昭和がらくた文庫43話(2014.6.26新聞掲載)~「仲睦まじき夫婦は、ひと語らいの鵜」

世の中には、その生業に身を投じる者だけにしか通じない、数々の符丁や隠語が存在する。

警察や鉄道、デパート等はその最たるもので、テレビドラマで使われることもあり、ご存知の方も多いはずだ。

岐阜にご縁の深い、そんな生業においてのみ使われる一つが「ひと語らい」。

一千有余年の長きに渡り、その符丁が用いられて来た。

「暮れに新しく入った、アレとソレを、そいでもって、ソッチのとコッチのとを、『ひと語らい』ずつにして」と、そんな塩梅で用いられる。

関市小瀬、第十八代鵜匠、「十の字」足立陽一郎。

毎年暮れに千葉からやって来る鵜を、しばらく自由に飼い慣らし、それぞれの鵜の癖と相性を見抜く。

やがて鵜を一組二羽に分け、竹編みの一つの鵜籠に放り込む。

それを鵜匠は「ひと語らい」と呼び、漁に出る時も眠る時も、一つ籠の中で苦楽を共にさせる。

何故それがひと語らいかと言えば、鵜籠の中央を仕切る網越しに、まるで二羽が語り合うかのように鳴き交わすからだ。

元々気性の荒い鵜は、鵜匠が語らいの相手となる鵜の選定を、うっかり誤ろうものなら、二羽が突きあって末は殺し合う事もあるのだとか。

だから語らい選びには、永年の経験と勘だけが頼りとなる。

「どうみてもこの二羽じゃ、あかんやろうってくらい、ヤンチャな奴同士でも、鵜籠に放り込んだ途端に、仲良うなるもんもおるし。まったく逆の場合だってある。まあ人間社会だってそうだし、ましてや夫婦なんて…」。

確かにどんな夫婦であろうと、家と言う鵜籠の中で、それまで生い立ちも違う者同士が、共に暮らすわけである。

いがみ合ってみても、今更悔いたところで、どのみちそれもこれも含めてが人生。

ならばひと語らいの鵜の様に、いつでもどんなときでも、夫婦で仲良く語らえれば、それこそが何よりの幸せかも知れぬ。

若き鵜匠の言葉に、妙に納得している自分がいた。

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昭和がらくた文庫42話(2014.5.22新聞掲載)~「バナナって遠足のオヤツ?それとも…」

バナナが遠足のオヤツに入るのか、或いは先生のお達しに反するのか!

昭和半ばの子どもたちにとっては、一か八かの大きな死活問題であった。

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なぜなら、遠足に持参してもいいオヤツは、50円以内と決められており、遠足前日にそれはそれは厳しい、オヤツ検査が待ち構えていたものだ。

小学3年の年の担任は、見るからにやさしい、眼鏡を掛けた新任の女性教諭であった。

だからクラスの皆は、誰しもが「今年はチョロイもんよ」と、高を括っていたものだ。

オヤツ検査を目前にした一文菓子屋は、近所の腕白坊主とお転婆娘たちで大賑わい。

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いつもの店番のお婆ちゃんだけでは、とても事足りぬ。

だから大した役には立たぬ、ちょいと斑呆けが始まったお爺ちゃんに、娘夫婦までもが加勢に駆り出されていた。

マーブルオレンジガムにラムネ菓子、そして男子に人気のココアシガレット。

さらにフエラムネに粉末ジュースや、女子に人気の酢昆布。

手にしちゃあ戻し、また手に取るの繰り返し。

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やっと一個5円の駄菓子10個を選び終えた頃には、すっかり夕暮れ。

そしていよいよオヤツ検査当日。

ナップサックから、遠足に持参する駄菓子を机の上へと店開き。

担任が席を巡回し、50円超えがいないかと目を光らせる。

すると一人の男子生徒が先生に問うた。

「お母さんが、おにぎりの包みと一緒に、バナナを入れたら、オヤツにはなりませんか?って」と。

嗚呼何たることか!

馬鹿正直にも程がある。

言わでもの台詞を口にしおって!

すると担任の、いつものやさしい表情が一変。

「皆さんよく聞いて。バナナはオヤツの一部として、1本25円で計算します。もしバナナを、お弁当の包みに隠しても、お菓子は残り25円分となりますから。それを越えていたら、先生が預かります」と。

何とも新任教諭らしい、杓子定規な模範解答に、ぼくらは成す術も無く、只々落胆するばかりだった。

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昭和がらくた文庫41話(2014.4.24新聞掲載)~「ゼロ戦に積んだウイニングボール」

神風特別攻撃隊のゼロ戦と伴に、沖縄沖に沈んだウイニングボールがある。

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それは昭和11年、夏の全国中等野球大会を制した、岐阜県立岐阜商業高等学校(岐阜商)ナインの汗と涙が染み込んだ尊いボールのことだ。

神田町通りを、伊奈波神社へと向かう凱旋パレード。

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沿道には深紅の大優勝旗を一目見たいと、大勢の市民が詰めかけた。

喝采を浴び声援に応える、ナインの誇らしげな表情。

恐らく誰も、やがて己が身を以って、ベースボール発祥の米国艦隊に、体当たりするなど、努々思いもしなかったろう。

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しかし翌年には、束の間の平和を嘲笑うかのように、盧溝橋で戦端が開かれ、泥沼の坂道を地の果へと転げ落ちて逝った。

岐阜商ナインの一人、遊撃手の近藤清さんは、昭和20年4月28日、神風特別攻撃隊の一員として、水杯を交わしゼロ戦に乗り込んだ。

葉桜となった、手折りし桜の一枝と、夏の甲子園を制したウイニングボールを握り締め。

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鹿児島国分第二基地から桜島上空を掠め、やがて錦江湾へと差し掛かる。

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特攻隊員の誰もがそうであったように、故国の見納めとばかりに、桜一枝を窓から手向け、沖縄沖へと向かったことだろう。

戦争は多くの若者たちの、夢や希望、そして父や母、兄弟姉妹との絆をも断ち切り、惨たらしい死地へと追いやる、とてもこの世のものとは思えぬ、悪魔の所業だ。

近藤は、最後の最後まで、薄れ逝く意識の中で、ウイニングボールをその手に握り締めていたに違いない。

先に散ったチームメイトたちと、もう一度天国で、心行くまで野球がしたいと。

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「近藤さん!岐阜商優勝メンバーの皆さんとは、逢えましたか?もう誰に憚る事も無く、野球を楽しんでおられますか?」。

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昭和がらくた文庫40話(2014.3.27新聞掲載)~「憧れの背番号『1』」

昭和半ばの男坊主どもは、見渡す限り野球少年だった。

帰宅すると玄関にランドセルを放り投げ、広場へと繰り出した。

まさに「巨人、大鵬、玉子焼き」時代。

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満足な野球道具等無い。

それでもブニョブニョのゴム毬1個と、友の一人が親にせがんでやっと買って貰った、安物のバット1本さえあれば、直ぐにプレーボール。

誰もが皆、憧れのプロ野球選手になり切って、バッターボックスに入る時も、守備に就く時も、憧れの選手の名と背番号を、口々に名乗り合う。

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もっぱら当時の趨勢は、ジャイアンツの王や長島。

従って同じチームには、何人もの王や長島が犇めいた。

ぼくはと言えば、もちろん背番号「1」。

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だが王ではない。

職人のような華麗なグラブ捌きから、燻し銀の小兵と渾名された、ドラゴンズの名二塁手高木守道である。

なにゆえ憧れの選手が高木だったかと言えば、近所にいた熱血ファンのオッチャンの影響。

「高木の見事なグラブ捌きにゃあ、本当に惚れ惚れする。しかし『燻し銀の小兵、高木守道』とは、よう言うたもんだ」と、大層な称えよう。

大人たちの絶賛振りにすっかり絆され、ぼくは「背番号1。ドラゴンズ高木守道」と、大声で名乗ったものだ。

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ある日の打席。

バットを思い切り振り抜くと、出会い頭にジャストミート。

打球は広場の向こう側の、川の中へと消えた。

文句無しの場外ホームランである。

だが試合は敢え無く中断。

敵も味方も入り乱れ、ボール探しにやっきになった。

なぜならボールはそれ1個きり。

何としても探し出さねば、試合が続行出来ない。

川面に浮かんだボールを、竹竿の先で手繰り寄せようと何度も試みる。

しかしその都度、ボールはスルリと身を(かわ)す。

ついに日暮れになっても見付けられず、日没試合終了。

誰もが夢見たプロ野球選手への憧憬。

まるで川面で身を躱した儚いボールのように、どんなに足掻いて見たところで、容易に夢に手は届きはしなかった。

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昭和がらくた文庫39話(2014.2.20新聞掲載)~「真紅の大優勝旗と一銭五厘の赤紙」

この春岐阜県内ではしめやかに、かつての球児を悼む、七十回忌の追善供養が執り行われることだろう。

今から70年前(2014.2.20時点)。

かつて甲子園のスタンドを沸かせた、岐阜県立岐阜商業高等学校(通称、県岐商)の球児たちが戦地に散った。

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白球を手榴弾に、方やバットを操縦桿に持ち替え、向うはベースボール発祥の敵国であった。

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命を的に、敵の本塁を狙う己の運命を、どれほど呪ったことであろう。

さぞや無念だったはずだ。

戦後世代の我が身には、努々想像さえも尽かぬ。

松井栄造投手。

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昭和18年5月、中国湖北省にて戦死(享年25)。

加藤三郎捕手。

昭和20年4月、神風特別攻撃隊で沖縄沖にて戦死(享年26)。

長良治雄二塁手。

昭和20年5月、沖縄への弾薬輸送中に戦死(享年26)。

近藤清遊撃手。

昭和20年4月、神風特別攻撃隊で沖縄沖にて戦死(享年22)。

加藤義男三塁手。

昭和17年、ビルマ・ラングーンにて戦死(享年22)。

市川清美マネージャー。

昭和16年、中国戦線にて戦死(享年22)。

いずれも、昭和11年第22回夏の全国中等学校野球大会で、岐阜に初となる真紅の大優勝旗をもたらした、栄えある県岐商野球部員たちである。

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実に優勝ナインの内、ダイヤモンドを死守した5名と、激闘をベンチで支えたマネージャーの計6名が、忌まわしき時代に翻弄され戦塵と化した。

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ひと月後には、春の選抜高校野球が始まる。

70年以上前のそんな悲劇など、今の球児が知る術も無い。

しかし70年以上前の球児たちの多くは、祖国を守らんが為、戦地に散った。

今更彼らの命と引き換えに、今の平和があるとまで言うつもりなどない。

だが甲子園を駆ける球児たちよ。

いつか分かって欲しい。

足元のグランドには、戦地に散った県岐商野球部員の流した尊い汗が、今も安らかに眠っていることに。

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歴史の風化は免れねども、たった一銭五厘の赤紙一枚で若者が命を差し出す、そんな愚行は二度と繰り返してはならぬ。

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昭和がらくた文庫38話(2014.1.23新聞掲載)~「寿司折は梯子酒した罪滅ぼし」

誰しも子ども時代には、子どもならではの夢を見たことだろう。

大人からすれば、どんなに割に合わずとも、そこには打算を持ち合わせぬ、子ども故の健気な夢があった。

差し詰めぼくの夢は、背広姿のサラリーマン。

仕事の付き合いで、ついつい梯子酒。

妻子に済まぬと、寿司折をぶら下げ、終電の吊革に揺られ千鳥足。

「今帰ったぞー」と、玄関で大声を放つ。

すると慌てて妻が飛び出し、ぼくを迎え入れる。

亭主を差し置き先に床にも入れず、炬燵で転寝だったに違いない。

ぼくは「上司の誘いを断れず、つい梯子酒になった」と言い訳を連ね、寿司折の包みを開く。

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すると寿司は皆、折の片側に寄り、もはや原形など留めてはいない。

―そんなリアルな夢であった。

だが残念にも、夢は何一つ叶ってはいない。

毎年1月のこの頃になると、必ずその夢を思い出す。

昭和の半ば、父は鉄工所に勤務していた。

その新年会が、1月の半ば過ぎに開かれていたのだろう。

飲んで帰る事など、まずもって無かった父。

だから赤ら顔して、寿司折をぶら下げて帰るのは、年にその一度っきり。

まさか小遣いも少ない父が、気を利かせ握らせた代物ではない。

恐らく会社が家族への手土産にと、用意した品であったろう。

その夜わが家の食卓には、お澄ましだけが用意され、父の帰りを待ち侘びたもの。

だが、いざ寿司折を開くと、必ずや家族で口論となった。

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高価なネタから、まずはぼくと父に先に摘めと母が促す。

逆にぼくは母に真っ先に食べて欲しいと。

父は父で、「もう宴席で食べたから、玉だけ一貫」と言い張るせめぎ合い。

尤も子どものぼくには、鮪や海老より、稲荷や玉の方が遥かに好みだったわけであったのだが。

それにしても、一折わずか10カン足らずの、歪に変形した握り寿司。

家族で譲り合って箸を付けた、あの歪な寿司の格別な味は、未だに忘れられはしない。

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昭和がらくた文庫37話(2013.12.26新聞掲載)~「犬の伊勢詣り」

―尊さに 皆おしあひぬ 御遷宮―

元禄2(1689)年、奥の細道の旅を終えた芭蕉が、第46回式年遷宮に参拝した折の句である。

いつの世も、俗世を生きる人々の心を、惹き付けて止まぬお伊勢さん。

その証に熱田神宮、明治神宮と、()しもの三大神宮でさえ、人々が親しみを込め、「お」を付け呼ぶのは、伊勢(おいせ)神宮(さん)だけだ。

以前、曲亭馬琴の「里見八犬傳第八(しゅう)巻二」を目にした。

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表紙に描かれた、伊勢詣りの代参をする、首に御神(ごしん)(さつ)を巻いた犬と、傍らの柄杓(ひしゃく)が取り分け印象的だった。

この手の犬の代参伝承は、各地に残る。

かの広重の「宮川の渡し」にも、首に御神札の白犬が。

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他にも仙台の鈴木()(こう)著「仙臺(せんだい)風俗誌」や会津の『志ぐれ草紙』にも記述が。

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また、阿波徳島の庄屋の飼い犬の伝承や、山梨県上野原市新井町明神社境内には、「伊勢犬碑文」と言う、帰参を果した犬を湛える碑まで建立された。

新井の伊勢犬

犬の首には、藁縄で伊勢参宮の木札と、代参を託した飼い主の名に、国元の在所を記し、初穂料や餌代を入れた袋を括り見送ったと言う。

犬は道中、伊勢講の人らに助けを乞い、参拝を果し御神札を首に、遥かな家路を辿った。

もう一つ、傍らに描かれた柄杓は、旅の参拝者が茣蓙(ござ)の先に差し、無一文の印としたものとか。

参宮街道で茣蓙に柄杓の者を見かけると、人々は「施行(せぎょう)」と呼ぶ風習に従い、飯や水を施した。

それが「おかげ参り」に転じたそうだ。

何処へ行くにも、自分の足で歩む他、手立ての無かった時代。

それでも病の者や老齢者は、お伊勢詣りの叶わぬ願いを、已む無く犬に託したのだ。

それ程までにお伊勢さんは、この国の(たみ)(くさ)が魂の寄る辺と頼る、尊き神の()()すお(やしろ)なのだ。

どうか伊勢(いせの)大神(おおかみ)様、来年もこの国が、いや世界中が平和でありますように。

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昭和がらくた文庫36話(2013.11.21新聞掲載)~「有り合せ毛糸の手編みのセーター」

昭和の半ば。

霜月に入ると母は、夜鍋を始めた。

押入れの奥から、煙草の火の不始末で穴の開いた父のセーターや、母が独身時代に着ていたと言う、古ぼけたセーターを引っ張り出し、やおら(ほど)き始めるのだ。

その度ぼくは、両肘から先を直角に突き立てさせられ、(かせ)()り役を仰せつかった。

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「あんたのセーター編むんやで我慢我慢」と。

しかし数分も経たずして、二の腕がブルブルと震え出す。

「何やの情けない!男の子やったら辛抱辛抱」と、情け容赦もない。

そして直径30~40センチほどの毛糸の束が出来上がると、それを大きな鍋で熱湯に浸した。

そうして編み癖のついた毛糸を、真っ直ぐ伸ばし乾かすのだ。

それを眺めながら、ぼくのセーターとはまやかしで、もしや毛糸が煮物に化けはせぬかと気が気ではなかった。

そしてやっと何種類もの、色や太さの違う毛糸玉が出来上がる。

すると炬燵で母が、竹の編み棒を巧みに操り、セーターを夜鍋で編み上げてゆく。

炬燵に潜り込み、鼾の二重奏を奏でる、父とぼくの傍らで。

卓袱台の上に並んだオムライスと、バタークリームの小さなバースデーケーキ。灯された蝋燭を吹き消すと、「誕生日おめでとう」と両親の声。

母は夜鍋で仕上げたばかりのセーターを、得意げに羽織らせた。

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色も太さもまちまちな、有り合せの毛糸で仕上げた、奇妙な色柄模様のセーター。

しかし当時の子どもは、いずこも同じ。

差し詰め現代なら、その突飛なデザインに、むしろ斬新と若者から羨まれたろうか。

そんな継ぎ接ぎだらけのセーター。

だが木枯らしに煽られる度、父や母の香りがほんのり漂うようで、底抜けに暖かだった。

今宵は底冷えか。

ならば記憶のアルバムを紐解き、あのセーターを心に着こみ、せめて気分だけでも温まるとするか。

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昭和がらくた文庫35話(2013.10.24新聞掲載)~「帳場に飛び交う万国語」

秋の実りを食らい、酒を煽る秋酣。

いやいっそ、ぶらりと独り旅に出るのも悪くない。

秋の八幡祭も終え、高山市中に冬やわいの気配が忍び寄る頃。

つい或る人の顔が浮かぶ。

それは軒の打ち水が似合う、情緒漂う宿の女将の顔だ。

鍛冶橋を西へ渡った、国分寺通りの旅館田邊。

女将との出逢いは、10年以上も遡る。

新聞連載の取材で、訪ねて以来の付き合いだ。

今も暖簾を潜ると「あら、お帰りなさい」と、在りし日の母の口調さながら、仲居頭共々、出迎えてくれる。

不思議にも宿の帳場では、多様な言語が飛び交う。

英・仏・伊・蘭・独・西(スペイン)・瑞典(スゥーデン)・丁(デンマーク)など、ヨーロッパの言語と、大半が英語である。

既に古希を越えた女将だが、週に一度は英会話私塾へと通い、一方独学で日常会話程度の、仏・蘭・伊・独をも片言で操る。

だから帳場の賑わう朝夕には、女将のネイティブな飛騨弁に、各国の旅人と交わす、片言のお国言葉や英語が絡み合い、賑やかこの上無い。

でもそれが旅館田邊流の、慮りの神髄である。

「慮る」とは、虎垂れに七つ思うと書く。

つまり虎は、「四方八方へと気を配り、常に七つの思いを巡らせる」と考えてもいい。

屈託なく諸外国からの旅人に接する、そんな女将の姿に触れる度、持て成す慮りの奥深さを痛感する。

元より宿は、ウ冠の屋根の下に、百通りの人と書く。

すなわち百通りの人生を抱えた者たちが、一夜の雨を凌ぐ拠り所でもあるのだ。

やはり万国共通の旅の醍醐味は、「郷に入っては郷に従う」か?

それが証拠に欧米の紳士淑女も、こぞってこの宿で長居を決め込む。

「お世話になりました。女将さんお元気で」。

欧米からの旅人は、玄関の三和土に立ち、覚えたての日本語で礼を述べ、振り向き振り向き高山を後にして行く。

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昭和がらくた文庫34話(2013.09.26新聞掲載)~「絶望の淵に響いた歓喜の産声」

「ヒポクラテスの誓いが医者の矜持(きょうじ)なら、私たちはナイチンゲール誓詞(せいし)を、今一度心で復唱しましょう。そしてこの台風に(ひる)むことなく、今まさに、この世に産声を上げんとしている小さな命を、必ずその手で取り上げて下さい」。

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看護の灯火に浮かび上がる、白地に赤十字の看護帽。

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まるで初めて誓詞を口にした、載帽式(たいぼうしき)のあの日のようだ。

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折からの暴風雨で停電した看護詰所に、婦長の声が凛と響いた。

54年前(2013.09.26時点)の今日、昭和34年9月26日午後9時。

潮岬に上陸した大型の台風が、満潮時の伊勢湾を北上。

東海地方を中心に、犠牲者数5098人を数えた、昭和の三大台風「伊勢湾台風」の来襲だった。

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名古屋市中村区の日赤病院。

産婦人科病棟にも、見る見るうちに水が押し寄せた。

「満潮と重り、あっちでもこっちでも、妊婦さんが産気づいちゃって。私たった一人で、4人の赤ちゃん取り上げたんやで」。

老産婆が、懐かしげに当時を振り返った。

79歳の今も愛知県東海市で、助産婦を続ける山口みちるさんだ。

「私の助産婦人生は、あの伊勢湾台風の大水害の夜から、始まったようなもの。あの晩、4つの新しい命を、無我夢中でこの手に取り上げた。それが自信となり、半世紀かけ1万人以上の赤ちゃんを、この手で取り上げられたんやで、なんて幸せ者やろ」。

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みちるさんが、両の掌を差し出した。

5千を超える尊い命を奪った伊勢湾台風。

みちるさんは半世紀以上を費やし、その倍に当たる新たな命の産声を、羽二重のおくるみの様な柔らかい掌で、受け止め続けて来たのだ。

消え入る命と、やっと産声を上げたばかりの命。

命の(ともし)()が交錯した54年前のあの夜。

みちるさんの両手は、今も4つの命の重さと尊さを、はっきり記憶し続けている。

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