「昭和Nostalgia」(453)

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昭和半ばの腕白坊主は、誰か彼かが必ず、こんな腕白勲章なる、油紙の傷あてパッドを、膝っ小僧や肘やらに貼り付けていたものでしたねぇ。

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まずは傷口を、オキシドールで消毒。

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薬液が傷口に染みて、飛び上がりそうなほどの痛さであっても、どんなに泣こうが喚こうが、お母ちゃんは一切お構いなし!

「男の子だったら、歯を食いしばりなさい!」と、情け容赦なく今度は傷口に赤チンをべったり。

その上にガーゼをあてがわれ、最後に油紙を載せ、医療用テープで隙間なくビッシリと貼り付けられたものでした。

あの油紙は、雑菌の侵入を防ぐ効果と、水濡れ防止の効果があったんでしょうねぇ。

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中には腕白坊主だけじゃなく、ゴム飛びに夢中のお転婆娘さんたちも、同じように油紙のお転婆勲章を貼り付けている子もおりましたですねぇ。

しかし昭和も後半に入ると、さすがに油紙の勲章を貼り付けているような、そんな腕白坊主もお転婆娘も、すっかり見かけなくなったものでした。

油紙とガーゼに取って代わったのが、救急絆創膏って肌の色で目立たない、安価で手に入れられる、スグレモノの登場でしたですねぇ。

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もっとも、それよりもなによりも、今の時代の子たちは、ぼくらの頃とは違って、公園とか広場を駆けずり回って、生傷が絶えないなんてぇ子は、いなくなっちゃったかぁ!


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「昭和Nostalgia」(452)

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ご近所に小中学生の頃、女の子の一卵性の三つ子の同級生がおりました。

本当にそっくりで、ぼくなんて最後の最後まで、三つ子の子たちの見分けが付かなかったものでした。

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そう言えば、三つ子の子たちの名前も、すっかり思い出せそうにありません。

ただ、例えば「由美・真美・久美」と言った感じで、一文字だけ三人とも同じ漢字が当てがわれていたように、微かに記憶しています。

当時の小中学校は、今のような少子化ではなく、1学年のクラスも多かったものでした。

だから、三つ子の一人と一緒のクラスになることはあっても、三つ子の内の二人や、三つ子全員と一緒のクラスになったことはありませんでした。

だから翌年のクラス替えの時に、また三つ子の一人と一緒になったとしても、それが前年一緒だった子なのか、はたまた別の子なのか、ぼくにはちっとも見分けが付かなかったものでした。

しかし思い返せば先生方は、よくもまぁ三つ子の子たちを見分けられたものだと、未だに感心するばかりです。

って、先生方ももしかしたらぼく同様に、本当は見分けが付かなかったのかも?

参考

そう言えば、TVアニメの「魔法使いサリー」の中にも、男の子の三つ子が登場していましたよねぇ。

こっちも一卵性なのか、三人が三人ともそっくりでした。

ちょっと調べて見ましたら、最近の三つ子の女の子たちに人気の名前は、「清那(せな)羽花(はな)萌杏(もな)」なんてぇのもあるそうです。

となると、担任の先生方は、三人の顔の見分け方にも苦慮なさることでしょうが、名前の読み方でもご苦労なさるんじゃないか?なぁ~んて、入らぬお世話を抱いてしまいましたぁ!

そんなことはともかく、ぼくと同級生だった三つ子の女の子たちは、すっかりお婆ちゃんとおなりになったのは否めなくとも、それぞれにお元気で、お幸せに暮らしであれと、心からそう祈ります!

って、ぼくだって、押しも押されもせぬお爺ちゃんなんですものねぇ!

なんてぇこったい!


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「昭和Nostalgia」(451)

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こんな洒落た可愛らしい醤油入れが、ぼくの中学の頃の弁当箱に入っていたなら、周りのみんなに羨ましがられたろうか?

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とは言え、ぼくが中学生の頃は、家のお父ちゃんも出張などほとんどなかったし、関東からの客人も無かったから、横浜名物のシュウマイ弁当など知る由もなかったでしょうが!

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大人になって東京~名古屋を往復するようになってからと言うもの、不思議にもホームのキヨスクでキリンの缶ビールと、このシュウマイ弁当を買う事が結構あったものです。

弁当の入れ物は捨てても、この陶器製の醤油入れは捨てられず、家に持って帰ったものでした。

よくよく見比べると、色んな図柄の物があったんですねぇ。

果たして全部で何十種類あるのやら?

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中学時代の新聞紙にくるまれた、アルマイトの弁当箱には、こんな醤油入れが添えられていたものです。

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今じゃ、こんなお洒落なものもあるんだそうですねぇ。


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「昭和Nostalgia」(450)

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昭和も終盤戦に入った、20歳代の頃、ここまでの酷暑ではなかったかも知れませんが、夏になるのを待ちきれずに、冷蔵庫でキンキンに冷やしたビールをグビグビと煽ったものでした。

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特にお気に入りだったのは、こんなキリンビールの2ℓ入りの生ビール!

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これを買い込んじゃあ、付属のキリンを模した注ぎ口を取り付け、ビアジョッキに豪快に注ぎ入れ、一息にジョッキを煽ったものです。

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やっぱり何と言っても肴は、夏バテ対策を兼ねた揚げ物が一番でしたねぇ!

戦前のキリンビールには、こんなレトロで素敵な、特大大瓶があったようです。

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もし今でもこんなレトロな、特大瓶入りのキリンビールが存在していたら、ぼくはきっと大人買いしちゃうでしょうねぇ!


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「昭和Nostalgia」(449)

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なんせ昭和半ばのぼくは、全く持って「巨人大鵬玉子焼き」のど真ん中を生きたようなものでした。

参考

だから巨人の王や長嶋、そして大鵬に柏戸、それにちょっと甘みの付いた卵焼きは、いずれ劣らぬ大好きな昭和半ばの遺産とも言えそうなものです。

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だからこんな磁石を使った相撲のオモチャなんてぇのもあって、誰もが大鵬を気取ったものでした。

もちろん公園や原っぱでは、王や長嶋を気取った草野球やら、棒っ切れで地面に土俵の円を描いて、大鵬や柏戸を真似たものでした。

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何にはお転婆娘も、男女平等とばかりに、一緒になって草野球や相撲に加わるツワモノもいたものです。

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その他にも磁石は、それこそ「教育磁石」じゃありませんが、学習面でも遊びでも、子どもたちを魅了してくれた、身近な道具の一つだった気がいたします。


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「昭和Nostalgia」(448)

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こんな不思議なオモチャを覚えて見えませんか?

その名も「地球ゴマ」!

参考

何と名古屋市千種区の会社で誕生した精密なオモチャで、昭和の半ばに大ヒットを飛ばし、世界中に伝播されていったとか!

当時の子どものオモチャとしてはちょっとお高かったからか、もちろんわが家にゃあありませんでした。

参考

しかし近所の腕白坊主の中には、子どもらの垂涎の的だった「地球ゴマ」を買い与えられ、自慢げに指の先で回したり、タコ糸を張って綱渡りさせたりして、腕白坊主共を釘付けにしていたものでした。

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ぼくも1~2度、地球ゴマを貸してもらって、指先で回そうと試みたものの、そんなに簡単に出来なかったような記憶があります。

そうこうして居る内に、各地の夏祭りの夜店などでも、地球ゴマそっくりな、宇宙ゴマ、太陽ゴマ、衛星ゴマ、サーカスゴマといった模造品が出回り出し、あんなに腕白坊主共の憧れの的であった地球ゴマ人気も、下火になって行ったものでした。

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さて、この地球ゴマ。

千種区豊年町にあった、タイガー商会で開発製造されたものだとか。

この会社は、大正10(1921)年の創業。

創業当初に発売された「地球ゴマ」は、昭和2(1927)年にアメリカへも渡り、やがて東南アジアやヨーロッパへも輸出されて行ったとか。

戦後GHQの統治下では、駐屯地購買部での販売や輸出が許可され、世界的にその名が知られる事となっていったようです。

国内では、昭和30~40年代に一世を風靡したものの、職人不足と高齢化から2015年4月に生産が終了したとか。

それにしても65年にも渡って、生産販売が続いていたわけですから、実に見事なロングセラー商品であったかと言う事ですねぇ。

子どもたちの夢を載せ、戦前戦後を駆け抜けた、知られざる名古屋の精密機器のオモチャだったんでしょうねぇ。


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「昭和Nostalgia」(447)

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子どもの頃の昭和半ばに、夏祭りの夜店の屋台で、こんなカルメ焼きの実演に興味津々で見入った記憶があります。

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それがどこの夏祭りだったのか、果たしてカルメ焼きを買ってもらって、食べたことがあるのかも、もうこの期に及んでは、とても思い出せそうにありません。

ただ、カルメ焼きなるものがどんな食感でどんな味がしたのかも、全く持って覚えていないってぇ事は、おそらく眺めていただけで、買い与えてはもらえなかったのでしょう。

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どうにもこーにも気になって調べてみると、カルメ焼きは砂糖の甘さとサクサクした食感が特徴的だそうで、カルメ焼きに似たようなものを食べたことがあったような、無かったような?

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謎が謎を呼んで、謎は深まるばかりです。

作り方は、ザラメを少量の水と共に加熱して溶かし、125°になったら重曹を加え、手早くかき混ぜて炭酸ガスを発泡させ、冷却して固めるんだそうです。

昔は家庭でも作られていたんだとか!

少なくとも家のお母ちゃんは、カルメ焼きなんてぇ代物、拵えちゃくれませんでしたですねぇ。

何でもカルメ焼きの語源は、ポルトガル語の「甘いもの(caramelo)」だってんですから、もしかすると織田信長様辺りは大昔にご賞味になられたのかも?

参考

また一つ、余分な謎がぁ・・・。


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「昭和Nostalgia」(446)

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そう言えば、こんなガムのショーケースってぇのも、昭和の時代には見かけたものでした。

今じゃもうすっかり、お目に掛れなくなってしまいましたねぇ。

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駄菓子屋さんの業界では、こんな「食玩」と呼ばれる、オモチャ付きのフーセンガムなんてぇのもあって、フーセンガムが欲しいのも勿論の事、それ以上に当たりくじを引き当て、オモチャを手に入れたくって躍起になったものです。

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しかしこのメーカー名らしき「コビトガム」!

何とも今の時代から思うと、とんでもなく大胆不敵なネーミングじゃあないですか!

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今の世なら間違いなく、放送禁止用語の一つだったり、差別用語扱いをされそうな気がしちゃいますけど・・・。

でも昭和半ばの頃は、市バスの運賃も「小人・中人・大人」と料金が表示されていましたし、銭湯の番台にも同様に「小人・中人・大人」と、料金が表示されていたものです。

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そもそもこの「コビト」と言うメーカーは、「渡辺のジュースの素」で一世を風靡した、泣く子も黙る渡辺製菓だそうな!

そして昭和40(1965)年10月に、(株)コビトへ社名変更されたとか。

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中にはこんな景品まで登場したようですが、ぼくの周りで当選した子は、人っ子一人いなかった気がいたします。


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そう言えば昭和も半ば、ぼくが子どもだった頃。

お母ちゃんにとって月に一度の贅沢は、こんな菓子パンの「コロネ」を頬張りながら、内職の手を止め、クリープたっぷりのインスタントコーヒーを、何とも美味しそうに啜っていた瞬間だった気がしてなりません。

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恐らくそれは、内職のお給料が戴けた日であり、自分自身へのご褒美であったのかも知れません。

その日はぼくも、ちゃっかりオヤツと称して、お母ちゃんのコロネのご相伴に与かったものでした。

ヤドカリ型のパンの中に、黄色いカスタードクリームが入ったモノでなくてはならず、チョコレートクリームや生クリームであってはならぬ!

って、そんな時代、まだ生クリームの入ったコロネなんて、売ってなかった気もいたしますが?

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お母ちゃんはコロネを手に取ると、カスタードクリームがたっぷり入った大きな口の方ではなく、クリームの付いていない尻尾の部分から、巻貝状のパンを少しずつ剥がしては、大きな口のたっぷり詰め込まれたカスタードクリームをパンに塗り付け、なんとも美味しそうに食べていたものです。

間も無くお母ちゃんの祥月命日だ!

あの時代には叶わなかった、生クリームが尻尾までしっかり詰まったコロネを、お母ちゃんの遺影に供えるとするかぁ!

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未だに立派なマザコン親父として、押しも押されもせず、元気に生き抜いているよと伝えつつ!


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「昭和Nostalgia」(444)

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駄菓子屋通いの女の子に人気だったのは、こんなソフトクリーム擬きの、とてもカラフルなとんがり帽子のような形をした、「トンガリ菓子」でしたねぇ。

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たまに近所の幼友達の女の子に、お裾分けを頂戴したこともあったような?

はてさてその見返りとして、ぼくは何かを幼友達に差し上げたものやら?

とは言えぼくと来た日にゃあ、1日10円のお小遣いの使い道は、ほぼほぼ決まっておりました。

まず半分の5円ずつを、一つ年下のマー君と出し合い、二人で10円のWアイスキャンディーを買って、それを半分こに!

そして残った5円で、くじ引きの駄菓子に挑むのが常でもありました。

紐を引いて大きな飴玉を引き当てるクジや、やっぱりクジ付きの小袋に入った甘納豆、或いはクジ引きでより大きな黒棒に挑んだり。

同じ5円の投資で少しでも大きな駄菓子を手に入れようと、そんなものばかりを腕白坊主共は選んだものでした。

ところが儚い夢を追う腕白どもとは異なり、女の子たちは堅実に、その日のお小遣いを弄んだりもせず、可愛らしくって美味しそうな駄菓子コーナーに陣取っておられたものでした。

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だからぼくは、「トンガリ菓子」のお裾分けに対し、何かしらのお返しができたとしたら、せいぜいがクジ付きの甘納豆何粒かを、幼友達の女の子の掌に握らせたくらいのモノだった気がいたします。

この「トンガリ菓子」のコーンの中は、ソフトクリームのような冷やっこいクリームなどではなく、ゼラチンだったんだそうですねぇ。

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だから食感もサクッとしていたとか。

そもそもこの「トンガリ菓子」は、姫路あたりで盛んだったそうですが、やがて戦後になって名古屋市中村区十王町にあった井桁千製菓で、昭和27年頃より作られ普及したんだとか。

それからかれこれ73年。

女子に人気だった駄菓子も、現代とでは随分と様変わりしちゃったものですねぇ。


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