昭和がらくた文庫32話(2013.07.25新聞掲載)~「蝉時雨は七夜だけの恋唄」

耳を(つんざ)くばかりの蝉時雨。

小さな体を震わせ、我先にと声を限りに鳴き交わす。

己が命と引き換えに、七夜だけの恋の歌を、愛する人の元へと届けとばかりに。

それゆえ古来より蝉は、多くの詩歌に詠み込まれた。

まるで人の世の無常さと儚さを説く、旅の修行僧のように。

「喝!」。

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昭和41年の夏休みのこと。

開け放たれた寺の本堂。

濡れ縁に仁王立ちで現れた和尚が、大声を張り上げた。

さっきまでの蝉時雨が、一瞬にして鳴りを潜める。

「こらーっ、お前たち!御仏の前で殺生とは、なにごとじゃ!」。

和尚は裸足のまま駆け寄り、ぼくらの手から小枝を取り上げた。

木々の根元にポッカリ開いた小さな穴。

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薬缶から水を注ぎ入れ、小枝を突き刺したところだった。

物知り顔の先輩に「(さなぎ)が小枝を伝って、地上に這い出てくるぞ」と聞き、それを真似た矢先の出来事である。

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「蝉はわずか七日の命。それまで7年もの間、真っ暗な土の中でひっそりと生きて来たんや。やがて大空に舞う日を夢見ながら」。

ぼくらは項垂れ、穴の中へ水が浸み込んでゆく様を、ただ茫然と見詰めていた。

「人の命が仮に七十年なら、蝉の命はたったの七日。確かに人と蝉とじゃ、体の大きさも目方も違う。ならば人と蝉、命の重さはどちらの方が重い?」。

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不意に和尚に問われ、ぼくらは顔を見合せた。

「いずれも尊さや大切さに違いはあるまい。皆この世に等しく生きる、掛け替えのない命なんやでな。わかるか?」。

ぼくらの横に屈んだ和尚が、観音様のような柔らかな笑みを湛え、ぼくらの目を見詰め、諭すように語りかけた。

憤怒の形相の仁王も、慈母のような観音も、その違いは見る者の心一つ。

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知るや知らずか蝉たちが、一際高らかとまた鳴き始めた。

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昭和がらくた文庫31話(2013.06.27新聞掲載)~「お互い様の持ちつ持たれつ」

「大きくなったら何になりたい?」。

そう親に問われた記憶は、誰にでもあるだろう。

昭和も半ば、物心が付いた5歳の頃。

いつものように、市場へ母と買い物へ。

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その片隅にあるうどん屋が好きだった。

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旨そうな出汁の香を市場中に振り撒き、つい足止めを食らう。

苦虫を噛み潰したような不機嫌面のオヤジが、黙々と麺打棒で玉になったうどん種を伸ばす。

その巧みな手捌きが好きで、いつも眺めていた。

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そして「大きくなったらうどん屋さんになって、父ちゃんと母ちゃんに、美味しいうどんを作ったげる」と、両親を糠喜びさせたものだ。

話は反れるが…。

昔の市場は、店舗配置が実に巧みだった気がする。

なぜならうどん屋の隣には、必ず天ぷら屋か、肉屋の揚げたてコロッケやハムカツが売られていた。

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うどん屋の鰹出汁の香りと、揚げ物の香りが絶妙に絡み合い、胃袋は本能の(おもむ)くままに騒ぎ始める。

日本人の魂を鷲掴みにする、出汁と揚げ物の黄金コンビの香りに、(あらが)いきれもせず素うどんを注文。

そして急ぎ天ぷらやコロッケを隣から調達し、正々堂々と持ち込んだものだ。

でもそんなことは、うどん屋のオヤジとて先刻承知。

持ち込料がどうのとか、咎め立てたりもしない。

少なくとも、うどん屋が天ぷらやコロッケを揚げ、天ぷら屋や肉屋を敵に回してまで、根こそぎ利を貪るような下卑た輩はいなかった。

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昨今の「アベノなんたら」とか。

それに煽られ、利に聡い者が人を制してまで、更に利を追う。

昭和半ばは、今ほど豊かじゃなかった。

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だが皆一様に、情に(もろ)(ほだ)され易く、互いを緩やかに支え合ったもの。

「お互い様の持ちつ持たれつ」。

庶民はその崇高な精神で、激動の昭和を闊歩し続けたのである。

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昭和がらくた文庫30話(2013.05.23新聞掲載)~「♪三歩進んで五歩?下る♪」

「今度の日曜、チーター見に行くで」。

母がご機嫌な調子でそう告げた。

余りの嬉しさに、クラスの皆に「今度、チーター見に動物園へ行くんだ」と、自慢気に言いふらして回ったほど。

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昭和41年、小学3年のこと。

東京五輪の後とはいえ、庶民にとって動物園は、まだ夢の一大行楽地。

おいそれとは、連れて行って貰えなかった。

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いよいよ待ちに待った日曜。

期待に胸が躍り、早くから目が覚めた。

だが母は、一向に起きる気配もなし。

痺れを切らし、布団を捲ると、「何時やと思っとるの!せっかくの日曜やのに。大人しく寝とらんと、もうチーター見に連れてかへんで」と一喝。

渋々布団に潜り込むと忽ち微睡んだ。

台所の物音で、ハッと気が付けば既に10時過ぎ。

…しまったあ!

「さあ、あんたもぼちぼち着替えんと。チーターは午後1時からやで」と母。

「???チーターって、そんなにお寝坊さんなの?」と、思わず問うた。

すると「この子は、何馬鹿なことゆうとんの」とたちまち一蹴。

バスを乗り継ぎ、やっとの思いで辿り着いて見れば、そこは動物園とは似ても似つかぬ、温泉施設の大劇場。

「こんなとこの何処に、チーターがおるの?」と、不審げに尋ねた。

すると「もうじき始まるで、シーッ」と。やがて舞台で楽団の演奏が始まった。

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聞き覚えのあるメロディーが流れ出す。

♪幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだよ♪と、何と水前寺清子がステージに現れたではないか。

そりゃあ確かにチーターには違いないが…。

翌日はクラスの皆の、すっかり物笑いの種。

「三歩進んで二歩下がる」ならまだしも、四歩も五歩も下って、友の信頼は見事に失墜。

早とちりが招いた、身から出た錆とは正にこの事だった。

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昭和がらくた文庫29話(2013.04.24新聞掲載)~「ピンキラ?それともキンピラ?」

♪忘れられないの(忘れられないの)♪

山高帽に黒のパンタロン姿。

昭和43年、お茶の間に一大旋風を巻き起こした、大ヒット曲「恋の季節」。

ピンキーとキラーズ、略してピンキラ。

ピンキーが「♪忘れられないの」と唄うと、キラーズが輪唱で追い、曲も詞も知らぬ間に耳に残った。

当時小4だったぼくら腕白小僧たちも、その迫力に魅せられた口。

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「おい、帰ったらピンキラごっこだからな」を合言葉に、ランドセルも放り出し、皆で真似た。

最初こそ単純に、輪唱の歌真似。

しかしそれでは飽き足らず、段ボールを切り刻み、マジックで真っ黒に塗り潰し、山高帽まで作り上げた。

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そうなるともう止まらない。

今度は、裾の広いパンタロンとやらを、手に入れねば。

しかし逆立ちしたって、本物が手に入る当てはない。

となれば後は、お母ちゃんたちを味方に付けるだけ。

まずは皆のお母ちゃんを集め、歌真似で勝負。

すると勉強そっちのけで、毎日練習に(いそ)しんだ甲斐あってか、すこぶる評判がいい。

この機を逃すものかと、皆で衣装のお強請(ねだ)り。

すると一人のお母さんは、破れた布団のシーツを提供すると。

別のお母さんが、それを黒く染める。

ならばと、家の母は得意の洋裁で、パンタロン風に仕上げた。

パンタロンに山高帽。

歌真似の「ちびっこピンキラ」は、近所でも評判に。

すると町内の秋祭りへの出演のお誘いが。

「続いては『ちびっこキンピラ(・・・・)』のみんなです!」と、司会。

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キンピラ(・・・・)」じゃないって「ピンキラ」だって…と、ぼくらは憮然。

でも歌のご褒美にと、当時ピンキラがCMに出ていた、冷えたコカコーラが1本。

まさに「スカッと爽やか」な、晴れ晴れ気分だったのが忘れられない。

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昭和がらくた文庫28話(2013.03.28新聞掲載)~「一期一会の残り物クッキング」

昭和初期に生を受けた男には、二通りの生き方がある。

敗戦を境に、女性の地位が一変したからだ。

一つは、新たな価値観をものともせず、家族から(うと)まれようが、亭主関白を貫き通した者。

方やいち早く身を(ひるがえ)し、かかあ殿下に身を(ゆだ)ね、上座を明け渡した者とに。

父がどちらを生きたかで、昭和半ばに誕生したぼくの人生も、自ずと宿命(さだめ)られていたのだろうか。

父は典型的な次男坊。

家長の資質も無く、結婚早々、母の御旗の元に下った。

だから我が家は、「男子厨房に立ち入るべからず」など糞喰らえ。

若い頃、上方の菓子屋で、丁稚奉公の経験もあり、鬼饅頭やら蓬餅を拵えてくれたものだ。

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それが起因しているのか、ぼくの唯一の趣味も「残り物クッキング」。

つまり冷蔵庫に残った、前日や前々日の残り物を、繁々と眺め回し、新たなる逸品に仕上げる芸当だ。

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試食係は、もっぱら幼い日の娘。

中でも大好評だったのは、「ホクホクお芋のカツグラタン」。

つまり何日か前の、マカロニ入りポテトサラダと、前日の残り物であるトンカツの切れ端が材料。

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まずはマカロニポテトサラダを油で炒め、それをグラタン皿に盛り付ける。

その上に、微塵切りの玉ねぎを敷き、賽の目切りにしたトンカツと、とろけるチーズを加え、後はオーブンで焼くだけ。

「父ちゃん、これムッチャ美味い!絶対また作ってね」と、娘がペロリと平らげた。

冷蔵庫の残り物は一挙に片付き、美味いとまで(あが)められ、一見誠に良いこと尽くめ。

しかし最大の欠点もある。

それは二度と同じ食材が、同じ分量、残っているなど有り得ないからだ。

「また作って」と、どんなに懇願されようが、もう手の施しようも無い。

それが一期一会、唯一無二の残り物クッキングなのだから。

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昭和がらくた文庫27話(2013.02.21新聞掲載)~「昭和半ばの海外旅行と餞別」

昭和半ばの頃、世界の国々は、途方も無く遠かった。

今なら、ちょいと普段着で香港へとか、当時はそんなお気楽さなど微塵も無かったものだ。

そもそも昭和46年まで、1ドルは固定相場の360円。

少なくとも渡航費用は、今の3倍は下らぬ高嶺の花。

昭和47年にしてやっと、海外渡航者数が100万人を超えた。

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それでもまだ、100人に一人の割合である。

当時の庶民にとって、海外旅行なぞ夢のまた夢。

それこそ裕福な家庭の新婚夫婦が、めかし込んで旅立つ、ハネムーンくらいのものだった。

だから親類縁者も、大いに餞別を弾んだ。

新婚夫婦は、義理を欠いてはならぬと、餞別に見合う土産物の、リスト作りに躍起になった。

だが旅先では、ゆったりと旅情に浸るどころか、一生に一度の貴重な時間まで、土産物の調達に費やすのが落ち。

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それでも海外旅行は、人々を魅了して止まぬ、夢の代物だった。

そもそも土産の語源とは、神社の御札を貼ったとされる、板を指す「宮笥(みやげ)」からとか。

遥か昔の旅と言えば、伊勢詣り等の寺社巡りが主流。

道中には悪霊が待ち構えると畏怖され、村でも屈強な男を代参に立てた。

そして旅立ちには水盃を交わし、願い事を賽銭に託す。

それが餞別となり、男たちは宮笥を持ち帰えった。

これが後の世に、御札やお守りと一緒に、その土地の珍しい産物を、土産物として持ち帰る風習に、挿げ代わったのだ。

車も飛行機も無い昔は、何処までも歩くしか術がなかった。

今なら地球の裏側へも、1日あれば事足りる。

世界はそれほど近くなった。

昭和の餞別は、もはや死語に近い。

ならば(おの)(はなむけ)と、旅の土産探しに腐心するより、まだ見ぬ国や人との出逢いに、少年のような心を振るわせていたい。

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昭和がらくた文庫26話(2013.01.24新聞掲載)~「逆さ箒と寸借詐欺」

平成の世は、その場の空気が読めない者を、「KY」と囃した。

しかし昭和の半ばは、それさえ逆手に取る強者(つわもの)が、掃いて捨てるほどいたものだ。

「あの人、お父ちゃんの戦友なんやて。昼時にいきなりやって来て、そのままずけずけと上り込んでまったんや。その上、お母ちゃんの昼ご飯まで平らげて。『主人は仕事で、今夜は遅くなりますよ』って、何度言ってもあかん。はよう帰って来てくれんやろか。もう夕飯(ゆうはん)時やし」。

夕暮れまで道草し、慌てて帰って見れば、見ず知らずのオッチャンが茶の間に居座り、バカ笑いでテレビを占領しているではないか。

「でもこの逆さ箒しとけば、じきに帰ってくわ」。

母は襖の裏側に、座敷箒を逆に立て掛けた。

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箒の先に、日本手拭の頬っ被りまでかぶせて。

ところがオッチャンは、一向にお構いなし。

ちゃっかり晩飯まで平らげ、熱燗まで所望する厚かましさ。

母の堪忍袋の緒も、もはやこれまでかという矢先。

オッチャンは気を察したのか、重い腰を上げ我が家を辞して行った。

帰りの汽車賃が無いから、工面して欲しいと、口八丁で母を拝み倒して。

父の帰宅を待って母が問いただすと、「そんな名の戦友なんて、わしの部隊じゃ聞いたこともないぞ」と。

しっかりものを自負した母が、寸借詐欺に見舞われ、その落胆ぶりたるや。

「ついに(ははきき)(がみ)さんにも見放されたか。きっとこないだ、うっかり神聖な箒を跨いでまったでやわ。箒神さん、ゴメンナサイ。どうかお許しください」と、母は箒に向かい柏手を打ち、深々と(こうべ)を垂れた。

万物に神が宿ると信じ、決して疑う事を知らなかった母。

その姿がぼくには、どうにも小さく見えて仕方なかった。

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昭和がらくた文庫25話(2012.11.22新聞掲載)~「プラットホームの胴上げ」

「永のお勤め、ご苦労様でした!」

100人は下らぬ、黒尽くめのスーツにサングラス姿。

強面(こわもて)の若い衆のどすの利いた声が、新幹線のホームに轟いた。

グリーン車のドアから降り立ったのは、大貫禄の大親分。

一流デパートの開店時さながらに、強面黒尽くめが(かしず)き出迎える中、大貫禄の大親分は花道で一睨みを利かせて去る、歌舞伎役者のように改札口へと消え行った。

ホームの誰もが、そっと固唾を飲み込んだその時だ。

今度は時ならぬ歓喜の声に、ホームが包まれた。

バンザーイ!バンザーイ!

「またもや黒尽くめか!」と思いきや、強面どころか腑抜けたような赤ら顔の千鳥足。

その時、花束を抱えた新郎が宙を舞った。

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新婦は照れく気に、フラッシュの洗礼を浴び続けている。

こんな光景が、昭和の時代には、そこら中にゴロゴロと転がっていたものだ。

ところが平成の世では、とんと見かけなくなってしまった。

確かに新幹線の本数も増え、往来も昔に比べれば忙しない。

数分と開けずにホームへと滑り込み、人を吐き出しては呑み込んで、また次の駅へと向かって走り去る。

だから仰々しい出迎えや、悲喜こもごもの見送りなどと、旅立つ者と余韻に浸る間も無きゃ、ホームにゃそんな居場所すら無い。

再会に涙し別れを惜しんだ、あの穢れ無き、やさしさに満ちた心たちを、いったい何処へ置き忘れて来たのだろう。

今や携帯の普及で、世界の果てにいようが、瞬時に繋がり合える時代だ。

しかし携帯のバッテリーは、やがて放電するのが定め。

一方、五感に響き、人の心に芽生えた温もりだけは、記憶と言う永遠の電源を、決して失うことはない。

あっ!メールの着信だ。

またどうせ、原稿の督促に違いない。

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昭和がらくた文庫24話(2012.11.22新聞掲載)~「二度目のハネムーン」

*この「二度目のハネムーン」は、リサイタルやライブの折に、何度かぼくの曲「もしも生まれ代われたなら」を唄う前に、朗読をさせていただいた作品です。

こんな通夜は、最初で最後に違いない―

頭合わせに並んだ二つの棺。

目を閉じそっと手を合わせた。

色取り取りの花が楽園を模る祭壇。

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呆然と見上げれば、色褪せた想い出が走馬灯のように駆け巡る。

その刹那、にこやかな二つの遺影が、滲んで消えた。

先日、第二の両親と慕った夫婦が旅立った。

夫のコーチャと妻のヤッチャン。

親しみを込め、誰からもそう呼ばれた、戦前生まれの夫婦だ。

大病の後遺症と闘い続ける妻を夫が支え、晩年病に臥した夫を妻は案じ続けた。

10月末のこと。

入院中のコーチャの容態が急変。

自宅療養中だったヤッチャンは「お父さん一人で逝かせられん」と、床に臥しながらうわ言の様に繰り返した。

程なく、ヤッチャンまでもが危篤状態に。

図らずも救急搬送先は、コーチャと同じ病院だった。

病室こそ違えども、同じ屋根の下、意識が戻ると真っ先に、互いの容態を気遣い合ったという。

生死の境で行きつ戻りつを繰り返す二人。

奇跡的に二人が容態を持ち直した一瞬。

まるで待っていたかのように、看護士たちは二人をストレッチャーで連れ出し、病棟の通路へと向かった。

そしてすれ違い様、二人の手と手を取り、しっかと握り締めさせたのだ。

おぼろげに霞む混濁した意識。

もう互いに言葉を交わすことも叶わぬ。

だが半世紀を連れ添った二人は、その手の温もりと、脈打つ波動だけで、互いの心を十分に受け取ったことだろう。

いつもせっかちだったコーチャ。

たったの24時間で、おっとり者のヤッチャンが、後を追うように逝った。

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折しも今日は、いい夫婦の日。

今頃はどうせ二人して、天国で二度目のハネムーンとでも、洒落込んでいることだろう。

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昭和がらくた文庫23話(2012.10.25新聞掲載)~「母に賜りし体内時計」

「チックタック チックタック ボーンボン」

昭和34年の伊勢湾台風で我が家は被災。市営住宅の抽選に何度も外れながら、3年後にしてやっと当選を果たし、木造平屋建て、二軒棟続きの住宅へと越した。

六畳と四畳半の二間。

それに小さなお勝手だけという倹しさ。

だが六畳一間のアパートに比べれば、夢の別天地だった。

「♪ボーンボーンボーンと時計が三つ 坊やお八つを食べましょう♪」とは、昭和の時代に茶の間で親しまれた、ラジオのCMソング。

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我が家の柱に据え付けられた、デコラ張りの安物柱時計。

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ボーンボーンボーンと3回なってしばらくして、短針が3を過ぎ、長針が2の位置に来た頃、ラジオからこの曲が流れ出した。

母は鼻歌を奏でながら、内職の手を止めどっこらしょっと、水屋からお八つを取り出したものだ。

我が家の柱時計は、常に標準時刻より10分進められていた。

それは刻限に追われ、バタバタ焦らないように、何事も前もって準備を万端に整えよとの、母なりの教えがあって。

しかしぼくはと言えば「どうせ端っから、10分進めてあるんだし」ってなもんで、相変わらずのらりくらり。

堪り兼ねた母が、ついに暴挙に打って出た。

時計の針を、逆に10分遅らせるという。

しかも選りに選って、何より大切な遠足の日に。

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慌てて駆け出し弁当を忘れ、腹時計だけがググーッと空しく昼を告げる。

しかし指を咥えるしか成す術もない。

そんな姿を級友が見兼ね、お結びを一つ分けてくれた。

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以来、今も約束の刻限よりは必ず、10分早く出向く習慣が付いた。

母に頂戴した、体内時計を10分進めて。

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