「天職一芸~あの日のPoem 374」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市八日市場町の「小西萬金丹当主」。(平成22年6月19日毎日新聞掲載)

御蔭参りの昔から 伊勢の土産は数あれど            何は無くとも伊勢暦 伊勢白粉(おしろい)に萬金丹             初瀬参宮別街道 上り下りの旅枕               山海(やまみ)の幸の御食(みけ)つ国 つい食べ過ぎて萬金丹

三重県伊勢市八日市場町に今も残る、大和大掾だいじょう小西萬金丹本舗。奥の間に十六代目を継ぐ4男小西治さんと、長女で十五代目を務めた佐藤瑞子みずこさんを訪ねた。

伊勢神宮へと続く旧参宮街道。

切妻造りの商家が、今もひっそり時の流れに抗うように佇む。

開け放たれた座敷には、漆黒の立て看板に、「まんきんたん」の金の文字。

伊勢の霊薬「小西萬金丹」は、遥か330年以上もの昔から、全国で常備薬とし重宝がられた生薬だ。

「私は長女でしたで、昭和36(1961)年にこっから嫁に行ったけど、弟らはみんな勤めに出てもうて。だから母が亡くなってからこの人が跡継ぐまで、私がボチボチ店番して。元々小さい時から、家業に興味もあったでな」。瑞子さんが傍らの治さんを見つめて笑った。

「私は58歳まで、伊勢の市役所に勤めしてましてな。せやで当主ゆうても、まだ新米ですんさ」。治さんは照れ臭げだ。

伊勢国司、北畠家の家臣であった日置越後守清久は、主家滅亡後に医道を志した。

そして堺の小西家で秘方を譲り受け、姓を改め延宝4(1676)年に創業したのが小西萬金丹の始まりだ。

「戦時中、私がまだ小学校の低学年の頃やわ。ガンジャ(製丸師)さんが寒の厳しい頃にやって来て、1月ほど滞在するんやさ。それで萬金丹の生薬を、クルクルッと器用に丸めて丸薬にしてな。その手付きを見るのが好きやって、飽きやんと1日中眺めとったんやさ」。瑞子さんが目を輝かせた。

萬金丹の製造は、まず主原料となる阿仙、甘草、桂皮、丁子、陳皮など、乾燥した固形の薬草を、石臼や()(げん)で卸し、粉にする作業に始まる。

次に馬毛の網の()篩器(ふるいき)にかけ、さらに木目の細かい粉にする。

そして練り鉢に移し、寒梅粉と繋ぎになる米粉を足して手練り。

練り上げた原料を製丸機の中へ入れ、心太突きの要領で小穴から6~7㍉程度押し出し、細刃の刃物で切り取って、製丸台の上へ1列ずつ順に並べる。

それを繰り返し、製丸台の上が一杯になったところで、取っ手の付いた平板を被せ、円を描くように丸薬に仕上げる。

「まるでその手付きが神技のようでな。ガンジャさんの傍らで、くっついてよう見よったもんさ」。

しかし平成19年の薬事法の改正に伴い、庶民の伝統薬は、健康維持食品へ。

(もっ)(こう)の代わりに阿仙を増やして。今しは富山の製薬会社さんに、委託で作ってもうとんやさ。でも薬効は、昔と代りませんに」。と治さん。

奥座敷には、江戸時代の貴重な製薬道具から、製丸機までが一堂に保存されている。

「この人は独身やで、私とこの娘が継いでくるとええんやけど。ご先祖さんが遺した、伝統の家業やでな。壊したるんと、壊れてくんのとは違うで」。

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瑞子さんは、享保8(1723)年に宮家より賜った、大和大掾の許状を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 373」

今日の「天職人」は、三重県亀山市御幸町の「味噌焼きうどん職人」。(平成22年6月12日毎日新聞掲載)

七輪炙り鉄板で 味噌焼きうどんジュージューと         月に一度の給料日 父はすっかり赤ら顔             味噌の絡んだトンちゃんを せっせと父がほじり出し       うどんキャベツは母とぼく 皆で仲良く突き合う

三重県亀山市御幸町の亀とん食堂、二代目主の村主すぐり浩二さんを訪ねた。

昼時、どこからともなく味噌と脂の焦げる匂いが、商店街の食堂から漂う。

埃だらけのウィンドーに、亀山名物「味噌焼きうどん」の但し書きと蝋細工の見本。

名物ならばその由来はと、発祥の店を探した。

駅の北側をしばらく西へ向うと、「亀とん食堂」なる暖簾を掲げた店を発見。

店の脇から、味噌と脂の匂いが襲い掛かってくる。

店内は既に満席。

まだ昼だというのに、ジョッキ片手の赤ら顔が鉄板を突く。

「ご注文は?」と問われ、迷うことなく、味噌焼きうどんを所望。

すると「何の?」と切り返された。

「・・・何のって?そりゃあ、うどんでしょ」。

あまりの頓珍漢なやりとりを見かね、隣りの客が解説を買って出た。

「ここにはなあ、『味噌焼きうどん』と言うメニューはないんや。まず初めに好きな焼肉を注文するんさ。トンちゃんや牛ホルモンにカルビとか、何でも好きなんを。それとうどん玉を頼んで、肉とキャベツのブツ切り炒め、そこへうどん玉を放り込んだら味噌焼きうどんの出来上がりやさ。これがここらの(もん)が、昔から食べよる本物。それをB級グルメで町興しとか言い出して、あちこちで売り出すようになったんさ」。

そう言うと隣の客は、美味そうにビールを飲み干した。

「はいっ、トンちゃんにうどん玉。お待っとうさん」。浩二さんが、コンロに火を点けた。

浩二さんは昭和15(1940)年、名古屋市で5人兄弟の4番目として誕生。

大学を中退すると楽器販売会社に勤務。

だが昭和37年、父の在所の亀山へ家族で移住。

母がその年に開業した、亀とん食堂を手伝うことに。

「最初は普通の食堂で仕出し弁当とかもしよって。昭和44年からやわ、ホルモン専門店にしたんわ」。

昭和49年、鹿児島出身の千鶴子さんと結ばれた。

「あれが三代目になる、女房の弟の倅や」。

「爺、オイは継ぐなんち、まだ一言も言うとらんとよ」。甥の(はぎ)木場(こば)明さんが、笑いながら打ち消した。

味噌焼きうどんの由来を問うた。

「そんなもん、味噌焼きうどんなんて、決まったもんは無い。知らん間にお客さんが、焼肉にうどん玉放り込むようになっとったんやで。そしたらそれが美味いもんで評判になって。ええっ?味の決めて?そりゃあ肉に絡める味噌やろ」。

亀とんの味噌ダレは、八丁味噌、醤油、砂糖、焼酎、酒、味醂、ニンニク、一味、胡麻油、胡麻を調合。

「それともう一つ、最大の隠し味は何と言ってもこれやさ」。浩二さんは悪戯っ子のような表情を浮かべ、ビールを取り上げた。

「ここが味噌焼きうどん発祥の地かって?元祖は、家よりちょとだけ先にやり出した、この先の兄の店やわ」。

味噌ダレに溶け出した肉の旨味が、真っ白なうどんに纏わり付く絶品の味。

気取らぬ店の、気負わぬ庶民のおご馳走(っつお)

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「天職一芸~あの日のPoem 372」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「朴葉みそ職人」。(平成22年6月5日毎日新聞掲載)

破れ障子の穴ぼこを 朝日が射抜き顔照らす           布団被って寝返れど 母のまな板トントンと           やがて(くど)から炊き立ての ご飯の匂い立ち込めて         囲炉裏囲めばグツグツと 五徳の上の朴葉みそ

岐阜県高山市、明治二十三(一八九〇)年創業の醸造元角一。四代目朴葉みそ職人の日下部達彦さんを訪ねた。

飛騨焜炉(こんろ)の炭火に炙られ、朴の葉の上で味噌がグツグツと煮え、やがて焦げ始める。

口中にドッと生唾が湧き上がり、お腹の中がグルグルッと活発に動き始めた。

「子どもの頃の朝飯と言えば、おかずは朴葉みそやさ。長ネギ、椎茸、豆腐、鰹節に切干大根と。具は何でもええんです。その家その家にある物を、みその上に載せるだけ。おかずが味噌やで、わざわざ味噌汁作らんでええし。手間要らずで滋味豊富な一品やさ」。

「代々味噌屋でしてな。朴葉みそは昭和45年に祖父が観光客向けとして商品化したんやさ。ちょうどアンノン族の、国内旅行ブームが始まった頃から。昔この飛騨では、家々で作った自家製味噌を、朴葉に載せて焼いて焼味噌にしたり、樽の中で凍ったまんまの漬け物出して、朴の葉の上で溶かしながら食べたもんやさ。それとなあ、古漬けの酸っぱい白菜やカブをまたじ(片付け)する時、一昼夜水に浸して酸味と塩分飛ばし、醤油と砂糖で炒め煮した『煮たく文字』とか。昔は山国の貧しいとこやったで、古漬けでも捨てんと一工夫。これもまた飛騨の庶民の味やさ」。

達彦さんは昭和38年、3人兄姉の末子として誕生。

東京の専門学校を出ると、味噌の専業問屋で修業。

5年後、埼玉県の酒のディスカウントショップの販売へ。

「まあ今思えば、親に対するささやかな抵抗みたいなもんで」。

2年後家業に就いた。

今や土産物でも常に上位を占める朴葉みそは、まず基本となる味噌作りに始まる。

大豆は一昼夜水に浸け、6時間蒸し上げる。

米も蒸し上げ、米糀菌と塩を混ぜ、豆と共に木桶に仕込む。

そして10ヶ月~1年間、味噌は深い眠りにつく。

「普通の味噌は塩分濃度が11~13%。家のは8.4%と控えめなんやさ。それに十割(とわり)糀やで、大豆と米が1対1。だから普通の味噌より糀が多い分、糀の仄かな香りと甘味が出るんさ」。

そして熟成した味噌に砂糖、還元糖、調味料を混ぜて攪拌し、朴の葉2枚を添えれば、角一自慢の朴葉みその完成。

「先代の話やと、戦前戦後の食糧難の時代は、糀味噌ゆうたら超高級品で、病人にしか食べさせられんほどやったらしいわ」。

平成4年、埼玉県から博子さんを妻に迎え、二女を授かった。

「昔飛騨の山師は、弁当と味噌を朴の葉に包み、山に入ったそうですわ。それで弁当開いて、朴の葉で味噌炙って食べはったとか。昔の人は偉いもんや。朴の葉に殺菌効果があることを知っとったんやろか?家が昭和45年に朴葉みそ売り出した頃は、毎年10月になると『朴葉買い受けます』って広告出してな。朴葉を120万枚ほども買い込んだそうやで」。

飛騨の名物数あれど、も一度食べたや朴葉みそ。

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「天職一芸~あの日のPoem 371」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市入船町の「ネオン管職人」。(平成22年5月29日毎日新聞掲載)

男やもめの旅の宵 夜の長さを持て余し             下駄を鳴らして漫ろ行きゃ ネオン瞬く花の街          男心を(もてあそ)び 揺れてネオンが袖を引く              どうせ一見(いちげん)ばかりなら 惚れた女の名の店へ

愛知県豊橋市入船町、昭和十五(一九四〇)年創業のトキ工芸社、四代目ネオン管職人の土岐光吉さんを訪ねた。

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街にネオンの灯が瞬き出すと、居ても立ってもいられない。

そんな若かりし日もあった。

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哀愁漂う、儚げな淡い灯かりの下。

今夜も、男と女の恋物語が生まれる。

「ネオン管の修行は、ちょうど30歳になってから、単身で広島へ。そしたら親方から、『そんなもん20歳までに来んとあかん』って、いきなり言われて。もう歳食い過ぎとったし、体の柔軟性も無く、固まってまっとったで」。

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光吉さんは昭和32年、3人姉弟の長男として誕生。

「父はペンキ屋継いだもんの、『いつまでもペンキ屋だけじゃ食って行けん』と、戦後しばらくして看板屋に鞍替えただあ」。

高校を出ると、脇目も振らずに家業へ。

時代は高度経済成長から、安定成長期へと向い、郊外型の大型ショッピングセンターの進出が相次ぎ、屋外看板の需要も拡大した。

「だいたいネオンサインは、同じ看板でもワンランク上。でもネオン管職人が少なく、外注で頼むと手間賃だけで4割持ってかれるだ」。

昭和61年、知人の紹介で理恵子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「家族も増えることだし、いつまでもネオン管外注しとれん」。

新妻を残し、単身広島へと向った。

「とにかく40日間、地獄の味わいだわ。周りはみんな一回りも歳が若いらあ」。

とにかく一日も早く技術を手に、家族の元へ戻りたい一心で、誰よりも早く技術を身に着けた。

直径わずか14㍉、長さ1670㍉のネオン管製作は、まずネオンで描く文字原稿を、原寸大の版下にする作業に始まる。

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「昔はネオンと言ったら、ネオンガスを入れた赤色と、アルゴンガス入れた青色のたったの2種類。でも今は、ガラス管の内側を、顔料で色付けしたものもあって、色数がようけ増えた。それでも、さすがに金銀の色は出せんだあ」。

次に文字の形状に合わせ、ネオン管をバーナーで炙りながら曲げ、管の両端に電極と排気口を取り付ける。

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「とにかくネオンは曲げが命。曲げたら今度は焼き。200~250度がガラスの融点だで、そのちょい手前まで焼いて、管の中の微生物を焼き殺し、ガスを注入するだ」。

そして排気口を密閉し、管が冷めるのを待って通電。

丸2日仮点灯を続け、クラック(割れ目)や、ネオンの色(むら)がないか確認。

「念入れて点検せんと、ビルの屋上とかへ取り付けてまって、不具合に気付いたら大事(おおごと)らあ」。

そしてチャンネル文字など、屋外看板の躯体(くたい)に取り付け完了。

「それでも青色のネオン管に鳥が突っ込んだり、虫が寄って電極突っついて、漏電したりするだで」。

観光客を虜にする100万ドルの夜景。

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人はなぜか、遠くで瞬くネオンの灯りに、様々な思いを馳せ心を揺らす。

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「天職一芸~あの日のPoem 370」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の東阿倉川の「万古焼急須職人」。(平成22年5月22日毎日新聞掲載)

朝昼夕と日差し追い ()け台持って場所を替え          繕い物の内職に 母は精出し暇惜しむ              母の小さな愉しみは ラジオの曲の懐メロと           急須傾け茶を啜り 徳用あられ摘み食い

三重県四日市市の東阿倉川、万古焼の急須を手掛ける洙山しゅざん陶苑の山本修さんを訪ねた。

「急須はなあ、煎茶を入れるだけの道具やないんさ。使うたびに手の脂が染み込んで、照りが出る。すると生き物みたいに表情も変わって、使い込むほどに味が出て来るんやさ。せやで長い年月掛けて急須に染み込んだ模様は、家族の歴史そのものやろな」。修さんは、窯から取り出したばかりの急須を徐に取り上げた。

急須は春の日差しを浴び、()(でい)色の鈍い輝きを放つ。

「昔の瓦のような輝きですやろ。これはなあ、無釉のまま1180度くらいで焼成すると、陶土の中の鉄分が炭化して、こんな紫泥色になって輝き出ますんのんさ」。

実に重々しいほどの(にび)色だ。

修さんは昭和25(1950)年、3人兄弟の長男として、(ちく)()業を営む父の元に誕生。

「元々祖父は登り窯職人やって、父の代になって万古焼のトンネル窯造りを専門とするようになったんさ。えっ?トンネル窯が何やって?トンネル窯ってのは、そのまんま窯が100㍍ほど続いとって、例えば天日干しした急須を入り口から入れますやろ。そうすると急須が、トンネル窯ん中はってって自動的に焼成され、100㍍完走してゴールしたら焼き上がりっちゅーわけやさ」。修さんが大きな声で笑った。

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「よう子どもの頃、築炉を人工甘味料のチクロと間違えられて。発癌性が高いとかで、食品への使用も禁止された頃、『お前んとこ、毒作っとんのかあ』って、よう冷やかされたもんやわ」。

高校を出ると直ぐに家業入り。

「でもその頃には、窯造りも衰退期でしてなあ」。

昭和46年、母方の祖父が急須造りをしていた関係もあり、急須の量産会社の見習いへ。

「ちょうど1年経ったころやわ。親方が『そろそろお前1人でやってみろ』って。そんなん、窯入れもまだ1回しか焚いたことないんやに」。

22歳で独立。

「最初は母と私の2人っきり。それでも当時は、(しゅ)(でい)の急須の方が、ようけ売れましてなあ」。

万古焼の急須作りは、陶土を攪拌機で泥沼(でいしょう)にすることに始まる。

次に急須型の石膏枠に流し込む。

そして石膏が水分を吸収し陶土が固まると、型から取り出し、胴、手、蓋、口、摘みの部品を泥糊で接着。

天日で2~3日乾燥させ、表面を研磨し窯詰め。

そして15時間ほど還元焼成すれば、釉薬(うわぐすり)も掛けぬのに見事な紫泥色の急須に生まれ変わる。

「窯の中に酸素を送らんと、酸欠状態のまま焼くもんやで、それで土に変化が出るんやさ」。

昭和58年、由紀子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「お互いの友人同士の結婚式で、受付を一緒にしたんが縁やったんさ」と修さん。

傍らで妻が一言つぶやいた。

「年入ってたけど、この人まだ独身やったもんで」。

急須一筋、間も無く40年。

創業当時の急須には、家族の喜怒哀楽が染み込み、言葉で言い表せぬ景色が滲んでいる。

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「天職一芸~あの日のPoem 369」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市若遠町の「武道具商」。(平成22年5月15日毎日新聞掲載)

蹲踞(そんきょ)に構え切っ先の ただ一点に気を遣れば           世事の雑念霧散して 「始め」の声も颯然と          鯉口(こいぐち)切って斬り結ぶ 武士(もののふ)たちの世は昔             されど竹刀を交えれば 戦の(とき)の声がする

岐阜県高山市若遠町の武道具専門店、栄光堂の主、古橋節次さんを訪ねた。

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昭和半ばの路地裏で、必ず目にした光景。

それは少年剣士たちのチャンバラごっこだ。

汗で黄ばんだランニングシャツに半ズボン、真っ黒に汚れたズック姿。

道端に枯れ枝の一本でもあれば、誰もがテレビのヒーローに成り得た時代だ。

「そうやさ。ほんなもん今は、チャンバラごっこしとる子なんて、どこにもおらへんろう」。節次さんは、表通りの小路を見詰めた。

節次さんは昭和18(1943)年の誕生。

高校を出ると、地元の造り酒屋の営業職に就いた。

「高3の時の夏休みに、東京で職業実習に20日ほど行ったんやさ。そしたら東京の暑さに耐え切れんでな。こんなとこよう住めんわって、地元で職を探したんやさ」。

それから10年、いつか自分の酒屋を持つ夢を携え、身を粉にしながら営業に勤しんだ。

「でも当時は酒の販売も免許制やったでな。それがなかなか簡単には、許可を貰えんのやさ」。

大きな壁が立ちはだかった。

「自分が何をすべきか、ほとほと悩んだもんやさ。で、そん時思ったんや。子どもの頃からの特技を活かしたろうって」。

節次さんは小学5年から、今も剣道を続けている。

昭和46年、造り酒屋を辞し、開業資金を借り入れ、剣道、柔道、空手を専門とする武道具屋を開業。

「飛騨一円に武道具の専門店なんて、当時も今もなかったもんやで」。

しかし販売だけでは、一度売ればそれまで。

ところが道具は、練習に励めば励むほど傷むのも定め。

籠手(こて)の内側の革の張替えや、竹刀の(つる)紐の取替え、ささくれ立ったり割れた竹の取替えとか。修理に関しては全くの素人やったで、取引先や職人の店に通って、見よう見真似やさ」。

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開業から2年目の冬。

友人と志賀高原へ、スキーのバス旅行に出掛けた。

「一つ前の席に可愛い娘がおったんやさ」。

それが縁で、せつ子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

竹刀の長さは身長により、3尺6寸から9寸までの4段階に分かれる。

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長さに応じて縦割りにされた竹を4本合わせ、柄革と先革(さきがわ)で覆い、剣先から鯉口まで弦紐を張り、中じめで止める。

「弦を張った方を刀の峰と見立てるんやさ」。

最後に鍔と鍔止めを固定すれば完了。

節次さんは、剣道5段に、無双直伝英信流居合8段の凄腕の持ち主。

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だが表情は、春の陽だまりのように穏やかだ。

「今でも警察の道場借りて週に2回、近所の小中学生集めて、剣道教室を開いとるんやさ」。

開業から間も無く40年、剣道を通じ礼儀礼節作法、そして精神修養の場として、青少年を見守り続けてきた。

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「竹刀を抜いて蹲踞に構え、切っ先を合わす瞬間が肝心。切っ先がぶれとりゃ、雑念に惑わされとる証拠や。そんなん『始め!』の掛け声の時点で既に『勝負あり!』やさ」。

節次さんの()竹刀(がたな)が、上段から空を斬り裂いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 368」

今日の「天職人」は、愛知県新城市出沢の「養蚕農家」。(平成22年5月8日毎日新聞掲載)

小さな()()のお蚕が いつの間にやら中指大           桑の葉抱えガジゴジと 「たあんとお食べ絹になれ」       ()(かげ)明神おしら様 (はる)()が嫁にゆく日まで            穢れも知らぬ白無垢の 真白き繭となるように

愛知県新城市出沢すざわで大正時代から続く、養蚕農家三代目の海野ひささんを訪ねた。

「真っ黒な1㍉ばっかの()()が、5(れい)せると7~8㌢のドッチ(サナギ)になるだ。そいで2日も糸を吐きゃあ、真っ白な繭玉だわ」。久榮さんは、腰の桑摘み籠を外した。

久榮さんは大正14(1925)年、7人兄弟の長男として誕生。

「小学生になった昭和8年頃は、養蚕が大流行でのう。寺と商店以外、村のほとんどのもんが、養蚕せよっただ。輸出が盛んな時代やったで」。

尋常高等小学校を出ると産業試験場で学び、昭和16年に家業へ。

しかしその年も暮れ、真珠湾攻撃を境に日米が開戦。

絹糸輸出は中断、養蚕も衰退へ。

皮肉にもその前年には、養蚕業をさらに圧迫することとなるナイロン・ストッキングが、全米で発売されていた。

やがて日本は敗戦へ。

欧米では、化繊に押され絹需要が減退。

逆に国内では和服の需要が高まり、養蚕業も一旦活気を取り戻すものの、やがて中国、韓国からの輸入絹糸に押される憂き目に。

さらに昭和も50年代に入ると、和服離れが加速。

養蚕業全体が不況の澱みに呑み込まれた。

「まあ今残っとるのは、県内に2軒だけらあ。それでも今でも欠かさず36年間、家の繭を群馬県で絹糸にしてまって、伊勢神宮の天照大神に『三河赤引きの糸』として奉納せるだあ」。

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久榮さんは昭和21年、近在からみつ子さんを妻に迎え、一男四女を授かった。

「一目見たとき、これだぞっと嫁に決めただ。それがもうはい孫が15人らあ」。

養蚕は、毎年5月5日の()き立て(孵化した毛蚕を羽箒(はぼうき)で新たな箱状の蚕座(さんざ)に移す作業)から10月初旬の桑の葉の終りまで。

掃き立ての日取りに合わせ、種屋が卵から毛蚕に孵化させた状態で仕入れる。

「種屋が卵をシート状の物に、均等に付着させて冷蔵せるもんで、それを『1枚くりょ、2枚くりょ』ってな感じて注文せるだ」。

1枚のシートには、卵が10㌘、約20.000匹の毛蚕となる。

その後、桑の新芽を2㍉ほどに刻んで与え、風通しの良い場所で飼育。

そしてサナギになるまで約1ヶ月(夏は20日)で5齢(5回の脱皮)し、丸2日糸を吐き続け繭玉となる。

「繭を作っとる時に揺すったると、鼻突きしてまって繭の内側が汚れてまうだ」。

こうして最高級品の三河赤引き糸が紡がれる。

「そんでも一向に相場は上がらん。昔っから米1俵が、蚕10貫目と決まってまって」。

だが夫婦は、お蚕様で5人の子を見事に育て上げた。

「娘4人の成人式には、家の2等や3等繭で晴れ着を拵えて」と、みつ子さん。

「私の晴れ着を、洗い直しに出して娘にも着せてねぇ」と、岡崎市に嫁いだ次女の直子さん。

「ほんでも汚れ落として洗ってまうだけで、4万円も持ってかれたらしいだあ」。

久榮さんの言葉に、親子水入らずの笑い声。

山鳥たちも釣られて鳴いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 367」

今日の「天職人」は、三重県亀山市御幸町の「時雨茶漬け弁当職人」。(平成22年4月24日毎日新聞掲載)

鈴鹿峠を上方へ 蒸気を吐いて汽車はゆく           「途中亀山辺りでも 駅弁こうて腹満たそ」          「時雨茶漬けの弁当か そりゃ珍しや食うてみよ」        まずはそのまま食べてから 茶漬けで二度のお楽しみ

三重県亀山市御幸町、明治二十三(一八九〇)年、関西鉄道(現JR)の亀山駅開業と同時に創業した、いとう弁当店。四代目主の伊藤とみさんを訪ねた。

洒落の効いた地口(じぐち)「その手は桑名の焼き蛤」や、座敷の酒盛り唄「桑名の殿様(とのさん)、時雨で茶々漬」とまで詠われる、蛤や時雨煮と言えば、三重県桑名市を代表する名物の一つだ。

「ところが当の桑名駅には、名物の時雨煮使こた駅弁がない。ならばと、アイデアマンの叔父が一工夫して昭和35(1960)年から売り出したのが、この時雨茶漬け弁当やさ。それも当初から、桑名で元禄年間創業の、新左衛門さんとこ(總本家貝新)から直接仕入れた時雨煮つこて。しかも昔は蛤。もっとも今はアサリやけど、それにしても100㌘あたりにすると、牛肉並みの高級品やさ」。富朗さんが、店内から正面の駅舎を見つめた。

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富朗さんは昭和10年、4人兄弟の長男として誕生。

「私の子どもの頃は、笹の葉におにぎり2つ包んだ、おにぎり弁当だけでしたんさ」。

やがて亀山駅は、関西と中部を結ぶ大動脈として賑わいを見せた。

昭和33年、東京の大学を出ると、そのまましばらく、母の仕事を手伝うことに。

「母が東京で、お洒落小物の商いしてましたから」。

翌年の紀勢本線亀山―和歌山間全通を前に、家業に舞い戻った。

「父が体を壊し、叔父夫婦が店を切り盛りしてくれとったもんやで」。

そしてその翌年、ついに時雨茶漬け弁当を売り出した。

「まだそんな当時は、お座敷列車が走っとって『汽車で1杯やりもって、最後にお茶漬けで締めやんと』って」。

駅売りに立ち売り、そして店売り。

茶漬け弁当という珍しさもあり、飛ぶような売れ行きに。

「だいたい日本人は、お茶漬け好きやで、お盆や正月は帰省客でよう賑わったもんやさ」。

紀勢本線全通は、利用客だけの喜びではなかった。

時雨茶漬け弁当が発売されたその年、富朗さんは紀勢本線の遥か彼方、和歌山県串本町から豊代(ゆたよ)さんを妻に迎えた。

「私の叔母が四日市で一品料理の店やっとって、そこでちょっとの間手伝いしとったら、この人に見初められてもうて」。やがて二女を授かった。

時雨茶漬け弁当作りはは、注文を受けてから。

作り置きなどしない。

まずプラスチック製の丼8分目まで、ふっくら炊き上げたご飯を敷き詰める。

次に時雨煮の煮汁を刷毛で塗り、アサリの時雨煮を30㌘ほど載せ、ふりかけと刻み海苔を散らし、中央に紅生姜、そして片隅に桜漬けを添える。

上蓋を被せ、半世紀前から変わらぬ包装紙を巻き、亀山産のお茶を添えれば出来上がり。

「今でも注文があれば、改札やホームまで配達しますんさ」。

時雨茶漬けの食べ方は、最初3分の1をそのまま食し、残りを茶漬けに。

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半世紀前、緩やかな時の流れに身を任した汽車の旅。

古里では首を伸ばし、我が子の帰りを待ち侘びる母がいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 366」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市赤保木町の「飛騨の赤巻き職人」。(平成22年4月17日毎日新聞掲載)

膳が並んだ大広間 白無垢姿姉ちゃんが             上座で今日はすまし顔 叔父のめでたに声合わせ         鯛に天麩羅山の幸 どれもご馳走迷い箸             だけど一番好物は 「の」の字赤巻き蒲鉾や

岐阜県高山市赤保木町の坂井かまぼこ店、赤巻き職人の坂井宏司ひろしさんを訪ねた。

写真は参考

春の山王祭が終わったばかりの岐阜県高山市。

やっと山々に囲まれた町のあちらこちらで、春らしさが息吹始めた。

町の中心からわずかに外れた、田畑の広がる閑静な一画。

そこに控えめな看板を掲げた、目当ての店はあった。

そっとガラス戸から中をのぞき込む。

天井から回転式の、大きな木製の物干しが吊り下がっている。

なんと洗いたての真っ赤な越中褌が、傍らから扇風機の風にヒラヒラと揺れているではないか?

思わず店を間違えたかと、もう一度看板を見上げた。

「これは赤褌とは違がいますに。『の』の字の赤巻きゆうて、昔から飛騨の人らが食べはる蒲鉾ですんさ」。宏司さんは、左官の鏝のような長細い包丁で、赤い蒲鉾ダネをステンレス製の鏝板に延ばしながら大笑い。

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「その赤巻きの赤の方を干して、白と合わせて『の』の字に巻くよに仕込むんやさ」。

傍らの蒸籠から、蒸し上がったばかりの鏝板を母怜子さんは取り上げ、厚さ3ミリほどの赤い蒲鉾を剥がし取り、ビラビラの状態のまま器用に物干しへと吊り下げた。

宏司さんは昭和39(1964)年、2人姉弟の長男として誕生。

高校を出ると、同市にあった蒲鉾屋へ見習い修業に。

「店の跡継ぎがおらんで、やがて店が持てるゆうて」。

平成2年に26歳の若さで独立開業。

主力商品は、北陸から飛騨一円で好まれる「赤巻き」と「白蒲」。

「赤巻き」とは、食紅で着色した赤のすり身に、白のすり身を肉厚に塗り延ばし、それを「の」の字に巻き上げたもの。

一方の「白蒲」は、底板のない無着色の蒲鉾。

いずれも凝固剤や保存料は一切使用されず、噛んだ時にキュッキュッと鳴るあの嫌な音も無く、ふんわりもっちりと心地よい。

飛騨で唯一の「赤巻き」作りは、北海道産のタラの切り身に鰹節、味醂、塩を加え、石臼で磨り潰し、紅白それぞれのすり身にする作業に始まる(赤のすり身には、調味料と共に食紅を加える)。

次は鏝板に赤のすり身を、練り庖丁で3㍉ほどの厚さに塗り延ばし、蒸籠で蒸し上げる。

そして鏝板から赤のすり身を剥ぎ取り、物干しに吊るして冷まし2日間冷蔵。それを3分の1に裁断し、白のすり身を厚さ5㍉に塗り延ばし、「の」の字に巻いて20分蒸し上げれば完成。

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「火で軽く炙って、わさび醤油で食べると、これがまた酒とよう合うんやさ」。

宏司さんが左手で盃を煽る真似をした。

「赤巻きが紅白でめでたいで、昔は結婚式の折り詰めに使ってもらえたんさ。でももう今はあかん」。母はこっそり溜め息をついた。

「人様のお祝いばっかり作っとるでか、未だに嫁の来てがおらんのやで。まあはよ嫁貰ってまわんと、私ももう年やでな」。

我が春忘れ、「の」の字一筋20年。

飛騨の赤巻き職人に、季節はずれの春よ来い!

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「天職一芸~あの日のPoem 365」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「鋏研師む。(平成22年4月10日毎日新聞掲載)

「なまくら庖丁裁ち鋏 惚れた腫れたは遂げぬ仲         刃物であれば何なりと 研いで見せましょお立会い」       粋な研師の掛け声に 主婦で空き地は人だかり          砥石を滑る欠けた刃が 錆びを落として光り出す

愛知県豊橋市で昭和十年創業の豊橋理器、二代目鋏研師の坂本守男さんを訪ねた。

写真は参考

「東京オリンピックの昭和39年(1964)。豊川大橋の向こうで、結婚披露宴を挙げただ。そしたらもう、新婚旅行の列車の時刻だわ。慌てて着替えに帰ろうとしたら、ちょうど聖火ランナーが大橋を渡る直前とかで、通行止めじゃん。ほだもんで必死で事情話して、モーニング姿のまんま、聖火より先に橋渡っただ。多くの市民が聖火の到着を見守る中…。そりゃあ恥ずかしかったわ」。守男さんが、事務を執る妻を盗み見ながら懐かしそうに微笑んだ。

守男さんは昭和14年、7人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると直ぐに家業に就いた。

「中学2年の時に、父が心臓病に倒れて引退したし、6人もおる兄弟養わなかんで」。

父の具合がよさそうな日には、鋏を砥ぐ父の側で、その一挙手一投足を瞼に焼き付けた。

「見よう見真似で、10年はかかったらあ」。

鋏は用途によって、大きさも形も、鋼の硬さまで異なる。

「硬くて厚い、命の通わん物を切る工作鋏に比べ、理美容の鋏は、人間の髪を切るもんだで、その瞬間の感覚が肌に直に伝わるだ」。

刃の厚みや角度を間違うと、髪が刃から逃げてまう。

工作用の鋏は、刃のついたササバの()(かく)が50度近い。

それに比べ、理美容鋏は40~45度と鋭角。

理美容鋏は正刃(せいば)に薬指、動刃(どうば)に親指を添え、親指だけを動かし切り進める。

「若い頃は、当時1本7~8万円もするような、高価な理美容鋏を何本折ったことか。でもそれを越えんと研師にはなれんだ。高い授業料だけど」。

24歳の年に、同県新城市出身の孝子さんと結婚し二男を授かった。

鋏研ぎの作業は、2本の刃が交差する部分の、カナメを外す事に始まる。

そしてまず裏スキ。

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「これが肝心。グラインダーで刃の裏側に、反りとスキ(びね)りを入れ、刃線を細くし、裏刃がよう咬み合うにするだ。蛍光灯の光を当て、捻り具合を確かめながら。だで歳食って目が悪くなって来たもんで、その都度蛍光灯が1つずつ増えてくじゃんねぇ」。

そして人工砥石と天然砥石を使い分けながら、粗目から仕上げへと研磨。

「鋼は粘りがあって、研ぐと反発して跳ね返ってくるだ」。

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800粒度のダイヤモンド砥石で刃角を出し、6000粒度の砥石の上に、三河産の(しろ)名倉(なぐら)砥石を擦り合わせ、白名倉砥石の()(じる)と水を掛け仕上げの研磨。

「研いだまんまだと、砥石の粒子の粗さが残って、髪を切るとカツンカツンとブツ切れになるだ」。

だが昔から刀鍛冶に愛用された白名倉砥石で仕上げれば、粒子が細かく刃の表面が際立つ。

写真は参考

「何でも使い捨ての時代。でも自分の売った鋏は可愛いで、ちゃんと磨き込んでやりさえすれば、また新しい命を注ぎ込めるらあ」。

この道半世紀。

生涯一研師であり続ける男は、蛍光灯に刃を翳した。

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