「天職一芸~あの日のPoem 291」

今日の「天職人」は、三重県松阪市大黒田町の「びっくりうどん職人」。(平成20年8月26日毎日新聞掲載)

父と自転車二人乗り 真っ暗闇を港へと             釣り糸垂れて防波堤 獲らぬ狸の皮算用             空魚篭(からびく)提げて朝陽浴び 父と帰りにうどん屋へ    盥(たらい)のような丼の びっくりうどん腹一杯

三重県松阪市大黒田町、稲葉屋びっくりうどんの三代目、林武男さんを訪ねた。

伊勢参宮道と熊野古道へと通じる、追分からほど無い松阪市大黒田町。

「おお~い、びっくりさん。なんやもう仕舞いなん?」。

暖簾を仕舞い込もうとしている店主の背中に、客が声を張り上げた。

それもそのはず、時間はまだ昼の一時を回ったところ。

「ここ7~8年ほど前から、朝6時に店開けて昼は1時半頃まで。それでたいがい売り切れ御免やわ。昔は夜も遅まで開けとったけど、今しはバイパスやら何やら新しい道ができてもうて、人の流れも変って誰あれも歩かへん」。武男さんは親しみのある笑顔を向けた。

びっくりうどんは、祖父が大正時代に「安て、ようけあって、美味い」を信条に、洗面器のような丼にうどんを並々と盛り付けた名物だ。

「本当の屋号は稲葉屋やけど、商品名のびっくりうどんの方が名が通っとんやさ。せやで周りの者(もん)らに、子ども頃から『びっくりの倅や』って呼ばれよったし、今しは『びっくりさん』やわ。コックリサンとはちゃいまっせ」。

武男さんは昭和13(1938)年、4人兄弟の長男として誕生。

昭和28(1953)年、中学を出ると直ぐ家業に就いた。

「あの頃は丼をリヤカーに積んで、一日に50~60軒も出前せんならんのやで。自転車やと丼が重とてかなんのやさ」。

昭和40(1965)年、鳥取県出身の京子さんと結ばれ、女子三人を授かった。

「今もなぁ有り難いことに、一番下の娘が手伝(てっと)うてくれとりますんさ」。

びっくりうどんの朝は早い。

夜中の3時半に起床しそのまま仕込が始まる。

まずは鰹節と煮干で1時間半かけて出汁をとり、祖父の代から受け継がれる甕へ。

客の好みに応じ、濃い口2甕、薄口1甕が満たされる。

「そうこうしとると5時頃に製麺所から生うどんが届くもんやで、それを40分かけて湯がき、水に冷やして玉うどんを作るんやさ」。

すると間も無く一番客が、午前6時の開店と同時に姿を現す。

「朝早いお客さんは、タクシーの運転手さんやら現場へ出向く前の建設作業員やったり。人生色々やで」。

大半の客が名物びっくりうどんやカレーびっくりを次々と所望する。

まず注文が入るとうどんを温め、直径25㌢ほどの洗面器のような丼に入れる。

次にうどん汁(つゆ)にネギ・牛肉・筍・竹輪・鳴門を入れて炊き、水溶きカレー粉を加え一煮立ちさせれば、夏バテも吹き飛ぶ人気のカレーびっくりが完成。

一日に200食が、わずか午前中だけで完売となる。

「常連さんはカレー好きが多いんちゃうやろか。だから店ん中がいつでもカレー臭いんと違う?よう友達に言われるもん。『あんたが来るとカレーの匂いするわ』って」。

この店に30年勤めるという、パート従業員、木村すみこさんが笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 290」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「アイスまんじゅう職人」。(平成20年8月19日毎日新聞掲載)

麦わら帽に半ズボン 黄ばんだシャツのランニング        アイスまんじゅう噛り付き タモを小脇に蝉を追う        寺の境内木の上で 和尚の「喝!」に縮こまる          生きとし生ける物たちの 儚さ説かれ蝉放つ

三重県桑名市、大正12(1923)年創業の和菓子処「寿恵広(すえひろ)」。三代目の青木活人さんを訪ねた。

肌を突き刺すような真夏の陽射しと暑さ。

町中を蝉時雨が覆い尽くす。

「こうも暑(あっ)ついと、かなんなぁ。アイスまんじゅう一つ貰(もう)うてくわ」。病院からの帰り道だろうか。老人が項垂れながら店先でつぶやいた。

「しばらくそのまんまにしといて、ちょっと溶け出して緩んで来てから食べてや。歯が折れてまうとあかんで」。活人さんは、冗談めかして笑った。

「家のアイスは空気入れて攪拌したカスカスの物と違(ちご)て、とにかく硬(かった)いんやさ。本当は冷凍庫から出して、15分ほど待って食べてもらわんとあかん。だから風呂入る前に冷凍庫から出しとくんさ。そうすると風呂上りに丁度ええ頃合の軟らかさになるで」。

活人さんは昭和34(1959)年、三人姉弟の長男として誕生。

「最初の頃は菓子の卸をしていて、メーカー物のアイスを販売しとったらしいんさ。そして昭和13(1937)年頃から、アイスキャンディーの製造販売を手掛けるようになって、アイスまんじゅうは昭和25(1950)年頃からやに。自転車に冷蔵箱積んで幟旗掲げた移動販売や、映画館で幕あいの立ち売りやさ」。

大学を出るとコンピューター会社に入社。

大手製鉄会社の情報技術部門へ出向となった。

家業とはまったくもって、似ても似つかぬ仕事。

「元々機械いじりが好きやったし」。

昭和60(1985)年、大学時代の同級生で大阪出身の悦子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「馴れ初めは?って、互いに合唱をやってまして、そのジョイントコンサートで知り合(お)うて。妻はアルトで、わたしがベース。バリトンは臨時記号とかあって、音の動きが難しいもんやで」。店先で客あしらい中の妻を、こっそり盗み見ながら照れ臭気に笑った。

翌年、退社し家業へ。

「父が師匠ゆうても、子どもの頃から正月の餅なんか手伝(てつど)うてましたし、身体の何処かが家の仕事をちゃあんと覚えとるんさ。それに夏場のアイスまんじゅう作りは『技術よりも慣れ』やで」。

真夏の風物詩「寿恵広のアイスまんじゅう」は、型が6個付いた容器にミルクを注ぎいれることに始まる。

次にマイナス30度の冷凍液の入った水槽に入れ、少し固まり出した所で小豆と棒を差し入れ、再び冷凍液の中で40~50分凍らせる。

6個付き容器が10セット、それを4つの水槽で一度に凍らせ240個が完成。

夏の最盛期には、一日3000個が製造される忙しさ。

「おおきにありがとう。こうして新聞紙二枚重ねで2回巻いといたるで、ゆうに1時間は溶けませんに」。

店先では、親子連れと親しげな会話が続く。

蝉時雨もいつしか法師蝉へ。

しかし秋はまだ遠い。

ならば、もう一踏ん張り。三世代に愛され続けるアイスまんじゅうで。

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「天職一芸~あの日のPoem 289」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「駅前飯店」。(平成20年8月5日毎日新聞掲載)

月の最後の日曜日 「何処で食べるか?」父は問う        駅前ビルの階段を 昇った後で振り返り             母は小さく吹き出した 「どうせ決めてるくせして」と      駅前飯店指定席 酢豚に餃子ニラ卵

岐阜市神田町、中華料理「駅前飯店」。主の田中豊さんを訪ねた。

「よっこらしょっと」。

少し腰の曲がった老婆が、テーブル席に腰を下ろした。

椅子の脇には、はち切れんばかりに膨れ上がったレジ袋。

中には数種類の薬袋(やくたい)がぎっしり。

「ようやっとたどり着けたわ」「お久しぶりやねぇ。どうですか、お身体の具合は?」「ええも悪いも、こんなもんやて。月に一回、医者の帰りに寄らせてまうのが、もう唯一の楽しみなんやで。今日は酢豚にしてまおか」。

ここは名鉄岐阜駅の道路を挟んだ向かい側。

パン屋の横の階段を二階へと昇れば、昭和の面影が顔を覗かせる。

「もう開店から36年やで、お客さんもおんなじように年食われてまっとるでねぇ」。豊さんは、少し前屈みで優しく微笑んだ。

豊さんは昭和22(1947)年、靴職人の長男として誕生。

中学を出ると名古屋の中華料理店に住み込みの修業に。

東京五輪を翌年に控えた年だった。

「最初は店の裏で、お婆ちゃんと一緒に目ショボショボさせながら、明けても暮れても玉ネギの皮むきばっかり」。

ひた向きで真面目な性格ゆえ、日々の修業で見る見る腕を上げ、先輩料理人と肩を並べ中華鍋を揮った。

「料理人が多かった店やで、ガスコンロ毎に料理人も決まっとったんやて」。

昭和44(1969)年、名古屋の職場を辞し、現在地の華陽ホテル中華部に入社。

翌年、慰安旅行で大阪万博へ。

「そん時のバスガイドが私。集合時間よりもえらい早く戻って来る人がいて、後で分かったんですがそれが主人やったんです」。妻博子さんは、冷たいお茶を差し出しながら笑った。

「最初のデートはこの店。主人が酢豚を作ってくれて」。

昭和47(1972)年2月に結ばれ、一男一女を授かった。

それから5ヶ月後、ホテルから店の権利を買い取り、「駅前飯店」は独立。

夫婦とも弱冠24歳のおおいなる船出だった。

「その頃は店の前を路面電車が走って、繊維街も柳ヶ瀬も全盛期。全国からようけ行商さんが仕入れに来られて」。

サラリーマンや事務員、家族連れから出張族と多くの客で賑わった。

駅前飯店の中華は、どれも昔ながらの定番の味が最大の魅力。

「私はこれしか作れませんし、この仕事しかないでね。家のラーメンはシンプルそのもの。細麺に鶏がらと煮干のスープで、薄切りチャーシューとメンマに葱だけ。具を沢山入れればいいってもんでもないし」。豊さんは謙虚につぶやいた。

盛り付けの派手さや、具の多さに頼らぬ正統派。

ゆえに30年以上も、客は懐かしさを求め足繁く通う。

「10年ほど前に、食い逃げされたんやて。店の一番奥に堂々と座って、ビール飲みながら料理も4~5品取って。店の外にあるトイレ行ったまま帰って来んわね。汚れたジャンパーだけ置き去りにして」。

夫婦はあっけらかんと、懐かしそうに笑い合った。

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「天職一芸~あの日のPoem 288」

今日の「天職人」は、三重県桑名市寺町通りの「鶏肉屋主」。(平成20年7月29日毎日新聞掲載)

コケコッコーと朝まだき 庭の鳥籠鳴き声が           慌てて籠に毛布掛け 近所迷惑気を揉んだ            露天ピヨピヨひよこたち 母にせがんで持ち帰りゃ       あっと言う間に鶏冠(とさか)生え 何時の間にやら鶏屋行き

下町風情が残る三重県桑名市常磐町。昭和8(1933)年創業の鶏肉卸小売「鳥文本店」、二代目主の澤田良之さんを訪ねた。

下町風情が今も残る桑名市寺町通り。旧道の緩やかな湾曲に沿って、商家の家並が続く。

「鶏も風邪ひくと洟(はな)垂らしよるんやさ」。良之さんは白衣を正しながら笑った。

良之さんは昭和21(1946)年、6人兄妹の3男として誕生。

中学を出ると同県四日市市の寿司屋へ。

「板場仕事が好きやったもんで」。

その後、名古屋の寿司屋に移り、再び四日市市の寿司屋へと店を代え腕を磨いた。

「20歳の時やったんさ。親父から『家やるもんがおらんけど、何(な)としよ?』って。それで家の仕事も手伝うようんなって」。

二年後、まるで予期したかのように父が病に倒れそのまま引退。

「それからは自分で仕入れに行って、生きとる鶏買(こ)うて。昔は店の裏で、チョチョイと捌いては店に並べとったんさ。でも今はあかん。平成3(1991)年に食鳥処理に関する法律ができたもんで、裏で鶏捌いても、腹ん中の臓物は何処へも移動出来やん。つまりお客さんにも売れやんのさ」。

鳥文の鶏は、赤鶏が主力。

毎週月・水・金と岐阜県養老町まで仕入れに出向く。

「ガッチキ合う(人でごった返す)のが嫌いやもんで、朝5時には家を出るんさ」。

鶏の商品価値を見定める目は天下一品。

永年の勘で鶏の顔と体を瞬時に見分ける。

「鶏も人間も一緒や。顔付きがキリッとしとることがまず第一。次に赤身に血が混じっとらんかよう見んと。雄は体が大きく骨太で身が白い。それに引き換え雌は、骨が細くて脂ののりがええ。せやで雌の方がやっぱ一番美味いんやさ。それに私も女性の方が好きやもんで」。

仕入れた鶏は、モモ・ムネ・ササミ・ガラ・セセリ(首肉)の部位ごとに、刃渡り15㌢の捌き包丁で切り分けられる。

「生のまんま食べてもらう物(もん)は、一日冷蔵庫で寝かすんさ。そうせやんと肉が突っ張って美味くない。一日寝かすとまろやかに柔らかくなって、しっとり感が出るんやさ」。

良之さんは包丁の刃を上に向け、ヤスリ棒で器用に刃を研ぎ始めた。

「あんまり刃が立ち過ぎると、骨まで削ってまうで、ヤスリで刃を丸くせんと」。

昭和49(1974)年、27歳の年に見合いし、そのまま百合子さんを妻に迎え二男を授かった。

「お陰様で次男が三代目を継いでくれてな。私が鶏を捌いて、妻がつくねやモモを焼いて、息子が唐揚げや鶏肉コロッケの揚げ物担当やさ」。

夕餉の惣菜を求める客と、親しげな会話が飛び交う。

「家の鶏はスーパーに比べたら高いですわ。それでも『お前んとこの鶏が一番美味い』ゆうて買うてかれるんやで。ありがたい話しですわ。儲けに走って欲出したら終い。コツコツと誠実に、鶏が餌啄(えさついば)むように商売させてまわんと」。

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「天職一芸~あの日のPoem 287」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「模型飛行機職人」。(平成20年7月22日毎日新聞掲載)

海を見下ろす丘に立ち 南の風を待ち受けた           プロペラ回しゴム巻いて 模型飛行機掲げ持ち          稲穂揺らして風が舞う ぼくらは息を止めたまま         機体を風に横たえて プロペラ放す夢飛行

岐阜県美濃市、模型飛行機製造のヨシダ。二代目主の吉田斉さんを訪ねた。

卯建(うだつ)の家並が続き、カフェやファッション小物店も、風情ある景観を穢さぬ様ひっそりと商いを営む。

「家も何屋やろうって、よう観光客の方が硝子窓から覗いとるんやて」。斉さんは、表を漫ろ行く観光客に目をやった。

斉さんは昭和27(1952)年、二人姉弟の長男として誕生。

「親父は戦地から復員して、裸一貫で美濃和紙の行商を始めたんやて。そのうちに模型飛行機の翼用にって、強度の高い美濃和紙に手差し印刷して、メーカーに納め出したのが始まりやわ」。

小学校の高学年になると、模型飛行機の本体作りに没頭。

「プラモデルが世に出るまでは、模型飛行機全盛期やったでね。男坊主はみんな、空を自由に飛び回る飛行機に憧れたもんやて」。

昭和38(1963)年頃、取引先メーカーが倒産の憂き目に。

当然負債も負った。

「何より問屋が困り果ててまったんやて。それで親父に『模型飛行機メーカーやってくれんか?』って」。

戦後平和の象徴は、団塊の世代を筆頭として、町中に溢れかえる子どもの姿だった。

模型飛行機は学校教材としても取り上げられ、てんやわんやの大忙し。

昭和49(1974)年、斉さんは大学を出ると家業に就き、父と共に機体やプロペラの研究と改良に励んだ。

子ども達の大空駆ける夢を、ゴム動力のプロペラに託し。

「そうやねぇ。ゴムがたった0.1一㍉太いだけで、パワーは全然違ってくるんやで」。斉さんはそう呟き、プロペラをくるくると回しながらゴムを捩じ上げ、そっと手を離した。

機体が静かに上空を飛行し始める。

「だいたい1分半くらいは飛ぶようになっとるんやて」。

店内上空をゆっくり旋回する姿は、実に由々しい。

「まぁ、ラジコンみたいに自分で操縦出来んで、翼の角度で少しずつ調整せんとあかんのやわ」。

滞空時間を競う、定番商品のグランプリにスーパーアロー。

その他31~32種類の商品がここで生み出される。

昭和58(1983)年、同県羽島市出身のえり子さんを妻に迎え、女子二人を授かった。

「何の因果か、長女は航空会社に勤務しとるんやて」。斉さんは一人大笑い。

「そうそう。ちょっとこれ見てくれん?今から117年前に、この『カラス型飛行器(「機」でなく「器」の表記は、発明者である二宮忠八氏の命名)』は、ライト兄弟の実験飛行より12年も早く、空を飛んだんやて」。

写真は参考

ダビンチを始め、古くから人類は空への夢を見続けた。

写真は参考

そして明治36(1903)年、ついにライトフライヤー号の有人飛行で、空への旅を現実のものとした。

南の空から沸き上る入道雲。

少年のぼくには甘い綿菓子に見えた。

いつか大人になって大空に飛び立てたなら、雲の綿菓子を腹一杯食べようと心に決めたものだ。

遠い遠いあの夏の日に。

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「天職一芸~あの日のPoem 286」

今日の「天職人」は、三重県松阪市大石町の「伊勢どんこ職人」。(平成20年7月15日毎日新聞掲載)

玄関先にランドセル 放り出したら香り立つ           干し椎茸の出汁の香が 今日の煮物は何じゃろな         日没までの草野球 お腹の虫も騒ぎ出す             夕餉の煮物あれこれと 思い巡らし帰り道

三重県松阪市大石町のしいたけ屋青木林産園、二代目伊勢どんこ職人の青木茂さんを訪ねた。

「『おいちゃん、椎茸ってタイムカプセルみたいやなぁ』って、菌打ち体験に来た子どもらが不思議そうに言うんやさ」。茂さんは、子どものようにキラキラとした眼で語り続けた。

茂さんは昭和28(1953)年、二人兄弟の長男として誕生。

高校卒業後、岐阜県高山市の自動車整備専門学校に学び資格を取得。

昭和48(1973)年に名古屋へと居を移し、建設機械販売会社に勤務。

高度経済成長に沸き返る時代、各地を営業で飛び回った。

それから5年。

当時、携帯電話は高嶺の花。

営業マンの必需品は、ポケットベルが主流を極めていた。

「気がついたらポケベルがあらしませんのさ。えらいこっちゃわってなもんで」。

ポケベルは失くしたものの、その代わりに生涯の伴侶を得ることに。

「拾ってくれたのが家内ですんさ」。

ポケベルも無事手元に戻り、やがて二人は恋仲へ。

昭和55(1980)年、2年間の恋を実らせ伊勢市出身の妻を得、やがて一男一女を授かった。

家庭を築き子を得て、すべてが順風満帆かと思われた。

だが3年後、転勤の内示と共に妻も発病。

「転勤先は松阪やったんやけど、家内が入院することんなってもうて、これを機に実家で親父の跡継いで、干し椎茸でも作ろかって。そんでもあきませんわ。いい値で売れたんわ最初の1~2年だけ。昭和59(1984)年になると中国産の輸入に押されてもうて」。茂さんは懐かしげに笑い飛ばした。

捨てる神あらば拾う神あり。

既に茂さんは、ポケベルで織り込み済みだ。

中国産に押されるならば、安さだけの勝負では歯が立たぬ。

自問自答の末たどり着いたのが、菌床(きんしょう)栽培に対する原木栽培。

菌床栽培とは、大鋸屑(おがくず)や綿殻に衾(ふすま)や米糠など、人工的な栄養剤を混ぜた床に菌を植え付け3~4ヵ月で栽培する手法。

それに対し原木栽培は、ナラやクヌギの原木に菌を植え無農薬無添加で、半年から1年以上かけ天然栽培する方法だ。

何より手間隙と忍耐、それに椎茸への愛情が不可欠である。

原木に最適なナラやクヌギは、地中から水や養分を吸い上げ冬に備える。

「吸い上げるのを止めて冬眠する頃に根切りして、翌年1月に1㍍ほどの長さに玉切りするんさ。そこに鉈目を入れ、金槌で60箇所くらいに菌打ちやわ」。

干し椎茸の場合、3月頃に植菌(しょくきん)し1年半後にやっと「秋子」が出て収穫へ。

その後「寒子(かんこ)」「春子」「藤子」と順に収穫となる。

写真は参考

原木は3度目の春を迎えると、全ての養分を椎茸に捧げその命を終える。

椎茸の王様、伊勢どんこは、三部開きの蕾状態のものだけにその名が冠される。

「どんこの柄は、天然の風雨が描いた文様なんさ」。

朝採りどんこを職人は、我が子のように愛しげに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 285」

今日の「天職人」は、愛知県犬山市の「げんこつ職人」。(平成20年7月1日毎日新聞掲載)

つい悪戯が度を越して 今日も廊下でバケツ持ち        「今度やったら拳骨よ」 美人の先生呆れ顔           職員室で先生が 半紙の包みそっと開け            「次はげんこつ違いよ」と 犬山銘菓差し出した

愛知県犬山市で創業百七十年の厳骨庵、六代目げんこつ職人の森川徳太郎さんを訪ねた。

「『鄙(ひな)びた町』ならまんだええけど、もうここらはすっかり『萎(しな)びた町』だでかんわ」。徳太郎さんは、なんとも自虐的に笑い飛ばした。

なるほど店先を行き交う人の姿も、ほとんど見当たらぬありさま。

幅員の狭い旧道沿いには、唯一城下町の面影が今でもわずかに偲ばれる昔家並みと、現代風の家屋とが交差する。

徳太郎さんは昭和13(1938)年、4人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると直ぐに家業に従事した。

「勉強の出来が悪いで、一番ビリから先生に蹴飛ばされて高校卒業させてまったんだって」。

厳骨庵の「げんこつ」は飴にあらず。

「飴のようだけど、口の中でサラッと溶け出す感覚は飴じゃなし。私もどう表現したらええかそれがわからんだわ。しいて言うなら黄粉の黒砂糖菓子やろか」。

げんこつ作りは、大豆を炒って黄粉にするところから始まる。

次に沖縄産の黒砂糖と水飴を大鍋に入れ、小一時間トロ火で溶かす。

そして小さな鍋にすくって煮詰め、手で触れる程度の温度まで自然冷却。

次に黄粉を手で練り込み、棒状に伸ばして切断機にかけ、三角錐の形状に切り落とす。

「昔は包丁で、拳骨に見立てて三角錐に切り落としとったんだわ」。

仕上げに黄粉を表面にまぶせば、170年前の素朴な郷土菓子が完成。

今ではビニール袋に密封されているが、昔は目方売りが中心。

その都度客の注文に応じ、紙袋へと詰め込んだ。

昭和38(1963)年、岐阜県出身の定子さんを妻に迎え二女をもうけた。

「朝早よからげんこつ作っては、店先に並べて。毎日毎日その繰り返しだわさ」。

翌年の東京五輪を機に、大量輸送時代が幕開け。

マイカーブームが到来。

行楽地犬山には、多くの観光客が押し寄せ城下町を漫ろ歩いた。

「春は人も浮かれ出すで、げんこつもよう売れた。そんでも一番の最盛期は、やっぱりお祭シーズンの秋だわ。何と言っても」。

保存料も添加物も一切不要。

昔ながらの製法そのままのげんこつは、湿度や温度の変化に敏感だ。

「出来立ては飴のような硬さでも、夏前の梅雨時になると湿気てげんこつが粉に戻ろうとしんなりするんだわ。そうなるともう売り物にならんで、昔は近所で貰ってまっとったんだて。そしたらある日お茶の先生から『このしんなり感が、絶妙な味わいだ』と褒められてなぁ」。

しんなりとした独特の歯ざわりが評価され、湿気たげんこつは再び和紙に包まれ「ラインの恋石」に生まれ変わった。

「犬山げんこつは季節を嗅ぎ分ける生き物だわ。今では黒砂糖の酷(こく)も甘さも味が落ちてきた気がするけど、頑張って昔ながらのいいんも作りてゃあでなぁ」。

徳太郎さんは徐にげんこつを頬張った。

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「天職一芸~あの日のPoem 284」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「御太鼓師」。(平成20年6月24日毎日新聞掲載)

宮の境内笛太鼓 浴衣で君が駆け回る              囃子に合わせ下駄鳴らし 無邪気に跳ねる石畳          午前零時を待ち侘びて 桑名の町が騒ぎ出す           石取祭叩き出し 割れんばかりの鐘太鼓

三重県桑名市で創業宝暦3(1753)年の丸屋甚兵衛、八代目御太鼓師の阿部甚兵衛(本名・衛)さんを訪ねた。

 「桑名生まれの者にとって石取は、年に一度のハレの日やで、祭が近付くともうじっとしとれやんのさ」。衛さんは、整然と並べられた太鼓の胴の傍らで笑った。

衛さんは昭和42(1967)年、長男として誕生。

学業の傍ら家業を手伝った。

「どこの家でもそうやと思うんですが、おいそれと遊びにも行けやんし、『ほんなら暇やで鋲でも抜いたろか』ってな調子ですわ」。

高校を出ると父を師に家業へ従事。

「『一旦家業に入ってまうと外の友達も出来やんで、今のうちにしっかり遊んどけ』って父からよう言われましたわ。それで調子に乗って名古屋のディスコで遊んで朝帰りやわ。そのまんま寝惚け眼で仕事場入ってボーッとしとろうもんなら、父が木槌でゴツンですわ。もっとも父が若い頃は、祖父からビンロージで叩かれたって言いますで、それに比べたらまだましやけど」。

親子と言えど、一歩職場に入ればただの師弟。

跡継ぎゆえに厳しさも一入(ひとしお)だ。

桑名の奇祭「石取祭」の太鼓は、二尺四寸から三尺二寸の長胴太鼓。

「太鼓を打った時に余韻が残ると、次が直ぐに打ち出せやんで、皮をとにかくパンパンに張り詰めるんやさ」。

喧嘩祭りの異名を持つだけに、悠長な撥捌きなど以ての外。

鐘と太鼓が打ち出しを競い合い、ゴンチキチンとけたたましい音色を一晩中轟かせる。

それが喧嘩祭りたるゆえんでもある。

長胴太鼓は、樹齢350~400年程の欅(けやき)の木取りに始まる。

まず一番大きな直径の胴を木取りし、次に刳り抜かれた材から三寸程小さな直径の胴を木取りし、最終的にはお座敷太鼓へ。

「欅は硬(かと)て粘り気があって、木目の美しさはこの上ないですやろ」。

木取りされた荒胴は倉庫の中で10年の眠りに就いて自然乾燥へ。

「冬場は湿気が溜まるで、天地を引っ繰り返してやらんと」。

2~3年は急激に乾燥し、その後7~8年は緩やかな乾燥状態が続く。

10年の眠りから覚めた荒胴は、鉋・鑿・チョンノで本仕上げされ塗りへ。

そして仔を産んでいない雌牛の皮を裁断し素掛けして天日干し。

「雌牛の方が雄よりも皮の目が細かいですやん」。

仕上げに金具を取り付け、皮を鋲で打ち付ける本張りへ。

「皮が弛むと戸板叩くみたいに、締まりの無い音がするんさ」。

1月半から2月の歳月が惜しみなく注ぎ込まれる。

平成7(1995)年、ディスコで知り合った岐阜県高山市出身の和恵さんと結ばれ、二男をもうけた。

衛さんは先達七代の御太鼓師に劣らぬよう、いまだ日々修練を積み重ねる。

「八代甚兵衛と、胴の内側に銘を刻めば、末代まで誰の作か責任が付き纏うんやで。ええ加減な仕事は出来やんって」。

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「天職一芸~あの日のPoem 283」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「凧絵師」。(平成20年6月17日毎日新聞掲載)

自慢の凧を抱え持ち 川原で父は風を読む           「それ行け」父の掛け声に 糸巻き持って走り出す        川面を過(よ)ぎる川風を 六角凧が受け止めて         凧絵の武者が天目掛け 初陣のよに駆け昇る

岐阜県関市の凧絵師、小川義明さんを訪ねた。

「凧って漢字は、風冠の中に巾って書くやろ。風を受け止めるには、横巾が必要やでな」。刺青の絵柄がプリントされた鯉口シャツに、股引と地下足袋。背中には「凧義」と染め抜かれた法被姿。義明さんは、畳二枚ほどもある六角凧を組み立てながら笑った。

「これは新潟の持ち運び自由な折りたたみ式だわ」。

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義明さんは新潟県小千谷市の農家で、五人兄弟の四番目として昭和21(1946)年に誕生。

中学を出ると東京へ。

電気機械メーカーの養成学校で一年間学び、そのままその会社に就職した。

しかし18歳の年に病を患い入院。

「同室だった人が料理人でな。その人に誘われて」。横浜の洋食屋「精養軒」に移り、料理人の見習いを始めた。

「『♪包丁一本 晒に巻いて』ってな感じで、店を転々としながら腕を磨いたもんやわ」。

昭和46(1971)年、25歳の年に名古屋のフェリー会社のレストラン部門に移籍した。

「名古屋と仙台、苫小牧を往復する船に乗務しとった。ぶっ通しで月の三分の二働けば、後は丸々休みや」。

昭和50(1975)年、29歳で結婚。一男一女を得た。

「一年の三分の二も家を空ける因果な商売やったで、私は子どもを作っただけ。後の子育ては妻に任せっきり」。

長女が誕生した翌年、関市に新居を構えた。

「それでもあの頃は、船の中じゃ麻雀。陸に上がれば競馬にパチンコのギャンブル狂いやったわ」。

昭和54(1979)年、待望の長男が誕生。

翌年の初節句に故郷新潟の凧造りを思いついた。

「鯉幟だけではつまらんし、故郷の凧合戦を思い出してなぁ。それから凧の魅力に獲り憑かれて、ギャンブルとはピタッと縁切りやわ」。

最初は市販の小さな凧を買い求め、それを継ぎ足しながら畳二枚分の大きさに仕上げた。

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「当時はまだ絵も描けずに白凧やわ。白旗揚げずに白凧揚げたんやで感動もんやったわ」。

凧造りの道は奥深い。

一度のめり込めばもう止まらない。

やがて我流で凧に絵付も施こした。

「犬山で凧揚げとったら、日本凧の会の会員と出逢ったんや。会員になると全国の大会に出られるし、仲間との交流が出来て揚げ方や作り方、絵の描き方の手解きもあるって聞けば、もう子どももそっちのけやったわ」。

写真は参考

それから早や四半世紀が過ぎた。

「58歳で定年退職して、退職金の全額を凧に注ぎ込んだもんで、妻も呆れ返ってまったわぁ」。

凧絵師は一風変わった盃凧を取り出しながら大笑い。

写真は参考

「これは小千谷市の伝統的な凧でなぁ。米どころで酒の産地やもんで、凧も盃の形だわ。でもこれが天に揚がると45度傾いて、燗酒が満々と注がれたみたいでそりゃあ風情があるんだって」。

凧義は自慢の凧を手に、ひたすら風を待つ。

木の葉の揺れや竹薮の葉擦れに耳を澄ませながら。

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「天職一芸~あの日のPoem 282」

今日の「天職人」は、愛知県常滑市大野町の大野名物「一口香(いっこうこう)」女将。(平成20年6月10日毎日新聞掲載)

知多の大野の駅を出りゃ 海を目指して一目散          波打ち際の砂浜にゃ 蛻の殻(もぬけのから)のシャツが舞う   お握り食べて西瓜割り 疲れて母の膝枕             日暮れて父の土産にと 大野名物一口香

愛知県常滑市大野町で、百年以上に渡り大野名物「一口香」を作り続ける菓子処風月堂、三代目女将の西村和子さんを訪ねた。

「これは『ハチケ(球体状の干菓子の皮が弾け、中から黒砂糖の餡が飛び出し、干菓子の側面で模様のように焼き上がった不良品)』やけど、まずは一つ食べてみて」。和子さんが差し出した。

「そのまんま一口で含んで、唾に浸してからゆっくりと噛むんだよ」。女将の仰せに従うと、干菓子の硬い皮が口中の唾で和らぎ出し、中から飴状になった黒砂糖の仄かな甘味が忍び出でる。

何とも清楚で上品な味わいだ。

「このハチケの景色(模様)が好きだって、わざわざ買い求める風流人もおるんだに」。そう言い終えるよりも早く、女将はハチケを口の中へと放り込んだ。

和子さんは昭和25(1950)年、熊本県で会社員の長女として誕生。

高校に上がった年に、父の転勤で名古屋へ。

高校から看護学校を経て、20歳で看護婦として病院に勤務した。

その後昭和59(1984)年に治雄さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「夫の叔父が病院の薬局長だったから、それで『菓子屋はどうや』って紹介されて。私自身、サラリーマンの専業主婦には納まり切れんとわかっとったし」。女将は店と作業場を分かつ暖簾を見つめ、照れ臭げに笑った。

一方の治雄さんは、昭和27(1952)年に次男として誕生。

地元の高校を出ると東京の製菓学校へ。

その後、岐阜市柳ヶ瀬の一流店で修業を積んだ。

しかし程なく祖父と母が相次ぎ他界。

家業に舞い戻り三代目を継いだ。

「一口香」の由来は、萬治2(1659)年に遡る。

時の尾張徳川二代藩主、徳川光友が潮湯治(海水浴)に訪れた際、庄屋が名産品の「芥子香(けしこう)」を献上したところ、一口で食べると何とも香ばしい味わいがすると絶賛し、以後「一口香」と称すようにと、その名を下賜されたとか。

いずれにせよ、350年以上昔のままの製法が、今尚受け継がれている素朴な逸品だ。

味わいも素朴なら製法もいたって簡素。

まずは麦芽飴を溶かしながら中力粉を加え生地に。

黒砂糖を餡にして、周りを生地で包み丸く一口大に形成する。

それをオーブンで焼き上げると、球体の中が空洞となり昔ながらの銘菓が完成する。

「最初、嫁に来た頃はよう泣いたからね。『明日作るぞ』って言われると、もう憂鬱で。だって中々生地を丸めるのに、言うこと聞いてくれんし。主人のは綺麗で丸いのに、私のは歪やもんで誰が作ったかなんて直ぐに分かってしまうんだわ。どれも分け隔てなく同じように作っとるつもりでもねぇ。だから私はもっぱらお客様相手が専門」。女将は明るく言い放った。

「それでも最近は、やっとバラつきも無くなって来たのよ」。

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