昭和がらくた文庫1話(2011.2.17新聞掲載)~「日本初、美濃電女性車掌」

♪汽笛一声新橋を♪

とは、のちの世で謳われた鉄道唱歌。

それも明治5(1872)年9月12日(グレゴレオ暦10月 14日)、新橋―横浜間の日本初の鉄道が開通したればこその賜物である。

参考

当時、新橋―横浜間の所要時間は、約1時間。

現在の2倍以上を要した勘定だったとか。

それから時代を下ること約半世紀。

大正7(1918)年4月18日。

岐阜県の美濃電気軌道(通称/美濃電)に、日本初の女性車掌が登場したというではないか!

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しかも元号が大正に改まったとは言え、まだまだ男尊女卑の風潮を色濃く残す時代に。

いやはや天晴れ!美濃電。

写真は参考

つまり昭和61(1986)年施行の男女雇用機会均等法より半世紀以上も前に、美濃電ではいち早く女性車掌の導入に踏み切り、全国の鉄道会社に先鞭をつけていたのだ。

♪私は東京のバスガール発車オーライ♪

コロムビア・ローズの歌でお馴染みの「東京のバスガール」は、はとバスのガイドさんがモデルとか。

その元祖の誕生は、東京青バスが全国初として、バスガール25名を採用した大正9年のこと。

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美濃電の女性車掌誕生より、遅れること2年。

しかしこうした女性登用の裏には、避けて通れぬ時代背景もあったそうだ。

美濃電の女性車掌誕生の年には、第一次世界大戦が終結。

国土が戦火に塗れなかった日本は、大戦景気に沸き、乗務員が不足。

その解消手段が、女性車掌の登用だったのだ。

しかし、とは言え日本初の女性車掌導入が、岐阜県の美濃電であった事と、それが女性の地位向上に一役買ったと言う史実も、岐阜県の誇りの一つとして、決して忘れてはならぬ。

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「天職一芸~あの日のPoem 461」

今日の「天職人」は、岐阜市今小町の「雪たる満職人」。(平成24年3月31日毎日新聞掲載)

枝垂れ桜も綻べば 伊奈波神社の参道も             紅簪に薄化粧 禿(かむろ)小路か泡沫の                 花見の宴春の宵 馳走と美酒にほろ酔えば            ちょいと頬張り口直し 真白き銘菓雪たる()

岐阜市今小町で天保元(1830)年創業の奈良屋本店。六代目主の青木利博さんを訪ねた。

切り溜めにずらりと並んだ真っ白な雪たる()

愛嬌溢れる真ん丸目玉が、柔らかな表情を作り出す。

「卵白と砂糖だけで作ったメレンゲ菓子です。どれも手作りやで、一つ一つ形も表情も違うやろ」。

「この雪たる満は、明治19(1886)年に、三代目の山田留次郎が考案したものです」。

ご維新以降、急速な西洋化が進んだとは言え、高価な卵白をふんだんに使ったメレンゲ菓子は、相応に高価な代物であったに違いない。

利博さんは昭和33(1958)年に、美濃市の和紙原料店の長男として誕生。

「絵が好きでした。それと手先が器用で、物作りが好きやった」。

大学を出ると、紳士服製造会社へ入社。

「当時は好景気で、Tシャツやトレーナーにジャンパーなどの、デザイン企画や営業を担当してました」。

そこで生涯連れ添う伴侶と出逢い、おまけに天職にまで巡り会うとは。

昭和61年、奈良屋直系の次女河合友子さんと、社内結婚で結ばれ、やがて3男に恵まれた。

平成元年、利博さんは会社を辞し、奈良屋の後継者として家業入り。

「そりゃあ大変やったです。だって古い職人は、匁と尺寸の世界で。最初は戸惑いだらけ。それに手取り足取りで、誰も教えてくれんし。全部何から何まで、見て盗めやで」。

周りから、一端の職人と認められるまでに10年を要した。

雪たる満作りは、新鮮な卵を割り、卵黄と卵白に分ける作業から。

まず卵白と白ザラメを専用ミキサーで数時間攪拌。

メレンゲ状になったら、絞り袋に移し入れ、鉄板の上に蝋引き紙を敷き、上から縦6個、横9個を2面、計108個を均等に絞り出す。

「一枚で108個って、何や除夜の鐘みたいでしょ。達磨は、ぼくのその日の気分で絞るから、どれ一つ同じ形はありません」。

そして絞り切ったメレンゲ上部の、尖った部分を水で濡らした親指の腹で押して達磨型に加工。

「1年で一番作業に適しているのは、2~3月の乾季です。夏場は鶏が水を飲むため、卵白がシャビシャビで、メレンゲ自体が光ってしまって」。

続いて乾燥機で48時間の乾燥。

その後、焼き入れした鉄棒の先で、達磨に目入れ。

一つ一つを丁寧に和紙に包んで完成となる。

絞り1日、乾燥2日。

目入れに1日。

職人が、手間ひま惜しまず手塩にかけ、4日目にしてやっと、明治大正昭和平成と4つの時代に愛され続けた、岐阜の誇る銘菓「雪たる満」が愛らしく店頭に並ぶ。

「メレンゲは、気泡との戦いや。中に空気が入って、うっかりすると破裂してまうし」。

日々異なる気象条件と、卵白に白ザラメだけの素材で織り成す、偶然が作り出した賜物。

職人は勘を頼りに、偶然を必然に代え逸品に仕立てる。

それが奈良屋の一子相伝の秘儀だ。

これまで461日に渡りご覧いただきました「天職一芸~あの日のPoem 」は、これにて終了となります。

明日からは、「昭和がらくた文庫」をご覧いただきます!

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「天職一芸~あの日のPoem 460」

今日の「天職人」は、岐阜市神田町の「鮎一夜干し職人」。(平成24年3月24日毎日新聞掲載)

金華の山に霞立ち 春日煌く長良川               若鮎恋し釣り人も 穂先が撓りゃ固唾飲む            塩焼き煮付け鮎雑炊 いずれ劣らぬ美濃の旬           天日を浴びた一夜干し 左党も唸り舌を巻く

岐阜市神田町で昭和23(1948)年創業の、鮮魚生鮎専門の大力おおりき。三代目主の土屋敏久さんを訪ねた。

杉の薄板に、屋号と住所氏名の名刺。

役職欄には「息子」の文字。

「個人商店やで、『肩書きは息子』。まあご愛嬌やね」。

敏久さんは昭和35年に長男として誕生。

高校を出ると父に言われた。

「父が進学に反対で、魚屋継げと。こっちゃあ魚屋になりたくないし。それでたった1つだけという条件で受験したんやて」。

東京の大学へと進学。

建築関係のアルバイト先から、卒業後の入社を誘われた。

「ところが祖母の容態が悪化したんやて」。

取るものも取らず帰省。

そのまま家業を継ぐことに。

「そしたらなんのこたぁない。祖母も元気になって、それから20年長生きしたんやで」。

時は昭和59年、バブル時代を目前に、店も大忙しだった。

昭和61年、秋田出身の千夏さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「大学の後輩なんやて。結婚前は、給料もらうと妻の住む東京へ出て、日曜最終の新幹線で戻ったもんや。まだシンデレラエクスプレスだとか、世間が騒ぎ出す前に」。

鮎の一夜干しは、先代の手により始まった。

「それこそ見よう見真似やったみたいで」。

やがて代替わりを果たすと、敏久さんは鮎の上がる川に着目。

「今は飛騨金山上流の、馬瀬川とか和良川やね」。

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鮎の一夜干しは、5月末頃から盆まで。

中でも取り分け、最高の出来栄えは6月末という。

「盆を過ぎると、産卵にかけ骨が硬化してまって、口当たりを損なうんやて」。

一夜干し作りは、まず目利きが物言う鮎の競りから。

「決め手は、大きさ、色艶、上がった川。何より釣り人が『いい鮎や』と釣り上げたのが一番」。

次に仕入れた鮎を背開きに。

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毛抜きで一匹一匹丹念に鰓を取り、毛抜きの裏側で血合いを取り除く。

そして歯ブラシで、腹の内側の黒い薄皮を取り、塩、酒で下味を付け一晩冷蔵。

翌朝、天候を見定め、梅雨の晴れ間に、屋上で天日干し。

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「まずは背に陽が当るように干し、午後から引っくり返して内側を干す」。

次に冷蔵庫で荒熱を取り除き、発送用に箱詰め作業。

「一夜干しには、天敵もおるんやて。なんやと思う?スズメバチやて。あいつら皮一枚だけ残して、見事に身を削いでってまう、かなりの魚食いやて」。

大力の店頭に一夜干しは並ばない。

なぜなら全てが全国からの注文だからだ。

「すぐ欲しいって言われても、いい鮎が梅雨の晴れ間に上がらな話にならん」。

注文から商品が届くまで、1ヶ月近くの待ちはざら。

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「東京の常連さんから、5月に注文が来て、商品届けたのは7月や。でも最高の旬を味わいたい粋人は、『待つのも楽しみや』だと」。

「岐阜で鮎売るなら、いい鮎が無い時は、ありませんと言える誇りを持たなかん」。

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それが鮎の本場岐阜県に生まれた、一夜干し職人の矜持だ。

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「天職一芸~あの日のPoem 459」

今日の「天職人」は、岐阜市小柳町の「日本料理板長」。(平成24年3月17日毎日新聞掲載)

春を待ち侘び膳飾る 天下の鮎よ長良川            女王(にょおう)の香り馨しく つい絆されてもう一献            串打ち三年焼き一生 美濃の板場の腕も鳴る           秋に落ち逝く定めなら 旬の盛りを愛で厭う

岐阜市小柳町の日本料理「丸桂」。板長で当主の、山口勝司さんを訪ねた。

竜宮門の弥八地蔵を南に入った一角。

粋筋の集う名店がある。

「ぼくは揖斐の田舎の出やで、店で使う野菜はどれも自家製ばっかり。漬け物も梅干も。お客さんの嬉しそうな顔見るのが、何より好きなんやて」。勝司さんは少年のような瞳で、とにかく良く笑う。

勝司さんは昭和15(1940)年、揖斐川町坂内で8人兄弟の次男とした誕生。

「義太夫の太夫やった父が、旅人宿をしとったんやて。馬車牽いて炭を大垣へ売りに行って、帰りに味噌醤油を仕入れて」。

中学を出ると、岐阜市内の老舗魚屋へ修業に。

「長良橋近くの旅館で、白い割烹着姿に、五寸の高下駄履いた板前が粋やった。こっちは年中魚くっさいし、こりゃいかんと」。

昭和34年、旅館の板前見習いに。

「1年目のことや。お寺の住職から、麻雀の面子が足らんと呼ばれて。そしたら『この子は岐阜へおいといたらいかん』と」。

住職は京都の老舗料亭へ、懐石料理を馳走しようと、勝司さんを伴った。

しかしその店は既に満席。

結局ふぐ専門の料亭へと河岸を変えた。

「そん時のふぐの味が忘れられんかった」。

ふぐとの出逢いが、その後の人生に大きく関わるとは、年端も行かぬ青年に分かる術もなかった。

すると今度は、茶人でもある菓子舗の主が口利きで、大阪の高級料亭吉兆で3年間の住込み奉公へ。

「ちょうど高麗橋の店へ入って1週間したころや。全店で慰安会があって、『お前何ぞ芸でも見せえ』って。父の太夫振りを真似て、義太夫の壷坂霊験記を語ったんやて。そしたらそれがえらい好評で」。

岐阜の田舎から来た山口の名が、吉兆全店に知れ渡った。

すると1年半後の昭和36年、ご主人から嵐山店で焼き方を頼むと。

「保津川下りの鮎も、長良川の鮎も、鮎に変わりはないやろと」。

すると翌年、今度は大阪北久宝寺にあったビル吉兆へ。

「鰻の板前が倒れたんやて。で、ぼくは男前やろ。カウンターへ出て、天麩羅と鰻を任されたんやて」。

そして3年が過ぎ季明け。

「ご主人から『なんぼ吉兆で修業しても、岐阜へ戻ったら客筋も食材も違うし、役に立ちまへんえ。頼むさかい、残っとくなはれ』と。でもどうにも、ふぐへの未練が頭から離れんかったんやて」。

その後下関へと飛び、半年間日本一のふぐ問屋で、仕入れとふぐの捌きを学んだ。

昭和38年、岐阜の旅館に戻り板長に。

するとその翌年、丸桂の先代社長が、吉兆仕込みの腕に惚れ、店を任かすと。

この年、伊保子さんと結ばれ、三女を授かった。

「満足のゆく店にするまで、20年はかかった。でもある常連さんから『なあカッチャン。ついに岐阜に吉兆作ったな』って。そう言われたんやて。今思えば最高の褒め言葉や」。勝司さんの目が潤んだ。

板前の腕に、修業先の看板は不要。

暖簾を後にする満足気な客の、笑顔一つが全てを物語る。

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「天職一芸~あの日のPoem 458」

今日の「天職人」は、三重県いなべ市大安町の「鋳物用木型師」。(平成24年3月10日毎日新聞掲載)

出しゃばりもんの天秤棒 「鋳掛鋳掛」と流しゆきゃ       鍋釜抱え長屋から 急ぎ飛び出す古女房             路地で鋳掛屋店開き 女房連中屯して              亭主の愚痴で憂さ晴らし 尾鰭が付いた鋳物尺

三重県いなべ市大安町の伸光しんこう木型製作所。たった一人きりの鋳物用木型師、水谷博さんを訪ねた。

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「人生、辛抱が肝心や。辛さを抱いたまんま、辛抱して生きとってみい、やがてそいつが、自分の心棒に代わる日が来るんやで」。人懐っこい笑顔を満面に浮かべ、男は作業場へと誘った。

博さんは昭和16(1941)年に誕生。

「わしは母の連れ子やったんさ」。

中学を出ると桑名市の木型製作所で住み込み修業。

「まあ、昔ながらの丁稚奉公やさ。箱膳で毎日倹しい食事や。親方らの家族は、鮭の切り身が付いとんやけど、わしら奉公人にゃあ一切無し。すると親方が、自分の鮭を3分の1ほど切って、わしらに施してくれよった。一月勤めて小遣い1500円もうて、床屋代の70円だけ自分で使ったらそんで仕舞いや。はぁ?だって後は、家から取り上げに来るんやで。下の弟たちも、まだ小さかったしな」。

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昭和37年、5年の年季が明けると、今度は1年間の御礼奉公。

「とにかく修業中は厳しかった。親方が片腕にしようとしてな。でもこれでやっと通い職人や。給料もいっぺんに月4万円に跳ね上がって」。

昭和45年に見合いで月子さん(故人)と結ばれ、一男を授かった。

高度経済成長と共に、通い職人の給料も月8万円に倍増。

しかし昭和50年、20年近く勤めた職場を辞した。

「親方が辞めんといてくれって土下座までして。店もお前にゆずるってゆうてくれたけど」。

タイヤ工場と別の木型屋に、二束の草鞋で働き詰めた。

「寝るのはたったの3時間やった」。

昭和54年、ついに独立開業。

「主に電気モーターの、鋳物の木型製造やわ。足踏みミシンの踏み板や、カメっちゅうベルトカバーやら、中足外足にプーリーっちゅう胴体やさ」。

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木型作りは、メーカーの図面を元に、立体図面を起こす作業から。

鋳物師(いもじ)とどう分割するか、相談せやなかんしな」。

次に姫小松、朴の木を木取りし、木型になる上型、下型、中子(なかご)(砂型)を、鉋と鑿で削り、ペーパー掛け。

次に中子の砂離れが良いように、透明の塗料を塗り、いざり止めにだぼを打つ。

そして底板や土台は、シナベニアで加工。

「姫小松は、年輪が細かく、夏目と冬目が変わらんし、粘りもなくやわこい。逆に朴の木は粘りがあって、鋳物の周りの、欠け易いような細かい場所に、持って来いの材なんやさ」。

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作業場のあちらこちらには、木型師人生55年を物語る、大小様々な木型が、渦高く積み上がる。

さながら職人の履歴書のようだ。

「ここらは昔から、鋳物が盛んやった。鋳物噴いとるとこだけで、50軒は超えとったやろ。せやけど今しは、たったの10軒や。木型屋なんか、もう残り2軒やで。とにかく、安てええもん作って当たり前。いらん欲は捨てやなかん」。

老木型師が、少年の(まなこ)で笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 457」

今日の「天職人」は、岐阜県山県市葛原の「八百屋の行商」。(平成24年3月3日毎日新聞掲載)

坂の下からパタパタと オート三輪喘ぎ声            八百屋のオッチャン鐘鳴らし トロ箱並べ店開き         腰の曲がった婆ちゃんが あれやこれやと品定め        「あんた干物が好きやろう ええの仕入れて来といたで」

岐阜県山県市葛原で、親子二代に渡り、山間部の過疎地へと、食料品を行商する丸一商店。二代目主の長野富郎さんを訪ねた。

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「この店に無いのは、洋服と和尚のお経くらいやて」。富郎さんが、移動販売バスの入り口を開けた。

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「昔は入りきれんほど、客が並んで待っとった。でも年寄りの客は、順に死んでってまうでねぇ」。

富郎さんは昭和22(1947)年、3人兄弟の長男として誕生。

「敗戦後に父が復員し、すぐに名古屋の八百屋で修業して来て。昭和21年には自転車に魚入れるトロ箱積んで、お客んとこへ配達するようになったんや」。

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商売は好調でやがて、自転車もオート三輪へ。

「父が魚や野菜を配達しとると、炭やら薪やらを運んでくれとか。製材所の大鋸粉を風呂屋へ運んでやったり。病人が出たっちゅうと、荷台に戸板敷いて医者まで運ぶし。花見の頃には、集落のもんを荷台に鈴なりに乗っけて、谷汲山まで走るわ。今の時代みたいに、セカセカしとらん、のんびりしたええ時代やった」。

富郎さんは裏を流れる武儀川を、ぼんやり眺めた。

「高校出たら『おめえ、高校行くくらいなら、丁稚に行け』って」。

岐阜市の魚屋で1年と、料理屋で2年の修業に。

昭和40年、帰郷し家業に従事した。

「ぼくは料理屋をやりたかったんやけど、父が借金拵えるのに反対で。父がここから西へ、ぼくが東へ向けて、当時はまだ冷蔵庫も無い幌付きのトラックで行商やて」。

昭和46年、行商先で思わぬ収穫が。

「お客さんとこの娘を貰ったんやて」。

弘子さんと結ばれ、一男二女が誕生。

翌年には、冷蔵庫を搭載した、念願のアルミバンを手に入れた。

「少しでも鮮度のいい状態で、届けたいでなあ」。

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それからも7~8年毎に、新しい設備を備えた車両へと乗り換えた。

「今みたいにマイクロバスの中で、買い物してもらえるようになったのは、これで2台目やね」。

毎日往復35~6㌔の道程を、山間の小さな集落へと分け入る。

昭和52年、先代が他界。

「それからやて。家を建替えて、1階で食料品売って、地下は調理場。2階に法事やら宴会用に座敷をしつらえて。昔料理屋で学んだ魚料理が好きやもんで、ぼくが料理長やて」。

行商は週6日。

「月水金が山向こう。火木土が葛原や」。

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毎朝5時に岐阜まで仕入れに出向き、一旦戻って朝食。

午前11時から午後6時まで、14~5箇所を巡回する。

「頭痛いで薬買って来いやら、ビールに米はないかとか。まるで玄関横付けのコンビニやわ。中には『やっとかめに人間と話せた』って、そんな年寄りもおる」。

時には孤独死や火事に出くわし、救急車や消防を呼び消火を手伝うこともある。

「不思議やけど、仕入れに行くと、好みを知っとるで、客の顔が目に浮かぶんやて」。

愛車のボディを撫でながら、富郎さんが笑った。

「後もう10年、コイツと頑張るわ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 456」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市湊町の「焼麩職人」。(平成24年2月25日毎日新聞掲載)

春の陽射しの濡れ縁に 日向ぼっこの硝子鉢           浮き草の陰身を寄せて 水温むのを待つ金魚           脇を小突いてガラス鉢 焼麩千切って浮かべれば         尾鰭ゆらりと振りながら 水面に並ぶおちょぼ口

愛知県豊橋市湊町の織九おりく。五代目焼麩職人の中村彰子さんを訪ねた。

大黒・戎の二福神が描かれた錦絵。

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今のチラシ広告だ。

「焼麩、蒟蒻、生麩製造業、「山に九」の家印に「織九店」と堂々の墨痕。

「慶応元(1865)年の創業です」。

愛知県豊橋市湊町の織九(おりく)。五代目焼麩職人の中村彰子さんを訪ねた。

彰子さんは昭和33(1958)年に、長女として誕生。

大学を出ると、豊橋鉄道でバス旅行の添乗員に。

やがて結婚の適齢期を迎えた。

「結婚すると、添乗で家を空けられない…。叔父の同級生だった、ここの先代が『お前さんは商売に向いとる』って」。

昭和57年、織九へ転職。

「代々この店は、蒟蒻製造が主人。焼麩は奥さんという仕来りで。でも麺筋と呼ばれるほど、グルテンのタネを伸ばして切るのは重労働。しかも熱いし」。

だが裏腹に、焼麩作りに魅せられた。

「水と小麦粉だけで、色んな形が作れるし、楽しくって」。

見よう見真似で修業を始めた。

他社の見学にも出向くが、どこも見せも教えもしない。

「ある人が『待っとったって、誰も教えてくれん。盗まんと』って」。

そんな日々が半年ほど続いた頃、先代が病に倒れた。

当然、焼麩担当の妻は付きっ切りの看病。

否応無く焼麩製造は、彰子さんに委ねられた。

「始めは真っ黒けに焦がして失敗ばっかり。でも直ぐ店に並べなきゃ…。試行錯誤の連続で、極限状態の日々が続いて…」。

だがそんな苦労も、翌年報われた。

昭和58年、五代目主の中村()志保(しやす)さんと結ばれ、二男を授かった。

「息子は生まれた時から、おやつ代わりが焼麩。だからカタツムリとか、クマさんの焼麩を作ってやったり」。

平成10年、それまでの無理が祟り大病に。

病が癒えると平成14年、今度は先代が他界。

「柱が欠けた気がして」。

伝統の継承だけでは、時流の波に乗れない。

伝統に頑な夫を説き伏せ、平成16年に焼麩専門工場と直販店を独立させた。

焼麩作りは、早朝に始まる。

小麦粉のグルテンに、水少々と小麦粉を入れ攪拌。

当分に分けて休ませる。

次に練機で練って成形し、水槽に浸けて休ませる。

「岐阜の方は粉焼き。豊橋は水焼なんです」。

そして杉板の上に乗せ、手の感覚だけを頼りに伸ばしながらタネ作り。

次に巨大な餃子焼器のような釜に入れ、プクッとタネが膨らんだところで水打ちし、焼き上げれば完成。

「直径3ミリほどのタネが、焼くと10倍以上に脹れますからね」。

焼き立ての味は、表面がパリッとし、中がもっちりとした絶妙の味わいだ。

「昭和43年製の機械だから、自動調節機能もないし…。だから温度も湿度も水の打ち方も、すべて経験から来る勘だけが頼り。でも全て機械任せじゃなく、職人が一手間加えることで、美味しさが増すんだから」。

焼麩は小麦の味が命。

だから刺激のある香辛料の摂取はご法度。

それが147年続く、この家の職人の定めである。

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「天職一芸~あの日のPoem 455」

今日の「天職人」は、重県四日市市大矢知の「蕨餅職人」。(平成24年2月18日毎日新聞掲載)

鈴鹿の峰も名残雪 八風(はっぷう)(どう)に春(きた)る               裏の山では早蕨(さわらび)が 我先競い背を伸ばす             街道筋の菓子老舗 軒に張り紙「蕨餅」             春待ち人が足を止め 思い思いに舌鼓

三重県四日市市大矢知で嘉永年間(1848-54)創業の、丸井屋老舗。六代目の加藤陽太郎さんを訪ねた。

四日市と近江八幡を結ぶ旧八風(はっぷう)(どう)

江戸時代には陣屋もあったと言う、大矢知の町並みに往時を偲んだ。

すると和菓子屋の軒先に、(わらび)(もち)の文字が…。

蕨餅とは春の季語。

春から夏の菓子ではないのか…?

「一般的にはそう思われますやろな。でも家の蕨餅は、お正月から4月末まで。夏は黄粉が湿気てもうて、べったりしますでな」。陽太郎さんが、上框(あがりがまち)に座した。

陽太郎さんは昭和32(1957)年に、長男として誕生。

大学を出ると、名古屋の和菓子屋で住み込み修業に。

「店が錦の繁華街で、住み込みのもんは、8畳一間に雑魚寝。ホステスの姉さんらの帰り姿を、明け方連子格子から眺めては、起き出したもんやさ」。

4年の修業を経て、昭和58年家業に就いた。

「家は創業当時から、酒素饅頭が主やったんです。そんな代々受け継いだ伝統菓子も守りながら、新たに工夫した和菓子を創るんやと」。

昭和60年、大学の後輩だった靖子さんと結ばれ、三女を授かった。

「大学のサークルで知り合ったのが最初。大人しいて芯の強い、ええこやなあって印象でした」。

しかしその後は、互いに別々の道へ。

「修行中、旧に懐かしくなって、手紙を書いたんです」。

それが再会のきっかけとなった。

「父が転勤族でしたので、自分の子にそんな思いだけはさせたくなくて。転勤も無い、この家へ嫁に入ったんです」。お茶と蕨餅を差し出し、妻がつぶやいた。

勧められるまま蕨餅を頬張る。

…?

これまで蕨餅と思っていたものは、一体何だったのだ?

薄っすらと黄粉を纏った、半透明の蕨餅。

蕨粉の皮の奥には、小豆の漉し餡が包み込まれている。

口に入れた途端、蕨粉の皮と、しっとりとした餡が一体となり、蕩け出すではないか!

初めての食感だ。

「家の蕨餅は京風で、名古屋から西日本が中心。蕨の皮と餡の固さが、同じなんが特徴やさ」。

口解けと喉越しの良さに、職人の手間を惜しまぬ姿勢が、感じられる逸品だ。

蕨餅作りは、十勝産の小豆を一晩水に浸す作業から。

翌日小豆を炊き、小豆の腹が割れる頃に皮とゴ(実)を分け、水で晒して灰汁取り。

それを絞り、砂糖を加え加熱し餡に。

一方蕨粉は鍋で水溶きしながら、砂糖と水飴で作った蜜を入れ、加熱しドロドロの餅状に。

小さな塊を黄粉の上に落とし、黄粉を()(ごな)に包餡。

最後にもう一度、黄粉を振れば出来上がり。

「皮の熱で餡が水分を得て、固さも変わってしまいますやろ。せやで蕨粉の練り具合も、その日その日の気温や湿度で変えやんと。蕨餅は素朴なだけに、誤魔化しが効きませんでな」。

その日が賞味期限の、売り切れ御免。

繊細な味の命が儚い証でもある。

春を予感させる、早蕨(さわらび)のような素朴な薫りが、ほんのりと店内に漂った。

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「天職一芸~あの日のPoem 454」

今日の「天職人」は、岐阜県郡上市明宝の「郡上たも職人」。(平成24年2月11日毎日新聞掲載)

子らが浅瀬を飛び跳ねる 春まだ早い吉田川           ビュンと穂先の唸り声 鮎釣る父に目を見張る          郡上男の誉れなら 竿の捌きも男伊達              釣りの神器は竿魚篭と 鮎肌(いと)お郡上たも

岐阜県郡上市明宝の郡上たも職人、成瀬博明さんを訪ねた。

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工房の壁一面の郡上たも。

「どれ一つ、たもの顔も同じやない」。

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博明さんは昭和24(1949)年、名古屋で誕生。

高校を出ると東京の料亭で住み込み修業へ。

「厳しい世界やで、追い回し専門」。

気の短い性格で、わずか1年で棒を折り名古屋へ。

「でも調理が好きやったもんで、今度は友を頼って再び東京へ」。

スナックの厨房に職を得た。

「2年ほどした頃、土建屋の娘と仲ようなって」。

70年に結婚。

一女を儲けたが、わずか2年で離婚。

再び名古屋へ舞い戻り、土建会社に入社した。

昭和49年、秋田出身の真理子さんと再婚。

一女を授かった。

すると昭和53年に、高校時代の友人から誘いが。

「郡上の建設会社で、道路工事を手伝わんかと」。

その途端、子どもの頃の思い出が頭を駆け巡った。

「父が釣り好きで。よく連れられて師崎へ通った」。

直ぐに郡上へと一家で移り住んだ。

翌昭和54年には、郡上竿と魚篭を買い、我流でたも作りも始めた。

「川へ行くと友が出来、釣り名人とも出会う。でも名人たちのたもが皆違う。聞けば各々で作るんだとか」。

教えを請いながら、仕事の合間を縫って、たも作りに明け暮れた。

「3~4年して名人に、たもを見せたけど、鼻に引っ掛けてもくれん」。

その悔しさをバネに研究を重ね、ついに独自の方法を確立。

昭和63年のことだ。

「やっと鮎釣り名人が、一人前と認めてくれたんだて」。

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博明さんのたも作りは、カヤやネズなど、形状に個性のある枝を選び、切り出す作業から。

「弾力性があり、北面斜面に自生する、年輪の積んだ面白味(枝の形状)に溢れる枝を、切らせてもらうだわ」。

伐採期は11月~3月頃。

「木の休んどる時が一番ええ」。

竹べらで皮を剥き、火に当て徐々に曲げを加え、固定したまま半年間寝かせる。

「癖のある木は怒り出すで。焦がす寸前で曲げんと」。

直径35~36センチの枝の両端を斜めに切り、組み合わせて接着。

竹の目串で固定し、下地から仕上げまでの漆塗りを、塗り斑を削りながら最低6回、塗っては陰干しを3~4ヶ月繰り返す。

そして木の持ち味を活かした40センチの柄を、枠に対し90~120℃の角度で取り付ける。

次に網目が2ミリの、ヘラブナ用絹糸網を、枠の周りにケプラ繊維で、2センチ間隔延べ450目、手縫いで仕上げる。

深さ25~6センチ。

最後に柄の表面に施主の名、そして裏側に「博作」の控えめな焼印を当てれば完成。

釣り道具店には並ばぬ、博作の郡上たも。

鮎の太公望からの注文が続く。

だが名人に認められ、14年目の平成14年。

急性骨髄性白血病を発症。

治療せねば2ヶ月半の命との宣告を受けた。

4ヶ月間の闘病の末、職場も退職した。

だが幸いにも病は快癒。

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今では文字通り、郡上たも一本を生業とする、本物の職人となった。

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「天職一芸~あの日のPoem 453」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市若松町の「土雛師」。(平成24年2月4日毎日新聞掲載)

店先飾る雛人形 使いの途中妹が                不意に足止め覗き込む 「うちも欲しい」と涙ぐみ        千代紙着せた泥饅頭 お内裏様とお雛様             桃花白酒供えれば 泣いた烏がもうわろた

愛知県碧南市若松町で明治30(1897)年から続く、三河大浜土人形。三代目土雛師の禰宜田徹さんを訪ねた。

工房に足を踏み入れた。

そこかしこに、信長葬儀の焼香場面、嫡孫三坊師を堂々と抱く秀吉や、五条橋での牛若丸と弁慶の出会い。

賤ケ岳一番槍の加藤清正と四方田(しほうでん)但馬(たじまの)(かみ)(史実は山路将監正国)など、派手な色使いの武者姿の土雛が居並ぶ。

「三河の土雛は、昔から歌舞伎の演目を題材にしとるだぁ。これらぁは、祖父の時代の型じゃんね」。徹さんが、筆を置いた。

徹さんは、昭和25(1950)年に次男として誕生。

「祖父は身体が弱かったもんで、座りの家仕事しか出来んらぁ。でも元々造形や日本画が好きだったもんで、そんならって土雛作りを始めただ」。

高校を出ると鉄工機械製作会社に入社。

昭和49年に見合いで、西尾市出身の悦子さんと結ばれ、一男一女を授かった。

「見合いを一発勝負で決めたっただ」。

平成22年3月の定年までを勤め上げた。

「会社の仕事が嫌いだっただ。人間関係が煩わしいで。早よ定年迎えて、土雛作りたいって、そればっかり考えとったじゃんね」。

そう言えば、始終表情も和やか。

土雛の話になると、少年のように眼が輝く。

「だもんで今が一番幸せだわ。タイムカードも押さんでいいし、自分のやりたい時間に、土いじっとりゃええんだで」。

ところが、平成3年、父が老齢となり土雛作りを断念。

「昔はこの地区だけで15軒もあったのに、大浜の土雛が一旦途絶えてまっただ」。

平成12年から少しずつ、会社の仕事の片手間を利用し、土雛作りを開始。

「ちょうど父が亡くなる、2年前からだったわ。子どもの頃、父の背中を見て、真似事して遊んどった記憶を呼び戻しながら。幸いにも、祖父や父が遺してくれた型があっただもんで。やっぱりそれが、土雛師の財産だらぁ」。

そしてついに、平成22年春。

土雛師三代目として生きる、徹さんの第二の人生が始まった。

大浜の土雛作りは、河原の土を練る作業に始まる。

麺打ち棒で伸ばし、型の中へ手で押し伸ばし、表裏を形成。

「型が素焼きだで、土の水分を吸収して縮むだ」。

乾いたところで型から取り出し、3~40分天日干し。

次に表裏の縁に、水で溶いた土を塗り接着。

陰干しで2週間乾燥させ、900℃前後に熱したガス窯で4時間焼成。

そして11月~3月末頃の間に絵付け。

「膠を混ぜて絵付けするもんで、湿気は天敵じゃんね。だって膠は生き物だで、3時間ともたんらぁ」。

膠と胡粉を調合し、3度塗りを繰り返す。

「薄い色の所から順に絵付してって、最後に人形の命の顔を描くだぁ。豪傑や悪役は赤顔に、二枚目は白顔にと」。

そして銘に代え、ひらがなの「と(徹のと)」を隠し絵にして描けば完成。

就職から天職へ。

徹さんの土雛師人生は、まだまだこれからだ。

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