昭和がらくた文庫22話(2012.9.27新聞掲載)~「別れの湯浴み」

ちょうど今を遡る、20年前(2012.9.27)。

母の癌が再発し、余命3月と宣告を受けた。

残されたわずかな時間。

何をすべきか。

一人っ子のため、哀しみを分かつ兄弟も無く、逃げ場も無い。

だから悲しみよりも先に、まずは出来うる限り、母との想い出を作ろうと考えた。

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その一つが、母の病で先延ばしにして来た、妻との挙式の挙行だった。

これなら大義名分も立ち、親類縁者への母の最後の挨拶とも成り得る。

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しかし案の定、母は猛反対。

痩せ細った姿を晒すのは、忍びないと。

だが直ぐに「嫁さんに悪いでな」と、渋々前言を翻した。

己が命の残り火を、悟っていたのであろう。

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外泊許可を得て挙式を終え、両親と妻、それに妻の母を車に載せ温泉へ。

新婚旅行ならぬ、母とのお別れ旅行だ。

途中観光名所で、嫌がる母を無理やり記念写真に収めた。

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これが最後と誰もが知りながら、割り切れなさの上に、作り笑いを貼り付けて。

車椅子を押す度、母の重みを実感出来ず、このまま天へ召されはしまいかと、ハンドルを強く握りしめた。

宿へ着けばお待ちかねの湯浴みである。

最後に一度、母の背を流してやりたかった。

だが大浴場ではそうもいかない。

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代りに何年振りかで、父の背を流すことに。

するとどちらともなく、母の思い出話しが始まった。

若かりし日の、母の早とちりや勘違いの失態談。

二人してそう笑い飛ばすしか、母を失わんとする現実に、抗いきれなかった。

しかしそれにしても、その後の沈黙がやるせないものだった。

互いに幾度となく、湯船で顔を洗う振りをしては、こっそり涙を湯に溶き、鼻を啜ったものだ。

―湯煙に 母を偲びて 旅の宿―

*ちょうど今日、7月8日は母の祥月命日です。合掌

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昭和がらくた文庫21話(2012.8.23新聞掲載)~「相縁奇縁の相目取り」

最近鼻歌交じりで曲作りをしている。

いずれも駄作だが、それでも今年に入って、既に10曲も作った。

そのきっかけは、今年1月(2012年)から始まった、ラジオの深夜放送で、昔風のDJを始めたことだ。

概ねリスナーは、30代以上の中高年世代。

ラジオで流れる曲も、7~80年代のフォークやニューミュージックが中心。

一昔も二昔も前の、フォークシンガーのDJたちがそうだったように、ぼくも番組の中で、下手糞なギターを爪弾いている。

こうして発表の機会を得たことで、眠っていた創作意欲に火が燈った。

先月末、下駄を鳴らし浴衣姿で、郡上八幡を漫ろ歩く機会を得た。

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軒先の打ち水に、火照ったアスファルトも鎮まり、吉田川を渡る風が心地よい。

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夏の八幡ほど下駄の似合う町は、県内でも見当たらない。

それが忘れられず「八幡様のお百度」なる新曲を作った。

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まずはぼくのオリジナル曲、「八幡様のお百度」をお聴きください。

桐の柾目の(あい)目取(めど)り。

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この世に一つきりの揃いの下駄を鳴らし、来年こそは願いが叶い、二人結ばれ並んで踊れるようにと、そんな切ない女心を唄った歌。

「昔の粋人は『これは相か?』って、まず店へ入って来るなり、必ず聞いたもんや」と、以前取材で訪ねた下駄屋の主の言葉だ。

「下駄なんて浴衣の柄と違うで、パッと見には、相目取りの揃いかなんて分からん。でも恋仲の二人には、相の揃いがええ。粋やで」。

高砂神社が相老の松なら、郡上八幡は、相縁奇縁の相目取り。

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桐下駄鳴らして、春駒春駒。

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昭和がらくた文庫20話(2012.7.26新聞掲載)~「夫唱婦随?それとも婦唱夫随」

67年前。

米英中の三カ国がポツダム宣言を発表。

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その後、玉音放送の敗戦を境に、社会そのものや家族の在り方さえ、大きく変わった。

取り分け民主化最大の功績は、男女同権ではないか?

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古来よりこの国に蔓延る、封建的な家長制度が、見事に崩れ去ったのだから。

男の影で虐げられ続け、その姿に疑問すら持ち得なかった女性たちに、夜明けがやって来たのだ。

たちどころに女性たちは、戦後の混乱期を溌溂と闊歩し始める。

方や男どもはと来たら、敗残兵ばりの屈辱を葬らんと、脇目も振らず仕事に明け暮れた。

その時既に、夫唱婦随の考え方が、姿を消そうとしていたのかも知れない。

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ところで我が家の母は、バリバリの戦前生まれ。

戦中の国威啓発標語「欲しがりません、勝つまでは」を、まさに念仏代わりに育った。

しかも男尊女卑が幅を利かせた鹿児島生まれ。

だがそんな母も、戦後の民主化と男女平等の前に、あっさりと宗旨替えをした口だ。

一方、中国戦線から命辛々逃げ帰った父は、その不甲斐なさもあってか、結婚初日から、母にはまったく歯が立たなかったようだ。

だから何かにつけ、大概の事は母の采配。

父はただそれに、付き従うだけだった。

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「どうせあれにゆうても、3倍返しのオマケ付きやで。触らぬ神に何とやらで、逆らわんが一番や。あ~あ、クワバラクワバラ」と、直ぐに煙に巻いて逃げ出すほどだった。

婦唱夫随―父は家内で波風を荒立てず、そんな言葉を胸に生き抜いたのだろうか。

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盆には母の好物と、一回り小さな父の好物でも、手向けるとするか。

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昭和がらくた文庫19話(2012.6.21新聞掲載)~「亭主関白と、かかあ天下」

ずっとわが家は、筋金入りの母のかかあ天下だと思っていた。

父の薄給すら物ともせず、見事な采配で世知辛さをも凌いだからだ。

それもその筈。

鹿児島生まれの母は、気立てが良くやさしい反面、曲がったことは大嫌い。

正真正銘の薩摩おごじょだった。

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対する父は、三重の片田舎育ちの小心者。

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父の出征時に祖父は、大事な働き手を失ってはと、「鉄砲の玉の下潜ってでも、生きて還って来るんやぞ!」と、大声で見送ったという。

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憲兵さえも憚らず。

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その甲斐あってか、父は無事に復員した。

だから勇猛果敢な薩摩隼人と父は、まさに天と地の開き。

端から薩摩おごじょに敵う相手ではなかった。

恐らく結婚数日で、父母の上下関係は忽ち逆転した筈だ。

家族水入らずなら、一事が万事母の天下。

だが来客でもあれば忽ち一変。

母は何かにつけ父を立て、一歩も二歩も控え、父の亭主関白振りを装った。

その変わり身の早さと来たら天下一品。

子供心にも、母が体裁を取り繕っているように映ったものだ。

だがそれが誤りと気付いたのは、母が事切れる直前のこと。

痛み止めで意識が朦朧とする中、母は大きく父の方へと顎を振り、言葉にならぬ声を発し続けた。

「お父さんを頼むぞ」と。

自らの痛みや苦しみより、父の老い先を今際の際まで案じ続けながら。

母は根っからの、かかあ天下ではなかった。

ちょっと心許無い、関白殿を支え抜く、体の良い方便だったのだろう。

「家は亭主関白(かかあ天下)で」と、人は自嘲気味に笑う。

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だがそれは、永年連れ添った夫婦だけが手にする、最大級の惚気でもある。

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昭和がらくた文庫18話(2012.5.24新聞掲載)~「心と心の蝶番(ちょうつがい)」

先日桑名の料亭で、蛤のしゃぶしゃぶにありついた。

沸騰した薄味の出し汁に、活け蛤をさっと潜らせ、煮えきらぬうちに、半生状態で戴く。

付け垂れや調味料は、もちろん一切無し。

蛤自らが醸し出す、天然の旨味だけを、想う存分味わうのだ。

ふくよかでしっとりとした身は、何物にも例え難い食感で、この上なく格別である。

それを戴くには、熟練の仲居の、絶妙な箸捌きが欠かせない。

蛤を鍋から上げる瞬間が、早過ぎても遅過ぎても、程よい身のプリプリ感を損なうからだ。

桑名の赤須賀漁港に揚がる蛤は、一目で見分けが付くと仲居が言い張る。

蝶番(ちょうつがい)を上にして眺め、他の産地が「ハ」の字なら、桑名は「ヘ」の字だと。

岐阜県内を悠然と流れる、木曽、長良、揖斐の大河。

やがて一つに結ばれ、伊勢湾へと注ぎ込む。

三川が山の養分を、惜しみなく伊勢湾へと運び入れ、蛤はその恵を享受し身を肥やすのだ。

だとすれば、桑名の蛤は桑名だけのものにあらず。

源流から河口へと、滔々と恵みを運ぶ、治山治水あっての物種。

美濃との合作と言っても過言ではない。

そもそも南濃と北勢は、三川がもたらす恵みの一方で、古来より水との戦いを、強いられ続けて来た。

そんな想いに耽ると、何故か貝殻までもが愛おしく想われ、矯めつ眇めつ眺め回したくらいだ。

蝶番で結ばれた、この世にたった一組きりの二枚貝。

世の夫婦も、そうありたいと心と心を結う。

だが、これほど解け易いものもない。

だから「女が黄昏ようと結ぶ」と書き、結婚と呼ぶのだろうか。

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昭和がらくた文庫17話(2012.4.26新聞掲載)~「五味分かつ夫婦善哉」

両親が夫婦(めおと)となった馴れ初めを、あなたはどこまでご存知だろう?

まだ小学生だったぼくは、祝言を挙げた日くらいしか、聞き覚えがなかった。

だからいつ知り合い、どんなプロポーズの言葉を交わしたのか、知る由もなかった。

それはぼくの、結婚式前日のことだ。

父の高鼾を余所に、母が徐に問わず語りで、父との馴れ初めを語り出した。

母はコップ半分のビールで、いつも以上の饒舌振り。

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その年、末期癌を患い、全ての胃を摘出したにも関わらず、今夜だけは飲むと言い張った。

「もうこの人なんか、一銭も持っとらんかったんやよ。だから結婚式から新婚旅行まで、みんな私の貯金を切り崩して」。

母は初めて「お父さん」とは呼ばず、「この人」と呼んだ。

自らも「お母さん」ではなく「私」と。

敢えてその日を境に、初めて息子を男として扱ったのだ。

父は戦地から復員すると、口減らしを兼ね跡取りの無い家へ婿入り。

二人の子を成し、跡取りが誕生するや否や、無一文のまま姑にいびり出されたと言う。

一方母は、戦時中の怪我が元で、片脚を引き摺る障害を抱えていた。

だから嫁の貰い手は無いと諦め、紡績工場の仕事に没頭。

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そんな二人の仲を取り持ったのが、母の上司でもあった、父の従兄弟だったとか。

母は自らの死期を、既に悟っていたのだろう。

だから結婚前夜に、どうしても伝え置きたかったに違いない。

ぼくの両親である前に、一組の夫婦(めおと)であった追憶の日々を。

『一つの椀で五味を知り 泣いて笑って喧嘩して 善哉なれや夫婦(めおと)旅』

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昭和がらくた文庫16話(2012.3.22新聞掲載)~「名残の口笛」

戦友(とも)を背にして道なき道を 往けば戦野は夜の雨 すまぬすまぬを背中に聞けば♪

色褪せた一枚のモノクロ写真。

ぼんやり眺めながら、このメロディーを口笛で奏でていた。

写真の舞台は、昭和も半ばの、6畳一間の我が家。

丸い卓袱台には、徳利にビールの空瓶と大皿料理。

3組の夫婦が赤ら顔で車座に囲む。

捻り鉢巻き姿で、箸をタクトに見立て振り回す男。

空徳利を逆さに覗き込む者。

男たちは、誰もがランニングシャツにステテコ一丁。

女たちは皆、花柄のあしらわれたアッパッパー姿。

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今とは比べ物にならぬ、みすぼらしさだ。

しかしどの顔も、屈託の無い笑みが宿り、生き生きと輝いている。

確かこの写真の頃だった。

父が隙っ歯で奏でる口笛を真似ていたのは。

その歌詞が、「麦と兵隊」という軍歌だと知ったのは、随分後のことだ。

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赤紙一枚で、青春を戦地に差し出した父。

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忌まわしき戦いの記憶は葬り去れても、耳に馴染んだメロディーまでは、拭い去れなかったのだろう。

この国を守る的となり、青春を捧げた若者と、何不自由のない現代の若者。

いずれも、青春の重さに違いはあるまい。

ただ生れ落ちた時代が、違っていただけ。

年老いた父の口笛は、楽しい時も、辛く苦しい時も、いつも十八番(おはこ)のこの一曲。

父を亡くし、はたと気付いた。

あの一つ覚えの口笛は、戦地で出会い散って逝った、数多の戦友(とも)の御霊に対する、父が手向けた弔いではなかったのか?

それが貧しくも、戦後の平和な時代に生き残った者の、まるで務めであるかのように。

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昭和がらくた文庫15話(2012.2.23新聞掲載)~「わずか10秒の名場面」

わずか10秒足らずの映像に心奪われた。

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ナレーションも解説も、音楽すら無い。

だがそれは強烈な残像となり、脳裏に深く刻み込まれた。

今も思い出す度、胸が掻き毟られるほどだ。

映像の舞台は、主を失った長野県松本市の一軒家。

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1994年6月に発生した、松本サリン事件の被害者、河野善行さん宅だ。

妻が犠牲となり、サリン中毒で意識不明の重態。

ところが警察は、第一通報者の河野さんを、重要参考人として連日事情聴取。

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マスコミ報道も一気に過熱した。

やがて警察とマスコミによる冤罪事件へ。

ところが翌年3月、地下鉄サリン事件が発生。

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後に松本サリン事件も、オウムの犯行と判明した。

河野さんの無実が、一年近くの時を経て、ようやく証明されたのだ。

TV画面に映る蝉の抜け殻。

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カメラはゆっくりとズームイン。

縁側のある一軒家は、雨戸が固く閉ざされたままである。

カメラがさらに寄る。

すると縁側に吊るされた、干からびたままの干し柿が、画面に大きく映し出された。

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たったそれだけの描写である。

しかしそこには、様々な河野さん一家の、苦悩と無念さが、滲み出ていた。

晩夏と言うのに、主を失った家の雨戸は閉ざされ、干し柿を吊るした妻は、生死の境を彷徨う。

河野さんの無実が証明されるまで、全国から誹謗中傷が続いたという。

その映像は、河野さんを追い詰めたTV局が、事件を再検証した番組だった。

わずか10秒の物言わぬ名作。

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河野一家を襲った、無念の機微を穿つ、カメラマンの心の叫びには、どんな名台詞をも寄せ付けぬ、無言の迫真があった。

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昭和がらくた文庫14話(2012.1.26新聞掲載)~「お国訛りは、親の温もり」

「実はお前に、兄と姉がおるんや」。

父は痴呆病棟のソファで、いきなり切り出した。

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三重の片田舎で生まれた父の青春は、大半が貧しさと戦争に蝕まれた。

戦後は、母と一人息子のぼくを養うため、寸暇を惜しむ働き振り。

蝉の抜け殻のように、背を丸めた父が、ぼんやり遠くを眺めた。

…今日は雨か…

途方も無い告白にそう感じた。

父の痴呆は、2歩前進しては、すぐに3歩後退を繰り返す。

いつしかぼくは、それを天気に準えた。

澱みなく会話が成立する日を快晴。

全く意味不明な日をドシャ降りと。

それが老いさらばえる父の、尊厳を守る唯一の手段だった。

どんな名か問う。

すると父は、「兄が奥田●●、姉が●●」と答え、震える指先を宙に這わせ、見事な表記で名を記した。

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父は復員後間も無く、口減らしのため婿養子へ。

そこで2人の子を成すが、姑に追い出され離縁。

後に母と再婚したという。

ドシャブリどころか、雲ひとつ無い快晴そのものだったのだ。

「わしが逝っても、お前は一人やない。みなとあんじょう(・・・・・)(みんなと塩梅良く)やりや」。

生涯抜けることの無かったお国訛りで、父が念を押す。

それから程なく、父はそそくさと、母の元へと旅立ってしまった。

良いことなど、数えるに足らぬ父の人生。

争いや、人を恨むことを嫌い、ただただ不器用に、父は最後まで「あんじょう(・・・・・)」を身上として行き抜いた。

「ちゃんとあんじょう(・・・・・)やってるよ」。

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父の遺影にそっとつぶやき、父が大好きだった煙草に火を燈し、そっと手向けた。

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昭和がらくた文庫13話(2011.12.29新聞掲載)~「名曲に重ぬる我が人生」

ふと思い立ち、鹿児島行きの最終便に飛び乗った。

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母の生まれた地に立ってみたい、ただそれだけの理由で。

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母は昭和3年に生まれ、幼い頃実の父と死別した。

後に婿入りした義父との間に、二人の弟が誕生。

日増しに戦時色が深まり、三度の食にも事欠く有様。

窮する暮らしで心も荒み、義父はぶつけ様の無い憤りを、妻や子に向けたと言う。

母は身を挺し、幼い弟を庇い続けた。

乙女時代と引き換えにして。

そんな在りし日の、母の思い出話を、末弟から父の葬儀の後で聞かされた。

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「姉には昔、好きな人がおったんや。でも義父が反対して、別れさせてしまってなあ。それが許せんかったんやろ。二度と帰らんと誓って、故郷を捨てたんやで」。

♪おぼえているかい 別れたあの夜 泣き泣き走った小雨のホーム 上りの夜汽車の にじんだ汽笛 切なく揺するよ (おい)らのナ (おい)らの胸を♪

子守唄代わりに、いつも耳にしていた曲が、口を付いて飛び出した。

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母の生まれ育った、町の一角を歩きながら。

この歌が「りんご村から(歌/三橋美智也)」の2番の歌詞であることに気付いたのは、大人になってからだった。

歌詞の一文字一文字に、引き裂かれた遠い昔の初恋を、偲んでいたのだろうか。

だが母は生前、一度たりとも帰りたいとは言い出さなかった。

日々の暮らしに追われ、それどころでは無かったからか。

はたまた、夫を慮ってのことだったのか。

今となっては知る由もない。

もう一度、大きく息を吸い込んでみた。

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遠い日の、母の匂いが感じられる気がして。

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