昭和がらくた文庫11話(2011.11.24新聞掲載)~「菜っ葉服と昭和の繁栄」

「お宅のご主人、いつも背広をピシーッと着こなして。颯爽と自転車でご出勤やけど、お勤めは一流会社?」。

「そんな…」。

物干し竿から、洗濯物を取り入れる母の声がした。

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「ごく平凡やよ」。

そう言うと、父の青色の作業着を、慌てて丸め込んだ。

父は昭和半ばの高度成長期を、鉄工所の溶接工として勤め上げた。

毎朝数少ない背広に袖を通し、数本のネクタイをとっかえひっかえ結んで。

ロッド式ブレーキの、頑丈な自転車に跨り、昭和後半の時代を駆け抜けた。

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ある日のこと。

「働くお父さん」という作文の宿題で、母に伴われ父の職場へ。

すると油塗れで真っ黒な、菜っ葉服姿の父が現れた。

「背広姿しか見た事ないで、ビックリしたやろ?」と父。

油汚れで真っ黒な軍手を取り、額の汗を拭い煙草に火を付けた。

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「鉄と鉄をくっつけるんが、お父ちゃんの仕事や」。

夕陽に浮かんだ、油塗れの父の笑顔。

汗と油と煙草臭さが、昭和の繁栄を築いた、男たちの匂いだった。

「背広より、ずっと男らしいわ」。

ぼくがそう言うと、父はロイド眼鏡を持ち上げ、油塗れの指先で目頭を押さえた。

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母はあの日以来、通りに面した一等地に、薄汚れた菜っ葉服を、堂々と翻すようになった。

一方、父は「3着の上下変えたら、9日も持つで」と。

ついに定年のその日まで、古びた3着きりの背広姿で押し通した。

「モッチャンは、貧しかったあの頃も、洒落者(しゃれもん)やったな」。

父の遺影を眺めながら、叔父のつぶやいた言葉に、遠い日の記憶が鮮やかに甦った。

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昭和がらくた文庫10話(2011.10.27新聞掲載)~「母の祝日」

1年365日の大半が、母の祝日だった。

と言うと、まるで怠け者かと思いきや、それがどっこい正反対。

寸暇も惜しみ、身を粉にして働く、筋金入りの戦中派女だった。

だから享年64という、今にして思えば、まだまだこれからという歳で、永久(とわ)(いとま)を乞うたのか。

では何故母の祝日が、人より多いと気付いたのか?

それは母の野辺送りを済ませ、遺品整理の真っ只中でのこと。

冷蔵庫と食器棚の隙間から、壁掛け用のカレンダーが現れた。

埃塗れの古惚けた12枚綴り。

何気なく表紙を捲ると、日付が丸で囲まれ、癖のある母の細かい文字が、びっしり書き込まれているではないか。

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5年前、愛犬を貰い受けた日。

2年前、父の基本給が微増した日。

6年前、月賦で洗濯機を購入した日。

といった調子で。

「お母さん、まだ寝んの?」。

「あんたは先に寝とりなさい。お母さんは除夜の鐘聴きながら、こうしてカレンダーに我が家の記念日を、1年分書き写してから休ませてまうで。それが年に一度の楽しみやし。毎年毎年、我が家の記念日が、また一つまた一つと増えてくんやで、幸せなことやて」。

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不意に子どもの頃の、母の言葉が甦った。

国民の祝日さえも返上し、家族の世話に明け暮れ続けた母。

「いっぺんでええわ。一日中、上げ膳据え膳で過ごさせてまいたいなあ」、の口癖を残し早々(はやばや)と鬼籍に入った。

家族の歴史が刻まれた1年分の暦。

他人にとっては値打ちが無くとも、母にしてみれば、どれも価千金の祝日だったに違いない。

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昭和がらくた文庫9話(2011.9.22新聞掲載)~「慌て者の台風補強」

台風が接近する度、父の姿が浮かぶ。

ステテコと鯉口シャツに腹巻。

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ずぶ濡れになり、窓は雨戸の上から、玄関には戸板を宛がい、胴縁を打ち付けた。

ある大型台風の襲来前夜。

父は慌てて勤め先から駆け戻り、大工道具を片手に補強を始めた。

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母は停電になる前に夕餉を終えようと、これまた大わらわ。

当然ぼくにも、そのお鉢が回って来た。

電気が止まるまでに、宿題を済ませろと。

どうせ明日は警報が出て、休校に決まっているのに。

だが、そんなことを口にしようものなら、「この不心得者!」と、たちどころにどやされるのがオチ。

そんな打算も働き、空返事を返したものだ。

トンカン トンカン―

それにしても父の補修は念入りだった。

さぞや大きな台風だろうか?

そのうち、勝手口を外から打ち付ける音まで聞こえ始めた。

「ちょっと、そんなとこまで釘付けにしてまったら、私ら缶詰状態やがね」と、母が声を荒げた。

しかし、荒れ狂う風の音に遮られ、父の耳には届かぬようだ。

「それはそうと、お父ちゃんどっから入って来るつもりやろ?」。

母と顔を見合わせ訝しんでいると、「しもたあ!」と外から父の大声。

打ち付けた補強材を慌てて引っぺがし、濡れ鼠で駆け込んで来た。

そこまで両親が、台風に神経を尖らせたのには訳がある。

あの伊勢湾台風で被災し、生と死の淵を一家で彷徨ったからだ。

あに図らんや翌日は、台風一過の日本晴れ。

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朝から異様に飼い犬が吠える。

それもそのはず、戸板で塞がれた小屋の中で、腹を空かせ七転八倒していたのだから。

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昭和がらくた文庫8話(2011.8.25新聞掲載)~「呪文は『御馳走(ごっつお)』」

「今日は御馳走(ごっつお)やな」。

両手を合わせ、親指と人差し指の付け根に箸を押し戴き、父は必ずそう呟いた。

たとえメザシ一匹に、漬け物だけであったにせよ。

思えば一度たりと父は、飯が不味いと母を詰ったことなどなかった。

敗戦直後捕虜として、極限状態の飢えに喘ぎ、命からがら引き揚げたからか。

一方母は、父が額に汗し稼いだ薄給を、一円たりと無駄にすまいと、家計の遣り繰り算段に、知恵を巡らせた。

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親子三人貧しくも、人並みに笑って暮らせるようにと。

その慣れの果てに誕生したのが、昼の我が家の定番、残り物丼である。

前夜の残り物を組み合わせた、母の苦肉のひと策だ。

「さあ昼やで」。

丼飯の上には、解説不能な料理がテンコ盛り。

前の晩のシュウマイにキンピラ牛蒡、キャベツのトマトケチャップ炒め。

それが一堂に会し、溶き卵を加え油で炒めたものだ。

料理と呼ぶのも憚られる、不思議な出来栄え。

しかしそんなことはお構いなしに、空っぽの胃袋が悲鳴を上げる。

ぼくは父の口癖を真似、「御馳走(ごっつお)や」と念じて頬張った。

「…うっ?旨い!」。

キンピラの甘辛さとケチャップの甘酸っぱさに、シュウマイと溶き卵が絡み、微妙な旨味を引き出している。

見た目とは裏腹な旨さに舌を巻き、今度また作って欲しいと母にせがんだ。

すると「そんなもん残り物やで、二度と同じになんか出来るかいな」と。

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御馳走(ごっつお)や」。

父の呪文に教えられた。

倹しい食事でも、家族で囲むことこそが、何より贅沢な旨味の決め手だと。

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昭和がらくた文庫7話(2011.7.28新聞掲載)~「昭和の知恵で一涼み」

連日更新される最高気温。

だが今年の夏は、何だか様子が異なる。

その正体は、天気予報ならぬ電力予想。

さすがに我慢も限界と、エアコンのスイッチを入れようとする度、妙な後ろめたさに苛まれる。

ぼくが育った昭和の半ば。

風神様もたじろぐような、神憑りなエアコンなどという神器は無い。

だからもっぱら昼寝に行水、軒の打ち水に破れ団扇で涼を求めた。

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とっぷりと陽も落ち、父が帰宅するのを待って、やっと扇風機が唸り始める。

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あまりの涼しさに、扇風機が首を振るたび追い掛け回し、結局また一汗かき、天花粉を叩かれたものだ。

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夜も更ければ、吊り込まれた蚊帳へと潜り込む。

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蚊遣り豚に燻る煙を見つめ、いつしかまどろんだ。

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ポツリポツリと燈る、裸電球の街灯。

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それ以外の灯かりと言えば、時折り過ぎる車のヘッドライトくらいのもの。

だからか?

今ほど寝苦しくも感じなかった。

それとも昔は、今より涼しかったのか?

気象庁が記録を取り出した、1961年から昨年までを比較してみた。

岐阜市内の7月28日、午後3時の最高気温である。

すると60年代の平均が32.36℃、70年代31.16℃、80年代29.84℃、90年代31.32℃、2000年代30.58℃とあり、60年代が最も暑かった勘定となる。

ちなみに過去半世紀の、岐阜市の今日の最高気温は、2004年の37.7℃だった。

何のことは無い。

暑さは今も昔も不変だ。

ならばいっそ、文明の利器頼りの現代人も、「ダッセー」と片付けず、一涼みの風情に知恵を巡らせた、昭和の粋人を見習ってみてはどうだ。

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昭和がらくた文庫6話(2011.7.21新聞掲載)~「魔法の茶の間」

昭和の半ば。

欧米人は日本の住宅事情を、「ウサギ小屋だ」と揶揄。

だが当時の日本人は、どんなに蔑まれようと、見事に高度成長を成し遂げた。

我が家の両親もその時代を生き、社会の底を這うようにぼくを育て上げた。

恐らく父母の唯一の愉しみは、家族で寄り添う一時だったろう。

6畳一間のアパート。

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台所も炊事場も便所も共同。

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風呂は銭湯通い。

折り畳み式の丸い卓袱台を囲み、倹しい食事を分け合った。

夜も更ければ、卓袱台を折り畳み、煎餅布団を並べた寝床へと早変わり。

それが昭和半ばの高度成長を影で支えた、「魔法の茶の間」である。

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寝食も苦楽も綯い交ぜに、それでも明日を信じて夢見た家族の団欒。

昭和も30年代に入ると、三種の神器が登場。

やがて我が家にも、月賦で手に入れた白黒テレビがやって来た。

「じゃあ、スイッチ入れますで」。

電気屋のオヤジの声に、茶の間で正座しブラウン管に目を凝らす。

ザザーッという音と共に走査線が走り、ゆっくりと映像が浮かび上がる。

ついに母が感極まり柏手を打った。

白黒テレビの放送から58年。

カラー化からデジタルの世へ。

画像の鮮明さには、まったくもって目を瞠る。

だが豊かさの影で、失ったものも数多い。

茶の間に卓袱台、そして何よりテレビを取り巻く家族の姿だ。

果たしてそれは喜ぶべきか?

茶の間が家族の居場所だった、そんな時代を生きたぼくには到底分からぬ。

今よりずっと貧しかったあの時代。

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だが茶の間にはいつも、家族の笑い声が溢れ返っていた。

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昭和がらくた文庫5話(2011.6.23新聞掲載)~「末は博士か大臣か?」

―職業に貴賤なし―

時折り耳にする言葉だが、「ほんまかいな?」と、疑いたくなる場面もある。

特にその言葉を発する者が、上から目線であったりしたなら、とんだ茶番劇の、上滑りな台詞としか聞えない。

ところで、わずか数十年の間に、貴きものから(いや)しきものへと、自らの手で(おとし)めた職業がある。

それは内閣総理大臣だ。

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「巨人、大鵬、卵焼き」に象徴された、昭和の半ば。

学校で先生から、将来の夢はと問われると、大半の子が「末は博士か大臣か」と応えたものだ。

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取り分けその中でも別格は、大臣の中でも王様級の「総理大臣」だった。

だから必ずクラスに一人くらいは、何の疑いも抱かず真顔でそう応え、教師の失笑を買う者もいたほどだ。

しかし昭和も時代を下るにつれ、いつしか子どもの夢のベスト3から、「総理大臣」や「大臣」が姿を消した。

一時は、貴き職業の頂に君臨した、総理大臣という子どもの憧れは、時の総理自らの手で夢を打ち砕き、多くの国民の期待をも裏切り続けた。

その結果が、「貴」から「賤」への失墜だろう。

今も連日、次期総理を巡る駆け引きが報じられる。

今ごろ永田町では、自分が子どもの頃に夢見た、総理の椅子も近いと、こっそりほくそ笑む議員もいることだろう。

だが次の総理大臣たる者よ。

私欲や功名にはやるより先に、後の世の子どもから、「夢は総理大臣」と、もう一度言われる世にすべきではないか?

己を律し、維新の元老に恥じぬ、総理の復権を目指して。

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昭和がらくた文庫4話(2011.5.26新聞掲載)~戦後初の超ベストセラー「日米會話手帳」

1億の民がラジオの前で、陛下の玉音に初めて触れ、項垂れ、そして涙した、昭和20年年8月15日のあの日。

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だが、小川菊松だけは違っていた。

出先の千葉で玉音に接すると、急ぎ都内へ取って返したという。

それから一月が過ぎた9月15日。

小川が企画した「日米會話手帳」が、科学教材社から出版された。

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四六半裁判(縦約10センチ、横約13センチ)、32ページ、定価80銭。わずか3ヶ月でで、360万部を売り尽した。

誰もが食うだけでやっとの時代に。

当時の人口はおよそ7200万人。

老若男女を問わず、20人に一人が手にした勘定となる。

当時のゴールデンバットが一箱35銭。

それと比べれば、決して安くはない代物だ。

それでも多くの人々は、空腹と引き替えにこの手帳を手にした。

表紙を捲ると目次の次に「有難うArigato Thank you! サンキュー」と、日本語・ローマ字・英語・カタカナ読みの順に表記され、日常会話、買い物、道の尋ね方までの3章で構成されている。(資料協力/林哲夫氏)

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終戦を境に価値観が一変する中、昨日までの敵性語は、今日を行き抜く道具となった。

だから「ギブ・ミー・チョコレート」や、「パパママ ピカドンでハングリーハングリー」さえ、瞬く間に子どもたちにも伝播した。

今日(こんにち)のように「ちょっと家族でハワイへ」などと言う、お気楽な時代が訪れようとは、誰も努々(ゆめゆめ)思いもしなかった敗戦間もないころ。

きっと誰の目にも世界は、呆れ返るほど遠くに見えたに違いない。

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昭和がらくた文庫3話(2011.4.21新聞掲載)~「リンゴの唄」は、心に燈る希望の灯かり

「♪赤いリンゴにくちびる寄せて だまって見ている青い空…♪(歌/並木路子、霧島昇)」。

ご存知昭和の歌謡史を代表する「リンゴの唄」だ。

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空襲で家も家族も失い、焼け野原にただ呆然と立ち尽くす人々に、「それでも今日を生き抜け」と、希望の火を燈した不朽の名曲である。

先月11日、東日本を襲った大震災と大津波。

その惨状を並木さんが目にしたら、きっと直ぐにでも、天国の階段を駆け降りて来ただろう。

かつて阪神淡路大震災の折、被害が甚大であった神戸市東灘区の小学校校庭で、車のヘッドライトをスポット代わりに浴びながら、被災者を励まそうとこの曲を歌ったように。

当時の彼女は73歳。

「リンゴの唄」のデビューから数え、ちょうど半世紀が経とうとしていた。

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オリンピアの聖火を世界平和の象徴であるとするならば、彼女が半世紀を賭け歌い継いだ「リンゴの唄」は、被災者の塞ぎ込んだ心に燈る希望の灯かり、「聖歌」であった。

同時にそのリズムは、復興へと歩み出す槌音だったに違いない。

「♪リンゴは何にも いわないけれど リンゴの気持ちはよくわかる リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ♪」

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リンゴの産地東北で、耳を澄ませば春風に乗って、空の彼方から並木さんの歌声が、被災者の耳元へときっと届くだろう。

「どんな時でも、明日を信じて共に生きよう」と。

幼子は、()けつ(まろ)びつ伝い歩きを始め、やがて確かな一歩を踏み出すもの。

鳴き砂さえ涙を涸らした東北にも、明日はきっと訪れる。

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昭和がらくた文庫2話(2011.3.24新聞掲載)~「赤紙一枚に命を弄ばれた吉凶相半ば、父の人生」

「堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ…」

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特別養護老人ホームの談話室。

テレビの終戦記念特番で、玉音放送の(くだり)が流れ出した。

父はいきなり立ち上がり、直立不動のまま虚の三八式歩兵銃を両手に戴き、捧げ(つつ)の構えのまま嗚咽を漏らす。

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時ならぬ父の姿に、周りの老人があたふたと杖を頼りに立ち上がった。

忌まわしき戦争の記憶は、どれだけ心の奥底に封じ込めようと、馬鹿正直にも体は、己の意思と裏腹に反応するのか。

敗戦から半世紀以上を経た今となっても。

父は亡くなる数年前から認知症が進み、夢と(うつつ)の狭間に生きていた。

ぼくは無礼にも、そんな父の一進一退を、よく天気になぞらえたものだ。

だから母の七回忌を終え、その足で父を訪ねた時は、手の施しようも無い「土砂降り」状態。

母の供物が詰め込まれた、お下がりのお重を開き、立ち尽くす父に差し出した。

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「どこの親切なお方か知りませんが、ほなこのボタ餅頂戴します」。

父は胡乱(うろん)(まなこ)のまま、ボタ餅に舌鼓を打つ。

…今日は息子の顔すら思い出せんのか?…

「あのー、厚かましついでにこのボタ餅、もう二つ貰えませんか。今日は家内の七回忌でしてな。大好物やったでせめて供養にと」。

…あっ、土砂降りの中を彷徨いながらも、母の命日だけは忘れずにいてくれた…

赤紙一枚に命を弄ばれ、焼土に帰しどうにか手にした、母との倹しい暮らし。

吉凶相半ばの父の人生。

「勝ち負けより、お相子でええ」。

その時初めて、父の口癖だった言葉の、本当の意味を知った。

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