今日の「天職人」は、名古屋市西区の「浸染黒染師」。(平成23年4月16日毎日新聞掲載)
笙に篳篥神を呼び 畏み申す祝詞ごと 倅と嫁が契り結い 玉串捧げ九献干す ご先祖様を光背に 黒紋付の家紋負い 共に労わり寄り添いて 頭を垂れる夫婦松
名古屋市西区で大正8(1919)年創業の山勝染工、3代目浸染黒染師の中村修さんを訪ねた。

日本人でありながら、いささか恥ずかしい限りだ。
半世紀も齢を重ねたと言うに、黒紋付に袖を通したことは、これまでにたったの2度。
しかもいずれもが、貸衣装に家紋を張り付けた代物だ。
ましてや我が家の家紋の意匠など、そこで初めて目にしたほどのお粗末さであった。
だが紋付を羽織った瞬間、不思議にも背筋がピンと伸び、まるで背後からご先祖様に、加護されているような気がしたものだ。
「紋章自体が氏素性を表すもんだで、そりゃあそんな気がしても不思議じゃないわさ」。

修さんは昭和26(1951)年、3人兄弟の長男として誕生。
「名古屋の黒紋付染の始まりは、慶長16(1611)年に、尾張藩紺屋頭の小坂井新左衛門から。それで家は、文政2(1819)年に黒染師となった初代東助から数え、ぼくで7代目ですわ」。

大学を出ると京都の染工所で修業を積んだ。
3年後に帰郷し家業へ。
同じ年、富山県高岡市出身の京子さんと結ばれ、男子三人を授かった。
「父は一刻者の職人で、ようぶつかったもんですわ。ぼくはやがて問屋が無くなる日も近いと思い、日曜日になると東海一円の呉服屋1000軒を回り、営業してましたって」。
戦後わずか30年の間に、着物離れは急激に加速していった。
「染めには、蝋纈、夾纈、纐纈の3纈ってえのがあって。名古屋は白生地を板で挟んで染める夾纈。家の浸染黒染は、濃度200~300%の黒色染料を90~95℃に熱し、その中に直接生地を入れて一晩浸け込み、水洗いで繊維に結合しない染料を洗い流すもの。だで、より黒さが際立つんだって」。
名古屋黒紋付の浸染黒染は、まず精錬された白生地から不純物を取り除く、地入の下準備に始まる。
それを何度も水洗いして乾燥。
そして生地目を下ゆのしで真っ直ぐに延ばす。
次に生地を検反し、青花(露草の搾り汁)を用い紋の位置決めへ。
続いて和紙を5~7枚貼り合わせたメンコ(=紋型紙)を紋の型に切り抜き、米糊とマツ(=亜鉛粉末)を練り合わせ生地に張り付ける。
ここまでの下準備を整え、いよいよ浸染黒染。
まるで室内用の、丸い洗濯物干しハンガーのような物に、一反の生地を中心から外側へと向って、渦巻きを描くよう、生地が重ならぬように吊り下げ、染料液に一晩浸け込む。

水洗い後、紋糊を落として乾燥。
そして再度下ゆのしで生地目を整え、紋を書き込む部分の糊を落す、紋洗いと乾燥へ。
続いて竹製の文廻し(=和製コンパス)や、中央にガラス製の側棒が滑る溝を掘った竹製定規などを用い、紋上絵を施し蒸気を当てる。
そしてゆのしで仕上げれば、闇より深い漆黒の浸染黒染が完成する。

染の世界の黒極上上吉。
尾張名古屋の黒紋付。
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