「天職一芸~あの日のPoem 333」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「ハーモニカ吹き」。(平成21年8月12日毎日新聞掲載)

盆の迎え火焚きながら 縁に腰掛けしみじみと          父が奏でるハーモニカ 一つ覚えの「海行かば」        「戦地に果てた戦友(とも)想う 年に一度のお弔い      そっとしとき」と母が言い 酒と供物の膳を出す

愛知県碧南市のハーモニカ吹き、黒川強さんを訪ねた。

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真夏の昼下がり。

男はおもむろに両手でハーモニカを包み込み、唇を添え左右に揺れながら、哀愁漂う音色を奏でる。

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喧(かまびす)しい蝉時雨さえ、一瞬鳴き止んだ。

「人には、どんな時でも音楽が必要だでねぇ。生まれた時は子守唄だし、最後は木魚で送ってまうだで」。

強さんは昭和12(1937)年、三重県四日市市で8人兄弟の次男として誕生。

「父の兄弟が、愛知県の高浜市で製陶所を始めて、5歳でこっちへ越して来ただあ」。

中学に上がったある日。

「生活が苦しいもんで、大きな磁石に紐括り付けて、屑鉄拾い集めて歩いとっただ。そしたら先輩がハーモニカと交換してくれって。嬉しかったって。ハーモニカなんて買ってもらえんだで。でも五線譜はよう見らんで、音符の代わりに折れ線グラフみたいに、音の高低を適当に書き記しただ。そんでそれ見ながら吹いとったんだで、ええかげんだあさ」。

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直ぐにハーモニカの虜となった。

中学の学芸会、青年団に盆踊りと、とにかく引っ張り凧。

「フォークダンスで、憧れのマドンナと手つなぎたいのに、いっつも『おいっ、オクラホマミキサー吹け』って」。強さんは未だに悔しそうだ。

中学を出て6年間、家業を手伝いながら就職先を探し続けた。

そして昭和34年、陸上自衛隊に入隊。

東京立川の測量大隊に配属された。

「測量ったって、棒持って立っとるだけだあさ」。

同年9月、伊勢湾台風が上陸。

東海地方は未曾有の被害に晒された。

「そしたら通信大隊に異動になって、災害地図作れって。そん時に航空写真で、故郷高浜の被災状況を知って愕然としただ」。

だが、幸いにも家族は無事であった。

昭和36年、母から一通の手紙が届き、「碧南市に消防署が出来るで戻って来い」と。

同年7月に強さんは、自衛隊を満期除隊し、翌月から碧南消防署に入隊した。

「非番になると自転車で市内を回って、防火水槽や消火栓の位置を確認するだ」。

昭和39年、西尾市出身の小千代さん(故人)と結ばれ、一男二女を授かった。

「子どもらに人気のテレビ漫画の主題歌でも、いっぺん聴けばだいたい吹けよった。だけどこれが、3回とはおんなじようには吹けんだあ」。

今も愛器40本を操り、童謡から艶歌やポップスまでレパートリーは幅広い。

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「老人ホームを慰問すると『またハーモニカ吹きが来やがったか』ってな調子で、最初は無表情だけど、演奏始めるとそのうちに顔が変わって来るだあ。中には涙ぐんだり、手握ってこしたり。そんな時、磁石とハーモニカ取替えっこしてまって、本当に良かったなあって思えるだわ」。

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暇乞いをすると玄関口で「まあ、息が出来るうちは、もう少し吹き続けるわあ」と。

老いたハーモニカ吹きの、味わい深い枯れた音色。

今日も何処かで誰かの、心の琴線を揺らし続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 332」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市常磐の「糸屋」。(平成21年8月5日毎日新聞掲載)

「娘時代のセーターは やっぱり派手」と母さんは        ぼくの両腕桛(かせ)くりに 毛糸解いて玉に巻く        母のお手製セーターは 木枯らし吹けど寒かない         袖の毛糸に顔を埋めりゃ 母の匂いに包まれる

三重県伊勢市常磐のモリヤ糸店、二代目主の森孝生さんと妻の幸代さんを訪ねた。

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「この人、仕事仕舞っといて、他所の人がファスナー壊れたゆうて持って来ると、それを一生懸命に直し始めるんさ。それだけならまだ宜しいに。おまけに乳母車まで直しとるんやで」。妻は笑いながら、律儀そうに座り込む夫を見つめた。

「家で何にも買ってくれやんでも、いつかはお客さんになるかも知れやんのやで。困っとる姿見たら、ついつい手が出てもうたんやさ」。夫は大きな身体を縮め、すまなさそうに妻に弁明した。

「家は元々、弥三郎いう祖父が始めた魚屋やったんさ。この爺さんが、義太夫好きのお人好しで。人に頼まれると、みな引き受けて仕入れてもうて。それで売れ残れば、横のドブ川にほかすような毎日。父は子供心に、そんなええ格好しいの爺さんを支える、働き者の婆さんの姿を見るのがつろてな。せやで戦争から復員すると、別の商売をと昭和22(1947)年に始めたんが糸屋やったんさ」。

翌年、孝生さんが誕生。

高校を出ると大阪の糸問屋へ修業に。

住み込みで荷造り、荷運び、仕分けと下働きが続いた。

2年の修業を終え、昭和43年に帰郷。

父と共に家業に専念することに。

「もの凄い勢いのあった時代やって、とにかく大量生産の大量仕入れ。もう2階も3階も、家ん中そこら中毛糸だらけやわさ」。孝生さんが店内を見回した。

昭和40年代前半は、今ほど既製品が簡単に手に入る時代ではなかった。

「だから皆、お父さんやお母さんのセーター解いて、子どもらのセーターに編み替えるんやさ。それで糸が足らんくなると、その分だけ家で買(こ)うてもうてな。せやから袖だけとか、胴の半分だけ色が変わるなんてようある話やさ。それとか、擦り切れたズボンの膝当てや、穴の開いた肘当てにアップリケ付けてもうたり。昔は何でも着潰すまで大事にしたもんやでな」。孝生さんは懐かし気だ。

単に冬を越すだけの毛糸のセーターから、やがて冬を楽しむ手編みの時代へ。

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徐々に豊かさが華開いて行った。

「手編みのマフラーや、ペアルックでセーター編みたいとか。クリスマスのプレゼントや誕生日のお祝いにって。手編みには、編み手の祈りが、目数の分だけ込められるんやで。大切な人への一番の贈り物やさ」。妻は誇らしげに笑った。

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「『10円の赤いボタン2個でよろしいわ。ウサギの目にちょうどええし』って、うちらはそんな商売ですに。でも140㌔遠方からでも、義父の頃からのお客さんも来てくれるんやで。義父が蒔いた種が育って、今も枯れやんと実を結んでくれとるようでな」。

まるで2本の編み棒のような夫婦。

互いに棒の先で糸を繰り、二人で一つの人生を編み上げる。

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「天職一芸~あの日のPoem 331」

今日の「天職人」は、愛知県清洲市の「尾張曲げわっぱ職人」。(平成21年7月29日毎日新聞掲載)

タモを片手に蝉を追い 暑さ凌(しの)ぎに川遊び       真っ黒顔で駆け回り 腹が鳴るまで無我夢中           三時を告げる腹時計 オヤツにアイス期待して          急ぎ帰れば蒸かし芋 蒸籠(せいろ)わっぱに湯気上がる

愛知県清洲市須ヶ口で明治20(1887)年創業の伊勢安商店、三代目尾張曲げわっぱ職人の安藤安孝さんを訪ねた。

長者橋、船杁(ふないり)橋、巡礼橋。

いずれも愛知県清洲市を流れる、五条川にかかる橋の名である。

一昔前には旧美濃路に沿い、白壁の土蔵が軒を連ねた。

「わっぱ屋だけでも、昔は10軒のようあったっでなあ」。安孝さんは、人影もまばらな表通りをぼんやり眺めた。

安孝さんは昭和3(1928)年、4人兄弟の長男として誕生。

商業学校へと進学するものの、戦局悪化の影響を受け昭和19年10月に繰上げ卒業。

そのまま軍事教練を受けさせられたが、翌年8月15日に終戦。

戦争が終わると、人々は悲しみを乗り越え、復興へと歩み始めた。

安孝さんも家業に従事。

職人に付き、7年ほど下積み修業の日々が続いた。

「木刺しでわっぱに穴開けて、吉野桜の桜樺(さくらかば)で縫い合わせる力仕事ばっか。それからやっと、仕上げに底板の釘(竹釘)止めやらせてまえるようになるんだって」。

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樺の裏側を鉈(なた)で削りながら、懐かしそうに笑った。

「底板の代わりに、馬の尻尾の毛で編んだ網を貼り付けりゃ、味噌漉(こ)しや裏漉し器に早や代わりだわさ。昔は馬毛の網を、手機で専門に織るおばさんたあが、よおけおったって。そんでも気い付けんと、馬毛には虫が付くでかんわ」 。

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昭和29年、見合いで聖子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

四代目も安泰かと問うと、「そんなもん、わっぱだけじゃ、もう渡世なんて出来せんって。東京オリンピックの頃がピークで、後はじり貧で下るばっかだあさ」。

わっぱ飯の弁当箱に御櫃(おひつ)、蒸し器に篩(ふる)い、そして裏漉し器に柄杓(ひしゃく)などなど。

いずれも昭和の台所に、なくてはならない道具の数々が、安孝さんの太い指先から生み出されていった。

尾張曲げわっぱは、ヒノキの大木から、わっぱの寸法に挽く事から始まる。

次に材を鉋掛けし、熱湯で板を煮、丸型に挟んで曲げ、天日で乾燥させる。

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そして材の両端を絞め木(木製コンパスのような物)で固定し、木刺しで穴を開けて桜樺で縫い上げる。

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最後に用途に応じ、底板や馬毛の網を取り付け、削りを入れて総仕上げへ。

わっぱは、何と言っても、そこはかとなく漂う木の香りが命。

輪に繋ぎ止める桜樺は、わっぱが水分を含んでも伸びず、弛(たる)むこともない。

「吉野桜の樺は、8月以降10月頃までじゃないと、水分含んで剥(む)けんでかんて」。

大自然の産物だけを頼りに、わっぱ職人は節くれ立った指先を揮う。

するとからくり仕掛けのように、平らな板も弧を描き、留めの桜樺は胴を飾る粋な紋様を描き出す。

だが一つも設計図は無い。

「そりゃそうだて。63年で、体が全部(ぜ~んぶ)覚えてまっとるで」。

干支一巡りを越え、未だ作業場に座す最後の老職人。

感慨深げにそっと目を瞑(つむ)った。

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「天職一芸~あの日のPoem 330」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「養肝漬(ようかんづけ)蔵元」。(平成21年7月22日毎日新聞掲載)

伊賀の里からお中元 「養肝漬の箱入りよ」           母は何やら嬉しげに 水屋の奥に仕舞い込む           母が買い物出た隙に 「羊羹(ようかん)?ヅケ」を盗み食い   甘いどころかたまり味 中の餡子(あんこ)も紫蘇(しそ)生姜

三重県伊賀市上野中町で慶応元(1865)年創業の宮崎屋六代目主、宮崎慶一さんを訪ねた。

俳人芭蕉生誕の地、三重県伊賀市上野。

町の中心部を東西に貫く大和街道沿いには、今尚昔ながらの町屋や商家がポツリポツリと点在している。

「『何のレバー、漬けたるんですか?』とか、『やっぱり肝臓にいいんですか?』『羊羹が漬けてあるんですよねぇ』なんて、真顔でお客さんから何度尋ねられたことか」。慶一さんは客の口調を真似て見せた。

そもそも養肝漬とは、白瓜の芯を抜き、そこに刻んだ紫蘇に生姜や胡瓜を詰め、たまり醤油に漬け込んだもの。

「よう若い頃は『何やこの商品名は?説明するのも、一々手間やし』って、父を問い詰めたもんですわ。中には芯に詰めた具を捨ててから、食べるという人もおったほどやし。でも段々とそれが、お客さんとの会話のきっかけになるんやと気付いて」 。

慶一さんは昭和31(1956)年、長男として誕生。

「元々醤油の醸造元やったんです。だから養肝漬はその副産物。でもそれが、やがて独り立ちして今の世へ。だって江戸時代には漬物屋なんてありませんに。家庭で作るのが当たり前やったでな」 。

東京の大学を出ると、食品流通の世界へ飛び込んだ。

商品の開発と市場調査に明け暮れる毎日。

だが流通革命の波に飲み込まれ、問屋や卸業は再編や合併を繰り返す憂き目に。

「東京という街は、仕事にはいいが、とても人の住むとこやないと思うようになって」 。

昭和56年に帰郷。

父の元で家業を継いだ。

「これから先、何を残すべきか、合理化との狭間で相当考え抜いたもんさ。でもしばらくしてやっと気付いた。醤油樽を残す必要性に。だって日本の漬け物の98%弱は、どれもみんな浅漬けばっかり。でも家のは、乳酸発酵とアミノ酸発酵させた古漬けや。それを促進させる固有の菌が、樽には30種以上も永年住み着いとるんさ。蔵の中のひんやりした空気の中にも。ご先祖様から受け継いだ、ありがたい神々の菌や」。

昭和63年、京都出身の郁子さんと結ばれ、三女を授かった。

養肝漬の1年物は「新味」。

2年以上が「昔味」。

いずれもその主役は、先祖代々が改良を重ねた、伊賀特産の白瓜。

まずは芯を刳り貫き、20~22%の濃度で塩漬けし貯蔵。

同様に塩漬けした野菜(紫蘇、生姜、大根、胡瓜)を刻み、塩漬けした瓜の芯に詰め、樽の中で醤油を12~13%注ぎ入れ本漬けへ。

「浸透圧の作用で、醤油が瓜に染み込み、塩分が吐き出されるんやさ」。

そして味の抜けた醤油を抜き取り、新たに醤油を注ぎ込み、真っ暗な樽の中で深い眠りへと誘う。

樽に住まう菌はやがて神となり、洒脱に俳諧味あふれる養肝漬を育む。

かつて「武士の肝っ玉を養う」とまで謳われた、古里の名産として。

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「天職一芸~あの日のPoem 329」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷、「奥飛騨山椒粉職人」。 (平成21年7月15日毎日新聞掲載)

夏も盛りの丑の日は 父の帰りを待ち侘びた           母は手拭い鉢巻きで 七輪熾し鰻焼く              炭火に爆ぜる醤油の香 ちょいと一振り粉山椒          勢い余り振り過ぎりゃ 舌が朝までピーリピリ

岐阜県高山市の奥飛騨温泉郷、飛騨山椒の二代目、内藤一彦さんを訪ねた。

土用の丑の日が近付くと、つい昔の母の台詞を思い出す。

「まだお父さんの給料前だでね」と。

つまり毎年異なる丑の日が、父の給料日の前か後かによって、我が家の鰻丼に盛られる、その年の切り身の数が異なった。

「この尻尾が一番美味いんだわ」。

母は毎年そう言って、真ん中の立派な身を、父とぼくとに取り分けたものだ。

「鰻は、今も昔も高級品やでね。まあどうぞ一つ味を見てください」。

鰻屋の座敷で、男は鰻丼と共に山椒粉と書かれた、緑入りの丸い缶を差し出した。

味を見るのは鰻の蒲焼ではない。

緑色の缶に入った、山椒粉の方だ。

「味を見てもらうにも、山椒の粉だけっちゅうわけに行きませんし」。

四方を小高い山に囲まれた、高原川に沿う静寂の里。

周りには、収穫を目前に控え、たわわに実を付けた山椒の木が、真夏の太陽を浴びている。

一彦さんは昭和35(1955)年に、長男として誕生。

「子どもの頃は、夏になると山椒守り(山椒の実を摘む作業)をようさせられましたわ」。

東京の大学を出ると、土木関係の会社に入り河川工事に携わった。

そして2年後に帰省。

親類の建設会社に移り、現場の施工に従事した。

しばらく後、近くの土産物屋でアルバイトをしていた、旧神岡町(現・飛騨市)出身の裕子さんを見初め、昭和63年に結婚し一男二女を授かった。

何もかもが順風満帆。

仕事と子育てに追われながらも、幸せで充実した日々が続いた。

だがやがて土木建設も下火に。

どこも異業種参入に躍起となった。

そんな平成17年、飛騨山椒の後継話が持ち上がった。

「飛騨山椒を創業した母の弟が、昭和50年に脳梗塞で倒れ、誰も後継ぐもんもおらんって言うもんやで」。

一彦さんは妻に打ち明けた。

「そしたら妻が、『山椒しかないでしょ。せっかく奥飛騨の自然が誇る、山椒の木があるんやで』って、背中を押してくれて」。

翌年、創業者の妻から手解きを受け、建設会社の異業種参入事業として、飛騨山椒を受け継いだ。

「まず最初は、土用の丑の日の後、山椒の実を親指の爪で手摘みするんやわ」。

それを農家で陰干しして、種が弾けるのを待って、解(ほぐ)して土嚢に詰め込む。

そして種抜き機で種を取り出し、茶箱に詰めて保管。

注文に応じて取り出し、石臼と杵で15分搗き、篩(ふる)いに掛ける。

篩いに残った実は唐箕(とうみ)機に掛け、再び石臼で40分搗く。

さらに粗い実は、3時間近くも搗き粉砕。

特上、上、並粉に選別し完成。

「今見山椒に、高原川の高原山椒が生粋の奥飛騨山椒。だからここから10㌔も離れると味が落ちる。昔の人は凄いって。ここの自然が、一番山椒に適しとるって、ちゃんと見抜いとったんやで」。

後4日で土用丑。

今年は31日に二の丑もある。

ってことは、母がまだ健在なら、今頃大いに頭を悩ませていたに違いない。

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「天職一芸~あの日のPoem 328」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「千鳥格子建具師」。(平成21年7月8日毎日新聞掲載)

路地の打ち水涼を呼ぶ 風鈴チリリン古都の宿          宵の口から湯浴みして 君の長湯に肘枕             衣擦れの音(ね)に目を覚ましゃ 千鳥格子のその向こう     浴衣姿で横座り 濡れた黒髪君が梳(と)く

岐阜県飛騨市古川町の匠工房、千鳥格子建具師の住寿男さんを訪ねた。

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「先人の技を超えたい」。

その思いが、数100年前の匠の技を、深い眠りから揺り起こした。

匠の末裔としての己が手に、先人の魂が宿れとばかりに。

「まだまだ奈良や京都には、目から鱗の作品がありますって。修業は永遠やさ。まるで回遊魚みたいにな。だから極めた積もりになって、手を止めようもんなら、それで仕舞いや」。寿男さんは、飛騨古川まつり会館に展示されている、祭り屋台「瑞鳳(ずいほう)台」の扉として取り付けられた作品と同じ、面越(めんこし)千鳥格子の衝立を広げて見せた。

裏面には、秋田杉と神代杉(じんだいすぎ)が市松模様に、ピタリと組み込まれ一縷の隙もない。

縦桟を一本おきに、まるでチドリの足取りのように、互い違いに横桟で機を織るよう編み込まれている。

寿男さんは昭和16(1941)年、旧神岡町(現・飛騨市)の農家で6人兄弟の末子として誕生。

中学を出ると、高山市内に下宿し職業補導所に通い、木工関係の基礎を学んだ。

翌年、同市内の建具屋に入り、指物や雑木工の修業に。

「18歳の頃やったかな。親方と荘川へ向う途中、軽岡峠の頂上で地蔵堂を見かけたんやさ。そのお堂の扉に、機織りに組まれた不思議な格子があって。よう見ると、1箇所だけ格子が壊れとるんやて」。

そこから仕掛けのからくりを覗き込み、頭の中で編み方を思案した。

「明治の中頃、高山の名工と呼ばれた岡田甚兵衛が、地蔵堂に何度も通い詰めて、からくりの謎を解き明かそうとしたそうや。それにしても謎が解けず、ついに一部を壊してからくりをその目で確かめたとか。とにかくその技を目の当たりにして、職人の魂が揺さ振られたんやろな。いつの日か自分も手掛けたいって」 。

昭和35年、古川町でも指折りの建具屋へ移籍。

2年後には妻を得、やがて一男一女が誕生。

12年に渡る修業で、建具と指物の技を会得。

ついに昭和47年、親方に認められ住建具店を開業。

「独立した頃は、仕事に追われるばっかり」。

少し余裕が出来、千鳥格子に取り組み出したのは、昭和が平成へと改まる頃だった。

「しかしそれからも、試行錯誤の連続」。

やっと納得のいく作品が仕上がったのは平成6年。

直ぐに面越千鳥格子の製法組付け特許を申請した。

それから6年、晴れて念願の特許を取得し商品化へ。

面越千鳥格子は、まず檜の桟を木取りすることに始まる。

次に桟へ均等に墨付けを施す。

10分の1㍉の誤差もあってはならない。

そして編み込む部分の面越を4分の3切り込み、組み手も同様に切り込む。

次に4つの角を丸く面取りし、縦横の桟を生糸のように編み上げる。

衝立やガラス入り飾り窓。

意匠は異なるが、いずれも狂い一つ無き精密機器のようだ。

天晴れ飛騨の匠。

木の性質をとことん知り尽くす職人技。

果たして何100年か先の世に、寿男さんの技を見破る、後世の匠は現れ出でるであろうか。

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「天職一芸~あの日のPoem 327」

今日の「天職人」は、名古屋市天白区の「大小道具方」。(平成21年7月1日毎日新聞掲載)

お遊戯会の前日は 母を相手に長台詞(ながぜりふ)      やっとのことで覚えたが ヤンヤの声でどこへやら        黄門様の供の役 「控えおろう!」の名台詞           ここ一番の見せ所 印籠忘れ大童(おおわらわ)

名古屋市天白区、大小道具方「華新(はなしん)」五代目舞台美術家の土井信策(しんさく)さんを訪ねた。

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うっかり舞台袖か奈落へでも、迷い込んだかと一瞬わが目を疑った。

それもそのはず、庭の植木や伝馬船の胴の書き割りが、無造作に立ち並ぶ。

「演目に応じて木工で型を取り、経師が紙を貼って、背景師が絵を描くんですわ」。信策さんが、子どものような眼をして笑った。

信策さんは昭和25(1950)年、2人兄弟の長男として誕生。

「創業は文化・文政(1804~30年)の頃、初代新三が中区門前町に店を構えたのが始まりで、最初は小道具が専門。

ところが曽祖父に息子が出来ず、大道具方の浅野組から祖父が婿養子に迎えられ、それから大道具も始めたんです」。

小学校へ上がると父は「お前は跡継ぎだ」と、繰り返し呪文のように囁き続けたそうだ。

高校では美術科を専攻。

「皆そりゃあ熱心で、放課後もデッサン室へ通う毎日。でも私は授業が終わってまで、絵を描く気になれませんでした」。

その後、上京し美大で日本画を学ぶことに。

「大学なんて、人生の執行猶予期間みたいなもんですからねぇ。お気楽な4年間が保障されているようで」。悪戯っ子のように照れ笑いを浮かべた。

大学を出ると、東京の金井大道具に修業へ。

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「最初の3ヶ月は、絵の具を溶くバケツ洗いばっか。それで下塗りするかって言われて、やがて縁取りへ。でも大きな背景の縁取りだから、線が細くなったり太くなったりでさっぱり。それと東京の大道具は、付けを兼ねてまして。特に専門用語が分からんくてねぇ。舞台が暗転になったと思ったら、『おいっ、ボカボカ片してくれ』って。どうやら植木の書き割りみたいで、それを袖に片付けろと」。

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その後、藤浪小道具店へ3ヶ月ほど移り、印籠に漆を塗ったり造花を作ったり。

1年の修業を経て、晴れて家業へ。

その年、昭和50年に高校の同級生、恵さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「大道具は、舞台の光と影を計算に入れた、騙し絵のようなもの。だから背景画も、客席から見て中央より左の下手を描く時は、右の上手から照明が当るのを計算して描かんと。また小道具は、舞台と客席との距離があるから、大きく誇張するように作らないとだめなんですわ。例えば船頭が持つ竿にしても、本物では客席からだとそう見えん。だから竹竿に木綿を巻いて太くして、青竹のように緑色に塗って使わんと。ちょっと変わった小道具では、常磐津の『関ノ扉(と)』に登場する大ヨキかな。これは関兵衛が大ヨキを振り上げると、大伴黒主(おおとものくろぬし)にぶっ返りして正体を現す時に使う物。ヨキの内側に鏡が埋め込まれ、それを見ながら役者が顔に隈取を入れるんです」。

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華やかな舞台を、陰で支える大小道具方。

信策さんの話は、まだまだ尽きそうに無い。

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「天職一芸~あの日のPoem 326」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市宮町の「乳母車籐編み職人」。(平成21年6月24四日毎日新聞掲載)

腰の曲がった婆さんが 飴色焼けの乳母車          キィーコキィーコと軋ませて 田植えの後の畦を行く       葉叢(はむら)を急に飛び出した 殿様蛙雨蛙          ポチャンポチャンと田の中へ 雨を請うのかゲーロゲロ

三重県伊勢市宮町、籐商(とうしょう)玉屋の二代目籐編み職人の玉村裕子さんを訪ねた。

「主人はいい腕持ってましてねぇ。何で死ぬ時に、腕だけ置いてってくれやんだんやろう。特に難しい舟形の乳母車編む時なんて、右へ左へと目も覚めるほどの手捌きやったんやさ」。裕子さんは、作業の手を止め、夫の形見でもある年季の入ったエンマ(ヤットコ)を見つめた。

裕子さんは昭和17(1942)年、松阪市で5人兄妹の次女として誕生。

名古屋の服飾専門学校を出ると、地元の百貨店で服飾デザインの職に就いた。

「女の子は手に職をつけやなあかんって、言われとったもんでな」。

昭和40年、知人の紹介で周郎(ちかお)さん(故人)と結ばれ、一男一女を授かった。

時代は高度経済成長真っ只中。

町中に子どもたちのハシャギ声や泣き声がこだまし、腕利き職人の夫は、意匠を凝らした豪華な乳母車の籐編みに追われ続けた。

やがて子育ても一段落すると、店の一部を使って籐編み教室を主宰。

しかし平成9年、夫は脳出血に倒れ、寝たきりの生活を余儀なくされた。

「籐編みに配達と商売全般、それに夫の介護と教室まで。今思うとようやったわ」。

籐を編み込む手を止め、壁に掲げられた在りし日の夫の遺影を見つめた。

矢来型の籐編み押し車(乳母車)の製造は、まず底板に桟を打ち付けることに始まる。

次に丸籐200本を底板の周りへ、剣山の針のように籐を立てて釘打ち。

そして底から皮籐で8㌢ほど腰編みし、一晩逆さにして水に浸す。

翌日、木型に丸籐1本で内側に縁(ふち)打ちし、木型と縦木地をエンマで組み、矢来に編み上げる。

途中8㌢ほど編み上げたところで、半分に割いた丸籐で横へ1回り帯入れ。

この手順を繰り返し、必要な深さへ。

矢来が上部まで組み上がると、外側を縁打ちし、型から外して皮籐で網代(あじろ)に縁巻きを施す。

籠が完成したら尺輪のスポークは銀色に、リムは黒色に塗り上げる。

次に押し棒の金具を取り付け、車台も黒く塗って組み立てへ。

「何でもみな、一人でせやんなんでなあ。ペンキ屋もやさ」。

最後は車台と籠の底板を割りピンで固定し、押し手を付け、押し棒を皮籐で編み上げ、尺輪を取り付ければ完成。

1台の製造に丸々3日が費やされる。

「昔は畑仕事や子のお守は、みなこの押し車や。丈夫やで籐が飴色に焼けても、20年のようは使えるで。今でも『どうしてもこれやないとあかん』って言われるお年寄りもおられるでなあ」。

「門前の小僧習わぬ経を読む」とやら。

裕子さんも夫に手解きを受けたわけではない。

ただ直向きに籐と向き合う夫に、寄り添い共に生きただけのこと。

だが裕子さんの心と体は、夫の指の運びを鮮明に留めていた。

夫唱婦随。

裕子さんは今日も籐を編む。

まるで記憶の中の夫に、語りかけるように。

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「天職一芸~あの日のPoem 325」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市白鳥町の「玩具屋(おもちゃや)主」。(平成21年6月17日毎日新聞掲載)

指折り数え待ち侘びた 年に一度の誕生日            父に連れられ玩具屋で あれこれ悩むプラモデル         スポーツカーに戦闘機 目移りばかり決め兼ねて         父に相談したくとも 子供返りで無我夢中

岐阜県郡上市白鳥町、オモチャのごんぱち、二代目主の野々村昇さんを訪ねた。

長良川に架かる白鳥橋を東に渡ると、旧街道に沿いわずかに昔家並みが続く。

その突き当たりに、今も昭和の面影を色濃く残す、子ども達の楽園はあった。

その名も「オモチャのごんぱち」。

店内には、野球盤や鉄道模型、初代人生ゲームにゴジラからリカチャン人形まで。

色褪せた箱の色に、過ぎ去った年月が刻み込まれている。

「祖父の名が権八やったもんで、周りの人がそういいないたんやわ」。昇さんは、子どもに釣銭を手渡しながら、人懐っこい顔で笑った。

昇さんは昭和14(1939)年、三人姉妹の真ん中で長男として誕生。

しかし3歳の時に父が他界。

幼子3人と姑2人を抱え、母は和裁仕事で一家を支えた。

「そりゃあ母は、女手一つで大変やったって。和裁仕事の傍ら、生徒を取って教えて。月謝の代わりに米貰って、生計立てとったんやで」。

戦後しばらくすると、友人が闇屋を勧めた。

「和裁なんかじゃ儲からんで、わしらと闇屋せえへんか」と。

「母は米抱え、越美南線(現・長良川鉄道)の始発で名古屋の闇市へ。米売った金で、帰りに駄菓子やオモチャ仕入れて来て、それを売るんやわ。ぼくも母や姉に付いて、学生鞄の中によう隠したもんやて。警察に見つかると没収されてまうで。そんでも母は、食管法違反で2回捕まって、悲しい顔して帰ってきたもんやて」。

昭和29年、中学を出ると八百屋へ住み込みに入ったものの、翌年身体の弱い母に乞われ家業へ。

昭和39年、隣りの高鷲町から清子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「ちょうど東京オリンピックの頃やった。それからしばらくは、子どもも多くて商売も一番ピークやったわ」。

高度経済成長は、オモチャにも変化をもたらした。

人生ゲームやオセロ等の「盤モノ」は、やがてTVゲームへ。

ボール紙を切り抜く、着せ替え人形などの「女玩(じょがん)」は、ビニール製のフィギュアへ。

ブリキ玩具は、セルロイドからプラスチック製へ。

「オモチャより何より、子どもが変わってまった。昔の子は、店に入って来ると、目がギラギラ光っとった。でも今の子は、騙(だま)かいたようなオモチャにゃ目もくれん。何でも妙に大人ぶって、本物志向やで」。

品定めに夢中な子どもたちを、温かな眼差しで見つめた。

「小さい頃、貧乏やったけど家風呂があって、いっつも近所の連中が貰い湯にやって来るんやて。だで、俺らいっつも一番ビリやわさ。でも皆『おおきに』って、煮た芋を持って来てくれたりして。今思うと昔は、人と人が支えあって、心と心で繋がっとったんやろな」。

子ども心に描く見果てぬ夢。

それを叶える魔法のオモチャ。

半世紀に渡り、子ども達に夢の欠片(かけら)を届け続けた男は、店先に傾きかけた西日を、ぼんやりと見つめていた。

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「天職一芸~あの日のPoem 324」

今日の「天職人」は、愛知県犬山市の「仕出し屋」。(平成21年6月10日毎日新聞掲載)

大往生の婆さまを 野辺に送ったその晩は            子孫集いて偲び酒 拳固の数の競い合い             仕出し屋膳の精進は 薄口仕立て甘辛さ             儚き人の一生と どこか似ている味気なさ

愛知県犬山市で明治4(1871)年創業の仕出し屋「寅屋」。四代目主の佐橋利英さんを訪ねた。

濃尾平野を緩やかに河口へと下る木曽、長良の大河。

共に太古より、鵜飼漁法の伝統が今に受け継がれる。

「まあ、ちょっと木曽川の鮎でも召し上がってみて。これは鮎を甘露煮にした『あゆかん』と昔から呼んどるもんやけど」。利英さんは、飴色をした鮎の姿煮を差し出した。

「初代の寅吉が、魚屋町(うおやちょう)で一膳飯屋をやりかけたのが始まり。寅吉はでっぷりと太って、腹がドーンと突き出とったもんで、周りから『大寅』って渾名され、親しまれたらしい。それでそんなら屋号も『寅屋』でええわってことで」 。

利英さんは昭和12(1937)年、この家の次男として誕生。

だが、中学2年の年、兄は嫁と幼子を残し急逝。

跡取り息子に先立たれ、家業は両親と兄嫁とで切り盛りし続けた。

利英さんは高校を出ると、他所の仕出し屋で修業に。

「まあ丁稚奉公やわね」。

翌年、知り合いの勧めで、料理専門学校に入学。

2年後には栄養士の資格を取得し、料理教室の教壇に立った。

「22歳の年に家へ戻って、今度は家で料理教室を開きましてねぇ」。

しかし昭和38年、大黒柱であり続けた父が他界。

「それから本格的に家業を継ぐことになって、周りの勧めもあり、兄嫁と一緒になったんやわ」。

兄嫁政子さんと結ばれ、忘れ形見の長女典子さんが養女となった。

「その典子の連れ合いが私で、婿入りしたんですわ」。

傍らから五代目を継ぐ佐橋好春さんが、話しに分け入った。

そして翌年、利英さんと政子さんの間に、長男範保さんが誕生。

ちょうど世は、東京五輪に歓喜した年だった。

「家は仕出し屋でも、冠婚葬祭や仏事とか会合が中心。明治の初めに寅吉が始めた一膳飯屋が、やがて仕出し専門に代わり、お客さんが丼持って料理を買いに来るようになったんやわ。昔は本店の裏に映画館があって、切り溜めに料理を作っては、出前に行ったこともあったほどやて」。利英さんは記憶を手繰り寄せるように、目を閉じた。

「結婚式の披露宴の祝い膳なんかやと、12~13品もの目出度い料理がズラッと並んで。そりゃあもう華やかやったって。昔は家々に膳もお皿もあって、その家のお皿に綺麗に盛り付けるんやわ。でももう最近じゃ、そんな家あれへんって」。好春さんが苦笑い。

明治初期から親しまれ続ける寅屋の「あゆかん」は、まず鮎の串打ちに始まる。

次に煮崩れを防ぐために素焼きし、大鍋で40~50分ほど水煮する。

「素焼きしとかんとさいが、尻尾が溶けてまうで」。

そして身と骨が柔らかく煮上がったところで、砂糖と醤油に隠し味の梅干を加え、弱火でさらに1時間煮詰めれば完成。

この町で、夏のお菜(さい)と親しまれ続ける「あゆかん」。

一度(ひとたび)職人の手に掛かれば、晴れの日を寿ぐ膳の、見事な名脇役へと生まれ変わる。

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