「昭和Nostalgia」(446)

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そう言えば、こんなガムのショーケースってぇのも、昭和の時代には見かけたものでした。

今じゃもうすっかり、お目に掛れなくなってしまいましたねぇ。

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駄菓子屋さんの業界では、こんな「食玩」と呼ばれる、オモチャ付きのフーセンガムなんてぇのもあって、フーセンガムが欲しいのも勿論の事、それ以上に当たりくじを引き当て、オモチャを手に入れたくって躍起になったものです。

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しかしこのメーカー名らしき「コビトガム」!

何とも今の時代から思うと、とんでもなく大胆不敵なネーミングじゃあないですか!

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今の世なら間違いなく、放送禁止用語の一つだったり、差別用語扱いをされそうな気がしちゃいますけど・・・。

でも昭和半ばの頃は、市バスの運賃も「小人・中人・大人」と料金が表示されていましたし、銭湯の番台にも同様に「小人・中人・大人」と、料金が表示されていたものです。

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そもそもこの「コビト」と言うメーカーは、「渡辺のジュースの素」で一世を風靡した、泣く子も黙る渡辺製菓だそうな!

そして昭和40(1965)年10月に、(株)コビトへ社名変更されたとか。

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中にはこんな景品まで登場したようですが、ぼくの周りで当選した子は、人っ子一人いなかった気がいたします。


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「昭和Nostalgia」(445)

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そう言えば昭和も半ば、ぼくが子どもだった頃。

お母ちゃんにとって月に一度の贅沢は、こんな菓子パンの「コロネ」を頬張りながら、内職の手を止め、クリープたっぷりのインスタントコーヒーを、何とも美味しそうに啜っていた瞬間だった気がしてなりません。

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恐らくそれは、内職のお給料が戴けた日であり、自分自身へのご褒美であったのかも知れません。

その日はぼくも、ちゃっかりオヤツと称して、お母ちゃんのコロネのご相伴に与かったものでした。

ヤドカリ型のパンの中に、黄色いカスタードクリームが入ったモノでなくてはならず、チョコレートクリームや生クリームであってはならぬ!

って、そんな時代、まだ生クリームの入ったコロネなんて、売ってなかった気もいたしますが?

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お母ちゃんはコロネを手に取ると、カスタードクリームがたっぷり入った大きな口の方ではなく、クリームの付いていない尻尾の部分から、巻貝状のパンを少しずつ剥がしては、大きな口のたっぷり詰め込まれたカスタードクリームをパンに塗り付け、なんとも美味しそうに食べていたものです。

間も無くお母ちゃんの祥月命日だ!

あの時代には叶わなかった、生クリームが尻尾までしっかり詰まったコロネを、お母ちゃんの遺影に供えるとするかぁ!

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未だに立派なマザコン親父として、押しも押されもせず、元気に生き抜いているよと伝えつつ!


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「昭和Nostalgia」(444)

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駄菓子屋通いの女の子に人気だったのは、こんなソフトクリーム擬きの、とてもカラフルなとんがり帽子のような形をした、「トンガリ菓子」でしたねぇ。

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たまに近所の幼友達の女の子に、お裾分けを頂戴したこともあったような?

はてさてその見返りとして、ぼくは何かを幼友達に差し上げたものやら?

とは言えぼくと来た日にゃあ、1日10円のお小遣いの使い道は、ほぼほぼ決まっておりました。

まず半分の5円ずつを、一つ年下のマー君と出し合い、二人で10円のWアイスキャンディーを買って、それを半分こに!

そして残った5円で、くじ引きの駄菓子に挑むのが常でもありました。

紐を引いて大きな飴玉を引き当てるクジや、やっぱりクジ付きの小袋に入った甘納豆、或いはクジ引きでより大きな黒棒に挑んだり。

同じ5円の投資で少しでも大きな駄菓子を手に入れようと、そんなものばかりを腕白坊主共は選んだものでした。

ところが儚い夢を追う腕白どもとは異なり、女の子たちは堅実に、その日のお小遣いを弄んだりもせず、可愛らしくって美味しそうな駄菓子コーナーに陣取っておられたものでした。

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だからぼくは、「トンガリ菓子」のお裾分けに対し、何かしらのお返しができたとしたら、せいぜいがクジ付きの甘納豆何粒かを、幼友達の女の子の掌に握らせたくらいのモノだった気がいたします。

この「トンガリ菓子」のコーンの中は、ソフトクリームのような冷やっこいクリームなどではなく、ゼラチンだったんだそうですねぇ。

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だから食感もサクッとしていたとか。

そもそもこの「トンガリ菓子」は、姫路あたりで盛んだったそうですが、やがて戦後になって名古屋市中村区十王町にあった井桁千製菓で、昭和27年頃より作られ普及したんだとか。

それからかれこれ73年。

女子に人気だった駄菓子も、現代とでは随分と様変わりしちゃったものですねぇ。


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「昭和Nostalgia」(443)

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まるで炒り立てのコーヒービーンズかと見紛うような、「麦チョコ」なるお菓子を覚えて見えませんか?

当時子どもたちに人気だったポン菓子の技術を用い、様々な素材にチョコレートをコーティングしたところ、その香ばしさや歯ざわりなど、麦が最も適していることが分かり、昭和36(1961)年に「ムーギ」と銘打った商品「麦チョコ」が発売されたとありました。

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当初は駄菓子屋の量り売りが中心だったようですが、間もなく小袋入りで販売されるようになったようで、子どものお小遣いで気軽に買えるよう、価格は30円に設定されたそうです。そしてその価格は、平成の世まで守られ続けたとか。

とは言え、1日10円のお小遣いしかもらえなかったぼくは、そうそうおいそれとは30円もする「麦チョコ」をしょっちゅう買い求めることなど無理!

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よっぽどお母ちゃんの機嫌がすこぶる良さそうな日に、お母ちゃんに何だかんだとゴマを擂り、小遣い3日分もした「麦チヨコ」を手に入れたか!

或いは1日10円の小遣いを3日も、一銭も使うことなく貯め込んだか?

いやいや、それはあるまい!

なんせ宵越しの金は持たぬとばかりに、その日のうちに潔く使い果たしてしまっていたぼくが、3日も小遣いを貯め込んで「麦チョコ」を買うなんて、とてもとても想像がつきません!

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或いは、子どもの頃にはそうそう口に出来なかったものの、ある程度大人になってから、先輩方に連れて行かれたスナックで、口取りのチャームとしてでも、カクテルグラスに入ったお洒落な「麦チョコ」を懐かしみながら、ウイスキーのお供に一粒一粒味わったのかも知れません。

まぁそんなこと、今さらどーでもいいような事ばかりですがぁ!


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微かな記憶でしかありませんが、昭和半ばの子どもの頃、真夏はともかく、春・秋・冬の3シーズンは、内職に精を出すお母ちゃんの傍らで、火鉢の練炭が点されていたものです。

火鉢にはアルマイトの薬缶が掛けられ、出涸らしの茶葉が広がった急須に、お母ちゃんは湯を注ぎ入れ、欠けた湯呑を啜っておりました。

ぼくは学校から帰って玄関の引き戸を開けると、真っ先に茶の間に蟠る匂いを吸い込み、その日のおやつに想いを巡らせたものでした。

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「ああっ、今日はかき餅だぁ」とか、「おおっ、今日は干し芋だぁ」ってな調子で!

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こうしたおやつは、毎日与えられる駄菓子屋分の10円とは別口であり、おやつで空腹を少し補ってから、10円玉を握り締め駄菓子屋へと駆け出したものでした。

そうやって思い出してみると、今でこそ「芋栗南京」が苦手ではあるものの、子どもの頃はそんな贅沢な好き嫌いなど言えようもなく、干し芋やら蒸し芋も渋々だったにせよ、ちゃんと食べていたのかも知れません。

まぁ、昭和半ばの時代は、今のように豊かじゃありませんでしたから、それでも十二分に幸せだったに違いありません。

あっ、待てよ!

じゃあ、不幸せってぇのは?

もしかしたら「不幸せ」には、そもそも決まった形など無いに違いありません!

何かにつけ周りと見比べ、周りを羨んだり妬んだり。

そんな心と言う色眼鏡で世間を眺めること自体が、不幸せの原型だったのかも知れませんですよねぇ。

お母ちゃんがおやつとして用意してくれていた、干し芋やら蒸し芋を「美味しい!美味しい!」と心からそう言えた、そんな素直だった子どもの頃が今となっては懐かしい限りです!

って、いや待て!

それは干し芋や蒸し芋が美味しかったと言うよりも、早くそれを食べ終え、お母ちゃんのがま口から10円玉のお小遣いをせしめたい一心だったと言う事かぁ!


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こんなヘリコプターのようなオモチャを、大空に向けて飛ばしたことがありませんでしたか?

ぼくはこのオモチャが結構好きで、よく遊んだ記憶があります。

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って事は、一日たった10円のお小遣いで買えたくらい、駄菓子屋でも簡単に手に入った、とてもチープなオモチャだったんでしょうねぇ。

竹トンボの改良型のような、プラスチック製のもので、羽根の下から飛び出した紐を引っ張ると、羽根だけが本体から離脱し、大空へと舞い上がったような?

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はてさて、このオモチャの名前はなんてぇ名だったのやら?

子どもの頃なんて、そんなオモチャの正式名称なんて知らなくたって、一向に困りもせず、自分たちなりの遊び方を考えては、夢中になれたもの!

確かぼくらは、公園の地面に小枝で大きな円を描き、そこにヘリコプターの羽根を飛ばし、円の中に着陸させようと躍起になったような?

このオモチャは、男坊主共だけじゃなく、女の子も一緒になって遊んだ記憶が蘇ってまいりましたぁ!


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幼い昭和も半ばの頃、近所の腕白坊主やお転婆娘らと、明けても暮れても辺り構わず駆けずり回って、遊び呆けていたものです。

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特に一番影が長く伸びる夏至の頃には、こんな影踏みをして、キャッキャキャッキャと飽きることなく愉しめたものでした。

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もうかれこれ60年近く、影踏みなんてやってない気がいたします。

って、この歳になって、何人かのジジババで影踏みなんぞをしていようものなら、何か良からぬ新興宗教にでも被れた一団かと、奇異な目を浴びせかけられるに違いないでしょうねぇ。

自分の影を自分で踏もうと、何度も何度も試みてはみるものの、一度として踏めたためしなどありません。

参考

そもそもこの影踏み遊びは、古来からあったものなんでしょうが、昼間の影踏みと、夜の月明かりの下での影踏みとでは、同じ遊びとは言え妙に意味合いや観念が異なるように思えます。

昼間のお日様の下での影踏みなら、幼子たちの無邪気な戯れと受け止められます。

しかし月明かりの下での影踏みとなりますと、幼子たちの無邪気さなどは消え果ててしまい、妙に呪術的な景色が感じられるようで、不思議な感覚を覚えます。

皆様方も影踏みに興じられたことはおありですか?

それはお日様の下で?

或いは、月明かりの下ででしたか?


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今日の番外編「昭和Nostalgia」はコチラ!

とある立体駐車場!

駐車場の係員さんならぬ、駐車場の係猫さんがおいでになりました。

操作盤に暗証番号を打ち込もうとして、いや?待てよ?

ここに係猫さんがいらっしゃるってぇ事は、もしかしたら暗証番号なんかじゃなくって、猫じゃらしとか、チャオチュールとかが、袖の下として必要なんじゃないのか?と、思わず慌ててしまったものです!

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しかし!

取り敢えず、猫じゃらしもチャオチュールの持ち合わせも無く、ええ~いままよとばかりに、暗証番号を打ち込んでみました。

それでも係猫さんは、なんら動じる気配もありません。

やがて車を載せたパレットが到着し、駐車場の扉が開くと、「ハイッ、どうぞ!」とばかりに、係猫さんはさっきまでの定位置から、ササッと移動されて行かれました。

まぁその、実に軽やかな身のこなしと来た日にゃあ!

相当に年季の入った、駐車場係猫さんとしての、永年のキャリアを感じさせるに相応しい、実に堂に入った立ち居振る舞いでございましたぁ!

いやはや、天晴れ天晴れ!


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「昭和Nostalgia」(438)

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こんな泪を零す人形を初めて見たのは、ぼくが確か24歳の頃の事だったでしょうか?

昭和ももう第4コーナーを回った頃!

従兄妹の家にお邪魔し、従兄妹の愛娘と遊んでいた時の事だったような?

愛娘が人形の額に手を当て、「少しお熱が出ちゃいましたねぇ。それじゃあちょっとお注射を打っておきましょうねぇ」と、人形の左袖を捲し上げ、注射を始めたんです。

きっと愛娘は、自分が病院で看護婦さんに注射していただいたシーンを、真似ていたんでしょうねぇ。

「ちょっとチクッとしますけど、怖くありませんからねぇ」と愛娘は人形に優しく語り掛け、ゆっくりと注射器のプランジャを押し込んだのです。

すると人形の目から、大粒の泪が溢れ出すではないですか!

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もう、なんともはやただただビックリ!

でもさすがに人形は、泣き声を上げるわけでもなく、静かに大きな瞳を濡らすだけ!

ぼくなんて腕白坊主でしたから、こんな可愛らしい人形なんて、もちろん一つも持っているはずもありませんでしたし、昭和半ばの頃の周りの女の子が持っていた「お人形ゴッコ」の人形は、決して注射を打たれて、泪を流したりするような精巧なものじゃありませんでした。

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しかし昭和も第4コーナーを回る頃には、女の子のお人形もリアルなものに進化したもんだと、ちょっとおませな口調でご満悦な、従兄妹の愛娘を眺めながら、ぼくはただただ感心しきりだったのを覚えております。


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「昭和Nostalgia」(437)

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こんな糸巻きの芯を使った、手作りオモチャってありましたよねぇ!

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材料なんて、どこのご家庭にでもあるようなものばかり!

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カタカタと音を鳴らしながら、机の上や畳の上をゆっくりと動いて行ったものでした。

子どもの頃の手先の器用な友は、皆に頼まれ、いくつもいくつも得意げに作ってやっていましたねぇ。

って、ぼくもその口の一人だったに違いありませんが!

家にはお母ちゃんの洋裁の内職で使った後の、糸巻きがそれこそゴロゴロと転がっていましたから、友に持って行ってやったりしたものでした。

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この糸巻きのオモチャって、ところでなんてぇ名前で呼んでいたものやら?

遠き日の残影は、日に日に薄れゆくばかりですねぇ!

いつの日にやら初孫が生まれたら、糸巻きオモチャを作ってやりたいから、今のうちに作り方をネットで調べておかなきゃ!

って、でも孫はそんな超アナログな手作りオモチャなんて、見向きもしてくれないやも?

なんてぇこったい!


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