昭和がらくた文庫69話(2016.08.25新聞掲載)~「銀幕の恋人」

ベランダで盆の迎え火を焚き、両親を迎えた。

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何故か盆になると毎年のことのように、両親の古めかしいアルバムや手紙を引っ張り出し、酒のあてに整理を始めるのが恒例。

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何より冥界と(うつつ)の世が繋がる、盆の時期ならではだ。

「あれっ?」。

母の娘時代の、白黒写真のアルバムを繰っていた時のこと。

名刺サイズの写真が、黄ばんだ台紙に、三角コーナーで写真の四隅を、挟んで止められていた。

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しかし糊の部分が劣化し、一カ所外れかけている。

糊付けでもするかと、写真を外してビックリ!

若かりし日の母の写真の下から、もう一枚、バストショットのダンディーな、背広姿の二枚目が顔を出したではないか!

明らかにそれは、若かりし日の父ではない。

まるで母の写真で覆うように、二枚目の男性の写真を、母がこっそり隠していたとしか考えようがない。

「ま・さ・か…!」。

あらぬ考えが一瞬脳裏を過ぎった。

そうなるともう、真実を突き止めねば、夜もおちおち眠れない。

意を決し二枚目男の写真を手に取り、矯めつ眇めつ眺めた。

やはり、見覚えなどない。

はてさてと、写真を裏返しまたもやビックリ!

写真の裏側には、見覚えのある母の癖字が。

「後宮春樹役、佐田啓二、昭和28年」と記されていた。

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何と、「松竹戦後の三羽烏」と謳われた、佐田啓二その人の写真であったのだ。

調べると、後宮春樹とは、昭和28年公開の映画「君の名は」の主人公。

岸恵子扮する氏家真知子の相手役の役名だと知った。

昭和28年と言えば、母は脚の障害を苦にして、結婚を諦めかけていた頃と重なる。

その3年後、父と巡り合い結ばれた。

もしや母は、この映画に己の境遇を重ね合わせたのだろうか?

未だ見ぬ母にとっての「春樹」との出逢いに、一縷(いちる)の望みを託して。

佐田のブロマイドは、母にとっての護符だったのかも知れぬ。

佐田と父とでは、到底比べ様も無いが、事実その証として、このぼくがこうして、生を賜ったのだから。

ともあれ両親に献杯!

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昭和がらくた文庫68話(2016.07.28新聞掲載)~「儚き命の夏花火」

長良川国際会議場 大ホールでのLiveより

打ち上げ花火を眺める度、その都度思い出す光景がある。

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母を亡くし10年ほど経った頃であったろうか?

三重県松阪市の西の外れにある、従兄妹の家の縁側での事だ。

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年老いた叔母と二人、蜩がカナカナカナと鳴く声を聴いていた。

この従兄妹の家で小中学生のころ、夏休みの大半を家族同様に過ごしたものだ。

連日明けても暮れても、従兄妹の姉に付き纏い、虫捕りや川遊びに高じた。

だから叔母は夏休みの間、まさにぼくにとっての母替わりだったのだ。

「ちょっと、ミノ君。いつまでも寝とらんと、鰹節削っといてぇな」と、台所から叔母の声がする。

ぼくは寝ぼけまなこのまま、鰹節削り器の木箱の引き出しを開け、ちびた鉛筆ほどの鰹節を取り出す。

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そして鉋をひっくり返したような刃にあてがい、恐る恐るカリカリと音を立て乍ら削り始める。

すると従兄妹の姉に向かって「ミチコや。よう見といてな!大事な預かりもんのミノ君に、怪我させたらかなんで」と、毎朝のように叔母は、決まり文句を口にした。

「あの頃のあんたは、ちっとも宿題せやんと、朝から晩まで、ミチコと川入ってばっかりやったなあ」。

懐かしそうに叔母がつぶやいた。

西の山の端に夕日が傾く。

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ふと眺めた叔母の横顔には、いつの間にか年輪のような皺が、深く刻み込まれていた。

「それにしても和ちゃんは、ええ時に死んで幸せやったわ。あたしらなんて足腰も衰え、耳もだんだん聞こえやんようになって来るし、もう目もよう見えやんし」。

和ちゃんとは、64歳でこの世を去ったぼくの母のことだ。

「いっそ夏の夜を焦がす、あの花火の様に、美しい姿のまんま、消え入った方が幸せやったんかも知れやん。この歳まで生きて来ると、つくづくそう思えてならんのやさ」。

叔母は燃え尽きようとする黄昏を見つめながら、まるで独り言のようにつぶやいた。

確かに然り。

花火も黄昏も、燃え尽きるその寸前が、何より最も美しい。

叔母の言葉に、天命とやらの戯れを感じずにはいられなかった。

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昭和がらくた文庫67話(2016.06.23新聞掲載)~「エヘデラベェ」

「かっちゃは、なぁ~に、えへでらべぇ?(お母ちゃんは、何を怒っとるの?)」。

もしぼくが、雪深い南部訛りの土地で生まれ育っていたら、こんな言葉を口にしながら、お母ちゃんのご機嫌を伺ったことだろう。

「オカちゃん、ほら蝉の声が聞こえるよ」。

青森県十和田市の観光大使を務める、㈱平野紙器代表のクニちゃんこと、平野社長のご案内で、6月4日に十和田市を訪ねた。

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ミョーキン ミョーキン ミューケケケ

初めて耳にする蝉の声だ。

確かに奥入瀬渓谷の、新緑の森全体に木霊している。

しかし、とは言えその日はまだ6月4日。

そんな馬鹿な?

まるで狐に抓まれた心境だ。

一方のクニちゃんときたひにゃあ、昭和半ばの蝉取りに明け暮れる少年の様な眼差しで、渓流脇の小径を上流へと向かう。

この鳴き声の主は、体長3~4センチでオレンジ色をしたエゾハルゼミ。

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この奥入瀬渓谷の地で、5~6月に大発生するそうだ。

さすがに十和田八幡平国立公園の中だけあって、ブナやコナラにクヌギなどの広葉樹が大きく枝を広げ、原生林に暮らす大小様々な生物を育くむ。

全くもって生き物たちのサンクチュアリである。

だからここには、タモを片手に蝉を追うような、昭和の腕白どもは一人もいない。

この聖域に一歩踏み込むと、誰もが皆そっと息を継ぐ。

そしてこの森に棲まう動植物すべてと、森に()()す神々に、畏敬の念を抱く。

つまり外界を棲み家とするわれわれ人間は、束の間この大自然に抱かれながら、身を寄り添わせていただいているに他ならない。

十和田湖の子ノ口から焼山までの約14kmを下る奥入瀬渓流は、太古の浪漫が織り成す、陸奥(みちのく)きってのトレッキングコースだ。

参考資料

残念ながらぼくは、TVのロケでもあり、バーテンダー姿の異様さ。

デイパックを背にしたトレッカー達の中にあって、さぞや浮いていただろう。

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でもまっ、それもいいべな!

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昭和がらくた文庫66話(2016.05.26新聞掲載)~「婆ちゃんの下呂膏」

「さっきから、そげん何をジロジロ見とうか、この子は?」。

婆ちゃんは銭湯の脱衣場で、ぼくを睨みつけた。

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「だって…」。

素っ裸のまま着物をたたみ、脱衣籠にきちんと収める婆ちゃんの肩には、これまで目にしたことも無い、真っ黒な膏薬がベッタリ貼り付いていた。

参考資料

「そげんとこいで、ボーッとしとらんと、さっさとこよ剥がしとくれ」。

婆ちゃんは背を向け、脱衣場の床に両膝を付く。

ぼくは恐る恐る、その真っ黒な膏薬を、婆ちゃんの肩から剥ぎ取った。

すると指先には、ヌメヌメとした不快な触感が伝わり、おまけに妙な臭いが鼻先に漂う。

それでも何とか膏薬を剥ぎ取ったものの、婆ちゃんの肩にはくっきりと、四角い真っ黒な縁取りが幾重にも重なっていた。

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母方の婆ちゃんは、生まれも育ちも鹿児島。

押しも押されもせぬ生粋の薩摩おごじょそのものだった。

ぼくが生まれて間もない頃、名古屋で暮らす末息子、つまり母の末の弟を頼り鹿児島を出たそうだ。

だから当時、唯一の孫であったぼくに逢いに、わが家へと足蹴く通っていた。

そんな幼い日の事。

恐らく両親が不在だったのだろう。

婆ちゃんの真っ黒な膏薬に驚いたのは、初めて手を引かれ二人っきりで、近所の銭湯に出掛けた時の事。

婆ちゃんの肩に残る、真っ黒な縁取りに、幼いぼくの目は釘付けになった。

「みんな歳食うと、体もガタが来うでな。ほれっ、見てみい。あっちもこっちも、みんな似たい寄ったいや」。

婆ちゃんは脱衣場の客を見渡した。

ぼくも婆ちゃんの目線を追う。

すると脱衣場に居合わせた、裸んぼうのお婆ちゃん達の二人に一人の肩には、家の婆ちゃん同様に真っ黒な膏薬の縁取りが!

「お前のお父ちゃんが、こん前の慰安旅行の時に、お土産としてこぅて来てくれた下呂膏。これがまたよう効いた。わしもいっど下呂の銘泉に、ゆったりと浸かりたいもんや」。

参考資料

婆ちゃんごめんね。

婆ちゃんがもう少し長生きしてくれたら、下呂温泉に連れて行ってやれたろうに。

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昭和がらくた文庫65話(2016.04.21新聞掲載)~「上野さん!おきなやの鮎菓子、焼き上がりますよ!」

「春になったら、奥飛騨でゆっくりと湯浴みして、高山の古い町並みでも漫ろ歩き、帰りがけに岐阜市美殿町のおきなや総本舗に立ち寄り、焼き立ての鮎菓子食べたいなあ」。

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これが最後に届いたメールとなった。

2016年2月29日に、79歳でこの世に暇乞いされた、朝日新聞社四代目元社主の上野尚一さん。

入院先の病床から、ぼく宛てにお送り下さった、携帯メールである。

縁あってぼくは、上野さんの晩年、今を遡る10年ほど前から、岐阜県内各地をご一緒に旅して周った。

しかもそのいずれもは、時代の進化の影に消え入ろうとする、手仕事の職人ばかりを訪ねる旅。

「仙人。今度は、君の本に書かれている、高山の銅職人を訪ねたい」と言った調子で。

仙人とは、在り難くも上野さんから賜った、ぼくの渾名だ。

何故(なにゆえ)仙人かと言うと、当時ぼくは毎日新聞で毎週「天職一芸」と言うコラムを連載しており、仙人ならぬ千人の「(てん)職人(しょくびと)」を追って取材していたからである。

上野さんは、拙著「百人の天職一芸(風媒社刊)」「東海の天職一芸①~③(ゆいぽおと刊)」を熟読され、次なる岐阜への旅を計画されたものだ。

一昨年。

高山からの帰路、郡上へ抜けるせせらぎ街道。

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新緑のトンネルを走り抜けながら、あまりの清々しさに、ぶらりと道の駅に立ち寄った。

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「美味いなあ!」。

揚げたての飛騨牛コロッケを頬張り、上野さんが唸った。

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「こんな風にベンチに腰掛け、コロッケに舌鼓を打つなんて、子どもの頃以来だよ」。

懐かしそうに、子どものような目で、遠くの山並みを眺めた。

「こんな澄んだ空気の中でいただくコロッケは、何より美味しいご馳走だよ」。

たかだか1個200円にも満たぬコロッケ。

ぼくから見上げれば、雲の上のそのまた上の、近寄りがたい名家のお方。

しかしその時ばかりは、地位も肩書も脱ぎ捨て、何一つ俗世のしがらみの無かった、子どもの頃と同じ一瞬を、堪能されたのかも知れぬ。

間もなく上野さんがこよなく愛した、おきなや総本舗の鮎菓子が、今年も販売される。

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そしたら上野さんの遺影に、いの一番で焼き立てをお供えするとしよう。

合掌

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昭和がらくた文庫62話(2016.01.28新聞掲載)~「ふたりの長良川」

雪に埋もれた高鷲 夫婦滝で誓った

ふたり寄り添い生きてゆこうと 舞い上がる白鳥(しろとり)に託した

夜を明かして踊れば 八幡の城下町

このまま何処までも あなたとなら

喜びと哀しみ 幸せと不幸せ

ふたり手をとり美濃路を下る 長良の鮎がその身を任すように

長良橋金華橋 互いをただ信じて

この命果てるまで あなたと伴に

ふたり生きた証しが この川を遡る

あとは海へ還ろう 流れるままに

これはぼくが4年前(2012)に作詞作曲を手掛けた「ふたりの長良川」の歌詞。

TV番組「夫婦善哉・金婚庵」の主題歌だ。

ぼくと女性タレントが扮するぜんざい屋夫婦の店に、県内各地の金婚式を迎えるご夫婦が客として来店し、長きに渡る夫婦生活の悲喜こもごもの人情噺を伺う番組だった。

その主題歌ならばと、ぼくは岐阜県人の誇りである、清流長良川と、そこに生きる鮎の一生に、夫婦の生涯を重ね合わせようと考えた。

そして去年暮れ、12月15日にイタリアから吉報が舞い込んだ。

国際連合食糧農業機関(FAO)で、「清流長良川の鮎」がついに、世界農業遺産として認定されたという。

つまり岐阜県の「長良川」と、「長良川の鮎」を世界が認めた証しである。

長良川流域に暮らす方は元より、全県民にとってこれ程誇らしい事はない。

思えば両親がまだ、健在だった32年前。

父は前頭葉動脈瘤破裂から、2度の手術を経て、奇跡的に麻痺も残らず死の淵から生還。

ぼくはなけなしの金をかき集め、両親をささやかな旅行へと連れ出した。

長良川流域の民宿へ。

「生きてまた、こんな旨い鮎の塩焼きが食えるとは…」と漏らした、父の嬉し泣きが、そのニュースに触れた瞬間、鮮やかに蘇った。

おめでとう。

母なる長良川。

そして、美しき鮎よ。

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昭和がらくた文庫61話(2015.12.27新聞掲載)~「年忘れ!世紀越えカリーパーティー」

大晦日から新年のご来迎を、インドの地で迎えた。

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二十世紀が二十一世紀に変わるその瞬間。

しかも釈迦成道の地、インド・ビハール州ブッダガヤに、新聞の取材で訪ねた2000年の大晦日。

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それを遡る20年前。

ブッダの里にある日本寺の青年駐在僧が、2年の任期を終えた。

彼は帰国に際し、世話になった貧しいマスティープールの村人らに、お礼としてカレーを振舞った。

それから20年。

当時子供の頃に、彼が振舞ったカレーを食べたという少年が大人となり、ブッダの里の土地を彼に寄進したいと願い出た。

そこに寺や宿坊を建て、もう一度子供の頃のような、夜通し飲んで食べてのカリーパーティーを開いてくれないかと。

1杯のカレーが紡いだ不思議な縁。

寺院建築が始まりカリーテンプルと名付けられた。

その竣工披露を兼ねた、世紀越えのカリーパーティーの、取材に出向いたというわけだ。

大晦日のこの夜、チキンカレーが無料で振舞われると聞き付け、隣村からも約千人近くの老若男女が、カリーテンプルを取り囲んだ。

闇に浮かぶ群衆は、無秩序に道路へと鈴なり。

開場時の混乱を想うと心が騒いだ。

そんな心配をよそに、開場となった。

するとどうしたことか。

中庭には300人ほどが整然と列を作り、村人たちが地べたに座り込み、バナナの葉の皿に、カレーが盛り付けられるのを、嬉々として待ち構えているではないか。

しかもいずれも、女子供と老人ばかり。

30分ほどで客が入れ替わった。

するとまたしても、女子供と老人ばかりである。

入口に(たむろ)し焚き火に当たる男に問うた。

すると「女子供や老人に先を譲るのは、当たり前だろ?元気な男共は後でいい」と。

入場整理券も無ければ、物々しい警備員もいない。

だが我先にと先を争う混乱など、何一つ無かった。

ヒンドゥー教徒にとって釈迦は、9番目の神とか。

一見貧しそうに思えたインドの村人たち。

ところがどっこい、ぼくなんぞ足元にも及ばぬほど、慈悲深く心豊かで偉大であった。

村人たちの年忘れ。

世紀越えカリーパーティーは、21世紀のご来迎まで続いた。

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昭和がらくた文庫60話(2015.10.22新聞掲載)~「新聞配達の符丁(ふちょう)」

-早朝の住宅街。

(おびただ)しい数の赤色灯。

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規制線の向こうには、自転車が倒れ新聞が散乱。

傍らには、腹から血を流した男が、突っ伏したままだ。

「山さん。これ見てください!」。

若い刑事がベテラン刑事を呼び止めた。

そこには血で書かれた「ト」のような文字とも、矢印にも見える不思議な模様が描かれ、右上に「・」のような印。

「ダイイング・メッセージか?」。

「ガイシャの身元は、毎朝新聞販売店の配達員、奥田健太32歳」。―

これは今から15年前。

TVキー局のドラマプロデューサーに紹介されたプロダクションで、先輩シナリオライターの名前を借り、サスペンス物のシナリオを書いていた時代の、ネタ帳の抜粋だ。

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それにしても当時は、朝から晩まで明けても暮れても、人の殺し方と犯行の動機、そして謎解きばかりを考えていたものである。

そんな頃、少しでも生活の足しになればと、新聞配達の見習いを志願。

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早速先輩の後から配達先を巡った。

先輩によれば、配達ルートを頭に叩き込むまでは無給とか。

そう聞かされ、早やくもその過酷さに初日から挫折。

その時のことだ。先輩が手にしたメモ帳に、不思議な符丁が配達順に、描かれている事に気付いたのは。

参考資料

それが先の奇妙な文字だ。

片仮名の「ト」のやや右上に「・」が一つ。

つまり一軒先の、右隣の家を指すものである。

二軒先なら「・・」、左側の二軒先なら「ト」の左上に「・・」。

符丁が記された手帳を、順に手繰りながら巡れば、その区域の配達が完了すると言う優れ物。

符丁を手掛かりに、主人公が謎を解き明かし犯人を追い詰める、そんな設定だった。

確かに警察官や新聞記者を始め、それぞれの業種において様々な符丁が存在している。

ましてや一つ屋根の下で暮らす家族にも、他人では伺い知る事の出来ぬ、その家族だけの、府庁ならぬ家言葉が存在する。

しかしそれこそが、家族が家族である証かも知れない。

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昭和がらくた文庫59話(2015.10.22新聞掲載)~「秋刀魚を陰膳に亡き父に献杯」

この時期、赤提灯の縄暖簾から、秋刀魚の焦げる匂いが漂って来ると、つい後ろ髪を引かれ立ち止まってしまう。

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「ただいま~(小声)!」。

玄関の引き戸をこっそり開け、(あが)(がまち)にランドセルを放り出し、グローブ片手に一目散に広場へ駈け出そうとすると、どこで見張っていたものか、母に決まって呼び留められた。

「野球しに行ってもええけど、お父ちゃんが帰って来るまでに、練炭の火を熾さなかんで!」と。

さすがにこの時期は、草野球に高じる友とて、状況は皆同じ。

きっと母親に、そんな台詞を浴びせられていたに違いない。

だから日が暮れかけようものなら、皆一斉に家路を急いだもの。

パタパタパタ。

()れ団扇で七輪の風窓を仰ぐ音が、向こう三軒両隣の玄関先で一斉に鳴り出す。

たいがい七輪の火熾しは、どこも概ね子どもの仕事。

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上手く火が熾せず困り果てようものなら、いつしか近所のご隠居が傍らに屈み込み手を差し伸べてくれたもの。

そんな穏やかな光景こそが、昭和半ばの釣瓶落としに暮れ行く、秋の宵でもあった。

さて庶民にとって無くてはならぬ、秋の味覚の王者の秋刀魚。

三重の方言では「サイロ」、さらに少し下った和歌山では、「サイラ(佐伊羅魚)」と、古来より呼ばれる。

黒潮と共に北上し、北海道や三陸沖で水揚げされる、脂も滴るほどの秋刀魚が好もしい。

一方、親潮に乗り産卵し南下する、脂も落ち痩せ衰えた戻り秋刀魚の朝獲れは、「かんぴんたん(痩せて腹も空っぽ)」の丸干しや、サンマ寿司に最適である。

ところで秋刀魚の学術名は、「Cololabis saira(コロラビス・サイラ)」。

三重の「サイロ」や、和歌山の「サイラ(佐伊羅魚)」に由来するものとか。

それ故、漁師の漁法も異なるそうだ。

昭和半ば。鯉口シャツにステテコ姿の父が、七輪で秋刀魚を焼く姿がどうにも偲ばれてならない。

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ならば今宵は、父の好物だった秋刀魚でも焼いて、それを肴に父を偲び一献傾けるとするか。

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昭和がらくた文庫58話(2015.09.24新聞掲載)~「哀しみもケセラセラ」

「♪ケセラセラなるようになる♪」。

この歌をよく母は口ずさんでいた。

ドリスデイの名曲「ケセラセラ」だ。

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日本では昭和31年に、ペギー葉山がカバーし、一躍ヒットとなった。

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「ケセラセラ」とは、「なるようになる」を意味するスペイン語と言われたが、その実スペイン語圏に、そんな言葉は見当たらないとか。

しかし「ケセラセラ」は、その呆気らかんとした語感の響きの良さからも、「なるようになる」と言う能天気さが、まだ戦後の傷も癒えぬ時代に、受け容れられたのではないか?

ともかく母は、哀しい事や辛い時、心が塞ぎ込み折れそうになる度、自らを奮い立たせんと、呪文のように口ずさんだのだろう。

今だから母の思いが痛いほど分かる。

そもそも歌は、心身に多大な影響を及ぼすとされる。

英国の神経学者、オリバー・サックスが記し、後にロバート・デニーロ主演で映画化もされた「レナードの朝」でも、それらの現象が描写されていた。

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嗜眠(しみん)(せい)脳炎(のうえん)(常に睡眠状態に陥る状態)の患者でも、音楽が鳴っている間は、ダンスに興じたり、歌ったり出来るものの、音楽が鳴り止むとその途端、まるで魔法から覚めたように力も消え入るとか。

一方「歌う」の語源は、民俗学者にして国文学者で、国語学者でもあった折口信夫によれば「うった(訴)ふ」なのだそうだ。

歌と言う行為には、相手に伝える内容があるからこそ、「うったふ→うった→うた」と変化したと。

また、国文学者の徳江元(とくえげん)(せい)によれば「うた」とは、言霊(ことだま)(言葉の持つ霊力=(こと)())により、相手の魂に影響を与えると言う。

つまり相手の魂を激しく揺さぶる、「打つ」に由来するのだそうだ。

なるほど歌に込められた言の葉には、魂が宿る故、聴く者の心を鷲掴みにして離さなぬ。

だからか、母が「おー、よしよし」と腹や背を摩ってくれた、あの呪文の言葉に似た、絶大な癒しの効果があるのは。

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