「天職一芸~あの日のPoem 364」

今日の「天職人」は、三重県亀山市関町の「関の戸屋主」。(平成22年3月31日毎日新聞掲載)

ご隠居さんの道楽か 甘い茶菓子を餌に釣り 茶室にぼくを正座させ 講釈垂れて茶の点前 今日の茶菓子の「関の戸」は 何やおはじきみたいやな 一度に二つ頬張れば 無作法(とが)めお説教

三重県亀山市関町、寛永年間(一六二四-四四)創業の銘菓「関の戸」で名高い深川ふかわ屋陸奥大掾だいじょう(京都御所から賜った従二位御用菓子司の称号)、十三代目当主の服部吉右衛門泰彦さんを訪ねた。

 街道の要衝、古代三関の一つ「鈴鹿関」。東海道五十三次四十七番目の宿として、歴史上の人物たちが京へ江戸へと上り下り、時代が駆け抜けていった「関宿」。

時代劇映画の撮影所かと見紛うほどに立派な江戸時代の街並みが、東西の追分間約1.8㌔にも及ぶ。

唯一心残りなのは、地面が舗装されてしまっている点だ。

宿の中程で一際異彩を放つ、お(たな)の2階より突き出した唐破風の被る(いおり)看板。

長い年月に盤面は風化しているが、京へ上る向きに「関の戸」、逆に江戸へと下る向きには「せきのと」と浮かせ彫りが施されている。

「昔からこの辺りの(もん)は、家で関の戸こうたと聞くと『そろそろあそこの爺様が危ないらしいわ』とたちまち噂が流れたようですわ。寛政年間(1789-1801)の記録によると、一口大の関の戸1個が、かけそば1杯の16文と一緒やったそうやで、そりゃあ高価なもんやさ。だから明日をも知れぬ年寄りに、最後だけでもせめて一口食べさせてやりたいと願う、いじらしい気持ちの現われですに」。泰彦さんが、帳場を横切り奥座敷へと導いた。

泰彦さんは昭和11(1936)年、3人兄弟の末子として誕生。

東京の大学を卒業すると、トヨタ自動車に入社し宣伝課へ配属された。

昭和34年、ニッサンがブルーバード、昭和35年にはトヨタから国民車パブリカが発売され、マイカーブームへ。

「時代の最先端を行く仕事でしたから、そりゃあ面白かったですよ」。

ところが肝臓を患い、療養のため帰郷。

「兄2人は家業と別の世界へ行ってましたから、自分の人生をもう一度じっくりと考え直すいい機会でした」。

そして得た結論は、当時1台65万円の車の商いより、関の戸1個15円の小商いだった。

27歳で家業へ。

「所得倍増計画が持て囃され、当時は欧米化へ一辺倒。日本の伝統文化が、どんどん見捨てられてゆく時代。だったらこの田舎の片隅で、江戸の文化を守り抜いて見ようかと。400年近く続いた血には抗えませんから」。

翌年、東京から同級生の摩須枝さんを妻に迎え、二男を授かった。

4世紀に渡り愛でられ続ける銘菓作りは、当主自ら早朝3時に起き出し、小豆鍋の火入れに始まる。

そして餡を漉し、餅粉に砂糖と水飴で煮て求肥に。

求肥がまだ熱い内に包餡し、和三盆をまぶせば、直径約3㌢、厚さ5㍉ほどの「関の戸」が完成。

何とも上品で雅やかな甘さが絶品だ。

「原料の配合や作り方も、寛政時代の記録のままです」。

帳場の横の総螺鈿(らでん)細工を施した、眩いばかりの重箱とそれを覆う荷担箱(にないばこ)

大君から庶民にまで愛され続けたこの店の歴史を、今も見守り続ける。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 363」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「からくり楊枝とり職人」。(平成22年3月24日毎日新聞掲載)

ご隠居さんのご自慢は 世にも不思議な民芸品          子ども相手に得意げに 講釈垂れてご満悦           「これわかるか」と木の箱の 片隅押せばキツツキが       楊枝(ついば)み持ち上げる 飛騨のからくり楊枝とり

岐阜県高山市のきこり工房、からくり楊枝とり職人の瀬川治男さんを訪ねた。

飛騨高山の盆地は、雪解け水に洗われ、清らかな春の訪れを待ち侘びる。

遥か彼方に、峻険な稜線を横たえた霊峰乗鞍。

冠雪と山肌が描いた真冬の雪景は、音も無く日毎その姿を変えてゆく。

飛騨高山の春は、もうすぐそこまでやって来た。

「保育園の頃、いっぺんも見たことも無い富士山の絵を描いたんやさ。そしたら先生やみんなから、えっらい褒められてまって」。治男さんは、窓から山裾に残る根雪を見つめ、懐かしそうに笑った。

治男さんは昭和27(1952)年、お好み焼屋を営む両親の元で、4人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると木工訓練校に夜学で1年通い、木工塗装を学んだ。

「それから通信教育で高校出て名古屋の家具屋へ。塗装やらせてくれるって言うもんやで。でも最初っからはさせてまえんで、2年ほど木工の加工を修行して、23歳になってやっと塗装やさ」。

それから4年、塗装一筋で腕を磨いた。

「それでもまだ納得いかんのやさ」。

昭和54年家具屋を辞し、失業保険で食い繋ぎながら、塗装の訓練校へと通った。

翌年、高山へと帰郷。

「最初はトラックに看板出して、出張で大工仕事やわさ。やれ襖がかたいだとか、棚吊ってくれとか。今で言う便利屋の先駆けやな」。

昭和57年、古民家を改造し、たった1人できこり工房を旗揚げた。

「最初は鶏小屋借りて、周りをビニールで囲っただけの粗末なもんやさ。そしたら音が喧しいって五月蝿がられてまって、古民家に落ちついたんさ」。

だがその翌年、なんの前触れも無く、大きな転機が訪れた。

「問屋の客が『爪楊枝を上手いこと1本取る、そんなからくりできへんか?』ってゆうてきてな。どうせ暇やで、手むずり(手探り)でやったんやさ。それも駄洒落で、楊枝『取り』と『鳥』をひっかけて。最初は『鳥』も鶏やって、でもそれじゃ大き過ぎてまってな」。

やがてこれが実用新案を得、永年土産物品の上位を定位置とする「からくり楊枝とり」になろうなどとは、当時の治男さんにも想像がつかなかった。

翌昭和58年、美智子さんを妻に迎え、二男一女を授かった。

「新婚旅行で北海道へ行ったんやさ。そしたら旅先の宿に電話が入って、近くの飲食店から200個も注文が入ったって」。

それが世に認められた瞬間だった。

その年、観光土産物品の見本市にも出品。

全国津々浦々からの注文を得、月産3500個を家内でフル操業。

翌年には実用新案も取得した。

「からくり楊枝とり」は、右手のレバーを押すと左手の蓋が開き、木箱の上の鳥が前傾姿勢となって、嘴で楊枝を1本咥えるもの。

「究極の仕上げは、鳥の嘴の内側に、滑り止めの加工をするとこやさ」。

町のからくり細工師が、自慢げにこっそりほくそ笑んだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 362」

今日の「天職人」は、愛知県新城市西新町の「大経師(だいきょうじ)」。(平成22年3月17日毎日新聞掲載)

破れ障子のその訳は 姉弟喧嘩のなれの果て           悔し涙が穿つ穴 開いた分だけ泣いた数             障子貼替え大晦日 父は薬缶を口にした             霧吹くはずがボタボタと 口から零れ大騒動

愛知県新城市西新町の京極襖店。大経師の京極善市さんを訪ねた。

「家の先祖は400年以上前に、京の戦乱で『都におったら首斬られる』と、遠州へ落ち延びてやあ。その分家がこの地に根付いたらしいだあ。だって裏には、400年前の蔵が残っとったじゃんね」。善市さんは、店と棟続きの奥を指差した。

400年以上も前の京極姓と言えば、室町時代の()(しき)(しゅう)か?

「それが遠州の過去帳を手繰って見ても、途中で消えてまっとるらあ。それでもここへ移り住んでから、京極姓は本家だけが名乗って、後はみんな改姓してったらしいわ。やっぱり首狙われたらかんでだらあ」。

善市さんは昭和25(1950)年、3人兄弟の長男として誕生。

「母の体が弱くて、小学校3年から高校出るまで、人形店を営む道楽もんの叔父の家に預けられただあ」。

高校出ると豊橋の親戚の表具屋へ。

4年間の修業に就いた。

「道楽もんの叔父の影響か、鮎釣りと狩猟がとにかく好きでやあ。まともな勤め人になったら、鮎釣りも狩猟も思う様に出来んらあ。そんだで職人の道が性分にあっとるだあ」。

そして昭和47年、わずか22歳にして晴れて一本立ち。

己が腕一本だけが頼りの、職人道を歩み始めたのだった。

襖の中でも茶室の(にじ)り口に用いられる坊主襖は、越前や美濃の手漉き和紙で仕上げる、経師冥利に尽きる本物の和襖と言える。

写真は参考

「まあ今時、本物の和紙使う襖なんて、1000軒の内たった1~2軒らあ。みんな和紙に似せた洋紙ばっかだもんで」。

坊主襖は、襖障子の(かまち)と組子に正麩の糊を刷毛塗りし、手漉きの石州(せきしゅう)和紙を両面に下貼り。

写真は参考

次に格子の1箇所に、石州和紙を6~7枚貼り合わせ手掛け部分を作る。

これは格子の1桝だけ、襖を横から見た時に「Z」の文字になるように、格子の右上、つまり襖の裏から表側の左下へと、和紙を斜めに渡して貼り込む。

したがって襖の表面から見ると、手掛けの上部に手が入り、逆に裏面では手掛けの下部に手が入る状態となる。

次いで下張りした和紙の上から、4隅にだけ糊付し、薄い和紙を受け貼りする。

「下地の上に薄手の和紙を受け貼りすると、中に空気の層が出来るらあ。それが湿気を上手い事吸って、湿度と寒暖の差を調整してくれるだ」。

そして最後に美濃の手すき本鳥の子紙を本貼りすれば完成。

最後の仕上げに、薬缶から水を口に含んで、霧吹きでもするかと問うた。

「そんなことしたらかんて。ぼぼけて(弛んで)まうし、乾くと急激に縮んでまって、まあ湿気もすわんくなるだあ」。

経師の道具は「付回(つけまわ)し」「糊刷毛」「水刷毛」「撫で刷毛」のたった4本。

写真は参考
写真は参考
写真は参考
写真は参考

刷毛使い一つに、経師は己が持つ技量の全てを注ぐ。

昭和50年、叔父の人形店で店員だった悦子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「まあこの道40年らあ。そこそこに仕事して、後は鮎と狩猟で愉しまんと」。

平成の大経師は猟犬を抱えた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 361」

今日の「天職人」は、三重県志摩市阿児町の「貝殻細工師」。(平成22年3月10日毎日新聞掲載)

箪笥の上の飾り棚 埃被った置物は               子供の頃の旅土産 母が記念にこうた物             海水浴の思い出が 色鮮やかに浮かび出す            松ぼっくりと巻き貝の 狸に似せた貝細工

三重県志摩市阿児町、貝殻細工の境工芸社。二代目貝殻細工師の境一久さんを訪ねた。

「貝殻細工の原価はただやでな。旅館の客が一杯飲んで、たらふく食うた後の、アワビの残骸とかの廃棄物を利用するんやで」。一久さんが、入り口に積まれた貝殻を指差した。

一久さんは昭和31(1956)年にこの家の長男として誕生。

その9年後に、父が境工芸社を旗揚げた。

「最初の頃は、観光地の土産物屋に並んどったような、貝殻細工やったんさ。木の切り株を土台にして、色んな貝殻を松ぼっくりなんかと組み合わせて、狸や河童に似せた置物にしたり」。

写真は参考

東京五輪も終わり、世はまさに大阪万博の昭和45年に向け、国内旅行ブームの真っ盛り。

海の家から土産物屋まで、手軽なご当地土産として、貝殻細工の置物は人気を博した。

一久さんは商業高校へと進学し、美術部に所属。

「頭がわりかったで」。

高校を出ると、病気がちであった母を案じ、家業に入った。

「最初はアコヤ貝(真珠貝)から、貝細工に使う部分の型取り作業専門。表面のフジツボを取り除き、真珠層が出るまで削ると、運がええと100枚に1枚の割で、一層目に緑色が出る時があるんやさ。二層目には、岩海苔のような焦げ茶色が現れるんやで。そりゃあ貝殻だけが持つ、神秘的な天然の色やさ」。

それから7年。

「貝殻つこて絵を描けんやろかと、ずっと思とったんやさ」。

昭和56年、貝殻細工の工芸額製作へと乗り出した。

「例えば、浜から海を眺めた構図の絵を描くとしよか。そうすると向こうの水平線の波は、一番細かくうねっとるし、手前側の波は大きくうねるよに見えるやろ。せやで絵の中に遠近感を出そうとすると、細かく貝を型取りせなんのやさ。この絵に張り込む貝殻のパーツ作りが、一番手間なんやに」。

昭和61年、地元からまゆみさんを妻に迎え、一女を授かった。

貝殻細工の額作りは、朝から日が沈むまで、貝の型取りに始まる。

そして夕餉を終えてから、下絵に合わせ、水平線の方から細かい貝を張り合わす。

まるで編み込むように絵の下側、つまり手前へと徐々に太く長い貝を張り込んでゆく。

「岬の灯台やら、向こう岸の山とのバランスを確かめながら、さらに全体の色の具合も見やなかん。特に桜貝の裏に彩色すると、表から見るとええ色が出るんやさ」。

とにかく何万点という、膨大な数に及ぶ貝殻のパーツ。

職人は裸電球の灯かりを頼りに、絵の構図に合わせ貝を選り分ける。

そして貝が放つ自然な発色を透かし見、その色が一番生きる場所へと配置する。

「貝殻で描いた額は、正面と左右の三方向から見るんでは、それぞれに色合いもちごてくるんやさ。海の物だからこその、なとも言えやん色合いでな」。

例え貝の命は尽きようと、殻は2つと同じ色の無い天然色を、永久に放ち続ける。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 360」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「()(とう)杓子職人」。(平成22年3月3日毎日新聞掲載)

父の手製の自在鉤 少し歪な木彫り鯉              煮えた鉄鍋田舎汁 椀を抱えて腹鳴らす             木蓋開けば部屋中に 味噌の香りが立ち込める          春まだ遠き飛騨の郷 有道杓子でもう一杯

岐阜県高山市久々野町、有道杓子職人の清水眞さんを訪ねた。

果てしなく続く、漆黒の闇のように高い天井。

黒く煤けた太い梁が縦横に渡り、雪国の古民家をしっかと支える。

炭火の熾る囲炉裏には、祖父母に父母、真っ赤なほっぺの兄弟がいる。

誰もが黙し、鉄鍋に立ち上る湯気を見詰め、木蓋が取り上げられる瞬間をじっと待ち続ける。

つい囲炉裏に座すと、そこで暮らした経験も無い癖に、そんな感傷に浸るのはなぜだろう。

やはり日本人だからか。

「囲炉裏の道具は、自在鉤、炭取り箱、火箸、火消しつぼ、五徳、灰掻き、灰ならし、十能、台十能、火起し器に囲炉裏鍋。それに無くてはならない()(どう)杓子(しゃくし)。と、ここらじゃ昔からそう決まっとんやさ」。眞さんは、杓子鉋でお玉の内側を削り出しながら笑った。

写真は参考

眞さんは昭和9(1934)年、7人兄弟の長男として誕生。

大学で美術工芸を学び、卒業後は教職に就いた。

「本当は戦闘機に乗りたかった。だから自衛隊に入ろうかと、悩んだもんやさ。でも最終的には教職の道へ。学校じゃ、ずっと美術一筋やってね」。

昭和35年には同市丹生川町から百合子さんを妻に迎え、一男一女が誕生。

平成6年、教職に身を捧げ通し、晴れて定年を迎えた。

「もともと有道杓子は、久々野でも一番南の渚という集落で作られとった物。農閑期の冬の収入源としてな。それを春になると高山市内へと、売りに行ったんやさ。ところが昭和35~40年頃に、村のもんらがみんな都会へ出て、廃村で有道杓子の伝統も絶えかけたんやわ。(から)(たに)栄一さんという、たった一人の伝承者だけを残してな。このままではいかんぞと、平成12年に昔取った杵柄で、教育委員会と掛け合い、有志三人で保存会を始めたんやさ。高山市内から、殻谷さんに毎週来てもらって、木の割り方から教えてもらって」。

最初の1年目は、なんとも下手糞すぎた。

商品として売り出すには気が引けたと言う。

だが2年後、ついに発祥の地である渚地区の、道の駅で販売を開始した。

「これがまた人気が出たんやさ」。

翌年には高山陣屋の夏祭りで、実演販売をするまでに成長。

今は10人の同士と共に、月に200本あまりを製造する。

伝統の有道杓子作りは、朴の木を1尺(約30㌢)に切断し、丸鉈で7~8本に割ることに始まる。

「朴の木は削りやすく、割れにくいで加工しやすい。だから昔は、狂いが無いからと刀の鞘に使われとったもんや」。

次に柄とお玉の余分な箇所を鉈で落とし、柄の反りを鉈で削り落し、出刃包丁で仕上げる。

そしてお玉の内側は、(よき)で荒削りと中削りを施し、杓子鉋で仕上げて完成。「お玉に、削り跡の溝が残るようにな」

消え入る寸前であった雪国の生活道具。

だが、(さと)の暮らしを愛する憂卿の士の手で、再び伝統の灯は燈された。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 359」

今日の「天職人」は、愛知県東海市大田町の「手焼海老せんべい職人」。(平成22年2月24日毎日新聞掲載)

内職仕事手を止めて 母は欠伸を噛み殺し            音羽屋海老せんパリポリと ズズーッと啜る出涸らし茶      母の唯一贅沢は 知多のアカシャの海老せんべい         他所で見切りの品を買い 音羽屋だけは正札買い

愛知県東海市大田町で、大正初めに創業された音羽屋。知多の港でその日水揚げされたばかりの、新鮮なアカシャエビだけを使った、正真正銘の海老せんべいの老舗。女主と呼ぶにはおきゃんな、前田佐知子さんを訪ねた。

「四代目が私です」。佐知子さんだ。

佐知子さんは昭和49(1974)年、浅井家の次女として誕生。

音羽屋の仕事は、昔も今も変わらない。

早朝の魚市場での仕入れに始まり深夜まで。

写真は参考

「だから両親なんて、一度も運動会に来てくれたもことないし」。佐知子さんは表通りで遊ぶ、我が子を見詰めた。

「小っちゃい頃から『お前は死んだ兄ちゃんの変わりや』って言われ…。高校生の頃には、魚市場で父に仕入れの手伝いさせられとったもん」。

高校を出ると得意の英語を活かそうと、国際観光専門学校へ。

「でも姉も嫁ぐと、誰があの重いエビを運ぶんだろう。やっぱり就職は無理かって思ってました」。

専門学校を出ると、家業の手伝いの傍らケーキ屋や自動車会社でアルバイト。

「年頃だったし、ちょっとは他所の世界も見たくって」。

平成10年、年老いてゆく両親を見かね、家業に専従した。

「私は父が40歳の時の子だったからか、普段はものすごく優しくて。でも仕事になると超ど一刻。足の骨折れても添え木して、生地には絶対触らせてくれんし」。

だが平成12年、そんな父も心筋梗塞で他界。

「亡くなる前日も、翌日の段取りしとったのに」。

親子三人水入らずの海老せん作りは、たったの2年で潰えた。

「生地の味付けは母が分かっても、焼き方がわからんもんで。母がもう店畳もうかって。そんな時、魚市場の仲買いのおばちゃんから『お父さんなあ、本当はあんたに継いで欲しかったんやで』と聞かされて」。佐知子さんの瞳が不意に濡れた。

「父が亡くなる前日の、鉄板の温度設定だけを頼りに、何度も何度も失敗を重ねて」。

平成14年ついに先代の味を復活。

店の棚に「海老せんべい」が並んだ。

そして高校時代の同級生、幸弘さんと結婚し一男一女を授かった。

しかし喜びも束の間、その年の暮れ今度は母が末期癌に。

「病床で『もうこんなえらい仕事せんでいいから、側におって』って。でもここで店閉めたら、嫁に出たので浅井の名も絶やしたし、せめて両親との思い出が詰まった店だけは守らんとって」。

名代の海老せんべい作りは、アカシャエビの頭を手で落とし、専用機で殻を剥く作業に始まる。

次に馬鈴薯の澱粉、砂糖、塩と練り、鉄板で素焼き。それを3㌢ほどの棒状に切り、1日半乾燥させ冷蔵。

そしてその日に製造する分だけを取り出し、上から湯を掛け1~2日。

最後にもう一度鉄板で焼き上げれば、知多産アカシャエビだけを使った音羽屋の海老せんべいが完成する。

「暖簾はこの店と生きた、先祖の表札そのもの。だから私が頑張って守れば、きっと両親の供養になるはず」。

うら若き女将はこっそり瞼を拭った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 358」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「揚げ麺やきそば職人」。(平成22年2月17日毎日新聞掲載)

「伊勢松阪でやきそばと 言えば不二屋の揚げ麺さ」       松阪っ子の老若は 皿を抱えて首っ丈              丸い形の揚げ麺に 和風の餡を掛けるだけ            焼きもせぬのにやきそばと? 「松阪もんにゃこれがそれ」

三重県松阪市中町、昭和4(1929)年創業の不二屋、三代目の野口克己さんを訪ねた。

伊勢参宮街道も三重県松阪市に入ると、松阪牛の看板が目を引く。

「そんなもん、神戸の人らが毎晩神戸牛食うとるわけやなし。わしらかて松阪牛なんて、せいぜい年にいっぺん食うか食わんかやさ」。店先で順番待ちをする、初老の商店主が笑い飛ばした。

「松阪牛は年に1回でもええ。せやけど不二屋のやきそばだけは、週に1回は食べやんと、癖んなってなともならん」。

店内は昼前にも関わらず満席。

能舞台を模した座敷と、橋掛(はしが)かりとも言うべき通路を、店員が忙しなく行き交う。

能舞台の橋掛かりは、人間界と幽冥界を繋ぐ架け橋とか。

だがここ不二屋の昼時では、そんな悠長な風情に浸る暇も無い。

とにかく客は、熱々の餡かけ揚げ麺のやきそばを、固唾を飲んで待ち構える。

「『週にいっぺんは食わんと』なんて、何よりありがたいこってすわ」。克己さんが笑った。

克己さんは昭和36年、長男として誕生。

「最初は歓楽街の愛宕町で、うどん屋やったんですわ。当時松阪はうどん屋ばっかりで、中華そば屋がなくて。それでお爺さんは、大阪上本町へ出掛けて行って中華を食べ歩き、『これからは中華そばが流行る』ってな調子で。ところがそんな時代は、みんな『中華そばってなんや?ほんなもん売れるんか』なんて、結構白い目で見られたそうです。そして昭和11年にここへ移転し、うどんの出汁と野菜の旨味をベースにしたあっさりスープの中華そばを始めたんですわ。そしたらそれが評判呼んでよう売れたらしいです。もう一つの看板であるやきそばは、自家製揚げ麺に野菜と豚肉の餡を載せたもんで、祖父が戦後間も無く始めたそうやわ」。

毎日忙しく立ち働く、祖父と父の背中を眺めながら学校へと通った。

「よう友達が『3時になったら中華食べにくで』って。調理場の入り口からこっと入って来て」。

高校を出ると名古屋の郊外型のうどん屋へ。

4年半の修業を終え家業に就いた。

三代目としての自信も付いた平成4年、自らへの投資とばかりに店を改築。

平成14年には、地元出身の織江さんと結ばれ、2女を授かった。

不二屋名代のやきそばは、独特の製法による自家製麺に尽きる。

ラードで揚げても、バリバリとせずサクサクする食感が持ち味。

中華そばの和風出汁で豚肉や野菜の具材を軽く煮込み、片栗粉で固めの餡に仕立て、揚げ麺の上に盛り付ければ完成。

「麺は簡単に箸で捌けます。口に入れるとサクサクッとして、見た目とはちごて薄味であっさり。だから70歳を越えたお婆ちゃんらでも、ペロッと1皿行けますわ」。

克己さんはある時、人に言われた。

「『この店が無いと困る』そう言われる店にせえ」と。

それこそが、祖父の遺した庶民の味だった。

ありそでなさそな不二屋のやきそば。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 357」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市八幡町の「メロンパン職人」。(平成22年2月10日毎日新聞掲載)

郡上八幡小駄良川 窓を開ければ水音と             パンの香りが忍び込む 昼時岸の向こうから           老いた夫婦のパン屋では 子らが群がり品定め          片手の小銭差し出して 「これちょうだい」とメロンパン

岐阜県郡上市八幡町の平和パン、主の加藤昌美さんと千代子さん夫妻を訪ねた。

郡上八幡の町中を、南北に流れる小駄(こだ)()川。

川西の山裾には、わずかに昭和半ばの商店が残る。

「……?」。

どこからかパンの焼ける匂いが漂って来た。

だがどこにもパン屋はない。

すると一軒の民家から、パンを片手に子どもたちが飛び出して来た!

ガラスの引戸から中を覗けば、確かにパンが並んでいる。

「これどうぞ。今焼き上がったばっかやで」。

共白髪の老夫婦が、こんがりキツネ色に筋の入ったメロンパンを差し出した。

だが、どこにも屋号の看板が見当たらない。

「そんなもん看板出すなんて、おこがましいでかんわ」と、夫。

すると「この人は昔っから『他人(ひと)様を蹴っ飛ばしてでも儲けたる』っていう気がないんやて」と、妻。

「家が役所に届けとる本当の屋号は、三恵堂。でもここが尾崎町だでここらの人は『尾崎パン』とか『平和パン』って呼ばっせるわ。まあどれも通じるで、一つの名だけ看板上げるわけにもいかんだわ」と、夫。

昌美さんは大正10(1921)年、愛知県瀬戸市に誕生。

「小学校に入った昭和3(1928)年の時だて。鶴舞公園の御大典奉祝名古屋博覧会を、見に連れてってもらったんだわ。そしたら敷島パンがテントでパン焼いとって、これがまたええ匂いなんだて。でも金が無いで買ってまえんでかんわ」。

中学を出ると家業に従事。

だがコーヒーカップや西洋皿を製造する家業は、戦況の悪化で輸出が揮わず廃業に。

昭和18年には、召集令状が届き、海軍陸戦隊として中国へと出征。

だが昭和21年2月には無事、復員を果たした。

それから2年後、名古屋で看護婦をしていた千代子さんと結婚。

やがて一男二女が誕生。

昌美さんは、タクシーやトラックの運転で、家族を支え戦後の混乱の世を渡り抜いた。

統制も解除した昭和26年。

名古屋でパン屋を開業していた戦友を訪ねた。

茶飲み話がてら、パン作りを見学していると、子どもの頃の鶴舞公園での記憶が甦った。

直ぐに瀬戸市の家へと戻り、平和への願いを込めて「平和パン」を見よう見真似で開業。

2年後には現在地へ。

「私の実家が隣りなんやて」と、妻が笑った。

以来、夫婦2人で焼き上げるメロンパンは、今も平和のシンボルとして町中で愛され続ける。

今は月水金の週3日、朝5時半から中ダネの仕込みが始まる。

1時間半の発酵後成形し、秘伝のメロンパンの皮を被せ、ホイロで2次発酵し焼成。

半世紀以上変わらぬ、甘いメロンパンの香が町中に溢れ出す。

「そうすると迎えの幼稚園から『パン屋のおじいちゃ~ん』って声がして。近所の人らからは『辞めてかんよ』って言われるもんで、まあちょっと死ねぇせんでかんわ」。

熟練のパン職人は、捏ね上げたばかりのパン生地のように、ほっこりとした笑顔を向けた。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 356」

今日の「天職人」は、愛知県常滑市の「捻りオコシ職人」。(平成22年2月3日毎日新聞掲載)

縁に腰掛けばあちゃんは 陽だまりの中舟を漕ぐ         (ねじ)りオコシの菓子鉢を 胸に抱かえて夢の中           梅の蕾が春を呼ぶ 恥じらいながら色付いて           春告げ鳥を待ち侘びた 娘時代の夢草紙

愛知県常滑市で大正元(1912)年創業の山形屋製菓舗、三代目の捩りオコシ職人の榊原昇一さんを訪ねた。

飴色の土管坂。

レンガ組の1本煙突。

ゴー、ゴー。

作業場から響く動力の音が、静かな町の空気を揺らす。

「まるで鉄工所みたいやろ」。

男は黒光りする攪拌機(かくはんき)の前でつぶやいた。

「この機械も父親の代から使っとるで、えらい骨董品だわ。でももう、どこも作っとらんで手に入らんだ」。

写真は参考

昇一さんは、昭和26(1951)年に3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると名古屋の洋菓子専門学校に学んだ。

そして卒業と同時に、名古屋の洋菓子店で修業へ。

「とにかく家の跡継ぐのが嫌で嫌で。とは言え、何をしたいんかも分からん。でも蛙の子は、どこまで行っても蛙のまんまさ。親父とお袋みたいに、明けても暮れてもオコシ作らなかんと思うと、それが嫌でな。一旦は洋菓子志したけど、結局最後は親父と同じだわ」。

昇一さんは、プレス機で板状に熨したオコシを取り上げ、傍らで棒状のオコシを2枚重ねにして、(ひね)りを加える娘を盗み見た。

写真は参考

23歳となった昭和49年、洋菓子店を辞し異業種へと飛び込んだ。

「どうしても菓子作りとかとは違う、全く別の世界が知りたくて。それで4㌧トラックで小口の荷を運ぶ仕事に」。

だが年々年老いてゆく両親が気掛かりでもあった。

昭和54年、それまで両親と共に家業に従事していた、末子の弟が病を患った。

「そん時『これが潮時か』と観念してな」。

跡目を継ぐ決心を固め、家業に入った。

「小さい頃から毎日、見飽きるほど見てきたオコシ作りやけど、見るとするとでは大違いだわ。結局3年ほど親父から仕込まれて」。

写真は参考

やがて同県東海市出身の有佳子さんと巡り逢い、昭和58年に結婚。

3女を授かった。

「昔は名古屋で、嫁入りの菓子撒きに使われて、秋から春までは大忙しだったわ」。

今でも地元の人々から、郷土自慢の手土産として利用され、愛され続ける庶民の銘菓だ。

「オコシは全国にあるけど、家のみたいに捻ったオコシは、ちょっと聞いたこと無いな」。昇一さんが初めて自慢げな笑顔を見せた。

捻りオコシ作りは、水飴にグラニュー糖と蜂蜜を入れ、熱して溶かす作業に始まる。

次に攪拌機にイラ(澱粉)粉と水飴を入れ、しっとりなるまで混ぜ合わせる。

そしてプレートに青海苔を敷き詰め、その上に水飴と混ぜ合わせたイラを平らに敷き、プレス機で板状に押し伸ばす。

最後は縦3㌢横14㌢程に切り落とし、青海苔の面を外側に2枚重ねにして一捻りすれば完成。

写真は参考

「娘がやっとる捻りでも、一端までには半年。オコシは生きとるし、手捻りだで2つと同じにはならんで」。

「親とは違う」。

水面に映る己の姿を見つめ、オタマジャクシはそう思った。

だが時が経ち、改めて水面を見れば、そこにはあの日の親の姿が。

蛙の子が蛙であれば、何よりそれが一番。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 355」

今日の「天職人」は、三重県鳥羽市の「サザエ壷焼屋女主」。(平成22年1月27日毎日新聞掲載)

磯の香りと焦げ醤油 サザエと牡蛎に大アサリ                  出船の時が気になれど ちょいと一杯コップ酒                  旨い肴と美酒に酔い 隣りの客と意気投合                    差しつ差されつ気が付けば 鳥羽の港の灯も落ちる

三重県鳥羽市の駅前。戦後間も無いころに創業された水沼さざえ店、三代目女将の中村鈴子れいこさんを訪ねた。

鳥羽駅の西口へ降り立った。

海風に煽られ、鼻先を焦げた醤油の香ばしさがくすぐる。

どうやら線路沿いの、こじんまりした商店街から漂って来るようだ。

どこの店先にも水槽が並び、サザエや牡蛎、それに大アサリが汐を噴き上げ、コンロの網の上では直火の熱さに観念した貝が口を開く。

注ぎ込まれた醤油が吹き零れ、美味そうな匂いを撒き散らす。

思わず口中に沸き出でる生唾を飲み込み、してやられた思いで暖簾を潜った。

「今日入ったサザエは、内海(うちうみ)のやで活きが違うよ。まあ焼けるまで貝の佃煮でも摘んで一杯やっとって」。鈴子さんが愛想のいい笑顔を振り撒いた。

鈴子さんは昭和28(1953)年、鈴鹿市の古市家に誕生。

中学を出ると名古屋の親類が営む鉄工所で事務職に就いた。

「算盤できるか?ハイッて」。

そこに将来苦楽を共にする、従兄弟との運命的な出逢が待ち構えていた。

鳥羽市の離島、菅島出身の先輩社員、小寺良之さんだ。

昭和46年、鈴子さんは18歳の幼な妻として嫁ぎ、二男を授かった。

「ちょうど子育て真っ盛りの頃、浦村で牡蛎の養殖をしてた親類から、『跡継いでくれんか』って。それで養子に入ったんやさ」。

昭和52年、一家は浦村に移住し中村姓へ。

「牡蛎の表裏さえ知らんし、島の方言はきっついし。『の、空にある竹籠下ろして、オジベに渡しといな』とかって。『の』は『あんた』って意味で、『空』が『上』、『オジベ』は『弟』ってこと。それに翌年義父が亡くなり、主人は大変やったんさ。でも島の人らは田舎の人やで、みんな優しいて。それだけが救いやわ」。

やがて子育ても一段落。

昭和62年から、牡蛎養殖の暇になる春から夏の間を利用し、得意先の一つであった水沼さざえ店でアルバイトを始めた。

「元々接客が好きやって、いつかは自分の店が持ちたくて」。

働き者の鈴子さんは、まるで水沼家の嫁のように、店主や客に可愛がられた。

しかし平成16年、義父母から受け継いだ牡蛎養殖を廃業。

「水沼さざえ店の二代目が、病気で引退することになって。そんなら私に継がせてと。ちょうど牡蛎養殖も下火になって来とったもんやで。もう辞めよかゆうて」。

翌年の正月、ついに51歳の新米三代目女将が誕生した。

新米と言えども、浦村仕込みの鈴子さんの目利きは天下一品。

今も直接、漁師や海女の伝手を頼りに仕入れる。

「伊勢海老やイジカ(ムール貝)は漁師さんから。サザエは85歳になる、浦村の海女さん。とにかく鮮度が命やで」。

活きのいい貝を網で焼き、醤油に酒と隠し味の砂糖で味を調えれば、磯の香り高きサザエの壷焼が出来上がる。

「51歳で好きな商売が出来たんやで、幸せもんやさ」。

女将曰ク「吾、五十ニシテ天職ヲ知ル」ト。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。