「天職一芸~あの日のPoem 451」

今日の「天職人」は、岐阜県中津川市の「蝿帳(はいちょう)職人」。(平成24年1月21日毎日新聞掲載)

我が物顔で飛び回る 銀蝿追って蝿叩き             蝿取り紙も何のその 卓袱台目掛け急降下            五月蝿いと言う字の如し 付かず離れず纏い付く         蝿帳の網翅休め 両手を擦り南無阿弥陀

岐阜県中津川市のワイルド・バード。蝿帳職人の林明さんを訪ねた。

昭和半ば。

「五月蝿い」の当て字が、物の見事に言い当てるほど、銀蝿が家中を我が物顔で飛び回っていた。

いつからだろう。

顔に纏わり着く奴らを、手で払うこともなくなったのは。

当時は厄介者と、あれほど毛嫌いされた銀蝿も、その姿を見かけなくなると、妙に寂しい気もする。

「昔と違って、蝿が涌くような不衛生なとこも、少なくなったでやろ」。明さんが、作業の手を止め振り向いた。

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明さんは昭和23(1948)年、瓦屋の次男として誕生。

高校を出ると、地元の銀行に入り、外交を担当した。

「元々木工仕事が好きやった。得意先の製材所へ通うのが何よりの楽しみで」。

昭和49年、ついに転職を決意し製材所へ。

「当時は材木も、まだ景気が良かってね」。

もっぱら木曽檜の仕入れと、営業販売を担当した。

翌年、銀行の同僚だった(あゆみ)さんと結ばれ、二男一女を授かった。

銀行から転職する際、やがて一緒になる妻は、反対しなかったかと問うた。

「逆に一杯飲んで、お祝いして貰ったくらいや」。

明さんは、思う存分好きな仕事に打ち込んだ。

「製材した後の端材を利用して、まな板や料亭用の鮨台とか、活け造り用の舟とかを作る、木工職人が何人もおって。木工の方が忙しい時は、『ちょっと手伝ってくれ』と」。

木工好きの明さんにとれば渡りに舟。

二足の草鞋も苦にならなかった。

平成11年、ついに51歳で独立開業。

「どうしても鳥籠を入れる、檜の()(おけ)が作りたくって。でも製材会社では、販売がままならない。ならば自分でやるかと」。

籠桶とは野鳥の鳥籠を入れる、一回り大きな籠。

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「鳥が夜脅えない様に目隠しして、モズや蛇にやられんようにするんや。鶯は籠桶に、和紙を貼ったらんと、蚊に弱いでな」。

全国の鳥屋の名簿を頼りに、さっそく販売を開始。

「今はもう野鳥は飼えんけど、最初の頃はよう出た。仙台から九州まで。特に関東が一番やったわ」。

平成14年、籠桶を目にした問屋から、蝿帳の依頼が舞い込んだ。

「昔は蝿帳も、そこら中に作るとこがあたんやて。でも木取りに手間がかかるって、みんな止めてしまった」。

大手百貨店で通信販売されると、たちまち評判となった。

蝿帳作りは、50に及ぶ部材の木取りから。

鉋掛けして臍を切り出し、臍穴を彫る。

そして底板、裏板、網を巻き込んだ側面部材の組み立て。

次に棚板の桟を打ち、天板を側面の臍に差し込む。

そして網を貼った引き戸と、底板に猫足の部材の取り付け。

最後に、木目の美しさが引き立つよう、木地仕上げを施せば完成。

1日掛かりで2本が仕上げられる。

「何より通気性が優れとる。常温の方が、味を損なわん食品の保存に最適やわ」。

五十の賀で得た天職。

木の香漂う東濃檜の蝿帳を、そっと掲げて見せた。

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「天職一芸~あの日のPoem 450」

今日の「天職人」は、愛知県安城市の「物差し職人」。(平成24年1月14日毎日新聞掲載)

母は古着を解きつつ 姉と私を並ばせて             丈と身頃に袖丈と 巻尺当てて思案顔             「大きなって」と苦笑い 竹の物差しチャコを引き        晴れ着二着を仕立て上げ 「揃いの柄も今年まで」

愛知県安城市のカミヤ定規、二代目物差し職人の神谷秀雄さんを訪ねた。

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子どもの頃。

授業で使う麻紐30センチを持参せよと。

母が内職で使う和裁の竹尺を、荷造り用の麻紐に宛がい、目盛に合せ30センチに。

だが教室で伸ばして見ると、ぼくだけ長いではないか。

母の和裁の竹尺には、片側にセンチの目盛、一方には鯨尺(1尺=37.88センチ)の目盛が刻まれていた。

ぼくはてっきり、鯨尺の目盛をセンチと勘違いをしていたのだ。

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尺貫法からメートル法への統一は、昭和34(1959)年のこと。

しかし昭和40年代半ばになっても、古来よりこの国に根付いた尺貫法が、まだまだ現役で巾を利かせていた。

「今は設計図すら、コンピューターの時代。手で1本1本線引く者なんて、減る一方ですわ」。

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秀雄さんは昭和28年、東京都台東区で誕生。

「安城出身の父は、百姓の次男坊でして、東京の文具屋へ修業に入ったんです。ところが兵隊に取られ、満州で厩番に。そのまま終戦を迎え、シベリアで4年の抑留ですわ。昭和25年に復員し、一旦文具屋に戻ったものの浦島太郎状態。そんな時、後に大手文具会社の社長となる人物と出会い、『何でも良いから定規を作れ。俺が売ったる』と。それが昭和26年の創業時のことです」。

昭和51年、大学を卒業すると、下請工場で修業を始めた。

「『跡を継ぐ気なら、作れなきゃだめだ』と、父に言われて」。

翌昭和52年1月には修業を切り上げ、単身父の故郷である現在地へと送り込まれ、工場を開設。

「『お前やれっ』の一言で」。秀雄さんが懐かしげに笑った。

「私が工場長。後は親戚頼りで集めた、おばさんパート5~6人。そっからのスタートでした」。

戦後の高度経済成長に歩調を合わせ、定規作りも変化を繰り返した。

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「昔の定規の素材は、セルロイド。やがて塩化ビニールから、現在のアクリルへ。昔は材料を裁断機で切って、手で削ってました。でも今は、それも機械化されましたが」。

昭和55年を目前に、父から難題が突き付けられた。

「『JISマークを取得せえ。品質管理を学べ』と。まだまだ粗悪品の時代でしたからね。でも大会社じゃありませんから、審査を通るのにも一苦労」。

しかしその難関を見事に乗り越え、昭和55年にJISマークを取得した。

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同じ年、名古屋出身の伸子さんと結ばれ、3男が誕生。

神谷家の寿ぎが続いた。

しかしその後も、父からの難題は続く。

その都度、激動する文具市場の荒波を、喘ぎながらも泳ぎ抜いた。

三角定規作りは、アクリル板の裁断から。

次に切断面を削り、正方形を斜めに切断。

熱転写で目盛を箔押しして仕上げる。

「周りの同業者は廃業続出。それなら私が、最後の定規屋になったろうって」。

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秀雄さんが照れ笑いを浮かべ、傍らの妻を見やった。

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「天職一芸~あの日のPoem 449」

今日の「天職人」は、三重県いなべ市阿下喜の「祝膳剥き物師」。(平成24年1月7日毎日新聞掲載)

花燭華やぐ祝膳 朱塗りの盆の剥き物は            千鶴(せんかく)(ばん)()(あい)()いに 睦み合えよと願い込め            花嫁御寮角隠し 三三九度のおちょぼ口             高砂朗ず翁人 祝う宴の夜も更ける

三重県いなべ市阿下喜の魚佐太。五代目、祝膳剥き物師の宮本隆義さんを訪ねた。

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「もう今しは、自宅で祝言挙げるもんがおらん。せやで注文が入ったら、煮物用に南瓜を葉にしたり、慈姑(クワイ)で松ぼっくりや鈴を彫ったりするくらいやさ。昔は結納やら、結納返しやら、身内の宴もありよったけど」。

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隆義さんは昭和8(1933)年に、8人兄弟の長男として誕生。

「元々桑名の赤須賀漁港で、魚屋しとりましたんさ。弘化3(1846)年生まれの、伊八っちゅうご先祖さんが始めたらしい。それで祖父や父の代になると、こんな阿下喜まで振り売りに、テクテクと歩んで来とったらしいわ。ここらのお大尽のお屋敷に納めさせてもうて、その晩この町で泊まり、明くる日いによおやっと、桑名へと帰り着くんやで。今とちごて、のんびりしたもんや。ところうが、わしが国民学校の2~3年の頃になると、だんだん空襲が酷なってな。それで土地勘があって、遠い親戚もおるでゆうてな。ここへ疎開して来て、魚屋始めましたんさ」。

新制中学を出ると、家業に就いた。

「そんな頃からやったろか。家が仕出し屋もやりかけて、わしも親父の真似しては剥き物するようになったんや」。

父の手付きを盗み見ながら、剥き物包丁を揮った。

「生の野菜を剥いたり彫ったり。でも野菜によっては硬さもまちまちやさ。ちょっと油断して力入れすぎると、長芋で鴛鴦彫っとったのが、いつの間にか首刎ねてまっとってな。せやでそんな日の晩は、いっつも首の無い鴛鴦がおかずやったわ」。

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隆義さんが懐かしげに笑った。

昭和も30年代に入り、高度経済成長が始まると、人々の暮らしにもゆとりが生まれた。

中でも結婚式は、晴れの日の目出度い宴として、盛大さを極め出す。

「この辺りでは、婿さんの家で台所と膳に食器まで借りて、家から自転車で食材運んでって、その場で料理を拵えて祝膳を整えるんやさ。花嫁さんからよお見える座敷の真ん中に、広盆へ剥き物の鶴亀やら鴛鴦飾ってな」。

長さ90センチ、巾60センチほどの盆の上に、大根で鶴の足場を作り、その上に大きく羽根を広げた鶴と、水辺に亀や鴛鴦を組み合わす。

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野菜だけで、吉祥の景色を立体的に描き出すのだ。

「大きい鶴やと、高さ30センチ、両の羽根を広げれば40センチ。大根を竹籤で繋いで、羽根を大きく広げて見せるんやさ。後は鳥の目に、山椒の実を入れたら仕上がりや」。

昭和38年、得意先の紹介で明美さんを妻に迎え、二男一女が誕生。

自転車を小型三輪のトラックに代え、荷台に食材を積み込み、村々を駆け巡り祝膳を整え続けた。

「集落によっては、2日続けて披露宴する家もあったし。でも結婚式場が出来てからはさっぱりや」。

幾千もの祝言を彩った、野菜の彫刻家が儚げにつぶやいた。

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「天職一芸~あの日のPoem 448」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市馬場町の「山の精進料理 料亭主」。(平成23年12月24日毎日新聞掲載)

酸いも辛いも甘い恋 苦く塩っぱい人の道            泣いて笑って浪花節 一皿盛りの五味精進            膳を彩る四季の華 ついつい見惚(みほ)れ迷い箸            五味の御菜(おさい)に舌を巻きゃ 我が浮沈さえ醍醐の味)

岐阜県高山市馬場町で、文久年間(1818-29)創業の、精進料理「かくしょう」。十一代目主の角竹邦雄さんを訪ねた。

観光客でごった返す雪の飛騨高山。

古い町並みを抜け、くねくねと海老坂を登る。

すると淡い灯りが燈る、(いにしえ)の武家屋敷が浮かび上がった。

飛び石に打ち水。

黒塀と石灯籠。

離れ座敷へと続く、苔生した内庭。

どれもが小気味よく、浮世の喧騒を隔つ。

「元は飛騨郡代の、お出入医のお屋敷でしたんやさ」。邦雄さんが、離れ座敷で迎えた。

邦雄さんは昭和22(1947)年、この家の長男として誕生。

大学の入学式を終えた後、広島県福山市でクラブの合宿一日目のことだ。

「父がクモ膜下出血で倒れたと連絡が入って。とにかく大慌てで、家に駆け戻りましたが…」。

享年42という若さで、先代が急逝。

昭和45年、大学を卒業し家業に就いた。

「それから6年、父に手取り足取り教えてもらうことも叶いませんから、祖父と板長の手付きを必死に盗み見る毎日でした」。

昭和47年、地元の三恵子さんと結ばれ、二男を授かった。

「後から知ったんですが。ここの曽祖父と、私の実家の祖母が、寺の幔幕を連名で寄贈してたようでして。同じ檀家やったんです。だからここへ嫁いだのも、宿命やったのかな」。

昭和51年、十一代目主の板長に。

「家は代々、主が包丁を必ず握ることになっとるんやさ」。

200年に及ぶ、角正精進料理の基本は、飛騨高山ならではの山の幸の吟味から。

そして代々受け継がれる、四季折々の調理法で手数を惜まず綾なす。

「素材そのものが持つ大自然の味を活かし、『甘い・辛い・酸っぱい・苦い・塩っぱい』といった五味を、味わっていただくよう調理法を工夫します。食材の色やバランスを考え、皿をキャンバスに見立てて、盛り付けるんです」。

奇を(てら)った演出や、華美な盛り付けなど端からご法度。

「生きとし生ける素材が持ち得る滋味。その機微を料理人が感じ取り、小さな世界の皿に盛り付け、新たな命を吹き込むんやさ」。

角正名代の逸品は、代々受け継がれる(いけ)(もり)(なます)

木綿豆腐の水気を飛ばし、1日かけ擂粉木で擂った、ヨーグルトのような白酢。

海から離れた高山ならではの黄身酢。

これは卵の黄身を裏漉しし、酢を加えた調味料。

「海が遠い分、鮮度も落ちますから、毒消しも兼ね。それと息子が作る、向う付の胡桃豆腐。胡桃を脂が出るまで擂り、葛粉を混ぜ加熱しながら練り上げたもんやさ。他では味わえませんやろ」と、邦雄さん。

「料理屋は、衣食住すべてに気を配らねばなりません」。

そう言えば、手洗いの履物も藁草履であった。

築200年の屋敷と庭、そして洗練された家伝の精進料理。

どれもが、実に控え目だ。

しかし、だからと言って、どれ一つ欠けてはならない。

心に染入る、雅楽の調べのように。

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「天職一芸~あの日のPoem 447」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市合歓木町の「軍手職人」。(平成23年12月17日毎日新聞掲載)

巨人大鵬卵焼き 野球小僧は日暮れまで             木枯らし吹けど駆け回る 膝っ小僧に粉噴かせ          太目の枝がバットなら 軍手を重ねグローブに          投げては打って滑り込む まだ見ぬ明日をただ信じ

愛知県岡崎市合歓木町で、昭和45(1970)年創業の蜂須賀手袋。蜂須賀栄子さんを訪ねた。

昭和半ばの母は、着膨れた重ね着に割烹着、それに絣のモンペ履き。

両手には、使い古しの軍手を幾重にもはめ。

段ボール箱を括りつけた自転車で、市場の特売を目指した。

「ほうだよう。どこの家でも、お母さんたらあはみんな、そうやってあんたら子どもを大きしたんだに」。栄子さんは、編み上がった軍手を取り上げながら笑った。

栄子さんは安城市の農家で、昭和22年に3女として誕生。

中学を出ると水産加工会社に勤務した。

「私ら金の卵やっただ」。

仕事帰りは、洋裁や編み物の花嫁修業。

昭和42年、繊維商社に勤める幸男さん(故人)と結ばれ、やがて一男一女が誕生。

「腹が大きくなった頃からだわ。父さんが糸を収めとる軍手屋で、内職の仕事を貰って来てくれて。最初は元手もないで、父さんも会社から帰って来ると、内職でミシン踏んどっただに。毎晩夜通し、夫婦で交代しながらミシン掛け。子どもも乳母車に入れたまんまで、それこそミシンの音が子守代わり。父さんなんか、会社の車で営業に回る時でも、得意先に赤ん坊連れて行っとっただ。哺乳瓶にカルピス入れて、オムツまで持って。そいでもって帰りがけには、『子どもさんに着せたって』ゆうて、着る物から米まで、貰って来ておくれただ」。

幸男さんは得意先の誰からも、蜂須賀の「ハッチャン」と呼ばれ親しまれた。

「そのうち私の内職の給料の方が、父さんの倍近く貰えるようになっただ。そしたら『脱サラして俺も本腰入れるわ』と」。

高度成長真っ只中の昭和45年、ついに夫婦二人の蜂須賀手袋が船出した。

当時1台33万円もした、高価な編み機2台からのスタート。

「元手が無いで、私の実家から貸してもらって。でも2年で返済して、その後は儲けが出るたび1台ずつ増やして、最盛期には27台もあっただ」。

ところが昭和48年、日本国中がオイルショックに震撼。

「軍手製造もあっと言う間に不景気に。でも父さんは、そんなことくらいじゃめげんかった。直ぐに弁当箱提げて『使ってくりょ』ってなもんで、建築会社へ勤めに出て、不景気を凌いだだで」。

通常の主糸2本を1本にし、残りを各織物会社から提供される残糸を使う、蜂須賀の軍手作りはいたって簡単。

まず残糸を選り分け分類し、それを編み機にセットしていきなり編み機に掛けるだけ。

後は内職の手仕事で、編み口の糸処理を施せば完成。

「残糸は、細い糸が縒り込んであるもんで、とにかく丈夫。その上残糸の寄せ集めで、彩りが異なり、2つと同じ物は出来んだで」と、二代目の隆之さん。

「屑にされる残糸でも、まあいっぺん軍手に生まれ変われるだで。そう父さんがよう言うとった。残り物には福があるだで」。

栄子さんが壁の夫の遺影を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 446」

今日の「天職人」は、三重県名張市鍛冶町の「佐伊助饅頭職人」。(平成23年12月10日毎日新聞掲載)

初瀬参宮名張宿 米水寒と三位(さんみ)良し               上野盆地に舞い降りた 天の杜氏の酒造り            佐伊助爺は菓子職人 部類なほどの酒好きで           それが高じて饅頭に 酒粕混ぜて摘み食い

三重県名張市鍛冶町で江戸末期創業の御菓子司「矢の伊」。八代目主の杉本誠一郎さんを訪ねた。

古い町並みを初瀬街道(奈良県桜井市―三重県松阪市)が横切る。

それにしても、小さな町とは言え、酒蔵の多さにまず驚く。

上野盆地に広がる肥沃な大地での米作りと、無くてはならぬ赤目四十八滝の清流。

そして大自然の杜氏とも言うべき、盆地特有の冬の砌が、酒の味を際立たせるのだ。

「この鍛冶町の先達、辻源兵衛さんというお方が、元和7(1621)年頃に酒造りを始めたと聞いてますで。この小さな町に、今でも5軒も造り酒屋がありますでな」。誠一郎さんが、旧街道の家並を見つめた。

誠一郎さんは昭和28(1953)年、3人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると、和菓子屋で2年の修業を終え、78年に家業に就いた。

「この佐伊助饅頭は、40年ほど前に、父が洒落っ気出して作ったもんですんさ。江戸の昔、先祖に佐伊助ってぇのがおりまして、街道を上り下る人らに、板粕(酒粕)に和三盆を挟んで振舞ったとか。そんな話しが、伝えられとりましてな。それを父が、新たに工夫して、佐伊助饅頭としたんです。ここらは酒造りが盛んですんで、地元の造り酒屋から、ドロッドロの絞り粕を分けてもうて、それを生地と一緒に練り込んだるんですわ」。

昭和57年、奈良県出身の茂見さんと結ばれ、一男二女を授かった。

先祖の来歴まで練り込んだ、佐伊助饅頭作りは、小豆の漉し餡と砂糖を合わせ、小1時間ほど炊き上げることに始まる。

次は皮作り。

小麦粉に砂糖と水、そして地酒のドロドロとした絞り粕を加え、練り上げて生地に。

「酒そのものよりも、酒粕の方がもっと香りが高いんさ」。

それを包餡して7分ほど蒸し上げ、饅頭の上下に鉄板で焼き目を入れれば出来上がり。

「焼き立てのまだ(ぬく)いうちは、お酒の香りも強くて、なとも言えやんええ香りが漂うんですわ」。

2~3日に一度の割で、400~500個が製造される。

初瀬街道の歴史は、神代に遡る。

(すい)(にん)天皇の皇女(やまと)(ひめの)(みこと)が、天照大御神鎮座の地を、探し歩いた旅に始まるとも(日本書紀垂仁天皇25年)。

いずれにせよ、大和の地と伊勢とを結んだ、神代(かみよ)の昔のロマンに満ちた、大いなる祈りの道であったのだ。

その街道の途中に広がる、四方を山に囲まれた上野盆地の(なば)りの里。

落人伝説や伊賀の忍びの者など、今で言う名張が「(なば)り」であったのかも知れない。

ふと四方の小高い山々を眺めながら、そんな感じを抱いた。

「さあどうぞ。せっかくですで、蒸し立ての佐伊助饅頭で、一服してってくださいな」。

奥方が、笑顔を添えて差し出した。

まだ(ぬく)いままの饅頭を手に取れば、うっとりする馨わしさ。

酒の芳醇な香りが纏わりつき、いつまでも離れようとはしない。

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「天職一芸~あの日のPoem 445」

今日の「天職人」は、岐阜県土岐市曽木町の「竹皮羊羹職人」。(平成23年12月3日毎日新聞掲載)

峠の茶屋に湯の煙 ちょいと一服草鞋解き            熱い茶啜る旅の空 郷土の菓子に舌鼓              餅に団子に練り羊羹 土地の風土と滋味深さ           茶屋の女将に絆されて 竹皮(たけがわ)羊羹(ようかん)もう一つ

岐阜県土岐市曽木町で、明治20(1887)創業の竹皮たけがわ羊羹ようかん本舗池田屋。五代目主の中島薫さんを訪ねた。

竹皮の細紐を解き、竹皮の両端を開く。

次に羊羹の両端ギリギリで、竹皮の耳を断つ。

後は羊羹の中心に包丁を入れ、真っ二つに。

さらに正方形を、斜めに切り落とす。

後は竹皮ごと掴み、皮を捲って口に放り込むだけ。

「竹皮のお陰で、指先もベトつきませんやろ」。薫さんは、首尾よく羊羹が切れたろうかと覗き込んだ。

「初代は多治見の池田町の出身で、屋号が池田屋なんです。昔は竹薮ばっかりで、包装資材も今のようにありません。だから殺菌効果の高い、竹皮が重宝したんでしょうな」。

薫さんは昭和28(1953)年、3人兄弟の次男として誕生。

高校を出ると家業に就いた。

「昭和45年頃は、祖母が始めた、萬屋も兼ねてましてね。食料品から日用雑貨まで何でも扱う、今で言うコンビニですわ。だから萬屋の方が主流で、羊羹は店の片隅に追いやられ、細々作り続けるような時代でした。だってその頃は、他に食料品店なんてありませんし」。

当時は無添加の羊羹を、ただ竹皮に包むだけの裸売り。

「ですから夏は1週間、冬で2~3週間の日持ちでした」。

その後先代は、真空のパック詰めを試みた。

「でもあかんのです。真空パックやと、糖が出て開封するとべた付いて」。

昭和56年、地元の真理子さんと結ばれ、二女を授かった。

平成元年、賞味期限問題に一条の光明が差しかけた。

「信州の生菓子業者が来ましてね。賞味期限見たら、1ヶ月もあるやないですか。『お宅は何でそんなに日持ちするの?』と、思わず尋ねてました」。

それから包装資材屋と掛け合い、竹皮羊羹に適した、脱酸素剤の量をつき止めた。

「羊羹の水分量で、脱酸素剤の量が異なったんです」。

平成7年、近郊のあちこちに、スーパーの出店が相次いだ。

「これを機に、店を建替えようと。それまでは、羊羹の製造場が小さかったんで、それを広げて本来の羊羹製造に力を入れようと。でも近所のお年寄りらが、当てにして食品やら細々したもんを、買いに来てくれますんで、食品や日用品の一部は残して」。

薪焚きの竃からガスバーナーへ。

餡も手練りから製餡機へと、一部に機械化を導入。

だが125年を迎える家伝の羊羹は、昔ながらの配合そのままだ。

竹皮羊羹作りは、十勝産小豆を煮ることに始まる。

それに水飴、中双糖(ザラメ)を加え練り上げ、一晩掛けて冷ます。

次に繋ぎとなる小麦粉を加えて練り、広げた竹皮に餡を盛り付け(巾8、長さ15、厚さ1センチ)、竹皮を割いた紐で結ぶ。

そして蒸し上げ、2晩冷まして包装すれば完成。

「家は繋ぎに寒天を使ってません。だから、もっちりシコシコした、独特の食感が味わえます」。

1世紀以上も里で愛され続ける竹皮羊羹。

素朴さゆえに味わい一入だ。

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「天職一芸~あの日のPoem 444」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市吹上町の「菊師」。(平成23年11月26日毎日新聞掲載)

秋の祭りも花盛り 子らが露天で立ち止まる           地団駄踏んでねだり声 親はそ知らぬ振りで行く         誰の目当ても菊人形 牛若丸に弁慶と              (しょう)馗髭(きひげ)した武者人形 子らはたちまち怯え顔

愛知県碧南市吹上町の菊師、鳥居慶昭さんを訪ねた。

「まあ碧南じゃあ、昔は4人おった菊師も、わし一人残っとるだけらあ」。菊人形の骨組みとなる、昔の巻き藁を手に、老人が笑った。

慶昭さんは昭和4(1929)年に、農家で4人兄弟の長男として誕生。

国民学校高等科を出ると、昭和19年に予科練を志願。

昭和20年1月15日、晴れて三重海軍航空隊に入隊し、奈良県天理市に配属された。

しかしその2日前には、三河地震(最大震度7、死者2306名)の巨大地震が発生。

混乱の最中での入隊となった。

「ほんでもあんたあ、航空隊に入隊したって、もう飛行機が練習用の赤とんぼ(九三式陸上中間練習機)しかあれせんだでかんわ。だもんでいつまでたったって、塹壕掘りばっからあ」。

各地の航空隊を転々とし、奈良県で終戦を迎え帰郷。

家業の農作業に従事した。

昭和27年、近所からきみゑさんを妻に迎え、一男を授かった。

「そしたら吉浜で菊師の親方をやってござった、女房方の叔父から、農閑期の間に菊師せえへんかって。年老いても仕事出来るでってなもんで」。

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昭和29年、10人の先輩に教えを受け、名古屋城の菊人形展へと通った。

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「まあ、今はそんなことせえへんけど。昔はガラ組(骨組み)に使う巻き藁も、細い竹を芯にして、藁を添えて糸で括っただ。菊は根付きのまんま、水蘚(みずごけ)を藁で括って、ガラ組した胴の中へ付けるだ。花持ちがええで。でも10月の20日よしか前に付けると、蕾がまだ固いであかん」。

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菊人形作りは、まず寸角を組むガラ組から。

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「昔はそれこそ、歌舞伎の名場面が多かっただ。ほんでもだんだん時代が下ってくると、歌舞伎自体を知らんもんが多なってまって。しゃあないで、NHKの大河ドラマでも、ぼってかんと」。

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次に寸角で組んだガラに、番線を加工して胴周りを形成。

「昔は番線代わりに、竹を篭状に編んどっただ」。

そして下準備が整えば、大分の人形師の手による、顔・手・足・襟・刀などの小道具を取り付け、菊師の腕の最大の見せ場となる菊付けへ。

写真は参考

根付きの菊を胴に付け、7分咲きの菊の花を衣装の形に合わせながら摘芯。

「菊が咲き切ってもあかんし、蕾ばっかじゃ、今度は客に叱られてまうだ。それに気温が上がれば、花が直ぐに開いてまうし、中々思うようにはならんもんらあ。菊だって生きとるだで。それと、衣装の色具合を出すのが大変。なにしろ菊の花には、黒色なんてあれへんだで」。

丸々1日を費やし、1本の菊人形が完成する。

「菊付けで一番難しいのは、袖や裾の(けつ)仕舞(じま)いだわ。これが根付きじゃないと、菊の茎を捻りもって、上手いこと付けれんらあ。だで洋服はスッポンポンで、やぬくいでかん」。

最盛期は1年で100本も製作したという。

この道57年の老菊師は、今も全国を飛び回る。

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「天職一芸~あの日のPoem 443」

今日の「天職人」は、三重県四日市市川原町の「嶋小の団子職人」。(平成23年11月19日毎日新聞掲載)

晴れ着姿にすまし顔 しゃなりと歩く娘子も           焦げた醤油の香に惹かれ 固唾呑み込む団子茶屋         人目を避けて軒口に ちょいと身を寄せ茶を啜り         嶋小の団子焼きたてを 串ごと咥え袖屏風

三重県四日市市川原町、文政年間(1818-29)創業の嶋小餅店。背を丸めせっせと団子を焼く、四代目女将の栗田富美子さんを訪ねた。

♪食わな旨もない 食うたら旨い 団子食べやんもんは 死んでまえ~っ♪

何と物騒でべらんめいな売り口上が、罷り通った時代。

それが大正から昭和初期。

口上の主は、巷で「団子(とよ)」と渾名された行商。

天秤棒を担ぎ、嶋子の団子をせっせと売り歩いた。

「豊さんのお陰やさ。家の団子、知らんもんがおらんほど、宣伝してもうたんやで」。富美子さんが、焼きたてを差し出した。

白肌の団子に、程よい焼き網の焦げ目。

そこに染み入る醤油の付けダレ。

醤油だけの潔い旨味と、もっちりした歯応え。

堪らず「姉さん熱燗!」と、つい口を付く。

富美子さんは昭和10(1935)年、近在の養鶏場を営む農家で、4人兄妹の長女として誕生。

中学を出ると、家業の傍ら花嫁修業に洋裁を学んだ。

「卵も配達せんなんでな」。

昭和29年、実さん(故人)の元へと嫁ぎ、一男二女を授かった。

「卵の配達ん時にな、どないしてもこの店の前を、通らんと行けやんのさ。それでいつの間にか、ここの姑と家の親が心安うなって、気い付いたら嫁入りしとったんやさ」。

先代夫婦に小姑と、7人の大家族での生活が始まった。

「隣りが魚屋やってな。『お前とこが買いに来てくれると、いっぺんに店仕舞いや』ゆうて、よう笑われよった。せやけど長男の嫁には、来るもんやないな。お金も体も、何一つままんならんで」。

日々、団子屋家業を手伝いながら、子育てに家事、舅姑と小姑の世話にと追われた。

昭和30年代の後半には、「嶋小の団子」を商標登録。

昭和40年代に入ると、ヘルスセンターから声が掛かり、売店で団子の販売が始まった。

「それまでお醤油味一本やったのに、先方に甘いのがええって言われ、甘ダレで収めましたんさ。それから店でも甘ダレ置いたら『わしゃあそんなもんいらん。嶋小の団子は、昔っから醤油味って決まっとる』って。えらい怒られて」。

ヘルスセンターブームが終焉を迎える昭和50年代前半まで、大忙しの日々が続いた。

「嶋小の団子は御手洗(みたらし)団子(だんご)にあらず」。

とは言うものの姿形は、そこらでも目にする何の変哲も無い、御手洗団子と瓜二つ。

「でも家のは他所とちごて、石臼引きの米粉も最高級やで。団子そのものの旨さも違う」。

団子作りは、石臼引きの米粉を湯で捏ねて、蒸し上げる作業から。

「それを昔は、一つずつ手で千切り取って、5ツボ(粒)ずつ竹串に挿したんさ」。

後は客の注文に応じ、焼き上げるだけ。

「団子は、まず白で焼いて、ほてから二度刺身溜りを付けて焼けば、それで仕舞いや」。

地元の溜りと、嶋小団子の相性は天下一品。

何より庶民が愛した、190年の歴史が、それを見事に裏付けている。

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「天職一芸~あの日のPoem 442」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市八軒町の「十二支人形師」。(平成23年11月12日毎日新聞掲載)

 ちゅういんぼうしん未  ) 申(しん)(ゆう)(じゅつ)(がい)」指を折り         神宮暦を繰りながら 母が賜る御神託              飛騨の十二支人形を 年が変われば取り替えて         「家族の皆が健やかで ありますよう」と母の声

岐阜県高山市八軒町で昭和47(1972)年創業の真工芸。二代目十二支人形師の田中秀人さんを訪ねた。

「お宅、辰年?わしゃ寅やて。ってことは、わしのが二つ上やなあ」などと、まだまだ十二支で生まれ年を呼ぶ場合も多い。

()牛虎()()馬羊猿鶏犬()と。

それらの大半は、家畜であったり、里山で共に暮らす動物たちだ。

古代中国の「()(ちゅう)(いん)(ぼう)(しん)()()()(しん)(ゆう)(じゅつ)(がい)」、十二進法である。 

今年の卯年もあと50日足らず。

来年は辰年を迎える。

すると玄関先や居間に、縁起物として飾られた兎も、来年からは辰の登場となる。

「家の辰は、高山祭りの屋台の、木彫りからヒントを得たものです」。秀人さんが、木版で手染めされた、小さな辰のぬいぐるみを差し出した。

「生木綿に木版で染め付け、高温で色止めし、中に籾殻を詰めて手縫いで仕上げたものです」。

素朴な風合いの色使いが、十二支の動物たちの表情をやさしく引き立てる。

秀人さんは昭和39(1964)年に、4人兄弟の長男として誕生。

大学を出ると映画の専門学校へ進んだ。

「映画作りに携わりたくって」。

しかし映画製作への道程は険しい。

平成元年、高校の同級生だった博子さんと結ばれ、やがて二男一女を授かった。

平成3年、一家で帰郷し家業に就いた。

「創業当時から、木版画皿と呼ぶ、小物入れがありましてね。まだ十二支人形が世に出る前のことです。その木版画皿の誕生のきっかけは、今も一緒に仕事をしてくれてる、姉の夏休みの宿題でした。野菜なんかを載せるトレーに、姉が絵を描いたんです。やがてそれが進化して、インド更紗と版画が融合。今では家の定番商品となった十二支人形が誕生したんです」。

十二支人形作りは、まず朴の木の版木の深彫りから。

「家は一版刷りですから、一枚の版木に全ての色の染料を載せ、一度に刷り上げます。だから染料が溜まる箇所とかには、傾斜をつけて工夫したり」。

次に染料を配合し、天竺生木綿を上から被せ、馬簾で一気に刷り上げる。

そして高温で蒸し、発色させて色止めへ。

次に生地を裏返しに縫い上げ、お手玉作りの要領で引っくり返して籾殻を入れ、手縫いで仕上げる。

最後に人畜無害の薬剤で防虫処理を行い、銘を入れれば完成。

それぞれの工程は分業制。

そのため一つの作品の完成までに、のべ8人の職人の16本の手を経なければならない。

「創業当初に作った馬の人形が、昭和53年の午年になると急に売れ出しまして、翌年から干支の人形作りを始めたんです。ですから、今は三周(みまわり)目の真っ最中。1年に1種類ずつ製造しては、次の二周り目で12年掛け、手直しの改良作業をしてきました。ですから今販売中の物は、二周りか三周り目の改良版です」。

十二支が一巡りする度改良を重ねた、人形師親子二代。

その姿勢には、飛騨人の素朴で真摯な生き様があった。

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