「天職一芸~あの日のPoem 422」

今日の「天職人」は、三重県松阪市大黒田町の「ニット編み職人」。(平成23年6月18日毎日新聞掲載)

古びたセーター糸解き 腕でかせくりお手伝い          母は毛糸を玉にして 魔法の編み機をシャーシャーと       どんな仕掛けかわからんが 母はハンドル右左          するとたちまち摩訶不思議 メリヤス編みが顔を出す

三重県松阪市大黒田町、昭和40(1965)年創業の山本ニット。創業者の山本佐子さこさんを訪ねた。

「タバコの火で穴の開いた、お父ちゃんのあのみすぼらしいセーターも、ほれっ、あんたのトックリに早代わりや」。

昭和も半ばの頃。

母は月賦で手に入れた、念願の編み機でセーターやマフラー、それに腹巻までも編み上げたものだ。

父と自分の、昔のセーターを解いては継ぎ足し。

「私らかてそうでしたんさ。物の無い時代でしたやろ。姉のお古で作り直したり。でも物の無いのが幸いして、自分でなとかするしかないで、逆にお洒落心の灯も点いたんやさ」。妃佐子さんは華やかな花柄のニットが、とてもお似合いだ。

「思い切って華やかなもんを身に着けると、気持ちまで明るうなりますやろ」。

妃佐子さんは昭和7(1932)年、大阪の高畑家で6人兄妹の次女として誕生。

戦時中、父の実家があった松阪市飯南町に疎開。

終戦後一旦大阪へと戻ったものの、昭和21年に家族で飯南町へと移り住んだ。

翌年中学を出ると、材木屋で事務員として勤務。

そこで巡り会ったのが、終世連れ添う山本修吾さんだった。

「主人の兄がその材木屋をしてましたんさ」。

昭和24年材木屋を辞し、大阪の服飾専門学校へ。

「ちょうど両親も大阪へ戻ってましたし、服飾の勉強がしとて」。

やがて修吾さんとの遠距離恋愛が実り昭和29年に結婚。一男一女を授かった。

昭和40年、子育ての忙しさからやっと手が放れた頃だった。

「主人は材木の本業以外にも、とにかく商売が好きで。大阪の親類がベビー用のニット製造をしとったもんで、今度はそれやって。私が親類からなろ(習っ)て、近所の人らにパートしてもうて」。

妃佐子さんの山本ニットが産声を上げた。

「最初の頃は手横機(ニット編み機)が5~6台で、立ったまま作業してました」。

しかしベビー服では、加工賃が少なく成り立たず、やがて婦人物へ。

「徐々に機械化の波が押し寄せて来ましてな」。

昭和45年には半自動、昭和後期には全自動へ。

「昔は1インチ(約2.5センチ)に3本の3ゲージでしたんさ。ところがどんどん針目の数も細こうなって、今しは14~18ゲージですんさ」。

ゲージが細かくなるほど、技術力も要求される。

「熟れて来ると、自然と指先が覚えますんさ」。

ニット編みは、デザインに応じパターンを引く作業から始まる。

次に型紙を起こし、身ごろなら身ごろだけ7着分ほど積み、型紙を当て裁断機で裁つ。

それをミシン掛けし、首周りや袖周りをリンキング(専用ミシンで縫う)。

最後にネームタグを付け、プレスすれば完成。

「ニットは夏暑いと思われがちやけど、化繊のブラウスなんかより風も通すで涼しいもんやさ」。

周りから『素敵ね』と言われる度、人は誰でも簡単に若返る。

妃佐子さんはそう言って笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 421」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市蕨生の「らく水紙すいし手漉き職人」。(平成23年6月11日毎日新聞掲載)

美濃の手漉きの落水紙 水が描いた透かし柄          亀甲(きっこう)綸子(りんず)石目柄 茜の空を翳し見る              蕨生(わらび)の郷の夕暮れは 権現山を下り来る             板取川に紅を引き 裸電球軒に咲く

岐阜県美濃市蕨生で、昭和11(1936)年創業の大光工房。美濃和紙の中でも、落水紙の手漉きをただ一人手掛ける、二代目の市原達雄さんを訪ねた。

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大釜から湯気が立ち上り、辺り一面に(こうぞ)を煮る匂いが立ち込める。

美濃和紙の里、山間の蕨生(わらび)の集落に、1300年も連綿と受け継がれる営みだ。

「そこの裏山からそこらあまで、よう猿が出てくるんやて。たんまに餌やるもんやで。朝から晩まで一人っきりで紙漉いとるやろ。ほんだでちょっと猿を見んと何や寂しいもんやて」。

落水紙とは、一度舟で漉いた()の上から、鉄線で描いた柄出しの型で覆い、その上からシャワーの要領で水を掛け、地の和紙の原料を洗い流し、柄を浮かび上がらせたもの。

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達雄さんは昭和8年に6人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると、父の下で家業に就いた。

「それからもう63年。だって他に行くとこないんやもん」。

昭和29年、新たな技術が生まれ、美濃和紙の手漉きに転機が訪れた。

「4つ年上の従兄弟が、この落水紙の技術を発明したんやて。『こういうやつやるで、お前らも一緒にせえ』と」。

たちまち13軒の手漉き職人が、落水紙への参入を表明した。

その後時代は、高度経済成長期へ。

和紙で出来たレースのような、清楚で可憐な落水紙は、モダンな照明器具の明かり窓や、障子などに持て囃されていった。

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昭和35年、つづ枝さん(故人)と結ばれ、一男二女を授かった。

「女房は、やーっと年金が貰えるって喜んどったら、いっぺん貰ったきりでパンクやわ。わしより先逝ってまったんやで」。

落水紙の手漉きは、大釜で50キログラムの楮を、4時間かけて煮る作業に始まる。

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「2時間したら上下引っくり返して、フタフタになるまでな」。

そして水槽に原料を移し、井戸水で丸1日かけて灰汁を抜く。

次にカルキを入れ、半日以上かけて白く晒す。

続いて晒し上がれば、薙刀ビーターで攪拌し糊状に。

そして舟に移しクレゾールと、事前に濾過したネベシ(自家製の黄蜀(とろろ)(あおい))の溶液を入れ、馬鍬(まぐわ)(竹の平棒)で掻き混ぜる。

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次に桁に簾を張り舟で漉き、その上から柄が鉄線で描かれた型で覆い、手製シャワーの水の落下点にセットし、余分な原料を洗い落とす。

「そうするとやっと柄が浮かび上がって来るんやて」。

そしてプレス機で水を絞り乾燥機にかければ、気品溢れる美濃の落水紙が完成する。

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「まあ、手間ばっかやて。せいぜいどんなに頑張っても、一日に250~300枚がやっとやわ。でも機械の大量生産では、絶対真似の出来ん、手漉きならではの風合いが、何とも言えんやさしい感じやろ」。

達雄さんは、乾燥を終えたばかりの完成品を広げ、感慨深げにつぶやいた。

「何と言っても、落水紙は水が命。水が飛び散りながら、見事な柄を描き出すんやで」。

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「天職一芸~あの日のPoem 420」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の福江地区の「じょじょ切り職人」。(平成23年6月4日毎日新聞掲載)

田原伊良湖のじょじょ切りは 白玉じゃなく餅じゃない      甘くササゲを炊き上げて 練ったうどんで餅代わり        ぜんざいでなく汁粉じゃない 郷に伝わるじょじょ切りが     妙に恋しい都会(まち)暮らし 母の手付きを真似て煮る

愛知県田原市の福江地区に伝わる伝統食「じょじょ切り」。それを保存し、地域に伝え残そうと活動する中川美代子さんを訪ねた。

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「豊川用水が引かれるまで、この辺りは水田が少なく、米がとれんかったじゃんね。だもんで作物って言ったら、サツマイモに麦ばっかり。子どもの頃、入梅前に枇杷の実が赤らむと、麦も刈り入れになるらあ。麦を積んだリヤカーの上に登って、思いっきり背伸びして、枇杷を摘んでよう食ただあ」。美代子さんが、懐かしそうに笑った。

じょじょ切りとは、小麦粉をうどん状に練り、小指ほどの大きさに切ったものを、ぜんざいの餅や白玉に代えた、この地の代用食。

水団の団子に代え、これを浮かべた物は、じょきじょき刻みと呼ばれる。

平たく延ばしたうどんの生地を、ジョキジョキと切るからとも、泥鰌のような姿からとも、その名の由来には諸説ある。

「とにかく米が沢山とれんで、小麦を代用食にしとっただで。昔は収穫した小麦を組合に預け、その都度帳面持ってって、必要な分だけうどん玉や粉にして貰って来ただ」。

美代子さんは昭和13(1938)年、農業を営む山木家で、8人兄妹の次女として誕生。

高校を出ると愛知県農業共済組合で、事務職に就いた。

「当時共済組合は、農協の敷地の中に間借りしとっただ」。

その農協に勤める、2歳年上の職員との間で縁談話が持ち上がった。

昭和36年、中川(かず)(ひと)さんと結ばれ一男二女が誕生。

「この辺りの福江地区の小中山集落じゃ、まだ私が嫁入りした頃まで『嫁呼び』の風習が残っとったじゃんね。嫁呼びとは、『嫁を貰いました』って、親戚や集落の人らに披露する宴で、『じょじょ切り』が振舞われただあ」。

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兼業農家で、家事に子育て、舅姑の世話から畑仕事に追われた。

昭和58年.愛知県農業普及協会が「伝えたい のこしたい あいちの味」を募集した。

「それに遠縁の粕谷アサ子さんが『じょじょ切り』を投稿しただ。そしたら名前の珍らしさもあって、掲載されることになったじゃんね。それで粕谷さんのレシピを私が再現することになっただ」。

昭和59年、一旦はその姿も消え入ろうとしていた郷土食「じょじょ切り」が、美代子さんの手によって復活を遂げた。

素朴な味わいの「じょじょ切り」作りは、小豆をそのまま鍋に入れ、二度湯でこぼし、灰汁(あく)を抜き柔らかく煮上げることに始まる。

「昔は小豆が貴重だったで、ササゲ豆で代用したじゃん」。

そして砂糖と塩で味付け。次に塩を振らずに小麦を練り、耳(たぶ)ほどの硬さにして、打ち粉をせずに延ばし、5センチほどの長さにジョキジョキと切る。

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そして麺を茹で、煮上げた小豆を入れて、再び砂糖と塩で味を調えれば完成。

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「麺の茹で汁を捨てちゃいかんだ。小麦の旨味が出とるだで」。

美代子さんのじょじょ切りに、在りし日の母の味が蘇えった。

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「天職一芸~あの日のPoem 419」

今日の「天職人」は、津市栄町の「底付師(そこづけし)」。(平成23年5月28日毎日新聞掲載)

正月前の店先は 紳士淑女の行列で               足の踏み場も無い騒ぎ 父は革靴底付師             仕立てスーツの紳士でも 「まずは足型とりまひょか」      爪先の出た靴下に 照れ臭そうな苦笑い

津市栄町で昭和29(1954)年創業のミツバト靴店。二代目底付師の小林薫さんを訪ねた。

「昔は盆暮れの前んなると、勤め人らで店ん中がごった返して。給料の2倍もするオーダー靴の時代やったで、皆6回払いの月賦でしたな。今しみたいに、七面倒くさいローンの申込用紙なんて、そんなもんあらせん。ただ名前と勤め先だけ聞いてそんでよし。それでも皆きちんと、毎月欠かさず代金持って来てくれよった。今思うとええ時代やったわ」。

店の一番奥まった小さな作業場。

58年間座り続ける椅子から、薫さんが表通りを眺めやり懐かしげにつぶやいた。

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薫さんは昭和14年、4人兄弟の長男として誕生。

中学卒業の年、父が独立しミツバト靴店を開業。

「ミツバトとは舶来革の名称やさ。こんな風に、革の裏面に3羽の鳩のマークが付いとるやろ」。

卒業と同時に、父に付いて底付師の修業を始めた。

「子どもの頃から、父の仕事を見とって興味があったでな」。

靴職人は、靴底に甲革を取り付けて仕上げる底付師と、甲革をミシン掛けする甲革師とに別れる。

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「甲革師になった一つ下の弟が生きとった頃は、二人してよおけ拵えたもんやさ」。

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しかし昭和40年代も半ばに差し掛かり、大量生産大量消費の時代が訪れると、徐々にオーダー靴の注文も減少。

「昔の靴は革がええで、量産品と比べたらその分重たいんや。それに量産で革靴も安なったで、何十年と修理して履くもんらも少のうなったでな」。

オーダー靴の作業は、足の採寸に始まる。

(かかと)(くるぶし)までの高さも、人によって違うで、踝に革が当らんようにな」。

紙型を作り、革を裁断し甲革師がミシン掛け。

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次に木型にノセコと呼ぶ革を被せ、甲の厚さを調整しながら型出し。

その上から甲革を被せ、(わに)と呼ぶ(わに)(ぐち)をした工具で引き伸ばし、吊り込み釘で仮止め。

次に靴の先端部に先芯(さきしん)、踵にツキカタ(芯)を磐石(ばんじゃく)(のり)で糊付け。

そして()げさと呼ぶ革紐の輪の一端を踵で押さえ、反対の一端で膝の上に中底、甲革、細革を固定。

松脂を塗り(ろう)を引いた麻糸の両端に、緩やかに曲がった大くけ針を2本取り付け、中底、甲革、細革に(すく)い針で穴を開け、交互に締め上げ縫い絞る。

「麻糸に松脂を塗るで、ナイロンなんかとちごて革と摩擦して、ギシル(抜ける)ことも無い」。

そして本底と細革を出し針で縫い上げ、踵を縫い付ける。

「後は1週間から10日、糊が乾けば完成やさ」。

最盛期は、2日で3足を仕上げたと言う。

昭和37年に秋田美人のユキさんと結ばれ、男子を授かった。

「息子が小学校へ入る時、革靴作って履かしたったけど…。本革が重いゆうてな、それっきりや」。

靴を見れば何時作ったか、何度修理したかもすべてお見通し。

「後は、仕事しながら死ぬだけや」。

熟達の底板師が、あっけらかんと笑い飛ばした。

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「天職一芸~あの日のPoem 418」

今日の「天職人」は、岐阜市本町の「納豆職人」。(平成23年5月21日毎日新聞掲載)

朝の食卓カツカツと 小鉢掻き混ぜ糸伸ばし           どっちが勝つかいざ勝負 父と競った糸納豆           嫁に来た日が忘られん 「おおい、納豆」と呼ばはるで      甘納豆を差し出せば 醤油垂らしてめしの上

岐阜市本町の三角屋貝﨑商店、納豆職人の貝﨑浩一さんを訪ねた。

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鹿児島出身の母にとって納豆と言えば、それは取りも直さず、甘納豆を指したのだろう。

昭和半ばに、所帯を持って間もない新婚当初。

朝餉に父が納豆を所望し、母は何の疑いも抱かず、小鉢に甘納豆を盛って差し出した。

すると極度の近視である父が、甘納豆の上から醤油を垂らし、箸で掻き混ぜご飯の上に掛け、そのまま掻き込んだという。

さすがに母は、父の味覚を疑ったそうだ。

それ以来、倹しい食卓に糸引き納豆が登場するたび、母は新婚当初の「納豆取り違え騒動」話しを持ち出し、一人で笑いこけたものだ。

「関西より西では、納豆と言えばやっぱり甘納豆。それに対し中部辺りから東は、東京式の糸引き納豆やね。家が納豆屋を始めたのは、昭和も初め。もともと家の三角屋の創業は、寛永元(1624)年やで、あと10年ちょっとで400年やわ。今の私で14代目。納豆屋を始めたのは、11代目の曽祖父の時代やて。屋号の由来は、ちょうど三叉路の角にあったで三角屋とか。もっとも400年の間には、何度も商売換えもしたようで、鍛冶屋に八百屋、呉服屋やったりと」。

「『岐阜は海が無いのに、なんで家の苗字は、貝の﨑なんやろ。信長公が開いた楽市楽座の頃に、海辺の村から一旗揚げよと、この地にやって来たんやろか』とか。とにかくご先祖さんの由来に、もの凄く浪漫を感じるんやて」。

浩一さんは昭和32(1957)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、京都の納豆屋で住み込みの修業へ。

2年後帰郷し家業を継いだ。

「京都も岐阜も、気象条件はよう似たもん。納豆は生き物やけど、京都で学んだこととそれほど違わんし、戸惑いなんてなかった。せいぜい違いは、発酵(むろ)くらいのもん」。

三角屋の納豆作りは、清流長良川が運んだ伏流水に、大豆を一晩浸す作業から。

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そして翌日蒸し上げ、噴霧器を使って納豆菌を満遍なく噴霧。

発酵室へと移して一晩寝かせる。

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翌朝、発酵室から取り出し、今度は冷蔵庫でまたゆっくり一晩寝かせる。

すると大豆は、都合3泊4日の旅を終え、全身に繭のような菌糸(きんし)を纏い、地元の小売店へと出荷されてゆく。

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「昔は今と違って、杉板の経木の間に、蒸し上げた大豆を入れ、蝋を引いた紙で封をして発酵させたもんやて」。

昭和60年、関市出身の紀子さんと結ばれ、二男を授かった。

「倅が中学2年のころ。『おめえ家継ぐんか?継がんなら、一筆書け』って言ったったら、畑違いの世界へ就職してまった。だで、先のことなんてわからんて」。

400年続いた家の歴史は、荒れ狂う時代に抗い、生業(なりわい)を転じ活路を拓いた、先祖の尊い足跡だ。

「たとえどんな商売でもええさ。倅らが、ご先祖様から託されたこの家を、守り続けてくれたら」。

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「天職一芸~あの日のPoem 417」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「鬼板師(おにいたし)」。(平成23年5月14日毎日新聞掲載)

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鐘撞き堂に地蔵堂 本堂脇の大銀杏               少年忍者身を隠し チャンバラごっこかくれんぼ         遊び疲れて地蔵堂 供物の餅に手を伸ばしゃ          「罰当たりが!」と天の声 屋根から睨む鬼瓦

愛知県豊橋市で明治33(1900)年創業の伊藤鬼瓦。鬼板師おにいたしの田中満さんを訪ねた。

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昭和も半ば。

腕白小僧やお転婆娘たちの遊び場と言えば、氏神様や寺の境内と相場は決まっていた。

当時の寺は今と違い、四方ぐるりをコンクリートの高塀で囲うほど、閉鎖的でもなかった。

だから檀家であろうがなかろうが、そんなことは一切お構い無し。

坊主の目を盗んでは、勝手気ままに出入りしたものだ。

しかし本堂の甍の端に居座る鬼瓦が、いつも睨みつけているようで、さすがに悪さやいたずらを働くことなどなかった。

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奈良時代頃に仏教と共に渡来したとされる鬼瓦。

魔除けや災い封じとして本堂を護る一方、境内で遊び呆ける子どもたちをも、もしかしたら見守ってくれていたのかも知れない。

「子どもらにすりゃあ、鬼瓦は怖いやろ。でも鬼板師にとっちゃ、子どもも怖がらんような鬼作っとっちゃ話にならんで。わしもこの先、定年になって引退したら、これまで自分で手掛けた鬼瓦たちに、逢いに行くだあ。それが今は、一番の夢だで」。満さんは、幅80センチ、高さ1.2メートル、厚さ30センチもあろうかという、本鬼面の土塊(つちくれ)に竹箆で細工を施す。

満さんは昭和28(1953)年、島根県の兼業農家で6人兄弟の次男として誕生。

中学を出ると、大阪の寿司屋へ住み込み修業に。

「どうも板前には向いとらんだあ」。

半年後には兄を頼り、姫路で左官の見習いを始めた。

「ところが今度は腎臓結石で入院だって」。

療養も兼ね郷里へ舞い戻った。

「しばらくしたら姉から、嫁ぎ先の瓦屋が忙しいで、仕事を手伝いに来いと」。

昭和47年、一人豊橋駅へと降り立った。

「本当は2~3ヶ月もしたら、すぐに郷里へ戻るつもりだっただ。それがどこでどう間違ったのか、そのまま居ついてまって。師匠である姉の旦那の父親が、鬼瓦もやっとったもんで、すっかりそれに魅せられちまったでかなあ」。

昭和50年に結婚。

男子を授かった。

「でもそれからは、年々日本家屋の建築が減り、鬼瓦上げるような農家も減ってまっただ」。

平成9年、伊藤鬼瓦へと移籍した。

鬼板師の作業は、まず実物大より1割大きく、鬼面の絵を描くことに始まる。

「焼くとどうしても1割ほど縮んでまうだわ」。

次に板状の粘土を型紙に沿って組み重ね、竹箆と(しな)(べら)(撓る箆)と己が指で、迫力ある鬼面を立体的に造形する。

「鬼の顔の胴はでっかいで、上下に2分割にして。それと屋根の破風に垂らす股木(またぎ)と、鬼面の天辺に手前へと突き出す鳥休みを作って」。

素焼きと最終焼きを終えれば、この世にたった一つの本鬼面燻し瓦が完成する。

「一番苦心するのは、鬼の目付きだわ。黒目を小さくしてみたり。だって本物の鬼なんて、だあれも見たことあれせんだで」。

1体の製作に約1ヶ月。

鬼板師は、己が描いた鬼面と、ただただ向き合い続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 416」

今日の「天職人」は、津市大門の「やじろ餅職人」。(平成23年4月30日毎日新聞掲載)

伊勢は津でもつ津観音 花桐祭り春うらら           繁縷(はこべら)九本(くほん)茎を結い 観音籤で卦見立て              観音様に手を合わせ 門前町へ繰り出せば            焦げた焼餅溜りの香 我も我もとやじろ餅

津市大門で元治年間(1864-65)創業のたまきち餅店。9代目やじろ餅職人の加藤俊次さんを訪ねた。

浅草、津、大須と、日本三観音の一つに数えられる津観音。

境内は今が盛りの桐の花で、雅やかな淡い紫色に彩られている。

まるで観音様の薄衣のような艶やかさだ。

春に咲き競う花々にあって、桐の花は一際高貴な馨しさを放つ。

満たされた気分で門前町へと向うと、餅の焦げる匂いについつい足が向く。

なるほど。

既に餅屋の店内では、お参りを終えた客が、今か今かと焼き上がりを待つ。

「観音様へ参った後は、あんたとこのやじろ食べやんと物たらんのやさ」。

老婆は店の片隅に腰掛け、旨そうにやじろを串から頬張り茶を啜った。

「やじろ言うのんは、(うるち)(まい)ともち米を半々で、ブツブツに搗いたたがね餅を、細長く切って串に刺して焼いたもんですんさ。まあ、お一つどうぞ」。俊次さんが、焼き立てのやじろ餅を差し出した。

幅2.5センチ、長さ10センチ、厚さ1.5センチほどの、まさに五分搗きの切り餅に、こんがりと焼き目が付き、葛餡仕立ての砂糖溜りのタレが絡む。

みたらしの団子が、焼餅に変わっただけ。

だがその素朴な味わいは、病み付きになること請け合い。

八つ時ならずとも、ついつい手を伸ばしてしまいそうだ。

「ほんまは杵搗きたがねやで、かとなるんが当たり前。せやけどそれを工夫しまして、今では冬場で1時間、夏場ですと1時間半は柔らかいまんまでかとなりません」。

俊次さんは昭和48(1973)年に長男として誕生。

大学院を出ると製粉会社で澱粉の研究に明け暮れた。

「ちょうど25歳の終わり頃に、父が体を壊してしまって」。

会社を辞し、家業を継いだ。

その2年後、大学時代の同級生だった神戸出身の恵さんと結ばれ、一男一女に恵まれた。

津観音、門前名物のやじろは、伊勢街道を上り下る旅人たちの、小腹を満たし続けた庶民のお御馳走(ごっつお)

本街道をちょいと分け入り、観音様を詣でれば、やじろの焦げる匂いに、疲れた旅人も袖を引かれたことだろう。

「松阪や多気の方では、たがねをやじろと呼ぶんやそうです。語源は(やじり)(なま)ってやじろとか。ほうっとくと、直に鏃のようにかとなるでやろか」。

やじろ作りは、粳米ともち米を一晩水に浸け込む作業から。

翌朝それを蒸し上げ、たがね状に搗き、薄く均等に延ばし、短冊状に切り分け竹串を打つ。

後は客の注文を待って素焼きし、砂糖溜りの葛餡を絡めれば出来上がり。

「澱粉の性質で、焼いて5分もするとかとなってしもて。せやで家では5年ほど前から、搗き方と、粳米ともち米の配分を少し換え、取り粉も使わず、かとならんよう工夫しとんやさ」。

最高学府で学んだ澱粉の研究が、創業以来140年の難題を解決へと導いた。

化学薬品には一切頼らず、あくまで自然科学の応用を旨として。

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「天職一芸~あの日のPoem 415」

今日の「天職人」は、岐阜市大福町の「映画看板絵師」。(平成23年4月23日毎日新聞掲載)

駅前ビルの灯が燈りゃ 映画スターの看板が           眩いほどに浮かび出で バス待つぼくを魅了する         清楚可憐なヘプバーン ぼくはペックになりきって        ベスパ代わりの自転車を 飛ばす凸凹帰り道

岐阜市大福町で昭和33(1958)年創業の美工社。映画看板絵師の大前みつぎさんを訪ねた。

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「まだ若い頃、ポルノ映画の裸の看板を描いとった時なんて、何か胸がドキドキしてまって。親方からは、『胸をもっと大きくしたれ』とか冷やかされるし」。貢さんが、懐かしそうに倉庫の中の古い看板に目をやった。

貢さんは昭和33年に飛騨金山の兼業農家で、3人兄弟の末子として誕生。

「子どもの頃から絵が好きで、写生大会が待遠しかった」。

中学を出ると、糸貫町の寮に一人住まいし、家具製造会社に勤務。

「家具職人を目指したんやけど、毎日単純作業の繰り返しで」。

昭和45年、知人の紹介で美工社の門を叩いた。

「看板でも何でも、とにかく手作りがしたくて。そしたらいきなり『描け』って言われて文字書きから。しばらくすると、今度は縁取られた絵の中を、塗り絵みたいに色付けやわ」。

一つの仕事をこなすと、直ぐに次の仕事が与えられた。

切り抜き看板用に、ベニヤ板を糸鋸で切り抜き、ザラ半紙を貼って桟を裏打ちしたり。

そんな下回し仕事の日々が続いた。

「初めて一人で映画看板を描いたのは、絵師の職人が辞めた昭和55年頃やったかな」。

看板絵師としての初作品は、縦1.8メートル、横2.7メートルの巨大なキャンバスが舞台。

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交通量の多い環状線に掲げられる屋外看板だった。

「忘れもせんなあ。沖縄が舞台の映画『マリリンに逢いたい』やった」。

貢さんは懐かしげに表通りを見やった。

「夜暗くなってから会社へ出て、看板のトタン板をまず真っ白く塗って。そこへポスターの図柄を幻灯機で拡大し、映し出しといて下書きや。塗り始めるのは、翌日になってからやね。看板はポスターと違って、遠目で見たり下から見上げても、どこから眺めたって目線が合うよう、モデルの目を強調して描かんといかん。それに陰影付けて肌の立体感を出したり。描いとる手元を見ると、『なんじゃあ』ってな感じでも、看板にして上の方へ掲げて見ると『ウワッ!』となるもんやて」。

時には見本のポスターの構図を変更し、人物の間隔を詰めたり、より効果的になるよう人物の配置も入れ替えたり。

どれも絵師の裁量の一つだ。

「だんだん手描き看板が減って、平成12年頃には1週間で1作品くらいやったろか。それでも昔は映画館も5館あったで、次から次へと描き換えて。あの頃は、2本立て3本立てなんてざらやったし」。

自分が描いた映画は、欠かさず観たという。

「最近柳ヶ瀬のロイヤル劇場が、懐かしの名画を上映するようになって。10年も筆置いたままやったけど、また昔ながらの手描きを、させてもらっとるんやて」。

自分の描く女優に恋し続けた看板絵師。

まるで昔の恋人と、再び巡り逢ったように微笑んで見せた。

ポスターの写真と、一味違う手描き看板。

味わい深さは、筆先に託す絵師の想いの一刷けか。

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「ななななんと!ついに・・・」

昨日のお昼は、雨の小振りな頃を見計らって、例の公園へサブレーに逢いに行ってみました。

するとななななんと!

サブレーは自分からぼくの手のひらに飛び乗って来るじゃありませんか!

それがこの↓動画です。

https://youtu.be/7WsL_mbSPAU

ついでにこちらも!

https://youtu.be/ipSZZEG9hoY

今日は一日中大雨とかだったので、お腹を空かしていたら大変だと思い、雨が小降りになったのを見計らって出かけてよかったぁ!

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「サブレーがまたまた、ぼくのおむすびランチタイムに、やって来てくれましたぁ!」

件の公園のベンチのランチタイムは、コロナの影響もあってか、殊の外賑わいを見せています。

でもサブレーが、昨日のお昼に、ぼくの座ったベンチにやって来てくれました。

https://youtu.be/eXiNm301mkw

実はサブレーがやって来ると、他の3羽もゾロゾロとついて来たのですが、ベンチに飛び乗って来るのはサブレーだけで、もちろんぼくの手のひらから米粒を啄むのも、サブレー1羽だけです。

ちなみに他の鳩にも、手のひらに米粒を乗せて、地面近くまで手を下ろしてじっとしていても、いずれも脅えて近付くことも米粒を啄むこともありませんでした。

今日はどうやら雨模様なので、サブレーに逢いに行けそうもなく、残念な限りです!

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