「天職一芸~あの日のPoem 441」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市石巻萩平町の「まむし備中びっちゅうくわ先掛さいかけ鍛冶」。(平成23年11月5日毎日新聞掲載)

刈り入れ終えた稲田にも 氏神様の笛太鼓            子らが獅子舞い追い駆けりゃ 老いも若きも赤ら顔        祭囃子に合の手か トンカントンカン鍛冶屋から         野良で傷んだ鋤鍬を 汗を垂らして(さい)()ける

愛知県豊橋市石巻萩平町で、昭和29(1954)年創業の松澤鉄工。農具の先掛さいかけ(鍛接)を得手とする、野鍛冶の松澤いちさんを訪ねた。

「こないだ安かったでって、ホームセンターで買った、(まむし)備中(びっちゅう)(鍬)を持ち込んで来たのがおっただ。そしたら直に、こんな風にひん曲がってまっただと」。

確かに蝮の頭を象った鍬の先が、グニャリと曲がり果てている。

「東三河から三ケ日にかけてこの辺りは、石畑が多いだ。蝮備中は、そんな石畑に最適だけんど、これは中国製の安物(やすもん)だらあ。だで一発でひん曲がてまうわあ」。老いた野鍛冶が、()()(ふいご)で風を送った。

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遠くで祭囃子が聞こえた。

猪市さんは、同県新城市の農家で、8人兄弟の3男として誕生。

国民学校高等科を出ると、静岡県の三ケ日で鍛冶屋の修業に入った。

「母の弟が鍛冶屋で、15歳の年から住み込みで修業したじゃんね。盆と暮れの休みで、半年間も働き詰め。でもって給金は、年季明けまで5年間たったの300円らあ。おまけに1年お礼奉公して、さらにもう一年勤め上げただぁ」。

昭和29年、猪市さんに転機が訪れた。

現在地の近くで、鍛冶屋を営んでいた別の叔父が、交通事故で亡くなり、その道具類を一式買い受けることに。

同年8月、猪市さんの火床に火が入った。

「農具は戦時中の供出で不足しとったらあ。だもんで、そりゃあ忙しかっただ。それに農地改革で、小作人も田畑を手に入れて、皆やるき満々だっただ。今の若いもんらの、農業離れと違ってな」。

3年後に現在地へと移転。

「自分でせっせと煉瓦積んで、炉も切っただ。狸の皮を弁にした、鞴をフコフコやりながら火入れしてな」。

蝮備中、平備中、カツラ備中、(しつ)備中(新城市で多く用いられる)、それに平鍬、金鍬、唐鍬と、農具の先掛けはお手の物。

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猪市さんの手に掛かれば、どんなに傷んだ刃先でも、たちまち見事なほどに甦る。

しかも丈夫だ。

「そりゃ家が農家だったで、どこに力が掛かって、どんな使い方するかも心得とるだぁ。やっぱり臍に柄の先が来んといかん。くすがれ過ぎ(地面に突き刺さり過ぎ)ると、土の表面が削れんらぁ」。

昭和35年、初子さん(故人)と結ばれ、3男一女を授かった。

野鍛冶の先掛け仕事は、火床の火入れから。

何十回と先達の野鍛冶たちが先掛けた、鋤の刃に鉄を継ぎ足し、鋼を湧かし付け(鍛接)~薬湧かし~本湧かしの順に打ち出す。

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「火床の火色を見ながら、後は勘頼り。焼き過ぎると鋼がスッ飛ぶし、焼きが甘過ぎてもいかんだ。でも慣れりゃあ百発百中らぁ」。

猪市さんの元には、100年前の鍬も持ち込まれる。

「3~40回も先掛けたるのもあるだ。でもちゃんと鍛えてやりゃあ、まだまだ使えるだで」。

郷土の農を支え抜く、野鍛冶が赤ら顔で笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 440」

今日の「天職人」は、三重県松阪市船江町の「えきれい職人」。(平成23年10月29日毎日新聞掲載)

学校からの帰り道 いつも道草遠回り            鋳物師(いもじ)の家に上がり込み 駅鈴鳴らしゃカランコロン       なというかいなこの響き 丸うて深い鋳物の音          数ある鈴にどれ一つ 同じ色した音は無し

三重県松阪市船江町で、昭和元(1926)年創業の駅鈴堂。二代目駅鈴職人の久留美梅男さんを訪ねた。

江戸期の国学()大人(だいじん)にその名を連ねる、伊勢松阪生まれの本居宣(もとおりのり)(なが)(1730-1801)。

古事記を読み解き、古事記伝を著した人物だ。

一方、小児科医でもあり、松阪で40年以上も治療を施し、人々からは「本居さん」と親しまれている。

また鈴の音を生涯愛した人物でもあった。

特に、参勤交代の途上、宣長を訪ねた石見浜田藩の第二代藩主、松平周防守康定公より、賜ったとされる隠岐(おき)国駅鈴の模造品は有名だ。

()()家」に伝わる駅鈴を模し、周防守が特別に鋳させたものである。

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駅鈴とは、律令制の時代、駅使や使者に下付された鈴。

駅馬使用の許可証で、使者の位により駅鈴の刻み目の数が異なり、待遇までも違ったという。

「あれなんか、本居さんが自ら考案された、36個も鈴の付いた柱掛鈴やさ。小さな鈴が6個ずつ、6ヶ所に結わえたるやろ。これを鈴屋(すずのや)と呼んでおられた、書斎の床柱に吊るし、思索に耽りながら紐の緒を振っては、鈴の音を聞いておられたそうや」。

梅男さんが、()()の火を掻きながら壁を指差した。

梅男さんは昭和16(1941)年、4人兄弟の長男として誕生。

「父は金銀を扱う飾り職人やったんさ。ところが鈴屋保存会(現、本居宣長記念館)で駅鈴を目にして、それを見よう見真似して作り出したんが始まり。戦後になって、細工物の鉄工仕事も始めてな」。

昭和31年、中学を出ると父と共に家業に従事。

「昭和35年頃からやったろか。鈴屋保存会の売店で、土産物として販売が始まったんわ」。

昭和39年、日本国中が東京五輪に沸き返った。

「全国各地や世界中の人らが集まる東京五輪に、松阪からも何ぞ土産物を出さなあかんゆうて、家とこの駅鈴を出したんさ」。

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それを境に昭和40年代後半まで、駅鈴作りも絶頂期を迎えた。

「せやけど、みな一つ一つ手作りやで、所詮数なんか知れとる」。

昭和43年、妹の勤める衣料品店の同僚だった、静子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「一番大忙しの頃やったけど、その分張り合いもあったさな」。

駅鈴作りは、まず木型の上下に砂を入れ、鈴の原型を押し入れて型を付ける作業から。

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次に鈴の空洞部分に当る、中子(なかご)の真鍮型に砂と鉄球を入れ布糊で固め、型を外し鋳型の内部に設置。

鋳型を立て、熱した地金を湯口から鋳込む。

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「この1000度程の湯加減が肝心なんやさ」。

5分ほどで木型を外し、砂を掻き出しバリを取り除く。

「バリかて捨てやんと、また溶かしたりゃええ。ほったるとこは、どこにもないで」。

後は化学薬品で表面の古びた色合いを出し、組紐を取り付ければ完成。

「まあいつまで続けられるかわからんが、夫婦でのんびりと二人三脚やさ」。

夫婦が笑った。

鋳物の鈴音のように、カランコロンと。

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「天職一芸~あの日のPoem 439」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨市古川町の「榑葺くれぶき職人」。(平成23年10月22日毎日新聞掲載)

飛騨の山々色付けば どこもかしこも冬支度           雪の便りが来ぬうちに 小屋に榑葺(くれふ)く男衆            爺が起用に榑をへぎゃ 子らが我先奪い合う           屋根の父へと手渡せば 小屋の中から牛の声

岐阜県飛騨市古川町の榑葺くれぶき職人、山口末蔵さんを訪ねた。

ミシッ ミシミシ ミシッ―

土の香りが漂う、古民家の土間。

老職人は、二尺四寸に落とした栗材を、おもむろに火で炙り、柄から直角に刃が延びる万力と呼ぶ鉈で、榑へぎ(屋根葺き用に材木を薄く剥ぐ)を続ける。

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「火で炙って粘りを出したると、へぎ易いんやさ。冬は材が凍みた方がよお割れるし」。

末蔵さんは昭和2(1927)年、6人兄弟の末子として誕生。

尋常小学校が国民学校へと改称された年に高等科を卒業。

しかし右目に角膜炎を患い、3年も医者通いの日々。

その甲斐があり、失明は免れた。

昭和22年、榑葺き職人の親方に弟子入りし、3年間の奉公へ。

だがやっと修業を終えた頃には、トタン屋根や瓦屋根が急速に普及。

火災に弱い榑葺き屋根は減少の憂き目に。

「何しろ喰うてかなかんで、百姓しながら土木工事や鉄工所に石垣作り、それに乳製品の運搬やら、何でもせよった」。

昭和30年、しげさんを妻に迎え、やがて一男二女が誕生。

末蔵さんの一家に、元気な子どもたちの笑い声が響いた。

しかしそんな小さな幸せに、水を指すような出来事が襲いかかる。

「乳製品の配達途中、車で事故を起こし、障害を抱えてまったんやさ」。

重労働の出来なくなった末蔵さんに、知人が手を差し伸べた。

「遊技場の景品交換の仕事やさ。今も続けさせてまっとるんやて」。

すると今度は、同県高山市の観光施設「飛騨の里」から声が掛かった。

「56歳の時やった。榑へぎの実演してくれと」。

昭和58年から、旧中藪家の古民家を舞台に、末蔵さんの実演が今も続く。(4~10月)

榑へぎ作業は、なにはともあれ木材の確保から。

「榑葺きには、自生しとる栗の木が一番ええ。水に強いし腐らん。特に平らなところでしとなった(成長した)木は、芯が真ん中や。素性のいい木は、ひびれもええ(割れが入り易い)。だいたい100~150年の樹齢、直径20~30センチで、節も無く、すべらかい(美しい)のがええ」。

まず丸太をがんど(のこ)で二尺五寸に落とす。

「仕上げが二尺四寸やで。唾けの代わりに盥水しぶいて」。

次に丸太に楔を打ち入れ、両刃の大鉈で4分割へ。

さらに細かく割り、火で炙る。

そして立てた材に万力の刃を入れ、半分くらいまで両手両足を使い、柄と刃を梃子にして、そのままへぎながら万力で舵を取り割り進む。

「厚さ約2.5センチの材を、3枚の奇数で割れるようになりゃあ、やっと一人前やさ」。

後は小さな鎌で曲がりを調整し、ソバ鉈で仕上げる。

「だいたい巾が8寸になるように組み合わせ、榑葺き用に束ねとくんやさ」。

飛騨の山間に、もうすぐ冬がやって来る。

一昔も前のことなら、屋根に上った榑葺き職人を見かけただろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 438」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「帆前掛け機屋」。(平成23年10月15日毎日新聞掲載)

東海道の吉田宿 宿場外れの機屋(はたや)では              シャカシャカ音を立てながら 今も働く(りき)織機(しょっき)          爺が生まれたその頃にゃ 織屋で一の働き手           爺は今でも始業前 「頼みますよ」と声かける

愛知県豊橋市で戦後創業の、帆前掛けの生地と紐を専門とする、榊原細巾織物。二代目主の榊原弘志さんを訪ねた。

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機屋(はたや)の中は、薄っすら初雪でも降り積もったかのようだ。

既に齢80を越す老(りき)織機(しょっき)が、平成の今も正確な機械音を刻み続ける。

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「私なんかより、どんだけ働きもんか。でも昭和5(1930)年~9年に製造されたこの力織機が、帆前掛けの生地や紐を一番織り易いだ」。

弘志さんは昭和15(1940)年、一人っ子として誕生。

「戦後は、帆前掛けの紐織り専門だったじゃんね。それから10年ほどして、生地を織り出しただ」。

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昭和33年、高校を出ると大阪の繊維会社へ、住み込み修業に。

「そんなもん丁稚奉公だん」。

昭和36年、3年の年季を終え家業に就いた。

「帆前掛けの絶頂期。染屋なんか1枚染めりゃ、女工の日当250円が出るだで、笑いが止まらんかったらあ」。

昭和40年、節子さんを妻に迎え、やがて二男に恵まれた。

帆前掛けの機織りは、縦糸を(おさ)に通し、横糸を()に仕込むことから始まる。

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「縦は十番(とうばん)()の2本縒り。横は十番糸3本縒りの強力撚糸。今の主流は、1インチに縦糸何本と数えるだ。だけど私んとこは、昔のまんまの筬と、シャトルの代わりが杼だわ。縦糸が少ないと、目が粗いし、細糸で織れば密度が濃くなるだ」。

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縦横に糸を仕込めば、後は勤続80年の力織機の出番だ。

動力が入れば、激動の昭和を駆け抜けたままの、力強い機械音を発しながら機を織り始める。

「途中で織機を止めては房を作り、そしたらまた織っての繰り返しじゃんね。この織りながら房を付けるのが、帆前掛け小幅織りの最大の特徴。でもその分、人一倍手間がかかるだ。普通の晒し木綿なんかなら、一人で織機20台も操れるけど、帆前掛けは1枚分ずつ、房をつけなかんだで、1人4台が一杯だらあ」。

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一反で40枚分の帆前掛けとなるが、一枚の生地の天地に6センチの房を拵えねばならない。

「この手間を惜しんだらかん。だもんで帆前掛け専門の機屋は、もう日本でたったの3軒だけじゃんね」。

織りも手間なら、年老いた力織機のお守もこれまた一入。

「昭和初めの織機だで、製造メーカーも部品メーカーももうない。でもこの織機でないと織れんだで、廃業した織屋の織機を引き取り、部品交換用に置いとくかせんとかんらあ」。

昭和も40年代後半になると、帆前掛け需要が激減。

「昔は織子もよおけおったに、今は夫婦二人じゃん。機屋で食べるには、年金生活者か他に仕事でも持っとらなかん」。

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流行り廃りは、まるで潮の満ち干き。

平成に入ると酒蔵銘の入った、昔ながらの豊橋産帆前掛けを、懐かしげに手にする人が増え始めた。

「でも織機が壊れてまったら、もう生地も織れんらあ」。

老職人は、大先輩の力織機に、こっそりつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 437」

今日の「天職人」は、三重県名張市かみ小波田おばたの「火縄職人」。(平成23年10月8日毎日新聞掲載)

八坂神社の賑わいは をけら詣りと除夜の鐘           揺れる灯篭御神(ごしん)()を 火縄に燈し幸あれと            火縄回して家路ゆく ありがたき火を消さぬよに         (くど)白朮(おけら)()移し入れ 雑煮が煮えりゃ初日の出

三重県名張市かみ小波田おばたの火縄職人、岩崎けんいちさんを訪ねた。

平成の世に、今もひっそりと、青竹の火縄を作り続ける老人がいる。

戦国の天下取りは、火縄銃で乱世を平らげた。

江戸の太平には、芝居小屋で、煙草の火点けにも用いられたとか。

「明治になると、今度は海軍の水兵さんらが、弾除けやゆうて火縄で腹を巻いたんやと。昔はここの集落50軒の、半分の家が火縄を作りよった。ところうが作る端から『まっとないか』ちゅうてな。そりゃもう忙してかなんだそや」。筧一さんが、薄く削いだ竹を()いながら笑った。

筧一さんは昭和3(1928)年、6人兄弟の長男として誕生。

「江戸時代の初め、大池が決壊してもうて、田んぼはみな壊滅やさ。それを見かねた藤堂藩が、川沿いに竹を植えよゆうたんが、火縄作りの始まりや」。

今でも上小波田の火縄は、水をかけねば強風にも消えぬ火縄として重宝される。

各地の祭りで披露される、火縄銃の実演用として。

また、京都八坂神社大晦日の風物詩「をけら詣り」。

灯篭から火縄に移した「白朮(おけら)()」を、ぐるぐる回しながら家へと持ち帰り、元日の雑煮を炊く種火として使われている。

昭和17年、尋常高等小学校を出ると、わずか14歳にして横浜の魚雷製作所で、時限発火装置作りに明け暮れた。

「ところが翌年の空襲で、工場が丸焼けにされてもうてな。しょうないで防衛隊に入ったんさ。えっ?防衛隊ゆうたら、兵隊の卵やがな」。

昭和20年の春には帰省し、農作業に従事。

昭和28年、近在から恵美子さんを妻に迎え、一男一女を授かった。

「火縄をなろたんは、27歳ころやったろか。ある程度は、爺さんや親父から、子どもの頃に手伝いさせられ知っとったし。でも後の難しいとこは、見て覚えやんとできやん」。

一端の火縄職人までに10年を要した。

火縄作りは、12月から春の彼岸まで。

「ぬくなると竹に水が回って、縄にならんし黒うなる」。

まず真竹の切り出し。

「竹は陰へと入れとくんやさ。陽に当てると、かと(硬く)なるで」。

それを節から節で切り落とし、専用の鉈で縦に幅2センチほどに削ぎ落とす。

「それをのう(綯う)たら縒り掛けやさ」。

竹筒の片側から火縄を通し、先端を竹の棒に突き刺し、直径1センチほどに縒る。

「それをメンザメ(雌サメ)の皮で、縄の表面を磨いて髭をとったるんや。でもオン(雄)はあかん。肌があろてかなん(荒く適わん)で」。

すると長さ約3・3メートルの真っ白な火縄が誕生する。

「雨に当らん限り、火がついたら消えやん。せやで戦国の鉄砲隊は、雨降ると弾撃てやんで休戦やったそうや」。

上小波田の火縄作りも、今やたったの2軒だけだ。

「もう日本でここだけ。でも2軒とも跡取りがおらんで、直に火縄の火も消えてのうなってくわ」。

筧一さんは寂しげに作業場を見渡した。

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「天職一芸~あの日のPoem 436」

今日の「天職人」は、岐阜県土岐市鶴里町の「自然薯料理屋」。(平成23年10月1日毎日新聞掲載)

釣瓶落としの秋の夜も 日毎早まり冬支度            一霜降りる頃合で 爺に引かれて沢へ入る            蔓と葉の色見定めて 爺が(とう)(ぐわ)土をかきゃ            やがて顔出す髭面の 大地の珍味自然薯が

岐阜県土岐市鶴里町の自然薯料理みくに茶屋、女将の河合昌子さんを訪ねた。

山間の茶屋。

品書きに「自然薯刺身」とある。

あれこれと想像力を巡らせては見るものの、さっぱり見当が付かぬ。

ならばいっそと所望した。

すると刺身皿に磯辺巻きのような代物が、香の物と共に盛り付けられて登場。

「海苔で巻いてあるのが自然薯。作り方は、綺麗に洗って細かな根を焼き落とす。そして卸してから当り鉢に入れ、山椒の擂粉木で同じ方向に1時間擂る。すると空気を取り込んで、旨味が引き出される。機械で擂ると、薯の繊維がブツブツに切れてしまうでね」。

ワサビ醤油にちょっと浸していただいた。

餅の様な弾力と、ほのかな土の香りに包まれる。

「どうやね?長芋と違い真っ白じゃないやろ。ここらの自然薯は、鉄分豊富な赤土で育っとるで、卸したはなから土色なんやて」。主の辰巳さんが、自慢げに一くさり。

辰巳さんは昭和18(1943)年、陶土採掘を営む家の長男として誕生。

「父も自然薯掘りが好きやった。秋になって薯の蔓が上り、葉が黄色く色付くと、そろそろやってなもんでな。子ども用の唐鍬作ってもらい、一緒に沢を下りながら薯掘ったもんや。そこらの芒や萱に包んで、蔓で束ねて持ち帰るんやて。ちょうど10月末から11月の初め頃、一霜下りる頃が一番の旬やでな」。

高校を出ると、建設会社に就職。

「土木が専門やったで、全国各地でトンネル掘りやわ」。

昭和41年、名古屋出身の昌子さんと結ばれ、3男1女を授かった。

「結婚した頃、新潟におりまして。頸城(くびき)トンネルの工事を担当しとったんやて。でもあっちの人らは、薯掘る習慣が無いようでな。私が鎌一丁でよおけ掘って持ち帰ったら、家内が薯の皮を皆剥いてしまって」。

辰巳さんが笑い飛ばすと、「あんたと違って、都会育ちやで」と、妻がすかさず切り返した。

昭和49年、体調を崩し、それを機に転職。

家族と共に実家へ引き揚げ、陶器販売の会社へ勤務した。

昭和56年、街道沿いの実家の庭先に、仲間と掘ったばかりの自然薯を並べた。

「ゴルフ帰りの客が、土産にちょうどええって」。

毎年秋に自然薯が並ぶのを、心待ちにする遠来の客も増えた。

平成3年、昌子さんがみくに茶屋を開業。

「私はその3年後に、家内からスカウトされたんやて」。

夫婦の第二の人生が始まった。

「ここらじゃ自然薯を、正月の2日に食べる風習があったんやて。出世薯だってゆうてな」。

秋に蔓から種のムカゴが落ち、春に芽を吹き秋から冬は土篭もり。

次の春、子は親薯の養分を肥やしに、倍の大きさへと成長する。

「薯を掘るとわかるわ。皮だけになった親薯が、まるでわが子の成長を見守るかのように、ひっそり寄り添って、そっと務めを終えとるんやで。いじらしいもんや」。

薯を片手の昌子さんが、愛おし気につぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 435」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市呉服町の「打ち物師」。(平成23年9月24日毎日新聞掲載)

稲荷詣でのお供物(くもつ)は 打ち物干菓子和三盆            茶請けの下がり何やろか キツネの干菓子当るかな        (ひん)が良過ぎて一口に 放り込むのも無作法と           耳から齧りゃ砕け散り 晴れ着も帯びも粉塗れ

愛知県豊橋市呉服町で、享保年間創業の和菓子所「きぬ」。9代目打ち物師の杉浦敏二さんを訪ねた。

今は幻の三河名産「玉あ()()」。

とは言え、塩気のきいた餅のあられとは違う。

八代将軍吉宗の時代に生まれた、和三盆を固めた1センチ角、紅白二種の砂糖菓子である。

本紅使用の真っ赤な玉あ羅礼は、歌舞伎で血糊に用いられたとも。

「まあ、奢汰品(しゃたひん)の一つでしたでしょうな」。敏二さんが、白衣姿で迎えた。

「でも明治になって洋糖が出回ると、玉あ羅礼もいつしかそのお役目を終えました。今はもっぱら、代々続く豊川稲荷さんの、オキツネ様を象った和三盆の打ち物などや、羊羹が専門です」。

敏二さんは、昭和23(1948)年、3人兄妹の2男として誕生。

「元々が呉服屋でして。後に両替商も兼ね、吉田藩から御菓子箪笥の御用を賜り、砂糖黍からの製糖を命ぜられたとか。その瓶の上澄みを固めた打ち物が、玉あ羅礼で、藩にお納めしとったそうです。瓶の下層に溜まった糖蜜は下げ渡され、それで羊羹にしたとか。玉あ羅礼は、京の都のお公家さんにも献上され、鷹司家より御菓子司の允許(いんきょ)を賜ったそうです」。

敏二さんの誕生後、東京四ッ谷に叔母夫婦が出店(でみせ)を持った。

「叔母夫婦に東京へ連れて行かれ『ここがお前の家やぞ』と、私に継がそうと」。

しかし大学を出ると、本家の跡取りである兄が別の道へ。

そのため已む無く本家入り。

跡継ぎの目鼻も立ち安堵したのか、翌年父が急逝。

「父が他界してから5~6年は、とにかく無我夢中でした」。

昭和53年、東京のスポーツ用品メーカーで営業職に就いた。

「自分の営業力が欠けていたので、流通を学びたいと」。

ところが2年後には会社が倒産。

おまけに残務処理に当る破目に。

しかしそこには、新たな運命が待ち受けていた。

「手続きに出かけた公証人役場に、妻が勤めとって」。

昭和56年、実子(じつこ)さんと結ばれ、一男二女が誕生。

昭和58年、再び家業に舞い戻った。

絹与名代の羊羹は、小豆と白大福を炊き込む作業に始まる。

「親父の遺言は『餡を自分で作れんようになったら、暖簾を降ろせ』でしたで」。

4つの釜で一俵の豆を炊き、皮と実を解き水に晒し餡作り。

長野県茅野産の角寒天を煮て、砂糖を加えて漉す。

次に生餡を加え、仕上げに蜂蜜を落とし、舟に流して切り分ける。

「寒天の性質上、どうしても舟の上っ面と四隅に角が立つもんで、五辺の耳を約1センチほど、惜しげも無く切り落すだ」。

だからこそ、この上なく上品な舌触りが保たれるのだ。

「日によって、温度や湿気、それに湯気の立ち方一つにしても違ってくるだ。ましてや女房と喧嘩でもしようもんなら、てき面らあ」。

本物に、派手さや虚仮(こけ)(おど)しは通用しない。

伝統を守り抜く郷土が認めた銘菓には、土地の文化性までもが、しっとりと上品に練り込まれ、何とも味わい深いだ。

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「今年も発芽しましたぁ!あの天突き南蛮のお子たちがぁ」

去年は小さいながらも真っ赤な天突き南蛮の実が収穫でき、お正月の飾りにした後は、料理に華を添えてもらったものです。

こんなにも唐辛子って香りがよくって、辛さも一際際立って、実に手前味噌ながら美味しかったものです。

ちなみに去年は、流石に小さすぎるフラワーポットでは賄いきれず、株分けをして育てたものでした。

これが去年収穫できた、わが家の天突き南蛮です。

散々ッパら料理に使って、あと残りは枝の先端に残った小さな小さな赤い実が、ついに2個だけになった時、ハタと気が付いたのです。

しまったぁ!

今年また植えるために、種を取っておくべきだったと!

それで慌てて、小さな先端の実をほぐして、今年はもう無理かなと思いながら、ポットに種を蒔いてみたのです。

そうしたらご覧の通り、芽吹いてくれたのです。

何だか嬉しいものですねぇ。

今年は沢山収穫出来たら、早めに種を取り込んで、ご希望の皆様にお裾分けでもしますかぁ!

「頑張れ!わが家の天突き南蛮!」

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「天職一芸~あの日のPoem 434」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「鉱泉職人」。(平成23年9月17日毎日新聞掲載)

風呂屋通いの愉しみは 痺れるような電気風呂          父の真似して浪花節 唸り声まで震え出す            湯気の向うの女湯で 「もう出るよ」っと母の声         腰に手を当て一気飲み ちょいと値の張るスマックを

三重県桑名市で大正2(1913)年創業の鈴木鉱泉。三代目主の鈴木武さんを訪ねた。

昭和40年代のなかば。

銭湯の番台横には、前面ガラスの引き戸になった冷蔵庫が、デーンと居座っていた。

子どもたちは風呂を上ると真っ裸のまま駆け寄り、物欲しそうな顔で清涼飲料水の瓶を眺めたものだ。

中でもメロン色の瓶入りクリームソーダ、スマックが王様だった。

「そんなんゆうてもらうと、嬉しいな。まあ、一本どうぞ」。武さんが懐かしげに笑った。

武さんは同市の辻家で3男坊として昭和9(1934)年に誕生。

大学を出ると名古屋の会社に就職。

昭和36年、遠縁の紹介で鈴木家の一人娘、公子さんと結ばれ婿入り。

やがて二男一女を授かった。

「あの頃はここらにも、ラムネ屋が43軒もありましたんやに。木箱に籾殻敷いて、ラムネやジュースを詰め、三輪車で多度までジャリ道をゆくんやで。途中でポンポン割れてもうてな」。

翌年、アメリカから上陸したコカコーラのCMが、お茶の間を席捲。

「こっちはラムネにニッキ水やらミルクコーヒーの時代。相手はバンバン『スカッとさわやか』って宣伝して、イメージで売ってくんやで。ラムネ屋なんか竹槍持って、B-29に挑みかかるみたいなもんやさ」。

日に日に疲弊する一方の、中小零細の鉱泉メーカー。

それを見かねた名古屋の取引先である香料会社から、あるアイデアが持ち掛けられた。

「『喫茶店のメロン色したクリームソーダを、どこででも飲めるようにしたらどないやろ』と。それで名古屋の2社と、私とこの3社が寄り集まって共同戦線や。うちとこは製造技術を担当し、脱脂練乳が固まらんように酸とのバランスを工夫して」。

ついに昭和43年、スマックが発売された。

スマックは、硬度40以下の軟水に、脱脂練乳、上白糖、クエン酸、リンゴ果汁、生ぶどう酒(ノンアルコール)、蜂蜜を混ぜ合わせ、炭酸水を入れれば出来上がり。

「生ぶどう酒は、ミルクを丸く包んでくれるし、何よりコク付けのためやさ」。

「発売前は3人で、毎晩真夜中まで商品名を考えたもんや」。

SmackのSmはスキムミルクのSとm。

aはアシッド(酸)。

Cはカーボネート(炭酸塩)。

Kはキープ。

その頭文字を取り命名。

「ラムネ屋初の、セスナで空中飛行宣伝までして。配達するトラックは、コカコーラのお下がりをスマックと書き換えて」。

80年代後半のピーク時には、全国45府県で販売された。

「人と人の縁が紡いだ、3人の3本の矢は折れやん。でも東京はあかなんだ。名古屋生まれのスマックなんかと見下され」。

やがてスーパーの乱立や、自動販売機の普及に押され、店頭で冷やして売る一本売りは衰退。

「今作っとるのは、うちとことあと一軒だけや」。

武さんは空瓶を覗き込んだ。

溢れんばかりの思い出が、瓶の底に詰め込まれてでもいるかのように。

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「天職一芸~あの日のPoem 433」

今日の「天職人」は、岐阜県中津川市坂下の「薩摩琵琶職人」。(平成23年9月10日毎日新聞掲載)

庭の松虫チンチロリン 嗄れ声した琵琶法師           栄華盛衰平家節 ベベンと語りゃ月翳る             わが世の春と浮かれても やがて散り往く世の定め        池の畔の彼岸花 月に浮かんで雲隠れ

岐阜県中津川市坂下の工房森の子。薩摩琵琶職人の松井宏一さんを訪ねた。

ベベン ベベベーン

夏を惜しむ蝉の鳴き声に混じり、心を揺さぶる琵琶の音が低く鳴り響く。

「これが()(げん)四柱(しちゅう)の薩摩琵琶や。ベベ~ンと震える弦と()の触り具合で、琵琶の良し悪しが決まるだ」。

宏一さんは昭和19(1944)年、4人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると名古屋の自動車販売会社に就職。

昭和42年、同じ職場の事務員だった、芳恵さんと結ばれ3男が誕生。

昭和49年、車販売に見切りをつけ、生保の外交職へと転じた。

しかし3年後、一家で郷里へ引き上げ、叔父の営む木工場へ。

「子どもの頃から、手仕事が好きやったで」。

昭和58年ついに独立開業。

時計の木枠や、子供向けの木の玩具、注文家具などの木工品を手掛けた。

「知り合いの牧師さんに頼まれて、教会の祭壇作ったり。根がスケベだもんで、何でもやった」。

平成3年、新たな出逢いが訪れた。

「『新しい大正琴考えたで、胴体作ってくれ』と。そんなもん楽器屋に頼んだらどうやって言うと、『アイデアを楽器屋に取られたら困るで』だと」。

それから何度か試作を繰り返し、ついに平成6年商品化へ。

「桐材の大正琴を作りたかったで、大量の注文をあてにして、よおけ材料仕入れただ」。

ところがたったの20本ほどで注文は打ち切られた。

「材がようけ残ってまって。大正琴は単音しか出せんで、和音の出せる13弦のミニ琴作るかと」。

逆境を物ともせず、新製品の開発へと試作を続けた。平成12年、ついに長さ78センチ、和音を奏でるミニ琴「セミリオン」を完成。

「名付け親は、教会の祭壇を注文してくれた、牧師さんやわ」。

音の出る木製品の魅力に獲り憑かれていった。

平成18年、人を介して薩摩琵琶の先生から、低価格の練習用薩摩琵琶の依頼が舞い込んだ。

「先生が本物の薩摩琵琶を持って来て、ここで弾いただ。そしたら鳥肌が立って、魂が震えてまって」。

専門書と首っ丈で、半年後に2本の見本を仕上げた。

薩摩琵琶作りは、山桜で胴と腹板を木取ることに始まる。

胴を彫り曲面を削り、渡しと魂柱(こんちゅう)を嵌め込む。

次に腹板をストーブの上で煮立て、湾曲させたまま2ヶ月間乾燥。

続いて胴と貼り合せ、1週間乾燥させる。

そして糸巻きを取り付け、弦の付け根の覆手(ふくじゅ)に、サウンドホールに当る隠月を開け、半月の象嵌を施す。

最後に絹糸を張り、()を取り付ければ完成。

惜しげも無い時間が費やされる。

海老(えび)()に猪の目、(とり)(ぐち)、隠月、半月。琵琶の部位や飾りの名前やけど、どれも自然からお借りした、風情のあるええ名前やて」。

薩摩琵琶に調弦の標準音は無いのだとか。

「語る人の声の高さに合わせるんやで」。

ベベンと響く一撥の音。

耳を澄ませば、(がく)琵琶(びわ)が渡来した奈良の都に佇むようだ。

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