「昭和Nostalgia」(576)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook

今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

こんな和風の駄菓子をご存知ありませんか?

ぼくは子どもの頃から餡子好きでしたから、この駄菓子にゃあ目が無かったものです。

写真は参考

今でもあるんだろうかと、ネットショッピングで探そうと思ったものの、肝心要であるこの駄菓子の名前が、とんと思い出せませんでした。

検索エンジンに「黒団子」とか「砂糖蜜掛け黒団子」とか、思い付くままに打ち込んでは見たものの、なかなか思い通りにヒットしないじゃないですか!

しかし!

もういいやと、あきらめかけた時、この写真を発見!

写真は参考

果たしてこれと同じ物だったかまでは定かじゃありませんが、そう言えば漉し餡が一口大の団子状に丸められ、それを砂糖蜜でコーティングしたようなものだったと、遠い日の記憶が薄っすらと蘇ってまいりました。

写真は参考

ぼくの記憶ではこんなビニール袋入りのものではなく、菓子屋さんの店先に並ぶ切り溜めに入っていたものを、量り売りで薄っぺらな白い紙袋に詰めてもらって持ち帰ったように記憶しております。

写真は参考

駄菓子としての餡子玉とは異なり、和菓子屋さんにはこんなカラフルな餡子玉が並んでいたのを、通りすがりに見かけた事もありました。

でもそうそうおいそれとは、とても買い与えてなど貰えませんでしたねぇ。

写真は参考

そして検索していると、漉し餡だけじゃなく、こんな粒餡の餡子玉もあるようです。

一丁昔を懐かしんで、近い内に買い求めて見るとしますかぁ!


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(575)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

子どもの頃、こんな画期的で指に溶けたチョコが引っ付かない、チョコベビーに憧れたものでした。

でも一日10円の小遣いしかなかったぼくにゃあ、高嶺の花!

写真は参考

遠足の時や、お婆ちゃんがやって来た時に、どさくさに紛れて一門菓子屋へお婆ちゃんを連れ込み、買ってもらう時くらいしか、口に出来なかったものです。

しかも腕白坊主共は、一粒一粒大切に食べるのじゃなく、赤いプラスチックの蓋を開け、そのまま口の中へ思いっきり放り込み、平らげちゃったものです。

写真は参考

だからこんな、星形やニコちゃんマークが入ったチョコベビーなんて見たこともありませんでした。

でもどうやら、こんなレアなチョコベビーが紛れ込んでいたようです。

皆さんは、こんな星形やニコちゃんマークのチョコベビーを見つけたことがありましたか?

そんな大人気だったチョコベビーは、昭和40(1965)年の生まれとか。

今年で還暦なんですねぇ!

ってことは、敬老パスなんぞも貰えちゃうんでしょうかねぇ?


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(574)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

子どもの頃の事、いつだったかもう覚えちゃいませんが、お母ちゃんが何処ぞかで作り方を聞き込んできたのか、缶詰ミカンの入ったババロアが、オヤツの時間に登場したことがありました。

写真は参考

なんとも「どーよ!」とでも言わんばかりのドヤ顔のお母ちゃんが、「とっておきのババロアって言う、洋風の冷たいプリンみたいなオヤツや!さぁ、お食べ」と。

写真は参考

ぼくはそれまで、ババロアなるものを食べたことも無く、せいぜいプリンかゼリーくらいのもの。

ババロアは、プリンのような滑らかなものとは異なり、どちらかと言うとゼリーのような食感だった事を覚えています。

そもそもゼリーがちょいと苦手だったぼくには、お母ちゃんの新型オヤツのババロアも不発に終わってしまった気がします。

だからか、わが家のオヤツには、二度とババロアが登場しませんでした。

よくよく考えると、ぼくがババロアを口にしたのは、その時一回だけだったような?

そんなババロアですが、19世紀初頭に現在のドイツ南部に当たる、バイエルン王国の宮廷に仕えていたフランス人シェフが考案されたものだとか。

写真は参考

そんなにも昔から親しまれた洋風のお菓子だったんですねぇ。

どうにもぼくは、ゼラチンや寒天が苦手で、今もってなかなか手が出そうにありません。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(573)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

今日も「粉モン」で恐縮です。

子どもの頃、一度だけお母ちゃんが、フライパンでこれまた大きく分厚いお好み焼きを焼いてくれたことがありました。

写真は参考

いつもならご近所の、一文菓子屋兼お好み焼き屋の、トシ君家のオバちゃんの店で、大きな鉄板の脇の丸椅子に腰かけ、ネギとキャベツだけが入った、スタンダードなお好み焼きの焼き立てを頬張ったものでした。

店の品書きは、「お好み焼き」「焼きそば」「モダン焼き」の3つだけ。

広島焼き風の、お好み焼きに焼きそばがサンドされたものを、トシ君家では「モダン焼き」とそう呼んでおりました。

写真は参考

確か「モダン焼き」のお値段は、ネギとキャベツだけが入った、スタンダードなお好み焼きの3倍くらいだったような!だから滅多やたらと、食べさせてなんぞ貰えませんでした。

大きな鉄板の上で、トシ君家のオバチャンが作る「モダン焼き」を、ぼくもお母ちゃんも鉄板の傍らで羨ましげに眺めておりましたから、お母ちゃんが手ぐすねを引いて、「なぁ~んちゃってモダン焼き」を作ってくれたんです。

写真は参考

しかし、トシ君家のオバちゃんが作るモダン焼きとは似て非なる、ボンボコボンで滅茶苦茶肉厚なものと成り果てていたものです。

でも味は、トシ君家のオバちゃんのモダン焼きより、ずっとずっと美味しかったと記憶しています。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(572)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

月に一度の贅沢として、名鉄百貨店の食堂でお子様ランチを食べさせてもらったものでした。

お父ちゃんとお母ちゃんは、決まってショーウィンドーの中でも一番お値打ちな、中華そばかきつねうどんと相場は決まっておりました。

写真は参考

ぼくは蝋細工の料理を眺めるのが好きで、どうせお子様ランチしか注文して貰えないと百も承知で、一度も味わったことのないような、ハイカラな料理やデザートに首っ丈だったものです。

中でも一度は、食べさせてもらいたくって仕方なかったのがホットケーキ。

どうにも憧れてならなかったものです。

それからいつ頃になってからの事やら、ある日曜日。

お母ちゃんが「今日はホットケーキ焼いてやるでなぁ」と。

写真は参考

期待に大いに胸膨らませ、今か今かと卓袱台の前に陣取って、待ち構えておりました。

すると「お待たせ!お母ちゃんの大型ホットケーキやでぇ」と。

お盆のような大きな皿に、丸い座布団のような巨大で分厚いホットケーキが一枚。

写真は参考

ショーウィンドーで覗き見たホットケーキのような、蜜のようなシロップも掛かっていなきゃ、バターもなく、ホイップクリームなんて夢のまた夢。

ショーウィンドーで目にしたホットケーキは、直径15~16cm程で、厚さが2cmほどのもので、それが3枚ほど重なってシロップが垂らされ、バターが一番上に載っていたと言うのに!

お母ちゃんのホットケーキは、大きなフライパンで丸ごと焼き上げたような、そんな大胆なものでした。

写真は参考

何でもホットケーキは、大正12(1923)年に、東京日本橋の三越デパートの食堂で、「ハットケーキ」の名で登場したものとかで、バターとメープルシロップが添えられていたとか。

写真は参考

やがて昭和32(1957)年、ぼくが産声を上げた年になつて、森永製菓から加糖タイプの「森永ホットケーキの素」が発売され、徐々に一般家庭でも手軽にホットケーキが楽しめるようになって行ったようです。

今にして思うと、お母ちゃんのお好み焼きのような巨大なホットケーキが、妙に懐かしく思えてなりません。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(571)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

まだ幼稚園の頃だったか、こんなミカンの入っていた木箱があったものでした。

ミカンを美味しくいただいた後は、ミカンの木箱がぼくのオモチャ箱として、茶の間の片隅に置いてあったものです。

写真は参考

同様に、こんなリンゴの木箱もあって、やはり空となった木箱を、お母ちゃんは内職の裁縫道具入れなんぞに、再利用していた事を覚えています。

しかしやがて木箱は徐々に姿を消して行き、頑丈な段ボール箱に変わって行ったものです。

思い返せば、今の薄っぺらな段ボール箱とは異なり、分厚く頑丈な出来栄えで、なかなか容易に折りたたむことも出来なかった様に思います。

そんな段ボール箱もやっぱり、何かを入れたり仕舞って置くための箱として、何かしら再利用していたものです。

写真は参考

そう言えば、緩衝材として利用されるプチプチのエアークッションのようなモノが誕生する前は、もっぱらもみ殻が木箱に詰められ、そこにリンゴなんかを大切に入れてあったものですし、卵ももみ殻で割れない様に工夫されていたことも思い出しました。

写真は参考

役目を終えたもみ殻は、きっと七輪の練炭に火を付ける時の、焚き付けとしてでも使っていたのかも知れません。

いやはや、今よりももっともっと、限りある資源を大切にしていたんでしょうねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(570)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

高校生の頃だったでしょうか?

友に誘われ、名古屋駅にあった映画館で、ブルース・リー主演のカンフー映画、「燃えよドラゴン」を見に行ったのは?

参考

その時に初めて、映画館の売店で、友と一緒になけなしの小遣いを叩いて、ポップコーンを買ったものでした。

写真は参考

周りの観客も同様に、片手には大きなポップコーンの入った、紙のボールを抱え、映画のシーンに夢中になりながら、ポップコーンを鷲掴みにして、食い入るようにブルース・リーのカンフーアクシヨンにのめり込んでいたものです。

映画に登場するヌンチャクのアクションは、悪者どもを一気呵成に片付ける圧巻でした。

ぼくは知らなかったのですが、ヌンチャクとは、元々琉球古武術で使われていたものだとか!

この映画でヌンチャクは、世界のヌンチャクとなった気がします。

ブルース・リーの発する「アチョー アチョー」の声に応じ、のめり込んだ観客もブルース・リーがまるで乗り移ったかのように大きく体を揺するものだから、紙のボールに入ったポップコーンが、まぁ飛び散るのなんのって。

写真は参考

そう言うぼくらの、なけなしの小遣いで買ったポップコーンも、気が付けば大半が飛び散ってしまっていたものでした。

そのポップコーン、もともとは、ネイティブアメリカンやメキシコの先住民が、トウモロコシを食用として用いるようになってから存在するものだとか。

ニューメキシコ州の遺跡から、紀元前3600年頃のポップコーンの痕跡が見つかっているそうで、何でも焚き火の中に乾燥させたトウモロコシの種子を投げ込み、焚き火から八蹴飛ばされた物を食べていたのだとか。

そんな気の遠くなるような時代から、ポップコーンが存在していたなんて、なかなか歴史ロマンが感じられる食べ物かも知れませんねぇ。

写真は参考

そう言えば、家庭でも手軽にポップコーンが楽しめる、こんなお手軽なものもありましたですねぇ。

写真は参考


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(569)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

昭和も晩年を迎えた頃のこと。

海外のホテルのレストランで、ビッフェ形式の朝食をいただく時、ビュツフェカウンターの片隅で、こんな自動でトーストを焼き上げて、次から次へとトーストを押し出して来る、コンベアー式の大きなトースターを目にされたことがありませんか?

写真は参考

客は料理を盛りつけたトレーを片手に、排出された焼き立てのトーストを、好みの枚数皿に取り、テーブルへと向かったものでした。

あの大きなトースターが妙に面白くって、初めてその光景を目にした時は、しばらく眺めていたほどでした。

するとヨーロピンと思われる女性が、トースターの摘まみを回し、コンベアーの挿入口に焼けていないトーストを2枚差し込むじゃないですか?

何の摘まみを回したのやらと、興味深げに眺めていると、やがてそのヨーロピアンの女性が投入したトーストが排出されて来ました。

写真は参考

すると女性は、これまでのトーストより、もう少しこんがりと焼き上がったトーストを取り上げ、満足気な顔で自分のトレーに載せ、テーブル席へと向かって行きました。

どうやらその摘まみを回すことで、自分好みの焼き上がり方を楽しめるんだと知り、ぼくは他の料理に目もくれず、何種類も焼き目の違ったトーストを焼き上げ、一人テーブルでせっせとバタートーストとカフェオレを愉しんだものでした。

まぁ、周りのテーブルの方たちは、ぼくのトーストだけの朝食を、奇異な目をしてご覧になっていたものでした。

今でもあの、回転式の大きなトースターってあるんでしょうかねぇ?


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(568)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

写真は参考

昭和もいよいよもって、掉尾を飾ろうとしていた、昭和63(1989・平成元)年。

こんな「いつでもどこでもカラオケ!『まめから』」なるものが、エプソンからお花見シーズン直前に発売されました。

マイクとスピーカー一体型のハンディタイプのカラオケ、「まめから(MK-100)」です。

写真は参考

ぼくも微かに記憶があります。

ところがその年の1月7日に、昭和天皇が崩御され、巷では大袈裟なようですが、歌舞音曲の一切が「自粛」されるようなムードが蔓延し、忽ち全国各地へと飛び火し、日本国中が一斉に喪に服したような、項垂れた日々が訪れたものでした。

写真は参考

ですからその年の花見は、鳴り物入りで「まめから」が世に登場したとはいえ、自粛ムードが蔓延する只中にあり、呑めや歌えの大騒ぎとはならなかったと記憶しています。

それから平成へと時代は移り変わったものの、バブルが崩壊するまでは、ネクタイで鉢巻きし、まめからで大騒ぎしている花見の酔客も、見かけられたものでした。

写真は参考

またこんなデュエット用のまめからもあったようですねぇ。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「昭和Nostalgia」(567)

https://youtu.be/3CeTEMdXC7I

※遅まきながら、ぼくもフェイスブックとやらを始めました!まだまだ充実しておりませんが、ぜひ一度お越しください!Facebook


今日の「昭和Nostalgia」はコチラ!

このバターココナツ、好きでしたねぇ。

写真は参考

と言っても、いつもいつも買ってもらえたわけじゃありませんでした。

珍しくわが家に来客のあった人か、或いは担任の先生がおいでになる、家庭訪問の日くらいなものだった気がします。

写真は参考

わが家のココナッツサブレは、日清ではなくシスコの方が多かったような?

もしかしたら日清よりシスコの方が、一文安かったのか、お母ちゃんも手に入れやすかったからでしょうか?

でも日清とシスコの、2つのメーカーの2種類のココナッツサブレ、どちらが美味しかったのかと思い出そうとしても、とても味覚の記憶は戻って来てくれません。

写真は参考

きっとどちらも甲乙付け難い美味しさであったような気がします。

昭和41(1966)年に発売開始となった、パッケージにモンドセレクション受賞のエンブレムが燦然と輝くのは、日清製菓の「バターココナツ」!

静岡県沼津市にあった会社の商品で、「クッキーとビスケットの中間を狙う」という、商品開発コンセプト通り、独特なサクサクとした食感があり、バターの香りも豊かだったようです。

写真は参考

ぼくもこのパッケージに見覚えがあります。


この商品が当時バカ売れし、台湾やタイなど海外での認知度も高まり、ピーク時には年間80億円を売り上げたんだとか。


当然、国内外に工場を増やし、増産体制を整えたものの、バブル崩壊で一時商品そのものが消滅してしまったとか。

その後、商標を受け継いだシンガポールの会社が、商品を復刻し、中国を中心に販売を再開したようです。

同様に「日清」の名前を冠していながらも、日清シスコ「ココナッツサブレ」とは、会社も製品もまったくの別物なんだとか。

何とも、まったくもって分かりにくい話しです。

写真は参考

でも、子どもの頃のぼくに取っては、日清でもシスコでも、そんなこたぁどうでも良くって、番茶の出涸らしのお茶請けとして夢中で頬張った、ココナツツサブレの味の向こうに、まだ見ぬ馨しきヨーロッパの風景でも、朧気ながら透かし見ようとしていたような気がしてなりません。


このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。