っ盛りでした。

初日の11月22日には、近江蕎麦に舌鼓を打った後、湖東三山の西明寺と金剛輪寺を巡り、近江ホルモンでしたたかに酔いしれ、翌23日の朝一で百済寺を詣でました。

この写真の紅葉は、金剛輪寺のような気がします。

参道には、バージンロードのような紅葉の落ち葉が!

踏んでしまうのが申し訳ないこと、この上ありませんでした。

ここでは何とオレンジ色の紅葉が!

やっぱり三重塔は、下から見上げるのが一番趣があって好きです。

しかも色とりどりの紅葉に彩られ、まるでお化粧でもしているかのような艶やかさでした。

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「湖東三山の見事な紅葉②」

色とりどりに色づく、木々たちの競演!

紅葉がこんなにきれいに映るのは、葉が散り際に燃え尽きていくからでしょうか?

時を忘れて立ち尽くしたまま、しばらく眺め入っていたものです。

しばらく寺内を歩いてゆくと、こんなハート型の切り株が!

苔生したハートの真ん中には、風に弄ばれた一枚の真っ赤なモミジが舞い降りて来ました!

ちょっぴりロマンチックじゃないですか???

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「湖東三山の見事な紅葉①」

レンタカーを駆り、高速を使わず薩摩カイコウズ街道を経て、関ヶ原から米原へ。

そして彦根を経て、湖東三山巡りを始める最初の地点にたどり着いたのは、ちょうどお昼時でした。

最初は街道沿いにあった、近江ちゃんぽんなるものの看板が気になり、店を訪ねて見たものの長蛇の列。

もうそれに嫌気がさして、最初の湖東三山の一つ「西明寺」に向かいました。

すると街道沿いにポツンと蕎麦屋が!

ここだぁと直感で決めて飛び込んで見ました。

そこで注文したのが、こちらの鴨汁蕎麦と、周りの皆さんが注文されていたお稲荷さんです!

この太さがまちまちのどこからどう見ても手打ちの蕎麦切り!!!

またこの蕎麦らしい色合いの田舎蕎麦は格別でした。

鴨汁もぼく好みのキリッとした味わいで、一滴遺さず蕎麦湯で割っていただきました。

お店は、腰の曲がったお爺ちゃんが調理場を仕切り、店内ではお婆ちゃんとその息子さんが丁寧に接遇されていて、とても感じの良いお店で、ますます美味しさも味わい深いものとなった気がします。

今日からは、湖東三山巡りですが、ネットでもご覧いただける本堂や楼門などのご紹介ではなく、その時ぼくの目に映ったものをご覧いただくことにいたしましょう。

まずはこちら!

まさか!11月22日、誕生日前日に花見が出来るなんて!

湖東三山の一つ西明寺の寺内で、こんなに開花した不断桜を拝見することが出来ました。

周りはいずれもこんなに色づいているというのに!

「近江商人発祥地の日野町紀行⑥」

9月下旬の旅の最後に、せっかく近江に来たのだからと、レンタカーでの帰り道にお多賀さんを詣でました。

まず目に飛び込んできたのは、この二つの大釜。

由来を描いた立札を見ると、お湯点て神事にでも使われたようです。

グツグツ煮え立つお湯を撒き散らし、邪気を払われたのでしょうかねぇ。

お湯点て神事は、やっぱり各地で行われていたようですものねぇ。

長野県の遠山郷の近くでは、今でも毎年年末にお湯点て神事が行われていますし!

そして境内で次に目に留まったのは、このお百度石でした!

お百度詣りの際は、この木の幹を回ったのでしょうかねぇ。

続きは、ぼくの誕生日に出掛けた、湖東三山です!

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「近江商人発祥地の日野町紀行⑤」

こちらは、湖南三山の常楽寺です。

この本堂が国宝だそうです。

和銅年間(708~715)元明天皇の勅命よにり、良弁(ろうべん)僧正が開基した阿星寺(あせいじ)五千坊の中心寺院として建立されたとか。

ところが延文5年(1360)火災で全焼。同年、僧侶観慶によって再建されたのが現存する本堂だそうですが、それにしても実にお見事!

このご本堂は、愚かな過ちを繰り返し続ける人間共を、660年物間、どんな風にご覧になられていたことや?

それにしても堂々たるものでした。

こちらも国宝の三重塔です。

9月下旬ではありましたが、木々がほんのりと色付いていて素敵でしたねぇ。

このアングルで見上げていると、この先に天国とやらがあるのだろうかと思えたほどです。

こちらは、湖南三山の一つ、善水寺の参道に、何気に飾られた置物です。

9月下旬の彼岸の頃でしたので、彼岸花とこの置物が妙に目に留まってしまいました。

本堂までの200m程の参道には、こんな置物たちがそこかしこに配されており、どなたがこんな遊び心を表現されたのかと、ついついいらぬ想像を巡られたりもしたものです。

こちらが善水寺の国宝指定の本堂です。

伝承によると、和銅年間(708年 – 715年)に元明天皇が国家鎮護の道場として建立し、和銅寺と称したとか。

その後、平安時代初期に最澄が入山し、池から出てきた薬師如来を本尊とし、雨乞いの祈祷を行い、天台寺院に改めた上で延暦寺の別院を建立したのだとか。

桓武天皇が病気になられた際、最澄が法力によりこの地の霊水を献上したところ、たちどころに回復されたそうです。

これにより天皇から岩根山善水寺の寺号を賜わったとか。

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「近江商人発祥地の日野町紀行④」

こんな装束で近江商人は、全国各地へと商いの旅を掛けていたようです。

これに長い楊枝でも咥えていたら、まるで木枯し紋次郎じゃないですか!

この中でも⑥の「終身・遺族・退職年金資料」ってえのが一番ぼくには興味深いものでした。

近江商人は、単にお金儲けに長けていただけではなく、そこで働く者たちへの福利厚生を、こんなにも手厚く施されていたとは!

現代のブラック企業のお偉いさん方に聞かせたいものですねぇ。

一方、用心下駄を配して、夫の帰りを待つ「関東後家」さんたちは、こんな「折形」なるものを嗜まれていたとか。

こんな「折形」を折りながら、旦那が無事で日野に帰ってくるように祈られていたのでしょうねぇ。

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「近江商人発祥地の日野町紀行③」

長閑な古い街並みを歩いてゆくと、ありましたありました!

この「近江日野商人館」です。

9月の下旬でしたが、先客はたったの3人。

「密」を案ずることも無く、見学させていただくことに!

すると玄関の上り框にはこんな下駄が!

何とその名も「用心下駄」とか。

そう言えば昔、新聞の連載「長良川母情」の取材でお邪魔したお宅にも、玄関口に身罷られたご主人が生前履いていらっしゃったという革靴が、こんな感じで置いてありました。

取材先のお宅は大きなお屋敷で、ご主人が身罷られた後、年老いた奥様だけの独り暮らし。

厄介なセールスとかがやって来た時に、独り暮らしと悟られないためにと、ご主人があたかも奥の間に居るかのように、革靴を置いていると仰っておられたのを思い出しました。

なるほどなるほど!

入り口ではこんな時代がかった金看板が、大仰に出迎えてくれます。

近江商人が商った物の一つは、こちらの400年以上の歴史を刻む「日野椀」とか。

当時の行商の輸送手段と言えば、馬か牛、それに人が担うしか手立てがありませんから、この日野椀や薬など、軽いものでなければ、とても全国各地を行脚できませんものね。

ここ近江の地は、さすがに漆器の八大産地の一つとのことで、非常に刳り物が盛んで、木地師さんたちが沢山いたそうです。

木地師さんたちは、刳り物の材料となる木を求め、全国各地へとここ近江から流れて行かれたとか。

以前「天職一芸」の取材でお逢いした、中津川市の生地師さんのご先祖様も、近江から良質な材木を求め中津川にたどり着いたと仰っていたのを思い出しました。

コロナ対策の施された帳場が、入館料をお支払いする場所です。

写真で見るとまるで蝋人形かと見紛うばかりのオジチャンが、優しい近江言葉で説明して下さいました。

貴族や武家の歴史館は煌びやかな物ですが、商人の歴史館はぼくのような庶民目線に非常に近いため、興味津々です!

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