「天職一芸~あの日のPoem 353」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「和蝋燭職人」。(平成22年1月13日毎日新聞掲載)

川面浮かべた灯篭は 初雪よりも穢れない                    芽生えた恋の渡し舟 三寺(さんてら)まいり雪の宵                     瀬戸川揺れる恋灯かり 二人屈んで手を合わす                  千の灯かりと千の恋 飛騨古川は雪の中

ぼくの曲にも「三寺まいり」がございます。ご拝聴いただければ幸いです。

岐阜県飛騨市古川町で明和年間(1764―72)創業の三嶋和蝋燭店、七代目主の三嶋順二さんを訪ねた。

小さな灯明が瀬戸川沿いに揺れ、穢れなき真っ白な雪が、娘たちの晴れ着の肩へとそっと舞い降りる。

「嫁を見立ての三寺まいり」とまで小唄に詠われる、飛騨市古川町に300年以上前から続く三寺まいり。

今年も15日の夜に恋の灯明が灯る。

「本当は、親鸞聖人を偲ぶ仏事なんやに。それが明治・大正の頃からやさ。野麦峠越えて信州へ糸引きの出稼ぎに行った、年頃の娘たちが里帰りして、着飾って瀬戸川縁を歩いて参拝するようになってな。それでいくつもの恋が芽生え、小唄にまで詠われるようになったんやさ」。

作業場には、七輪で熱せられた大鍋から、白蝋の淡い匂いが立ち込める。

順二さんは昭和21(1946)年、4人兄弟の次男坊として誕生。

「戦後になると急速に家庭から和蝋燭が消え、西洋電灯に取って代わられて。父は自分の代で、店仕舞うつもりやったんやさ」。

だが高校2年の年だった。

「NHKの日本の伝統っていう番組で取り上げられて。日本から和蝋燭が消えてしまうから、資料に残したいと。そりゃあ父は複雑な思いやったやろな。でもそれが放送されると、全国各地から家を訪ねて来るようになって。それで父も辞めるに辞められず。だからそれからも細々と家業を守っとったんやさ」。

順二さんは高校を出ると、地元の製薬会社に入社。

製造に携わり10年が過ぎようとしていた。

「そろそろ手伝いせんと」。

昭和48年、会社を辞し家業に入った。

「子どもの頃から、父の手捌きを見てはおりましたが、見るとするでは大違い。完全に体が覚え込むまで、15年ほどかかりましたわ」。

店の入り口左手が作業場。

2㍍4方ほどの小間が2つ並んでいる。

「左が父、右の奥が私。平成12年に父が亡くなるまで、親子で並んで()(がけ)してましたんやさ」。

昭和52年、隣町から洋子さんを妻に迎え、二男二女が誕生。

八代目はと問うた。

「一番下の息子が小学生の頃『俺が継ぐぞ』と言うとりましたが、どうなることやら」。

三嶋の和蝋燭作りは、毎年秋11~12月に九州・四国・近畿地方のハゼノキから取った実を乾燥させ、それを蒸してから搾り出した白蝋を、大鍋で溶かすことに始まる。

70~80度に熱せられた蝋液を臼に移し、擂粉木で1時間ほど練り上げる。

次に竹串の先に和紙と藺草の灯心を巻き付け、上から真綿を巻いて止め、蝋液の中を11~2回潜らせ1回で1㍉ずつ太さを出す。

そして先端部分を炭火で暖めた庖丁で切り落とし、芯を出して竹串を抜き取る。

最後に朱の顔料を混ぜた赤い蝋液を生掛すれば完成。

「和蝋燭の仄かな灯りは生きものやさ。家族の笑い声に合わせて揺れるんやで。まるでご先祖様が笑ろとるみたいにな」。

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「天職一芸~あの日のPoem 352」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「鮮魚列車行商人」。(平成22年1月6日毎日新聞掲載)

夜の(とばり)も明けぬのに 天秤棒で荷を担ぎ                     伊勢の鮮魚の振り売りへ ヨッコラ上る()(せん)(きょう)                 凍てたホームに白い息 行商たちが身を寄せる                  馴染み客待つ上方へ 鮮魚列車は走り出す

三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=を訪ねた。

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「おはよ」。

「今日はまたえらい冷えよるわ」。

「せやなあ」。

午前五時過ぎ。

近鉄松阪駅の東口に、鮮魚の行商人たちが集まり出す。

伊勢湾でその日上がったばかりの鮮魚を、思い思いに携えながら。

通勤通学客と別のホームには、やがて宇治山田と大阪上本町とを結ぶ、貸切専用列車が滑り込んで来るのだ。

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先頭車両の行灯に「鮮魚」の二文字を燈し。

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その列車こそが、時刻表には載らない「鮮魚列車」だ。

伊勢湾の鮮魚を、行商人が奈良や大阪へと運ぶため、昭和38(1963)年から近畿日本鉄道で運行される、伊勢志摩魚行商組合連合会の貸切専用列車である。

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「昔はアサリがようけ獲れよってな、2日活かしといて砂抜くんやさ。そして天秤棒担いで、この鮮魚列車で京都や奈良へ、振り売りに歩くんやで。まだアサリでも枡の量り売りの時代やさ。わたしら結納交わした翌日から、夫に連れられ行商始めたんやで、もうじき半世紀や」。三重県松阪市、鮮魚列車行商人の東田里子さん=仮名=は、ホームで白い息を吐きながら笑った。

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里子さんは漁師の家で、昭和19年に4人姉弟の長女として誕生。

中学を出ると海苔の加工会社に勤務。

昭和38年、(かね)(つぐ)さん=仮名=と結ばれ、一男一女を授かった。

ちょうど東京五輪の前年、鮮魚列車が専用扱いとなった年のことだ。

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「元々夫は漁師やったけど、手が遅いもんで間に合わんのやさ。そやで結婚した時にはもう(おか)に上がっとった」。

京都駅からバスを乗り継ぎ、各地を転々としながら商いを続け、やがて大阪へと辿り着いた。

「ここがええって、居座ったんは東淀川区の辺やわ。小さな商店街の軒先借してもうてな。せやけど最初の客掴むまでは、そりゃあ大変やった。その内に『あそこの姉ちゃんとこの伊勢の魚は、鮮度もええし脂が乗って旨い』って評判になってな。確かに伊勢の魚は、地がええで。鳥羽の方は海も荒れるし汐が辛い。それに魚の種類も違うんやさ」。

夏はアサリに冬は海苔。

神々住まう伊勢の海産物を背に、夫婦は毎日上方へと通い詰めた。

「昔の専用列車じゃない頃は、一般の人らと一緒の乗り合いやったで、魚臭いとかよう苦情が来たらしい。そんな頃は、まだ行商人もようけおったんやさ。でも今しはもう売れやんで、行商行くもんも少ななってきたし」。

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鮮魚列車の運行開始時から、はやかれこれ半世紀。

雨の日も風の日も、夫婦二人で鮮魚を携え大阪へと通う日々。

「今しも、喧嘩しいしいやけどな。ほんでも行商のお陰で、子どもら2人育て上げられたんやで」。そう笑い飛ばしながら、鮮魚の荷に手を掛けた。

すると電車がピタリと滑り込む。

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けっして時計を見たり、案内放送が聞こえた訳ではない。

半世紀に及ぶ行商人生と、苦楽を共にした鮮魚列車。

駅に近付く軌道音と気配が、いつしか体に染み込んでいるようだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 351」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市丹生川町の「飛騨の汐ブリ職人」。(平成21年12月23日掲載)

今年の暮れは帰れぬと 母に侘びたる赤電話                  「ご飯は三度食べとるか 風邪ひかぬよに」母の声                晦日に着いた小包に 厚い切り身の汐ブリが                   火鉢で炙り湯呑み酒 遠き寺から除夜の鐘

岐阜県高山市丹生川町、遠州水産の汐ブリ職人、内山友男さんを訪ねた。

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「家は農家やったんやけど、両親共に障害があって貧乏やった。子どもの頃、3杯飯は(あわ)(ひえ)でさえ食えんかったんやで。腹減ると川魚捕まえたり、ヤマモモ取ったり。いっつも腹空かしとったわ」。友男さんは、窓から山並みを見つめ懐かしそうにつぶやいた。

友男さんは昭和24(1949)年、静岡県の引佐(いなさ)町(現・浜松市)で誕生。

中学を出ると地元の温泉旅館でアルバイトの傍ら、定時制高校へ。

卒業と同時に、板前を志し熱海へと向った。

「行くには行ったけど、本当は板前よりも、活魚がやりたくってな」。

その思いが拭いきれず、一晩で郷里へと舞い戻った。

「いつまでもブラブラしとれんで」。

しかたなく地元の自動車メーカーに入社。

それから5年が過ぎた。

「従兄弟の結婚式があって、嫁さんの同級生で、丹生川出身の今の女房と気が合ったんやさ。そしたらその内女房が『3人姉妹の長女やで、養子取らんと…』って言うもんで、冗談で『だったら俺行こか?』って。浜松駅まで送った帰り道。辻占に手相見せたら『水が渇かぬ山のある場所へ行け』と言われて。1年間遠距離恋愛を続けたけど、結局女房の両親に反対されて」。

昭和四十九年、駆け落ちの末、高山市の中心部で恵美子さんと所帯を持ち二男を授かった。

「近くのスーパーに入って、そこで鮮魚を扱うようになったんやさ。でも給料が安かってな」。

恵美子さんも印鑑のセールスで家計を支えた。

ところが新婚1年が過ぎた頃、友男さんの浮気が発覚。

「相手の娘に車貸したら、女房の知り合いに見られてもうて。女房のお祖母ちゃんから『養子縁組解消や』って。それでまた昔の旧姓に戻ったんやさ」。

勤め先のスーパーを辞して三日後、今度は隣町のスーパーから声が掛かった。

「土木作業の現場監督と、スーパーを掛け持ちで働いたんやて。心入れ替えて」。

それから1年。

誰も待つはずのない、真っ暗なアパートの部屋に、なぜか明かりが灯っていた。

「せっかく別れたのに、別のを貰う前に、これが子ども連れて戻ってきたらあ」。

すると恵美子さんが、傍らから口を挟んだ。

「そうや、嫌なら出て行くろうって」。

夫婦で顔を見合わせ大笑い。

押し寄せた荒波を乗り越え、晴れて本物の夫婦(めおと)となったと言わんばかりに。

飛騨の大晦日の食卓に、無くてはならぬ汐ブリ。

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まず富山湾で水揚げされた天然ブリを三枚に下ろし、一晩水に晒し脂抜き。

翌日水気を切り岩塩をすり込み、真空パックにしてマイナス50度で一気に冷凍。

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「こうすると塩が利き過ぎんのやさ。そして解凍し始めると、そこから身の中に塩が染み入るんやわ。海の塩は、塩辛くなり過ぎるであかん」。

大晦日までに約1㌧の汐ブリが出荷される。

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焼いた汐ブリに大根卸のポン酢醤油。

熱燗を煽れば、山深い飛騨の里に除夜の鐘が鳴り響く。

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「天職一芸~あの日のPoem 350」

今日の「天職人」は、愛知県小坂井町の「()(たり)神社の風車職人」。(平成21年12月16日毎日新聞掲載)

銀杏並木の葉を掃い 北風枝を震わせる                     ()(たり)神社の風車 子らは風待ち駆け回る                     俵型した羽根回し 小槌を振れば小豆鳴る                   忠実(まめ)な暮らしに豊作を 祈りを運べ風車

愛知県小坂井町の加藤ゆきやすさんを訪ねた。

子どものころ風車を手に、冬枯れた田んぼの畦道を、白い息を吐き、北風に向ってどこまでも駆け続けた。

誰の風車が一番良く回るか、そんな他愛も無い理由で。

愚鈍なほどに純朴だったあの日。

いつからだろう。子どもたちが、畦道という絶好の遊び場まで放棄してしまったのは。

だからもう、そんな昭和の冬景色にはお目にかかれない。

ところでこの風車はどうしたものだ。

妙に見慣れぬ形である。

まるでアイスキャンディーの棒が、三本交差したような羽根で、しかも柄を振ると、デンデン太鼓のような音がする。

「ここらあ小坂井町の()(たり)神社の風車は、羽根も木製だもんで、紙の風車ほどは回らんだあ。もともとは『風まつり(4月第2土・日)』の縁日に並ぶ縁起物。俵型した6枚の羽根に、一反の田んぼで六俵の米が採れるようにと豊作を願い、『六俵』を『無病』にかけて健康を祈っただ。そいでもって心棒の先っちょにガラガラ付けて、そいつを、打ち出の小槌に見たてるだ。中には小豆が入れたるもんで、忠実(まめ)に暮らせて仕事や金が、風車みたいによう回って、商売も繁盛しますようにってこったわ。ちょっと欲どしいか?」。()()さんは、経木を切る手を止めた。

之康さんは昭和14(1939)年、6人兄妹の長男として誕生。

高校を出ると乳製品製造会社に勤務。

「元々技術系が好きで、洗瓶機や検瓶機の修理が主な仕事だっただ」。

しかし勤続20年を目前に退職。

「人が出来ん仕事をしよと思っただわ」。

設備屋として独立し、ミクロの精密度が要求される、変電所の設備工事等を手掛けることに。

5人の妹を嫁に送り出し、昭和50年に近在から妻を迎えた。

だがものの4年で破局。

「縁がなかっただわ」。

おぼろげな視点のまま遠くを見つめ、微かに目を細めた。

しかしそれ以来、年老いた両親の面倒を、男手一つで最期まで看続け、平成17年に66歳で設備屋の看板を下ろした。

「仕事辞める10年ほど前から風車作りを始めただ。風車の職人が、たったの1人きりになっただもんで」。

手先の器用さは天下一品。

今さら習わずとも、子どもの頃の記憶と現物の見本で十分。

「縁の下で作る文化と、買って楽しむ文化の両方を残さなかんだわ」。

まずヒノキの経木から6枚の羽根板を切り出し、止め木に貼る。

次に中心部に太い群青色の円と、外側に緑色の円を二本描く。

俵の端は赤く、縦に藁縄の縄目を群青で描き、柄の取り付け。

そして小槌は、経木を円柱状に丸め、小豆を入れ和紙で蓋留め。

「米だと虫が喰うもんだで」。

最期に小槌を、柄の裏側に取り付ければ、素朴な風車が完成。

今より確かな明日への希望を、何人(なんぴと)もが平等に持ち得た昭和。

風車よ、回れ!

市井(しせい)の民の祈りと願いを、天に届けと回れ回れ!

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「天職一芸~あの日のPoem 349」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「きんこ芋職人」。(平成21年12月9日毎日新聞掲載)

安乗港に吹き降ろす 冬の西風朝まだき                     (くど)の大鍋湯気を立て 母が芋煮る冬支度                     炊いて蒸らして天日干し 安乗の風に晒されりゃ                 鼈甲色に甘味増す 畑のカラスミきんこ芋

三重県志摩市阿児町の尾崎秋子さんを訪ねた。

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「毎年5月の初めころから芋植え始めるんやさ。せやけど畑仕事してあっついやろ。だから今しも1日に2回、海女に行くんやさ。アワビやサザエにフクダメ(トコブシ)獲って、浜へ上がったら海女の仲間とワーワーゆうてな」。きんこ芋作りの納屋の座敷で、秋子さんは柔和な笑みを湛えながら茶を勧めた。

秋子さんは昭和15(1940)年、4人姉弟の長女として誕生。

中学を出るとアルバイトの傍ら、花嫁修業に勤しんだ。

「ここらで女の仕事いうたら、真珠の貝掃除やら、手掘りで土木作業のてったい(手伝い)くらいなもんやさ」。

青年団で章平さん(故人)と知り合い、21歳で嫁入り。

「オート三輪に乗せてもうてな。それが縁やさ」。

やがて一男二女を授かった。

昭和56年、子育てにも一段落ついた頃だった。

「旅館もジャンジャン建つしな。スナックだけでも4軒も出来て。そんな頃に兄が仲間と一緒に、港で旅館を始めて。漁師やった夫が釣り客を相手して、私が宿の食事の世話と、スナックの雇われママやさ」。

朝から夜中まで、旅館とスナックの切り盛りに追われた。

「せやけどあんまりしんどいで、翌年から自分でスナックやりかけたんやさ」。

それから3年。

「きんこやっとるお婆さんがおって、『道具もあるで、あんたてっとうてくれやんか』ゆうて」。

それから平成6年にスナックを閉めるまで、お婆さんからきんこ芋作りのいろはを学んだ。

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きんこ芋とは、隼人芋(ニンジンイモ)の天日に干し。

毎年2~3月にかけ、畑の畝に種芋を植え、5月初旬、新芽を挿し木。

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10月半ば頃の収穫を待ち水に浸け、芋こきして灰汁(あく)を抜く。

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「それを鍋に空け、ふどこで(竈)で40~50分炊いて、1時間半~2時間蒸すんやさ」。

次いで蒸籠で水切りし、1㌢ほどの厚さに切り分け、木箱にカラスミのように並べ、網を被せ天日干し。

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「露が降りやんで、風がソヨソヨする夜の方がよう乾くんやさ」。

およそ1週間。安乗の大自然という菓子匠の手で、きんこは美しい色艶を身に纏い、自らの天然の甘さを際立たせる。

「鼈甲色になったらきんこやさ。オレンジ色ではまだ芋臭いで。甘く潤んだ大自然の香りと味には、だあれも敵やせん」。

秋子さんは自慢のきんこを取り分け、大切そうに袋に詰める。

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「これでもこれまでには、色々工夫して来たんやに。芋作りの土の中に、スクモ(籾殻)混ぜてみたり。昔は芋を皮ごと炊いとったのを、今しは皮剥いてから炊くようになったし。薪の火のホトリ一つで、炊き上がりもちごてくるしな。これがガスではあかんのやさ。火力が一定のガスよりも、薪の火みたいにユラユラと斑がある方がええんやで。不思議なもんやさ」。

鼈甲色に日焼けた、安乗の畑のカラスミ。

日差しを浴びて輝くきんこを、秋子さんが愛おしそうに手に取った。

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「天職一芸~あの日のPoem 348」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「流しのギター弾き」。(平成21年12月2日毎日新聞掲載)

裏町小路ネオン花 小雪が風に舞い落ちる                    かじかむ指に息を吐き ギター抱えてもう一軒                  縄の暖簾を掻き分けて 「社長一曲弾きましょか」                箸をマイクに恋の歌 調子外れのご酔狂

岐阜県高山市の流しのケンちゃんこと、渡辺武さんを訪ねた。

ストーブの上で薬缶が音を立てる。

人息で曇った引き戸が開く。

「今晩は」。

青いブレザーと白いスラックス、マドロス帽を被り、ギターを抱えた老人が片手を挙げた。

「いよっケンちゃん!待ってました」。

酔客の掛け声でギターを爪弾く男。

日本中にもうわずか20~30人と言われる貴重な現役流しの一人である。

武さんは昭和11(1936)年、同県恵那市で誕生。

高校を上がると3年間、三重県四日市市の天理教教会で教義の修業へ。

昭和32年、恵那に戻り製紙工場で雑役の仕事に。

しかしそれから、流転の日々が始まった。

ミシンのセールスから土木作業、炭鉱夫にバーテンダー。

「何やっても続かんのやさ」。

26歳の頃だった。

「ある日喫茶店で、3行広告の求人欄読んどったんやさ。そしたら、『衣食住に給料付の歌手募集』てえのが載っとって。これだ!と、さっそく名古屋の流し養成所へ。そしたらギダー持った先輩流しの伴奏で、いきなり歌わされて。ところが見事に合格。『次は会長に挨拶せえ』って連れてかれて。ピアノの前で、古賀先生みたいに座っとるかと想像しとったら大間違い。刺青のモンスケ入れた大親分が、女はべらせ酒くらっとる。しまったあ!と思ったけどもう遅いわ。養成所とは名ばかりの蛸部屋に、ギターやアコーディオンの流しが50人もおって、最初は掃除洗濯の下働きやわ。それでも毎日全国から、3行広告に騙されて、入って来てはすぐにトンズラこいて。半年くらいした頃やったわ。トンズラした男を、大垣まで行って捕まえて来と言われて。捕まえに行くはずのぼくが、トンズラ決めたった」。

そのまま愛知県瀬戸市の飲み屋へ飛び込み、流し家業が始まった。

「あんな頃はギターボロンで、お金もボロンの時代。マイクも無けりゃ小皿叩いてチャンチキオケサやで」。

その後は、ギター片手に全国を渡り歩く日々。

「29歳の頃や。富山から無一文で高山へ着いたんわ」。

ギター抱えて飛び込んだ先の飲み屋で、ナンバーワンホステスと運命の出逢いが待ち受けていた。

勝子(まさこ)さんと夫婦(めおと)となり、やがて一男一女が誕生。

これまで高山に辿り着きはや44年、今でも毎晩20軒の店を巡る。

「子ども大学にやって、家も2軒建てた。ちっこい家やけど。毎晩客の酒に付き合って憂さ聞いて」。

普段は震える指先も、酒を一杯煽りギターを抱えれば、ピタリと治まる。

「ぼ、ぼ、ぼくはどもりやけど、不思議と歌と英語はどもらんのやさ」。

そう言うと、英語の教科書の一節を澱み無く語った。

「散々人から憂さ晴らされたり、どんだけ馬鹿にされても、家へ帰ってからはひとっことも愚痴言わんと、みんな飲み込んどるでねぇ」。妻が誇らしげに夫を見つめた。

流転の末、辿り着いた高山。

ギター片手の渡り鳥は、伴侶と出逢い、渡りを止め、子を成しこの地の(りゅう)(ちょう)となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 347」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市新本町の「菜飯屋」。(平成21年11月25日毎日新聞掲載)

トントントンと菜を刻みゃ グツグツグツと湯気が立つ              まだ明けやらぬ凍てた朝 母の鼻歌白き息                   卓袱台(ちゃぶだい)囲む朝ごはん 御櫃(おひつ)を開けりゃ天井へ                   湯気がぽわんと舞い上がる 菜飯一膳春恋し

愛知県豊橋市新本町、文政年間(1818~30)創業の菜飯田楽のきく宗。六代目の太田勝夫さんを訪ねた。

旧東海道五十三次、三十四番目の吉田宿。

かつては「吉田通れば2階から招く、しかも鹿の子の振袖で」と、講談「大久保彦左衛門」の決まり文句にあるように、飯盛り女が多く東西にその名が知られた。

「もうそんな頃の面影なんて、みんな空襲で焼け出されてまったで、どこにもあれへんらあ」。勝夫さんは、表通りを見渡した。

勝夫さんは昭和16(1941)年に2人兄妹の長男として誕生。

高校を出ると東京銀座の老舗料亭で、住み込みの板場修業へ。

「そんなもん、最初は洗いもんばっか。1年半後に祖父から『手が足りんで戻って来い』と言われた頃、やっと焼き場を任されたんやで」。

豊橋へと戻り、祖父から先祖伝来の味を学ぶ毎日が続いた。

昭和42年、同郷出身の幸枝さんと結ばれ、男子3人が誕生。

江戸期から守り抜いた暖簾も、やがて七代目へと無事に継承されるものと、誰もが疑いもせず30年の年月が過ぎ去って行った。

平成11年、大学を卒業後、七代目として家業を継いでいた長男が急死。

「それこそ突然死で。翌日は友人と、スキーに行く約束までしてあったのに」。

女将の幸枝さんが当時を振り返り、寂しげにつぶやいた。

勝夫さんの虚ろな目が、テーブルの木目を数える。

「だもんで今は、三男坊が八代目を継いどるだわ」。

勝夫さんは、無念さを振り切るように、顔を上げ笑って見せた。

きく宗名代の菜飯作りは、豊橋産の大根の葉を切り分ける作業に始まる。

「まず軸から葉を切り離し、1枚ずつ丁寧に見ながら、虫とか髭を取り除く。そしてそれを湯がいて冷水に浸し、絞ってからもう一度よう見て、白く浮き出とる小さな虫を、念入りに取り除くじゃんね。それから細かく刻んで塩味を付け、お客さんに出す直前で、炊き立てのご飯に混ぜるだあ。そうせんと菜の色も変わってまうで」。

菜飯にあてがう田楽は、国産大豆に本苦りで製造する自家製。

「昔から取引しとった豆腐屋が、跡継ぎがおらんもんで店閉めてまってねぇ。それで1年前から試行錯誤を繰り返して、私が作り始めたじゃんね」。女将が笑った。

「お客さんの注文受けてから、水槽の豆腐を上げて串打って。豆腐だって生きとるらあ。それで10分ほど焼いてから、秘伝の味付けした岡崎八町味噌を塗り、もう1回軽く炙るだ。そしたらもういっぺん味噌を上塗りし、和がらしと木の芽を添えて出来上がり」。勝夫さんが女将を見つめた。

「ありがたいことに、お盆やお正月に帰省されると、古里の味を食べないかんって。お客さんも三代目四代目と、昔から続けて通ってくれとるだでねぇ」。女将は客席を見やった。

街道を行く旅人も時代も移ろえど、きく宗の暖簾と味は初代の志そのままに。

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「天職一芸~あの日のPoem 346」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市上野愛宕町の「じょうせん飴職人」。(平成21年11月18日毎日新聞掲載)

伊賀の飴屋のおっちゃんは きっと忍者に違いない 琥珀色した海鼠(なまこ)飴 折って延ばして白うした こないに硬い飴やのに なしてあないにおっちゃんは グニャリグニャリと飴を引く じょうせん飴の忍び技

三重県伊賀市上野愛宕町で昭和22(1947)年創業の、伊賀名物じょうせん飴の森内栄甘堂えいかんどう。二代目主の森内啓司さんを訪ねた。

「なんや、今は割ってないんか?」。老人は寂しげにぼそりとつぶやいた。

「今しは衛生的やないゆうてな。20年ほど前までは、お客さんが来てから割って、目方で売らしてもうてましたんやが」。啓司さんが、済まなさそうな顔で老人を見つめた。

「目の前でかち割ってもうた、あの歪なとこがええんやけどなあ」。老人は口惜しそうに店を後にした。

啓司さんは昭和24年、4人兄妹の末子として誕生。

工業高校を出ると津市の内装工事会社に勤務。

しかしわずか1年後、父から家業を継ぐよう命ぜられた。

「兄が4年ほど継いどったのに、急に大学へ進学したいと言い出しよって」。

それからは父と共に、家業のいろはを学んだ。

「じょうせん飴の始まりは、戦国時代の文献にも残っとんやさ。伊賀の忍者が飴売りに化けて、太鼓鳴らして子らを集め、諜報活動しながら諸国を売り歩いとったんやに。語源は伝来の地『朝鮮』が訛ったもんらしいて、四国の高松では、『ぎょうせん飴』って呼んどるそうや。まあ、昔ながらの無添加の素朴な飴ですに。作り方のこつは、飴の塊を落さんように引っ張って延ばすだけのこと。それさえ出来りゃあええんやで、半年もしたら一人前でしたわ」。

昭和53年、知人の紹介で秀代さんと結ばれ、二女を授かった。

「飴だけやのうて、饅頭や押し物の落雁。それから丁稚羊羹やカステラと、時代が豊になるに連れ、だんだん商品も増えて大忙しやったもんやさ」。

じょうせん飴は、芋や穀物の澱粉に麦もやしを混ぜ、123℃で炊き上げ、半日煮て琥珀色に色付く、麦芽水飴作りに始まる。

そして銅の器に入れ、水に浮かせ飴の温度を70~80℃まで下げる。

次に竹の皮を敷いた木製容器に移し、小麦澱粉の浮粉を塗しながら手に取り上げる。

作業場の柱に据え付けた、横棒を桛車(かせくるま)の軸に見立て、棒状に延ばした飴を放り投げ、横棒で折り返し両手で手前に引き伸ばす。

そして琥珀色から白色に変わるまで、飴が冷えぬうちに素早く飴引きを繰り返す。

写真は参考

「毛糸の(かせ)()りと同じように、空気を飴の中へ取り込むんやさ」。

後は一口大に切り、浮粉で塗せば1度に1貫目(3.75㎏)の、戦国時代の味と伝わるじょうせん飴が完成。

「普通一般的な飴ゆうたら、90%が砂糖なんやさ。100%砂糖にすると、夏場に砂糖の結晶になってしまいますやろ。それに引き換え家のじょうせん飴は、100%が麦芽水飴で、砂糖は一切つこてません。麦もやしと澱粉を炊くことで、澱粉糖化作用が起きて、自然とあも(甘く)なって麦芽独特の風味も出ますんやに」。

(はな)って引いてまた放つ。

伊賀の飴引き職人は、(いにしえ)人の手仕事の味を、今も頑なに守り抜く。

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「天職一芸~あの日のPoem 345」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市下一之町の「昭和古民具蒐集家」。(平成21年11月11日毎日新聞掲載)

路地裏七輪秋刀魚の香 子らが縄飛ぶ下駄の音                  釣瓶落としの日も暮れりゃ 袋小路にネオン花                  縄の暖簾を分け入れば 鳶の法被と菜っ葉服                   流しがギター爪弾けば 箸で猪口打つがなり声

岐阜県高山市下一之町の古民具蒐集しゅうしゅう家、五味輝一てるいちさんを訪ねた。

一文菓子屋で木戸銭を払い、裏町の薄暗がりへと足を踏み入れた。

するとその途端、枯れた色合いの町並みの向こうから、(むせ)(かえ)るほどに狂おしい昭和の記憶が、津波のように押し寄せる。

「どうです?昭和の宝の山でしょう!でも周りからは、屑屋扱いでしたわ」。

昭和の古民具数10万点が、詩情豊に展示される高山昭和館。

輝一()さんは、目を細めて笑った。

輝一さんは昭和13(1938)年、長野県茅野市で寒天作り農家の長男として誕生。

高校を出ると、同県畜産技術講習所へ。

翌年、畜産技術員として農協に勤務した。

「当時は牛乳の摂取量が少なく、1日で盃1杯も飲めん時代。せめて1人1合は飲めるようにって、北海道へ現金腹に巻いて牛買いに」。

7年後、東京五輪が開幕。

「世界中の大きな体の選手見て『こりゃあかん。これからは、肉の時代が来るわ』と」。

直ぐに辞表を出し、翌年から食肉について学んだ。

「食肉問屋へ無給でいいからと頼み込んで」。

昭和41年、ついに食肉店を開業。

だが、勢力を拡大するスーパーマーケットに太刀打ち出来ず撤退。

既に2年前に父を、昭和42年には祖父と妹を相次ぎ失った。

「もう借金まるけで、田畑を売って昭和43年にドライブインを始めたんですわ」。

翌年、父が入院中に知り合った弘子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「父の入院費が払えんで、分割払いの交渉した事務員が家内ですわ」。

それから10年、インベーダーゲームが日本中を席巻。

「これで見事に一山当ててね」。

それを元手に今度は、昭和55年にビジネスホテルを開業した。

「中学の時、父が寒天組合の事務所で宿直しとったら、夜中に一人のみすぼらしい青年が『お結び下さい』と。それから3日、自転車で3食届けてやったら、お礼にって絵を1枚置いてった。それが山下清との出逢いでした」。

それから清の原画が売りに出る度、次々と購入。

やがて大型スーパーが噂を聞き付け、催事用に清の原画を借りたいと。

放浪の天才画家、山下清展は大成功。

全国各地からも引き合いが続いた。

バブル崩壊を目前にホテルを売却。

全国に散逸する清の原画購入に充てた。

「全国各地を巡る内に、今度は生まれ故郷のような、昭和の古民具を集めるようになって」。

ある時、清の原画と昭和の古民具を併設展示したところ、これが大変な評判を呼んだ。

「8年前にこの昭和館を開業したんですわ。モノの大切さや有難味を、庶民の暮らしの中にあった昭和史を通して、今の若い者らに伝えたくて」。

諸国を巡り、失われ行く昭和の欠片を集め続けた男。

昭和に生を受けた者の、これが最期の務めだと(うそぶ)き笑った。

人それぞれ、悲喜交々の昭和史。

ここに身を置き耳を澄ませば、遠き日の母の声がする。

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「天職一芸~あの日のPoem 344」

今日の「天職人」は、愛知県新城市の「帽子職人」。(平成21年11月4日毎日新聞掲載)

シルクハットに中折れ帽 ウィンドー越に盗み見て                映画スターの台詞真似 一人芝居のラブシーン                  夢も願えば叶うもの きみがヘプバーンぼくペック                汽車で熱海へハネムーン トレビ代わりの大浴場

愛知県新城市で大正十二(一九二三)年創業の帽子製造販売、青木帽子店。二代目帽子職人の青木正巳さんを訪ねた。

写真は参考

鳳来寺山へと続く伊那街道。

新城の街道筋へ足を踏み入れると、継ぎ接ぎだらけの古い町並みが顔を覗かせた。

その並びの一軒。

ショーウィンドウの中には、チロルハットやハンチング、ご婦人用のつば広帽から、学生帽に運動会の紅白帽まで色とりどり。

写真は参考

「そのハンチング、よおお似合いですに」。格子柄が気に入り、ついつい手に取り被った途端、店の中から声がした。何とも人のよさそうな、正巳さんだ。

写真は参考

「昔のハンチングは、頭の天辺からすっぽり被るトップが、今よりもっと大きかっただに。でもあんまり大きいと、日本人の頭には合わん。だもんで体全体と比べると、どうにも頭でっかち。まるで七福神の、大黒様の丸頭巾になってまうで」。

 正巳さんは昭和11年(1936)年、2人姉弟の長男として誕生。

だが中学3年に上がった昭和26年春、父が病に倒れた。

「夏休みは勉強どころか、毎日家業の手伝いばっか。だもんで何か分からんことがあると、父の枕辺へ飛んでって教えを受けながら・・・。洋裁習っとった姉が縫製で、後の作業を母と二人でこなして」。

だが翌年2月、父は還らぬ人となった。

「だで高校行けずに、そのまま家業を継いだだ」。

親方であった父にも縋れず、16歳になったばかりの新米帽子職人は、一人修業を始めた。

かすかな記憶に残る父の仕事振りと、病床で父が言い残した言葉だけを師と仰ぎ。

ちょうど時代は戦後復興が本格的に加速し、砂糖の統制が撤廃され、朝鮮戦争の特需景気に沸いた。

「当時は帽子を洗濯して、型付もやっとったもんで。その傍らミシン掛けの練習して、3年目でようやくハンチングを作っただ」。

自分が気に入った既製品の帽子を買い入れ、それを解いては型取りに明け暮れた。

「帽子は映画の名脇役。洋画がヒットすると、中折れハットやパナマ帽がよう売れただわ」。

写真は参考

日増しに職人としての腕も上がった。

昭和39年、看護師だったアキミさんと結婚。

やがて一男二女を授かった。

「振り返りゃあ、昭和40年代が一番大忙しやっただ。子供らも多かったし、大型ショッピングセンターもまんだ無かったで」。正巳さんは、表通りをぼんやり見つめた。

帽子の製造は、何と言っても裁断が命。

まずハンチングの庇(ひさし)となる芯を、生地に包(くる)み縫い込む。

次に側頭部のコシとトップを縫い合わせ、庇を合体させ、内側にスベリ(汗取りテープ)を縫い付け完成。

「帽子は小さ目のサイズの方が風に飛ばされるだあ。逆に、ちょっと緩めのサイズの方が、飛びにくいし一番ええ。人間も一緒らあ。一杯一杯で張り詰めて生きるより、ちょっとくらい緩い方が楽ちんだて」。

目指すは生涯一職人。

正巳さんはその言葉を繰り返し、半世紀を経た今も、ミシンを踏み続ける。

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