「昭和Nostalgia」(361)

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桜が咲いて春めき出すと、今度は水が温むのを待って、浜辺で潮干狩りなんてシーズンももうそこまで来ているようですねぇ。

ぼくの知り合いの方は、この前もう既に西尾市の一色町で、ハマグリをとって来られたと仰っておられました!

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ぼくも子どもの頃に2回くらいと、娘が幼い頃に潮干狩りへ出掛けたものです。

子どもの頃は、浅瀬にしゃがみ込んで、パンツが海水に浸かってベタベタになろうが、そんなのお構いなしで、夢中でアサリを掘り返したものです。

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潮干狩りに出掛ける日の前日には、お父ちゃんが勤め先の鉄工所で、廃材となった鉄を再加工して、見よう見真似でこんな自家製熊手を、家族三人分拵えて来てくれたものでした。

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そりゃあ町内の金物屋で売っている熊手のような、洗練されたものではありませんでしたが、お父ちゃんお手製の熊手はとても頑丈で温もりが感じられたものです。

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アサリがブリキのバケツ一杯になるまでもう夢中で!

きっとDANのどこかに刻まれていたであろう、狩りに心ときめく古代人の血の滾りを感じながら!

参考

何千年も前の貝塚があちらこちらにあるように、潮干狩りは連綿と受け継がれて来た、春の旬を堪能する、最もお手軽な狩りの一つだったんでしょうねぇ。

でももうこの歳になったら無理!

だって潮干狩りの翌日には、鍼や灸に整体や、整形外科通い間違いなしでしょうから!

いやはや、トホホ・・・。


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「昭和Nostalgia」(360)

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家の周りで見かける桜も、もうすっかり五分咲きに近いようです。

ぼくはどちらかと言うと、花簪のように見える枝垂桜がお気に入りです。

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不思議と日本人は、殊の外桜には思い入れがあるようですねぇ。

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出来るものならタイムスリップでもして、こんなシチュエーションのお花見を楽しんでみたいものです。

そう言えば、バブル時代前夜から桜の名所の公園では、どこの会社でもブルーシートを広げ、新入社員が朝から晩まで交代で場所取りをしている姿を見かけたものでしたですねぇ。

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こんな役を仰せつかると、それなりに新入社員の登竜門とは言え、なかなか大変だったことでしょうねぇ。

ぼくは有難いことに、一度もそんな役回りをしたこたぁありませんでした。

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しかしブルーシート一杯で車座になって乱痴気騒ぎをされている花見客たちは、ほとんど桜の美しさを愛でながら、酒を酌み交わしているようには見えなかったものです。

まぁ、それが花見の宴会ってぇモノなんでしょうかねぇ。

ぼくは団体行動が苦手ですから、この手の花見宴会は苦手で、あまり人で混み合わない場所の桜を眺め、キリン晴れ風で今年は一献とまいるつもりです!


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「昭和Nostalgia」(359)

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まだ伊勢湾台風の被害にあって2~3年の頃だったでしょうか?

南区江戸町の親類のアパートに親子三人で暮らしていた頃です。

大家さんは遠縁のお爺ちゃんとお婆ちゃんで、その老夫婦の孫がぼくより一つ上と同い年の遠い従弟で、ぼくを含む三人の男坊主共の名付け親でもあったそうです。

ぼくは「稔」、一つ上の従弟が「薫」、同い年の従弟が「守」でした。

年に一度、遠縁のお爺ちゃんとお婆ちゃんのアパートの隣に建つ、隠居部屋へ年始のご挨拶に伺い、お年玉を頂戴したものでした。

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でもご隠居部屋に入ると、壁に掛けられた能面が何だか怖くって、落ち着かなかったものです。

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もうお爺ちゃんやお婆ちゃんと何を話したかさえ思い出せませんが、お爺ちゃんは煙管盆を引き寄せ、刻み煙草を指先で器用に丸め、雁首の先の火皿に詰め込み、火入れの炭で火を移し、美味そうに眼を閉じたまま、一口二口煙草の煙を呑み込み、ゆっくりと煙を吐き出したものです。

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そして徐に煙管盆の灰落としに雁首を打ち付け、火皿の灰を落としたその姿がなんとも粋で粋で!

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ぼくも大人になったら、煙管で煙草を吸おうと心に誓ったほどでした。

まるで、TV時代劇「鬼平犯科帳」の鬼平こと、長谷川平蔵を演じる中村吉右衛門さんのように、格好よく灰落としにカーンと煙管の雁首を打ち付けたいと!

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以前TV番組の小道具として、どこで買い揃えたものだったのか、長さ12~13cmほどの小さな煙管と、写真の「小粋」と銘打たれた刻み煙草を持っています。

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さすがにこんな立派な煙管のトラベルセットは手に入れられませんから、小道具の短い煙管と「小粋」を携え、どこぞの旅先の空の下で、一服付けてみようかなあなんて思い描いております。


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「昭和Nostalgia」(358)

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わが家にも、こんなプリンの型があったものです。

インスタントのプリンをお母ちゃんがよく作ってくれたなぁ。

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でもその内にお母ちゃんも面倒臭くなったのか、お洒落なプリンの型抜きなんてあっという間に終焉を迎え、中華そばの丼に丸ごとプリンを作って冷蔵し、学校から帰るとそれを冷蔵庫から取り出して、スプーンでほじくっちゃあしこたま食べたものでした。

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もちろん食べきれなきゃ、そのまま丼ごと冷蔵し、翌日のオヤツに成り果てましたねぇ。

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それとこんなゼリーも作ってくれたことがありましたが、ぼくは子供の頃からゼリーがちょいと苦手で、あまり好まなかったこともあって、わが家のオヤツのラインナップから早々に消え果たものです。

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そう言えば、こんなチキンライスの型もありましたねぇ。

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たったこれだけのひと手間で、わが家の食卓も洋食っぽくなったものでした。

それにしてもそれらの型もどこへいったのやら?


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「昭和Nostalgia」(357)

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昭和も第4コーナーを回った、昭和60(1985)年に、日清やきそば「U.F.O」のこんなCMに注目が集まったものでしたですよねぇ。

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ぼくはもう、27歳を回った頃で、「へぇ~っ」と言った程度で、主人公のウーパールーパーに夢中になるような時代は、とっくの昔に過ぎ去っていた頃でした。

その特徴的な姿には驚きが隠せず、あっと言う間に人気者となっていったようですねぇ。

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ウーパールーパーとは、なんでもメキシコサンショウウオなんだとか。

じゃあ郡上のオオサンショウウオも親戚筋に当たるんでしょうかねぇ。


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「昭和Nostalgia」(356)

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中学生の頃だったか、高校生になってからだったか、誰かに連れられて喫茶店で「レイコー」でも飲んでいた時の事だったやら?

近くの席に座られた淑女が、「ウインナーコーヒーお願いします」と、ウエイトレスさんに告げられたんです!

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当時は今以上に世事に疎かったぼくは、もう皆様もご想像のように、心の中で「ええっ、そんな!コーヒーにタコちゃんウインナーなんて入れて、果たして美味しいもんだろうか???」などと、しきりに首をひねったものでした。

それからは淑女のご所望になられた「ウインナーコーヒー」とやらが、運ばれてくるのを今か今かと、固唾を飲んで待ち構えたりしたものでした。

ところが!

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なんのこたぁない、こんな風にコーヒーの上には、どこにもタコちゃんウインナーなど見当たりません。

美味しそうな生クリームがこんもりと浮かべられ、その傍らのソーサーの上に、スティック状の何やらが添えられているだけです!

と言う事は、もしかしてあの茶色いスティック状の何やらが、サラミのように加工された棒状のウインナーのようなものだろうかと、ますますもって淑女の一挙手一投足から目が離せなくなったものでした。

すると淑女はコーヒーカップにグラニュー糖をスプーン一杯注ぎ入れ、茶色いスティック状のものでゆらゆらと掻き混ぜ、おもむろに一口啜ったのです。

砂糖とウインナーの塩味が、きっと黄金比なんだろうなあと、羨望の眼差しを注いだものです。

ところがどっい!

それ以来、喫茶店に入る度にメニューを眺めては見るものの、おいそれと「ウインナーコーヒー」がメニューに表記されちゃあいませんでした。

と言うよりも、それからもぼくが喫茶店に連れられて行った店は、ウインナーコーヒーがメニューに表記されるような、そんな洒落た店じゃなかったってことなんでしょうねぇ。

やがてそんなことも忘れかけ、十分に大人になった頃、若き日の疑問が解き明かされることに!

そもそも「ウインナーコーヒー」の名を冠し、初めて提供を始めた喫茶店は、東京神田は神保町にある「ラドリオ」だとか。

この店の常連客だった東大の教授が、ウィーンに留学した折に目にしたコーヒーの話を元に開発されたものだとか。

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そしてぼくが、棒状のサラミかと勘違いしたのは、カプチーノを気取って見せた、シナモンスティックだったと言うわけです。

なんてこったい!

でも、皆さんの中にも、ぼくのようにお戯けな勘違いをなさった方もおいででは???


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「昭和Nostalgia」(355)

この写真は、飛騨市の都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。動画発表会終了後の記念写真です。真ん中のセーラー服姿の女子が、飛騨市立古川中学3年生のマイプロジェクト5名の中心となって、映像制作を担当してくださった2人の女生徒さんです。個人情報保護の観点から、お名前は伏せさせていただきます。

そしてこちらも都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。「三寺まいり」を自己紹介代わりに歌った後、「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」の歌の前に、今回のプロジェクトについてお話をさせていただいている時のスナップです。

飛騨市 都竹市長様のフェイスブックより

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このビデオテープの違いを、瞬時に分かった方も、これまた昭和の終盤の生き証人のお一人に違いないことでしょう。

上がβで下がVHSです。

ぼくの家には、ぼくが23~24歳くらいになるまで、ビデオデッキなんて高価なものはございませんでした。

それが何故、突然ビデオデッキがわが家に設置されたかと言うと、ちょうどその頃、名古屋のC◎Cテレビで夕方、新番組の情報番組が始まる事となり、そのレポーターのオーディションがあったのです。

確か日替わりのレポーターが月~金で5人だったか?

その内の何曜日だかのレポーターになったこともあり、その放送を録画しなくちゃと言う事で、お母ちゃんが一番お値打ちなVHSのビデオデッキを購入して来たんです!

わが家に取っちゃあ、それはそれは一大事でもあったに違いありません。

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確かこんな感じでしたですねぇ。

わが家は、お母ちゃんが電気屋さんのお薦めだったのか、βではなくVHSでした。

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しかし4月に鳴り物入りで始まったその番組も、どーにもこーにも人気が出なかったこともあり、早々と夏の終わりの2クールで打ち切り!

ぼくの出演した番組だけを録画した1本のビデオテープは、わが家の保存版として残され、もう1本のビデオテープには、お母ちゃんとお父ちゃんが好きだった番組が、上書きに上書きを重ね録画されていた気がいたします。

そりやあもう、何度も何度も上書きを重ねたせいでしょうが、ビデオテープが劣化してしまい、再生する度に画像が嵐のようだった事を覚えております。

当時はビデオテープもまだまだ高価だったんでしょうかねぇ?

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それにしても、お母ちゃんが家宝のように保存してくれていた、若かりし日のぼくの映像集は、いつのまにやらどこぞかへ行ってしまったようで、お母ちゃんの遺品整理の折にも発見することもありませんでした。


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「昭和Nostalgia」(354)

この写真は、飛騨市の都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。動画発表会終了後の記念写真です。真ん中のセーラー服姿の女子が、飛騨市立古川中学3年生のマイプロジェクト5名の中心となって、映像制作を担当してくださった2人の女生徒さんです。個人情報保護の観点から、お名前は伏せさせていただきます。

そしてこちらも都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。「三寺まいり」を自己紹介代わりに歌った後、「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」の歌の前に、今回のプロジェクトについてお話をさせていただいている時のスナップです。

飛騨市 都竹市長様のフェイスブックより

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これまた昭和に一大旋風を巻き起こした、「エリマキトカゲ」!

覚えておいでですか?

何だか怖いような、それでいてどことなくひょうきんなようでもあり、瞬く間にお茶の間の人気者となりましたねぇ。

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何でも襟巻を広げ、敵を威嚇するんだそうですが、それにしてもエリマキトカゲの愛称は可哀そうでもあります。

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さすがに商魂たくましく目ざといオモチャ業界では、さっそくこんなフィギュアを販売したり、

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こんな玩具まで登場したようです!

ぼくは見た記憶がありませんけどねぇ。

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やっぱり一番記憶に残っているのは、三菱ミラージュのCMでしたねぇ。


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「昭和Nostalgia」(353)

この写真は、飛騨市の都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。動画発表会終了後の記念写真です。真ん中のセーラー服姿の女子が、飛騨市立古川中学3年生のマイプロジェクト5名の中心となって、映像制作を担当してくださった2人の女生徒さんです。個人情報保護の観点から、お名前は伏せさせていただきます。

そしてこちらも都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。「三寺まいり」を自己紹介代わりに歌った後、「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」の歌の前に、今回のプロジェクトについてお話をさせていただいている時のスナップです。

飛騨市 都竹市長様のフェイスブックより

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このCMは、とにもかくにも斬新でしたですねぇ。

覚えておいでですか?

SONYのウォークマン憧れましたぁ~っ!

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でも当時のぼくには、とてもとても手が届かなかったですねぇ。

これ見よがしに、わざわざ見せびらかすようにしてウォークマンを持ち歩いている、年上のお兄様方やらお姉様方を横目で眺めながら、心底羨ましく思ってならなかったものでした。

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ぼくがウォークマンを手にしたのは、それから何と20年以上もたった頃だったでしょうかねぇ?

それもその時は、どうにもこーにも必要に駆られたから買い求めたような・・・

ですから初めてウォークマンを目にした、あの衝撃はとっくの昔に消え去ってしまっておりました。

あの羨望の眼差しは、いったいどこへ行っちゃったのやら?

何ともはや、ぼくはそうして全国的な流行と言う現象から、ひとり取り残されて行ったのかも知れません。

それもそのはず、ウォークマンがこの世を席巻したのは、1979(昭和54)年のことですから、ぼくはお金のない22歳。

さすがに22歳にもなって、いつまでもお母ちゃんにおねだりをするような歳でもありませんから・・・喉から手が出るほど欲しくっても、我慢して我慢してそんな風にして切ない時代をやり過ごしちゃったって事なんでしょうねぇ。

トホホ・・・


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「昭和Nostalgia」(352)

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そしてこちらも都竹市長様のフェイスブックより拝借させていただきました。「三寺まいり」を自己紹介代わりに歌った後、「飛騨びと達の、SOYAな SOYAさ」の歌の前に、今回のプロジェクトについてお話をさせていただいている時のスナップです。

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これをご覧になった事はございませんか?

ぼくはお父ちゃんの仕事道具の入った道具箱の中で、こんな計算尺を見かけたものです。

しかし果たして、こんな一見しただけでも難しそうで、理解を越えるようなアナログな計算機を使って、どのようにして何を計算したものやら?

算数も苦手でならなかったぼくにゃあ、今もってさっぱり理解不能の長物です。

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このノギスって名前の計測器も、同様にお父ちゃんの道具箱の中で見かけたものですが、こちらは計算尺とは異なり、爪と爪の間に挟んで長さを計るものなんだぁと、それくらいは分かったものです。

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それから、お父ちゃんの日曜大工のお供は、こんな折り畳み式の物差しでしたねぇ。確か上着の胸ポケットに入れてあったような?

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こんな大きな巻き尺は、小学校の運動会の時なんぞに見かけましたねぇ。

でも令和の現代は、いずれもこんなアナログな計算機や計測器は、無用の長物と化しちゃっているんでしょうかねぇ?


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