「天職一芸~あの日のPoem 394」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯高町の「でんがら職人」。(平成22年10年10月30日毎日新聞掲載)

梅雨も盛りの半夏生(はんげしょう) 庭木に宿る雨蛙 田植えも終えた縁側じゃ 家族総出で茶の宴 餡の匂いが立ち込めりゃ 「でんがらまだか」子が騒ぐ 「さあ蒸したてを召し上がれ」 (ばあ)ばが盆を差し出した

三重県松阪市飯高町のおふく茶屋。女将の中前たつゑさんを訪ねた。

「ここらは都会とちごて、ハイカラなもんなんてありませんのやさ。一山越えたら、そこは大和(やまと)(奈良県)やし」。森の静寂に抱かれる中、たつゑさんがこの地方に伝わる郷土菓子の「でんがら」を差し出した。

「ここらでは、野上がり饅頭ゆうんさ。昔は田んぼが一段落する半夏生(はんげしょう)を待って、銘々の家々で作って食べたもんやさ。子どもの頃は、それが待遠してかなんだ」。

でんがらとは、朴の葉に包んで蒸した、柏餅のようなもので、四角い形が特徴だ。

由来は、「(でん)上がり」が訛ったとも、また朴の葉で包み、細く割いた棕櫚の葉で十文字に結ぶため、「田」の字に見えるからとか。

たつゑさんは昭和16(1941)年、9人兄弟の下から2番目として誕生。

中学を出ると、家業である農林業を手伝いながら、花嫁修業を積んだ。

昭和40年、遠縁にあたる信次さんに嫁ぎ、二男一女を授かった。

「ちょうど平成に改まった頃やった。義母を中心に地元の主婦5人が集まって、飯高町の伝統食であるでんがらこさえて、村興ししよゆうことになったんさ」。

翌平成2年には、たつゑさんも仲間に加わった。

「初代の人らが、なあんも無いところから、一から始めやしてな。さぞかし、大変なことやったろと思いますわ」。

平成12年、義母らの引退でたつゑさんが、女将を務めることに。

「初代の方らから『でんがらの火を消さんといてな』って、えらい責任の重いバトン渡されてもうてな。今しも5人のベテラン主婦で、みなで助けおうてやっとんやさ。えっ?歳か?確か、上が80歳越えで、一番わこても62歳やな」。茶屋にたつゑさんの笑い声が響いた。

飯高町名物のでんがら作りは、朴葉を6月頃に山から一年分取って、塩漬けする作業に始まる。

次に小麦粉、米粉、餅粉、片栗粉と熱湯を入れ手捏ねする。

そして小豆を1時間炊き上げ、漉し器で漉し、砂糖を混ぜてもう一度煮て漉し餡に。

次に餡を一口大に丸め、切り分けた生地を掌で伸ばし、餡を包み込み四角に形成。

それを広げた朴葉で包み、細かく割いた棕櫚の葉の紐で、十文字に結んで約25分間蒸し上げれば完成。

「何で四角かって?昔は丸うしよった時もあった。せやけど棕櫚の紐できつく結ぶと、真ん中だけがくびれてもうて、雪だるま型になってしもて。せやもんでいつの間にか、今しのような四角い長方形になってったんやろ」。

天然無添加の素朴なでんがらは、白と蓬の二種類。

「遠方から里帰りする人らは、必ずでんがら食べに寄っとくれるんさ。私らもそれが楽しみでな。中には何10個と持って帰る人もおるんやさ。帰って冷凍しといて、でんがらが恋しなったら、解凍してまた食べるんやと」。

遠き古里の味「でんがら」。

朴の葉をめくった瞬間、今は亡き母の匂いがした。

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「天職一芸~あの日のPoem 393」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「恋文代筆屋」。(平成22年11月20日毎日新聞掲載)

いつも電車で乗合わす 名前も知らぬお嬢さん          何時の間にやら片思い つい駆け込んだ代筆屋          改札口で待ち伏せて 「好きです」と声震わせて         恋文出して気が付けば 「ママ何それ?」とはしゃぎ声

三重県松阪市の恋文代筆屋、中村透さんを訪ねた。

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「女道楽なら、まだカッコよろしで。でもわしの場合は筆道楽。せやで筆見るとなんやムラムラしてもうて、つい手が出てまうんやさ。そやなあこの60年間で、5~600本はこうたやろな」。透さんは、大きな筆箱を広げた。

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透さんは昭和10(1935)年に誕生。

「兄弟は8~9人で、たぶん上から3~4番目やろ。昔のことやで、ええ加減なもんやさ」。

楷書の得意な少年として育った。

「父が坊主で、それもあってか、筆と硯がいつも置いてあったでな。でも子どもの頃は、『おまえとこの親父は、人が死んで銭儲けしとる』ってようからかわれたもんや」。

中学を出ると、津市の親方の下で住み込み修業に。

「修行に入ったら、直ぐに親方から『お前は文字書き専門や』と言われて。月に最高でも500円の小遣いやった。せやで散髪して映画見たら仕舞いや」。

5年の修行を終え、職人の駆け出しとなった。

「昭和31年の4月や。初めてもうた給料が、40倍の2万円も入っとって、えろうびっくりしてもうてな」。

明けても暮れても、トラックに会社名を書く毎日が続いた。

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「多少歪んどってもかめへんでって言われて。ちょうど津に陸運局があったもんで、尾鷲や四日市からも新車が登録のために、次々とやって来て大忙しやった」。

昭和38年、知り合いの紹介で玲子さんと結ばれ、二男一女を授かった。

翌年、晴れて独立開業。

「自動車の文字書きから看板、香典袋、表札、それと弔辞の挨拶文に結納の目録まで。とにかく何でも書きよったさ」。

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徹さんは文字書き一つで、一家5人を支えぬいた。

「昭和41年頃やったやろか。『ごめんください』ゆうてな、自衛隊の制服着た若者が入って来たんやさ。『わしは字が下手やで、彼女に手紙書いてまえんか』ゆうて」。

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男は便箋3枚を取り出した。

「そんなん恋文なんてもん、自分のんもよう恥ずかして書かなんだに。それにしてもあんまり真剣やったで、和紙に墨で書いて折り畳むようにしてやったんさ。そりゃもう甘い言葉が綴られとって、こりゃあ硬い字ではあかん、そう思て行書で書いたんやさ」。

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すると男が代金を問うた。

「せやけど、車みたいに10年20年と使うもんやなし、恋文なんて1回こっきりのことやで、安うしといたったさ」。

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その後、男が現れることはなかった。

「結ばれとってくれりゃええが。まあ、わしが真心込めて書いた、初めての恋文やったで、きっと思いは通じたやろ」。透さんは遠くを見詰め、無邪気に笑った。

「なんちゅうても、わしら文字書きの代筆屋にとったら、筆が命やさ。軽自動車1台分ほどするええ筆つこたら、たちまち人気が出て、仕事もはよなるし、腕も上がる。まあお迎えが来る日まで、まだまだ書き続けやんと」。

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代筆一筋60年。

しかし後にも先にも、たった一回限りの恋文代筆屋。

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「天職一芸~あの日のPoem 392」

今日の「天職人」は、愛知県豊田市北篠きたささだいら町の「一閑張(いちかんば)()(たい)漆器職人」。(平成22年11月6日毎日新聞掲載)

講釈(こうしゃく)垂れのご隠居は 骨董好きの変わり者            いつもぼくらを呼付けて 茶道具眺めご満悦           ぼくの目当てはただ一つ 薀蓄(うんちく)聞いたその褒美        一閑張(いっかんば)りの(じき)(ろう)に 隠し置いたる京饅頭

愛知県豊田市北篠きたささだいら町、笹平工房の一閑張いっかんばたい漆器職人、安藤則義さんを訪ねた。

国道を川沿いへ分け入ると、桜並木が続く。

秋を待ち侘びた虫の音と、川のせせらぎ。

まるで俗世の穢れが、洗い流されるようだ。

「主人は今、紙を漉いてますので、一段落したら参ります」。晶子夫人の案内で座敷に通された。

床の間から座敷の棚まで、漆器が居並ぶ。

窓辺に差し込む朝の光を薄っすら身に(まと)い、淡い光沢を漆が照り返す。

「ちょっと手が放せなかったもので」。則義さんが、徐に座についた。

則義さんは、旧小原村(現・豊田市)で三男坊として昭和22(1947)年に誕生。

「戦前、七宝焼工芸家の藤井達吉(たつきち)さんが、旧小原村に疎開してみえて。父はその人柄に惹かれ、私が生まれて間もない頃に、大工の生業を捨て師事したそうです。『お前は大工だから、刃物が砥げるし、何かと有利や』という理由だけで」。

中学を出ると下宿し、高校大学へと進学。

「最初の頃は、もう跡取りもいるから、私は外へ出ればいいんだと思ってました。でも大学出る頃になると、無性に古里小原村が恋しくなって」。

卒業と同時に実家へ舞い戻り、父の手伝いを開始。

職人道へと、のめり込んだ。

昭和49年、知り合いの紹介で、東京から晶子さんを嫁に迎え、一男一女が誕生。

一閑張りとは、江戸初期に明より渡来した漆工、一閑の名が冠せられたもので、木型を使い和紙を張り重ね、型から外して漆を塗った漆器を指す。

「その中でも、和紙を自分で漉いて、紙だけで仕上げる紙胎漆器は、ぼくと兄だけじゃないかな」。則義さんは何の気負いもなくつぶやいた。

小原和紙の一閑張り紙胎漆器の皿作りは、小原和紙を簾で漉くことに始まる。

そしてそのまま自然乾燥へ。

「紙床で和紙を圧縮しないから、繊維の密度が高まらず、腰のないフエルト状になる。だから皺も伸びやすく、糊漆の吸収がいい」。

次は欅で木型作り。

轆轤(ろくろ)を引き、凸面の型を作り、剥離材を装着。

凸面に麻布を水張りし、その上から和紙を2枚水で張り、型の周りだけを米糊で、木型を覆うように接着。

乾いたらその上から和紙を2枚、(わらび)(のり)で接着。

乾燥した上から和紙5枚を糊漆で張り乾燥させ、また和紙5枚を糊漆で重ね張る。

そしてもう一度乾燥後、和紙2枚を糊漆で張り乾燥させ、さらに和紙2枚を糊漆で張り合わせる。

そして木型に糊付けした和紙を剥がし、凸面と麻布との間に(へら)を入れ、木型から剥離し、麻布を取り去る。

次に周りのバリ(余分な部分)を処理し、ベンガラと漆を混ぜた赤呂漆を塗り、その後、呂色漆を3度塗り重ね仕上げへ。

すると和紙18枚は、木地にも劣らぬ堅さを得る。

「平らな皿1枚仕上げるのに3ヶ月。ちょっと細工物の(じき)(ろう)なんかだと、まあ1年はかかりますな」。

職人は、低木の(こうぞ)を和紙に代え、千代に生き続ける新たな命を、己が一刷毛の漆に託す。

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「天職一芸~あの日のPoem 391」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市栗巣の「山葵下ろし職人」。(平成22年10月23日毎日新聞掲載)

山葵下ろしのせいにして 父はボロボロ涙した         「晴れの席よ」と母の声 金の水引鶴と亀           「お転婆者と案じたが 見違えるほど綺麗だ」と         父は手酌で赤ら顔 箸も付けずの祝い膳

岐阜県郡上市栗巣の頑固屋、山葵下ろし職人の鷲見すみ明さんを訪ねた。

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穢れを知らぬ真っ黒な(まなこ)を見開き、ヨチヨチ歩きの幼子が駆け寄る。

男はたちまち相好を崩し、体の大鋸(おが)()を払い抱き上げた。

「孫とちゃいますに。これでも娘なんやさ」。明さんは、照れ臭げに娘に頬ずりをした。

明さんは昭和35(1960)年、兼業農家で4人兄弟の3男として誕生。

専門学校を出ると、陸上自衛隊明野航空学校で航空整備を担当。

昭和58年、国家試験に合格し航空管制官となった。

その後、各地の駐屯地で勤務し、平成6年に退官。

「ヘリの操縦免許を取りたくって、バイトして留学資金を貯めとったんです」。

翌年35歳で渡米。

平成8年、操縦免許を取得し帰国した。

「不景気で就職先がなくって。そしたらバイト先だった運送会社から、新事業を一緒に始めんかと誘いが」。

だがその準備中に、高熱が続きお多福風邪に。

郡上へと舞い戻り、1ヶ月の養生を続けた。

「新事業も断念し、これから何をしようかと、半年ほど悩み抜いて鬱状態になってしまって」。

すると地元の知人から声が掛かった。

「サメの皮で、山葵下ろしやってみんか」と。

だが全くの未知の世界。

何はともあれ、サメの皮探しから始めた。

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「そしたら刀剣の柄巻師さんを紹介してもらえて。その方と一緒に、東南アジアを探し回ったんやて」。

サメ皮の仕入先は見つかったものの、下ろし作りは全くの素人。

「試行錯誤の連続やさ。他所の下ろしを取り寄せて研究したり。でも他所のは、サメ皮が剥がれやすいんやわ」。

またしても接着剤探しに奔走する日々が、3ヶ月も続いた。

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「山葵は口に入れるもんやで、サメ皮を貼る接着剤の成分は、食品衛生法で定められた無害な物じゃないといかんし」。

商品化までに、延べ2年以上の歳月が費やされた。

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平成18年、美代子さんと結ばれ、やがて一女が誕生。

「お多福風邪をこじらせたで、子が出来たって言われ、最初はほんまびっくりやったわ。でも神さんが、授けてくれたんやろな」。

山葵下ろし作りは、広葉樹の(しら)()で加工された下ろし板の、サメ皮を張り付ける接着面を、1つ1つ手で加工することに始まる。

「接着面をきれいに加工し過ぎると、摩擦力が弱まってサメ皮が剥がれ易くなるんや」。

そしてサメ皮の裏面にも、同様の処理を施す。

次に下ろし板とサメ皮に接着剤を塗布し、陰干しで乾燥。

さらにもう一度接着剤を塗布し、乾き切る寸での所で万力に掛け、その後圧着したまま2~3日陰干し。

最後にサメ皮のバリ(余分な部分)を研磨機で落とし、皮の表面に飛び出した接着剤を、千枚通しを使い1穴1穴取り除けば完成。

気も遠のくほど細やかな作業だ。

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「サメ皮の表面には、無数のちっこい毛穴のようなもんが開いとって、そこから接着剤が滲み出るで」。

どんなに頑張っても、1日50個が限界とか。

山葵下ろし職人の足元には、愛娘がいつまでも纏わり付いていた。

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「天職一芸~あの日のPoem 390」

今日の「天職人」は、三重県熊野市遊木町の「戻りサンマの丸干し職人」。(平成22年10月16日毎日新聞掲載)

破れ団扇で火を(おこ)しゃ 背なの妹煙たがる            (ゆう)()港に陽が落ちりゃ (とう)の漁船が沖目指す           朝日に染まる熊野灘 大漁旗を(ひるがえ)し               戻りサンマを山積みに (とう)が港へ引き返す

三重県熊野市遊木町、干物の浜峰商店。二代目干物職人の浜口克成さんを訪ねた。

「熊野灘を下る戻りサンマは、荒波を泳ぎ抜いて来るで、わしらとちごてメタボやないんさ」。克成さんは、港から沖を眺めた。

「ここらは、300年の伝統を誇る、サンマの刺し網漁発祥の地やで」。

港に舫われたサンマ船が、出港の時を待つ。

克成さんは昭和27(1952)年、5人兄弟の長男として誕生。

「魚屋の三男坊やった父が、復員後サンマ船を持って漁を始めたんさ。ところが4歳の時に大不漁で、家を取られてもうて。その後、新宮(和歌山県)に間借りし、魚屋を始めたんやさ」。

昭和34年、親類の助けを借り、遊木町へと戻った。

「そしたら今度は、伊勢湾台風に見舞われてもうて。船が家の中へ飛び込んで来るんやで」。

小学生時代は、もっぱら父の仕事を手伝った。

「父は正直もんで、お客さんらに『美味しいわ』と喜んでもらうために、骨身を削って働き詰めたんさ」。

それから10年。

ボロ雑巾のようになるまで、働き通した父は、過労が祟り急逝。

「その年、高校を2年で中退し、店継いで父が失った家を取り返すと(ちこ)たんさ。妹たちの面倒もみやんならんで」。

従兄弟の船長から「魚屋やんなら、魚場を勉強せえ」の一言で、漁船に乗り込んだ。

「えらい月給がようて。でもそのお陰で、魚獲ってからの処理も覚えたんやさ」。

昭和45年、中古の軽トラを月賦で手に入れ、母と二人で浜峰商店を再興。

行商を始めた。

「父から干物の加工方法は、じぇんぶ教わっとったし、塩の塩梅は母が覚えとったで」。

母と子の商が続いた。

昭和52年、海山町(現・紀北町)から幸美さんを妻に迎え、二女が誕生。

「当時は今とちごて、まだ鮮魚もやりよったんさ。それで鰹問屋やった女房の実家へ仕入れに行ったら、どこでどう間違(まちご)うたんか、嫁まで仕入れてもうて」。

天下に誇る浜峰の戻りサンマの丸干しは、潮目と月の満ち欠けの見定めで決まる。

「サンマの腹ん中が空っぽになって、カンピンタンのペラッペラになる、まだ夜も明けやん(あさ)(やみ)獲りが一番なんやさ」。

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水揚げされたばかりのサンマを、永年の目利きで競り落とす。

(けつ)の穴が閉じとるやつがええ」。

サンマに天然海塩を振り掛け、手もみし木桶に一晩漬け込み低温熟成。

「手もみすると、その日のサンマの表情が見えますやん」。

翌朝、熊野山麓の天然水で塩出し。次に尻尾を2匹で1つに縛り、丸2日天日に干せば出来上がり。

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「まだ新物やないけどどうや?」。

そのまま大胆に、手掴みで噛り付いた。

何とも言えぬ噛み応えと、肉汁の甘味が広がる。

特に(はらわた)はこの上なく絶品だ。

「せやろ。水揚げしたばかりの、刺身でも食えるサンマを、わざわざ干物にしたるんやで、うも(=うまく)ないはずがない。潮の香りを封じ込めた贅沢な干物やで」。

後4日、熊野の戻りサンマ漁が解禁日を迎える。

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「天職一芸~あの日のPoem 389」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯南町しもがきの「和包丁鍛冶」。(平成22年10月9日毎日新聞掲載)

菜切り包丁一本で 母は何でも切り分けた            野菜果物肉魚 ケーキ羊羹お漬け物               柄の付け根まで朽ちようと 研いでは使うその訳は        嫁入る時に一つきり 祖母が持たせた道具ゆえ

三重県松阪市飯南町しもがきの鍛冶安。五代目和包丁鍛冶のあかはた大徳とものりさんを訪ねた。

カンカンカンカンカーン。

(しら)()(さん)麓の静かな里に、規則正しい鎚音が響く。

「30年前まで爺さんは、地べたでコークス焚いて、野道具の備中鍬や唐鍬なんかを(あつら)えとったんやで」。大徳さんは、金床からゆっくりと顔を上げた。

鍛冶安は、明治27(1894)年、坂を下った旧伊勢本街道沿いの作業場で、()()に火入れを始めたという。

大徳さんは昭和50(1975)年、3人兄弟の次男として誕生。

「祖父が亡くなる小学校の4年まで、爺さんの鍛冶場が好きで、しょっちゅう遊び場にしては叱られたもんやさ。鉄を打つゆう行為に、オスとしての本能が反応したんやろか」。

体育教師を志し、大阪の大学へと進んだ。

「母校へ教育実習で行ったら、体がでこ(=でかく)ないもんで高校生に転校生と間違われて『おいっ、兄ちゃん』って呼ばれてもうて。バレー教えようとしたら、基礎練習はちっともしやんと、『はよ試合させろ』ってそればっかり。俺らと4つ5つしか違わんのに、みんなえらい無気力で。こりゃあ手に負えんやろうと逃げ帰ったんさ」。

卒業後は就職もせず、バイト生活の日々が続いた。

「このままやったら、身も心も腐ってまう」。

ついに帰郷。鉄鋼建設を営む父の手伝いを始めた。

それから3年。

「おとっつあん死んだら、この先なとしよう」。己の行く先を己に問い掛けた。

そんな折り、知人から京都の鍛冶師「(よし)(さだ)」、十代目当主の山口(てい)(いち)(ろう)氏を紹介され、すぐに京へと上り弟子入りを請うた。

「そしたら案の定『やめとけ』って。そりゃあ一応、師匠たる者、最初はそう言いますやろ」。

平成13年、弟子入りが認められ修業に入った。

それから6年、和包丁鍛冶のイロハを学び帰郷。

ついに平成18年、22年間火が消えたままの鍛冶安の火床に、真っ赤な火が燃え上がった。

出刃の火造りは、まず鋼と地金を出刃の寸法に()()りすることから始まる。

「出刃や刺身包丁の片刃は、両刃とちごて、右利き左利きで刃の位置が違ごてくるで」。

そして火床に入れて鍛接(たんせつ)

次は火床から取り出し、荒々に叩き伸ばし、柄に差し込む中子(なかご)を造り焼きなましへ。

「火床で温度を上げ、それを藁灰の中で一晩掛けてなだめるんやさ」。

火造りが終わると、研磨盤に掛け、磨り回し。

次に鉄側から叩き、鋼を叩き占める冷間(れいかん)鍛造(たんぞう)へ。

そして泥を塗り火床で焼入れし、そのまま一旦水に浸け、再び180~200度で焼き戻す。

「鋼の粘りをだすんやさ」。

そして粗研ぎで歪みを取り、本研ぎで仕上げし、朴の柄を挿げ「火造鍛造 大徳(だいとく)作」の銘がタガネで刻み込まれる。

「鉄は文句も言わんし、己の技量一つでええ子にも、出来の悪い奴にもなる。せやでこれまでグレた奴を、銘もよう刻まんと、どんだけほうたったか」。

若き鍛冶匠は、悪戯小僧のような目で、燃え盛る火床を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 388」

今日の「天職人」は、三重県尾鷲市賀田の「ろっぽう焼き職人」。(平成22年10月2日毎日新聞掲載)

輪内(わうち)七浦(ななうら)賀田(かた)の里 入江に揺蕩(たゆとう)(あさ)(がすみ)              熊野詣での古道ゆく 旅人たちも一休み             ちょいと一服茶に銘菓 ならばこの地の名物を          姿形は五角でも ろっぽう焼きとこれ如何に

三重県尾鷲市賀田で昭和8(1933)年創業の、みのや製菓舗。二代目主の、大川きんさんを訪ねた。

「何で5角形の7面やのに、ろっぽう焼き言うんやろうね。最初は4角の6面やったけど、それやと4隅が生焼けになってしもて。生焼けせんように、4角の面を押し付けて焼いとったら、そのうちに5角形になってもうとったんさ」。欽生さんは、人の良さそうな笑顔で出迎えた。

欽生さんは昭和16年、6人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると直ぐ、家業に従事した。

「父も修業に行った、久居(津市)の製菓店で、勉強させてもうて」。

父と共に、郷土菓子の「おさすり」「ろっぽう焼き」の製造に精を出した。

「あのねぇ、おさすり言うんは、米粉の餅に漉し餡入れて、(さん)帰来(きらい)(サルトリイバラ)の葉に包んだ、柏餅のようなもんやね。ろっぽう焼きゆうたら、元は隣りの曽根町の菓子屋さんが始めたもんで、今はもう家しか作っとらん。これは金鍔(きんつば)の親戚みたいなもんで、漉し餡入れたちょっと小ぶりな5角形やさ」。

親子水入らずの気取らぬ商いは、代々この地に暮らす人々から愛され続けた。

昭和47年、隣りの曽根町からくすみさんを嫁に迎え、やがて二男に恵まれた。

出逢いは?と問うと「あのねぇ。父が曽根町の医者の葬儀に行ったんやさ。それで葬列に加わって歩いとった時、道端で葬列を見送るこれを見つけたんやと。帰って来たらいきなり『お前の嫁さん見つけて来たったで』って」。

義父に見初められたくすみさんが、傍らで少女のようにはにかんだ。

「あのねぇ。この辺りには、7つの浦があって輪内(わうち)いうんさ。それである時、ろっぽう焼きを輪内焼きにしよかと。近所の知り合いら20~30軒に、アンケートを取ったら、みなろっぽう焼きいう名を変えやんでくれゆうてな」。

ご当地自慢のろっぽう焼き作りは、砂糖、水飴、卵、水、そして隠し味に味醂、醤油を混ぜ合わせることに始まる。

次に小麦粉と炭酸パウダーを入れて混ぜ合わせ、手練で固さを調整。

そして生地に自家製の北海道産小豆の漉し餡を包餡し、鉄板の上で表裏を焼き、周りを5角形に回し焼けば出来上がり。

「昔は山師さんが、1人でいっぺんに40個も食べたのもおったさ」と夫。

「山師さんらは重労働やろ。せやで甘いもんが必要なんと違うやろか。ここらは何と言っても、輪内音頭とろっぽう焼きやでな」。

♪輪内七浦鏡の入江 ちょいとちょいと♪

いきなり目の前でくすみさんが、輪内音頭を口ずさみ踊り出した。

「なっ、古賀メロ()ーのええ曲やろ」。

夫婦の笑い声は、まだまだ止みそうに無い。

平成14年5月から始まった天職一芸も、この夫婦で404回目。

しかし取材の後、唄って踊ってくれたのは、後にも先にもこれが初めてだ。

物書き冥利に尽きた、尾鷲賀田の浦。

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「天職一芸~あの日のPoem 387」

今日の「天職人」は、愛知県春日井市美濃町の「白墨職人」。(平成22年9月25日毎日新聞掲載)

給食後の5時限目 うつらうつらと舟を漕ぐ           ハッと気付いて澱拭(よどぬぐ)や 横のあの娘も吹き出した         眠っちゃかんと思うほど 睡魔の罠に落ちてゆく        「こらっ!」と教師の怒鳴り声 ちびた白墨でこパッチン

愛知県春日井市美濃町の羽衣文具。三代目、白墨職人の渡部隆康さんを訪ねた。

カツカツ、キキーッ。

黒板を走る白墨が、時折り耳障りな音を撒き散らす。

すると虫唾が走り、なぜか両の指先の力も抜け落ちたものだ。

写真は参考

「昔の白墨は、滑りの悪い粗悪な物もありましたからなあ」。隆康さんが、懐かしげにつぶやいた。

隆康さんは昭和19(1944)年、名古屋市中区で3人兄弟の長男として誕生。

「創業者の祖父は歯科医だったんです。ところが昔は、歯の治療から歯科技工まで、全部こなさんとだめだったようで。もともと祖父は創意工夫が好きでして、雑貨や金物の発明などもしたそうです。そして歯科医時代の技工で、石膏を取り扱った関係もあり、昭和7年に白墨製造を始めたんです」。

ところがやがて、戦争の暗い影が立ち込める。

「私が産声を上げた時は、既に父は召集され戦地でした」。

昭和20年の名古屋大空襲で焼け出され、家も工場も失った。

「翌年父が復員し、昭和22年に工場を再開したんです」。

その後、昭和34年に現在地へ。

昭和41年、大学を出ると、オイルの再生工場に勤務。

製品試験を担当した。

ところが翌年、突如家業に呼び戻されることに。

「専務だった叔父が、体を壊してしまって」。

高度経済成長の真っ只中。

学童の数が多く、白墨の需要も鰻上りだった。

「家の白墨は、昭和30年に父が考案した被膜付き。海藻から取ったアルギン酸の、ヌルヌルの成分を表面に塗り被膜とした物で、今はアクリル樹脂に変わりましたが…。だから指に汚れが付きにくく、他社より一文高くても人気があったんです。でも父は、最期まで商標を独占する気は無かったようです。だから被膜付きが軌道に乗ると、他所もみんな真似し始めて」。

昭和が幕を降ろすまで、右肩上がりの絶頂期は続いた。

「ここら愛知・岐阜は、陶磁器製造が盛んで、陶器の型作りに欠かせぬ石膏屋も沢山ありました。だから戦前から、全国的にも白墨屋の多い土地柄ですわ」。

現在は、白、赤、黄、青、緑、茶、紫、オレンジ、朱赤、黄緑、10色の白墨と、蛍光色の赤、黄、青、緑、オレンジ、5色が、日々製造される。

「蛍光色は、視覚障害者向けに私が開発したものです。でも今は、テレビカメラで撮影すると、普通の白墨より鮮明に映るとかで、予備校がテレビ授業で使ってくれてます」。

昔ながらの石膏製白墨は、焼石膏の粉末と水を混ぜ合わせることから、製造が始まる。

ドロドロッとしたところで、420本の型枠シリンダーに流し込む。

5分後には固まり、ピストンで押し上げ型抜き。

乾燥箱に並べ、10日間ほど陰干しで自然乾燥。

それにアクリル樹脂の被膜を吹き付ければ完成する。

放課後。

黒板消しを両手に、窓から手を伸ばし白墨の粉を叩く。

校舎の窓のあちこちから、白墨の白い粉が風に舞った、遠きあの日のわが学び舎。

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「天職一芸~あの日のPoem 386」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市大新町の「煮たく文字職人」。(平成22年9月18日毎日新聞掲載)

飛騨高山も夏明けりゃ ()えた臭いに(むせ)(かえ)る           樽の古漬け塩を抜き 母の一手間煮たく文字           胡麻の油が香り出しゃ 子らも群がる勝手口           ちょいと味見と小皿出しゃ 秋一番のおご馳走(っつお)

岐阜県高山市大新町、郷土料理の「京や」。女将の西村京子さんを訪ねた。

秋が忍び寄る勝手場から、()えた漬け物と胡麻油の入り混じった、何とも言えぬ臭いが立ち込める。

「昔はそこらで、夏が終わると煮たく文字を煮る、とんでもねぇくっせぇ臭いがしたもんやさ。ましてや今年みたいあっつい夏は、も一つくっさいでかん。でもくっさねぇとうまねぇでな」。京子さんは、目を細め高笑いを連発した。

写真は参考

京子さんは昭和19(1944)年に、7人姉妹の末子として誕生。

「父はガンド(鋸)の目立て職人で、母は煮炊き上手な人やった。せやで近所の人や、旅館の女将さんらが、煮炊きを習いに来て、『きぬさんのお陰で、煮炊き上手になったわ』と言わはるほど。調味料なんか、手掴みでバサッと入れはるもんで、『ちょっと待って!砂糖、何グラムか計らせてもらうで』ってな調子。母は片手で塩を握ると、人差し指から中指と、順に広げながら鍋に放り込み、最後に薬指と小指の開き加減一つで微調整しとったんやさ」。

中学を出ると市内の会社に事務員として勤務。

3年後、同県郡上市でお好み焼き屋を営む姉の元に、住み込みの手伝いへ。

「しばらくしてスキーへ行ったら、そこで大阪から男2人で遊びに来とった、お父ちゃんと知りあってな」。

昭和41年、西村洋治さんと結ばれた。

「そしたら両親が猛反対でな。『大阪なんか、ブラジルへ嫁にやるようなもんやであかん!』って。仲人さんが来ても、母は居留守使うほどやった」。

結局、洋治さんが高山へ移り住むことに。

翌年、一人息子を授かった。

「お父ちゃんは、弁当屋に勤め、私は小さい喫茶店をやりかけてな。それがまたよう流行った。立ち飲み客まで出る始末やさ。そしたらその内に、『飯があったらもっと売れるぞ。食堂でもしたらええぞ』って」。

昭和57年、新潟県柏崎から移築した、古民家の貸し出し話しが舞い込んだ。

葛屋(くずや)(茅葺き)造りやで、最初は民宿でもと考えたんやさ。そしたら母が『煮ものならオラがするでな』って張り切り出して。それで郷土料理の店にしたんやさ」。

京や自慢の在郷定食には、きぬさんが伝授した郷土の煮物が居並ぶ。

中でも「煮たく文字」は、仕込から数え1年以上を費やし、やっと食卓に上る逸品である。

「く文字とは、公家言葉の漬け物らしいわ。それを煮るでそう呼ぶんやさ」。

煮たく文字作りは、塩漬けした蕪、白菜、野沢菜などの古漬けを、丸1日水に晒す塩抜きに始まる。

それを絞り、鰹や煮干の出汁に入れ煮立てる。

「昆布出汁やと足が早いんやさ」。

次に出汁を軽く絞り、胡麻油で炒めながら塩、砂糖、味醂、酒、醤油で味付けし、半日ほど煮上げれば完成。

写真は参考

「私ら漬け物が酸っぱなっても、ほかることようせん。もったいないやろ」。

京子さんの煮たく文字も、今が秋(たけなわ)

三三九献(さんさんくこん)重ねつつ、母を慕いて煮たく文字。

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「天職一芸~あの日のPoem 385」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市八日市場町の「伊勢のかたぱん職人」。(平成22年9月11日毎日新聞掲載)

三時の時報待ち切れず 片手に小銭握り締め           草履突っ掛け一目散 伊勢の丸与のかたぱんに          早くも店にゃ子らの列 背伸びで中を覗き込み          盆のかたぱん数えては どうかぼくまで回るよに

三重県伊勢市八日市場町で明治中頃創業の丸与製パン、四代目かたぱん職人の井村卓嗣たかしさんを訪ねた。

昭和半ばの一文菓子屋は、放課後ともなれば、僅かばかりの小遣いを握り締めた、子どもらでごった返していたものだ。

写真は参考

駄菓子や籤引きが、雑然と犇めき合う手狭な店内を、子どもらは難なく右往左往。

それは子どもにとって、真剣勝負そのもの。

たった1枚こっきりの、掛替えのない10円玉を、いかに有意義に使うべきか、答案用紙に向うよりも苦慮したものだ。

食べ盛りの空腹を満たしたい切実な思いと、もしかしたら籤引きで大当りが出るやも知れぬ、そんな誘惑の(はざま)で幼心が微妙に揺れた。

写真は参考

だから盆暮れに、100円札でも貰おうものなら大騒ぎ。

まるでテレビの人気番組、夢路いとし、喜味こいし師匠の名台詞で始まる「男は度胸、女は勘定。お手て出しても足出すな」の、「がっちり買いまショウ」さながらだった。

まずは普段手も出ぬ、値の張る菓子パンを1つ確保し、それから釣銭の使い道を思案したものだ。

「せやて。何でもある今とちごて、菓子パン1つでも立派なオヤツやったでな」。卓嗣さんが、にっこりと相槌を打った。

卓嗣さんは昭和27(1952)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出るとそのまま家業に従事した。

「本当は機械いじりが好きやったで、どっかの会社員でもとおもとったんやけど。就職難やったしな」。

卒業を翌春に控えた昭和48年、第1次オイルショックが勃発し、トイレットペーパーの買占め騒動が起こるなど、狂乱物価に喘ぎ苦しんだ時代だった。

「最初は使いっ走りの、丁稚みたいなもんや。親父も『見て覚えろ』の1点張りやったで、体が覚えるまでは失敗の連続。せやで温度管理なんかは、本を見ながら覚えたもんやさ」。懐かしそうに、奥の間の母を眺めた。

「家のかたぱんは、祖父が大正時代に入ってから焼き出した、焼き菓子とパンが合体したようなもんで、半生の焼き菓子ゆうた方が分かりやすいやろか?」。

以来、約1世紀に渡り、唐草模様の焼印が押された「丸与のかたぱん」は、今なお地元の老若男女にこよなく愛され続ける。

名代の逸品、丸与のかたぱん作りは、卵、果糖、砂糖、水を混ぜ別の容器に移し替え、薄力粉を手捏ねすることに始まる。

「粘らんように捏ねるのがこつやさ」。

打ち粉をしながら平らに伸ばし、直径12㌢の形抜きで抜いて、10分間焼成し、唐草模様の焼印を押せば出来上がり。

「包装もみんな手作業やわ」。

毎朝3時には作業を始め、1日200個のかたぱんが、店頭に居並ぶ。

「他所でかたぱんこうた方が、味が違うゆうて文句言いに来るんやさ。せやけど『その店に家は、入れさせてもうてない』って、そんたびに説明せんならん」。

戦時中の焼印は、旭日模様だったとか。

大正、昭和、平成と、3つの時代を生き抜く、庶民の銘菓丸与のかたぱん。

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