「天職一芸~あの日のPoem 12」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「鋳物師(いもじ)」。

ゴンチキチンと鉦の音響く 天下奇祭の石取(いしどり)祭揃い半纏撞木打ち振り 鋳物師の里に夏の夜耽る     ゴンチキチンの鉦釣られて 人の心と草木も踊る     町屋川原の撫子さえも 昼咲かぬのに鉦の夜を待つ

桑名市で江戸末期から続く、中川梵鐘、六代目の中川正和さんを訪ねた。

参考写真

鋳物師修業は、百日ぶきと呼ばれる鋳型造りに始まり、踏鞴(たたら)と甑炉(こしきろ)で、千度に熱した真っ赤な鉄を吹く、その繰り返し。

「暇乞いして座を立とうとした者が、小僧の撞いた鐘の音にもう一度座りなおす」。中川さんはそんな梵鐘の音を目指した。

中川さんの言葉を借りれば、よい梵鐘ほど「当り、送り、返し、振り」と、余韻と抑揚を含んでなるそうだ。

一服の茶を啜りながら、そんな梵鐘の音を何も考えず、聴いて見たいものだ。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 11」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「鍛冶屋」。

宮川沿いの 川原を行けば 浴衣の裾も 風に戯むる   夕陽を浴びて 鍛冶橋渡りゃ 時刻むよな 槌の音    火床(ほど)のくろがね 鉄火の如く 頬を流るる 汗も拭えず                        踏鞴(たたら)踏み込む 手風琴(オンガン)弾きは 飛騨の匠の 鍛冶屋かな

宮川に架かる鍛冶橋の東詰め。明治15(1882)年から続く、新名(しんみょう)鍛冶屋に三代目新名隆太郎さんと、四代目清雄さんを訪ねた。

小さな作業場に、ひと昔前は火床も三つあり、鍛冶職人も六~七人もいたと言う。しかしご多分に漏れず、高度経済成長期の余波をもろに受け、機械化の波に呑み込まれていったと言う。「昔はここに木炭を二十俵も積み上げ、火床も真っ赤に燃え盛っとったもんやさ」。隆太郎さんはたった一つとなった火床を見つめた。

写真は、参考です。

しかし転機が訪れた。永年の勘と腕が物言う全国各地の文化財として残る、山車の飾り金具の修復だ。

「鉄は一つも捨てるとこなんてないんやさ。これ見てみ、昔の人の刀や。人を殺める道具だったもんやさ」。隆太郎さんは、二十センチメートルほどの柳刃の中子を握った。人を殺めるはずの刀が砥ぎ減りし、平時になっては役を成さず、鍛冶屋に鍛えなおされ食材を刻む新たな命を宿した。

以前一度、旅館田邊さんに泊まった翌朝、ふらっと新名鍛冶を訪ねた事がありました。何だか妙な懐かしさから。すると今では四代目が、ランプシェイドなどの作品を手掛けておいででした。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 10」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の、「菓子匠 つくは祢屋」。

宮の熱田の 神樹の杜を 誰が呼んだか 蓬莱島と    常世の国の 神々来たり 遍く民の 辛苦諫める     御手洗(みたらし)清め 柏手打ちて 曽福女(そぶくめ)様に 想いを馳せる                  千代に尊を 慕いし女は 熱田の杜の 神と召された

天明元(1781)年創業の、つくは祢屋九代目ご当主、石黒鐘義さんを訪ねた。

もともとつくは祢屋は、熱田神宮の門前、旧熱田市場町曽福女で米屋の大店を営んでいた。ところが天明の飢饉を境に、神饌菓子製造へと家業を転じた。初代善吉は、二百年以上愛され続ける銘菓「筑羽根(つくはね)」と「曽福女」を生み出し、現在も脈々と受け継がれ続ける。

この「筑羽根」は、日本武尊が東征時に携えたと言われる、火打石を模した干菓子。

またこちらは「曽福女」。本わらびにきな粉をまぶす和菓子。

熱田神宮の起源は、日本武尊から形見として授かった草薙神剣(くさなぎのつるぎ)を御神体として奉じ、宮簀媛命(みやすひめのみこと)が創祀(そうし)。尾張氏の祖先乎止与命(おとよのみこと)の娘であり、日本武尊の妃となった宮簀媛命は、曽福女様と人々に慕われたそうで、善吉はこの尊い名を冠し、尾張の地が産んだ女神を称えたそうだ。

以来、熱田神宮御用達を勤め続けた。

しかし先の大戦で、つくは祢屋の身代も大きく揺るがされた。昭和19(1944)年、鐘義さんの父に赤紙が舞い込み、本土空襲を警戒する軍から、軍用道路敷設工事により店の強制退去が命ぜられた。「店の退去の次の日が、父の出征だったそうです。だから母は軍に平伏し、空っぽの店の中に畳二枚と仏壇だけを何とか残させてもらい、翌日父はご先祖様に武運を祈り出征して行ったそうです」。鐘義さんの眼鏡の奥の眼が揺れた。

翌、昭和20(1945)年3月、鐘義さんは父が不在の家で産声を上げた。そして6月9日午前9時17分。熱田に爆撃機が飛来。二千人にも及ぶ屍の山を築いた。「あのまま強制退去させられていなかったら・・・。きっと曽福女様や、熱田の神々が『生きろ』と仰ったのでしょう」。命辛々復員を果たした父と共に、店の再興に明け暮れたそうだ。

筑羽根は、あの硬い京都の八つ橋の様な干菓子で、曽福女は昔ながらの粘りのある、とても上品なわらび餅の様な食感で、ぼくも一缶ペロッと平らげてしまったものです。

そんな古の浪漫を思い浮かべながら、もう一度ゆっくりと味わって見たいものです。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「君とDancing!」

25日の土曜日に、「ほろ酔いLive Again!」を無事に終えることが出来ました。

ご来場いただいた方も、おいでになれなかった方にも、心よりお礼を申し上げます。

唄っているのは、ぼくではなく、落ち武者さんです!

沢山の紳士淑女の皆様方にお越し頂けました。

DAIKOKUの入り口に、こっそりこんな看板が!なんとも奥ゆかしくって、可愛らしいサインです。

店の入り口の客待ちスペースには、こんなサインが!

ご協賛いただきました「キリンビール」さん、そして「DAIKOKU」さんにも、この場をお借りして心より御礼を申し上げます。

今回の「ほろ酔いLive Again!」では、前回12月の楽曲と、ラインナップも入れ替え、それに伴って全体の構成も一味違ったものになりました。

今回のLiveでは、サプライズとして、新古曲を披露させていただきました。

楽譜を書けも読めもしないぼくですから、メインのメロディーと歌詞はぼんやり覚えていたものの、すっかりその他の歌詞もメロディーも忘れてしまっていた、「君とDancing!」を復活披露させていただいたのです。ですから、新古車ならぬ「新古曲」。

昔の埃塗れのカセットテープに、約40年近く前のLive音源があり、それをデジタルに変換して、やっと聴くことが出来て、唄えるようになったと言う、まあなんとも情けない話ではございます。

今日の弾き語りでは、その「君とDancing!」をお聴きいただこうと思います。

「君とDancing!」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

朝まで踊り続けて 君とDancing カーネギーホールで

夢のステップ アン ドゥ トロワー

ほろ酔いのワイン 夢へのパスポート

小さなベッドが 一つあればいつでも旅立てる

街はカーニバル 誰もが浮かれている

手招きをすれば 自由の女神も微笑む

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ

ほてった素肌に 風が吹き抜けてゆく

月のスポットが 君のステップ 追いかけて回る

魔法の呪文は 君の口づけ一つで

 溶け出してしまいそう 危ないよ Key word

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ

 君とDancing  夢のDancing Dancing Dancing

 朝まで踊り続けて  君とDancing カーネギーホールで

 夢のステップ アン ドゥ トロワ   

とは言え、ぼくはからっきし、ダンスが踊れません。以前一度だけ、取材に伺ったダンススクールで先生の奥様にお相手いただき、ボックスと言うステップを教えていただきましたが、これがもう最低!手も足も顔の向きも、てんでんバラバラ!改めて自分にダンスのセンスが全くない事を気付かされたものです。

ですから、若かりし頃、友人に連れられディスコに三度ほど出掛けましたが、ダンスフロアの周りのボックス席で、酒ばかり呑んでいたものです。とほほ・・・。

★ほろ酔いLiveの折に、まんさくさんからご予約を賜っておりました。1月27日がお誕生日だったとのこと。Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でささやかなお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「節分あれこれ」。子供の頃の節分は、今の様な紙製の、升に入ったビニール袋入りの煎り豆なんて無く、ましてやサービスで鬼のお面など付いていなかったものです。だから節分の日は、朝からお母ちゃんがストーブの上に焙烙を出し、大豆を煎ってくれたものです。そして画用紙にクレヨンで鬼の絵を描き、両脇に輪ゴムを通していましたねぇ。お父ちゃんが仕事から帰って来るのを待って、晩ご飯の前に豆まきです。もちろん鬼役は、お父ちゃんと決まっていたものです。豆まきを一番喜んでいたのは、わが家の老犬のバカ犬ジョン。この晩だけは、大っぴらに放し飼いにされ、外に撒いた豆の掃除役を任じられていたからです。しかしバカ犬とは言え、悪知恵が働き、近所の家で「鬼は外!」と声がすると、一目散でその声のするお宅に向かって走り出すのです。そしてそこの玄関先に座り込んで、誰も頼んでもいないのに、豆の掃除役を買って出ていたものでした。

子供の頃なんて、もちろん「恵方巻」なるものも無く、淡々と豆まきだけを済ませていたものでした。

今回はそんな、『節分あれこれ』に関する、皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「残り物クッキング~白菜漬けのなぁ~んちゃってすんきパスタ Honey Babeのピカタ添え」

この前インフルエンザにかかり、食欲が無かった時に、無性に白いご飯と白菜の浅漬けが食べたくって仕方ありませんでした。

しかしインフルエンザ薬のせいか、体が重だるいし、インフルエンザウイルスを撒き散らしてはいけませんから、スーパーに白菜の浅漬けを買いに出ることも出来ず、冷蔵庫の中に残っていた白菜と、塩昆布を使って自家製の白菜の浅漬けを漬けて見ることにしました。

ところが白菜の浅漬けなんて初挑戦でしたから、果たして上手くいくだろうかと、半信半疑だったものです。

翌朝さっそく炊き立てご飯と一緒に、お手製の白菜漬けをパクリ!手前味噌には違いありませんが、これまた実に旨い!

このところ、すっかり酒量が減り、ご飯と白菜漬けの消費が増えていて、白菜漬けがマイ・ブームです。

今回は、ちょっとやや古漬けになりかけた白菜漬けを使って、「白菜漬けのなぁ~んちゃってすんきパスタ Honey Babeのピカタ添え」に取り組んで見ました。

本物の「すんき」は、長野県木曽地方に古くから伝わる保存食のひとつで、「すんき漬け」とも呼ばれます。 塩を使わず、赤カブの葉を乳酸菌発酵させた漬け物で、日本の伝統的発酵食品の中でも、植物性乳酸菌だけで作る「すんき」は、健康面からも重要なんだそうです。冬場の木曽路では、「すんき蕎麦あります」と、手書きされたPOPが目に付きます。大きな鍋の出し汁の中で、すんきと蕎麦を煮たてたもので、醤油味の出し汁と、すんきの乳酸菌の酸味が加わり、実に体が芯から温まる逸品です。ぼくは取材で、木曽福島の役所の方に案内され、はじめてすんき蕎麦をいただいたことがあります。なんでも二日酔いにとってもいいと、役場の方が絶賛されていたものです。

しかし本物のすんき漬けは手に入りませんでしたので、古漬けの白菜漬けでトライしてみました。

まずフライパンにオリーブオイルをたっぷり注ぎ、そこに古漬けの白菜漬けと、プレーンヨーグルトを大さじ二杯程入れ、ざっくりと炒め、そこに茹で上げたパスタを入れて軽く炒めたら出来上がり。ぼくは最後にシソの葉を千切りにして、彩に添えて見ました。

そしてしゃぶしゃぶの残りの、Honey Babeのバラ肉が残っていましたので、それをピカタにしてパスタの周りに添えて見ました。

これがまた、イタリア人もビックリなほど、美味しいなぁ~んちゃってすんきパスタとなりました。古漬けの白菜漬けの塩味と、ヨーグルトの酸味が見事に絡み合い、塩昆布のアミノ酸がそれらの旨味を見事に引き立ててくれました。

あっさり味のパスタに、Honey Babeのピカタを添えたことで、病み上がりではありながらも、ガッツリイケてしまいました。

皆さんのご家庭でも、古漬けになった白菜漬けなんぞが残っていたら、ぜひランチにでもお試しください。これがとんでもなくイケちゃいますから!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 9」

今日の「天職人」は、三重県尾鷲市の、「尾鷲わっぱ塗師職人」。

神々御座す 山海の 恵み与えし 尾鷲港        夜も明けやらぬ 入船に 勝鬨挙がる 初さいろ     海を恐れぬ 男衆 赤い真潮が 身に滾る        闇より深い 情愛と 塗師の漆黒 曲げわっぱ

*「さいろ」は尾鷲地方の方言で「秋刀魚」の意。

三重県尾鷲市で明治20(1887)年から続く、尾鷲わっぱ ぬし熊の四代目世古さんを訪ねた。

尾鷲檜の一枚板を曲げ、桜の皮を糸代わりに縫い留め、手製の和釘のように強靭な竹串で底板を繋ぎ止める。そして仕上げに三週間を費やし、生漆が丹念に布で直にすり込まれる。尾鷲わっぱの工程は、四十五手にも及ぶと言う。

尾鷲わっぱは、元は山師の弁当箱として重宝がられたそうだ。「漆には殺菌効果があり、何より飯が旨いんやさ」と世古さん。山師は飯を山盛りにした一対のわっぱをぶら下げ、神々御座す尾鷲檜の山へと分け入る。蓋の大きな方の山盛り飯が朝飯。昼には空になった蓋に川の水を汲み、焼き石と味噌を一緒に放り込む。小さい方の山盛り飯と、具の無い味噌汁で腹を満たしたとか。

いかにも飯が旨そうな、小判型の尾鷲わっぱ。いつかこんなわっば飯を食べて見たいものです。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 8」

今日の「天職人」は、岐阜市の「鵜匠の家女将」。

金華の裾に 篝火ゆれた 天守を翳む 朧月       風折烏帽子 ホウホウと 手縄さばきに 鵜舟駆る    河畔に屈む 影一つ 浴衣姿の 洗い髪         線香花火 燃え尽きた 長良の夏を 愛(お)しむように

長良河畔の旅館、「鵜匠の家すぎ山」の女将を訪ねた。

長良には、宮内庁式部職に任ぜられた鵜匠が六名。これは誰もが知っている、鵜舟を駆る鵜匠だ。ところが実はもう一人、鵜舟には乗らない陸の上の式部職鵜匠がいた。それが女将の最愛のご主人だった。

女将は村上水軍の血を引く、瀬戸内の出身。瀬戸の花嫁さながらに、26歳の年に長良橋を渡り嫁いだ。しかしその七年後、最愛の夫が急逝。二人の幼子を抱え、長男が鵜匠を襲名するまでの間、細腕で陸の上の鵜匠の肩代わりを務めた。

「この川に今まで、どんだけ喜びや哀しみを流したやろか」。茜色に染まった川面を眺めながら、女将がことりと呟いた。

瀬戸内の海から長良川を遡上した女将。ぼくがお逢いした折は、岐阜訛りにもまだぎこちなさが残っていたのが、今でも印象的に思い返されます。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 7」

今日の「天職人」は、愛知県七宝町の、「七宝焼き釉挿し職人」。

一雨毎に 紅深めゆく 鎮守の森の 紫陽花よ      軒の戸板で 白透(しろす)けはぜた 梅雨の束の間 天日干し                         瑠璃玻璃瑪瑙(るりはりめのう) 七宝荘厳(しちほうしょうごん) 日がな一日 釉を挿す            尾張遠島 業人の里 貴(あて)やかなりし 紫紺釉(しこんゆう)

明治元(1868)年創業の、七宝焼き窯元に、丸喜軒四代目の釉挿し職人、林さんを訪ねた。

七宝焼きは分業制。極薄銅板を操る素地職人。極薄の銀線を植え込む、線付け職人。下絵の輪郭を模る、銀線と銀線の細かな隙間に、針ホセと言う錐(きり)の先が針のように細い道具で、極彩色の釉薬を挿す、釉挿し職人の手を経て、緻密な図柄が焼き付けられる。

写真は参考です。

「葉っぱ一枚にしたって、一枚一枚色が違う。陽にようあたるとこは、明るい緑だし、奥まったところは陰に隠れて黒ずんで見えるし」と、林さんが釉薬の入った引き出しを開けた。すると例えば緑一色とは言っても、黄葉、青葉、錆葉、萩葉、桜葉色と分かれている。それを釉挿し職人は、己が目を頼りに見事に使い分けるのだ。

仕上がりまでには約三か月。気の遠くなるような緻密な作業が、これでもかと言う程、繰り返されるのです。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 6」

今日の「天職人」は、三重県松阪市飯南町の、日本一に輝いた松阪牛の「牛飼い職人」。

早苗色づく 深野の棚田 梅雨に打たれて 実を結べ   夜も明けぬのに 牛追う童 茣蓙を羽織って 菅の笠   五里を下りて ご城下までは 通いなれたる 道なれど  牛の値踏みに 胸躍りだす おらが牛なら 天下一

父の故郷、飯南町。松阪駅から西の山間へと入った、櫛田川の上流。お茶と松阪牛の産地として名高い。

ぼくが訪ねたのは、牛飼い一筋半世紀の栃木さん。栃木さんの牧場には、小さな牛舎がポツリとあるだけ。後は木柵で囲われた、大きな草原が広がる。しかも一度に飼育する牛は、3~4頭。自分の目が届く範囲で、手塩にかけ愛情を注ぎ込み、子牛を約3年間飼育する。だから栃木さんのところの松阪牛たちは、ストレスフリー。木柵に栃木さんが近寄ると、真っ黒な眼(まなこ)をクリクリとさせながら、子牛たちがすり寄って来たものです。「ええ松阪牛はなぁ、背筋がスーッと通り、箱みたいに四角い腹で、ふくよかな尻しとるんがええんやさ」と。

これは栃木さんでもなく、「ふくよし号」でもありません。あくまで参考まで。

栃木さんが育てた「ふくよし号」は、平成3(1991)年の松阪牛品評会で、優秀賞一席に選ばれ、三千万円の高値を付けた。

この松阪牛の肉は、「ふくよし号」のものではありません。

しかし今でも、品評会に出す日が一番辛いとか。牛も今生の別れと知り、真っ黒な大きな眼(まなこ)を濡らすと言う。

取材の帰りがけに、栃木さんから松阪牛のお肉の包みを、「切り落としやけど、食べて見て」と厚かましくも頂戴してしまいました。

切り落としと言えど、すき焼きにして早速いただきましたが、とんでもなく美味しく、栃木さんの牛飼いの精神に頭が下がるばかりだったことを、昨日の事のように思い出しました。ご馳走様でした。

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。

「天職一芸~あの日のPoem 5」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、ぼくが高山の母とも慕う「旅館女将」。

陣屋朝市 売り子の声に 宮川沿いの 葉桜揺れた    昔家並に 流す掛け声 黒半纏と 車夫の男気      旅の人待つ 軒の打ち水 叩きを染めし 宿あかり    暖簾潜りて 框に座せば 疲れほどけし 草鞋代わりに  馳走並びて 女将の酌に 湯浴みし頬も 更に色づく   まずは一献 されば返盃 旅の夜耽る 国分寺宿

高山線開通の昭和9(1934)年創業の、旅館田邊。国分寺通りに面した一等地にあり、和風の趣あふれる格子戸から零れる灯りが、疲れた旅人をやさしく手招くようです。

最近ではすっかりヨーロッパやアメリカなど、西洋の旅行客が多く、温泉の大浴場の中では、各国の言語が飛び交うのも、楽しみの一つです。

今では仲居さん達もすっかり外国人観光客にも慣れた様子で、英語と英語の間に飛騨弁と、ボディーランゲージが混じると言う、何とも親しみ溢れる光景も愉しみの一つです。

そもそも西洋からの外国人観光客が多いため、連泊をされる方も多く、玄関口で見送る女将や仲居さんを前に、「ありがとうございました」とぎこちなく頭を下げ、覚えたての日本語で手を振り別れを惜しむ姿は、なんとも微笑ましいものがあります。

ぼくは天職一芸の取材で初めて女将と出逢い、それからは高山泊まりの時は決まって、旅館田邊を宿とさせていただいています。

ですから玄関の引き戸を開けると、いつも自然体のまま「ただいま~っ!」とついつい言ってしまい、女将や顔馴染みの仲居さんが、「あら~っ、おかえり」と出迎えてくれるから、これまた嬉しいじゃないですか!

ああこんな話をしていると、無性に高山に行きたくなってしまったぁ!

このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。