ぼくが14歳の中3の夏休み。何をどう血迷ったものか、「フォークシンガー」になりたいと思うようになり、「その為には兎にも角にも東京へ行かねば!」と、なんの脈略も無く、知恵も無い中学三年生のぼくは、頑なにそうあるべきだと思っていました。そしてある日、お母ちゃんの機嫌の良さげな日を見計らって、「東京の音大の付属高校に進学させて欲しい」と交渉を持ちかけました。すると見る見るうちに機嫌の良さげな母の顔はどんよりと曇り、「そ、そ、そんな、高校から東京に下宿させるお金なんて、家の何処を探したって、逆立ちしたって出て来る訳ないやろ!」とけんもほろろ。
そこで「フォークシンガー」に近付くには・・・と、毎日考えたものです。そして閃きました!当時、ミッドナイト東海と言う、ラジオの深夜番組に出演していた、秋田出身のフォークシンガー「山平和彦」氏。当時キングレコード傘下の、ベルウッドレーベルからLPも出されておりました。「そうだ!山平さんの弟子になれば、ぼくが東京に行かなくても、東京の空気を感じ取れるはず!」と。そして右も左も分からぬままぼくは、東海ラジオに電話をして山平さんに電話を繋いでいただいたのです。そして怖いもの知らずだったぼくは山平さんに「ぼくを山平さんの弟子にしてください」と告げると、「お前、いったい何歳?」と。ぼくが「中学3年の14歳です」と答えると、「面白い!さっそく来週から、このスタジオへ来い!」と。そこでぼくの運命は、現在へと続く長い道のりを歩み出したことになります。
山平師匠との思い出話は、また後日として、今日は弾き語りで「SORANE(宙音)」をお聴きいただこうと思います。
この「SORANE(宙音)」は、ぼくが21~22歳の頃の作品です。ちょうど当時、山平さんご夫婦は、名古屋市西区のとあるマンションにお住まいで、愛娘の「宙音(そらね)ちゃん」が誕生されたとお聞きし、お祝いにお邪魔した折に、僭越ながら山平師匠ご夫妻と、生後3ヵ月ほどの「宙音ちゃん」の前で、ギターをボロロンと爪弾いて、お祝い代わりに歌わせていただいた、思い出深い1曲なんです。当時のぼくは、花屋のご夫妻の元で、アルバイトの身。「宙音ちゃん」の立派な誕生祝など、買えるほどの身分でもありませんでしたから、それが精一杯だったのです。当時、山平師匠夫妻は、自然食のベジタリアン志向で、奥様の手料理を戴きながら唄ったのを今でも鮮明に覚えております。
前置きが長くなりましたが、まずは「SORANE」を弾き語りでお聴きください。
『SORANE』
詩・曲・歌/オカダ ミノル
宙音(そらね) 小さな君の 笑顔に勝るものなど無い
だからどんな時でも パパは君を守ろう
少し重くなったと 君を抱いてママが微笑む
そうだね 幸せなんて こんなことかも知れない
君はわが家に 明るさを振りまく 静かな夜の 輝く星さ
時の流れが 波打つ時でも 君とママのため 生きて見せる
宙音 君が生まれる 前のお話をしてあげよう
あれは夏の浜辺 やさしい星たちに囲まれ
澄んだ目をした娘に パパはプロポーズをした
娘は砂に「ありがとう」 それが君のママだよ
しばらく何も言えず 小さなママの肩を 抱きしめながら 空を見上げた
その時流れた 星が今でも ママは君だと 信じている
君はわが家に 微笑みを振りまく 小さな小さな ピエロのようだね
時の流れが 波打つ時でも 君とママのため ぼくは生きよう
それから山平師匠とお逢いする機会はありましたが、東京都足立区北区に移り住まれて以降、「宙音ちゃん」とお目に掛かることはありませんでした。
ところが2004年、師匠の山平さんが東京の竹の塚駅前で交通事故に遭い、お亡くなりになったと、随分経ってからそんな訃報が届きました。
確かそれから2年ほど過ぎてしまってからだったでしょうか。東京竹のノ塚の山平師匠のお宅をやっとお訪ねすることが出来ました。当時は奥様も体を少し悪くなさっておったようでしたが、「ミノル君、よく来てくれたわね」と迎えて下さり、山平師匠のご仏前で香華を手向けさせていただきました。在りし日の師匠の遺影と、傍らには愛用されていた、オベーションのギター。そしてデビュー前の、マイ・ペースのお三方との写真に囲まれ、師匠の遺影の顔がより一層穏やかそうに感じられたものです。
しばし奥様と若き日の思い出話を愉しみ、暇乞いをして玄関先へと向かうと、玄関が開いたのです。「あらっ、お帰り!こちら名古屋のミノル君よ。あなた小っちゃかったから、覚えてないかしら?」と奥様。宙音ちゃんは、戸惑っておられました。そりゃあそうですよね。いくらなんでも、生後まだ3ヵ月ほどのまだ乳飲み子でいらっしゃったのですもの。それが何十年ぶりかで再会した、すっかり美しい大人の女性に成長された、宙音ちゃんだったのです。
でもどうして師匠は、愛娘に「宙音」と命名されたのか?その経緯を伺った覚えはありません。しかし師匠の作品には、「星の灯台」なんて曲もありますし、宇宙に関心を持たれていたのやも知れません。
はて?宇宙では、いったいどんな音が聞こえるのでしょう?しかし気圧も異なり、酸素も無い宇宙空間で、生身のままのこの鼓膜から、直接宇宙の音を聴きとることなど、出来ないのでしょうね。それでも誰も知らない遠い宇宙と言う、未知なるところの、未知なる音には、やはり壮大な浪漫が感じられるものです。師匠がこの世に遺した、たった一人の愛娘、「宙音」ちゃん。どうか何時いつまでも、幸多からんと祈りたいと思います願うばかりです。
★いつもブログに洒落たコメントをお寄せいただいている、「夢ちゃん」が11付4日にお誕生日をお迎えになります。そこで「Happy Birthday~君が生まれた夜は」で、今夜もささやかなお祝いです。
夢ちゃん、お誕生日おめでとうございます!
★ここで新企画のご提案です。深夜放送では、毎週特集のテーマを決めて、昔話の思い出話をメッセージとしてお書きいただき、リクエストいただいておりましたが、今ではそうはまいりません。
そこで毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)
今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「日捲り」。今はとんとどこからも、いただくことのなくなってしまった「日捲り」。昭和半ばのわが家には、洒落たカレンダーなんてどこにも無く、ましてやお金を出して買うカレンダーなんて、一つとしてありませんでした。あるのは全て、「○○酒店」とか「△△新聞店」と、台紙に屋号の刷り込まれた「日捲り」カレンダーばかり。よくもまあ来る日も来る日も、あっちこっちに掛けられた日捲りを、忘れず捲っていたものだと、つくづく感心するほどです。でも小学3年の年。わが家の日捲りカレンダーが、捲られもせず2週間も過ぎ去ったことがありました。父が十二指腸潰瘍の手術で2週間入院し、母が看病で付き添ったからです。母方の薩摩おごじょで、ものぐさだった婆ちゃんが、せっせこせっせこ日捲りを、捲って歩くはずも無く。あの誰も捲ろうともしなかった、父の入院当日で止まったままだった日捲りが、今でも忘れられません!って、そんなこと言うくらいなら、自分で背伸びしてでも捲れば良かっただけのことですけどね(笑)
今回はそんな、『日捲りサンタさんの長靴(クリスマスブーツ)』に関する皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。