「天職一芸~あの日のPoem 404」

今日の「天職人」は、三重県津市阿漕町の「造酢職人」。(平成23年1月29日毎日新聞掲載)

レモンのような酸っぱさが 初めて交わす口付けと        誰かの言葉真に受けて 大人になる日夢に見た          しかし夢とは大違い 甘酸っぱさに生臭さ           「何食うたの?」と尋ねれば 「酢鯖、海鼠酢、酢蓮根」

三重県津市阿漕町で明治20(1887)年創業の山二造酢。五代目造酢職人の岩橋邦晃さんを訪ねた。

かすかに残る鄙びた町並み。

旧参宮街道の往時を偲びながら行けば、何処からとも無く甘酸っぱい香りが漂う。

ふと見上げてみれば、古い黒壁の醸造所から、冬空にレンガ組の煙突が突き出している。

玄関から奥の蔵に向い、一直線にトロッコ用のレールが埋設されている。

「昔はこのトロッコに荷を積んで、蔵から出しては表の荷車まで運びよったんですやろ」。

邦晃さんは昭和48(1973)年、3人兄弟の長男として誕生。

「父親が帰って来ると、プゥーンと酢の臭いが漂って、それが子ども心に嫌やったんさ」。

大学を出ると「外飯食って来い」と、味噌醤油の醸造所へ修業に。

「来る日も来る日も醤油の瓶詰めや、味噌掘りばっか。味噌樽に登って、スコップで味噌掘って、60㎏の桶に5樽も掘ったら、もう疲れてもうて出来やんだ」。

平成9年、親の体調悪化で家業へ。

「3年の年季明けを待たずに」。

山二の醸造酢は、発酵桶を強制的に攪拌し発酵させたりはしない。

たっぷりと時間を掛け自然の力で静置発酵を促すのが決め手。

「だから口に入れた時にツンと来ず、まろやかな優しい酸っぱさになるんやさ」。

120年以上も続く「ヤマニ酢」造りは、同県久居市の造り酒屋から仕入れる酒粕を溶かす作業に始まる。

「この酒粕も創業当時からのもんですに」。

そして絞り汁にアルコールを入れ、前に仕込んだ種酢を混ぜ、40℃の湯を足し発酵桶に。

すると丸2日で一面に膜が張り、上から酢酸菌を撒く。

そのまま20日ほど常温で寝かせるとアルコール分が酸っぱさを帯び、発酵が終了。

次に1ヶ月間熟成させ、1回濾過し、さらに綿が詰め込まれた濾過器を2度通す。

「寝る子はよう育ついいますやろ。そうすると、琥珀色の熟成した色合いが出るんやさ」。

程よくまろやかな酸っぱさが魅力の、100年定番商品「ヤマニ酢」が、平成の世に産声を上げる。

「蔵には200種類ほどの菌が、ずっと住み憑いとるんやさ。世界中にはもっとよおけの菌があるやろが、家の菌はここに一番おおとる(適している)んやろな」。

邦晃さんは濃厚な酸っぱさが漂う、2階の発酵熟成蔵へと導いた。

そして発酵樽の保温のため、被せられた筵を捲り上げる。

「ブツブツと、何や話してますやろ」。

一面の白い膜に、気泡が浮かび出でては弾ける。

まるでヒソヒソ話でもしているようだ。

知人の紹介で平成15年、同県松阪市出身のいせさんと結ばれ、一男一女を授かった。

「ひょっとしたら家の子どもらも、おんなじことおもとんやろか?私が家に帰ると、酸っぱい匂いがするって」。邦晃さんは自分の白衣を見詰めて笑った。

機械化量産の早熟な酢っぱさは、大自然の底力にゃ到底敵わぬ代物。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 403」

今日の「天職人」は、岐阜市岩崎の「ギター職人」。(平成23年1月22日毎日新聞掲載)

継ぎ接ぎだらけジーンズに ロンドンブーツ長い髪        ギターケースを手に提げて 黒のレイバン伊達眼鏡        駅の人混み佇めば 若い娘が振り返る              フォークバンドのメンバーと サインねだられ勘違い

岐阜市岩崎のロッシギターズ、ギター職人の小池博さんを訪ねた。

(くゆ)る紫煙。

重なり合うグラスの音。

ジャズトリオの演奏が始まった。

心地よい4ビートのリズムに、目を閉じ体を揺らす者。

グラスを見詰め、指先でリズムを刻む者。

ところが隣りの男は、熱心にギター奏者に視線を注いでいる。

写真は参考

しかもアーチトップギターだけに。

まるで愛しい恋人でも見詰めるようだ。

「あれ、ぼくが制作したギターなんです。だから無性に逢いたくなると、こうしてライブを聴きに来るんです」。

「名前が博ですから、それをイタリアンっぽく呼んで、ロッシなんです」。

博さんは大工の父の元で、次男として誕生。

中学生の時、ラジオから流れるビートルズのレット・イット・ビーに魂が震えた。

やがて関西の大学で、グラフィックデザインを学び、そのまま印刷会社でアートディレクターに。

「30代の半ばに、中古のギターを買ったんです。でも自分では修理が出来ず、修理してくれる工房を探して。そしたらそこは、趣味のギター作りも教えていて。それで4年ほど通いました」。

趣味が高じて作り上げたギターを、腕試しとばかりに展示会へ出品。

するとギターの専門誌にも取り上げられた。

「『ぼくは出来るんじゃないか?』って、すっかり勘違いしまして」。

入社20年を目前に、これからも中間管理職としてサラリーマンを続けるのか、はたまた思い切ってギター職人として生きるか、自問自答の毎日が過ぎた。

「ある日友人から『職人としてやるなら、体力と集中力がある早いうちだぞ』と背中を押され」。

42歳にして職人道へ。

「何と言ってもギターの命は、ネック(棹)とボディ(胴)のジョイントです」。

博さんが、自慢の一本を取り出した。

アーチトップとは、「かしまし娘」や「玉川カルテット」らの漫才師が、舞台で弾いていたギターとでも言えば、お分かりいただけるだろうか?

ロッシ・アーチトップギターの製作は、ボディの表面にスプルース(松)、裏面にメイプル(楓)の柾目材を、ドーム形に削り出す事に始まる。

そして表材の裏に(ちから)()を当て、サウンドホール開ける。

「材の厚さや力の入れ方で、倍音域が変わるんです」。

側板となるメイプルの薄い材を水に浸け、熱を加えて曲げ、表と裏面を接着し箱状に。

続いてメイプルをネックに型取りし、ボディとのジョイント部を組み木状に加工。

次にヘッドを形成し、ロッシの銘を入れ、糸巻き穴を開ける。

さらにフィンガーボード(指板)を貼り付け、フレットを打ち、ネックの握りを削り、ボディとネックを組み上げて塗装へ。

「木は呼吸するから、微細な穴の出来るラッカーで」。

受注から4~5ヶ月が費やされ、この世にたった一つきりの名器が生まれる。

ライブの演奏が終わった。

博さんはいつまでも、己がギターに拍手を贈る。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 402」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「すっぴんかき餅職人」。(平成23年1月15日毎日新聞掲載)

欠けたあられの見切り品 市場の菓子屋売出しで         母は鼻息荒くして 特用袋鷲掴み                出涸らしの茶とかき餅で 母も内職一休み            ぼくはトントン肩叩き 駄賃欲しさの似非孝行

名古屋市西区、昭和25(1950)年創業の「おかきや」。三代目かき餅職人の清水文浩さんを訪ねた。

「子どもの頃、缶蓋に積み木を載せては、かき餅焼く親父の真似しとったなあ」。文浩さんは、焼き窯の火をぼんやり眺めた。

文浩さんは昭和41年、2人姉弟の長男として誕生。

工業高校を卒業すると、自動車整備の職を得た。

「機械弄りと車が好きやったで」。

しかし5年後、祖父が亡くなり家業へ。

「爺が死んで人手が足らんで。でも不思議と、門前の小僧なんちゃらみたいなもんで、体に染み付いとるんだわ。焼いてみろって言うで、焼いたったら、母は途端に褒め殺し。跡継がせなかんで、母の必死の作戦だわ」。

ところが兄弟の多かった父は違った。

「父は家や兄弟に縛られ続けて来たでか、不自由な思いをさせたくなかったんかな。『家の手伝いはええで、外へ出てってもいいぞ』って」。

そう言われればしめしめ。

大好きな車にのめり込んだ。

「朝4時から9時まで卸売市場でバイト。それから夕方まで家の手伝いして、夕方からはガソリンスタンドのバイト」。

稼いだ金は全て、車に注ぎ込んだ。

しかし平成4年、倅に何とか家業を継がせようとした母が他界。

それでもまだ家業に本腰が定まらなかった。

平成9年、公子さんと結ばれ、やがて一男一女を授かった。

「結婚した年の暮れに、父が急性心筋梗塞で亡くなって。ちょうど北陸へ遊びに行っとって、帰ってみたら家の前にえらい人だかりが…。父を亡くした悲しみより、前の日に搗いたばっかの箱餅(搗きたての餅を入れ、乾燥させる専用の木箱)の方が気になって。通夜の途中で喪服のまま戻り、冷蔵庫から餅箱出して、全種類のおかきの生地の重さを量ったって。親父は、見て覚えろの一点張りだったで、生地の重さをどこにも書き残しとらんし。とにかくそれから1年は、焼いては捨ての繰り返しだわ」。

焼き上がったばかりのすっぴんの千枚を摘み、箕の中へと放り込む。

千枚とは、4㌢四方の薄いおかきで、醤油で味付ける前の物をすっぴんと呼ぶ。

「これの美味い不味いは、もち米の良し悪し」。

確かに噛むほどに、仄かな甘さが忍び寄る。

「おかきや」自慢のすっぴん作りは、佐賀と北海道産のもち米を洗い、丸粒のまま蒸籠立てして蒸し上げ、餅を搗く作業に始まる。

そして搗き立ての餅を木箱に入れ、屋上で筵の上に並べ乾燥。

CA390107

そっくり返ったら、引っくり返し、再び乾燥。

夕方には取り込み、明くる朝再び天日の下へ。

それを3~4日繰り返す。

「最後は噛んだ歯の入り具合で、乾燥状態を確かめるんだて」。

後はおかきの種類に切り分け、創業当時から変わらぬ地元の生びき醤油(熱処理をしない醤油)にドブ漬けし、窯で手焼きすれば完成。

「1枚1枚焼き上がる顔を見ながら、斑にならんようにな」。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 401」

今日の「天職人」は、三重県松阪市新町の「結納調進(ゆいのうちょうしん)屋女将」。(平成23年1月8日毎日新聞掲載))

姉は朝から髪を結い 晴れ着を纏い(しと)やかに          (さかずき)(おや)が持ち(きた)る 三畳飾り()いの品              水引細工鶴と亀 襦袢の鯛に日の出樽             御侠(おきゃん)な姉がしおらしく 三つ指ついて澄まし顔

三重県松阪市新町、明治8(1875)年創業の、結納調進ちょうしん魚齊うおさい商店」四代目女将の森慶子さんを訪ねた。

「ただいま~っ」。

黄色い通学帽を被った小学生が、引き戸を開け店の中へと駆け込んで行く。

しかも次々と男女合わせて5人もだ。

「ああ、お帰り」。

花鰹製造機のモーターを止め、主は迎えに出ながら白い紙袋に、削り立ての花鰹を詰め込み、子どもらに手渡す。

何と子宝に恵まれた、今時珍しく孫の多い家であろう。

すると「オッチャン、おおきに!」「ああ、また明日おいな(おいで)」と。

「主人は子ども好きなんやさ。せやで毎日ここいらの子が来ると、ああして花鰹をオヤツ代わりに持たすんやさ」。

「この花鰹製造機が子どもらには不思議みたいで、最初はたいがい『オッチャン、何しとんの?』ゆうてやって来て」。主の禎二さんは、鰹節を削り始めた。

途端に花鰹の香りに包み込まれる。

「元々祖父は戦前、結納から婚儀までと、それに纏わる礼儀作法全般も司ってましたんさ。せやで聞いた話しやけど、皇室の伊勢参拝なんかやと、式部職の方とお料理の準備から、お宿の世話までさせてもうたとか」。慶子さんが、創業当時の縄暖簾を懐かしげに見詰めた。

写真は参考

慶子さんは昭和19(1944)年、一人娘として誕生。

名古屋の短大を出ると実家に戻り、花嫁修業。

昭和43年、禎二さんを婿に迎え、やがて三女に恵まれた。

「あの頃は、まだ自宅で式を挙げられる方もよおけ見えましてな。家で料理こさえて、お婿さんの自宅へ運んで。全ての段取りから、一切合切指図しましてな」。

三重県中川以南の結納の手順は、まず婿の家が結納飾りを用意。

それを仲人が嫁の家へ持参し結納開き。

「婿さんとそのご両親は、仲人さんからの吉報を家で待つんやさ」。

婚約が晴れて整えば、嫁の家から結納の1割に相当するお引きが仲人に託される。

「その後、嫁の家で仲人に振舞われた料理が、披露宴当日の料理となって。土産として手渡された焼物、菓子、果物が、引き出物となるんやさ」。

写真は参考

目出度い席で、料理や引き出物がいくらと、生々しい会話をしなくても済ませる寸法だ。

しかし昭和40年代半ば以降には、専用の結婚式場が誕生し始め、自宅での挙式は減少へと向っていった。

「それも時代の流れやで。もう今しは、結納調進どころか、こうしてボツボツ鰹節削ってますんさ」。禎二さんがボソリとつぶやいた。

「昭和60年頃までやったろか。日柄の良い時やと、1日17組も世話させてもうたの。今となっては夢のようやね」と妻。

「中には『小袖料(結納金)は普通でよろしいで、お飾りだけは、気張ってもうて8畳一杯に』と、お仲人さんに頼み込む方までおったほどやさ」と夫。

これまでに、奈良に接する同市飯高町から伊勢まで、約1万組の縁結びを陰で支えた。

遠くを見詰め、往時を偲ぶ共白髪。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 400」

今日の「天職人」は、岐阜市玉宮町の「百貨店主」。(平成22年12月25日毎日新聞掲載)

小さな頃のクリスマス イヴの靴下枕元             サンタ見たさに寝たふりが 何時の間にやら高鼾(たかいびき)         あっと気が付きゃ靴下に 見覚えのある包装紙         「サンタの町も同じ名の 百貨店でもあるんやろ」

岐阜市玉宮町で昭和41(1966)年創業の富士屋デパート。創業者の竹中一二三さんを訪ねた。

子どもの頃、父の給料後の日曜が待遠しかった。

朝から余所行きに着替え、駅前のデパートへ。

お目当ては、屋上遊園の乗り物と、大食堂のお子様ランチだ。

写真は参考

「家のデパートは、屋上遊園やなしに屋上菜園やて」。一二三さんの言葉通り屋上には、野菜や果物が所狭しと植えられている。

写真は参考

一二三さんは昭和11(1936)年、本巣町の農家で7人兄弟の3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋のメリヤス問屋で小僧に。

写真は参考

「しばらくすると、関東の得意先を巡る出張やわ。そしたら群馬の高崎市に、富士屋洋品店ってえのがあって、よう流行(はや)る繁盛店やった。そこの社長に、『何でこんなに流行るんや』って聞いたら、東京へ直接仕入れに出掛け、いいもんを安売るでだと教えられて」。

それならばと、「田舎から5万、友人から5万、自分のなけなしの貯金叩いて5万。全部で15万で、デパートの前身となる富士屋メリヤスを昭和33年に開業したんやて」。

中々抜け目の無い一二三さんは、高崎から嫁まで持ち帰った。

この年、靖子さんと結ばれやがて三男一女が誕生。

「これが富士屋洋品店で販売しとったんやて。そしたら見初められてまって」。一二三さんは、妻に聞こえぬよう声を潜めた。

恐らく眉唾物だろう。

一二三さん21歳、靖子さん19歳の人生の船出と、独立開業という商売の船出でもあった。

「開店したらとにかく売れて売れて。レジに客が行列してまって、段ボールに金を放り込んどったて」。

毎朝7時から深夜0時まで、高度経済成長と歩調を合わせ、若い夫婦は働き詰めの毎日に追われた。

「その内に『あれはないか?これはないか?』って言われるようになって。無いって言うのが癪に障るで、『よおし、30分待っとってくりょ。その間に探して来たるで』って。気がつくと、タバコ、酒類、切手、米穀の販売許可も取ってまっとって、だったら富士屋メリヤスやなしに、何でも扱えるようにデパートにしたろまいって」。

昭和41年、富士屋デパートが誕生した。

開店初日の式典では、クス玉の中から本物のニワトリが10羽も飛び出し大騒動。

あまりの人出にパトカー4台が駆け付け、警官20名が警備にあたる物々しさ。

「ここで商売始めて創めてはや52年。お客さんが『昔からパンツはここのんに決まっとる。他所のパンツじゃあかん』って言ってくれるのが一番やて」。

ここには、洒落たデパートと違い、ショーウィンドーやブランド物などない。

1階売り場の一等地には、レジと開けっ広げな事務所が居座る。

壁には孫が書いた習字が翻り、生鮮食品から日用雑貨に、肌着と何でもあり。

だから庶民の百貨店。

「てぇげえ、何がどこにあるかなんて、誰もわからんて。わし以外はな」。

夫婦共白髪で生涯現役を貫く、天晴れ岐阜の萬商人。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 399」

今日の「天職人」は、愛知県清洲市須ヶ口の「ソース醸造所」。(平成22年12月18日毎日新聞掲載)

恵ちゃん()のおばちゃんは ご近所一のハイカラさん       昼のお呼ばれオムライス 卓上ソース掛け放題          それに引き替え我が家では なにかにつけてお醤油派       天ぷら炒飯目玉焼き 挙句の果てにコロッケも

愛知県清洲市須ヶ口で1928(昭和3)年創業の太陽食品工業。石川まささんを訪ねた。

昭和半ばの洋食と言えばコロッケ。

ソースをドボドボにしては「もったいない!」と叱られたものだ。

「祖母の話だと、昔ソースは薬局で売ってたって。まあ匂い自体は漢方薬みたいやでね」。眞美さんは、帳簿付けの手を止めた。

「あら、そう。私はそんなこと、初めて聞いたわ」。

二代目女将の早川和子さんが、長女を見つめ笑った。

和子さんは昭和4年、同県津島市に誕生。

昭和23年、東京女子専門学校(現、東京家政大学)を出ると、母校で家政科の教壇に立った。

昭和27年、知人の紹介で守男さん(享年83)と結ばれ、やがて一男二女が誕生。

だが長男は、生後間も無く他界した。

「嫁に来た頃義父は、朝から業務用の瓶を洗って、それにソースを詰めてました。そして釜に大鍋掛けて、一晩中火の番しながら原料を煮込んでたもんです」。

敗戦からわずか7年、統制経済の解除からもまだ2年目のことだった。

しかしその後この国は、驚異的な勢いで高度経済成長へと走り出す。

「幼い頃、毎朝トラック一杯のトマトが来て。祖父は単車で営業に、全国各地を飛び回る毎日。私の顔もわからんかったほど」。眞美さんが懐かしげに窓の外を見つめた。

「ここらは大手の天下だから、家のソースは静岡から関東、そして西は関西中国方面へと、逃げ延びるようにして得意先を開拓して。そしたらあのB-1グランプリで有名になった、富士宮の焼きそば屋さんがこぞって使ってくれて。それ以来、全国からのお取り寄せも増えましてね」。

和子さんは、創業当時から代わらぬ、瓶詰めソースを誇らしげに手にした。

「祖父は昔、このラベルに『世界に誇る』って入れてましたが、業界から誇張せんといてくれって指導されたとか」。親子は顔を見合わせ大笑い。

世界に誇る太陽ソースの作り方は、野菜と果物をじっくり煮込むことに始まる。

そしてシナモン、セージなど10種類の香辛料を製粉機で挽き、それを2つに分割。

「昔は、それこそ薬研で挽いてました。香辛料を生かしたまま使いたいから」。

和子さんは義父と夫の、頑ななソース作りを受け継ぐ。

そして片方の香辛料には酸を加え酸分解。

もう一方は、炊き込んだ原料にカラメル、液糖と共に加え沸騰。

次に酸分解を終えた香辛料の入りの木桶に移し変えて熟成。

その後香辛料を3回漉し、約1ヶ月を費やせば完成。

やはり一族は、天ぷらもソースかと問うた。

「そりゃあ家は、てんぷらもみんな何でもソースです」。

現場で製造を手伝う、孫の石川達也さんが胸を張った。

町の小さなソース工場。

だから製造量にもおのずと限りがある。

だが侮るなかれ!

誰よりもソースを愛し続けた、親子三代の舌が、幻の味を今も守り続ける。

世界に誇れ!太陽ソース。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 398」

今日の「天職人」は、三重県桑名市本町の「酒酛さかもと饅頭職人」。(平成22年12月11日毎日新聞掲載)

宮へ七里の渡し場は 上り下りの旅人で             桑名城下も大賑わい 「まずはどこぞで茶を啜ろ」        桑名宗社の楼門に 老舗(しにせ)とらやの佇まい             蒸籠の湯気が吹き上がりゃ 「饅頭(まんじ)おくれ」と人だかり

三重県桑名市本町、宝永元年(1704)年創業の「とらや饅頭まんじゅう」。十一代目酒酛さかもと饅頭職人の安達仁兵衛さんを訪ねた。

「まんじ(饅頭)トンゴ(10個)おくれ」。

腰の曲がった老婆はガマ口を開き、慣れた手付きで饅頭代を支払う。

「いつもおおきに」。

これまた主も親しげに見送る。

「昔ここらは遊郭やったで、そこへ足げく通う旦那衆らが、土産にってようこうてくれたそうや」。

仁兵衛さんの幼名は年始男。

平成12(2000)年、戸籍上も「仁兵衛」に変え十一代目を襲名した。

昭和36(1961)年、3人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると、京都の老舗和菓子店で5年の修業を積み、昭和49年に家業に入った。

「まあどこもせやけど、口伝で教えられて、後は毎日見よう見真似で覚えやんと」。

とらや饅頭の命は、何と言っても酒母(しゅぼ)元種(もとだね)作りに極まる。

「酒母を作るには、酒税法の定めで免許がないとあかんのやに」。

創業以来、300年以上守り抜かれる伝統の元種作りは、毎晩甕に仕込まれる。

「まず、もち米をお粥さん状に炊き、米麹を合せ発酵。するとやがて乳化し、米が水に浮いて分離してくるで。そしたら酒母がまだ元気なうちに、米汁を甕に移し変え、元汁にすんやさ。まあ後は季節によって、温度と時間がちごて来るけどな」。

翌日、元汁に砂糖と小麦粉を混ぜ生地作り。1時間半ほど寝かせると、プクプクと発酵が始まる。

すると次は包餡。

「北海道産小豆の漉し餡を、生地で包むんやけど、生地が柔らかい汁のような状態やで、タラーッとなっとる。せやでまず生地を鉢から、竹の棒で水飴練るように台へと引っ張り上げ、丸く型抜きしてから餡を包み込むんやさ。」。

次に炭火のホイロで再び発酵。

「酒酛の力で、皮がぷっくり浮いてくんやさ」。

それを蒸籠で10分間蒸し上げれば、東海道を上り下る旅人たちに、こよなく愛され続けた、300年変わらぬ味わいの名代の逸品が完成する。

「酒酛饅頭の特徴は、皮がちょっと酸っぱいけど、餡と一緒に食べるとそれが絶妙の味を醸し出すんやさ。餡にコクがあるし、そりゃ蒸し上りがなんちゅうても一番贅沢やわ」。

保存料など使わぬため、日持ちは2日。

「かと(硬く)なっても、米麹で作ってあるで、しがむ(よく噛む)とまたちごた味わいが出てくんやさ。せやで漁師は、わざわざ硬いのおくれゆうてな」。

気になる跡取りはと問うた。

すると「その前にまずは嫁を貰わんとな。せやけど、いつまでも90近い看板婆さん(母)と二人じゃ都合悪いで、近いうちに嫁もうて子作りに励まんと」。

子どもの頃は、饅頭の摘み食いで歯もなかったとか。

「しかもいっつも蒸し立ての、一番旨いとこばっか!どうにも摘み食いの癖は、この年んなってもちっとも治らんのやさ」。

菓子匠は、子どものような眼をして笑った。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 397」

今日の「天職人」は、岐阜市京町の「冷やしたぬき蕎麦職人」。(平成22年12月4日毎日新聞掲載)

狸に狐 月見蕎麦 昆布(こぶ)と鰹の出汁の香に            つい袖引かれ立ち止まりゃ 伊吹颪も雪混じり         「外がどんなに寒くとも 更科と言や冷やしでしょ       『たぬきダブルと熱燗ね』」 オヤジ見たいに君が言う

岐阜市京町、昭和3(1928)年創業の更科。三代目主の水野信さんを訪ねた。

既に午後3時を回ったと言うのに、次から次へと客が暖簾を潜る。

そして席に着くや否や、口々に「冷やしたぬきダブル」「俺、トリプル」と所望し、大きな薬缶から、慣れた手付きで湯呑みに茶を汲む。

「ここの店の冷やしたぬきは、1週間もせん内に、また無性に食べたなるんやて。ひょっとすると病み付きにさせようと、なんぞ薬でも盛ったるかも知れん」。

隣りの客は連れの女に、さも訳知り顔で自慢した。

「ちょっと●▲さん!人聞きの悪いこと言わんといて?」。主人は冗談まじりに常連客に返す。

信さんは昭和33年、二人兄妹の長男として誕生。

「創業当時は、柳ヶ瀬の日ノ出町に店があったんやけど、戦災で焼け出されて、戦後ここへ移転したんやて。初代が娘を亡くし、跡取りも失くしたんで、両親を両貰いしたそうやわ」。

高校を出ると直ぐ、家業に従事した。

ところがその直後両親が離婚し、初代までが息を引き取った。

「最初は母の手伝いしながら、無我夢中で仕事を覚えて…。否応無しに代替わりやて」。 

昭和55年、青年会で知り合った久美子さんと結ばれ、二男一女が誕生。

「元々この辺は、うどんや支那そばがよう出て、日本蕎麦は出ん方やったんやて。ところが昭和40年頃から、自然発生的に今の冷やしたぬき蕎麦が誕生して。それが今じゃ、7割以上が目当てにしてくれる、家の名物になったんやで」。

確かに女性でも、当たり前のようにダブルの大盛りを所望する。

冷やしたぬき蕎麦作りは、毎朝6時から出汁を煮出す作業に始まる。

まず大鍋に水を張り日高昆布を入れ沸騰させ、室鯵、潤目(うるめ)(いわし)(そう)()(がつお)を煮出し、一番出汁を取る。

次に蕎麦粉100㎏の製麺。

「水で練るんやなく、熱湯を冷ましたお湯の方が、蕎麦の香りが飛ばんのやて。そして麺切り。包丁切りの方が、麺の上下が窪んで、出汁が絡み易くなるで」。

次に溜り醤油、味醂、砂糖を混ぜて煮詰め、半月寝かせた返しと、一番出汁を合せ、御前(ごぜん)(じる)を仕込む。

一方で、油揚げを煮付け、たぬき用だけのために天かすを揚げる。

後は客の注文に応じ、茹で上げた蕎麦を冷水で締め、大きな丼によそい御前汁を掛け、油揚げ、天かす、刻みネギ、練り山葵を盛り付ければ出来上がり。

「自家製麺へのこだわりは、初代兼次郎が作り出した太麺の歯応えを守りたいで」。

柔らかくもっちりとした太麺に、伊勢うどんを思わせる濃厚でコクのある出汁が絡み、このためだけに毎朝揚げる天かすのサクサク感が、見事なハーモニーを奏で喉の奥へと押し寄せる。

麺、出汁、油揚げ、天かす、どれ一つ手抜きなど無い。

すべて主の目が届く自家製だ。

そんな舞台裏の苦労は語らずとも、客が誰より知っている。

それが客足途切れぬ、繁盛店の所以なのだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 396」

今日の「天職人」は、愛知県一宮市の「木魚職人」。(平成22年11月27日毎日新聞掲載)

母の命日仏壇に おはぎを供え香を焚く             娘は膝に腰掛けて 両手合わせて南無南無さん          テープの経に口合せ 和尚の節を真似てみる           娘は撥でポクポクと 木魚叩いてご満悦

愛知県一宮市の加藤木魚工房。二代目木魚職人の加藤保さんを訪ねた。

「木魚作りはなんちゅうても、座るが修業の第一や」。

男は板木(ばんぎ)と呼ぶ作業台の、煎餅座布団の上に座し、両足で大きな木魚の頭を押え、中彫り鑿で(あな)を穿つ。

保さんは昭和22(1947)年、4人兄弟の末子として誕生。

「親の影響か、もう小学校の低学年の頃には、ナイフでコケシなんかの木彫りをしとったでなあ」。

高校を出ると、姉の嫁ぎ先でアクセサリー製造に携わった。

しかし3年後、好きだった木彫りが忘れられず、父と兄の元へと戻り、木魚職人としての修業を始めた。

「最初の2~3年は、在家用の小さい木魚の中彫りばっか。そんでもこれが一番難しいんだって。あんまり力任せに彫ると、穴が開いてまうし。弱気でやっとると、今度は十分に彫れんでかん」。

苦節10年。

一端の木魚職人として、昭和53年晴れて独立。

その年、知人の紹介でみどりさんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「まあ今では、木魚に手を当てただけで、孔の厚みまでわかるって」。

一宮の木魚製造の歴史は、明治時代に京都市で修業した職人の手によってもたらされたとも。

また第二次世界大戦中、名古屋鶴舞の師匠の元で、一宮の者が修業し持ち帰ったとも、諸説ある。

しかしいずれにせよ、国内で木魚を手作りしているのは、もう愛知県だけとか。

その大半が一宮近郊で、1軒だけ西三河地方に残る。

尾張特有の木魚の鯱彫りは、まず樹齢何100年という楠や桑の原木を、2~3年寝かせることに始まる。

そして輪切りに木取りし、当て木をしながら平鑿で全体を丸く彫り出す。

さらに(まめ)(がんな)で全体を丸く削り出す。

そして縦挽き(のこ)で孔の口を挽き、中彫り鑿で丸1日掛かりで中を彫る。

それから自然乾燥で1年。

乾燥を終えると、再度豆鉋で丸く仕上げ。

次に型紙を当て、渦や鱗の細工を写し、外側に鋼が付いた丸鑿で細工彫りへ。

「普通の鑿と違って、鋼の位置が逆なんやて」。

写真は参考

親からの形見分けという15~16本の丸鑿で、約1週間を掛け、最大の見せ場である鱗が、見事に彫り上げられて行く。

そして粗い目から細かい目へと、3種類のサンドペーパーで磨き上げ、油性ワックス掛けへ。

それが乾燥すれば、柔らかい束子と布で磨き上げる。

「こっからが肝心の、最後の音付けやわ。孔の口をあんまり切り込むと低温になるで、口の厚みを削りながら音を付けてかんと。それに乾燥が足らんと、音が上がってまって(ひび)が入るで」。

こうして口に(ぎょく)を咥えた鯱彫りが完成する。

「木魚はええ出来でも、新品の撥やと音が硬なっていかん。人間も撥も、石頭じゃいかん。やっぱり木魚は、ボワンボワンと、包み込むような音がせんとな」。

静謐とした本堂に響く木魚は、浄土と俗世を繋ぐ祈りの音色。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 395」

今日の「天職人」は、岐阜市美殿町の「天カレーうどん職人」。(平成22年11月13日毎日新聞掲載)

美殿花街宵の口 行き交う人は襟を立て            「お~寒寒」と足早に 暖簾潜って「天カレー!」                  「カレーうどんに天ぷらと 誰が最初に言ったやら        わしもわしもとせがまれて 何時しか店の名物や」

 岐阜市美殿町、手打ちのごと。二代目主の鈴木康司さんを訪ねた。

「岐阜の天カレーうどんを知らんとは、そりゃ潜りや」。

知人にからかわれ、その店を訪ね天カレーうどんを所望した。

すると「明後日休みやに、新聞が天カレーの取材に来るんやと」と、主が仲居につぶやいた。

「そりゃええがね、宣伝になって。なに新聞?」と仲居。

「毎日の天職一芸ゆう、その道一筋のわしみたいなもんの取材らしいわ」。

「ほな天カレー食べさせたるんやろ」。

「でも休やでなあ」。

「なら取材とは別の日に、きっと食べに見えるんやわ。だって食べな書けんやろ。はいっ、お待たせ。天カレーね」。

何と間の悪いことだ。

今さら名乗れはしない。

何はともあれ、天カレーうどんに挑むことに。

大振りの丼には、長さ23㌢もある特大の海老天が1尾、中央に横たわっている。

ルーに浸し一口頬張った。

どうせ衣の嵩上げかと齧り付くと、端しまで身が詰まっているではないか。

一見、カレーと天麩羅に違和感を覚えたが、どっこいこいつが病み付きになる味だ。

カレーと天ぷらうどんが、一度で二度味わえるから堪らない。

2日後、改めて取材に出向き、特大の海老天について尋ねた。

「仕入れした中の、一番大きな海老に合わすで、小さいと2匹分を繋いどるんやて」。康司さんが種明かし。

「あんた一昨日(おととい)、そこへ座っとった人か」。

冒頭の件を語ると、何とも罰が悪そうに笑った。

康司さんは昭和18(1943)年、愛知県大治町で3男坊として誕生。

中学を出ると、名古屋の公設市場のうどん屋で修業に就いた。

翌昭和34年、名古屋駅前の田毎に移り、本格的な修業へ。

「駅前の田毎は、旅館や寿司屋に料亭と、手広う商っとったんやて」。

2年後、栄のうどん屋へ。

ところが昭和40年、店の立ち退きで職を失った。

「ちょうどその頃、ここで田毎を開業するでって誘ってまって」。岐阜での寮生活が始まった。

「たった10坪の店に、職人と仲居で10人以上もおったんやで」。

昼から夜中まで、客足が引かなかった。

昭和43年、近くの喫茶店で勤めていた、文子さん(享年60)に惚れ抜き結婚。

二男を授かった。

「朝昼晩と、コーヒー浸けやわ」。

平成14年、先代の引退を受け主となった。

柳ヶ瀬美殿町名物の、天カレーうどんの決め手は、鰹、室鯵、鯖節を長時間煮詰めた出汁と、徳大の海老天。

注文が入ると玉ねぎ、ネギ、かしわの角切り、蒲鉾を出汁で煮てカレー粉を加える。

そして一煮立ちしたら、水溶き片栗粉で餡に。

次にうどん玉を釜揚げし、丼に移して海老天を載せ、カレー餡を掛ければ出来上がり。

「20年ほど前に、お客さんが『カレーに海老天載せてくれ』って。そしたら、他のもんまでわしもわしもって。品書きに無い物は出せません、なんて偉そうな事いわんと、お客さんの好みに合わせるのが職人やて」。

客の我侭から生まれた、庶民好みの名物天カレー。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。