今日の「天職人」は、三重県松阪市の「老伴(おいのとも)十七代当主」。(平成20年6月3日毎日新聞掲載)
父のわずかな愉しみは お盆休みの里帰り 献花燈明墓参り 後は川原で太公望 伊勢路松阪老伴(おいのとも) 父は手にして懐かしげ 特急代が手土産に 各駅停車帰り道
三重県松阪市中町、名代の銘菓「老伴(おいのとも)」を作り続ける、柳屋奉善(ほうぜん)十七代目当主の岡久司さんを訪ねた。

伊勢の国の最北端、三重県松阪市。
近江発祥の豪商が軒を連ねる。
かつてはこの国の民の一割が、毎年参宮道を経て伊勢へと行き交った。

「家は豪商やありませんわ。子どもの頃なんて、晩御飯はうどんだけ。親父だけがトンカツとかステーキで。学生服も継ぎ当てだらけ。いつも両膝の継ぎ当てを両手で隠しとったら、周りの者(もん)らから皮肉にもお利口さんに見られて。それにみんなは銀シャリなのに、ぼくだけ『身体にええ』って麦飯の弁当持たされて、よう虐められたわ」。久司さんの風貌と優しげな笑みからは、とても創業433年を誇る老舗の当主らしさが感じられない。
ジーンズにカジュアルシャツ。
髪も白髪交じりの長髪で、まるで昔のフォークシンガーか写真家のようだ。
久司さんは昭和27(1952)年、4人兄妹の長男として誕生。
浪人の末、昭和52(1977)年に大学を卒業し、東京のマネキン会社に就職。
1年後、社内で見初めたみどりさんを妻に迎え、4人の子を授かった。
昭和54(1979)年、会社を辞し帰省。
十七代目を継ぐ決心を固め、家業に従事した。
老伴の由来は、天正3(1575)年に遡る。
本能寺の変の7年前だ。
近江の国(滋賀県)日野を発祥とする柳屋奉善の初代が、家宝として伝わる前漢時代の瓦の模様を意匠に「古瓦(こがわら)」と命名し、最中の皮の上蓋を硯に、流し込む羊羹を墨に見立てて銘菓に仕上げた。
模様は、不老長寿を意味する「延年」と、幸運を運ぶ「コウノトリ」が描かれている。
後に「古瓦」の名称は、松阪の豪商で茶人でもあった三井高敏により、白楽天の詩集から「老伴」と改名された。

ところが時代は一転、風雲急を告げ信長から秀吉の治世へ。
天正16(1588)年、蒲生氏郷は秀吉の命で伊勢の国松ヶ島(後の松坂)城主に。
それに伴い日野商人たちも所替えの末、松阪へと居を移した。

老伴は、前日から水に浸した糸寒天と白手忙餡(しろてぼあん)を釜で炊き上げ、砂糖を加え食紅で着色。
そのまま最中に流し込み、表面が少し固まり出せば砂糖蜜を刷毛で塗り上げる。
平成3(1991)年、世はバブルの真っ盛り。
店もビルに建て替えた。

しかしその年、借財を残し先代が他界。
バブルは無残にも崩壊し、売り上げは激減。
5年後には母も交通事故で失い、老職人2人も後を追うように他界した。
「精神的に滅入って引きこもったほどですんさ。でも家内はずっと黙って見守ってくれてましたわ。その内に『潰れるんなら潰れてまえ』って。お金が無い分、家族の絆が太く紙縒(こよ)られたんやさ。お金も余分にあると、逆に見失うもんもよけあるでなぁ」。

累代の先祖はいつしか神々となり、家業の行方を今も見護り続ける。
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