昭和がらくた文庫96話(2018.11.22新聞掲載)~「月見の里に御座(おわ)す両親」

「♪晴れた空 そよぐ風」。

父も母も岡晴夫の「憧れのハワイ航路」を、よく口ずさんでいた。

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この晴れ晴れしい歌声で、憂さの一つでも吹き飛ばしていたのだろうか。

終生一度も、そのハワイの地を踏むでもなく、急ぎ足でこの世を去るとは。

ぼくの両親は、今も海津市の月見の里近くに眠る。

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誰一人、母が父より先に、享年64で亡くなるとは、想像しなかった。

あと3年でぼくも、母が身罷った(よわい)となる。

母の死より10年近く前。

大病に倒れた父の方が、誰もが母より先に、天に召されるものと、そう信じて疑いもしなかった。

今度は父の痴呆が進んだ。

今思えば父は、何から何まで、母だけが頼りだったのだろう。

母の一周忌を済ませ父に問うた。

「お母ちゃんの墓やけど、岐阜県の海津市はどやろう?」と。

両親とも縁も所縁もない、養老山脈の麓を選んだ。

「それでええ」。

父は何故か二つ返事で頷いた。

ぼくが何故、その月見の里近くの墓地を選んだかと言えば、まずはそこからの眺めだ。

木曽三川を眼下に見下ろせ、その向こうに濃尾平野。

同時に木曽三川は、伊勢湾へと注ぎ、父の故郷三重へと繋がる。

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また、木曽三川の護岸工事に心血を注ぎ、多くの藩士が亡くなった、薩摩義士ゆかりの地でもある。

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母が生まれ育ったのは、鹿児島市中心部の城山。

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鶴丸城址の東側には、義士たちの墓と、岐阜県から寄贈された、淡墨桜の末裔が枝を広げる。

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それだけでも、両親の終の棲家を、そこにした甲斐がある。

不思議な縁に導かれ、人は誰もが人生と言う大河を揺蕩い、岩や瀬に打ち上げられ、そこに根を下ろすものなのだろう。

三重と鹿児島の産物のこのぼくが、ここ岐阜の地で人生後半の根を下ろしたのも(えにし)

せめて残りの人生、焦らず腐らず奢らず、「♪晴れた空 そよぐ風」と、両親のように口ずさみ、この命が消え入るまで、ゆるりと生きて見るか!

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昭和がらくた文庫95話(2018.10.25新聞掲載)~「加子母村から舞台峠へ」

「生きとって良かったなぁ、お父さん。まさかこうして家族三人水入らずで、新年が迎えられるなんて…」。

母は温泉宿で迎えた、元日のお節料理を前に涙ぐんだ。

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あれは今を遡る、33年前。

その前年は、これでもかと言う程の試練が、ぼくの人生に怒涛のように押し寄せた。

まず、夢を捨てきれず追い続けた、シンガーソング・ライターへの道を断念。

ある方の導きもあり、この世界の裏方である、企画の仕事に携わることに。

しかし、その独立を果たした翌日、父が頭部動脈瘤に倒れた。

それから約半年、母は内職もままならず、父の病室に付きっ切りに。

まだ独立したばかりで、収入も定まらぬぼくは、深夜から朝まで、鮮魚市場でのアルバイトを掛け持った。

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そして昼間に自分の仕事を片付け、市場で母の晩ご飯と、翌日の菓子パンなどを買い込み、病院を見舞ったものだ。

家族三人が、力を合わせたこともあってか、父の生命力の賜物か。

或いは、母の命懸けの付き添いと、祈りの御陰か。

父はリハビリを終え無事生還。

ぼくも鮮魚市場でのアルバイトを辞し、やっと自分の仕事に専念することが出来た。

その年の暮れも押し迫った時のことだ。

「そうだ、両親を温泉に連れて行こう」。

急にそう思い立ち、大晦日に車で下呂へと向かった。

中津川で中央高速を降り、加子母村から舞台峠を越え下呂へ。

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観光案内所へと飛び込み、温泉宿に潜り込んだ。

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夕食を終え、小さくなった父の背を流し、湯船に浸りながら、遠くの山々にこだます、除夜の鐘の音に耳を澄ました。

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いみじくも下呂温泉までの道程が、まるでわが家の一年と重なった気がした。

長閑な加子母村を通り抜けると、険しい峠道へと差し掛かる。

峠の石碑には、「鎌倉時代、北条時頼が大威徳寺参詣の折り、この峠に能舞台を設け、疲れを癒し民衆にも鑑賞させた」と。

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それ以降、ここが舞台峠と呼ばれたとか。

「人生はまるで九十九折れの峠やなぁ。上ったり下ったり。まあまた下ったら、そしたら上りゃええだけや」。

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母はことりと呟き、お屠蘇の入った盃を空けた。

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昭和がらくた文庫92話(2018.07.26新聞掲載)~「手練れの手配師と、学生バイト」

「昼飯付きの日当片手!さあ、乗った乗った!」。

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ヤクザ映画で見かけるような、強面の手配師が、片手の5本指を大きく広げ、軽トラの荷台の上に立ち、大声を張り上げる。

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確か高校1年に上がった、昭和48年の夏休みに入って間がない、早朝7時前のこと。

名古屋の笹島交差点を南に下った、今は25階建ての住友生命ビルが建つ辺り。

近くに職安があるせいか、その辺りには毎朝、人相の悪い日雇い労務者と、それ以上にも一つ人相の悪い手配師が屯し、ある種独特な賑わいを見せていた。

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「おい、どうする?昼飯付きの5千円やと」。

同級生がおどおどしながら、小声で呟き肘でぼくを突く。

「どうする?」って聞かれたって、こっちだってこんな経験は初めての体験だ。

数ある手配師の顔を見比べ、最も人の好さそうなオッチャンの、トラックの荷台にぼくらは、荷物のように詰め込まれた。

到着したのは郊外の住宅造成地。

ぼくらはスコップを手渡され、日が暮れるまで日雇い労務者のオッチャンたちに混ざって、側溝堀の手伝い。

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それでも唯一の楽しみは、手配師が声高に叫んでいた弁当。

しかし手渡されたのは、味も素っ気もない塩結び2個に、薄っぺらなお新香2切れ。

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夕方再びトラックの荷台に詰め込まれ、ヘトヘトの状態で笹島へ。

そこで虎の子の、日当5千円を手にするという塩梅。

そんな過酷なバイト代を貯めに貯め、友と一緒の50㏄の中古バイク、ホンダ・モンキーをやっとのこと手に入れた。

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その夏の終わりのことだ。

モンキー仲間3人で、伊吹山の麓を抜け、国道8号線を経て若狭湾へ出掛けることとなった。

まずは、行きがけの駄賃にと、原付モンキーを唸らせ、伊吹山へ登ることに。

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しかしさすがに、所詮馬力にかける原付モンキーでは、伊吹山のドライブウェイは手強い。

5合目に何とか辿り着いたものの、いずれも中古の3台のモンキーは既にグロッキー。

若狭湾の浜辺どころか、何とかかんとかモンキーを宥めすかしながら、這う這うの体で家へと帰り着くのがやっとだった。

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昭和がらくた文庫91話(2018.06.21新聞掲載)~「憧れのチンチン電車の運転士」

わが家には、ぼくが自動車免許を取得するまで、車が無かった。

だから何処へ行くにも、電車かバスに頼るほかない。

よって自然と、身近な路面を走るチンチン電車の運転士さんやら、バスの運転手さんの一挙手一投足に、幼ないながら憧れを抱いた。

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「信号よーし!出発~進行!」。

従兄から貰った学生帽を目深に被り、顎ひもを締め、ぼくは指さし確認を真似、直接制御器のレバーに見立てた、折り畳みテーブルの脚を引き出した。

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「また、チンチン電車の運転士さんゴッコか?そんなに楽しいか?」。

南側の窓に向って、針仕事に精を出すお母ちゃんの声。

当時、幼い日のぼくの楽しみと言ったら、折り畳み式のテーブルの脚を畳んで、壁際にテーブルをもたせ掛け、折り畳んだ四本の足を、チンチン電車の運転台の、車で言うアクセルのような直接制御器の真鍮のレバーや、それらの機器に見立て、運転士の真似事をして、一人遊びに高じたもの。

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とくにこんな外で遊ぶこともままならぬ、梅雨時は来る日も来る日も、チンチン電車の運転ごっこに夢中だった。

さらにいつも乗車する路線内の停車駅名も諳んじ、「次は、熱田神宮前、熱田神宮前」ってなもんで、運転士と車掌の一人二役を演じ、幼いながらもリアリティーを追求したものだ。

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よくよく考えれば、まだまだ路面を走るチンチン電車も、ワンマンカーなんぞが、この世に誕生する遥か昔の話し。

今のように、TVゲームやスマホのゲームなんぞ、何も無かった時代の子どもらは、それぞれに工夫を凝らし、何とかごっこと称しては、大人たちの姿を真似た。

運転に飽きると今度は、強請りに強請ってやっと買い与えてもらった、玩具の車掌さんセットの登場だ。

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黒いビニール製の鞄を首から吊るし、ボール紙製の切符と、改札ばさみを片手に、「切符を拝見いたします。乗り越しやご用のある方は、お申し出願います」と。

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すると母も心得た物。

「済みませんなぁ。トシ君家の駄菓子屋まで一枚お願いします」と、母はガマグチから10円玉一枚を差し出す。

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それがその日のぼくのお小遣いだった。

懐かしい日々は、刻一刻と遠のいて行ってしまう。

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昭和がらくた文庫89話(2018.04.26新聞掲載)~「古川やんちゃと男酒」

「♪元気を出して ワッショイ!」。

春の氏神様の祭礼を盛り上げる、子ども神輿が漫ろ行く。

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しかしこのところの少子化で、神輿の紅白紐を引く子どもらの数が、とんと少ない。

少なくともぼくが育った昭和半ばは、紅白紐さえ握れない子供もいたと言うのに。

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だが少ないながらも、法被姿に捩じり鉢巻きをした子どもたちの目は、半世紀前のぼくら同様、キラキラと輝きを放っていた。

首から吊るした小さな雷太鼓を打ち鳴らし、胸を張って誇らしげに、神輿のお先手を(つとむ)る子。

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そして嬉々として、拍子木で合の手の()を入れる子。

いずれ劣らぬ、小さいながらの男ぶりだ。

やはりこの国に産まれし、老若男女すべての者たちには、祭囃子に血が騒ぐ、そんな遺伝子が組み込まれているのだろうか。

「わしら飛騨古川の(おとこ)(しゅ)は、一年が起し太鼓のためにあるようなもんやさ」。

と言って、湯呑に注いだ冷酒を、真昼間っから煽るじ様。

若かりし日の(おの)が姿を重ねるように、下帯姿で付け太鼓を大きく揺らす、血気盛んな若衆を見やった。

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「わしらぁは、古川やんちゃやで!」。

4月19日、午後9時。

飛騨市古川町のまつり広場に、下帯だけの裸男たちが数百人も繰り出し、酒臭い息を吐きながら、腹の底から祝い唄を謡い上げる。

ついに起し太鼓の人山が、地鳴りのような大太鼓に煽られ動き出した。

そこを目掛け、町の辻々から付け太鼓を掲げ持った男衆が、町の威信を背負い、大太鼓の櫓に我先に、激しい体当たりを繰り返す。

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これぞ飛騨の古川やんちゃどもの、年に一度男気を鼓舞する、神聖なる春祭りなのだ。

遠巻きに眺める、多くの老若男女が、その迫力にただただ気圧されながら、飛騨古川の夜は深まり、何人もが恋い焦がれた、大いなる春の訪れに酔いしれて行く。

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昭和がらくた文庫88話(2018.03.22新聞掲載)~「御用聞きとビールの王冠」

「毎度~っ!奥さん、三河屋で~す。ビール、いつもの場所に置いときますよ。それと今日のご用は、ございませんか~っ?」。

ご近所のオバちゃん連中から、「酒屋のケンちゃんケンちゃん」と、親し気に呼ばれる、御用聞きのお兄ちゃんが、勝手口を開けた。

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そしてケンちゃんは、手慣れた手付きで、勝手口の扉の内側に吊り下がる、「御通(おかよい) 岡田様」と墨書された、帳簿を広げた。

すると器用に、耳の上に挟んだ鉛筆を抜き取り、芯の先をペロッとひと舐めしては、ササッと何やら書き綴る。

この和綴じの「御通」。

元々は三河屋さんの物で、わが家に割り当てられた帳面だ。

そこにその都度、注文した分だけ、御用聞きのケンちゃんが書き付け、月末に集金すると言う仕組みである。

その帳簿の御通は、「通帳(かよいちょう)」とも呼ばれ、どこの家でもだいたい勝手口に吊り下がっていた。

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「ご苦労さんやねぇ、ケンちゃん。これ道々舐めてき」と、内職の手を止め、顔を覗かせた母が、チリ紙に包んだ飴玉をケンちゃんに握らせた。

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「奥さん、おおきに!」。

ケンちゃんは、酒造場の屋号が染め抜かれた、帆前かけのポケットに飴玉を忍ばせ、代わりに何やら取り出した。

そして配達用の頑丈な自転車に跨りながら、ぼくを手招く。

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「これ、珍しい外国産のビールの王冠や。欲しいか?」と、ケンちゃんが尋ねた。

ぼくが目を輝かせて頷くと、ケンちゃんは器用に王冠の内側のコルクを剥がす。

そしてぼくのシャツの中に手を入れ、胸元の外に王冠を宛がい、内側から剥がしたコルクで、薄っぺらなシャツの生地を挟んだ。

見事に、友達が誰も持っていない、外国産ビールの、お洒落な即席王冠バッチに仕上がった。

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お母ちゃんがケンちゃんにこっそり渡した、飴玉のお駄賃が、世にも珍しい外国産ビールの、王冠バッチに早変わりし、ぼくは友達たちの前で、ずいぶん鼻高々だったものだ。

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昭和がらくた文庫87話(2018.02.22新聞掲載)~「広っぱの缶蹴り」

「カーン」。

「それーっ、隠れろ!」。

「チーちゃんみ~っけ!」。

昭和半ばの時代。

広っぱや空き地には、缶蹴りに高じる子どもたちの黄色い声が、いつでも響き渡っていた。

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先日の小春日和の昼下がり。ウォーキングの途中、街中の広場を通りかかった。

いつもは子どもの姿など、トンと見かけたことも無かったが。

休みの日だったせいもあってか、春を思わせる陽気に誘われたのか。

お父さんと小学校低学年と思しき男の子が、サッカーボールを操り、パス回しに没頭しているではないか。

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何だか広場に、あるべき主役が戻って来たような気になり、ついつい眺め入ってしまった。

しかしそう言えば、子どもたちの缶蹴りを、最後に目にしたのは、今から何十年前の事だったろう。

昭和半ば育ちのぼくらには、空き缶一つさえあれば、いつでも何処でも直ぐに、男女入り乱れて、缶蹴りが始まったもの。

専門の道具や、ユニフォームもいらず、遊びでありながらも、スポーツのような感覚で、手頃に重宝して楽しめたものだ。

当時の缶と言えば、直ぐに錆びの浮くスチール缶。

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今のようなアルミ缶は、直ぐに変形してしまい、缶蹴りには不向きである。

しかしスチール缶は硬く、缶を蹴るズック靴の、穴の開いた爪先が痛くてならなかった。

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それでも鬼を翻弄させようと、より遠くへ缶を蹴り出そうと、皆夢中になったものだ。

中学校のグランド。

サッカー部が他校との、対抗試合の真っ最中だ。

グランドの片隅では、エースストライカーのマア君の動きを、瞬きもせず見つ続ける女生徒たちがいた。

その中には、幼馴染みのチーちゃんの姿も。

チーちゃんも、エースストライカーのマア君も、共に広っぱで缶蹴りに高じた幼友達だ。

赤茶けた錆びだらけのスチール缶は、五角形と六角形からなる、プラトンの立体と呼ばれる、正多面体のサッカーボールになった。

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そしてチーちゃんとぼくの目の前で、マア君が繰り出したシュートが、相手チームのゴールネットを大きく揺らせた。

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昭和がらくた文庫86話(2018.01.25新聞掲載)~「八ッ橋の缶箱」

先日、何十年ぶりかで京銘菓の固焼きニッキ味の煎餅、八ッ橋を戴いた。

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そう言えば近年は、生八ッ橋を口にする機会の方が多かったようだ。

封を開けた瞬間。

ニッキの香が立ち込め、小学校の修学旅行の記憶が鮮やかに蘇った。

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当時の修学旅行と言えば、京都奈良の一泊二日が相場。

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かつての都跡を足早に巡った。

だから正直、何処も彼処もぼくには、同じにしか映らなかった気がする。

そんな中、最も鮮明な記憶は、土産物屋での品選び。

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学校で決められた、わずかばかりの小遣いで、誰に何を買うべきか。

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子ども心に最大の悩みであった。

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「これはお母ちゃんへ。こっちはお父ちゃん」。

そう言って、修学旅行鞄から、京土産を手渡した。

母には八ッ橋。

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父にはプラスチックの煙草入れだ。

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「お父ちゃんやお母ちゃんのなんてええで、自分の物買うてくりゃ良かったのに…」と母。

でも二人とも、満更ではなさそうだった。

母はいつも、陽の差す窓際の火鉢の横に座し、絎け台を据え、裁縫の内職仕事に明け暮れた。

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陽が翳るまでは、裸電球も灯さず、真冬でも火鉢一つで暖を取りながら。

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たった唯一の楽しみは、番茶の出涸らしを啜り、徳用袋で購入した甘納豆を、茶請けとする程度。

修学旅行から帰って、間もない日の事。

学校行事との兼ね合いで、いつもより早く家へと帰った。

母を驚かせようと、玄関の引き戸をこっそり空け、障子の隙間から母の様子を窺った。

ちょうど湯呑を傾け、一服中のようだ。

すると母は、京土産の缶蓋を開け、八ッ橋を取り出し、両の手で押し頂き、徐に口へと運ぶ。

何もそこまでせずともよかろうに。

しょせんわずかな小遣いで、誰もが買った物なのに。

当時は気恥ずかしくもあり、そう思った。

初めて買ったぼくの京土産。

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八ッ橋の缶箱は、母の裁縫道具入れとなり、この世を去るまで、常に母の傍らにあった。

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昭和がらくた文庫85話(2017.12.21新聞掲載)~「古ぼけたトランジスタラジオ」

洋裁の内職をする母の傍らで、古ぼけた小さなトランジスタラジオから、流行歌が流れていた。

中でも母のお気に入りは、鶴岡正義と東京ロマンチカ。

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「君は心の妻だから」が、ラジオから流れ出すと、針を運ぶ手を止め、うっとりとした表情で、一緒に口ずさんでいたものだ。

ぼくが中学に上がるまではと、母はどんなに貧しく、遣り繰り算段を強いられても、鍵っ子にだけはさせたくないと言い張った。

それは母なりの、家族の要としての矜持であったようだ。

だから内職よりも、遥かに割の良いパート勤めにも出ず、日長一日くけ台の横に座し、目を細めながら針を運び続けた。

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父とぼくを送り出してから、ぼくが授業を終え「ただいま~っ」と無事に帰るその時まで、母の話し相手はラジオだったのだろう。

母が他界し、遺品整理をしていた時のことだ。

押入れの奥にあった段ボール箱から、当時の母が愛用した、小さな銀色のトランジスタラジオが現れた。

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思わず懐かしさのあまり、手に取って見る。

すると子どもの頃の記憶が、瞬時に蘇った。

銀色だったはずのトランジスタラジオは、金属の部分が変色し、すっかり赤茶けてしまっている。

しかし紛れもなく、このラジオに違いない。

在りし日の母が耳を傾け、時にはラジオから流れくる流行歌に合わせ、口ずさんでいた、母の唯一の友。

喜怒哀楽全ての母の感情に、絶えず寄り添い続けてくれたのだ。

そう思うと、何だかとても愛おしいものに思えてならなかった。

思わずラジオの横にある、ダイヤル式のボリュームを捻り、赤茶けたスピーカーの網目に耳を近付けて見る。

すると微かに、遠い日の、母の歌声が聞こえるような気がした。

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昭和がらくた文庫83話(2017.10.26新聞掲載)~「古(いにしえ)の戦国浪漫」

400年以上、(いにしえ)の昔。

そもそも現在の岐阜県関ケ原町が、天下分け目の合戦時において、果たして関ケ原と呼ばれていたのか?

様々な異説もある。

時は、安土桃山時代の慶長5年9月15日。

西暦にすると、1600年10月21日。

文字通り徳川勢と石田勢による、天下分け目の大戦(おおいくさ)が始まった。

参考資料

たちまち東西を分つ、歴史の舞台に躍り出た地である。

合戦初日の9月15日付、徳川家康の書状には、「関ヶ原」でなく「濃州山中」と、記されているとか。

しかもこの「山中」は、「山の中」という意にあらず「山中村」という地名と記されていたそうだ。

また、合戦当初は南北朝時代の古戦場「青野原」や、「青野カ原」と記した文献も存在するとか。

いずれが真実かは、歴史学者に委ねるとしても、誰も見たことの無い、太古の浪漫とは、そうした曖昧さがあるから、たまらなく面白い。

ぼくにとっての戦国浪漫とは、信長公が本能寺で明智勢に討たれるまでを指す。

参考資料

だから特段、秀吉や家康には、何の魅力も感じない。

参考資料
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神がもし三英傑の誰かと、一度だけ逢わせてやろうと仰ったなら、ぼくは何の迷いもなく、信長公と答えるはずだ。

参考資料

歴史家や小説家が描く信長像は、どれ程資料を読み解き、想像を巡らせようと、所詮虚像に過ぎない。

果たして信長公は450年前、岐阜城の天守からどんな未来を眺めておられたのだろう。

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志半ばで、明智に討たれなければ、何処へこの国を導こうとされておられたのか。

卓越した世界観を持っていた信長公が、もし現代の岐阜におられたなら、今を生きる私たちに、一体何を語り掛けてくれるだろう。

まかり間違っても、黄泉の国に()()す信長公にお逢いすることなど、到底叶わぬ夢。

しかしそう思うだけでも、妙に心がときめく。

秋の夜長、岐阜城の天守から月でも眺め、信長公と問わず語りを愉しむのも一興。

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450年前には岐阜の地で、信長公もきっと同じ月を、ご覧になっていたはずだから。

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