「天職一芸~あの日のPoem 323」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「コロッケ屋」。(平成21年6月3日毎日新聞掲載)

土曜の午後を待ち侘びて 下校の鐘に飛び出した         玄関先で鼻を引く 味噌汁オジヤおご馳走(っつぉ)       月に一度の土曜日は 父も半ドン早帰り             その時だけはもう一品 コロッケ付きの大振る舞い

三重県伊賀市上野。西澤のコロッケ、主の西澤信雄さんを訪ねた。

古い町並みの一角に、客が列を成す店がある。

「数年前からバスを何台も連ねて、ツアー客がやって来るようになったんさ。それで揚げたての、熱っいコロッケ頬張って」。信雄さんが自慢のコロッケを差し出した。

表面の衣の絶妙な焦げ茶色。

サクサクとした舌触りは、病み付きになりそうだ。

肝心の具はすき焼風味の挽肉に、さらさらとした男爵芋が見事に絡まり、ほのかな甘味を引き出す。

「実家が伊賀牛の肉屋やで、ええ肉使(つこ)とるで」。

信雄さんは昭和12(1937)年、肉屋の三男坊として誕生。

中学を出ると父から告げられた。

「お前、何とか自分で身を立てろ」と。

「ほんでもアカンわ。遊び呆けてコレばっかで」。小指を突き立てながら笑った。

「そんな頃に、コロッケ屋の話しが出たんやさ。当時、行商のコロッケが1個3円50銭で、これぐらいならもっとええ味出せるやろうって」。

関西へ出掛けてはコロッケを食べ歩き、試行錯誤の毎日。

そして昭和30年、大阪で知り合った当時18歳の桂子さん結婚。

翌年6月、ついに実家の肉屋の隣りに、コロッケ屋を開業した。

「『試食やで、ただで食べてってぇ』ゆうて、300個くらい食べてもうたかな」。

すると皆が口を揃え美味いと。

「そしたら『お前これなんぼで売るんや』って。『ほなラッキーセブンの7円でどないや』ってな調子で」。

他所の倍の値段にも関わらず、連日200人近くが開店を待った。

「ほんでも涼しなると、お客が肉屋へ逃げて行きよる。やっぱり揚げ物は、暑い時やないと売れやん」。

最初の4~5年は、晩秋から春先までコロッケ屋を休業し、肉屋を手伝った。

「東京オリンピックの年やったわ。子が出来たと思ったら死産で、女房まで癌に蝕まれて」。

10日に一度の割合で、タクシーを2時間半飛ばし、入院先の大阪へと見舞った。

だがその甲斐無く妻は他界。

初盆を終えると、周りの勧めで従兄妹の美智子さんと再婚。

一男一女を授かった。

絶品のコロッケ作りは、午前3時から6時間かかる仕込みに始まる。

まず伊賀牛の肉とスジをすき焼き風に煮込む。

次に男爵芋とみじん切りにした玉ねぎを加え、塩胡椒で味を整える。

そしてオリジナルの型にネタを入れて形成し、衣を付け食パンの耳を乾燥させたパン粉を塗し、油で揚げれば完成。

夏の最盛期には、日に3500個が飛ぶように売れて行く。

「ある日大手のメーカーから『いくらやったら、レシピを教えてくれるか?』って訪ねて来てな。そんなもんあかんわ!お客さんと半世紀かけて、共に作って来た味なんやで。大量生産されたって、同じ味は出来やん」 。

1個157円の庶民のおご馳走。

コロッケ一つに惜しげもなく生涯を費やした男は、半世紀前と何一つ変らぬ笑顔で、今日も客を出迎える。

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「天職一芸~あの日のPoem 322」

今日の「天職人」は、岐阜市長良弁天町の「原爆アイス屋」。(平成21年5月16日毎日新聞掲載)

舟の篝火(かがりび)川を染め 風折烏帽子(かざおれえぼし)腰蓑(こしみの)の

鵜匠がホウホウ狩り下りゃ 長良の夏の幕が開く         蝉取り飽きりゃ川遊び ちょっと疲れて一休み          皆で小銭を寄せ集め 原爆アイス回し食い

岐阜市長良弁天町、大正時代創業の餅菓子・アイスクリームの松乃屋。四代目主の鬼頭孝幸さんを訪ねた。

鵜飼開きが初夏の訪れを告げる長良川。

長良川の北側には、昭和の名残が残る、古い町屋や商店が点在する。

半袖Tシャツ姿の親子連れが、餅菓子屋の暖簾を潜った。

「原爆アイス二つね」。

原爆?

アイス?

どうにもその不思議な取り合わせが気になる。

「はいお待ちどう」。

ガラスコップにステンレス製の持ち手が付いた器に、てんこ盛りのアイスクリームがデーン。

「あれは戦後に流行った、原爆アイスやて。ちょっとシャーベット状で、柳ヶ瀬なんかじゃ『爆弾アイス』って呼ばれとったらしいけど。戦時中の耐乏生活が終わり、ほんのちょっと暮らし向きも豊かになって、誰もが戦後復興の象徴みたいに、たまの贅沢を競うようにして、大盛りアイスを求めたらしいんやて。だから原爆アイスや爆弾アイスにしたって、名前は庶民が勝手に呼んだ愛称みたいなもん。もう二度と、愚かな戦争だけは繰り返したらかんって、代々語り継ぐようにと、そんな願いを込めて」。孝幸さんは、傍らの母を見つめ、念を押すようにそうつぶやいた。

孝幸さんは昭和40(1965)年、3人兄弟の次男として誕生。

「曽祖父が鵜匠さんの手伝いしながら、餅屋をやりかけたのが始まりなんやて。それから父が昭和25年頃に脱脂粉乳を使って、自家製のアイスクリームの製造を始めてたんやて。そしたらあの大盛りの原爆アイスが、飛ぶような売れ行きになって」。

孝幸さんは大学を卒業すると、和菓子職人を志し、他所の店で修業に入った。

平成15年、年老いた父が「力仕事もきついで、そろそろ家業を継いでつれんか」と。

家業に戻ると、家伝の味を引き継ぐ一方で、これまで身に付けた和菓子職人としての新たな技も注ぎ込んだ。

素朴で懐かしい原爆アイスの作り方は、脱脂粉乳、砂糖、練乳、増粘剤を、お湯で練る事に始まる。

次にそれを80℃に加熱し冷却へ。

続いて、バニラエッセンスや小豆、抹茶などを加え、フリーザーにかけて30分ほど練り上げ、容器に移して凍らせる。

そして再び常温に戻し、保冷庫の容器へと移し変える。

「後は持ち手のついた昔ながらのコップに、2.5カップほど豪快にアイスを盛り付ければ、原爆アイスの出来上がり」。

花火大会の夜は、花火帰りの原爆アイスを楽しみに、1000人以上の人が押し寄せる。

「進駐軍が旅館に駐留しとった頃は、米兵の子がよう来よった。その子らと身振り手振りで話すうちに、片言の英語を覚えてまったわ」。母が傍らで笑った。

戦後はや64年。

だが原爆症認定を訴え続ける人にとって、未だ戦争は終わっていない。

世界193カ国中、唯一の被爆国ながら、見事に復興を遂げ、世界に冠たる経済大国にまで伸し上がったと言うのに。

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「天職一芸~あの日のPoem 321」

今日の「天職人」は、愛知県犬山市の「犬山焼窯元」。(平成21年5月19日毎日新聞掲載)

煙棚引く登り窯 窯にチョロ焚き火が燈りゃ           陶工たちを持て成して 呑めや唄えの無礼講           寝ずの火番も四昼夜 固唾を飲んで窯開けりゃ          白地に映える雲錦手(うんきんで) 犬山焼の茗器(めいき)なり

愛知県犬山市の犬山焼窯元、後藤陶逸(とういつ)陶苑(とうえん)。四代目主の後藤敬治さんを訪ねた。

「子どもの頃『よおけご飯食べて早よ大きなれ』って言われたわ。土踏みさせんなんでな。そんだで、家の仕事なんて嫌やったて。でも焚き物の束(たば)を結うと、1束1円貰えよったで、小遣い稼ぎに仕方なしやわさ」。敬治さんは、梅の古木で鳴き声を上げる鶯を目で追った。

犬山焼は江戸時代の初期、同市東部の今井窯に始まった。

主に瀬戸の飴色釉や、黒色釉を施した日用品が製造されたものの、80年ほど後に廃陶。

だが20年後、同市北部に丸山窯が開かれ、城主の命で犬山焼特有の「雲錦手(うんきんで)」と呼ばれる、桜と紅葉を合わせ描く手法が用いられるようになった。

敬治さんは昭和24(1949)年、5人兄弟の次男として誕生。

「子どもの頃は、焚き物を割るだけの人が3人もおったほどやて」。

戦後の復興を象徴するかのように、登り窯からモクモクと煙が棚引いた。

「何万点かの陶器をいっぺんに窯入れして、四昼夜焼くんやて。最初の窯入れが済むと、まずは陶工と一緒に最初のご苦労さん会だわ。オラなんて、よう卵や牛乳を買いに行かされたって。皆に精を付けさせなかんで」。

窯元は、窯入れと窯出しの2回、陶工たちを労った。

「昭和40年頃までは、『ヤマノコ』って言う風習もあったわ。山から薪をいただくで、山に感謝を込めてぼた餅作って、秋葉さんにお供えしてから陶工の家へ配って歩くんだわ」。

その他、桜の木の下で宴を張る「ヤマユキ」など、窯元が陶工たちを慰労する大切な行事もあった。

愛知県瀬戸市の窯業高校を卒業して家業へ。

「まだその頃は、絵付け師が3人と轆轤(ろくろ)師が2人おったわ。

昼になると飯を3升炊いて、みんなで長机に向かい合って食べるんやって。引き出しには、陶工たちの箸と食器が入っとってな」。

まるで一つの家族のようだ。

昭和49年、茶道師範の紹介で、岐阜県関市出身の育子さんと結婚。

一男一女を授かった。

太平の世に産声を上げた犬山焼は、まず土作りに始まる。

粉にした土を、立て桶で攪拌。

不純物を取り除き、裏漉すように漉し込みへと流し入れる。

そのまま約1ヶ月。上水(うわみず)を空け、泥だけを取り出して甕へ。

そこで1~2ヶ月かけ乾燥させ、夏は瓦の上に盛り付け天日干し。

冬は蒲鉾状に盛って凍らせ、乾燥後に足踏みして粘りを引き出す。

次に轆轤で形成し、藁を紙縒(こよ)った「しっぴき」で切り取り、半乾きにして仕上げへ。

そして再び10日間乾燥させ素焼き。

次に釉薬(うわぐすり)を塗り染付けを施し、灰を遮るため「エンゴロ」を被せて本焼きへ。

そして上絵を施し再度上焼き。

さらに金彩を施し2度焼きで仕上げる。

気も遠のく手間と引き換えに、気品溢れる雲錦柄を纏った器が、この世に浮かび出でる。

江戸の昔の陶工たちが、今に伝えたその技で。

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「天職一芸~あの日のPoem 320」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「魚の行商人」。(平成21年5月12日毎日新聞掲載)

大漁旗が船に舞う 濁声(だみごえ)響く競り場では       目利き自慢が札を刺す 安乗港は朝未だき            鰹鯖鯵スルメ烏賊 母は軽トラ積み込んで           行って来るよと行商へ 女太助のお通りだい

三重県志摩市阿児町の魚の行商人、浜口小波さんを訪ねた。

写真は参考

「小波ちゃん。家はこの活きのいい、鰹一本丸ごともうとくわ」。

「わしとこはそやなあ、鯵にしとこか」。

三重県南伊勢町、五ヶ所湾に面した空き地。

軽トラックを、年老いた女たちが取り囲む。

「あんた手え痛(いと)て、鯵捌けんやろ。あんたとこの流し場貸してもうて、捌いといたろ」。

「ほうか、そりゃすまんなぁ。おおきに」。

小波さんは老女の家の流し場に陣取り、慣れた手つきで魚を捌く。

写真は参考

「歳入(としい)って来ると手が震えて、包丁握れやん人らもあるでな」。

小波さんは昭和22(1947)年、安乗港の漁師の家に長女として誕生。

中学を上がると直ぐに、地元の漁業関連の職に就いた。

「ちょうど真珠養殖が盛んでな」。

東京五輪を翌年に控えた年だった。

それから6年。

娘はいつしか大人の女へ。

「もの心ついた頃から知っとる、漁師の主人に恋心を打ち明けられて。まあ今思えば、中恋愛ってとこやさ」。

8八つ年上の武久さんと結ばれ、一男二女を授かった。

「行商に出るようになったんは、子どもらの手が離れるようになった昭和53年頃からやさ。お父さんが漁で持って来たもんを軽四に積んで、最初は面白半分で持って回ったんが始まり。とりあえず鰹持って、南島町に向けて走って行ったもんの、何処でどう売ったらええんかも分からん。そしたら親切なお爺さんが、漁協のマイク借りて『活きのいい鰹が入りました』って近所に放送したらええと。20本ほど持って来た鰹が、あっと言う間にみな売り切れてしもて」。

小波さんは見事、ビギナーズラックを引き当てた。

それからは毎朝、安乗、波切、和具の三港を巡り、旬の魚を仕入れ海沿いを走る。

写真は参考

「昔は山の方へも、行商しに出掛けてったもんやけど、山の人らは魚が無くても過せるんやさ。せやで魚は海辺へ持ってくのが一番や。その代わり、浜の人らは魚の鮮度がようわかるで、正直な商売せんと通用せん。『これは大敷もん(大敷網漁)か?』ゆうてな」。

今でも週に4日の巡回は欠かしたことが無い。

「お客さんらは親戚みたいなもんや。亭主の愚痴聞いてやったり、世間話したり。お陰でよおけお友達が出来たよ。こないだなんて、最初に漁協のマイクを教えてくれた、あのお爺さんが死んだと聞いてな、行商ついでに香典届けに行って来たんやさ」。

ところが平成2年、最愛の夫が51歳の若さで他界。

「まだ子育て中やったで、悲しんどる暇も無い。子どもらに金は要るで働かなかんし。お陰と商売は大忙しで、お客さんが待っとってくれたでな。せやで今思うと、どんだけお客さんに救われたことか」。

小波さんは、穏やかな海を見つめて笑った。

女一心太助の天秤棒にゃ、同じ目方の桶二つ。

一つは鮮魚の活きのよさ、もう片方にゃ、浜の女の深情け。

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「天職一芸~あの日のPoem 319」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市白鳥町の「民宿女将」。(平成21年4月28日毎日新聞掲載)

階段下の踊り場で 「晩御飯よ」と声がする           丹前羽織り膳に着きゃ 宿の娘が膝の上            「三月(みつき)も過ぎりゃ民宿は 半ば家族も同然」と     女将の酌にホロ酔えば 我が子恋しや里心

岐阜県郡上市白鳥町、民宿のさとう。二代目女将の佐藤奈々子さんを訪ねた。

「じゃあ行って来るわ」。

「おおきに。気い付けて」。

久しぶりに里帰りした倅が、再び都会へと帰るのだろうか。

走り去る車を、じっと見つめる年老いた母。

「何言っとるの。あれはお客さんやて」。奈々子さんが大笑い。

「家のお客さんはたいがい『行って来ます』って、帰って行きなるねぇ、一己さん」。

女将は調理場の夫に同意を求めた。

「ああ?おう、ほうやほうや」。妻の声が届かぬか、夫は適当な相槌で煙に巻く。

奈々子さんは昭和16(1941)年、旧高鷲村で4人姉弟の長女として誕生。

だが物心が付くか付かぬかの3歳で、父を旧ビルマの戦地で失った。

「顔さえ思い出せんのやで、抱いてもらった記憶なんてねぇ」。

中学を出るとすぐ農協に勤務。

3年後には役場へと転職。

そこでも3年目を迎え20歳が過ぎた。

すると叔母から見合いの話が。

「裸電球の下でお見合いしたんやて。叔母が『奈々子、オリ(俺の方言)が若かったら、絶対一緒になった』って言いないてねぇ。背も高くて顔もいいし、小林旭みたいでそりゃあもてたらしいよ」。

静まり返った調理場に咳払いが一つ響いた。

昭和37年、白鳥町の小林旭こと一己さんの元に嫁ぎ、3人の男子を授かった。

ところが……。

「2目の子が生まれた時やわ。どうもコレが出来たみたいで」。奈々子さんが小指を逆立てた。

「それで子どもら連れて、実家へ20日ほど帰ったったんやて」。まるで他人事のように、大きな声で屈託無く笑い飛ばした。

「今でも気に入らんことがあると、たまにあの事をチクチクッと言ったるよ」。

民宿の創業は、昭和26年。

「最初は、油坂スキー場の民宿として、冬場の土日だけ。嫁に来た頃は、夜中に竈(くど)でご飯炊いて、スキー客のお昼用におにぎり握ったもんやて。水は冷たいし、腕まで真っ赤に赤切れて」。

週末には観光バスが、愛知からのスキー客をこの地へと運んだ。

「ちょうどここは、九頭竜へ向かう交差点にあるもんやで、店先にパンや牛乳を置いとったんやわ。そうしたらダム工事のトラックの運チャンが、パンと牛乳で一服しもって『お母ちゃん、ここでご飯したら』って。田舎のもんしかよう作れなんだけど、それから細々と食堂を開いたんやて。その内に九頭竜から出る五色石を仕入れに、造園屋さんらが来るようになって。そしたら今度は泊めて欲しいって」。

昭和43年から通年での営業が始まった。

「この辺はダムの工事で、長期滞在が多くてね。長い人やと1年近く。だからそんな人には『一緒にご飯食べよう』って声かけてあげて。花見に行ったり、一緒に洗濯物干したり。まるで家族が増えたみたいで楽しいよ」。

一己さんお手製の「鶏ちゃん」

奈々ちゃん女将の民(たみ)の宿は、三つ指で傅(かしず)きはしない。

だがそれ以上に、値千金の笑みを持って、何人(なんぴと)をも出迎えてくれる。

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「天職一芸~あの日のPoem 318」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「本田マコロン本舗主」。(平成21年4月21日毎日新聞掲載)

放課後告げるチャイムより 先を競った畦の道          どんなおやつか腹が鳴りゃ 蛙も慌て飛び跳ねる         土間に見知らぬ履物が 客の茶請けは?上物か?         流しの隅で菓子箱を 覗きゃマコロンやったねホイ

名古屋市西区、大正13(1924)年創業の本田マコロン本舗。二代目主の本田輝宜(てるたか)さんを訪ねた。

「この人とデートすると、いっつもマコロンの匂いがしてねぇ。オーデコロンみたいにウットリするような、洒落たもんならええのに」。妻の言葉に夫は苦笑い。

「私の田舎は三河湾の佐久島で、この人が高校の友人7人と毎年キャンプに来とったわけ。高2の時かな?私が海水浴場で貸しボートのバイトしとったら、この人が水道の場所を聞きに来てねぇ。それがきっかけ」。

妻は高校を卒業すると、名古屋の短大へ。

「昔は私がこの人に夢中で追っ駆け。でも今はその逆」。

17歳の夏に芽生えた恋は、7年後に結ばれ二男を授かった。

「今になって思うわ。何で選り取り見取りに7人も男がおったのに、この人にしたんやろかなあって」。

妻はコーヒーと自慢のマコロンを差し出した。

昔ながらの半円球。

こんがり焼き上がった焦げ茶色。

「昔は高級菓子。でも今は駄菓子だわ」。夫が寂しげにつぶやいた。

確かに他の菓子に比べ値段が張り、中々買って貰えなかった代物(しろもの)だ。

懐かしさに一口頬張って見る。

カリッとした表面を噛み砕けば、後はサクッと崩れ出すような食感。

ピーナッツの香ばしさと、上品な甘味が広がる。

「私が子どものころ遠足行く時なんて、6粒だけしか持たせて貰えんくってねぇ。だで嫁に入ったらようけ食べれるわって思ったもんだわ」。

昭和の下町風情を今に残す木造工場。

小路が突き当たる屋根には、町内の安全を屋根神様が見守る。

輝宜さんと妻幸江さんの開口一番。

人懐っこい妻と寡黙な夫の掛け合いに、すっかり引き込まれた。

輝宜さんは昭和25(1950)年、次男として誕生。

高校を出るとそのまま家業に入った。

袋詰めに配達の毎日、やがて22歳で製造へ。

「フランスの焼き菓子マカロンを真似て、父が昭和の初めに作り出したのが和製マコロン。でも肝心の商標を『本田マコロン本舗』で取ってまったもんで、マコロンだけを名乗る類似品は規制できん。そんだで最盛期は名古屋に3軒もあったって」。

昭和の庶民にとって、ちょっと高嶺の花であったマコロンの製造は、落花生の選別に始まる。

まず木屑・鬼皮・小石を取り除き、渋皮を炒り一晩寝かす。

翌日釜で再び炒り、渋皮と芽を落とし粉砕機で細かく潰して、また一晩寝かせる。

翌日、混合機に砂糖・小麦粉・卵・マーガリン・ベーキングパウダー・シナモン(昔はスピリッツを使用)を一緒に入れ、練り上げる。

それを球断機で切り分け表面に粉を塗し、鉄板の上に並べて長さ6間(約10.8㍍)のトンネル罐で焼き上げ、再び粉を振り、缶に入れ一晩寝かせば完成。

昭和の庶民の味マコロンは、この工場で3泊4日じっくり育まれ、平成の世へと生まれ出でる。

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「天職一芸~あの日のPoem 317」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢音頭最中職人」。(平成21年4月14日掲毎日新聞載)

神と民とが入り乱れ 神都華やぐ伊勢音頭            歩き疲れて立ち止まる 妻の目当ては伊勢最中         「餡が溢れんばかりだわ さすが紅谷ね。いい仕事」       どこかで聞いた台詞(せりふ)真似 妻は二個目を平らげた

三重県伊勢市、伊勢音頭本舗「紅谷(べにや)」。三代目、最中職人の辻幸保さんを訪ねた。

「こないだも、子どもらと歩いとったら『年金いくら貰(もう)とるの?』やと。頭もツルピカやで、老けて見られてもしゃあないけど、あんまりやさ」。幸保さんは、見事に照り返る頭部を撫で回しながら笑った。

「『この甘さがたまらん』ゆうて、ご贔屓(ひいき)にして下さるご住職がおられましてな。『葬儀の最中は、紅谷やないとあかん』って。こないだなんかこの頭で配達に行ったら、坊(ぼん)さんと間違われてえらい目に合うとこやったんやさ」。

幸保さんは昭和36(1961)年、3人兄妹の長男として誕生。

「元々魚屋やったんを、祖父の兄が潰してもうたんさ。花街で遊びすぎてな。それで昭和10年頃から、紅谷の前の屋号の扇月(せんげつ)清風堂をここに開業したんや。1階が和洋菓子の販売で、2階がパーラー。当時はもの凄いお客さんで、天井が抜けるほどやったらしい。でもあかんわ。戦争が激しなって砂糖も手に入らんで」。

戦後は、紅谷と屋号を代え再出発。

昭和20年代半ばには「伊勢の銘菓も数あれど、一に指折る伊勢音頭」と、紅谷の最中は歌に詠まれる人気に。

昭和58年、大学を出ると東京製菓学校で2年間学び、家業に就いた。

跡継ぎの目途も立ち、それ今度は嫁取りとばかりにお膳立ても整う。

早速見合いの席で、固唾を飲んで相手の到着を待ち侘びた。

だが一目顔を見合わせた途端、ビックリ仰天。

「アレ?小学生の頃、ようおちょくったった子やないやろか。それが元で、この子の兄貴によう虐められたけど。でも知らん間に、えらい別嬪さんになってもうて」。幸保さんの心は一瞬で釘付け。

昭和61年、ゆかりさんと結ばれ、一男二女を授かった。

「不景気になると最中がよう売れるんさ。甘いもん食うて、せめて気持ちだけでもほっとしたいんやろか?今しは、どこも糖分控えめの3等割が主流やけど、家は今でも同等割のまんまや」。

幸保さんは包み紙を開け、最中を2つに割って差し出した。

黒く艶光りする餡が、最中の種(餅子を搗いて伸ばした煎餅風の皮)一杯に押し込まれている。

寸分の隙間も無く、種から餡が飛び出すほどだ。

そのまま齧り付けば、濃厚でまったりとした甘さが、口中を覆い尽くす。

このまま呑み込むのが躊躇われる美味さだ。

伊勢音頭最中は、製餡所に依頼して茹で上げた国産小豆に、1日掛けて同等割の砂糖を混ぜ上げる作業に始まる。

2日目は寒天と水飴を加え餡の仕上げ。

後は最中種に、甘味をたっぷり身にまとった餡を、溢れんばかりに詰め込めば、昭和初めから庶民に愛される続ける最中の完成。

亡き母は、善哉(ぜんざい)をおかずに飯を食うほどの餡子好きだった。

日頃の無沙汰を侘び、命日こそは紅谷の最中を携え、ご機嫌伺いにでも出向くとするか。

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「天職一芸~あの日のPoem 316」

今日の「天職人」は、岐阜市加納八幡町の「茶店の団子職人」。(平成21年4月7日毎日新聞掲載)

家族総出で川堤(かわづつみ) 花見の宴大賑わい        そこもかしこも赤ら顔 湯呑み叩いて座敷唄           花見弁当食べ飽きて 兄と堤で蓬取り              母が案じてお迎えに 花見団子を振りながら

岐阜市加納八幡町の「だんごや」、四代目団子職人の森島豊美(とよみ)さんを訪ねた。

幕末の中山道を彩った、あの皇女和宮の輿入れ行列は、延べ50㎞にも及んだとか。

道中和宮は、加納宿本陣に宿泊し、中仙道を江戸へと下った。

その宿場外れに、江戸末期から続く茶店の団子屋がある。

「今も駅名にも茶所(ちゃじょ)という名があるくらい、茶店がよおけあったそうやわ。昔は、団子から餅菓子、天麩羅や焼き芋も出しとったらしい」。その名も「だんごや」の主、豊美さんは、店先で団子を焼く妻を盗み見た。

「十年前までは、テーブルも置いたったんやて。でも暇持て余しとるお婆さんなんかやと、団子一本で話しが長なるでかんわ」。夫婦は顔を見合わせ笑った。

豊美さんは昭和24(1949)年、次男として誕生。

高校を出ると直ぐ、他所の和菓子屋で修業に。

それから4年、職人としてこれからという矢先。

「父がもう歳やで帰って来いと。団子屋は、1日中立ち仕事で体力がいるもんやで」。

以来、日本の四季を彩る歳時記に合わせ、季節感漂う団子や餅で庶民の小腹を満たし続けた。

昭和54年、同県羽島市出身の恵子さんを妻に迎えた。

「昔からみたらしだんごは甘辛いもんやと思っとって、ここのを口にしたらお醤油味だけやもん。最初は『不味い!』って思ったけど、1本食べたらもう病み付き」 。

今が旬の花見だんごは、米粉をぬるま湯で手練りすることに始まる。

写真は参考

「それをボチ(生地の塊)にして、1時間蒸してから搗くんやて」。

次にボチ1に対し2の割合で砂糖を混ぜ、生地が熱いうちに手で練り込む。

「冷えると生地が締まってまうで。でも熱いで手なんて真っ赤やて」。

15分ほど手練りし、ボチを大きめに切り分け、再び40分ほど蒸し、塩を振りながら搗く。

次にボチを3等分にし、まず白を搗き、食紅を入れて赤を搗く。

最後に蓬を入れて緑を搗き、団子状に丸め3色を串に刺せば、昔の味と寸分違(たが)わぬ花見だんごが出来上がる。

「ここのはみんな美味しいよ。それに安全やし。保存料も添加物も入っとれせんで。何と言っても粉がええでねぇ。ほんだで噛んどると、後から甘味が出てくるんやて。奥さん、わし、おだんご7本包んで。それとあんころ餅と草餅も3個ずつ」。

客の老婆は団子自慢をひとしきり。

そう言われれば、確かに次々に訪れる客は、何はともあれまずみたらしだんごを所望する。

中には離乳食にと買い求める客もあるほど。

「団子作って37年。でも満足行く出来は、月に3~4回やわ。毎日同じ粉と水の量やに、季節で異なるんやで。団子も生きもんやでなぁ」。

五代目はと問うた。

「子宝を授からなんだでなぁ」。夫はこっそり妻を見やった。

「でも近所の子が『ぼくが後継ぐ』って」。妻が傍らで笑い飛ばした。

この世に角張った団子は無い。

どんな時でも団子のように、人の世もまあるく、ただ、まあるくありたいものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 315」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「芝居小屋主」。(平成21年3月31日毎日新聞掲載)

母の密かな愉しみは 年に一度の旅芝居             贔屓(ひいき)役者の幟旗(のぼりばた) 小屋にはためきゃ気も漫(そぞ)ろ                          朝も早よから鏡台で 鼻歌混じり紅を注す            まるでお盆と正月が 一緒のような忙(せわ)しなさ

名古屋市中区大須、七ツ寺共同スタジオ小屋主の二村利之さんを訪ねた。

足の踏み場も無い小さな古本屋。

主人はさっきから、うら若い女性客と話し込んでいる。

女性の方は劇団員風で、来年の公演日程を相談しているようだ。

「お盆だったら、他の借り手もどうせないから、ちょっとは安くしたげられるよ」。

何と商売っ気のないことか。

公的な劇場では、いくら借り手がない日とはいえそうは行くまい。

「この猫飛横丁(ねことびよこちょう)って古本屋が、小屋の連絡事務所みたいなものでね」。利之さんは、人懐こそうに笑顔を向けた。

利之さんは昭和20(1945)年5月、空襲警報が連日鳴り響く中で産声を上げた。

高校生になると新劇、そして大学へ進むとアングラ芝居(アンダーグラウンド演劇)の黒テントや唐十郎の紅(あか)テントなど、前衛的な演劇に傾倒して行った。

その後大学を出ると、24歳で名古屋タイムズ社の文化部記者に。

「本当は芸能記者志望。でも、そんな都合のいい仕事ばかりじゃなくってねぇ。当時の文化部は家庭欄の担当で、レジャーから趣味までとにかく幅広く、自分で選り好みなんて出来なくって。他の記者と違って、あたしは器用にあれこれと取材がこなせなくってね」。

そんな頃仕事の片手間に、テント劇団の公演準備を裏方として手伝った。

「野外会場を借りる手配をしたり。新聞社の名刺を出すと、相手も信用してすんなり貸してくれてねぇ。でもそれが会社にバレちゃって」。

26歳でそそくさと退社。

「東京なんかじゃ小劇場運動が興って、小さなスタジオが出来てね。じゃあ、そんなスタジオ作るかって」。

さっそくトラックの大型免許を取得し、資金稼ぎに奔走した。

「でもそんな簡単に資金なんて出来るもんじゃない」。

しかし利之さんの前に、良き理解者が現れた。

「今のスタジオの大家さんが、一代で財を築いた方で『権利金も敷金もええわ。貸したげる』って」 昭和47年、ついに大須の下町に前衛文化の拠点が華開いた。

「芝居を見ながら飲み食いが出来て、劇団員の寝泊りも出来る小屋。それが七ツ寺共同スタジオ。芝居が跳ねて役者と共に酒を酌み交わすのが唯一の楽しみだった」。

やがて、つかこうへい、東京ボードビルショーなども来演した。

昭和56年、スタジオに出入りしていた文学少女のむつ子さんと結ばれ、一女を授かった。

「若い役者たちから母親のように慕われてねぇ。時には厳しく評論したり、とにかく面倒見がよくって」。

しかし5年前、脳溢血に倒れ還らぬ人となった。

利之さんは亡き妻を偲びながら、今も小屋を守り続ける。

明日の役者や演出家たちは、自らの才能を信じ、台詞の一語一句に己(おの)が魂を吹き込む。

利之さんの37年は、そんな役者を我が子のようにそっと見つめ続けることだった。

誰よりも芝居に恋した、男のけじめとして。

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「天職一芸~あの日のPoem 314」

今日の「天職人」は、三重県南伊勢町贄浦(にえうら)の「からすみ職人」。(平成21年3月24日毎日新聞掲載)

隣の家のおばちゃんが 里の土産とカラスミを         「こんなに美味いものはない」 そういいながら差し出した    母の居ぬ間に妹と ちょっと端っこ齧(かじ)ったろ      「兄ちゃんなんや磯臭い」 「塩味効いたういろやろ」

三重県南伊勢町贄浦、からすみ加工販売のやまきち。三代目からすみ職人の中村和人さんを訪ねた。

「秋口になると昔はボラ網漁ゆうてな、山の上から見張りしとってさ。ボラの群れが来ると、港に向かって合図すんやさ。そうすると漁師らが足の速いミトブネで群れを追い駆け、石ぶっつけてボラ網へ追い込むんさ」。和人さんは、妻の淹れたコーヒーを啜った。

「ボラで一番金んなんのはからすみやけど、身も美味いんやに。春は刺身にチラシ寿司、それに塩焼きや唐揚げ。中でも一番はシャブシャブ。ところが今しは昔と違(ちご)て、身が市場で売れやん。四日市公害が問題んなって以来、臭いゆうてな」。

和人さんは昭和32(1957)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると名古屋のスーパーマーケットに就職。

青果部門を担当した。

ところが昭和58年、母がクモ膜下出血に倒れ急ぎ帰郷。

そのまま家業に従事することに。

母の病を案じた帰郷とは裏腹に、密かな想いも認(したた)めていた。

その年、学生時代からの憧れだった、美人で3つ姉さんのひで子さんに恋心を打ち明け、見事本懐を遂げ結ばれた。

その後、双子の男子とさらに弟が誕生。

「ぼくが1800gで次男が1300g。大きなってお父さんとお母さんに聞いたら『お前らアオリ烏賊みたいにしとったでぇ』だって」。

双子の兄が大笑い。

何とも明るい一家である。

作業場はまるで家族の居間のようだ。

からすみ作りは、10月初旬から12月初めが勝負。

「ボラが10月頭から11月の初旬にかけて上って来るでな」。

昔は浜でもボラが大量に上がった。

「昔のことやで、雄雌まとめて船ごと全部で10㌧ほど買うたるんやさ。せやで当りも外れもごちゃ混ぜ。酷いと雌が3割に雄が7割とかで、勘定合わせんわさ」。

今は雌だけ選別されたものを買い入れる。

「腹触ってみるとようわかるに。ちょっと押しただけで精子が出るのが雄やで。でも中にはオカマみたいなんもおるんやさ」。

高級珍味からすみは、まずボラの腹を割くことに始まる。

「この人と違てな、義父は腹割くのがへたくそやってな。せやでいっつも卵まで傷だらけ。しかたないで義母が、傷を絹糸でよう縫うとったもんやに」。

ひで子さんがそう言いながら笑った。

「左手の人差し指の腹に右手で出刃の背を添え、指を先に押し出しながらスーッと割くのんがこつやで」。

次に血を抜き、塩漬けにして常温で2~3日保存。

続いて水に浸けては引き揚げ、2~3日かけて塩出しを繰り返す。

「塩が効き過ぎると固となるで、芯を残さんようにな」。

そして仕上げは板の上に並べ、10日ほどたっぷりと天日干し。

「同じ卵でも、別嬪さんもおりゃあ、18の生娘もお婆もおるで。形も味も全部違うんやさ」。

職人技と自然が育てたからすみは、艶やかな橙色(だいだいいろ)に色付き輝く。

贄浦に浮かぶ茜雲のように。

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