「天職一芸~あの日のPoem 432」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市問屋町の「紙箱職人」。(平成23年9月3日毎日新聞掲載)

里の土産の菓子箱に 千代紙貼って得意顔            浜の貝殻並べ入れ 「お宝箱」と愛娘              やがて娘も嫁ぎゆく その日が来たら箱を開け          幼い君を偲ぶだろう 桜色した貝を見て

愛知県豊橋市問屋町で昭和22(1947)年創業の福益工業所。四代目紙箱職人の白井伸幸さんを訪ねた。

昭和半ば。

母は朝から晩まで、わずかな手間賃仕事の内職に明け暮れていた。

紳士服の仕立てから、型抜きされたゴム製品のバリ取りまで。

季節により仕事内容は異なった。

中でもゴム製品は嵩張り、大きな段ボール箱が茶の間を占拠したほどだ。

当時ぼくは、小学校の低学年。

体もすっぽり納まる段ボール箱を、秘密の隠れ家としたものだ。

ある日、箱の中でうっかり爆睡。

夕餉になってもぼくが戻らぬと、両親を慌てふためかせたこともあった。

「そうそう。子どもらは、段ボール遊びの天才じゃんね」。伸幸さんが、懐かしそうにうなづいた。

伸幸さんは昭和35年、2人兄弟の長男として誕生。

高校を出ると家電製品の問屋に就職。

「普通の商いは、小売店の求めに応じて、商品を納めさせてもらうじゃんね。ところがその問屋では、小売店の注文も聞かんと、『おたくの店は、この夏こんだけ売ってもらわんと』と、有無も言わさず押し付けるだ。ぼくの担当した店のご主人は、体に障害があって、前の在庫もよう捌けんのに。そんなことお構いなしで、次の商品押し付けるらあ。だもんで、手形切ってもらうのも辛くって」。

理想と現実の間で、社会人1年生の心は悲鳴を上げた。

「翌昭和55年、ついに挫折。そのまんま家業に就いて、配達やら雑用の毎日」。

箱屋の仕事は、依頼主の製品に傷を付けず、運びやすく梱包するため、どんな形状の箱に収めるべきか、その設計作業から。次に色やデザインを決め図面に。

そしてトムソンで、段ボールに切れ目を入れ加工。

最後に切れ目から部品をバラシ、カスを取り除き組み立てて完成する。

昭和60年、恩師に誘われ、青年バレーボール教室の手伝いに出かけ、一つ年上の恭子(やすこ)さんに一目惚れ。

伸幸さん恋のスパイクが、恭子さんの心を見事に射抜き結ばれた。

やがて一男一女が誕生。

「その頃でしたわ。縁あって授産施設の方と知り合って。話を聞けば、施設の仲間同士誰もが、楽しそうな顔して直向きに作業に取り組んどると。でも、仕事が少なくって困っとるって言うじゃん。だったらうちの仕事を、手伝ってもらうかと」。

トムソンで切れ目を入れた状態の平板な段ボールのまま、授産施設に持ち込み、切れ目からのバラシとカス取り、組み立てまでを依頼した。

「カス取りは機械でも出来るだけど。こっちの都合だけじゃいかん。施設の方たちのやりがいも考えんと」。

しかし好況不況に伴い、車の部品を入れる箱の注文などは、浮き沈みを繰り返す。

「パートの仕事削ってでも、授産施設への仕事量は減らしたらかんって、そりゃあ大変です。でもそれが相身互いの、信頼関係っちゅーことじゃんね」。

人情味溢れる、町の気のいい箱屋が笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 431」

今日の「天職人」は、三重県伊賀市の「アドバルーン職人」。(平成23年8月27日毎日新聞掲載)

先着粗品見比べて 母はチラシと睨めっこ            空に三ヶ所アドバルーン 段取り組んでチャリを漕ぐ       値の張りそうな粗品から 順に三軒店巡り            ぼくまで列に並ばされ 他人の振りで頭数

三重県伊賀市で昭和39(1964)年創業の中部アド。アドバルーン職人の田中博さんを訪ねた。

昭和11(1936)年、2月29日。

世に言う二・二六事件の最後の日である。

反乱兵に向け、一本のアドバルーンが揚がった。

写真は参考

そこには「勅命下る 軍旗に手向かふな」の文字が。

写真は参考

「その歴史に残るアドバルーンを、反乱兵から狙撃されそうになりながらも、必死に揚げたのが、先輩の池田さんですんさ。私はその池田さんから、アドバルーンの揚げ方を教わりましてな」。

博さんは昭和8年、2人兄弟の長男として誕生。

昭和26年、東京の大学へと入学。

「学校の掲示板に、アドバルーン屋のアルバイト募集が、貼り出されてましてな。大正10(1921)年に日本で一番最初のアドバルーンに、縦文字の垂れ幕広告を付けたのが水野勝蔵。その人の銀星アド社で、日給450円のバイトを始めましたんさ」。

学業どころか、バイトに追われる毎日が続いた。

「今のように東京もまだ、高層ビルとかありませんでしたで、手っ取り早い広告ゆうたら、空にぽっかり浮かぶアドバルーンばっかり」。

写真は参考

昭和29年、ついに大学を中退し、そのまま銀星アド社に入社。

「もうその頃は、ほとんど私がアドバルーン作りしてましたでな」。

昭和38年、郷里からヨシ子さんを妻に迎え、やがて2男を授かった。

翌年社を辞し、郷里で中部銀星アド社を設立。

「まあ、暖簾分けみたいなもんですやろ。ここでアドバルーン作っては、銀星の本社に収めたり、名古屋や大阪の業者に業販してましたんさ」。

丸い大きな風船状のアドバルーンも、時代を下るにつれ、様々な意匠をこらすようになった。

「だんだんと暮らしもようなって来て、アドバルーンも他所より目立たせろゆうて。巨大なゴジラやサンタクロース、カルガリー五輪の時なんか、ロッキー山脈まで」。

変形物製作の第一人者として、海外や全国各地からも注文が押し寄せた。

「今とちごて昔は、揚げる場所にも不自由せんかったし。昭和40年代の最盛期には、1日に250ヶ所も揚げたもんですに。それが今では、週末にポツポツッとあるくらいやさ」。

変形物のアドバルーン製作は、まず意匠に合わせて粘土で縮小模型を製作。

その粘土型に薄紙を貼り、それを剥がして拡大し、部分ごとに型を起こす。

そして塩化ビニール製の生地の上に型紙を載せ裁断。

ビニール同士の糊代に溶剤塗り、鏝を当てて溶かすように接着。

大きな龍などは、頭だけで長さ11㍍、直径2㍍、全長120㍍にも及ぶ。

「この複雑な変形物に、何立米のヘリウムが入るか?その面倒くさい算出には、父が編み出した計算式が役にたちますんさ。コンピュータもまだ無い時代に、平面図を三次元に展開して考えたんやで、大したもんですわ」。

二代目を継ぐ次男の穣さんが、傍らの父を頼もしそうに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 430」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市久々野町の「飛騨桃 果樹園主」。(平成23年8月13日毎日新聞掲載)

ほんのり赤く色付いた 飛騨の桃園夏木立            一家総出で桃を摘みゃ 里に童のはしゃぎ声           裏手の山の湧き水で 熟した桃もヒンヤリと           童が競い頬張れば 久々野の(たに)に風渡る

岐阜県高山市久々野町で昭和40(1965)年から飛騨桃生産を続ける、切手直義果樹園。主の切手直義さんを訪ねた。

久々野桃源郷の朝は、今が一年で一番早く訪れる。

とはいえ本物のお天道様が、ここにだけ煌々と昇っているわけではない。

果樹園の作業場だけが、午前2時だというのに、蛍光灯の光を放つ。

「ちょうどお盆の今からが、飛騨桃の出荷の最盛期やさ」。直義さんは、直径10センチは下らない大粒の飛騨桃に、そっと手を添え箱へと詰め込む。

ほんのりと薄紅に色付いた、気品漂う高貴な桃である。

「傷つけたらしまいやさ。みんな大切な箱入り娘ばっかりやでな」。

直義さんは昭和17年、3人兄弟の長男として誕生。

中学を出ると1年間、同県可児市の修練農場で寮生活へ。

「そうやなあ。寮ゆうても今とは違うで、自分の食う米を背負ってったもんやさ」。

昭和33年に帰郷し、家業の農作業に従事した。

「当時はまだ、水田と蚕ばっかりや」。

昭和40年、直義さんを含む20人の有志で、10㌶の果樹園を共同で開いた。

「終戦後、美濃から開拓団が入植して、梨やリンゴに桃を作り出したんやさ。そしたら名古屋辺りで、桃がえろう評判になって。ここらの昼夜の温度差が甘味を出すでやろ。それと飛騨桃は、他所の産地の桃が市場に出回り終わった後になって、やっと収穫を迎えるんやで、時期外れでかえって喜ばれる」。

1㌶に7~8本の桃の木が植わる。

「だいたい桃の実は、1本の木に700個。それがいっぺんに収穫期を迎えるんやて」。

だからお盆の頃の収穫期には、家族総出で摘み取り、翌朝の出荷に間に合わせるよう、夜中から箱詰めに追われる。

昭和44年、近在から黎子さん(故人)を妻に迎え、やがて一男一女が誕生。

久々野桃源郷の一円には、果樹園がその後も続々と産声を上げた。

飛騨桃の摘み取から出荷までは、1年のうちたったの1~2週間。

残りの350日ほどは、箱入り娘の嫁入り準備に追われる。

まず年明けから春先までは、枝の剪定。

飛騨の山間に遅い春が訪れると、桃の花が咲く前に蕾を間引く(てき)(らい)

4月末から5月初旬の開花を待って受粉。

「みな自然任せやて。ミツバチさんらにお願いしてな」。

そして(てき)()

「だいたい50㌢の枝に花を1~2個残して」。

1個200㌘を超える飛騨桃ゆえ、つっかえ棒をかって枝を支える。

6~7月になると袋掛け。

「満遍なく色を付けるために、地べたに反射シート敷いてな」。

毎朝5時に起き出し、消毒や草刈に精を出す。

そしてお盆の頃から、摘み取りを始め全国各地へ出荷。

「桃の木は20年の寿命としたもんさ。桃栗三年というけど、一番甘い実を付けるのは、女盛りの10年以上のベテランさんや」。

亡き妻と二人、手塩に掛けて育て上げた箱入り娘の飛騨桃。

今年もたわわに実を結ぶ。

―薄紅色の飛騨桃が 妻の笑顔に見える盆―

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「天職一芸~あの日のPoem 429」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市花田町の「帆前掛け捺染なせん職人」。(平成23年8月6日毎日新聞掲載)

染屋の釜に煙立つ 木々から落ちる蝉時雨            庭一面の藍の帆に 灘の屋号が白く浮く             散歩途中のご隠居が 灘の屋号に気を取られ          「ちょいと一本付けとくりょ」 捺染(なせん)職人大慌て

愛知県豊橋市花田町で、昭和30(1955)年創業の鈴木捺染。豊橋が誇る伝統産業の、帆前掛けを専門とする、二代目捺染なせん職人の鈴木良治さんを訪ねた。

東海道新幹線と東海道本線とに挟まれた、愛知県豊橋駅の南。

大自然の景観とは程遠い、都会の舞台袖ともいえそうな一角だ。

それでも夏の訪れを待ち侘びた蝉たちが、けな気に狂おしいほどの鳴き声を放つ。

小路から少し奥まった年代物の建屋から、仄かに煙が棚引く。

「染の時には、今でも廃材くべて、釜で焚くじゃんね。だってボイラーだと、突き刺すような熱さになるらあ。やっぱり昔の風呂と一緒で、薪で焚いたお湯はやわらかで、肌にジィーンと染み入るし、湯気もほわんとしとる。染めもんも一緒だって」。良治さんは、そっと染釜の蓋を上げた。

良治さんは昭和33年、5人兄弟の3男として誕生。

大学を出るとそのまま家業に就いた。

父を師と仰ぎ、帆前掛けの染に関するイロハを学んだ。

写真は参考

しかし昭和30年代には、一日2000枚の生産を誇った伝統産業の帆前掛けも、じり貧へ。

「戦後はとにかく、着る物も無い時代。だから大切な服を傷めたらいかんと、丈夫な帆前掛けが重宝したじゃんね。それからは大手の蔵元が宣伝用に、酒の銘柄を白く染め抜いて、全国各地の酒屋にばら撒いただ」。

良治さんが家業に入った昭和55年頃には、帆前掛けも衰退の一途。

「父に顔料捺染(シルクスクリーン)を導入しようと。それで5色の機械を入れて、10年ほどシルクと帆前掛けでしのいだだ」。

やがてバブルが崩壊。

中国からの輸入と、不景気の荒波に揉まれ続け、結局元の伝統的な帆前掛け一本へ。

「とにかく仕事量が少なくって、父と私と叔母の3人が細々やっとっただ」。

平成9年、良治さんは家業を父に任せ、異業種へ転職。

「伝統的な捺染の技を、何とか遺したくって。父一人ならなんとか細々とでも続けられるけど、私まで家業に縋って食っとったら、共倒れじゃん」。

公害分析会社で8年勤務し、再び家業へ。

「父が初めて『もうえらいで、お前やってくれんか』って弱音を吐いただもんで」。

当時帆前掛けの注文は、一月で1000枚を切るほどの減少ぶり。

「やっと今では、どうにか年間6万枚に戻ったけど」。

帆前掛けの捺染は、まず前掛け生地を煮る作業から。

そして一旦脱水し、型紙を当て防染糊を木箆で塗り、上から大鋸粉振り掛ける。

次に伸子(しんし)という針金を()って生地を張り、染釜にどぶ漬け。

数分で釜揚げし、酸化還元で発色と定着をさせ、水に浸けて水酸化還元で色出し。

そして水洗いの上、脱水し天日に干せば完成。

写真は参考

「去年93歳で亡くなった父は、90歳まで現場に出とっただ。この染料配合帳に、細かな比率を書き込みながら。後になってそれが、どんだけ役に立ったことか」。

伝法相乗の配合帳。

良治さんが誇らしげに手にした。

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「天職一芸~あの日のPoem 428」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「大入道せんべい職人」。(平成23年7月30日毎日新聞掲載)

狸囃子か腹太鼓 里の童も化かされて              酒と肴の供物下げ 狸の穴で額ずいた              それを見ていた子狸が 里の菓子屋で子に化けて         大入道の焼印の 煎餅盗み腰抜かす

三重県四日市市で昭和8(1933)年創業の、四日市名物大入道せんべいの宝来軒。三代目煎餅職人の森秀明さんを訪ねた。

せんべいの袋の中に入った、厚紙を切り抜いた大入道。

裏面には、大入道の謂れ書き。

大入道は頭が青々と剃り上がり、太い眉に大きな(まなこ)

団子っ鼻に真っ赤な舌が、顎の下へと垂れ下がる。

白黒縦縞模様の着物に赤い帯。

厚紙の一方を上へ押しやると、大入道の首がドロロンと伸びる、極めて簡単な、昔ながらの仕組みである。

しかしこの大入道。

どこからどうみても怖いと言うより、むしろ滑稽であり親しみさえ感じてしまう。

「昔、四日市の港には、蔵がようけありましてな、そこへ狸がやって来ては蔵荒しをしよって。地元の衆が困り果て、狸を驚かそと大入道を作ったんやさ。ところが狸もしたたかで、逆に大入道に化けられる始末。これはあかんと、大入道に細工して首がドロロンと長くなるようにしましたんさ。それでさすがの狸も驚いて、尻に火い付けて逃げ帰ったとか」。秀明さんが、その由来を語った。

「今も、文化2(1805)年に作られた、高さ5㍍、首の長さ1.6㍍、着物36反の超大型の大入道が、山車に乗って町を練り歩きますんさ」。

秀明さんは昭和39年に3人兄弟の長男として誕生。

昭和59年、製菓の専門学校を出ると、名古屋の洋菓子店に住み込み修業へ。

「6畳一間に4人住まい。朝4時半から夜中の11時まで。面接の時に親方は、そんなこと一言もゆうとらなんかったのに。とにかくよう殴られましたわ。親方はえらい任侠道に憧れとって。部屋へ呼ばれると極道映画のビデオ見せられ、『お前らなあ、任侠も菓子の道も同じや』って。せやでぼくがおった6年の内に、10人が夜逃げしてもうて」。

平成2年、5年の満期にお礼奉公の1年を勤め上げ、家業へ戻った。

「ちょうど祖父が他界しましてな。そしたら親方がどこぞかで、黒のベンツのレンタカー借りて来ましてな。『これ乗って里へ帰って来い!死んだ爺さんに、ええとこと、男気見せたらんかい』って。今思うとええ親方でしたわ」。

祖父が遺した大入道せんべいを、来る日も来る日も父と共に焼き続けた。

平成11年知人の紹介で、鈴鹿市から悦子さんを妻に迎え、やがて一男二女が誕生。

 78年続く郷土の味、大入道せんべいは、今も祖父の代と変わらぬ配合と作り方が続く。

まず卵、砂糖、蜂蜜、バター、小麦粉、膨張剤を配合しミキサーで捏ねる。

次に生地を鉄板に敷き、その上から鉄板を被せて挟み、両面がこんがりするまで焼く。

焼き上がったところで、大入道の絵の焼き鏝で焼印を入れれば完成。

「簡単なようですが、季節によって寒暖も湿気もちごてきます。せやでその都度、配合も微妙に変えやんと」。 

盆暮れの無沙汰を侘びる手土産は、今も変わらぬ大入道。

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「天職一芸~あの日のPoem 427」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市江名子町の「江名子バンドリ職人」。(平成23年7月23日毎日新聞掲載)

野良で草引く爺ちゃんと 青き稲田に影が差す          大入道の稲光 バンドリ絡げそれ逃げろ             爺は夜鍋でニゴを編み 舟を漕ぎつつ手酌酒          「オリはバンドリ宵っ張り さあさ飲むぞ」と大鼾

(*バンドリは飛騨地方の方言/ムササビの意)

岐阜県高山市江名子町で江名子バンドリを作り続ける隆さんを訪ねた。

「『こらっ、デッチ(男子)にビンタ(女子)!いつまでも遊んどらんと、縄()いして材料やわっ(用意し)とけ』って、厳しい親父やったさ。適当に縄綯うなら『たまじゃかった(いいかげんな)仕事しとったら、承知せえへんぞ』って」。隆さんはは、昔を懐かしむよう窓に広がる山並みを眺めた。

江名子バンドリとは、300年以上前から伝わる、雨具、防寒、日除けに最適な、風通しの良い野良着の蓑。

バンドリを着けた後ろ姿が、まるで飛膜を広げるムササビに見えることから、この名がついた。

隆さんは昭和10(1935)年、7人兄弟の次男として誕生。

「とにかく勉強も家の仕事も嫌いやった」。

中学を出ると製材所に勤務し、やがて運転免許を取得。

トラックを転がし、材木運搬用に携わった。

昭和34年、23歳を迎えたある日。

「本家の叔母が、『こらっ、隆。ワレええかげんカカもらえ』って叱られて」。

近在から雪子さんを妻に迎え、一男二女を授かった。

「その年やったさ。高山にまだ6台しかない、タクシー会社へ移ったのは」。

そのままタクシーに乗務し、定年まで家族を支えた。

平成2年、町内会長に。

「ここらあでは、毎年農作業が終わると、どこもバンドリ作りに追われたもんやさ。町へ出てバンドリ売って、少しでも暮らしの足しにせんと。ところが昭和30年代も後半、高度成長が始まると、ゴムやビニール合羽が急速に普及してまって。気が付いたら、郷土民具のバンドリも、作れるもんらがおらんくなる一方や。こりゃあかんと思って」。

平成5年、隆さんが中心となり保存会を設立。

町のご隠居ら14名が、その伝承と保存に努める。

バンドリ作りの大半は、編み込むための材料作りと、その下準備である。

「そやな。今では編むゆうたら、年が明けた1月10日から、たったの2週間ほど。そりゃあ昔は、どこの家も夜鍋して、春先までやりよったけど」。

主な材料は、ニゴと呼ぶ稲藁の先端一節分と、シナの木の内皮に麻縄。

まずは、ニゴを取る稲作から始まる。

刈入れが終わると藁からニゴを抜き、ハカマを穂かきで取り除く。

そして水に2ヶ月間浸し灰汁抜き。

シナの木は、梅雨時に伐採。

樹液が上がる6月下旬に樹皮を剥き、2ヶ月間水に浸す。

そして鬼皮から内皮を剥ぎ取って乾燥。

「昔はニゴや麻で、子どもが縄を綯ったもんやさ。今は市販の麻紐やけど」。

そして肩編み、首折り、上編み、腰編み、つなぎの工程を経て完成。

「肩編み3日。腰編み1日半。まあ昔と違うで、皆で昔話せながらのんびりとな」。

♪やれやれやれー やればんどりも 雨の降る時や ためになる♪

青い稲田に隆さんの「江名子の田植唄」が響く。

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「天職一芸~あの日のPoem 426」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市西羽田町の「帆前掛ほまえかけ型彫師」。(平成23年7月16日毎日新聞掲載)

母の手伝い酒屋まで 篭に空き瓶ぶら提げて           酔いもせぬのに千鳥足 陽炎揺れる炎天下           「暑かったろ」とオッチャンが 盥のラムネ取り上げて     「駄賃代わりや飲んでゆけ」 濡れた瓶拭く帆前掛け

愛知県豊橋市西羽田町で昭和8(1933)年創業の山佐染工所。58年(平成23年7月16日時点)勤務し勤務し、いまだ現役で帆前掛けの型彫りを続ける伊藤一士ひとしさんを訪ねた。

愛知県の東都、豊橋市。

昭和40年代まで、生糸に玉糸、がら紡と、糸の町として全国に知られた。

その名残の一つが帆前掛けである。

和船の帆にも用いられた、丈夫な帆布を藍染し、清酒名やその意匠を白く染め抜いたものだ。

写真は参考

「丈夫な前掛けだで、酒の入った木箱の角を、腿に宛がって積み下ろししたって、ズボンを傷めたりせんだあ」。一士さんである。

「わしの座右の銘は、『生涯修業』に『臨終定年』だで」。

一士さんは昭和4(1929)年、3人兄弟の長男として誕生。

尋常高等小学校を出ると豊川の海軍工廠へ。

「ちょうど豊川空襲のあった8月7日は、10日続きの夜勤明けじゃって、外出許可をもらって出かけとっただ。そしたら空襲警報が鳴り出すもんで、慌てて牛久保駅の防空壕へ駆け込んだだて」。

終戦後、製綿所へ6年勤務。

その後昭和28年に、山佐染工所へ入社した。

「元々手仕事が好きで、子どもの頃から切り絵とかもやっとっただ」。

同年、製綿所の綿工だった寛子さん(故人)と結ばれ、一男一女を授かった。

やがて時代は高度成長期へ。

大手酒造メーカーからの注文に追われる日々が続いた。

昭和39年、東京五輪が開幕。

その年一士さんは、35歳の若さで工場長に抜擢された。

「あの頃は、まだ先代の親方が型彫りしとっただ」。

昭和54年、50歳になってやっと型彫りを任された。

「染めの工程を全部知らな、型は彫れんらあ。50歳にしてやっと、子どもの頃の切り絵が役に立っただて」。

以来、一士さんは32年に渡り、(ほり)()(彫刻刀)を揮い続ける。

型彫りの準備作業は、まず施主の要望する意匠を、型紙に黒インクで描き起こす作業から。

「昔は伊勢型紙ばっかだったけど、もう今はどこでも近代的な型紙だらあ」。

そして切り絵の要領で彫刀を入れ、白く染め抜く図柄を彫り進める。

「型紙を彫り上げたら、網目の(しゃ)を漆で貼り付けるだ」。

織り屋から仕入れたばかりの白生地を煮て、表裏に型を当て糊引き。

その上から川砂を被せ、硫化釜へ5分ほどドブ浸け。

藍に染まると布地を広げ、空気に触れさせ藍の発色を促す。

そして水洗いで砂と糊を洗い落とし、天日で丸1日乾燥。

写真は参考

「後は、帆前掛け専門の紐屋で織った紐を縫い付ければ出来上がるだ」。

果てしなく深い藍色に、純白に浮かび上がる意匠。

手染めの癖を知り抜いた彫師だからこそ、染め際の彫刀捌きが際立つ。

写真は参考

一士さんの顔の色艶は、御歳82にはとうてい見えぬ。

秘訣を問うて見た。

「平成13年に女房に先立たれてまっただ。それで寂しさ紛らわそと、元々酒好きだで飲みに行っとったじゃん。そしたら店の板前と友達になって、気が付いたらその母親と恋仲になっとっただ」と。

八十路の万年青年の頬が、一際赤らんだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 425」

今日の「天職人」は、津市大門の「カステヒラ職人」。(平成23年7月9日毎日新聞掲載)

津の殿さんもお気に入り 南蛮渡来カステヒラ          ほんのりあもて柔らかと 城下じゃ噂もちっきり         欲に眩んだ餅菓子屋 南蛮辛子練り込んで            店に出したはいいけれど 客はたちまちヒーリヒリ

津市大門で大正12(1923)年創業の三華堂。二代目カステヒラ職人で、伊勢の国、藤堂藩家老中川蔵人くらんどの日記から嘉永時代のカステヒラを復元した阿部真三さんを訪ねた。

―天保九年九月十六日  夕刻(とう)太方(たかた)塩片口(しおかたくち)(つか)わし候処、カステイラ()養甘(ようかん)種々貰ふ 当地初めての精品也―

―嘉永六年十月二十六日 御上(おかみ)への御土産昨日来(さくじつらい)登手製のカステヒラ一重(いちじゅう)御熨斗(おのし)代り御肴(おさかな)相添(あいそ)え、その余種々持参―

伊勢の国、藤堂藩家老中川蔵人(くらんど)の日記である。

この表紙裏には、「カスデヒラ法」と題し、配合表が添えられ、息子の登が手製したカステヒラを、藩主に持参したと記録されている。

文中には「カステイラ」「カステヒラ」「カスデヒラ」と、その都度表記も異なり、いかに当時の珍品であったかが偲ばれる。

「平成15年のことですわ。商工会で地元の歴史について、三重大の大橋剛先生から、家老の日記にカステヒラ作りが書いてあるゆうて聞きましてな。それでいっぺんに虜になってもうて」。

真三さんは昭和24(1949)年、6人姉弟の長男として誕生。

「父が50歳の子でしたで、そりゃあもう跡取りがやっと出来たって、大変な喜びようやったとか」。

高校を出ると、岐阜市の洋菓子店に住み込み修業へ。

「創業当初は和菓子一本やったんが、戦後になって洋菓子も始めてましてな。昭和30年代に入ると、ロールケーキがえらい評判で、行列も出来るほどやった」。

昭和46年、喜寿を目前にした父に乞われ家業へ。

家伝の和菓子作りを、年老いた父から学び取った。

昭和60年、知人の紹介で裕子さんと結婚。

残念ながらもその前年、跡取り息子の婚儀を一番待ち侘びた父が、力尽き静かに息を引き取っていた。

やがて父と入れ替わるように、一男一女が誕生。

寿ぎがもたらされた。

「蔵人の配合表で、息子の登が作ったカステヒラは、今しとちゃいますで、そりゃあ大変でしたやろ。竃に薄い丸鍋を載せて、そこへ小麦粉に鶏卵と砂糖を加えて練った生地を入れ、上から鉄板を被せ、そのまた上に炭火を載せて焼いたとか。当時はオーブンもありませんし、砂糖かて白砂糖なんて手に入りませんやん。サトウキビ搾っただけの原糖ですわ。せやで黒砂糖の色が勝ってもうて卵の色が出やん。ましてや水飴も加えやんで、パサッパサでシットリしとらん。でも黒砂糖の風味があって、なとも言えやん素朴な味わいやさ」。

日記と出会い、わずか3ヶ月後には発売へと漕ぎ付けた。

「蔵人さんの末裔に許可をいただいて、日記の表紙の写真を包装に使わせてもうて」。

真三さんは出来たばかりの完成品を携え、四天王寺の蔵人の墓前へと真っ先に手向けた。

「今のしっとりしたカステラと比べたら話にもならん。せやけど嘉永の頃は、殿さんでも中々口に出来やん、そりゃあ高価な南蛮菓子やったんやろな」。

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「天職一芸~あの日のPoem 424」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の「飛騨染職人」。(平成23年7月2日毎日新聞掲載)

闘鶏(とうけい)(らく)の鉦の音で カンカコカンと春が来る           背にした鳳凰腰に竜 粋な飛騨染跳ね踊れ            社に神輿奉納し 宿で酒盛り夕間暮れ              神の迎えも千鳥足 他所の神輿を担ぎ出す

岐阜県高山市、慶応元(1865)年創業のゆはら染工。四代目飛騨染職人の柚原博明さんを訪ねた。

「へんぺやまむしゃ おーらんか へんぺやまむしゃ おーらんか」

獅子舞の掛け声を先頭に、闘鶏楽の「カンカコカン」が続く。

♪チャアコチャン チャアコチャン アーンチャーンチャ♪

♪ソリヤ デ オーイ デ ソイツ デコデコデ♪

白地に極彩色の鳳凰と竜が染め抜かれた、飛騨染の(とり)()衣装。

雪深い飛騨ならではの、待ち侘びる春への想いが現れているようだ。

「肩袖から上に鳳凰。脇から裾が竜の飛騨染に、一文字笠を被るのが闘鶏楽やさ。昔はそれを、鳥毛打ちって呼んどったんやて」。

博明さんは昭和13(1938)年に、3人兄弟の長男として誕生。

家業を手伝いながら夜学で高校を出ると、名古屋の染物屋へ弟子入り。

「伝統染工を勉強しようと。でも結局ぼくの方が、教えることばかりやった」。

昭和33年、住み込み修業を終え家業に就いた。

「もともと飛騨一円は、とんでもねぇ祭りの盛んな国やで。飛騨染の烏毛衣装でも、430社もある神社によって、それぞれ粋を競って柄の意匠もみな違うんやさ」。

雪解け水が春の訪れを告げると、何処からとも無く、闘鶏楽の鉦の音が鳴り響き、農作業も終え冬支度に追われる晩秋まで続く。

「鳴り物だけでも、小さい神社で20人、大きい神社やと100人以上になるで、そりゃあ賑やかなもんやさ」。

老いも若きも、極彩色のハレの日の衣装に身を包み、五穀豊穣を祈願する。

「飛騨染の元は、中国の呉の時代に生まれたとか、戦国時代に京都から伝わったとか諸説あるけど、そこから来た()(せん)(まめ)(じる)染めのことやさ」。

まず、大豆を水に1日浸し、擂り潰して豆汁を絞り、それに顔料を混ぜ合わせ、筒引き糊で縁取った中を染め上げる。

1色につき3回ほど上塗りし、3日ほど乾燥させ谷川の天然水に晒し2日ほど乾燥。

さらに雪深い12月~4月の寒晒しで、豆汁の光沢を出し染めの鮮明さを高める。

「染め上げてから2~3年は、洗濯したらいかん。やがて汁が枯れて行って固まると、色の止まり具合もようなって、もう洗っても色落ちせんのやさ」。

一度染めれば、50~60年は日焼けも色落ちもしない。

「ほうやて。きっちり染め上げとるもんで、1回買って貰ったら、次は半世紀も先のことやさ。だで昔は8軒あった染屋も、昭和33年頃からだんだんと減り始め、ハッと気が付いてみたら、もうぼくんとこ1軒やったわ」。

昭和40年、青年団のフォークダンスがきっかけで、よ志子さんと結ばれ、3男を授かった。

「飛騨のもんらは、男女共に10人寄れば10人ともが祭り好きやでな。雪が融けて春になると、鉦の音のカンカコカンが、そりゃあ待遠しいもんやさ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 423」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市駅前大通の「立呑み酒屋女将」。(平成23年6月25日毎日新聞掲載)

朝陽眩い夜勤開け せめて非番の(つき)(ずえ)は             ちょいと寄り道立呑み屋 人目忍んで縄暖簾           煮物摘んでコップ酒 赤ら顔した馴染み客            小皿叩いちゃ与太話 お国訛りの里自慢

愛知県豊橋市の駅前大通。昭和23(1948)年創業の「立呑みあさひ」。二代目女将の斉藤久代さんを訪ねた。

豊橋市駅前大通では、オフィス街からサラリーマンやOLが吐き出され、ランチへと足早に行き交う。

その一角、昭和の風情を遺す、旭屋(あさひや)酒店と隣り合わせる「立呑みあさひ」。

まだ昼前だと言うのに、馴染み客が一人二人と暖簾を潜る。

「私が嫁に来た昭和も半ばの頃は、朝7時になるとシャッター開けとったじゃんね。もう8時前には、夜勤明けのタクシーの運転手さんやら国鉄さん、それにお巡りさんらで、よう賑わっただ。まあ今は午前11時からだけど」。

「昭和2年に義父が酒屋を始めて。まだそんな頃は、どこの酒屋でも一杯売りの立呑みもしとったらあ。それこそ味噌舐めて摘みにして。それで戦争が終わってから、義母が酒屋の片隅を仕切って、ちょっとした手料理を肴にこの立呑みを始めただ」。

久代さんは昭和13年、田原市で5人兄妹の次女として誕生。

高校を出ると洋裁学校へ。

昭和35年、見合いで(かず)(なり)さんの元へと嫁入り。

馴れ初めはと問うと「どやったろう?主人に言わせりゃ『俺が貰ってやっただ』だし、こっちは『わしが来てやっただ』らあ」。

やがて一男二女を授かった。

明治気質の舅姑と子どもらの世話、そして夫の家業を手伝いながら、立呑み屋の切り盛りに明け暮れる毎日。

「元々人が好きだったもんで、全然苦にならんじゃった。話し上手の常連さんらに、ついつい乗せられちゃうだあ」。

天性の聞き上手に、更に磨きがかかった。

「おばちゃ~ん。白半に(ちち)一、それと天ぷらね」。

40代ほどだろうか?

二人連れの女性客が、慣れた調子で注文を通した。

「白半、乳一か?白はレモンサワーのこと。半は焼酎100mlで、一が200ml。乳は牛乳割りのことじゃんね」。

店内の造りは、昭和23年の開業当時そのまま。

「この辺りは空襲で丸焼けだったじゃん。だもんで義母の在所の鳳来町から、材木運んで建てただに」。

半世紀以上の人いきれと、紫煙が滲み込んだ、赤茶けたカウンターと、ボックスの止まり木。

もちろん椅子など一脚も見当たらぬ。

およそ20人ほどが屯ろう、大人の秘密基地さながらだ。

「昔からのお馴染みさんも、今は年金生活者。『夕方の忙しい時に来ると、年金払っとる人に悪いで』って、最近は昼間のうちに来てくれるじゃんね」。

昔は女性が尻込みした立呑み。

ところが今では逆に、20代の若い女性が、オヤジ文化を愉しむと言う。

下は20代から、85歳の隠居まで。

老若男女が愛し続ける立呑みあさひ。

立呑みには酒呑みの、哲学と矜持もある。

「縁あって止まり木に隣り合わせたら、愉しく酒酌み交わさんとかん。無粋な肩書きひけらかすなんて、以ての外だらあ。看板も肩書きも、重たい鎧なんか外して、さあ心を裸にして一杯やってきん」。

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