「天職一芸~あの日のPoem 384」

今日の「天職人」は、岐阜県関市東本町の「鞘師」。(平成22年9月4日毎日新聞掲載)

忍者ごっこの小道具は 癇癪玉の爆薬に             栓を潰した手裏剣と 手拭い頭巾(ほお)(かむ)り            母の腰紐持ち出して ブリキ刀の鞘に巻き            背に袈裟懸けで絡げては 少年忍者いざ見参(げんざん)

岐阜県関市東本町の二代目鞘師、森雅晴さんを訪ねた。

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何より(いくさ)では、刀の斬れ味が問われた戦国時代。

一転、徳川の太平の世が訪れると、武士は柄巻や(さや)(ごしら)えに意匠を凝らし、家格や地位を表した。

同時に戦の無い世は、鞘絵を愉しむ余裕さえも生んだ。

鞘絵とは、江戸の中頃にヨーロッパから伝わった、騙し絵のこと。

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漆黒の漆で仕上げられた鞘の曲面に、奇妙に歪めて描かれた浮世絵を投影すれば、見事な姿が映し出された。

安寧な時代は、ただの人斬り庖丁を工芸の域へと導き、柄巻師、白銀師、鞘師といった一級の職人を育んだ。

挙句に鞘絵を描く絵師の技をも、押し上げたのだから申し分ない。

その末裔ともいうべき鞘師が、正絹の鞘袋に納まった刀を、恭しく取り出した。

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自慢の鞘には、栗形(くりかた)から(かえし)(づの)にかけ白い鮫革が巻かれ、鞘尻にかけての朱漆が粋な光沢を放つ。

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「こういった拵え物は、その時代の流行について、勉強せんとかんけど、鞘師から言えば白鞘(しらさや)の方が遥かに難しいんやて」。雅晴さんは穢れ無き無垢の白鞘を取り出した。

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雅晴さんは昭和23(1948)年、3人兄弟の末子として誕生。

だがわずか2歳の時に父を失った。

19歳で定時制高校を卒業すると、大阪の家具製造所で住み込み修業。

「父の弟が、戦時中から家具や指物とか鞘を作っとって、高校行きながら手伝っとたんやて」。

昭和45年、叔父から「鞘師を継いでくれんか」、そう懇願され養子となった。

「それからは義父の手付きを真似ながら、鞘の修業やわ」。

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一端の仕事を任せられるまでに、5年以上の歳月が流れた。

昭和49年、遠縁の悦子さんと結ばれ、一男一女が誕生。

難易度が高いとされる白鞘は、刀身と(はばき)だけの状態で、白銀師の手から委ねられる。

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まずは刀身の反りに合せ、朴の木を一寸四分角に木取り。

それを半分の厚さに切り分け、刀の反りを墨入れし、刀身を納める内側を鑿で彫り込む。

内側の彫が終わると、餅粉か続飯(そくい)で糊付けし、材の粘着力を高める。

「糊やと刀身が錆びんやろ。それに修理するにしても、糊付けしたるとこを割ればええだけやで」。

そして外側を鉋掛け。

さらに木賊(とくさ)を木片に貼り付け、乾燥させたもので磨きあげる。

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「朴の木は柔らかいで、細工もしやすいんやわ。それに刃文以外の地金は柔らかいもんで、杉や檜のような冬の目が立つ堅い材やと、地金を傷付けてまうで使えんのやて」。

一方、漆塗りや鮫革を張る拵え物には、表に烏帽子留めの(こうがい)、裏には紙切り用の小柄、そして下緒(さげお)を付ける、水牛の角から削り出した栗形、帯止め用の返角、さらに(かしら)(こじり)が取り付けられる。

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「鞘師なんてもんは、刀身に一つの傷も付けずに、ぴったり収めてなんぼの黒子やて」。

平成の鞘師は、己が腕に驕ることなく、さらりと笑い飛ばした。

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「天職一芸~あの日のPoem 383」

今日の「天職人」は、愛知県半田市の「生せんべい職人」。(平成22年8月28日毎日新聞掲載)

お宮参りのお土産は 知多の名物生せんべい           今日はどうして食べようか 家に着くのが待遠しい        ぼくは黒いの剥がし取り バナナを巻いて頬張れば        姉はリンゴを白で巻き 半分食べてもうやいこ(美濃・尾張弁=わけあう)

愛知県半田市で昭和5(1930)年創業、生せんべい一筋の総本家田中屋。三代目の田中純一さんを訪ねた。

子どもの頃、初詣の目当てと言えば屋台。

お参りなんてそっちのけ。

参道の屋台を取り囲む、晴れ着の人垣に目を奪われてばかりだった。

だから神も、そんな不心得者には手厳しく、未だろくなご利益を与えては下さろうとしない。

所詮身から出た錆か。

それはそうとして、初詣の帰り道、おねだりが功を奏し、予てより気に掛かっていた「生せんべい」を買ってもらった。

せんべいと呼ぶ以上、甘辛の醤油味にパリポリとした食感がまず浮かぶ。

そう思い、疑うこと無く口にした。

するとその瞬間、これまでの先入観が、ものの見事に打ち砕かれてしまったのだ。

「まあ、ういろのような、生八橋のような食感ですから」。

そもそも生せんべいは、今を遡る450年前。

桶狭間の戦いで、今川を討った織田軍に押され、知多へと逃げ落ちた徳川家康が、空腹を満たすため、焼く前の生せんべいを食ったことに端を発するとか。

「昭和の初め頃は、農家の副業として作ってたみたいで、家の祖父もオート三輪に積んで、内海の海水浴場へ、売りに出掛けたそうです」。

純一さんは昭和42年、3人兄弟の長男として誕生。

金沢の大学を出ると、そのまま醤油垂れ煎餅で有名な菓子屋で修業。

2年後に家業に戻り、生せんべいのイロハを学んだ。

「最初の頃は、餅の蒸し方と、砂糖の混ぜ方ばっかり」。

祖父が自ら昭和の初めに考案したという、練り機や切断機、それにローラーに囲まれながら、三代目の宿命を痛感。

平成9年、大府市から美由紀さんを妻に迎え、三女に恵まれた。

創業以来80年、当時の味と製法を守り抜く、田中屋の生せんべい作りは、毎朝夜明けと共に始まる。

まず米を製粉し、水を混ぜて蒸し上げる。

次に餅の中に、白色は上白糖に蜂蜜、黒色には黒砂糖を混ぜて練り、薄い板状に伸ばして乾燥。

それを3枚重ね、タイルほどの大きさに切断し、上から黒、白、黒の順に合わせて包装。

毎朝3時間ほどを費やし、2000枚を仕上げる。

保存料や添加物は一切加えられない。

「30年ほど昔は、日持ちも3~4日でしたが、今はビニールでピチッと包装してますから、10日は日持ちします」。

最盛期は、県内の主な神社が初詣客で賑わう正月。

「生せんべいは、3枚重ねを1枚ずつ剥がすのがこつ。昔のお客さんからは、剥がしにくいと直ぐに苦情が来て。理由は昔に比べ、コシヒカリも使って、米を良くした分だけ、粘りも出るからです」。

子どもの頃は白黒を重ね、「の」の字に巻いては遊び、飴玉代わりに食べたとか。

耳朶みたいに柔らかで、ほんのり甘い生せんべい。

クルリと巻いて頬張れば、幼きあの日の味がした。

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「天職一芸~あの日のPoem 382」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市二見町の「塩ようかん職人」。(平成22年8月21日毎日新聞掲載)

二見(おき)(たま)浜参宮 大注連縄の夫婦岩             男岩女岩(おいわめいわ)の間から 朝一番のご来光               (みそぎ)落として伊勢詣 二見を後にする前に             ちょいと一服お茶請けは 天の岩戸(いわと)の塩ようかん

三重県伊勢市二見町、大正末創業の五十鈴勢語せいごあん。二代目主の木下しょうさんを訪ねた。

「ありがたいもんですやろ。あの夫婦岩(めおといわ)のご来光。きっと朝一番のご褒美ですに。夏至は夫婦岩の間から、冬至は内宮の宇治橋の、鳥居の真ん中から朝日が上がってきますんやで」。

昌次さんは昭和18(1943)年、5人兄弟の末子として誕生。

大学を出ると、神戸の真珠専門商社で営業の職を得た。

「神戸に行った時から、母が『帰ってきてもうたろか?』と、何べんも父に聞いとったそやわ」。

昭和45年4月、ついに呼び戻されることに。

「それまでは土産物屋をしよって、『戻ったはええが、これから何すんのや』って」。

市内の和菓子屋へと通い、伊勢菓子の教えを請い、試行錯誤を2年繰り返した。

昭和47年、市内に住む幸子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

そして延べ4年の歳月を投じ、主力となる銘菓「伊勢物語」や「貝合せ」が完成。

やっと販売へと漕ぎ付けた。

「親父がいつの間にしとったんか知らんけど、『伊勢物語』も『貝合せ』も、商標が取ってあったんやさ」。

息子の将来のためにと、父はこっそり先手を打っていたのだろう。

―この地の恵みを取り入れた名物を作りたい。この地で生まれた者の務めとして―

そんな想いに光が差したのは平成9年。

「製塩規制が緩和されて、岩戸館の女将が塩を焼き始めたんやさ。その(あま)岩戸(いわと)の塩使って、何か作ろうと1年かけ試行錯誤を繰り返して。各地の塩まんじゅうを参考にしたり。でも隠し味に使うんやなしに、粗塩の旨味を出しとてな」。

翌年、「岩戸の塩ようかん」が完成した。

二見名物となった岩戸の塩ようかん作りは、糸寒天を一晩水に浸け込む仕込みに始まる。

寒天が溶けてから小1時間煮て、砂糖を加え沸騰。

小豆の漉し餡を加え、沸騰させて2時間ほど煮詰め、煮上げる直前に岩戸の塩を入れ再び沸騰。

そして型へと流し込み、1日冷ましてから竿ものや抜きものへと加工。

毎朝5時には作業を始め、1日300本が製造される。

そして竿ものは、孟宗(もうそう)(だけ)の皮で大切に包み、1枚1枚商品名と、屋号を押印した和紙を挟み込む。

「製造から販売まで、みな女房と二人きりでしとんやで、どうせなら印刷したもんより、1つずつ印を押した方が、心まで受け取ってもらえますやろ。そりゃあ少々、見た目は微妙にちごとっても、それが一つの味と違うやろか」。昌次さんが妻を見つめた。

塩辛くは無く、程よい甘味に奥行きが深い。

何より後味が、さらりと小気味いい。

「店でも、お抹茶と塩ようかんを、お出ししますんさ。ちょっとお伊勢さんまで来たゆうて、わざわざ買いに来られる遠方の方もおいでやで。ありがたいこっちゃ」 。

粗塩本来の旨味を活かしながらも、決して出しゃばり過ぎはしない。

コクが命の、天の岩戸の塩ようかん。

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「天職一芸~あの日のPoem 381」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「柄巻(つかまき)師」。(平成22年8月7日毎日新聞掲載)

商店街の玩具屋で あれこれいじり品定め            今度貰えるお年玉 指折り数え胸算用              やっぱ目当てはチャンバラの 玩具の刀赤い(つか)          ショーウィンドーのガラス越し 指を咥えて眺めてた

岐阜県関市の柄巻師、遠山康男さんを訪ねた。

「何せ刀の3分の1は(つか)やで。戦国時代の斬った張ったが終わると、鞘から飛び出して誰でも目にする柄巻は、その意匠で侍の地位から人格までを表現しとったんやろな。特にお城に上がる殿中差しとかは。武骨さを好む者もおれば、ちょっと歌舞伎者気取りに、粋を好んだ者もおったやろし」。康男さんは、天正拵(てんしょうごしらえ)の革巻きが施された、(うち)(がたな)の見事な柄を握った。

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康男さんは昭和21(1946)年、3人兄弟の末子として、刃物洋食器製造の家に誕生。

大学を出ると、家業の手伝いを始めた。

昭和46年、名古屋から美智子さんを嫁に迎え、一男一女が誕生。

「親父の友人に(はばき)師やら鞘師がおって、その人らんとこで見聞きしとるうちに、いつの間にか虜になったんやて。それで昭和53年から柄巻師の山田先生を師と仰ぎ、休みのたんびに師匠んとこ訪ねては、師匠の仕事ぶりを見て盗むようになったんやわ」。

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昭和63年、ついに家業を辞し職人の道を目指した。

「ちょうどその頃、天皇の即位礼の太刀60振りを、師匠が請け負い、それを手伝っとったんやて。でも師匠は既に癌に蝕まれとって、亡くなる1週間前にどうにかその仕事をやり終えたとこやった。今思うと、それが柄巻1本でやってくことになった転機やね。でもやっぱ大変やって。2~3年は、さっぱり食えなんだんやで」。

柄巻は、鞘師から託される棒柄を採寸し、柄下地を巻くための図面を起すことに始まる。

そして下地となる鮫皮を裁断。

「鮫皮と言っても、柄巻の場合はエイの皮を言うんやて」。

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そして鮫皮の厚みの分だけ、棒柄を鑿と鉋で削り落とす。

次に鮫皮が大きく突起した親粒・二之粒・三之粒を、柄の(かしら)側から1直線に並べて仮着せし、寒梅粉を練り上げ糊付けして本着せへ。

それを糸で縛り、風の当らぬ場所で2~3日陰干し。

「鮫皮の突起は、目から尾の方へ滑るようになっとるで、柄に巻くときは逆さに貼り付けんといかん。刀を抜いて激しく斬り合った場合、両手が柄を滑って刀が抜け飛んでまうやろ」。

柄下地が完成すると、仕上げの柄巻へ。

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「柄巻の種類は様々やわ。諸捻(ひね)り巻、ガンギ巻、庄内巻と。好みもあるでな。毛穴がつんどる、小鹿の傷のない皮を藍で染め、くすべて鶯色に発色させた革紐や、蛇腹糸を組紐にしたもんとか」。

鍔の方から途中で目抜きを入れながら、専用の()(どま)りと呼ぶ装飾用の釘で、表裏一箇所ずつかしめ、頭に向かって柄巻を施す。

「手止りには、肥後のオタマジャクシや、美濃の秋虫なんかがよう使われる」。

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気の抜けない作業が続き、月8本を仕上げる。

真ん中の一部だけを柄用に刳り貫き、放置された大きな鮫皮。

あまりにもったいないとつぶやいた。

すると、「ええんやて。山葵(わさび)(おろ)しの職人が、残った皮を使うんやで」と。

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「天職一芸~あの日のPoem 380」

今日の「天職人」は、愛知県知多市の「釣りエサ屋」。(平成22年7月31日毎日新聞掲載)

「晩のおかずは任せとけ」 寝巻き姿の母に告げ         夜も世も明けぬのに颯爽と 父はエサ屋へ大急ぎ         待てど暮らせど引きは無し 餌だけ食われ帰り道        「手ぶらじゃかん」と釣りエサ屋 生簀(いけす)覗いて品定め

愛知県知多市、釣りエサ友松。主の友松昭治さんを訪ねた。

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確かにこの店のはずだが。入り口を少し開け、声を掛けるが一向に応答が無い。

こっそり耳を凝らすと店の奥から、気持ちよさそうな鼾が聞こえて来るではないか。

「雨降りの昼間は客がこんで、うつらうつら仮眠ベットで居眠りしてまうんだわ」。昭治さんは、大きな伸びを一つした。

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昭治さんは昭和14(1939)年、大分県中津市の農家で5人兄弟の次男として誕生。

中学を出ると線路工夫に。

「卒業式の明くる日から、鶴嘴(つるはし)担いどったって」。

18歳になると今度は、北九州市へ出て沖仲仕に。

さらに4年後の昭和36年には、大阪難波の天ぷら屋に住み込んだ。

「そんなもん、いつまでたっても海老の皮剥きばっかだて」。

翌年、さっさと飲食業に見切りを付け土木作業員に。

それから3年後。

同郷出身の佳子さんと所帯を持ち、姉を頼って名古屋へ。

「倉庫で麦や米の積み下ろし作業だわ」。

やがて一男一女に恵まれた。

それからフォークリフトの免許を取得し、平成4年に退職するまで、数社を股に掛け家族を支え抜いた。

「51歳になった平成元年だわ。この店の道挟んだ前で、『たこ焼の友ちゃん』を始めたんだて。だって給料は振込みだで、みんな女房の懐に入ってまうだろ。でも店やっとりゃあ、小遣いちょろまかせるがあ」。

だが、たこ焼きを焼いた経験すら無い。

「そんだで、昔たこ焼き焼いとったおばちゃん見つけ出して来て。そしたらこれがどえらい売れるんだって。近くには海釣り公園や、マリンパークがあるもんで、客から『釣りエサないんか?』ってよう言われてな。そんなら、エサも売るかってなもんで」。

ところが肝心の、エサの仕入れ先がわからない。

「毎日、問屋探しだわ」。

やがて3軒の問屋にたどり着いた。

「東浦の問屋からは、四国で養殖したイシゴカイ、アオムシ、カメジャコ、それにインドネシアから輸入するストロー。常滑からもイシゴカイに中国産のアオムシ。静岡からは、冷凍のアミエビ、注しエサ用のオキアミだわ」。

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徐々に常連客も付いた。

「朝4時に店開けに来ると、もう4~5人客が待っとるんだて」。

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秋冬は黒鯛にセイゴ、春から夏に掛けてはキス、メバル、タコが上がる。

「常連の多くは、自分の釣り船持っとる人らだわ。中には定年後に毎日来る客もおるって」。

1杯500円のエサで、日がな1日釣り人たちは波間に竿を延べる。

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「でも10年前から、たこ焼きがさっぱり売れんくなってまってな。それで今は釣りエサ一本だわ」。

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2年前暮れのことだ。

「あんたとこのエサ屋から火出とるで!って、近所のもんが慌てて飛んで来てなあ」。

心無い放火で店舗が焼失した。

「一時は、店畳もうかと思ったて。でもそんなこと知らずに、客は楽しみにエサ買いに来るで、まんだ閉めるわけにもいかんわ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 379」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「白銀師」。(平成22年7月24日毎日新聞掲載)

(やいば)(まみ)える武士(もののふ)は 鯉口切ったその刹那              (つか)に命を握り締め 生死の間合い推し量る            (はばき)に刻む鑢目(やすりめ)に 武運を祈る白銀師(しろがねし)               鞘に隠した護符となれ 神よご加護を(つわもの)

岐阜県関市の兼吉刀剣、白銀師しろがねしの小坂稔さんを訪ねた。

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こぢんまりとした町にも関わらず、やたらと鰻屋の暖簾を見かける。

「そうやて。ここらは、刀鍛冶が多かった町やで、窯業の盛んな所と同じように、鰻屋がよおけある。刀鍛冶は、夏でも冬でも汗だくんなって、()()で火を焚かなかんでな。刀匠が刀工たちを引き連れて、鰻食わせて精をつけさせた名残やわ」。稔さんが、(やすり)を掛ける手を止めた。

稔さんは刃物問屋を営む父の元で、三人兄弟の長男として昭和21(1946)年に誕生。

大学を出ると剃刀の製造会社に入社。

品質管理を担当したが、わずか2年で退社し家業へ。

「その頃家では、プラスチックの成形と、打ち粉や油、それに拭い紙なんか、刀の手入れ具を製造しとったんやて。おまけに家のお爺は、馴染みの客から『刀研いでくれ、鞘や(はばき)作ってくれ』と頼まれて、お袋に手伝わせながら、ここらの職人に口利いとったんやわ。だからお爺が死んだら、母がお爺の仕事をやらせて欲しいと言い出してな。そしたら、そんなもん女の仕事やないやろってことになって、気付けばまんまと母にそそのかされ、ぼくにお鉢が回って来て。でもその内、鞘とかの木工よりも、研ぎや(つば)とか金目のもんの方に興味が沸いてな」。

昭和58年、知り合いの世話で雅代さんと結ばれ、男子を授かった。

翌年、自己流で製造した鎺を持ち、白銀細工の師の門を潜った。

「『作業見に来てもええ』って言われ、足しげく通ったもんやて」。

だが師匠は、手取り足取り奥義を授けるわけではない。

ただひたすら見て盗む毎日の繰り返し。

東京へも8年通い続け、研鑽を積んだ。

鎺とは、刀身が鍔と接する部分の金具である。

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鞘の鯉口いっぱいの幅で、鞘から刀身が抜け落ちぬよう、押さえの役を果たす。

「材は銅か銀や。銅は丈夫で長持ちするけど、緑青が吹く。銀は銅ほど丈夫やないが、錆びず刀にやさしいんやて」。

鎺作りは、鍛冶砥ぎを終えたばかりの刀身から、鎺を巻く(まち)の採寸に始まる。

刃から(むね)への身幅、()(まち)(むね)(まち)と。

まず銅板を2つ折りし、刃区と棟区に、銅の(まち)(がね)を噛ませ銀蝋付け。

「身幅は小さめに作り、縦横に金鎚で叩き伸ばし、鑢で削って刀身と一体にするんやて。そして鎺の銅の上から、薄い18金の銀割りを着せ、磨き上げて鑢入れ。縦横斜めに溝を入れたりして、地域や人物を表すような色んな意匠を凝らすもんやて」。

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鎺が取り付けば、柄巻師の手により中心(なかご)に化粧が施される。

「鎺なんて、鯉口切って抜き身にせんと見えーへん。だから鎺が見えた時は、命を斬り結ぶ瞬間や。それくらい、ほとんど誰の目にも留まらん所の金具ですら、武士たちは鑢目の意匠にこだわったもんなんや。そう思うと鑢目模様が、武士のお守りに見えるで不思議やて」。

白銀師は、蛍光灯の灯かりに鎺を翳した。

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「天職一芸~あの日のPoem 378」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「カステーラ職人」。(平成22年7月17日毎日新聞掲載)

月命日のお仏壇 祖母の好物山のよう              桃や葡萄にカステーラ 舌なめずりで手を合わす         供物の下がり待ちきれず 祖母にゴメンとカステーラ       セロハンめくり(かぶ)り付きゃ 「罰当たりが!」と大目玉

愛知県豊橋市、昭和40(1965)年創業の、カステーラの三景。女将の森下悦子さんを訪ねた。

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店先に漂う甘く芳醇な香り。

子どもの頃はこの匂いに釣られ、カステーラの焼き上がる時間を見計らい、何度も店の前を行き来した。

カステーラを頬張った、あの得も言われぬ食感を思い出し、その香りを腹一杯に吸い込もうと。

昭和半ばの時代、カステーラはまだまだ高級品。

だから病人の見舞いか、仏事でもなければ、めったやたらと口に入る代物ではなかった。

ふっくらもっちりと、舌に纏わり付く馨しさが堪らない。

「主人の焼くカステーラは、昔ながらの味やゆうて、皆さんご贔屓にしとくれやす」。悦子さんが、鮎菓子を包装する手を止めた。

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「この鮎菓子は、豊川の天然もんをモデルにしたるじゃんね。京都風に(えら)が張り出すように、皮を焼き上げて直ぐに折り曲げたるで、活き活きしとるらあ。でも家内が皮で求肥を包むと、(なまず)になってまうだ」。主の睦美さんが顔を出し大笑い。

睦美さんは、同県豊根村の農家で、9人兄弟の4男として昭和11年に誕生。

昭和26年、中学を出ると豊橋市内のパン屋で修行に就いた。

「まんだパンなんて、食券で買わなかん時代やった」。

10年後、叔父の世話で京都市の京菓子大極殿へ。

不慣れな土地に住み込み、修行に明け暮れた。

「3年したら兄が、ここの土地を買ってくれただ。急いで八卦見に屋号の相談したら、日本三景くらい有名になるようにと『三景』にせえと」。

東京五輪に沸き返った翌年、念願の店を現在地で開業。

翌年には、京都から悦子さんを迎え妻に迎え、二男一女を授かった。

「家内は大極殿で、事務員しとっただ。でも開業した1年目は、店がちゃんと回ってくか不安だったじゃんね。だもんで最初は1人で店を切り盛りして、ちょっと自信のついた翌年に、家内を迎えただあ」。

開業当初からの名代の逸品、三景のカステーラ作りは、材料の攪拌に始まる。

小麦粉、卵、砂糖、水飴、蜂蜜をきっちりとした分量で配合し、永年の経験に物を言わせて攪拌。

それを杉の正目で作った四角い木枠に、トタンを内張りした型に流し込む。

「焼き上がると、杉の木のいい香りがするだ」。

そして300度に熱したオーブンで、約1時間ほど焼き上げる。

「アルミの型では、木型のように上手く焼き上がらんだ。それに冬と夏、雨と晴れとでも、食感に微妙な違いが生じるで、後は火加減と永年の勘が頼りじゃんね」。

毎日5㎏が焼き上がる。

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「クリスマスだけ、常連さんに頼まれて、ケーキを150個も作るだあ」と、睦美さん。

「とにかく大忙しで、お寺に嫁いだ娘の旦那も、住職やけど手っとうてもうて。あっちは仏さんやで、その時期は閑じゃんね」。

東海道を下り、吉田の宿に嫁いだ京女も、今じゃすっかり三河の女。

ジャンダラリンの三河弁に、京言葉がはんなり入り混じる。

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「天職一芸~あの日のPoem 377」

今日の「天職人」は、岐阜県富加町の「関の刀匠」。(平成22年7月10日毎日新聞掲載)

トントンカンと(かな)(どこ)に 赤い火花が弾け飛ぶ           白装束に烏帽子(えぼし)()け ()()の刀匠玉の汗            中心(なかご)に刻む鑢目(やすりめ)の 美濃関鍛冶の鷹羽(たかのは)は             折って鍛えし刀匠の 矜持(きんじ)をかけた一振りよ

岐阜県富加町で明治35(1902)から続く刀匠、三代目丹波兼にわかねのぶさんを訪ねた。

写真は参考

幣紙(へいし)が垂れる藁縄の結界。

刀匠の聖地、()()では紅蓮の炎が勢いを増す。

「砂鉄から鋼を製鉄する(たた)()の神は、金屋子(かねやご)神と呼ばれる、えらい醜女(しこめ)の姫さんやったんやと。だで昔から、別嬪さんを連れてったらいかんと、言われたもんやて。それに鋼を生む火床を、昔の人は女陰を意味する『(ほと)』と呼んだとか」。兼信さんが、その由来を語った。

兼信さんは昭和28(1953)年、10人兄弟の7男として誕生。

「遅がけの子やったで、いつも父親に付いて回っとったらしい。確か小学5年の頃や。父と客人の話しの中で、跡取り話しが出て。そしたら急に父が『これがやるやろう』と。『お父ちゃん、俺に期待しとるんや』と思ったもんやて」。

大学を出ると、72歳の父に弟子入り。

「先代が病を患うまで16年間、教えていただきました」。

兼信さんは実父に対し、無意識に敬語を使った。

父である前に、今も師である証しだ。

「本当は、『早よ覚えんと死んでまう』と、切羽詰まっとったでな」。

古式日本刀の鍛錬は、刀匠と3人の先手(さきて)による、鋼の折り返し鍛錬に始まる。

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まず刀匠が火床の横に座し、(ふいご)を操り火床の温度を上げる。

そして梃子(てこ)(ぼう)の先に付けた、鋼を火床で沸かし(融点まで熱する)、それを(かな)(どこ)の上に取り出し、1番手から3番手までの先手が順に、大鎚で打ちつける。

刀匠は小鎚で、先手の打つ位置を示す。

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大鎚で打ち、そして折り返し、また火床で鋼を沸かし、不純物を全て焼き尽くす。

「その内に鋼の声が聞こえるんやて。『もういいよ』と。すると鋼の表面が羊羹みたいに滑らかになるんや」。

次は、鍛え上げた鋼の塊を重ねて沸かし、当鎚(あてづち)を打って鍛接する「作り込み」。

続いて刀の長さと身幅、そして厚みを整えながら「素延(すの)べ」。

それを横座(刀匠)が、火床で赤め小鎚で打つ「火造(ひづく)り」へ。

「火造ったままの凸凹を、(せん)(やすり)(なら)す」。

そして刃に焼刃土(やきばつち)を被せ、刃文の文様が出るように、土を薄く掻き取り、850度で10分間焼入れ。

水に浸けて「火取り」し、刃文を硬く仕上げる。

さらに150度で加熱し、「(あい)()り」へ。

「刃先に粘りを出すんやて」。

次に「鍛冶押し」と呼ぶ研ぎを行い、中心(なかご)を鏟と鑢で整え、化粧鑢で美濃地方の特有の鷹羽(たかのは)鑢目(やすりめ)を入れ、(たがね)で表に「兼信」の銘、裏に年号を刻む。

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「刃文は神代(かみよ)の時代から、たったの5種類しかないんやて。神代の直刃(すぐは)、平安末期の小乱(こみだれ)、鎌倉中期の丁子(ちょうじ)、鎌倉末期の()ノ目(のめ)、南北朝の(のたれ)。関の孫六は、尖刃(とがりは)の互ノ目や」。

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この一連の作業で、優に15日以上が費やされる。

 独り身を通した兼信さんに、跡継ぎはない。

「火床も炭を継ぎ足さんと、消え行くのが定め。それと一緒やて」。

刀匠は、己の鍛え上げた業物を、感慨深げに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 376」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市常磐の「いばら饅頭職人」。(平成22年7月3日毎日新聞掲載)

母は部類の餡子好き 畑仕事の帰り道              菓子屋の前で品定め おはぎさわ餅柏餅             中でも特に好物の いばら饅頭目がのうて            端午の節句過ぎるのを 今か今かと待ち侘びる

三重県伊勢市常磐、いばら饅頭の島地屋餅店。三代目女将の島地きよさんを訪ねた。

「柏餅が終わると『いばらまだ?いばらまだ?』ゆうてな。端午の節句が終わると、もう待ちきれやんお客さんらが、買いに見えるんやさ」。きよさんは、にっこり笑って表通りを見つめた。

きよさんは同県度会町の農家で、8人姉弟の長女として昭和10(1935)年に誕生。

「あんな頃は、『産めよ増やせ』の時代やったでな」。

農業を手伝いながら高校を出ると、花嫁修業の和裁を学んだ。

昭和31年、21歳で島地家に嫁入り。

一男三女を授かった。

「主人は教員を目指しとったんやけど、18歳の年に義父が亡くなって、家を継がんなんゆうて進学を断念したんやさ。何でもな、義父はえらい酒飲みやってな。戦時中は満足な酒も手に入らんやろ、それで仕方無しにメチルに手出して。せやで今際の際の言葉は『あっ、真っ暗になってしもた』やったとか。周りにおるもんらが、慌ててマッチ擦って見せたそやわ。それから統制が解除されるまでは、干したサツマイモを粉にして、お団子にしたりしてな。闇物資は取り上げられるで、そりゃあもう大変やったらしい」。

いばら饅頭は、元々伊勢地方に伝わる庶民の菓子で、昔は田植えの済んだ野上がりに、各家々で作られた。

「どこの家もなあ、子どもらが山行って、いばらの葉を取って来たもんやさ」。

いばらとは、サルトリイバラの楕円形の葉で、サンキラ(山帰来)の葉とも呼ばれる。

根は、利尿、解熱、解毒に効果がある生薬だ。

いばら饅頭作りは、毎朝5時半からの仕込みに始まる。

まず小麦粉を熱湯で手煉りしながら、砂糖と1つまみの塩を加える。

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「砂糖を加えやんと、皮が割れてもうて、水泡が出るんやさ」。

次に自家製の餡を1玉ずつに握り、それを生地で包餡し、塩漬けいばらの葉2枚で挟むように包み、10分間蒸し上げれば完成。

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毎朝7時半には店が開き、ほっこり蒸し上がったばかりの、いばら饅頭が店頭に居並ぶ。

毎朝100個前後が製造されるが、残念ながら売り切れ御免の商品である。

「今しは、仕込から製造まで、みんな嫁がしてくれるでな。せやで今日こさえた分だけ、1日かけてボチボチ2人で売らしてもうとんやさ。大量生産する大手とちごて小商いやで」と、きよさん。

「でもなあお義母(かあ)さん『それが安心やでええっ』て、そんなお客さんがおるんやで、ありがたいことやに」。嫁の朗子(あきこ)さんはそう言いながら、冷えた麦茶といばら饅頭を勧めた。

いばらの葉を1枚めくり、無作法にもかぶり付いた。

するといばらの葉が仄かに香り、艶と張りのある皮の向うから、柔らかな餡が口の中にまったりと広がる。

伊勢人の、秋口までのお愉しみ。

市井(しせい)の銘菓、いばら饅頭もう一つ。

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「天職一芸~あの日のPoem 375」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「チンチン電車運転士」。(平成22年6月26日毎日新聞掲載)

運転席の真後ろが 幼いぼくの指定席             「発車オーライ」チンチンと マイク片手に車掌さん       指先確認真似ながら ぼくの気分は運転士           「チンチン電車お通りだい」 それゆけ道のド真ん中

愛知県豊橋市の豊橋鉄道で、昭和47(1972)年からチンチン電車の運転士を続けた、森島とめひろさんを訪ねた。

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昭和を駆け抜けた、天下御免のチンチン電車。

交通量の多い大通りでも、道の中央を威風堂々たる姿でひた走ったものだ。

だがそれも東海地区では、もはや唯一、愛知県豊橋市に残るだけとなってしまった。

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「元々が、しゃんべぇ(遠州弁=喋り好き)だで、車掌時代もワンマンカー運転せるようんなってからも、お客さんと接することが全然苦んならんじゃったでねぇ。昔はお婆さんなんかが、『これ、余ったやつだけど、あんたに上げるわ』って、差し入れしてくれたこともあっただ」。留廣さんだ。

昨年定年で退職し、現在は車庫内で電車を移動させる、操車係りを務めている。

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留廣さんは昭和24年、静岡県浜松市で5人兄弟の3男として誕生。

中学を出るとそのまま、豊橋鉄道に入社し車掌として乗務した。

「真っ黒な車掌鞄を肩から吊り下げて、パンチ(切符に穴を開ける鋏)を西部劇のガンマンみたいに、右手でクルクルッと回して。当時は車内にマイクがあれへんもんで、大声を張り上げて案内せんとかんじゃんね」。

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東京五輪が終わったばかりの時代、チンチン電車の運賃は、大人が12円、子どもが6円だった。

それから6年。車掌が乗務したツーマンから、ワンマン運行の時代へ。

「他の車掌は配置換えしてったけど、私は好きな電車から離れられず、運転士を希望しただあ」。

昭和47年に運転試験に合格。

「見習いの頃は、先輩の運転士が同乗して、通常ダイヤの合さ縫って回送電車で練習しただ」。

ワンマンに切り替わったとは言え、まだ電車はツーマン時代のまま。

「車掌が乗っとった時代ならええけど、運転士一人きりだもんで。バックやサイドのミラーを取り付けてまうまでは、勘だけで走っとっただわ」。

豊橋駅前から赤岩口まで、毎日7.5往復を運行した。

昭和51年、渥美線豊橋駅の出札に勤務する、窓口担当のマドンナ公子さんの心を射止め結婚。

三男を授かった。

「労働組合のキャンプで、初めて口利いただ」。

37年間、退職の日が訪れるまで、留廣さんは白手袋を着け、行路表(運行ダイヤ)を手に、大好きなチンチン電車を走らせた。

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「何でチンチン電車かって?それは、車掌が乗務しとった時代の名残だって。車掌が呼鈴の釦を、チンチンと2回鳴らせば発車。チンが1回だと止まれ。チンチンチンチンと連打すれば緊急の合図。だもんでチンチン電車だわ。もう今では、チンチンなんて鳴らんけどな」。

中学を出て45年、ひたすら同じ道を走り続けた。

「どんなに街や人が変わろうと、未だに何一つ変わらんのは、初めて公道を電車で走った、あの時の線路だけらあ」。

それが留廣さんの愛した、豊橋レイルウェイズ。

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