昭和がらくた文庫53話(2015.04.23新聞掲載)~「古里偲ぶ祭囃子」

世はまさに百花繚乱の花盛り。

誰もが春爛漫を謳歌する季節だ。

どの新聞やテレビからも、各地の春祭りが報じられる。

「祭り」の語源は、神々に対し奉る(たて―まつる)とか。

故に、土地土地の神に捧ぐ伝統的な祭りには、郷土色が色濃い。

だが、故郷と呼べる場所も無い、ぼくにとっての祭りとは、新興住宅の住民らが、勝手に創り出した俄か仕立て甚だしきものだった。

とは言えそれは、移り住んだ皆がその地を、我が故郷にせんとばかりに、あの忌まわしい戦争を潜り抜けた長老たちが、知恵を絞って創り上げた苦心作。

だからかその祭りは、各地の祭りを真似た良いとこ取りのごった煮さながら。

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昭和半ばは、交通網の整備も十分でなく、おいそれとは帰省も儘ならぬ。

皆その寂しさを紛らわさんと、例え継ぎ接ぎだらけのヘンテコな祭りでも、僅かながらに古里を偲んだのだろう。

その中に「曲打ちの辰っちゃん」と、長老たちに可愛がれたオッチャンがいた。

とは言え、小学校低学年のぼくには、随分立派なオッチャンに見えたもの。

だが実際には、30歳前後の新婚さん。

いつも菜っ葉服と呼ばれた、油染みの付いた作業着姿。

金の卵と持て囃され、集団就職で古里から遠く離れた地へと流れ着いたのだ。

いつもは精彩を欠くその辰っちゃんが、年に一度だけ輝いて見えた。

参考資料

それが町内の春祭り。

不意に祭囃子が公園に鳴り響いた。

すると一斉に、老若男女が櫓を取り囲む。

もちろん一番のお目当ては、曲打ち辰っちゃんの、故郷自慢の撥捌きの妙技だ。

下帯姿の辰っちゃんは、まるで遠い故郷の田舎で暮らす、両親に届けとばかりに、魂を込め撥を振り続ける。

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すると周りから、思い思いのお国訛りの掛け声が飛び交った。

今にして思い返せば、実に妙ちくりんな春祭りではあった。

しかし田舎を離れ、都会の片隅で暮らす者にとっては、遠い古里を偲びつつ、明日を生き抜かんとするための、魂を奮い立たせる祭りだったのかも知れない。

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昭和がらくた文庫52話(2015.03.26新聞掲載)~「オッチャンと戦争」

そう言えばあのオジサンは、一体どこからやって来たのだろう。

「オッチャンの時代はなあ、ストライクを『よし1本、正球』って呼ばされたんやぞ。見逃し三振なんてもんは、『よし3本、それまで』。もう何から何まで一事が万事そんな調子やった。エッ、何でそんな呼び方やったかって?そりゃあもうその頃は、戦争も末期やったし、日に日に旗色も悪くなるばかりでなあ。敵国の言葉を使うなど『けしからん』『非国民だ』と、敵性語の使用が禁じられたんや」。

参考資料

昭和の半ば。

ぼくらは草野球の真っ最中。

夢中で白球を追い掛けていた。

するといつの間にか、キャッチャーの真後ろにオッチャンが居た。

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両膝に両手をつき、アンパイアーを真似るように、ぼくらに語り掛けて来たのだ。

「オッチャンこう見えてもなあ、学生の頃はエースやったんやて!並み居る打者を、自慢の剛速球でバッタバッタと薙ぎ倒し、三振の山を築いたほどさ。エッ、プロからのスカウトか?それならええけど、陸軍から赤紙のスカウトや。おっと!」。

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ぼくの投球がキャッチャーの脇をかすめ、オッチャンの後ろの方へと転がって行く。

するとオッチャンはキャッチャーを制し、片足を引き摺るようにボールを追い駆けた。

「ええっ!オッチャンの剛速球が見たいやと?」。

オッチャンは拾ったボールを両手で捏ねながら、トボトボとぼくらに歩み寄った。

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「オッチャンなあ、軍隊で来る日も来る日も、敵陣に手榴弾を投げさせられてばっかりやったんや。学生野球の投手やったと知れて、上官の嫌がらせやろうな。それが元で肩を壊してまって、野球やりたくてももう出来ん体になってまったんやて。すまんな、剛速球を見せてやれんで。でもお前らはもう、戦争に取られることも無い。誰に憚る事無く、好きなだけ野球したらええ」と、オッチャンは寂し気に言い放った。

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敗戦から70年。

オッチャンが言った「戦争に取られることも無い」世の中は、果たしていつまで続くことだろう。

昭和がらくた文庫51話(2015.02.19新聞掲載)~「国会は茶番の芝屋(しばや)か?」

父は温厚で、いつも母の尻に敷かれっ放し。

だから陸軍歩兵部隊として、中国戦線を戦い抜いたとは、到底信じ難かった。

昭和の半ば。

白黒テレビの「コンバット」が始まると、って何もゴキブリ駆除の話しではない。

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それは第二次世界大戦下、米軍歩兵部隊の活躍を描いたテレビドラマである。

毎週欠かさず、父と食い入るように見入ったものだ。

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当時の男坊主の遊びと言えば、チャンバラゴッコに戦争ゴッコが相場。

友と戦争ゴッコに高じていた時の事だ。

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ヨッチャンが、野良犬に(ふくら)(はぎ)を噛まれる事件が勃発。

狂犬病を恐れ直ちに病院へ。

当時家の近所を根城にする野犬が3匹もいた。

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友を噛んだ一番獰猛(どうもう)な、通称「ボス」。

尻尾を丸めその後に付き従う「子分」。

そしていつもヨタヨタと、片足を引き摺る老犬の「爺」。

ぼくらはヨッチャンの仇討を誓い合い、お宮の境内で戦争ゴッコに高じていた。

するとヨタヨタと「爺」の姿が。

正に飛んで火に入る夏の虫ならぬ老犬。

まずは銀玉鉄砲の集中砲火。

玉が尽きるや、生垣の竹の棒を引っこ抜き、友の一人が見事に尻を打ち据えた。

キャイ~ン。

「こらっ!やめんか!」。

突然自転車の軋むブレーキ音が響き、野太い声が遮った。

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「あっ!」。

物凄い形相の父が現れ、「爺」を庇った。

「お前ら寄って集って、体の不自由な老犬を甚振(いたぶ)るとは何事だ!」と一喝。

敢え無くぼくらの戦意も喪失。

「爺」はヨタヨタ薮へと消え入った。

「噛み付いたのは、あの老犬やないやろ?罪の無いものに、そんな仕打したらあかん」。

いつの間にか温厚な父に戻っていた。

あの憤怒の形相は、負け戦で多くの戦友(とも)を失った父が、ぼくらを諭そうと演じた、一世一代の茶番劇だったのか。

父は老いた野犬の姿に、戦地を追われ逃げ惑った、若き日の自分の姿を、重ね合せたのかも知れぬ。

だがそんな茶番ならまだ許せよう。

これがもし、国の行く末を論ずる国会の場で、そんな慣れ合いの茶番が演じられているとしたら、この国の先行きは…。

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昭和がらくた文庫50話(2015.01.22新聞掲載)~「声なき声の、鬼は外!」

「鬼は外!福は内!」。

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昭和半ばの節分は、どこもかしこも似たり寄ったり。

日が落ちると建付けの悪い引き戸が一斉に開き、玄関先でその呪文を唱えると、ガラガラピッシャーンと音を蹴立て戸が閉まる。

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その度、引き戸の薄っぺらな磨りガラスが、悲鳴を上げたものだ。

「豆まきせんと、鬼が来るとあかん!」と、両親は毎年、説得力に欠ける説明を補った。

だが節分という、重要な行事であると、別段子ども心に疑問は生じなかった。

しかし物心が付くと、いくつかの疑問も芽生える。

何故鬼は一様に、角を生やして牙を剥き、虎の褌姿を定番とするのか?

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全国津々浦々、赤鬼、青鬼、緑鬼と、様々な色の鬼が描かれる。

ならば鬼も肌の色で、種族が異なるとでも言うのか、それとも太古からの伝承が、いつしか転じたのか?

物の本によれば、十二支の(うし)は、陰陽で陰とされ、鬼の住むのが鬼門。

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つまり丑寅の方角であり、鬼は牛(丑)の角と、虎(寅)の牙を生やし、虎の褌をするとか。

また「鬼」は、「陰(おん)」に由来。

目に見えぬ邪気を指し、「鬼」と呼んだそうだ。

そして姿の見えぬ(おぞ)ましき「隠人(おんにん)」が、「鬼」に変化したとも。

いずれにせよ、人智を超えた災害や病に飢饉など、人の力など到底及ばぬ恐ろしい現象を、鬼の所業と考えたのだろう。

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(いにしえ)の鬼も然ることながら、(うつつ)の世にも数多(あまた)の鬼が巣食う。

中でも不釣り合いな権力を手に入れ、我が物顔に身勝手極まりない解釈を、数で押し通そうとする腹黒い鬼には、ほとほと呆れ果てる。

70年前の敗戦を教訓に、二度と武力と言う拳は揮わぬと誓ったはずだ。

先の大戦で尊い犠牲を払った無辜(むこ)の命と、生き残った国民と世界に対し。

なのに平成の世に現れ出でた鬼たちは、その信念をも手前勝手に捻じ曲げると言うか!

どこか愛らしい伝説の鬼では無い、現世の邪悪な鬼たちに、今こそ声を限りに「鬼は外!鬼は外!」と、叫ぼうではないか!

せめて非力な民の声なき声であったにせよ。

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昭和がらくた文庫49話(2014.12.25新聞掲載)~「軍歌が昭和歌謡だった時代」

晩年父は、認知症に蝕まれた。

斑となった記憶の欠片を必死に紡ぎ出し、ぼくとの会話に勤めたものだ。

しかしぼくが息子であることを認識できるのも、日に日に少なくなった。

そんなある日の事だ。

「あっ、お母さんか?この投げ売り状態の、安すうなったクリスマスケーキでええんやな?」と、突然公衆電話の受話器を耳に当てる仕草で話し始めた。

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思い返せば昭和半ばのわが家では、クリスマスと言えば24日のイブではなく、25日の夜遅くと決まっていたものだ。

しかもクリスマスケーキは、父が会社帰りに買って来る、売れ残った投げ売り状態の、バタークリームのケーキと決まっていた。

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しかも聖火も讃美歌も無い。ポータブルのレコードプレーヤーから流れるのは、数少ないわが家にあるレコード盤の「小樽の女よ」か「軍歌」。

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もっぱら母が「小樽の女よ」で、父は「軍歌」専門。

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世辞にも、ロマンチックさなど欠片も無い。

それでも両親は、見よう見真似で異国の仕来りを取り入れ、他所の家に劣って倅に恥をかかすまいと、体裁を整えたのだろう。

「♪徐州徐州と人馬は進む♪」。

父は特別養護老人ホームの玄関に飾られた、クリスマスツリーを胡乱な眼つきで眺めながら、皺部く声で軍歌の一節を朗じた。

子どもの頃、クリスマスケーキの蝋燭を灯すと、必ず父が歌った歌である。

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不意に瞼が滲んだ。

戦争に蝕まれた、父の青春時代に思い至ったから。

たった一銭五厘の赤紙一枚で、貴重な青春を差し出すしか術の無かった世代。

しかも記憶に焼き付いた歌は、あの生々しい軍歌でしか無かったのかと。

喜怒哀楽全ての想いを綯い交ぜにして、父の世代の一介の兵士たちは、遠い遠い異国の地で、戦意を鼓舞する軍歌に想いを託すしか無かったのだ。

来年は、戦後70年の節目。

二度と戦意を鼓舞したような軍歌を、1億2千7百万の民が口にすることがあってはならぬ。

きっと70年以上前に、一世を風靡した、あの軍歌たちこそが、その時代の嘆かわしき昭和歌謡そのものであったのだから。

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昭和がらくた文庫48話(2014.11.27新聞掲載)~「霜焼けあかぎれモミジの手」

「今度のお休み、パパの新車で、モミジ狩りに行くんだって」。

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昭和の半ば、ぼくの周りで両親を「パパ、ママ」と、何の衒いも無く呼ぶのは、白い洋館のお嬢様ただ一人。

だがどう贔屓目に見てもその容姿からは、そんな良家の子女に見えず、皆こっそり笑い(ぐさ)にした。

とは言え「パパ、ママ」と呼ぶ、洒落た言葉の響きは、憧れでもあった。

一度でいいから、父ちゃん母ちゃんじゃなく、「パパ、ママ」と呼んで見たい。

そしたらいったい、どんな顔をするだろう?

日毎分不相応な想いが、頭を駆け巡った。

紅葉シーズンも酣となると、いよいよあかぎれや霜焼けとの戦いが始まる。

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とは言え昭和の半ば。

手頃なハンドクリームやリップも無く、ズック靴の中の靴下は、それこそ穴だらけ。

それでも木枯らしに負けてなるものかと、半ズボンで駆けずり回った。

今日こそは、憧れの台詞を口にするんだ!

そう心に決め、夕日を背負うように我が家へと急いだ。

「ねぇ、…あの…」。

「何やのこの子は!この糞忙しい時に、ボソボソ言っとらんと、さっさとハッキリ言わんかーっ!」。

たったの一言で、気勢は削がれた。

「あの…マ…マ…」。

「何がマンマや!そんな幼児言葉で強請(ねだ)っても、晩御飯はまだ先や!えっ、何て?」。

「ぼくも…モミジ狩りに行って見たい…」。

消え入りそうな声で、やっと胸の内を吐き出した。

「モミジ狩りってか。でもなあ、お父ちゃん、この所残業続きで休みも無いでなあ」。

かじかんだ掌に息を吹きかけ温めていると、母が急にぼくの腕首を掴んだ。

「あったわ、ここに!可愛らしい、霜焼けあかぎれモミジの手!」と、ぼくの掌を開いた。

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そんな言葉一つで、ぼくの願いは空しく煙に巻かれる。

だがその時の母の掌は、ぼくなんかよりもずっと真っ赤にあかぎれ、血も滲みカサカサだった。

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冬が間近の紅葉の頃になると、あの日の母の手が思い出され、ついこの胸が熱くなる。

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昭和がらくた文庫47話(2014.10.23新聞掲載)~「草野球ならぬ草サッカー」

プロ野球シーズンが終わると、昭和半ばの腕白坊主たちの草野球もシーズン・オフへ。

すると代わりに登場するのが、冬場のサッカーと決まっていた。

そうした背景には、小学校の野球部も、秋から春まで部員のトレーニングを兼ね、俄かサッカー部となったのと、体育の授業でももっぱらサッカーが取り入れられたからだ。

今ほど豊かで無かった昭和半ばの時代。

腕白どもは、年がら年中、擦り切れた半ズボンに、真冬でも精々が、毛玉だらけの長袖セーター姿。

剥き出しの膝っ小僧は、冬の寒さで白い粉が吹いていた。

故にそんな身なりでは、サッカーに比べ運動量の少ない野球じゃ、寒くて身が持たぬ。

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だから絶えず走り続けねばならぬサッカーが、寒さ凌ぎに大いに役立った。

とは言え、草野球ですら満足に1チーム9人が集まらぬのに、サッカーの11人が容易に集まろうはずも無い。

だから草野球ならぬ草サッカーも、それは名ばかり。

1チーム2~3人も集まれば御の字。

そして缶蹴りに毛の生えたような、サッカーの真似事でお茶を濁す。

しかも野球道具も満足に揃わぬように、本物のサッカーボールなど、何処にも有ろうはずなどない。

となれば、無い知恵を絞り代用品を漁るしか手立てはない。

「姉ちゃんがプールに持って行く、ビーチボールなんてどう?」と、友の一人が得意満面で家へと向かった。

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いざ、西瓜柄したビーチボールでキックオフ。

するとサッカーボールを遥かに凌ぐ大きさで、蹴りやすいし、おまけにどんなに強く蹴ったシュートでも、山なりにフワ~リ。

さらにその度、ボールの中の鈴がチリリ~ン。

まるですべてがスローモーションで、誰もがサッカー王、ペレになり切ったものだった。

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しかし白熱したドリブルの末、ビーチボールは敢え無く縮でしまう。

「ああっ、どうしよう!姉ちゃんに叱られる!」と、友の顔色は見る見る青ざめた。

まるでワールドカップのピッチを舞った、サムライブルーのように。

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昭和がらくた文庫46話(2014.9.25新聞掲載)~「茶の間の野球拳」

♪野球すーるなら こういう具合にしやしゃんせ……アウト!セーフ!よよいのよい!ジャンケンポン♪

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昭和半ば、秋の長雨の頃になると、草野球も雨天中止。

しかしそんなことで値を上げたら、悪ガキの名折れとばかりに、わが家の茶の間に集まった。

そして口々にこんなお座敷唄を口ずさみ、野球拳遊びに講じたもの。

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ジャンケンに負ける度、薄汚れたシャツや半ズボンを脱ぎ捨て、誰もがパンツ一丁。

得てしてそんな頃合いになると、不意にお母ちゃんが現れ、それはそれは一際大きな雷を落とされたもの。

「そんなエッチな遊び、どこで覚えてきたんや!」と。

近所に町内一と評判の美人、独り暮らしの中年女性がいた。

いつも和服姿で凛とした雰囲気を醸し出し、周りからは「お師匠さん」と親しまれ一目置かれていた。

師匠の家は、こじんまりした数寄屋風の平屋。

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坪庭の手入れも行き届き、時折り三味の音が聞こえた。

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母の手伝いで回覧板を届けるのが、当時のぼくの何よりの愉しみ。

だって必ず「これ頂物やけど、良かったらお食べ」と、懐紙に包んだ駄賃をいただけたのだから。

ある日家路の途中、学習塾へと向かう同級のガリ勉野郎と出くわした。

「何大事そうに抱えてるの?」。

「お師匠さんからいただいたお駄賃さ」とぼく。

「お師匠さん…だって?ああ!あの花街上りのお妾さん?母さんがいつもそう呼んでる」と。

家で初めて耳にした、「花街」と「お妾」について母に問うた。

「何やて!誰がお師匠さんを、お妾さん呼ばわりしたって!師匠はその昔、売れっ子の芸妓さんだったのよ。ある日のお座敷で、学徒出陣される学生さんの壮行会があり、その学生さんとあっと言う間に恋仲へ。出征までの限られたわずかな一時。二人だけで将来の契りを結んだそうよ。でも南方で戦死され、師匠は独り身で三味線を教え、未だにその方の菩提を弔ってらっゃるの!それをなんて言い草!『芸が女を支える』と書くから芸妓なわけで、それを貫き、気高く生きる師匠によくも!」。

同時代を生きた女として、母の憤りたるや、とても尋常なものではなかった。

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昭和がらくた文庫45話(2014.8.28新聞掲載)~「三角ベースの野球ゴッコ」

昭和半ばの子どもたちの野球は、本格的な一塁二塁三塁本塁のダイヤモンド型ではなく、二塁の無い一塁三塁本塁の三角ベースだった。

参考イメージ

だから1チーム9人の「本格的な野球」ではなく、最低1チーム3人とバットにゴムボールさえあれば、いつでも「野球ゴッコ」の始まり。

つまり守備側は、一塁と三塁に投手の3人。

当然一塁手と三塁手は、外野も兼務することになる。

しかも捕手がいないので、打者はボールを見送ったり空振りすると、自ら捕りに走って投手に返球すると言うお粗末さ。

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出塁すると盗塁なんてやりたい放題。

だって投手の牽制球で刺されることなどまず有り得ないのだから。

しかしそれが災いし、打者がわざとボールを空振りし、本塁後方へとボールが転がる隙に、振り逃げのランニングホームランを決める荒技も飛び出した。

いずれにせよ素手がグローブ代わりで、投手は下からの女投げが基本だ。

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「もう一人おったら5人やで、野球出来るのに」。

その日は人数合わせに手こずっていた。

さすがに1チーム2名では、如何ともしがたい。

あと1人いれば、敵味方なく順に交代で入れ替わり、不足分を補えば済む。

「あんたら、面子が足らんのやろ!わたしが入ったろか?」。

そう言って、縄跳びに講じていた一人の少女が現れた。

まるで魔法使いサリーに登場する、男勝りで姐御肌の「よし子ちゃん」そっくりの同級生のK子ちゃんだ。

「お前、バット振ったことあるの?」。

「そんなもん、その棒っ切れ振り回しゃええだけやろ!チョロイチョロイ!お茶の子さいさいや」。

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ともかく、背に腹代えられぬ思いで、K子ちゃんを入れた5人で野球ゴッコが始まった。

「さあK子、打てるものなら打って見ろ!」と、ぼくが女投げで投じた第一球。

K子ちゃんは軽々とバットを振り回し、ボールはあっと言う間に、超特大ホームラン。

誇らしげな顔のK子ちゃんとは裏腹に、ぼくらは日が暮れるまで、たった一つきりのボール探しに躍起になったものだ。

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昭和がらくた文庫44話(2014.7.24新聞掲載)~「富貴貴賤なく、夜空を焦せ!夏花火」

なによりまずは、ぼくの「夏花火」をお聴きいただければ幸いです。

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軒の打ち水夕涼み 君と浴衣で縁に坐す

チリリと鳴った風鈴に 川風揺らす洗い髪

盥に浮ぶ夏の星 冷えたラムネに西瓜(すいか)(だま)

線香花火揺れる()玉が 落ちぬ様にと息止めた

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一学期の終業式が終わると、誰もが通学路の畦道を、息せき切って駆け出したもの。

そして昭和半ばの暑い暑い、夏休みのスタートラインへとぼくらは向かった。

しかしそこには「通信簿のご開陳」と言う、大きな壁が立ちはだかっていたものである。

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からっきし出来の悪い成績結果を曝け出し、ひとしきり母の気が済むまで、お小言を賜らねばならぬと言う儀式だ。

しかしそれさえ殊勝な面持ちを取り繕い、右の耳から左の耳へと、聞き流してしまいさえすれば、後は誰が何と言おうが、もうこっちのもの!

天下無敵の夏休みの始まりと相成った。

昆虫採集に川遊びや海水浴。

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何と言っても最大の楽しみは、陽が暮れてからの花火だった。

一日にせいぜい5本とか、母から割り当てられた線香花火を持ち寄り、友と車座になって順に火を点し、儚い火花を散らながら、やがて消え入る火玉を、飽きもせず眺めていた遠い日。

隣町で大きな花火大会があると聞き付ければと、父の大人用自転車を拝借し、三角乗りで跨り会場を目指した。

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友と一緒に、打ち上げ場所の出来るだけ近くまで、人波を掻き分け掻き分け進んだものだ。

なぜなら、打ち上げ場所から離れていると、大人たちの人垣が邪魔して、花火が見られないからだ。

しかし打ち上げ場所の近くまで行けば、どんなに大人たちの人垣が出来ていようが、誰にも邪魔されることも無い。

打ち上げられ、夜空の闇へと消え入る瞬間まで、小さな子どもの背丈でも鮮明に眺められた。

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だって花火は頭上へと一気に舞い上がるから、どれだけの人混みであろうが、見上げる夜空だけは、誰にも邪魔されず、何人にも平等に何処までも果てしなく開けているのだから。

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