「天職一芸~あの日のPoem 343」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「椅子革裁断師」。(平成21年10月28日毎日新聞掲載)

蜜柑の箱に将棋板 古く傾(かた)いだ椅子二脚                 祖父と隣りのご隠居は 舟漕ぎながら駒を指す                 「さぞかし尻も痛かろう」 父はボロ屋で裏革を                 がめて座面を包(くる)み込み 「これでええ夢見れるやろ」

岐阜県高山市で、北欧家具を製造するキタニ。椅子革裁断師の植田一良さんを訪ねた。

「ある日、お婆さんがみえて、『爺さんが昔、職人に作らせた椅子を、直してもらえんか。孫に使わせたいで』と。座面を開くと、中に緩衝材として藁と草が。だからそのまま、新しい藁と草を詰めて再生したんやさ。そしたら大喜びで。職人冥利に尽きるってやつかな?たかが椅子1脚、でも生き物なんやさ。職人が魂込めて、命を吹き込めば、末永く生きるんやで」。一良さんは、懐かしげに笑った。

キタニでは、飛騨匠の末裔たる家具職人たちが、己が手力を頼りにその技を競い合う。

一良さんは昭和36(1961)年に誕生。

だが小学2年の年、両親が離縁した。

「勉強より、物作りや機械いじりが好きで、自動車の整備士になろうと」。

工業高校を出ると、お茶、火薬、包装資材等、幅広く手掛ける鍋島商店に入社。

「梱包機の修理担当で入社したはずが、1月毎に全部の事業部門を回らされて」。

入社からわずか3ヶ月を迎えた時だった。

「お前、行って来いって」。

子会社であるキタニのウレタン加工所へ異動。

大阪から来ていた職人が、怪我をし欠員が出たからだ。

「巨大な食パンみたいな、幅2㍍、奥行き1㍍、高さ80㌢ものウレタンの塊を、スライス機で薄く梳(す)いて。椅子のクッションに加工し、家具メーカーに納めるんやさ。ここらは脚物(あしもの)の産地やで」。

次第にウレタン加工から、布張り仕上げへと業務領域も拡大。

いつしか木工職人も増え、自社製品の製造へ。

「ちょうど15年前。これからは福祉やと、社長が福祉の先進国である北欧へ視察に。すると倉庫の片隅に、昔の北欧家具が。それをコンテナで持ち帰って来たんですわ。椅子も何10脚と。最初皆も呆気にとられ、『社長が北欧からゴミ買い込んで来たぞ』って。でもよく見ると斬新な作りで。バラした途端、職人魂に火が点いて、もう夢中。ソファーも座面をはぐると、草や獣毛が出てくるし」。

職人たちは獲り憑かれた様に、半世紀前の北欧家具職人たちの手業を学んだ。

そして平成8年、北欧家具の復刻製造へと乗り出した。

裁断師の作業は、3次元に描かれた図面から、2次元に座面の型を起こし、革を裁断することに尽きる。

「それが縫い合わされて3次元に仕上がると、ゾクゾクッとして。牛革の腹と背は伸びるが、尻は伸びんから、それを計算に入れんと」。

平成16年、同じ職場のかづみさんと、7年越しの恋を実らせ婿入り。

やがて二女を授かった。

「20歳のころ、尻まくって辞めようかと。でも年配の女性が早まるなって引き止めてくれて。でも辞めんでよかった。裁断師として、型出しする面白さにも気付かんかったやろし、妻とも巡り逢えず仕舞いやったろで」 。

きっと誰もがいつかは巡り合う、一人に一つの天職一芸。

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「天職一芸~あの日のPoem 342」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨の杉玉職人」。(平成21年10月21日毎日新聞掲載)

昔家並の一之町 お店(たな)の庭に紅葉燃ゆ                  大徳利をぶら提げた 父が背伸びで軒仰ぐ                    造り酒屋の杉玉は 茶から緑へ色直し                      今日か明日かと待ち侘びた 父は新酒に紅葉色

岐阜県高山市の杉玉職人、二代目の中谷紀久雄さんを訪ねた。

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「青々した杉玉が、造り酒屋の軒に吊るされると、左党の連中は『おっ、いよいよ新酒が出来たか』って、仕事どころやないさね」。紀久雄さんは、盃を傾げる真似をした。

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紀久雄さんは昭和15(1940)年に長男として誕生。

「高校行きたかったんやけど貧乏で。親父が首を縦に振らんのやさ」。

飛騨市古川町にあった農業講習所へと、自転車で砂埃を蹴散らし、片道1時間の道程を通い続けた。

1年の講習を終え、家業に従事。

「米に野菜作りと、蚕の世話。1年やったけど、これが思い通りに行かんのさ」。

そこで、他人の飯を食わせろと、父に直談判。

県外派遣実習生制度を利用し、3ヶ月間長野県小諸市の農家へ。

セロリ、レタス、カリフラワーの、栽培を学んだ。

「友達が派遣された農家に、乳牛が2頭おったんやさ。それで毎晩そこ行って、手搾りの搾乳を覚えたんやて。帰ったらいつか酪農やろうと」。

大志を抱き、高山へ。

そして昭和35年、ついに子牛を手に入れた。

「農協から金借りて、隣の宮村から、生後2ヶ月の子牛を、1頭3万円で買って来たんやさ」。

翌春から搾乳が始まった。

「農家は冬、金が入らん。でも牛は、自分の血液を乳に代えてくれるんやで、搾乳すりゃ毎月金になる。ありがたいもんやさ」。

昭和38年、宮村から香代子さんを嫁に迎え、二男一女を授かった。

「搾乳始めた頃、農機具屋でバイトしとったんやさ。それで耕運機売りに入った家で、耕運機売らんと嫁もろて」。

新婚旅行は2泊3日で伊豆の温泉へ。

「牛飼いは旅行に行けんで、せめて新婚旅行だけはと」。

昭和43年には、乳牛も20頭に。

自分でブロックを積み、コンクリートを打ち、牛舎を建て増した。

「その2年後やったかなあ。父が酒造元から依頼されて、試行錯誤の上、杉玉作るようになったんは」。

父は農業の傍ら、コツコツと注文に応じ杉玉作りに精を出した。

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ところが平成元年、父が病の床に就いた。

「段々呆け始めて、注文受けても作らんのやさ。最初は畑が忙しいって、嘘こいとったんやけど、わしがせんとしゅあないし」。

作り方や段取りは、父の後ろ姿から学び取っていた。

杉玉作りの第1は、杉の枝打ちに始まる。

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「近場は、皆親父が刈り尽くしたもんで、車で30分以上かけて走らんと」。

細かく枝打ちした根元を針金で縛り上げ、番線と金網で球体にした杉玉籠に差し込み絞り上げる。

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次に全体が球体になるように、剪定鋏で荒刈りし、仕上げに花切り鋏で細かく刈り込む。

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「そこがこつやのう。まあ、心が丸けりゃ、丸なるって」。

棕櫚縄で吊り手を付ければ完了。

大きな物は一週間を要する。

「材料ただでも、手間がかかるで。わかるろう」。

深まり行く秋の気配。

酒屋の軒に、青々とした杉玉が吊るされる日も近い。

ささ、まずは一献。

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「天職一芸~あの日のPoem 341」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「アンコ(鮮魚競り人)」。(平成21年10月14日毎日新聞掲載)

 父が忘れたお弁当 母と届けに魚河岸へ                     濁声響く競り場には バン買いピンピンオイヤッコ               「ほら父さん」と母が指す 眉間に皺の強面(こわおもて)            いつもは優しい父なのに 「競りはアンコの戦場(いくさば)」と

愛知県豊橋市、豊橋魚市場のアンコ、石黒政美さんを訪ねた。

午前6時半。

競り場に箱物鮮魚が並ぶ。

「それでは、アサリから売ります」。

野太い男の声が、スピーカーから流れ出した。

一斉に仲買人がアサリを取り囲む。

そこへ分厚いメモ用紙を片手に、アンコ(競り人)が登場。

鐘の音が響き渡る。

「アサリアサリ5㎏、いくらいくら」。

「500、600、バン(800)、買い(1000)、ピンピン(1100)、ジョウ(1500)、オイ(1800)、ニコニコ(2200)、ヤッコ(2500)」。

次々に仲買たちが、値を競り上げる。

「ハイッ、ヤッコ、マルス」。

アンコは落札者の屋号と落札金額を復唱し、直ぐに次の商品へと向う。

再び威勢のいい濁声が飛び交い、熱気を帯びる。

「最初はオイオイって、誰かが呼ばっとるかと思っただ」。政美さんは、競り場の険しい表情とは一転、何とも優しい笑顔だ。

政美さんは昭和32(1957)年、2人兄弟の長男として誕生。

「ガキの頃から、釣りが好きでねぇ」。

水産高校を卒業し、魚市場に入社。

「毎日明けても暮れても、荷降ろしばっか。冷凍マグロを1日に、1000本も手掻きで引っ張り、鉈で尻尾を切って。競り用に1番から50番まで番号入れて、それを20組繰り返すだあ」。

そんな日々が5年は続いた。

「ちったあ魚の名前を覚えてくると、次は先輩が競り落とした箱物への札入れ。仲買の屋号が印刷された紙の札を、誰が落としたか見とって、箱に入れてくだあ。だもんで、仲買の顔と屋号を覚えとらんと、間違うとえらい目だわ」。

入社5年を過ぎた頃には、子どもの頃から好きだった魚釣りが、嫌いになったと言う。

「鯛1匹釣るのに、どんだけ金と時間がかかるか、そう考えたら馬鹿らしなって。買った方が遥かに安いらあ」。

荷降ろし5年で魚の名前と旬の時期を覚え、札入れ2年で仲買の顔と屋号を、体に叩き込んだ。

そして迎えた入社7年目の25歳。

ついにアンコとしての桧舞台に立つ日が訪れた。

「最初はアサリなんかの貝類から。魚と違って、物の良し悪しがあんまり変わらんで、後は値段だけ注意しときゃええだ」。

今でこそ名うてのアンコだが、初陣は緊張の連続。

「とにかく金額書いた字が、チャカチャカになって、自分でも読み返せんだあ」。

仲買人との駆け引きで、苦情が出ることもしばしば。

「『俺が先に鑓(やり)付けただ』って、仲買からぶん殴られそうになるし。でも競り場は、競り人にとっての戦場だで、びびったら負け。だもんで言葉遣いもわりくなるし、性格もきつなるらあ」。

平成7年に豊川市出身の佐織さんと結ばれ、二女を授かった。

「よう女房に叱られたわ。子どもが真似るで、家で『やいっ』とか『オイ』って言うなと」。

名うてのアンコも、家では形無しだ。

1日2時間足らずの競り場という戦場へ、アンコは今日も赴く。

優しい顔に、険しい表情の仮面を着けて。

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「天職一芸~あの日のPoem 340」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市宮町の「弥吉の孝行鰻職人」。(平成21年10月7日毎日新聞掲載)

外宮を詣で一休み 「これからなとしょ」父が問う               「なとしょゆうても昼やしな」 「ほなら飯でも喰うてこか」          「孝行鰻二人前 それにお銚子一本」と                     馴染み気取りで父が言う 勘定だけを押し付けて

三重県伊勢市宮町の料理旅館おく文。五代目となる奥田守さんを訪ねた。

「これが160年前から代々伝わる、弥吉の孝行鰻ですんさ」。守さんが、朱漆塗りの上品なお重を差し出した。

そっと上蓋を持ち上げる。

するとたちまち、鰻特有の濃厚なタレの香りを、炊き立てのご飯の湯気が鼻先へと運ぶ。

一斉に唾液が何処からとも無く、口中に沸き出でる。

口に含むと鰻の身もとろけ出し、絶妙なタレには上品さが漂う。

鰻は脂気も程よく抜け落ち、全くしつこさも無く、あっという間に一人前を平らげてしまったほどだ。

宇治山田市史によれば孝行鰻とは、幼名奥田文三郎、のちの長谷川弥吉の名で紹介されている。

奥田文左衛門の三男として天保6(1835)年に誕生した文三郎は、5歳で両親を失い、2つ上の姉と途方に暮れた。

隣に住む左官の長谷川弥平は、そんな姉弟に同情を寄せる。

だが弥平も所詮貧しい職人暮らし。

姉だけ親戚に預け、文三郎を養子として引き取り弥吉と改めさせた。

弥吉も左官見習いを始めるが、家計を支えるまでには至らない。

ならばと、幼い弥吉は蒲焼きを重箱に詰め、風呂敷に包んで山田(伊勢)の町を売り歩いた。

毎日毎日、雨の日も風の日も。

その姿に心打たれた町衆から、いつしか「孝行鰻」と呼ばれ贔屓に。

やがて山田奉行の耳にも入る事となり、孝行心を褒め称え青銅五貫文が与えられた。

その後妻を得、二人の息子を遺し、明治21(1888)年に54歳で他界。

その5年後、弥吉の次男の文吉が奥田文左衛門家を再興し、孝行鰻を継いだ。

以来、「孝行鰻」の名で親しまれ続けている。

守さんは昭和12(1937)年、4人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると直ぐに家業に就いた。

「家は昭和2年から、料理旅館を始めてましてな。孝行鰻はもちろんやけど、その他の日本料理も、板前さんに付いて修業せんならんし」。

いかに跡取りとは言えども、板場修業に手加減など無い。

昭和40年、同市二見町から恭子さんを妻に迎え、二男二女を授かった。

「妻の実家は、取引先の八百屋でしたんさ。もともと戦時中までは、外宮さんの傍で商売しとったんやさ。それが強制疎開で二見町へ移転させられてもうて」。

昭和50年、晴れて板場を任された。

160年前と変わらぬ孝行鰻作りは、三河一色産天然鰻の、背開きに始まる。

まずは軽く素焼きし、一之タレに潜らせる。

代々継ぎ足して使い続ける一之タレには、脂の旨味が溶け出しコクが深い。

再び焼き、仕上げの二之タレに潜らせ、とろみと照りを付ければ出来上がり。

孝行鰻職人は、家業の謂(いわ)れに驕る事無く、弥吉を敬いその志を継ぐ。

暇を乞い表へ出ると、老婆の声が。

「どやった?美味かったやろ。ここのは、本家本元やでな」と。

まるで見ていたように笑う。

孝行鰻が、今も町衆の誇りであり続ける所以(ゆえん)だ。

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「天職一芸~あの日のPoem 339」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨ぶり寿し職人」。(平成21年9月30日毎日新聞掲載)

飛騨の土産を紐解いて 瞼を閉じる老いた父           母と二人で旅をした 古い記憶の巡り旅             小皿に分けたぶり寿しと 猪口の熱燗陰膳に           母のアルバム繰りながら 独り語りの手酌酒

岐阜県高山市の飛騨ぶり寿し総本舗、梗絲(きょうし)食品。二代目の今川雅晴さんを訪ねた。

「初めて子供に食べさせた時『美味しいっ』って。笑ってくれたあの表情が、忘れられんし、裏切れんのやさ。だからどうしても、天然のぶり使って無添加やないと。養殖もんのぶりはな、押し鮨にした後に脂が出るもんやで」。雅晴さんは、傍らに控える長男の貴允(たかみつ)さんを見つめながら笑った。

雅晴さんは昭和29(1954)年、4人兄弟の末子として誕生。

大学を中退すると19歳で一人東京へと向った。

「やっぱりなあ、一度は東京って憧れて。父の知人の紹介で、ファッションモデル事務所の、マネージャーをしとったんさ」。

しかし、昭和48年の第一次オイルショックを引き金に、翌年には消費者物価指数が、23%も上昇するという、狂乱物価の大不況時代へ。

「どこもかしこも不景気で、昭和50年には高山へと引き揚げて来たんやさ」。

兄が婿入りした先のスーパーに入り、旅館や料亭向けの鮮魚卸を担当。

その日も普段通りに注文の鮮魚を揃え、得意先の旅館へと向った。

まさか運命の時が、迫っているとは露知らず。

片や富山出身の妻陽子さんは、叔母が営む旅館にたまたま遊びに来ていた。

そこを雅晴さんが見初め、昭和53年に見事心を射抜き結ばれ、やがて一男二女を授かった。

昭和55年には店長に。

充実した日々が続いた。

昭和62年、父は営み続けた食料品と寿しの卸を、突然辞めると言い出した。

「そんなら寿しの卸を受け継ぐわ」と独立。

「家紋が丸に桔梗やで、そこから梗の字を。松倉城の人柱になった、小糸坂の小糸さんから一字。妻とたった二人で始めるんやで、1本より2本で紙縒(こよ)った方が強いで、糸の字を絲(し)に代えて梗絲やさ」。

毎朝早くから、夫婦で寿し作りに明け暮れた。

だが軌道に乗ると、新たな商品構想が頭をかすめる。

「汐ぶりとカブを朴葉で包み、何か新しいもんが出来んもんやろかと。子供背負って、お稲荷さん握りながら考えとったんやさ。そしたら、ご飯類のお土産が少ないことに気付いて。さっそく試作して子供に食べさせたら、これがまたえらい受けて」。

それがぶり寿し誕生の瞬間だった。

その後、商品化に向け改良が加えられ、平成9年に店頭販売を開始。

ぶり寿しはまず、ぶりの塩抜きに始まる。

半日水に晒し臭みを抜き、2㍉ほどの厚さに切り、酢通しで一晩。

「ぶりの色飛びを防ぐためにな」。

翌日、丸のまま甘酢に漬け込まれた無着色のカブを、1㍉ほどの厚さに横切りし、押し型に敷き詰め、その上に汐ぶり、生姜の千切り、舎利の順で押す寿しに。

塩漬けした朴葉を広げ、揉みしだき香りを立たせ、ぶり寿しを包(くる)めば完成。

飛騨の味覚が競い咲く。

ほんのり甘く、酸っぱいぶり寿し。

雪深い飛騨人の、温かくやさしい味がする。

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「天職一芸~あの日のPoem 338」

今日の「天職人」は、三重県松阪市中町の「呂色(ろいろ)位牌商」。(平成21年9月23日毎日新聞掲載)

野辺一輪の花を摘み 飯事(ままごと)道具掻き回し       君が水汲む欠け湯呑み 野の花活けてご満悦           仏壇前に正座して 「ジイジこの花綺麗やろ」          君は小さな手を合わす 父の漆のお位牌に

三重県松阪市中町で、会津塗の呂色位牌を扱う、明治三十九(一九〇六)年創業の佛英堂。四代目主の野呂英史さんを訪ねた。

何処までも限りなく深い、呂色仕立ての漆黒。

会津塗の位牌を見つめていると、まるで魂までもが吸い込まれる気になる。

職人が指紋をすり減らし、鏡のように磨き上げた光沢。

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漆黒の闇の中に、在りし日の父母の顔が浮かぶ。

もしかしたらこの闇は、あの世へと通ずる心の入り口なのだろうか。

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「塗師の手ごこしい(手の込んだ)、見事な仕事振りですやろ」。

「近江の日野城主、蒲生氏郷は秀吉から伊勢松ヶ島十二万石を与えられ、天正16(1588)年に松坂城(現・松阪城)を築城し、日野から多くの職人を連れて来たんやさ。ところが2年後、今度は陸奥黒川城主として42万石の大領を与えられ、会津へと国替えやさ。それで職人や商人らが、皆連れてかれて。そん中で塗師の技が花開いて、今の会津塗として受け継がれたんやさ」。

英史さんは昭和30(1955)年、2人兄妹の長男として誕生。

大学を出ると京都で、お鈴(りん)などの鳴り物を専門とする仏具の製造元に勤めた。

「まあ修業も兼ねてやけど。お鈴も鈴虫鈴とか、都鈴とかあって、銅や亜鉛、それに錫の配合や形状で、鈴の音もちごてくるんやで」。

それから2年、仏具の営業や運搬に明け暮れ、昭和54年に帰郷し家業に入った。

「まだそんな頃は、ようけ職人がおりましてな。この地特有の初盆棚を、こつこつと作りよった時代でしたんさ。初盆棚とは須弥壇(しゅみだん)を模り、白木の杉や檜で拵えた三段重ねのものなんさ。それでお盆が来ると、窓辺に提灯吊るして『ここに帰って来てや』ゆうて、亡くなった方をお迎えするんですに」。

以来、郷土に根付いた仏事を通し、先祖供養を陰で支え続ける。

昭和58年、絵画教室で出逢った雅子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「絵が好きでしてなあ。私が油絵習いに行っとった教室に、後から妻が来るようんなって」。英史さんは照れ臭げに、店の奥を盗み見ながら笑った。

「お仏壇や仏様ももちろん大事やけど、それ以上にお位牌が一番肝心。ご先祖様の戒名を刻み込んだ、ご先祖様そのものなんやで。せやでこの地とも縁の深い、会津塗りのお位牌をお薦めしとるんやさ。会津塗りの中でも、呂色仕上げが最上級。これはまず、朴の木の下地に胡粉(ごふん)を真っ白に塗り、塗面を炭で磨き、油分を含んでない呂色漆を塗っては磨き、塗っては磨きを何10回と繰り返すんやさ。角粉(つのこ)ゆうてな、鹿の角を焼いた磨き粉と油を付け、職人の指先で磨き上げるんさ。だから呂色仕上げの職人は、指紋が消えてもうてあれへんのやに」。

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英史さんは、先祖の縁(えにし)を誇らしそうに語った。

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今日は彼岸の中日。

だが忙しさにかまけ、父母の墓前に花を手向けることも叶わず仕舞い。

せめて心の中の、父母の位牌に合掌。

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「天職一芸~あの日のPoem 337」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市八軒町の「紙絵馬師」。(平成21年9月16日毎日新聞掲載)

飛騨の盆地に蝉時雨 短い夏を競い鳴く             盆も間近の茹だるころ 松倉山へ一詣              観音様の境内にゃ 縁起紙絵馬市が立ち             商売繁盛みな健康 跳ね飛ぶ駒に願立てる

岐阜県高山市八軒町、松倉絵馬総版元の池本屋。六代目紙絵馬師の池本幸司さんを訪ねた。

「ぼくの書いた馬は、先代のに比べたらまんだ生きてない。やっと皆に認められるようになったのは、刷毛で描く鬣(たてがみ)。馬が颯爽と走っとるように、鬣が風に靡(なび)かないかんのです。昔はよう『この馬鬘(かつら)被っとんのか?』って、笑われましたわ」。幸司さんは、そう言うと一息で和紙に筆を走らせた。

池本屋の創業は、文政年間(1818~29)の後期。

高山市の西、松倉山の中腹にある馬頭観音を本尊とする松倉観音堂には、毎年8月9日と10日の両日絵馬市が立つ。

人々は、和紙に描かれた紙絵馬を、家内安全や商売繁盛祈願の縁起物として、我先にと買い求める。

「江戸末期ころは、牛馬を牽いて危険な山道を登り、牛馬の安全や養蚕満足を願い、観音様詣をしとったらしい。だから途中、牛馬ごとよう崖から落ちて。それを初代池本屋長助が見かね、紙絵馬で代参することを思い立ったらしいんやさ」。

幸司さんは昭和46(1971)年、2人姉弟の跡取り息子として誕生。

高校を出て名古屋の専門学校で学び、20歳の年に帰郷。

プロパンガスの配送や、駄菓子製造に携わり平成9年に家業へ。

「しばらくは、社会勉強のつもりやったんやさ」。

父を師と仰ぎ、描いては捨て描いては捨てを繰り返した。

「先代は一枚の素描(すがき)にわずかたったの2分。それでもどの馬見ても、生き生きと走っとるんやさ。だから先代の手先を盗み見て、筆づかいを覚え込んだり、上絵の色づかいを真似てみたり」。

幸司さんの試行錯誤は続いた。

世襲という重き荷物を背負い、いつかは先代を超えるのが宿命と、自らに言い聞かせながら。

池本屋の紙絵馬は、手描きと木版の2種。

道具は4種類の筆に墨汁と刷毛、そして顔料に馬楝(ばれん)。

手描きの場合は、まず素描の上に色付けし、さらに上絵を施す。

木版摺りの場合は、版木に刷毛で墨を塗り、最初に新聞紙の油を吸着させてから、県内産の和紙をあてがい馬楝で摺り上げる。

いずれも最後に、代参でご祈祷を済ませた、馬頭観世音菩薩のご朱印を押印し、それで完了。

年間を通じ2000枚が描かれ、その内の半分に当る1000枚が絵馬市に用いられる。

平成14年、優子さんと結ばれ、翌年跡取り息子が誕生。

だがその代償は、余りにも大きかった。

「息子が産声を上げる10日前に、先代は息を引き取りまして」。

誰よりも孫の誕生を、希(こいねが)ったはずの先代の願いは、無常にも聞き入れられなかった。

「でもこの子の性格が、先代の生き写しみたいに、そっくりなんやさ」。

幸司さんは、まだあどけなさの残る、将来の七代目をこっそり見つめた。

「今でも毎日が修業やもんで、先代に追い付くにはまだまだやわ」。

間もなく飛騨の盆地に、馬肥ゆる秋が訪れる。

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「天職一芸~あの日のPoem 336」

今日の「天職人」は、名古屋市緑区の「紋次郎いか職人」。(平成21年9月9日毎日新聞掲載)

笊を被って三度笠 風呂敷からげ棒の剣             父のつまみの烏賊ゲソを 竹串抜いて斜に咥え          母に買い物言い付かり ドラマを気取り紋次郎           関わりねぇ」と真似てみりゃ  お調子者!」と大目玉

名古屋市緑区の一十珍海堂、二代目の山下秀彦さんを訪ねた。

子どもの頃の手っ取り早い駄賃稼ぎと言えば、ビールの空き瓶を酒屋に持ち込み、小銭を返金してもらうことだった。

確か、大瓶1本で5円ほど。

母からビール瓶を受け取ると、竹製の買い物籠に詰め込み、近くの酒屋を目指したものだ。

すると酒屋のおばちゃんも心得たもので、「ボク、お母さんのお手伝いか?こんな重いもん、よう一人で持って来たなあ」と。

瓶代にラムネ菓子を一つ添え、「ボクこれ、お駄賃やでな」と、おばちゃんはそう言いながら、坊ちゃん刈りの頭を撫で回した。

夕暮れの酒屋の片隅では、すっかり赤ら顔した大人たちがコップ酒を煽り、長い竹串に刺さったイカゲソに噛り付いていた。

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その名も「紋次郎いか」。

昭和47(1972)年に大ヒットしたテレビドラマ「木枯らし紋次郎」の、長楊枝をヒントに、イカゲソの煮付けを串刺しにした、大ヒット商品である。

だから立ち飲みの大人たちも、食べ終えた長楊枝を斜に咥え、「あっしには、関わりのねぇこって」と、名台詞を真似たものだ。

そして勘定の段になるとそう嘯(うそぶ)き、周りの失笑を買った。

一世を風靡した紋次郎いかは、今も当時と変わらぬ1本20円のまま。

ただ時間だけが、いつしか37年もの月日を刻んだ。

「家業に戻って2年目でしたわ。テレビで紋次郎がブームになった頃で。工場にはイカの足だけ余っとるし、そんなら紋次郎にあやかって、長楊枝にゲソ刺して『紋次郎いか』と銘打って、売り出したろまい。きっと当るぞって。直ぐに商標も登録して。でも最初の3ヶ月ぐらいはぜんぜん売れんかってね。やっと4ヶ月目にボツボツ売れ出して。やれやれと思っとるうちに、年間1億本も売れる大ヒットだわ」。秀彦さんは、そう若き日を振り返った。

秀彦さんは昭和21年、4人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、東京築地で塩乾物の中卸問屋に住み込み、2年間の修行生活を送った。

「まだ在学中だった昭和42年だわ。知多でちりめんなんかを専門に扱う、塩乾問屋に勤めていた父が、一念発起で独立してこの店始めたもんで。やがては長男だで、後継がなかんし」。

昭和45年に修業を終え家業へ。

それから2年、「紋次郎いか」のアイデアが閃いた。

「昭和49年には大小20社ほどが、商標の『紋次郎いか』を、勝手に使う人気ぶりだわ」。何とも誇らしげだ。

紋次郎いか作りは、全国各地から真イカのゲソを仕入れ、天日に干すことに始まる。

次に10本の足を3・3・4本に切り分け、15㌢の竹串に軟骨の部分から刺す。

そして醤油・砂糖・味醂・甘味料に七味を加え、一煮立ちさせれば出来上がり。

紋次郎いかをあてに、立ち飲みのコップ酒。

それは、昭和に反映を築いた男たちの、明日へのささやかな贅沢だった。

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「天職一芸~あの日のPoem 335」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野の「伊賀餅匠」。(平成21年9月2日毎日新聞掲載)

腰の手拭い頬っ被(かむ)り 玩具の刀背に絡げ         王冠潰し手裏剣に いざ行け!少年伊賀忍者           遊び疲れて小腹空きゃ 抜き足差し足忍び足           水屋の中の伊賀餅を ちょいと摘んでドロロンパ

三重県伊賀市上野小玉町のかぎや餅店、十七代目の主、森啓太郎さんを訪ねた。

シャカシャカシャカ。

店の奥から何やら涼しげな音がする。

鋳物製のいかついかき氷機が、綿飴のような純白の氷を、規則正しく削り出していた。

透き通った半貫目の氷柱が動力で回り、取っ手を握った男は、微妙な力加減で、刃に当る氷を巧みに操る。

「このかき氷機も、もう55歳やで、じきに定年やさ」。啓太郎さんは、真っ白なかき氷の上に自家製の餡と白玉を載せ、抹茶のシロップをそっと落とした。

創業は遥か300有余年前とか。

「もともとは団子屋でしてな、伊賀餅は創業当時から伊賀の名物やったんさ」。

啓太郎さんは昭和10(1935)年、一人息子として生を受けた。

だがヨチヨチ歩きを始めたばかりの翌年、両親は流行り病に倒れこの世を去った。

さぞや無念であったろう。

「この町だけで10人のよう亡くなって。わずか1歳のことやったで、両親の顔も2枚きりの写真でしか、見たことも無いんやで。ましてや抱いてもうた記憶なんてなあ」。啓太郎さんの眼(まなこ)が、かすかに潤んだ。

その後、祖母と叔父叔母が暖簾を守り、幼い啓太郎さんの養育にあたった。

だが、日増しに戦火は拡大の一途へ。

ついには、唯一の男手であった叔父さえ招集に取られるはめに。

やがては物資も統制で底を尽き、半ば開店休業状態の日々が続いた。

昭和20年8月、玉音放送に涙しながらも、多くの庶民はそっと胸を撫で下ろしたことだろう。

戦後しばらくし、シベリア抑留から解放され、叔父が無事に復員。

女たちが必死で守り抜いた暖簾が、軒に揺れた。

昭和28年、啓太郎さんは高校を出ると、叔父に付き家業の菓子作りに打ち込んだ。

「将来あんな職業に就きたいとか、こんなことがしたいなんて、思いを巡らせたこともない。とにかくはよ家業継いで、世話かけた皆に少しでも恩返しせんとって、そればっかりやったんさ」。

昭和も30年代に入ると、庶民の暮らし向きも上向いた。

「昭和が終わりを迎えるまでの間は、そりゃあ忙して忙して。暮れに正月の餅搗き終わって、ちょっと休めるだけで、後は年中ほとんど無休。昔からよう皆に言われるんさ。『仕事、趣味とちゃうんか?』と」。

昭和40年、小学校の同級生だった淑恵(としえ)さんと結ばれ、一男一女を授かった。

300年続く庶民の味、伊賀餅作りは、上新粉と餅粉を、熱湯で耳朶ほどの固さにし、20分蒸し5分搗くことに始まる。

そして手で白玉に漉し餡を包み込み、食紅で着色した生米を5~6粒載せ、もう1度5分蒸し上げれば完了。

「もう歳往(としい)ってもてボロ雑巾みたいやけど、お客が待っとってくれるで気張らんと」。

老職人を支え続けた暖簾。

それは、幼い日に引き裂かれた、父母の記憶に繋がる、たった一つの忘れ形見だった。

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「天職一芸~あの日のPoem 334」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「小屋名(こやな)しょうけ職人」。(平成21年8月26日毎日新聞掲載)

刈入れ終えりゃ飛騨も秋 氏神様の境内にゃ           秋の実りの供物提げ 氏子が集う村祭              母は炊き出し当番で  んてこ舞いで下準備            ぼくも井戸水汲み上げて 母としょうけで米を研ぐ

岐阜県高山市久々野町小屋名の小屋名しょうけ職人の、森久治さんを訪ねた。

小屋名しょうけとは、小屋名に伝わる竹笊(たけざる)だ。

江戸末期、越前(福井県)へと出稼ぎに出た村人が、その作り方を持ち帰ったのが始まり。

かつては升受(しょううけ)と呼ばれたが、いつしかしょうけと訛り、今に伝わった。

村の先達が工夫を重ね、後の世に伝え遺した、美しく素朴な編み目の手仕事ぶりは、今も確かに息づいている。

農閑期の囲炉裏端、暖を囲み秋の夜長に、家族揃って編み手を動かしたことだろう。

素朴なしょうけを見つめていると、囲炉裏を囲む家族の笑い声が聞こえるようだ。

「90年前には65戸で、3200個も生産されとったんやけど、時代が急激に変わって需要も落ち込み、作り手も減り続ける一方やったんやさ」。

久治さんは、13年前に保存会を発足させ、今もしょうけ作りを守り続けている。

写真は参考

「ちょっとそこの勇吉んとこまで行きましょうに」。

青々と成長した稲田の畦道を、久治さんの後に続いた。

「ただなあ、暇つぶって(暇つぶしに)材料やわっとる(準備する)んやさ。せやけんどなぁ、昔は売れて売れてしょうなて、冬なんか夜鍋仕事やさ」。長瀬勇吉さんは、蔦漆(つたうるし)の枝を払い落としながらやさしい顔で笑った。

写真は参考

勇吉さんは昭和11(1936)年、3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると建具師を目指し修業へ。

4年後には修業を終え、自宅で農業の傍ら建具の仕事を始めた。

だがそれからわずか3年後。

「母が死んで、飯炊きがいるぞってことになったんやさ」。

昭和33年、幼馴染の絹枝さん(故人)と結ばれ、二男一女を授かった。

「貧しい時代やったで、結婚式なんてあげられんかった」。

その後昭和40年には、近隣の工務店に勤務し、平成8年に定年を迎えるまで家族を支え抜いた。

「退職した年やったわ。森さんが、しょうけの保存会始めるって言うもんやで。でも不思議と、子どもの頃に教え込まれたしょうけ作りを、この体が覚えとったんやねぇ」。

写真は参考

勇吉さんは、1つ年上の久治さんを見つめ、互いに無言で頷き合った。

幼い日、虫を追い野山を駆け回った、腕白少年のままの瞳で。

小屋名しょうけは、表皮を剥いだ蔦漆を火で炙り、輪にして針金で止め釘打ちし、日陰干しすることに始まる。

次に、古くなった鎌や鉈で作った、竹挽きの道具で篠竹(すずたけ)を4~5ツ割りにして縦竹を作る。

同様に横竹は篠竹を8~9ツ割に。

そして縦竹4本に横竹1本の割合で、交互に胴の笊編みへ。

横竹は3本毎に縁で折り返して編み込む。

胴の両脇に当る尻は、中胴が窪んで半球になるように形を整え、締め上げながら編み上げる。

そして仕上げに1週間ほど水に浸し、皮を剥いだ4ツ割のマタタビで、縁を矢筈(やはず)の8の字に巻き上げ完成。

丸2日を要する。

「時間と手間ばっかで、いくらにもならん。でもこのままやと、今に絶えてまうで」。

かつての腕白少年は、互いに皺深い顔を見つめながら笑い合った。

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