昭和がらくた文庫81話(2017.08.24新聞掲載)~「水都大垣が育む生麩の柔肌」

「カズ君の誕生祝いに、よう来てくれたなぁ。たぁ~んと食べてや!」。

中学1年のある日。

同級生のカズ君のお母さんが、見たことも無いすき焼き用の大きな牛肉を、手際よく炒め煮始めた。

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わが家のすき焼きと言ったら、脂身が勝る細切れ肉がやっと。

正直、羨ましくてならなかった。

そして恐る恐る、お肉を口へと運ぶ。

すぐさま、言いようのない後ろめたさに(さいな)まれた。

ぼくだけこんな上等な肉にあり付けたことを、両親に何と詫びれば善いものかと。

次におばちゃんは、これまで目にした事も無い、表面がギザギサしていて、拍子切りになった食材を、まるでお肉の様に炒め煮始めた。

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「この子、お肉が嫌いなんやて。好物はこのカクフやわ」と、おばちゃん。

カズ君が旨そうに食べるカクフを眺めていると、それがどうにも気になる。

まるでぼくの心を見透かしたかのように、カズ君が「これも食べていいよ!」と。

お言葉に甘え、さっそく口へと運ぶ。

そっと目を(つむ)り噛み締める。

すると確かに、お肉の様な食感ではないか!

しかも程よくすき焼きの味が染み、得も言われぬ味がした。

あまりの美味しさに惹かれ、高級な牛肉には目もくれず、カクフばかりを奪い合ったほど。

母は鹿児島、父は三重の出。

故に尾張と美濃地方に根付いた、角麩の食文化には無縁で、一度も食卓に上ったためしも無かった。

わが家に戻り母に話すと、「へぇー、あの角麩って、そうやって使ったらええのか?あれやったら値打ちやで、いつでも()うて来たるわ」と。

しかしそれが仇に!

それで無くとも、僅かしか無かった細切れ肉の量が減らされ、牛肉とは比べ物にならぬ安さの角麩が、代用品として堂々と罷り通ることに。

それがきっかけで、美濃と尾張に根付いた麩の恵みを知った。

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清流長良の恩恵に(あずか)る、水都大垣の井戸水。

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通年14~15℃の地下水に晒された、麩屋惣の生麩の肌触りは、まさしく天下一。

美濃と尾張に麩屋は数あれど。

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昭和がらくた文庫80話(2017.07.27新聞掲載)~「小京都から、飛騨の都・高山へ」

「ただいま~っ!」。

「あら、お帰り~っ!」。

そう言っていつも出迎えてくれるのは、彼岸の岸の向こうに(おわ)()す、母であろうはずもない。

高山市国分寺通りの、市内の中心部。

軒の打ち水が似合う、日本情緒たっぷりな旅館「田邉」の女将、田邉晶子さんである。

もうかれこれ、15年ほど前になろうか。

某新聞社で連載した、「天職一芸」で、確か3人目の天職人として、飛び込み取材でお邪魔した、その時の女将だ。

以来、女将やご主人様に、早くに亡くした両親の面影を、ぼくはついつい重ねた。

とは言えご両人ともに、ぼくの両親よりは、遥かにお若く、お叱りを受けそうなものだが。

そんな(えにし)で、飛騨へと旅する度、さもありなんとわが家のごとく、振舞っている次第である。

今や世界中の観光客で賑わう、飛騨高山の老舗旅館。

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女将やご主人様ばかりか、すっかり顔見知りになった、仲居さんまでもが、「お帰り~っ」と、何の(てら)いもなく自然体で、出迎えてくれるのだから嬉しい。

しかしそれは、なにもぼくだけにではない。

世界中から飛騨高山へと訪れる、すべての旅行者にも同様だ。

旅館「田邉」には、取り分け西欧からのお客様が多い。

しかし、どんなに言葉が違えど、客をもてなす心に国境など有ろうはずもない。

例え肌の色や言語が異なろうとも、相手の想いさえ慮れば、自ずと以心伝心である。

日本人のぼくでさえ、ここを一夜の旅の宿としたことを、誇らしく思う。

だから何千何万キロも遥か彼方の地から、ここ岐阜県へ、また飛騨高山へとおいでになる、西欧からのゲストたちにすれば、きっとぼく以上に、そう感じるに違いない。

それが証拠に、彼らは旅館「田邉」の居心地の良さと、人情味溢れるもてなしを、ネット上へと書き込む。

するとそれを見た次のゲストが、わざわざここへと遥々訪ね来るのだ。

昭和45年のディスカバージャパンで、アンノン族が闊歩した「小京都」高山。

あれから約半世紀を経て、今や名実ともに世界の「飛騨の都・高山」となった。

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「小さな秋、みっけ!」8/30アップのその2

近所のスーパーへと買い出しに、人の少なそうな時間帯を選んで出掛ける途中、公園の脇道で思いがけず「小さな秋」を見つけました!

まだ発育途中のような銀杏が、風に煽られて路上に落っこちていました。

まだまだ猛暑ながら、ちょっぴり秋の気配を感じることができました。

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昭和がらくた文庫79話( 2017.06.22新聞掲載)~「終戦の夜の郡上おどり」

昭和20年8月15日。

陛下の玉音放送に接し、国中が項垂(うなだ)れ涙したその夜。

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八幡では、一部の町衆らによって、郡上おどりが始まった。

敗戦の悲しみに暮れた山間に、郡上節が響き渡る。

すると瞬く間に、我も我もと、踊りの輪が広がっていったとか。

♪七両三分の春駒 春駒♪

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終戦から72年。

今年も7月8日の発祥祭から31夜に渡り、郡上おどりが幕を開ける。

ここで一息、ぼくの楽曲「八幡様のお百度」を、長良川国際会議場大ホールでのLiveからお聴きください。

中でも圧巻は、8月13日~16日まで続く、盂蘭盆会の徹夜おどり。

八幡の町が見事なまでに、郡上おどり一色に染め抜かれ、夏のクライマックスを極める。

だが徹夜が終わると、急に川風さえもヒヤリと感じられるのだ。

だから残りの8夜ともなると、踊り子たちの誰もが、ゆく夏の名残惜しさを浮かべる。

そして9月2日。

おどり納めの大トリは、最後の郡上おどりを締めくくる「まつさか」。

八幡の闇に溶け入る唄声で、静かにそっと幕を下ろす。

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ひと月足らずの、八幡の夏。

踊り子たちが去った後は、ぼんやり燈る町灯りと、何事もなかったように流れる、吉田川の瀬音だけが切ない。

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郡上おどりは、江戸中期に誕生し、盂蘭盆会の行事として、連綿と受け継がれてきた。

しかし、明治の御代(みよ)になると禁止令発布の憂き目に。

やがて時を下り、大正12年に、郡上踊り保存会が発足した。

しかしそれも束の間。

昭和に入るや軍靴の響きが、けたたましさを増す度、町衆の楽しみでもあり、先祖供養の仏事でもある徹夜おどりさえ、その制約を受けることに。

いつの世も戦争の犠牲は、罪もない市井(しせい)の民ばかりだ。

敗戦が色濃くなると、8月15日だけ開催が許された。

そして迎えた終戦の夜。

敗戦国の民として、明日からどれほど辛酸を舐めようと、もうこれ以上の犠牲を払うことだけはなくなったと、誰もがきっと安堵したことだろう。

戦時中は、八幡にも踊りの中止勧告が出された。

しかし「英霊を慰める」との理由で、中止を免れたそうだ。

保存会の記録には、「終戦ノ玉音放送ノ為盆踊休止」とあるとか。

故に恐らく町衆が、微かな平和の兆しを感じ取り、同時に国中で戦火に倒れた、多くの人々の霊を鎮めんと、念じながら踊ったのだろう。

天晴れ、気高き八幡の町衆よ!

そして郡上おどりよ!

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昭和がらくた文庫77話( 2017.04.27新聞掲載)~「薩摩義士の楔(くさび)」

両親は岐阜県海津市南濃町の高台で、今も安らかに眠る。

眼下には木曽三川の大河。

その先には、広大な濃尾平野を望む。

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何もこの地に、特別なご縁があったわけでもない。

それが証拠に、母は鹿児島生まれ、父は三重生まれである。

ましてやぼくが生まれたのは、名古屋の端っくれ。

しかし母を亡くした翌年。

まるで何かに(いざな)われるかのように、ぼくはこの地を墓地とした。

振り返れば当時の父は、頼りにしていた母が、自分を残し先に世を去ったことを儚み、投げやりだったのだろうか。

何かに付け「お前がそう思うんやったら、わしもそれでええ」と、そんな調子。

程なく(まだら)の認知症と診断された。

だから墓地を決めるにしても、既に父は彼岸と此岸の境を、彷徨(さまよ)っていたのだ。

子どもの頃、墓参りと言えば、それは三重の山奥の、父方の祖先の墓参りを指した。

幼心にも不思議に思い、ある時母に尋ねた。

「お母ちゃん()の、お爺ちゃんのお墓へは、何でお参りに行かんの?」と。

すると母は気まずげに「鹿児島までは遠いし、お爺ちゃんの墓参りはせんでええ」と。

これは母の夜伽の席で叔父から聞いた話だ。

=戦時中に生みの父を亡くし、後に婿入りした養父と折り合いが悪く、散々いじめられた。

そして戦後の娘時代、将来を誓うほどの恋仲を、引き裂かれたようだ。

それがきっかけで、一宮の繊維産業に職を求め、この地へ舞い降りた。=

だからぼくが大人になるまで、母は一度たりと故郷鹿児島へ帰らなかったのか。

しかし遺品のアルバムから、最晩年の両親が桜島をバックに、満面の笑みを浮かべる写真を見つけ、少しホッとした。

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それは母の納骨を済ませた、間もない頃のことだ。

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「お母ちゃん、見えますか?今から260年もの昔。丸に十の字を背負った、あなたの故郷の薩摩藩義士が、己が身を(くさび)に護岸を築き、水害に苦しむこの地の、尊き民の命を救った、そんな気高き薩摩恩顧の地が…」

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昭和がらくた文庫75話( 2017.02.23新聞掲載)~「曳き売り豆腐のおまけ」

草野球を終え家に帰ると、決まって路地の向こうから「♪ト~フ~、トフトフ♪」のラッパの音。

参考資料

昭和半ばの夕暮れ時になると、豆腐屋のオッチャンが、自転車でリヤカーを牽きながらやって来た。

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すると必ず母に呼び止められ、あちこち凹んだアルマイトの両手鍋と小銭を握らされ、一っ走りさせられたもの。

既に豆腐屋のオッチャンの周りには、子どもたちが屯していた。

皆決まって、ランニングシャツに半ズボン、ゴム草履や下駄ばき姿で、鍋や欠けた丼鉢を抱えたまま。

写真は参考

オッチャンは水槽に素手を突っ込み、豆腐一丁を掬い上げた。

写真は参考

「ほな、お揚げさん一枚おまけしといたで」と、オッチャンが意味ありげに囁く。

写真は参考

しかしその囁きは、ぼくにだけではない。

豆腐を二丁買った者へのおまけでもなく、皆が皆に同様に囁くのだ。

だったらそんなもどかしい事などせず、端っからお買い上げの方全員に「お揚げ一枚進呈」とでも、貼り紙でもしていてくれたらいいのにと、子どもながらにそう感じた。

家に帰ると母も心得たもので、「オッチャン、お揚げさんおまけしとくれたか?」と、両手鍋を覗き込む始末。

ある日の夕方。

「♪ト~フ~、トフトフ♪」のラッパの音。

「あれっ?豆腐屋のオッチャン、いつもよりちょっと早よない?それにラッパの音も、どこか変やない?」と母。

それでもいつものように両手鍋を抱え、ラッパの音のする方へと駈け出した。

すると近所の子どもらが、オッチャンを遠巻きにして立ち尽くしているではないか。

それもそのはず。

昨日までのオッチャンとは、似ても似つかぬ、いかつい髭面。

みんなこのオッチャンから豆腐を買うべきか、お揚げのおまけはあるのかが判断できず、どうしたものかと立ち尽くしていたのだ。

すると髭面のオッチャンが、痺れを切らし「ぼーんたらあ、豆腐買うんか買わんのかーっ!」と、ドスの利いた声を張り上げた。

ぼくらはハチの巣を突いた様に、一目散に鍋釜もって駈け出した。

後日譚。

いつものオッチャンの縄張りに、髭面のオッチャンが割り込もうとした。

しかしお揚げ一枚のおまけの前に、髭面のオッチャンは屈したのだとか。目出度し目出度し。

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昭和がらくた文庫74話(2017.01.26新聞掲載)~「三寺まいり~千の灯りと、千の恋」

川面浮かべた 灯篭は 初雪よりも穢れない

芽生えた恋の渡し船 三寺まいり 雪の宵

瀬戸川揺れる 恋灯り 二人屈んで手を合わす

千の灯りと千の恋 飛騨古川は 雪の中

まずは、ぼくの楽曲「三寺まいり」をお聴きください。

これは他紙の連載で、10年以上も前に、和蠟燭職人の三嶋さんの取材記事に添え、ぼくが(したた)めた一編の枕詞のような詩である。

当時は、三寺まいり当日に飛騨古川を訪ねたわけでも無く、観光案内の中にあった、一枚の写真だけが頼りで、詩を捻り出したと記憶している。

その写真には、雪が深々と降り積もる中、白壁土蔵の居並ぶ瀬戸川沿いに、着物姿の女性たちが一列に並んでいた。

そして紅い(ほむら)を揺らす和蝋燭を、川沿いに献灯し、一心に両手を合わせ、祈りを捧げる。

そんな姿がぼくの脳裏に鮮明に焼き付いたものだ。

奇しくも今ぼくの目の前に、その恋絵巻が惜しげもなく再現される。

今年は例年になく雪が少なく、関係者をやきもきさせたとか。

しかし満を持してこの冬最大級の寒波が、1m30cmほどもの大雪を運んだ。

「只今より、雪像ロウソの点灯式を執り行います」。

屋台会館前のお祭り広場の一角には、雪を固めて造られた、直径約1m、高さ約2mにも及ぶ巨大なロウソクが聳え立つ。

すると中折れ帽に黒マント姿の粋な御仁が、どこからともなく現れ出でたではないか!

よくよくそのお顔を除き込んで見れば、山高帽に黒マントに身を包んだ飛騨市の都竹市長だ。

着物姿のお嬢様から松明を受け取るや否や、直径10cmはあろうかと言う灯心に、松明の火を翳した。

ついに飛騨古川の風物詩、「三寺まいり」が幕を開けた。

古川ヤンチャ男が、奇祭の「動」なる「起し太鼓」なら、(しと)やかな女は「静」なる「三寺まいり」。

古川に、今なお連綿と受け継がれる、男と女の恋絵巻。

千の灯りと 千の恋

飛騨古川は 雪の中

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昭和がらくた文庫72話( 2016.11.24新聞掲載)~「嫁入りの菓子蒔き」

「次の日曜。横丁の煙草屋さん()の、マドンナの姉ちゃんが、お嫁入なんだってさ!」。

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何だって早耳の忠治が、鼻の穴を膨らませ、得意げにクラス中を吹聴して回った。

すると子どもらはもう気も漫ろ。

今ほど豊かじゃなかった、昭和半ばの小学生時代。

ぼくらにとって、嫁入りの菓子蒔きは、それこそ天が与えし臨時ボーナスだったものだ。

ついにその日曜。

ぼくらは、横丁の煙草屋へと向かった。

だっていつ菓子蒔きが始まるかなんて、回覧板で知らせてくれるわけでもない。

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となりゃあ、いの一番に特等席を陣取るより術は無い。

ぼくが到着する頃には、既に近所の子どもらが(たむろ)していた。

しばらくすると、真新しい婚礼家具を載せ、紅白幕を襷掛けしトラックが到着。

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子どもたちが一斉に色めき立った。

いよいよ臨戦態勢である。

煙草屋の道路に面した二階の窓漉しに、人の動きが慌ただしくなる。

すると不意に後ろから、物凄い力で押されたではないか!

「なんだよう!」とばかりにふりかえるって見る。

後ろにはいつの間にか黒山の人だかり。

中には割烹着の腰紐を解き、両裾を両手で天幕の様に広げるオバチャン。

野球のグローブを片手に、大きく突き上げるオッチャン。

後ろでは、魚釣りのタモを突き出す者までいるではないか!

その殺気たるや、なまなかではない。

ついついぼくらは、その余りの勢いに、ただただ気圧された。

ガラガラガラ。

二階の窓が開き、文金高島田に角隠し、白無垢姿の花嫁さんが、顔を覗かせた。

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その真っ白な花嫁の美しい顔に、ポーッと見惚れている内に、菓子蒔きが始まる。

「永い間、お世話になりました」。

消え入りそうなほど小さな、花嫁さんの声。

ぼくは肝心の菓子を、拾い集めるどころか、マドンナのお姉ちゃんの姿を、心に焼き付けたものだ。

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何故だろう。父が煙草を切らし、「済まんが、『いこい』()うて来てくれんか?」と、頼まれる度、妙に嬉しかったのは?

過ぎにし仄かな、恋心だったか?

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昭和がらくた文庫71話( 2016.10.27新聞掲載)~「光と影、駅前と駅裏」

光と影。

駅前に駅裏。

陽の当たる華やかな「駅前」に対し、どこか猥雑(わいざつ)な影と愁いを秘めた「駅裏」。

どちらかと言えば、そんな悲哀を帯びた、まるで演歌の世界に迷い込んだような「駅裏」が好きだ。

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それは東京五輪を終えた、昭和39年の年の瀬。

小学1年のぼくは、母に手を引かれ、名古屋駅の駅裏へと向かった。

戦後20年を迎えようというのに、未だバラックが点在。

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昼なお薄暗く、猥雑な商店が立ち並ぶ。

母はぼくの手をしっかと握り締め、「お母ちゃんの手、絶対に離しちゃいかん!」と、小声でつぶやいた。

そして意を決し、年の瀬の雑踏へと、険しい顔で足を踏み入れる。

母の目当ては、お節料理に必要な材料の調達だ。

日雇い労働者やチンピラ風の、人相の悪いオッチャンとすれ違う度、酒臭い何とも言えぬ()えた臭いが、わだかまっていたものだ。

その度、母の手を強く握り締める。

すると母も足早に人混みをかき分け、目当ての食材を手際よく買い求めた。

母にしても駅裏の雑踏は、さぞや怖かったに違いない。

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それが証拠に、繋いだ母の(てのひら)は、薄っすら汗ばんでいたのを、今でもこの手が覚えている。

あれから半世紀。

駅裏と呼ばれた猥雑な地区も、「駅西」といつしか改名。

数年前、半世紀ぶりに、駅裏へと足を踏み入れた。

子ども心に抱いた、あの隠微な町の香りを、新幹線のホームからでは全く感じられない。

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しかしどっこい、古ぼけた商店街を進んでみると、あの敗戦から71年を経たと言うに、未だ闇市の面影が微かにわだかまっているではないか!

残骸の欠片のように。

町には、悲喜交々(こもごも)の人生を背負った者が生まれ、やがて息絶える。

しかし再び新たな世代が誕生し、どんなに時代が移ろおうと、また新たな営みが始まる。

その町を後にする者、その町に骨を埋める者。

もしかしたら人間同様、町には町の遺伝子が存在するのではないか?

どんなに立派なビルが建ち並び、上辺だけ取り繕おうと、その町の匂いと影までは消し去れぬ。

一変した駅裏に迷い込んだ瞬間、思わず懐かしさが込み上げた。

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昭和がらくた文庫70話(2016.09.22新聞掲載)~「老犬ジョンの命の重さ」

今日は彼岸の中日。

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盆は忙しさにかまけ、墓参りも出来ず仕舞い。

両親に無沙汰を詫び、先日早々に盆と秋の彼岸を合わせ、墓参りを済ませた。

「ただいま~っ!」。

勢いよく玄関の引き戸を開け、ランドセルを放り投げ、とっとと遊びに向かおうとした矢先。

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玄関の様子がいつもと違う。

コンクリートの床に毛布が敷かれ、老犬ジョンが力なく横たわっていた。

「もうあかんようや。息も絶え絶えになって。あんたの帰りを、必死で待っとったんやに。抱いたげ」。

母が涙声でそうつぶやく。

2日ほど前から、ジョンは食事が摂れぬほど衰弱していた。

毛布の上に座り込み、ジョンの顔を太腿に持ち上げる。

するとジョンが鼻をヒクヒクさせ、重たげに瞼を開き、どんよりした生気の無い(まなこ)を向けた。

ジョンがわが家にやって来たのは、ぼくが幼稚園の年長の時。

子犬だったジョンを、本当の弟のように何処へでも連れまわした。

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しかしそれも束の間。

成犬になるとジョンの方が、いつしか兄のような存在に成り果てた。

雪の降り積もった田んぼを、共に駆け回った日。

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夏の真っ盛り、盥に一緒に浸り、ずぶ濡れになって行水した日。

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ジョンが小さく息をするたび、共に生きたわずか6年ばかりの日々が、次々に脳裏を霞めた。

知らず知らずのうちに泪が頬を伝う。

ぼくの泪の雫が、ジョンの口元へと伝い落ちる。

するとジョンは力なく口を開き、ぼくの泪の粒を舌で舐め上げ、ゆっくりと口を閉ざし、そのまま二度と動かなくなってしまった。

「人間だってジョンだって、命の重さは同じなんやよ。勿論、花や虫も。今日はもう、ジョンを偲んで泣きたいだけ泣けばいい。お前がジョンを(いた)んで泣いた泪の分だけ、ジョンもわが家の家族だった証として、少しだけ命の目方を増やしてあの世へと旅立てるんやで」。

母の言葉の意味はわからなかった。

しかし、盟友ジョンを失った悲しみに暮れる中、たった一つの救いとなる魔法の言葉に思えたものだ。

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