「天職一芸~あの日のPoem 414」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「浸染しんせん黒染くろぞめ師」。(平成23年4月16日毎日新聞掲載)

(しょう)篳篥(ひちりき)神を呼び (かしこ)み申す祝詞(のりと)ごと              倅と嫁が契り結い 玉串捧げ九献干す              ご先祖様を光背に 黒紋付の家紋負い              共に労わり寄り添いて 頭を垂れる夫婦松

名古屋市西区で大正8(1919)年創業の山勝染工、3代目浸染黒染師の中村修さんを訪ねた。

日本人でありながら、いささか恥ずかしい限りだ。

半世紀も齢を重ねたと言うに、黒紋付に袖を通したことは、これまでにたったの2度。

しかもいずれもが、貸衣装に家紋を張り付けた代物だ。

ましてや我が家の家紋の意匠など、そこで初めて目にしたほどのお粗末さであった。

だが紋付を羽織った瞬間、不思議にも背筋がピンと伸び、まるで背後からご先祖様に、加護されているような気がしたものだ。

「紋章自体が氏素性を表すもんだで、そりゃあそんな気がしても不思議じゃないわさ」。

修さんは昭和26(1951)年、3人兄弟の長男として誕生。

「名古屋の黒紋付染の始まりは、慶長16(1611)年に、尾張藩紺屋頭の小坂井新左衛門から。それで家は、文政2(1819)年に黒染師となった初代東助から数え、ぼくで7代目ですわ」。

大学を出ると京都の染工所で修業を積んだ。

3年後に帰郷し家業へ。

同じ年、富山県高岡市出身の京子さんと結ばれ、男子三人を授かった。

「父は一刻者の職人で、ようぶつかったもんですわ。ぼくはやがて問屋が無くなる日も近いと思い、日曜日になると東海一円の呉服屋1000軒を回り、営業してましたって」。

戦後わずか30年の間に、着物離れは急激に加速していった。

「染めには、蝋纈(ろうけち)夾纈(きょうけち)纐纈(こうけち)の3(けち)ってえのがあって。名古屋は白生地を板で挟んで染める夾纈。家の浸染黒染は、濃度200~300%の黒色染料を90~95℃に熱し、その中に直接生地を入れて一晩浸け込み、水洗いで繊維に結合しない染料を洗い流すもの。だで、より黒さが際立つんだって」。

名古屋黒紋付の浸染黒染は、まず精錬された白生地から不純物を取り除く、地入の下準備に始まる。

それを何度も水洗いして乾燥。

そして生地目を下ゆのしで真っ直ぐに延ばす。

次に生地を検反し、青花(露草の搾り汁)を用い紋の位置決めへ。

続いて和紙を5~7枚貼り合わせたメンコ(=紋型紙)を紋の型に切り抜き、米糊とマツ(=亜鉛粉末)を練り合わせ生地に張り付ける。

ここまでの下準備を整え、いよいよ浸染黒染。

まるで室内用の、丸い洗濯物干しハンガーのような物に、一反の生地を中心から外側へと向って、渦巻きを描くよう、生地が重ならぬように吊り下げ、染料液に一晩浸け込む。

水洗い後、紋糊を落として乾燥。

そして再度下ゆのしで生地目を整え、紋を書き込む部分の糊を落す、紋洗いと乾燥へ。

続いて竹製の文廻し(=和製コンパス)や、中央にガラス製の側棒が滑る溝を掘った竹製定規などを用い、紋上絵を施し蒸気を当てる。

そしてゆのしで仕上げれば、闇より深い漆黒の浸染黒染が完成する。

染の世界の(くろ)(ごく)上上(じょうじょう)(きち)

尾張名古屋の黒紋付。

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「天職一芸~あの日のPoem 413」

今日の「天職人」は、三重県名張市赤目町の「へこきまんじゅう職人」。(平成23年4月9日毎日新聞掲載)

行者滝から銚子滝 赤目五瀑の修行道              (さや)けし森の曼荼羅に 心(あろ)うて香落渓(こおちだに)              穢れ落として一休み へこきまんじゅう舌鼓           往きに食せばたちどころ 腑に屁が湧きて立ち往生

三重県名張市赤目町のたまきや。2代目女将の玉置弘美さんを訪ねた。

新緑に覆われた赤目渓谷。

行者滝へと続く入り口の店先に、「へこきまんじゅう」の看板。

こんなものを目にすると、もはや滝巡りどころではない。

「中身がサツマイモやで、せやったら『へこきまんじゅうやろ』って、主人が名前付けて。そしたらこれがまた、お通じがようなって便秘にええって、女性の方にえらい評判で」。弘美さんが、へこきまんじゅうを差し出した。

何ともほっこりとした舌触りに、サツマイモ自体のやさしげな甘味。

あっという間に平らげてしまった。

「形は違うけど、餡の無い大判焼みたいですやろ」。

なるほどうまい表現だ。

形は長さ12センチ、幅7センチ、縁の厚さは2センチほどでも、真ん中が3センチほどにこんもり膨らんだ長方形で、愛嬌のある忍者が模られている。

弘美さんは昭和37(1962)年に、兼業農家の長女として誕生。

高校へ上がると柔道部のマネージャーに。

同じ道場を利用する剣道部のキャプテンと目が合うたび、思春期の心が微かに揺れた。

卒業後は、名古屋の専門学校で学び、19歳の年に地元の印刷会社へ入社。

それから4年年後、見合い話が持ち上がった。

「何とお相手が、高校の剣道部のキャプテン」。

半年後に武史さんと結ばれ、やがて2女を授かった。

「もともと主人の両親が、伊賀で最初の民宿しとって。平成になってホテルに建替えて私らに譲り、義母は土産物並べてうどん売ったりしとったんさ。ところが土産も年々売れやんようになって」。

何か起死回生の手立てはないかと、たどり着いたのが忍者型した大判焼。

「せやけど、売れるのは秋だけなんさ」。

鋳型で特注した大きな焼台だけが残された。

「この焼台使って、違うもの焼いたらどないやろ」。

それがサツマイモをふんだんに使った、へこきまんじゅうの誕生だった。

「試作したらえらい好評で」。

1週間後に店頭に並べ販売を開始。

「『名前はなとしょ?』となって、主人が『せやったらへこきでええぞ』って。その場で紙にへこきまんじゅうって書いて貼り出したんさ」。

すると我も我もと飛ぶような売れ行きに。

平成15年のことだった。

今では全国各地のデパートから、実演販売の声が掛かる人気振りだ。

へこきまんじゅう作りは、赤目近郊のサツマイモの皮剥きから。

それを輪切りにして蒸し上げ、生クリーム、卵、砂糖、シナモン、塩、小麦粉を混ぜ合わせ、ミキサーで攪拌。

後は忍者の鋳型に流し込み、2~3分焼き上げれば出来上がり。

「どこも不景気で沈んどった時に、このへこきのお陰で、皆が元気になってな。何や赤目の神さんが『これしなさい』ってゆうてくれたようで」。

誰より郷土を愛する弘子さんは、忍者型のへこきまんじゅうを携え、全国各地を飛び回る。

名所赤目四十八滝を、知らしむる伝道師さながらに。

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「天職一芸~あの日のPoem 412」

今日の「天職人」は、岐阜県関市下之保の「玉味噌職人」。(平成23年4月2日毎日新聞掲載)

権現山の山裾で 春告げ鳥が歌い出しゃ             軒の玉味噌縄暖簾 母が解いて仕舞い込む            縄を外した玉味噌は 飴色焼けのお数珠玉            桶の秘伝のタレに浸け 冬が来るまで一眠り

岐阜県関市下之保で、この地に伝わる玉味噌を作り続ける丹羽益子さんを訪ねた。

「まあ、とにかくいっぺん食べてみんさい。食べたことない人は、真っ黒なドーナツ見たいやでびっくりするやろが。でもこうして、玉味噌を崩しながらネギと鰹節を混ぜ、ちょっとお醤油垂らすんやて。それを炊き立てご飯に載せたら、素朴で懐かしい味がするに」。

「私ら子どもの頃は、正月が終わると、近所のもんらが皆して大釜で大豆炊いて、温かい内に丸め藁縄に通し、囲炉裏の上で乾燥させたもんや。そして5月15日のオンゾカイモチの日に、塩水に漬け込んで皆しておはぎをいただいて。ここらじゃ麦ご飯に、玉味噌載せておかずにしたり、味噌汁作ったり。それでもちゃんと()()(大きく)なったでな」。

益子さんは昭和17(1942)年に、5人姉妹の長女として誕生。

中学を出ると、同県可児市の修練農場に寄宿し、1年間農業を学んだ。

翌年、武儀高校の別科へ進学。

「まあ、洋裁や和裁を習って、2年間の花嫁修業やわ」。

18歳で農協の事務職に。

4年後、職場に一人の男性職員が採用された。

やがて益子さんの夫となる鉄夫さんだ。

「私はぜんぜん気が付かんかったのに、いつの間にか上司が主人に、『婿入りどうや?』と世話焼いとったみたい。主人は次男坊やったで、『他の土地へ養子にやってはどもならん』と」。

周りの計らいでトントン拍子に婚儀も整った。

昭和41年、鉄夫さんが婿入りし、やがて一男一女が誕生。

昭和半ばの高度経済成長で、静かな山里の暮らしも一変。

この地特有の玉味噌も、次第に作り手が減少した。

「そりゃあ手間かけて玉味噌造るより、スーパーで買った方が遥かに安いし、誰れの口にも合うように出来とる。そんでも玉味噌は、野良仕事に持って行くと、これがまた旨いんやて」。

平成7年、近くに道の駅が誕生。

「月に2回、朝一に玉味噌出すと、これがまたよう売れて。その都度母に『造っとくんさい』と頼み込んで」。

2年後、味噌醸造の許可を得、益子さんの本格的な玉味噌造りが始まった。

この地に伝わる玉味噌造りは、正月開けに関市武儀地区の大豆を水に浸す作業から。

そして薪で8時間ほど蒸し上げ、臼で搗いて擂り潰し、丸めて中央にドーナツ状の穴を開ける。

翌日藁縄に通し、タカキビの殻で止め、縄暖簾状に8個ずつ吊り下げ、3月末まで陰干しへ。

4月になると乾燥した玉味噌をザッと洗い、醤油と米糀を入れた桶に漬け込み、12月の出荷まで寝かせる。

「昔は塩味だけやったに。今は食べやすいようにと、醤油と糀で味付けて」。

味噌のようだが味噌でもない、それが武儀の玉味噌。

素朴な味わいに、鰹の旨味とネギが絡まり、飯の甘みを引き立てる。

「お代わり!」と、ついつい茶碗を差し出した。

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「天職一芸~あの日のPoem 411」

今日の「天職人」は、愛知県刈谷市の「かざり職」。(平成23年3月19日毎日新聞掲載)

父は七つのお祝いに 夜毎コツコツ銅を打つ           晴れ着の柄にお似合いの 君影草(きみかげそう/スズラン)の髪(かざり)  宮へ詣でるその朝に 髪を結い上げ後差し           「羨ましい」と妹も 三面鏡を覗き込む

愛知県刈谷市で昭和33(1958)年創業の、村井神仏金物製作所。二代目錺職の村井義幸さんを訪ねた。

南に開いた明り取りの窓辺には、2500本にも及ぶ(たがね)が並び、己が出番を待ち受ける。

「父から譲り受けた物が大半ですが、実際に使うのは1000本程度かなあ?錺職は自分で鍛冶屋仕事の焼入れして、鏨を作るための鏨まで作るんです」。義幸さんは、金鎚を打つ手を止めて振り向いた。

義幸さんは昭和40年、3人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると滋賀県彦根市の錺職人の元で修業を始めた。

「子どもの頃から物を作るのが好きで。1枚の銅板から鏨1本で、自在に立体的な錺金具まで作り出せるんですから。それに会社員と違って、1円単位の競争に追われることもないし」。

5年の修業を経て家業へ。

修業先で得たのは、技だけではなかった。

同じ職場の金箔職人であった、裕子さんとの間に恋が芽生え、手を取り三河の郷へ。

平成元年に結ばれ、一男一女を授かった。

「気が付いたら、妻が付いて来ちゃったんです」。

それから10年。

錺り職父子は、ひがな一日窓辺に座し、互いに何かを語らうでも無く、ただひたすら黙々と鏨を叩き続けた。

写真は参考

「平成10年から父の仕事を受け継ぎまして。それからは大好きなハードロックを聴きながら、金床をスネア代わりに、鏨と金鎚をスティックに見立て、リズムを刻んでみたり」。

三河仏壇、祭りの山車、神社仏閣の煌びやかな錺金具は種々多様。

まずは銅板に、型の墨付けを行う金取りから。そして鏨で断ち切り、(へり)打ちを行い、下絵を描き(がら)()りへ。

「下絵をなぞり、小さな楔形を刻む()り彫り鏨や、魚の卵のように細かな目が犇めき合う魚々子(ななこ)鏨。それにもっと細かい砂のような砂目鏨や石目や岩目の鏨を使い分けながら、柄を彫り出すんです」。

そして粗研ぎし、鑢目(やすりめ)のザラザラした突起を(きさ)げと(ぼう)(べら)で磨き上げ、金メッキを施す。

「鏨で彫った肌の荒れ具合で、錺の顔が違って来ますから。下絵によってその都度、鏨を選ばんといかんのです」。

ちなみに三河仏壇1本に、錺り職が1つ1つ手で打ち出す、約1500枚の金具が用いられる。

それは正面から仏壇を眺めただけでは気付かない、天井金具一つとっても、どれ一つとして手抜きなど許されない。

「そもそも仏壇は、家の中にある、寺院のミニチュアと一緒ですから、大きさこそ違えども、おおよそ寺院の本堂と同じように、錺り金具が配され、組立師の手によって取り付けられます」。

写真は参考

その意匠たるや、幾何学模様から花鳥風月まで多種多様。

日本人の美意識が、伝統的な意匠に込められ現世へと受け継がれる。

3代目はと問うと「ぼくで最後かな。時間ばっかりかかる大変な仕事だし…」と、一瞬苦しげな言葉を飲み込んだ。

わずか10センチの金床を舞台に、錺職の指先は、鏨を操り銅板上を踊り続ける。

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「癒しのおにぎりランチタイムのお相手!」

最近のマイブームは、おにぎりを持って公園のベンチに腰を下ろし、木漏れ日を浴びながら子供たちの騒ぎ声や、鳥達の鳴き声に耳を傾けることです。

とある公園のベンチでおにぎりを頬張っていると、足元に一羽の鳩がやって来て、地面んの草むらを啄んでいたのです。

まったく物怖じせず、逃げようともせず、まるでぼくがおにぎりの一部をこぼしてくれるんじゃないだろうかと、そんな思いもあってぼくの足元をグルグル回っているようです。

それでも一向にご飯が零れ落ちて来ないので痺れを切らしたのか、ぼくが腰かけているベンチの背もたれに飛び乗り、こっちを向いてクゥークゥーッと!

あまりの人懐こさに癒されて、「また明日、古いお米を持ってきてやるからまたおいで」と、ついつい鳩を諭している自分に気が付いたものです。

そして昨日また、鳩との約束通り、古いお米を少しだけ忍ばせて、件の公園のベンチに腰掛け、おもむろにおにぎりを開き掛けたのです。

すると15m~20m先から、一目散に昨日の鳩がまたしてもぼくの足元めがけて駆けてくるじゃないですか!

後で気が付いたのですが、わざわざ走らなくったって、ちょいと羽を広げりゃひとっ飛びだったのに、変な奴ですよねぇ。

鳩とは言え約束は約束ですから、おにぎりを頬張りながら、古いお米をパラパラッと足元に撒いてやると、あっという間に啄みつくし、物欲しそうにまたぼくを見上げるじゃないですか!

仕方なくまた一つまみお米を与えても直ぐに食べ尽くしてしまう有様。

とは言えぼくだっておにぎりを食べてるわけですから、鳩に餌付けばかりしてられません。

すると鳩は羽ばたいて、ぼくが座るベンチに飛び乗り、これまた物欲しそうな目線を送って来るじゃないですか!

ついにぼくも根負け!

「あっ、そうだ!」

名無しの鳩じゃあちと可哀そうかと思い、ならば勝手に名付け親になってやれっと!

ぼくは「サブレー」と名付けてやりました。

な~んでかって?

もう大半の方はお気付きでしょうが、「鎌倉の鳩サブレ」からのパクリです。(トホホ)

そしてサブレーサブレーと呼びながら、試しに掌に米粒を乗せて、サブレーの口元に差し出してやりました。

最初は驚いたように一歩後ろずさったりもしましたが、何もされないと知るや、ぼくの掌の米粒をツンツンと啄み始めたじゃないですか!

嗚呼今日の、おにぎりランチが待ち遠しい!

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「天職一芸~あの日のPoem 410」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「伊賀組紐織子」。(平成23年3月12日毎日新聞掲載)

町を歩けば格子から 糸をトントン叩く音            窓に面した高台(たかだい)で 織子(おりこ)は座して紐を組む            亀甲柄に乱れ菊 まるで譜面か(あや)()きは             両手広げて糸を繰る 伊賀の弾琴織子町

三重県伊賀市で明治末期創業の松島組紐店。二代目織子の松島文代さんを訪ねた。

南に向いた窓からは、何万本の燭光でもとうてい敵わない、柔らかく大らかな春の陽射しが、組紐を織る高台を照らす。

「そりゃあいちんちじゅう、黙―ったまんま糸を組んどんやで、ポカポカ陽気に誘われて眠とうもなってくるに。そやでそんな時は、今日の晩のおかずどないしよとか、気を紛らわさんと。でも不思議と、どんな時でも組み口だけは、ちゃんと見とるんやでな。力の入れ具合がちごてくるとあかんで」。文代さんは、(たけ)(べら)で糸を叩きながら組み口を指差した。

文代さんは昭和15(1940)年に沖家の次女として誕生。

中学を出ると組紐店で織子の修業を始めた。

「実家の父が柄出しさんやってな。えっ?柄出しさんか?それは、組紐で描く亀甲柄とか市松模様とかを組む、音楽でいう譜面のようなもんが綾書きゆうて、その手順を考える職人やさ。右の何番目の糸と左の何番目の糸を組んでてな具合に。今しそんなん、みなコンピュータやでな。私ら高台には、小学1年から座り続けとんやで、自然と体が覚えてもうとるでな」。

住み込み修業は10年に及んだ。

「そこで主人と知りおうて、一緒んなって独立したんが昭和40年やさ」。(やす)(たか)さんと結ばれ、男子を授かった。

「組紐は織り始める前の、下回しの仕事が大変なんさ」。

生の絹糸を糸繰りし、柄色に合わせ染色。

ヘイジャクと呼ぶ糸合わせ行い、糸玉に巻き取り組み糸に。

作業は20工程に及ぶ。

「織子は高台いう舞台に載せてもうて、紐を組む女優のようなもん。せやけど一番手間で大変なんは、下回しする男衆の黒子やに」。

織子の作業は綾書きに基づき、左右60個の糸玉を配置することから。

「上段が表、下段が裏の色やさ」。

そして紐の始点を玉に結び(えん)ぶりを拵え、それを高台の前方に取り付けられた、鳥居型の(ぬき)に巻き付け固定する。

後は綾書きに記された手順に沿い、左右上下の糸を組む。

「糸を組んでは箆で叩いて箆止めし、段々に組み上がって来ると、鳥居さん(貫)に巻き上げてくんやさ」。

1メートル50センチの帯紐を組む場合、倍の3メートルを織り上げる。

「最後の仕上げは、縁ぶりを解いて、ほてから始点を糸で括って、その先っちょを(ふさ)にすればやっと完成やさ」。夫の育敬さんが傍らで笑った。

一日7時間の単調な織り作業が、惜しげもなく丸3日費やされ、帯締めの美しい柄が浮かび上がる。

「そんでもな、織子してる時が何より楽しいよ。せやけど織子は手が命や。ささくれだったらあかんし、体調が悪いと目が飛ぶでな」。

文代さんは、家伝の亀甲柄の綾書きを、そっと指先で繰った。

織子が絹糸で奏でる弾琴の音は、(いにしえ)から受け継がれる美の模様となり、眼の奥深くへと響き渡る。

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「天職一芸~あの日のPoem 409」

今日の「天職人」は、岐阜県関市新町の「伊深志ぐれ職人」。(平成23年3月5日毎日新聞掲載)

父の遺影を卓袱台に 母は湯呑みで茶を啜る          (さかずき)満たし好物の ()(ぶか)()ぐれをそっと添え           連れ添い生きた半生を 問わず語りで泣き笑い          貧乏所帯火の車 苦労も母の宝物

岐阜県関市新町で明治中頃創業の大黒屋、3代目志ぐれ職人で坊主ぼうしゅの小原達夫さんを訪ねた。

岐阜県関市の中心部を東西に貫く旧街道。

南は(ばい)(りゅう)寺山(じやま)、北に安桜山(あさくらやま)

もう直ぐ待遠しい春は、南から北へと駆け抜ける。

そう山に冠された名そのものが、古からの物語を感じさせるようだ。

小高い山に挟まれ、昔ながらの商家や民家が(ひし)めく。

思わず小童(こわっぱ)だった昭和半ばの自分と、出くわしそうな気がする。

表通りを2本南へ下ると、風呂屋の先に控え目な商家が眼に入る。

目当ての「()(ぶか)()ぐれ本坊(ほんぼう)大黒屋」だ。

「家の商品は、伊深志ぐれ1つきりだけです。でもその種類は365種。なぜかって?毎日生麩を同じ分量、同じ味付けにして志ぐれを煮ても、日によって季節によって、微妙に味が変わります。志ぐれが生きものの証しでしょうな」。

達夫さんは昭和23(1948)年に4人姉弟の長男として誕生。

高校を卒業すると、そのまま父の下で家業に就いた。

「元々祖父は麩屋でした。ところが戦前戦中と、父は時代の激流に翻弄(ほんろう)され。戦後既に両親も他界した関へと戻り、回覧雑誌屋を始め、2年後には武儀高校で英語の教鞭を執ったそうです。しかしインフレで生活は困窮を極め、翌年上京し三井建築金物に就職。しかし2年後に勤務先が焼失し、まだ2歳になったばかりの私を連れ、再び関へと舞い戻ったんです。それからは生きるために、子どもの頃の記憶を手繰り、細々と店を再興。ところが父は商売が下手でして、ついに食うにも困り果て、伊深(美濃加茂市)の里の正眼寺(しょうげんじ)へと辿り着いたんです。そこで精進料理の大家でもある、梶浦(かじうら)(いつ)(がい)老師と巡り会い、教えを請い半年がかりで完成させたのが伊深志ぐれです」。

達夫さんのお父上は苦学の末、昭和7(1932)年に東大を卒業。

世が世であれば、然るべき職と地位を手にし得たはずだ。

「さて、商品名をどうするかとなり、老師は元徳2(1330)年頃に伊深で修業を積んだとされる『関山(かんざん)()(げん)禅師(ぜんじ)より関山志ぐれはどうだ?』と。

写真は参考

すると父は、『それは恐れ多い。ならば伊深志ぐれで』と」。

昭和31年晩秋のことだった。

昭和53年、先代が鬼籍に入り三代目を襲名。

2年後には、近在から妻を迎え、一男一女を授かった。

全国広しと言えど、ここでしか手に入らぬ伊深志ぐれ作りは、まず生麩を指先で千切り取り、湯の中へ放り込む作業に始まる。

沸騰させ麩を固め、水を切って絞り、()()りの付いた大釜に醤油、砂糖、生姜を入れ煮付ける。

煮上がれば、扇風機の風で煽って冷ます。

「怒って煮ちゃあ駄目です。鍋に麩を入れた時には、『頼むぞ』と、毎日声を掛けてやるんです」。

真っ黒に煮上った歪な志ぐれは、鶏の笹身のような歯応えで、二つと同じ顔は無い。

畑が生んだ丘の蛤、伊深志ぐれ。

親子二代の手塩と精進が育んだ、滋味(きく)すべし美濃関の名肴(めいこう)なり。

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「天職一芸~あの日のPoem 408」

今日の「天職人」は、名古屋市中区大須の「衣桁いこう職人」。(平成23年2月26日毎日新聞掲載)

黒紋付の父と母 初の仲人大役と                父は祝辞を忍ばせて 空で何度も繰り返す           「時間ですよ」と急かされて 衣桁(いこう)の羽織り取り上げて      二礼二拝の神頼み まるで鳥居か空衣桁

名古屋市中区大須で、明治34(1901)年創業の鈴木木工所。4代目衣桁職人の鈴木規夫さんを訪ねた。

呉服屋のショーウインドーをたまたま目にした折、何とも違和感を覚えた。

その正体が何であるのか、一旦気になると、もうどうにも居ても立ってもいられない。

何とかその正体を見破らんと、今一度呉服屋の入り口を繁々睨め回した。

すると晴れ着姿のマネキンに目が釘付け。

「間違いない、これだ」。

異様な波長の正体は、身動ぎ一つせず、瞬くこと無く商店街の通りを見詰めたままだ。

「そりゃあやっぱり呉服は、衣桁に掛けるのが一番収まりがいいですわ」。規夫さん)は、「まあ、お掛けになって」と、座面に帆布を張った()(しょう)を広げた。

胡床とは、テレビドラマの戦国武将が、陣幕の中で腰を下ろす、一人掛け用の折り畳み式の椅子である。

規夫さんは昭和40(1965)年に、3人兄弟の長男として誕生。

「家がそのまんま作業場でしたから、子どもの頃からよく手伝ってました」。

大学院で建築設計を学び、設計事務所に勤務し一級建築士の資格を取得。

「学生の頃に清洲城や、セビリア万博に出品した安土城の設計を担当して。事務所に入ってからは、西尾城や寺社仏閣を手掛けました」。

それも(えにし)か平成6年、西尾市出身の恵美子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

その後30歳で独立し、寺社仏閣専門の設計事務所を開設。

「家業を手伝いながら自分の設計もしてと、二束の草鞋状態でした」。

平成15年、病の父を庇い、家業を継いだ。

「父が寝たきりになったから。父が永年勘だけで作って来た衣桁や反物掛け、胡床、几帳台などの木工品を、自分の手で一から合理的に設計しなおしたんです。私一人でも加工し易いように」。

衣桁とは、細木を神社の鳥居のように組んだ、高さ約1.7メートル、幅約1.8メートルほどの自立式木枠の着物掛け。

衣桁作りは、まず天棒となる洋材のラミンの丸棒に、臍穴を開ける作業から。そして両端に切込みを入れ、反り上がり部分の材を貼り付け磨き上げる。

次に縦棒の上下に臍を削り出し、中央の横棒用に臍穴を開ける。

そして下段の角材の面を取り、脚と共に縦棒用の臍穴を開け、漆仕立てに塗装すれば完成。

「組み立て式にしてありますから、使用時に組み立て、必要がなければ取り外して片付けることもできます」。

主に呉服屋、結婚式場、博物館、それに世界各国にある日本大使館などからも注文がある。

「和風旅館などでは、衣桁に呉服を掛けて、間仕切りとして利用されるようです」。

さらに施主の要望によっては、本漆仕立てや、天棒の両端に錺金具をあしらったり、蒔絵を施すものもある。

写真は参考

衣桁と着物。

掛けると掛けられる関係は、一つになることで実用性を越え、室内を雅に彩る装飾品に生まれ変わる。

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「天職一芸~あの日のPoem 407」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市大湊の「火造り和釘鍛冶」。(平成23年2月19日毎日新聞掲載)

カンカンカンと鍛冶場から 規則正しい鎚の音          お(とう)が背中丸うして 小さな和釘叩き出す            赤めた鉄が飴のよに 小鎚一つで七変化             ()(かす)(かい)(おれ)(いなご)(くぎ) 打出の小鎚和釘鍛冶

三重県伊勢市大湊、昭和初期創業の久住商店。三代目火造ひづくり和釘鍛冶の久住勇さんを訪ねた。

『『吊るくす折れ釘はないか?』とか、『鴨居の反り留めに使う()(かす)ないか』って、宮大工があれやこれやゆうてくんのやさ。無いゆうのんも癪やで、ついつい勘考してもうてな。せやでいったい何種類の和釘を拵えたかなんて、とんとわからしませんに」。勇さんは、()()で赤めた鉄の番線をヤットコの先に挟んだ。

そして金床の台座に宛がうと、小鎚一本を振り下ろし、あっと言う間に起用に巻き(がしら)釘を打ち出す。

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「この巻き頭いうのんは、雨戸用やさ」。

金鎚で打ち込む頭が、巻き寿司のようにクルクルと丸められている。

長さ約13ミリ、頭の幅約7ミリ足らずの和釘が、たったの小鎚一本で、ものの数10秒で打ち出される。

「1日で1000本はやれやんと、とても一人前とは言えやんのさ」。

勇さんは昭和17(1942)年、7人兄弟の末子として誕生。

中学を出ると、父と共に鍛冶場に座した。

「一番上の兄貴が跡継いどったんやけど、途中でやめてもうてな。最初のうちは、火床へくべたるコークス割り専門やさ」。

相手が小さな和釘ゆえ、大きなコークスでは火力が上がりすぎるからだ。

「昔は電柱を引っ張る梁とか、筏から真珠貝吊るす、もう錆びてあかんようになった鉄線集めて来て、火床で赤めて釘にしよったもんやさ」。

和釘の種類は数多ある。

板と板を横に合わせる「(あい)(くぎ)」。

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これは長さ約1.5センチで、両端を尖らせたものだ。

垣根に用いる「(かい)(おれ)」は、長さ約2センチ、頭がL字型に曲げられている。

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何とも親しみが湧く名前の「(いなご)(くぎ)」。

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これはコの字型の針先を、2本ともL字に叩き出して曲げたもので、吊天井に用いられる。

また釘の長さが約30センチと、やたら大きな「瓦釘」。

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寺院などの鬼瓦止めで、頭が鍬のように幅広い。

床の間の掛け軸用は「二重折れ」。

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これは針先がJ字状に直角に二度折り曲げられたものだ。

一方L字状に直角に一度折り曲げた物は、名札を掛ける「折れ釘」。

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さらに和船用の落とし釘と呼ぶ平釘や角釘。

「いずれも洋釘とちごて、打ち込む針が丸やなしに、みな角やでどれもはってき(入って行き)にくいけど、その代わりに抜けぬ(に)くい。せやで錆びれば錆びるほど、材に食らいついて行きよる」。

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和釘に釘抜きは無い。

だから宮大工は、己が金鎚一振りに神経を集中させる。

昭和49年、近在から久代さんを嫁に迎え、一男一女を授かった。

(ふいご)を足踏みして火床に火(おこ)し、土べたに埋めた金床目掛け、しゃごんで(しゃがんだ)まんま一日中、小鎚振り下ろすきっつい仕事やさ」。

和釘鍛冶職人は、半世紀に渡り和釘1本で、日本の伝統建築と家族を支え抜いた。

「他所へ勤めに出とった倅も、帰って来てくたんやさ」。

四代目の誠さんの手付きを眺め、勇さんは微笑んだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 406」

今日の「天職人」は、岐阜市南蝉の「夜市の露地野菜売り」。(平成23年2月12日毎日新聞掲載)

伊奈波神社の参道も 粉雪舞って雪化粧             戸板の上の露地野菜 春まだ遠き岐阜()(いち)            どてら羽織(ばおり)で馴染み客 「寒いやろで」と(まがき)越し         椀の甘酒差し出せば 夜市の親爺手を合わす

岐阜市南蝉の農夫で夜市の露地野菜売りをする、北川ひろむさんを訪ねた。

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「おーっ、今日は店出しとるよ。そやそや、6時頃までやったら開けとるで」。

老人は野良着のポケットに、携帯電話を仕舞い込んだ。

「最近はこんなん持たされてまって。馴染みの客が『今日やっとる?』って掛けてくるんやて」。

伊奈波神社の参道夜市で、自家栽培の露地野菜売りを始めはや57年。

弘さんは昭和6(1931)年、同市鷺山の農家で5人兄弟の3男として誕生。

11歳の年に、叔父の家へと養子入り。

昭和21年、尋常高等小学校を出ると、家業の農業を手伝った。

「しばらくすると、鳶の仕事も掛け持ちしてな」。

そして昭和29年、丹精込めて栽培した露地野菜を、夜市に持ち込んだ。

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「伊奈波は昔から夜市が立っとって、隣り近所のもんらがみな店出しとったんやて」。

弘さんは自転車でリヤカーを引き、長良橋を渡り金華山西麓へと毎晩通った。

「まんだ家の近くの金華橋が出来とらなんだもんで、えらい遠回りやったって」。

翌年、近在から富美恵さんを嫁に迎え、やがて一男一女を授かった。

「とにかく当時は、日曜でもようけ売れて大忙しやったて」。

以来、鳶を辞し、作物作りと夜市の野菜売りで一家を支え抜いた。

「オジサン、これ大きいなあ。サトイモか?」。

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歩道に籐編みの乳母車を止め、馴染みの老婆が品定めを始めた。

「そやそや、今さっき畑からもじいて来たとこやで、新鮮でええ出来やに」。

「ほうか。今日は雪が降り出してまったで、ひょっとしたら休んどるやろかと思っとったんやて。でもよかったわ。店開けとってくれてたで。そういやああんた、こないだ休んだやろ。みんな馴染みのもんらが、風邪でも拗らしとれせんやろかって、気揉んどったんやに。もう無理したらあかん。あんたも年なんやで」。

「そう言うあんたも、年えろうかわらんやろに」。

「そやなあ。わっちが嫁入りして来た時には、あんたんとこ店出しとったんやでな。あっ、今日はあとホウレン草も一緒に包んどいて」。

「いつもすまんな、ありがと。ちょっとやけど、ネギを一把入れとくわ」。

昭和半ばの頃のような、緩やかで何ともほのぼのとしたやり取りが続く。

畳一畳ほどの台の上には、弘さんが丹精込めて栽培した、白菜、ホウレン草、餅菜、サトイモ、大根、長ネギに手作りの切干大根、そして大根と白菜の漬け物までが居並ぶ。

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「漬け物もみんな手製やて。夏んなるとキュウリの糠漬けやし。これもまた美味しいよ」。

昔は弘さんの集落から、15~16人が夜市で店を張ったとか。

「でももう今は、わし1人やて。周りから、『よう年食っても行きやっせるな』とからかわれるけど、わしが店出すの待ってくれとる馴染みもあるで、いつまでたっても(きり)がないわ」。

客の美味いの一言に、ほだされ続けた半世紀。

正直者は、今日も美味い野菜作りに精を出す。

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