「昭和Nostalgia」(559)

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子どもの頃、学校から帰って玄関を開け、耳をそばだてて聞こえてくる音で、一喜一憂したものです。

その時点で既にお母ちゃんが内職の手を休め、台所に立ち何やら夕餉の下準備を始めていようものなら、今日はどんな手の込んだご馳走やらと、期待に大きく胸を膨らませたりしました。

「ただいま~っ!」と言いながら台所のお母ちゃんを盗み見ると、擂鉢を片手で押さえ擂粉木で何かを潰していると、いよいよ大好物のお母ちゃんのコロッケに相違ないと、確信したものです。

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台所中に蒸したジャガイモの香りが漂い、夕飯が待ちどうしくってなりませんでした。

でもこれがドッコイ!

確かにお母ちゃんのコロッケは、頬っぺたが落っこちるほど美味しかったのですが!

でもそれは、せめてせいぜい2~3個ならばの話し!

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ところが夕餉の卓袱台の中央には、大皿に山のように盛られたコロッケが!

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さすがに子どもの頃から、揚げ物好きだったぼくでも、コロッケの二百三高地を仰ぎ見た瞬間に、たちまち戦意喪失したものでした。

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しかし今にして思うと、当時のわが家には、マッシャーなどと言う、ハイカラな調理器具など無く、お母ちゃんは擂鉢擂粉木を代用品として使っていたのだと、改めてお母ちゃんの苦労が偲ばれてなりません。

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しかもあの、ラードで揚げた、挽き肉何て数えるほどの粒しか入ってなかったお母ちゃんのコロッケでしたが、あのズングリムックリとした俵型のコロッケが妙に懐かしく、あの美味しさをあてに、キリングッドエールをプッハァ~ッと傾けたいものです。

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「昭和Nostalgia」(558)

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この「新聞少年」と言う曲をご存知ですか?

ぼくが小学2年になった年だったか、昭和40(1965)年に山田太郎さんが唄って大ヒットを記録した、昭和の名曲です。

前年に東京五輪が開催されたとはいえ、今よりももっともっと貧しい時代でもあり、小学生や中学生が、新聞配達のアルバイトをして、家計を支えることが、ある意味孝行息子や孝行娘なんて褒めちぎられ、美化されていたような時代でもあったものです。

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それが冒頭の歌詞「僕のアダナを知ってるかい? 朝刊太郎というんだぜ」と言うフレーズに象徴されていたような気がします。

ぼくの同級生の中にも、新聞少年や牛乳配達をする牛乳少年なんぞがおりました。

ぼくは残念ながら、憧れたものの新聞配達はさせてもらえませんでしたが、裏の家のジュン君家が雪印の牛乳販売店だったこともあり、夏休にほんの少しだけ遊び半分で、ジュン君のオジサンの軽トラの荷台にジュン君と乗せてもらって、数件牛乳配達を手伝わせていただく機会がありました。

そのほんの僅かばかりのお手伝いの報酬は、たしかオジサンが飲ませてくれた、コーヒー牛乳とフルーツ牛乳だった記憶があります。

それから40年以上経ってからでしたが、取材で新聞販売店にお邪魔したことがありました。

ぼくの関心は、新聞配達員さんたちが、何を目印に自分の配達区域を把握されるのか?でした。

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話を伺うと、こんな配達区域の道順を描いた、専用のノートがあり、そこには暗号のような記しと文字が簡潔に描かれていたものです。

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「・ト」は、「一軒左隣り」のような感じで!

これをデスメッセージにして、サスペンスでも描けないものかと、当時は真剣に考えたりもしたものでした。


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「昭和Nostalgia」(557)

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幼かった頃にたった一度だけ、按摩さんの笛の音を聞いたことがあります。

それは男笛だったのか、はたまた女笛だったのか、もう今となっては確かめようもありませんが・・・。

その夜、按摩さんの笛の音とも知らず、ぼくはお母ちゃんかお父ちゃんに、「窓の外から、夜鳴きソバ屋のラッパじゃなくって、変な笛の音が聞こえるよ?」とかなんとか、奇妙な音色に思わず問うたんでしょう。

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するとお母ちゃんだったかお父ちゃんだったかが、「あれは按摩さんが、『按摩はいかがですかぁ?』と、呼ばっとらっせる合図なんやわ!」と。

慌ててカーテンを開けて窓の外を眺めると、杖を片手に笛を吹きながら歩く、男の按摩さんの姿が街灯の裸電球の光に、ぼんやりと浮かんでいたものです。

しかし後にも先にも、按摩さんの笛の音を聞いたのは、それ1回だけでした。

ですから、按摩さんの笛の音がどんな音色だったのか、もう記憶の欠片さえありません。

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ちょっと気になって調べてみると、按摩笛には「男笛(おぶえ)」と「女笛(めぶえ)」の2種類があり、男笛には指穴があり音階を奏でられ、女笛には指穴がなく2本の竹を並べ共鳴させる構造なんだとか。

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ではなぜ、男笛と女笛とに分かれていたかと言うと、笛の音色で按摩さんの性別を区別し、希望する按摩さんを選ぶ目安としていたんだとか。

なるほどなるほど!

そう言えば昭和の昔には、食欲旺盛で何でも食べてしまう、食い意地の張った人を指す言葉として「口に入る物なら按摩の笛でも」ということわざもあったくらいですものねぇ。

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按摩さんには大変失礼なことわざだろうと、時代が移ろう中で、もうさすがに使われなくなりましたが、昭和半ばの時代では、人々の暮らしの中に按摩さんが、癒しの存在として遺っていた証だったのではないでしょうか?


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「昭和Nostalgia」(556)

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この方を昭和人なら、きっとご存知なんじゃありませんか?

ぼくは一度だけ、すれ違ったことがございます。

それは昭和も50年代に入ったばかりの頃だったでしょうか?

当時の古い古い名古屋駅の、地下鉄名古屋駅と名鉄名古屋駅、そして近鉄名古屋駅が、半地下のような狭い連絡通路で結ばれておりました。

確か非常に不鮮明なぼくの記憶によれば、近鉄名古屋駅側には床屋や蕎麦屋、それに一杯飲み屋のような小さな店が数件並んでいたと思います。

近鉄側から入り、名鉄名古屋駅を経て地下鉄名古屋駅へ続く、その狭い幅3.6mほど、高さ2.2mほどの連絡通路には、いつもシャボンの匂いと蕎麦屋の出汁の香、一杯飲み屋の味噌おでんの匂いが混じり合って立ち込めていたものです。

ぼくはその日も用があって、名鉄名古屋駅から近鉄名古屋駅へと、その連絡通路を進んでおりました。

するとすれ違う人混みの向こうから、何やら大きく朗らかな声が聞こえて来るじゃありませんか!

その声は糞狭い連絡通路を一歩二歩と進むうちに、より鮮明になってまいりました。

「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と!

ええっ、待てよ!

確かにどっか聞き覚えのある名調子じゃないか!

そう思っている内に、人混みの向こうから、両手を前へ突き出し、親指を押し立てた、ぼくの不鮮明な記憶では、上半身裸で笑いながら大声を発し、あの浪越徳次郎先生がやって来られたんです!

でも果たして本当に、昭和50年代の初め頃とは言うものの、狭い連絡通路を上半身裸のまま、浪越先生ともあろう著名人が歩いていたとは、いささか考えにくいです。

ですからきっと上着は、治療着の白衣を召されていたのかも知れませんが、ぼくの記憶の中ではすっかり上半身裸として記憶に遺ってしまっていたようです。

いずれにしろ、狭い通路を通り抜けるまで、浪越先生は「指圧の心は母ごころ、おせば生命の泉湧く」と、大きな声で笑いながら繰り返され、人波がサッ~ッと割れ、道が開らけるようでした。

浪越先生と言えば、新婚旅行で来日し、胃痙攣で体調を崩したマリリン・モンローに、素手で指圧を施した唯一の日本人。

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ご本人も後に、「そりゃあもう、とにかく綺麗な方でしたよ。いつもより三倍くらい時間をかけてしまいました」と語られたとか。

文字通り押しも押されもせぬ、日本を代表する指圧師でもいらっしゃったわけです。

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ぼくも当時、もう少し心に余裕を持てていれば、冷静になって大学ノートの1ページを開いて、先生の拇印でも押していただけばたかもと、今さらながら痛感するばかりです。


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「昭和Nostalgia」(555)

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昭和も50年代に入った頃だったでしょうか?

サウナとか昔の銭湯とは異なる、日帰り温浴の出来る大浴場とかの、脱衣場や娯楽室と言った所で、こんな足のツボをを刺激して疲労を取ったりする、足ツボプレートなんかを見かけたものでした。

でもプレートに恐る恐る乗っかると、くすぐったいやら、とんでもなく痛かったりで、長い時間静かに乗っかっているなんて、とてもできなかったものです。

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なかにゃあ、こんな竹の突起物を踏むものもございましたですよねぇ。

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ぼく的には、自分の全体重をかけて乗っかる、足ツボプレート的なモノより、こんなゴムの突起物の付いた、ローラー式の足ツボマッサージ機の方が好きだったものです。

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やがて昭和も終わりを告げる頃だったか、とうに昭和が平成に改まってからだったか、こんな電動の足裏マッサージ機なんてぇのも登場してまいりましたですねぇ。

温泉なんぞの脱衣場や休憩室なんかで見掛け、ぼくも癒されたものでした。

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でもどうしても、わざわざ高い施術代を支払ってまで、顔を歪めながら痛みに耐える足ツボマッサージってぇのは、ヘタレなぼくにゃあ、とても無理な相談ってぇものでした。


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「昭和Nostalgia」(554)

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まだ小学校の低学年の頃、家風呂が出来るまでは、お父ちゃんやお母ちゃんと銭湯通いをしたものです。

中でも興味津々でならなかったのが、「電気風呂」!

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お父ちゃんもお母ちゃんも、気持ちよさそうに入っているのを見ると、ついついどんなに馨しいお風呂なんだろうと、手を突っ込んでみたり爪先をオッカナビックリで突っ込んでは見るものの、何やらビリビリっと来るようで、ご老人や大人ばかりが入っている「電気風呂」に入るなんてぇ事は、中々ままならなかったものです。

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大人になって東京のプロダクションに所属し、大田区蒲田のアパート暮らしを始めた時、醤油風呂で名高い近所の蒲田温泉に通い出し、「電気風呂」に入るようになりました。

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子どもの頃とは違い、あのビリビリッと伝わって来る刺激が心地よく、長湯を決め込んだりしたものでした。

きっと在りし日のお父ちゃんもお母ちゃんも、そいでもってご老人たちも、その日の疲れを癒していたんでしょうねぇ。

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今度どこかの日帰り温泉ででも見掛けたら、ぼくもやっぱり長湯を決め込むんでしょうねぇ。

風呂上がりの、キリングッドエールを愉しみに!


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「昭和Nostalgia」(553)

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口に入れて食べると、グラニュー糖がジャリジャリと音を発する、そんな菓子パンをご存知ありませんか?

諸説あるようですが、宮崎県発祥の「じゃりパン」とか。

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それは、コッペパンに、ホイップクリームとグラニュー糖を混ぜた餡が、サンドされているものだそうで、宮崎市のパン屋ミカエル堂の発祥とか。

元々はバタークリームロールと言う名前で売っていたようですが、食べた学生が噛んだときにジャリジャリとした食感があり、じゃりパンと呼んだ事が名前の由来となっているとのこと。

ぼくが子どもの頃の記憶を手繰り寄せてみると、コッペパンではなく、普通の食パンにマーガリンガ塗られ、その上にグラニュー糖が散りばめられていた気がいたします。

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それを果たして「じゃりパン」と呼んでいたかどうかの記憶まではありませんが・・・。

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ぼくの子どもの頃の「じゃりパン」擬きのモノは、青森のソウルフードと呼ばれる「イギリストースト」や、岩手県のご当地パン「ネオトースト」と呼ばれるモノの方が、ぼくの記憶の中の「じゃりパン」に近い気がします。

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家ではお母ちゃんが市販の「じゃりパン」を真似て、「そんなもん、家でお母ちゃんが作ってやるで、パン屋で買わんでもええ」と言って、さっそく「じゃりパン」擬きを作ってくれたものです。

山切りではない普通の食パンにマーガリンを塗り、洒落たグラニュー糖の買い置きなんぞのないわが家では、上白糖を散りばめて供されました。

さっそく愉しみに頬張ったものの、グラニュー糖の「ジャリ」感は無く、上白糖の噛み応えの無い甘さが押し寄せて来たものです。

でも「ジャリ」感こそは無かったものの、味わいは共に同じで、ぼくは「お母ちゃんのサトウパン」とかって、勝手に呼んで良くリクエストしましたねぇ。

今度何でもない食パンを買ったら、「お母ちゃんのサトウパン」でも作って、在りし日のお母ちゃんを偲んでみるといたしますかぁ!


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「昭和Nostalgia」(552)

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ジャガイモもニンジンも一口ではとても頬張れないほど大きく、ブツ切り状態でゴロゴロ。

豚肉のこま切れが申し訳程度に入っている、それが昭和半ばのわが家の卓袱台を彩った、お母ちゃんの洋食ベスト3の内の一つ、黄色いカレーライスでした。

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お母ちゃんが家族3人分のカレーライスを卓袱台に配膳し、お父ちゃんの着替えを待っていただきますとなるのが、わが家の暗黙のルールでした。

お父ちゃんの着替えが手間取っていると、カレーライスのカレーの上っ面が、まるでオブラートでも被せたかのように、薄い膜が張ってしまったものです。

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ぼくはそれがどこの家でも同様なんだろうと思っておりましたが、ご近所でもお金持ちと評判の友の家でいただいたカレーライスは、大きくって柔らかな牛肉がゴロゴロ!

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そいでもって友のオバチャンが、わが家のお母ちゃんの割烹着の前掛けとは似て非なる、可愛らしい花柄のエプロンなんぞをお召しになって登場。

そいでもって、これまたわが家の丸い卓袱台とは月とスッポンの重厚なダイニングテーブルの上に、チキンライスの型で抜いたライスを盛りつけた皿と、アラジンの魔法のランプのような、カレーの入った「グレービーボート」なるものを、友とぼくの前に配膳し、「さぁ召し上がれ!ビーフカレーよ」と。

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わが家の豚の細切れ肉とは大違い!

そりゃあもう、これが本当の洋食なんだぁと、感じたものでした。

それから10年ほど後の事。

向田邦子さんのエッセイを読んでいた時、向田さんのカレーライスの回想譚に辿り着いたのです。

何でもその日の夕餉はカレーライスで、卓袱台の上に4人分のカレーライスが配膳され、家族4人が揃って「いただきます」と唱えてから、食事を始めると言うのが向田家の暗黙の了解事項であったそうです。

ところがその日、向田さんのお父様は、どうにもご機嫌が麗しくなく、何かの事でお母様を叱りつけていたんだとか。

向田さんは早くお父様が機嫌を直し、カレーライスを頬張りたいと、一心に祈っていたとか。

そう祈る間、カレーライスの表面を眺めていると、薄っすらとオブラートのような膜が張ったとか!

「それってわが家のカレーライスと一緒ジャン」と思うと、なんだかとてもお母ちゃんのカレーライスが愛おしく思えてならなかった事を覚えています。

どうやらオブラートの正体は、カレーを少しでも増量しようと、メリケン粉を溶かして入れていたからとか。

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もう今となっては叶いっこありませんが、もう一度あの大きく切ったジャガイモやニンジンがゴロゴロとしていて、豚の細切れが申し訳程度に添えられた、お母ちゃんの黄色いカレーが恋しくなってしまいました。


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昭和半ばのわが家に取っちゃあ、お母ちゃんのチキンライスは、それこそが立派な洋食だったものです。

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お母ちゃんはどこで手に入れて来たのか、こんなアルマイトの型を使って、お母ちゃんにしちゃあ洒落こいたチキンライスを、鳴り物入りで作ってくれました。

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おまけにこれまたどこで見聞きしたものか、チキンライスの上には、彩を兼ねたグリンピースが添えられていたものです。

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でもぼくは、今なお苦手なグリンピースをこっそりスプーンで拾い上げ、お父ちゃんのチキンライスの上に散りばめたりしました。

そう言えば、あのお母ちゃんの秘密兵器だった、チキンライスのアルマイトの型、どこへ仕舞い込んだのか、どなたかご存知ありませんかぁ?


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「KIRIN BEER PRESENT’S  オカダミノル  ほろ酔い Live 2025~秋涼の候 in C♭満員御礼でした!

定員を遥かに上回るご来場に、心より感謝申し上げます。

次回は新曲も交え、もう一つパワーアップしたLiveをお届けしたいと思っています。

どうぞ変わらぬご声援の程、よろしくお願いいたします。

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