「天職一芸~あの日のPoem 19」

今日の「天職人」は、愛知県名古屋市昭和区の、「髭文字(ひげもじ)手刷り師」。

夏も宵 京都伏見の 稲荷山 万の灯火 社も萌える   御神恩 民が手向けし 提灯と 河内江州(かわちごうしゅう) 本宮(もとみや)踊り

名古屋市昭和区で明治初年頃より続く、提灯の髭文字手刷り師、四代目浅野邦伸さんを訪ねた。

元尾張藩の下級武士であった初代の曽祖父は、維新と共に失業の憂き目に。時代が大きくうねる中、遥かに家禄の高い八百石取りの元藩士の娘と駆け落ちを遂げた。うら若き曽祖父と曾祖母は、維新の風に翻弄されながらも、仲ノ町(現、栄一丁目界隈)に居を構え、見よう見真似で提灯の手刷り師を始めた。代々、京都伏見稲荷大社の神須(かんす)と呼ばれる稲荷提灯、「志ん前(しんぜん)」と意匠化された髭文字を一手に引き受ける。

神須の命は、髭文字の微妙な擦れ方にある。百枚刷っても満足行く仕上がりはわずか数枚。

「親父によう怒られたわ『座り方がなっとらん。手の出し方が悪い。身体で調子取れ』って」。浅野さんは懐かし気に笑った。

「やがてなくなる仕事だと思うと、そりゃあ寂しい・・・でもいくらにもならんでなぁ」。五代目は?の問いに、浅野さんが切なげに呟いた。

しかし手刷り師は、縁あって妻に迎えた越後美人と、三人の息子を髭文字一つで育て上げた。「一番下のがやりたそうだけど・・・継げとはよう言えんでなぁ」。この国にもう五人と残らぬ神須の手刷り師。尾張の匠の灯が、また一つ時の狭間で揺れていた。

*「神須」は、稲荷提灯と呼ばれ、神前の真ん中に吊るされている提灯。

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「天職一芸~あの日のPoem 18」

今日の「天職人」は、三重県四日市市日永の、「団扇貼り立て職人」。

振り向けば おかげ参りの旅の空            遥か伊勢路を 偲ぶ追分                間宿(あいのしゅく) 団扇長餅日永足袋         軒を連ねる 呼び込みの声

四日市市日永で明治14(1899)年から続く、日永団扇三代目、稲垣藤夫さんを訪ねた。

伊勢型紙の日永団扇

日永団扇は、江戸時代より、伊勢詣での土産物としてその名を馳せた。日永は旧伊勢街道の四日市と石薬師の宿場に挟まれ、伊勢参宮道との追分となる間宿として賑わいを見せた。伊勢詣での往きに、土産としての団扇を注文し、帰りがけに立ち寄り国へと持ち帰ったとか。「団扇は何より軽いし、腐らんで土産に丁度ええんさ」。稲垣さんが団扇を扇いだ。

松阪木綿の日永団扇

日永団扇は、女竹(めだけ)の三年物に拘り、紙断ち、貼り立て、筋入れと、四十七手に及ぶ工程を経て、二週間の時が費やされる。

江戸時代、農家の夜鍋仕事であった団扇作りに、維新で止む無く一番ビリから参入した庄屋は、日永にたった一軒となった現在も、こつこつ往時を偲ぶ団扇作りに精を出す。「算盤勘定じゃのうて、日永に住まいし者の恩返しなんやさ」。団扇の縁に飛び出した竹骨に、半月型の刃を当て木槌で一刀両断に断ち切りながら呟いた。

日永団扇でゆったりと扇ぐと、花火大会などで配られる、プラスチック骨の団扇とは、一味も二味も違うやわらかな風を感じたものでした。

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「久しぶりのウォーキング雑観」

なんだか、見覚えのある風景じゃありませんか?

そうです!昨年12月初旬頃のブログでご紹介いたしました、街路樹の中のテラコッタの植木にクリスマスのデコレーションが施され、12月26日の朝には奇麗さっぱり、クリスマスのデコレーションだけが取り外されていた、あの植木です。

その後しばらくして、枝が刈り込まれて、奇麗になっていたものでした。

そして久しぶりによくよく目を見張ると、なんと!

ごらんのような小物が!言っておきますが、これは決して墓石ではありませんよ!

街路樹の仕切りであるコンクリートブロックの上に、素焼きの煉瓦が組み上げられ、その上に小さなバケツが!素焼きの煉瓦の背面は、墓石ではなく水道のパイプを這わせるためのものです。

これまたちょっとお洒落でした。

でもテラコッタの植木のクリスマスデコレーションといい、この水道の小さな蛇口といい、ドールハウスならぬドールガーデンさながら!

いずれにしても、どなたがなさったのかは分かりませんが、きっと心根のお優しい人ではないかと思えてなりませんでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 17」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「豆菓子匠」。

飛州盆地の 根雪溶け 宮川沿いの 桜も緩む      山王まつり 絢爛と 贅を尽くした 陽明門か      祭囃子に 声荒げ 旦那衆(だんなしゅ)たちも 辻を練り行く                         粋な飛騨鰤 男振り 斑鳩(いかる)も歌え 月日星よと

高山市で明治8(1875)年に三嶋治兵衛により製造され現在へと続く。その馬印三嶋豆本舗、四代目女将 長瀬理々子さんを訪ねた。

ある日炒り豆が好物の母が、齢も重ね歯も弱り豆を噛むことも出来ぬと、治兵衛に嘆いた。孝行息子の治兵衛は、何とかして今一度母に炒り豆を食べさせたいとの一心で、試行錯誤を重ね現在の三嶋豆を完成。その後三嶋豆は、治兵衛の三嶋家と、治兵衛の10歳年下だった従兄弟、長瀬久兵衛の長瀬家に代々受け継がれた。その後、三嶋家は戦後廃業。

三嶋豆は国産大豆を一昼夜井戸の湧き水でふやかし乾燥させる。乾燥した大豆を炒り、白ザラメを溶かし片栗粉を混ぜ、再び乾燥させる。この作業を十数回繰り返し、さらに炭火で一週間ほど乾燥させる。何とも気の遠くなる単調な作業の繰り返しが、炒り大豆を絶品の味に仕立てる。

女将は東京永田町で弁護士の娘として誕生。「商売人の処へなど絶対嫁にやらぬ」。父の猛反対を振り切り飛騨高山に嫁し、二人の息子に恵まれた。しかし長男が小学6年の年、四代目当主の夫が他界。「嫁の代で暖簾下ろしたなんて言わせたくない。意地しかありませんでした。それからお爺ちゃんに7年ほどついて、毎日泣きながら豆を炒ったもの」。女将は玄関口の暖簾を見詰めた。

「最初は人の足を引っ張るようなこの町が嫌いでした。でも主人を亡くして、初めてこの町で暮らす人の温もりが身に染みたもの。以前は弁護士の娘ってことで、高見から人を見降ろしていたのかも知れません。主人は死して『この町の人たちに溶け込んで生きろ』、きっとそう教えてくれたんです」。女将の昔語りに続いて、五代目の長男公昭(きみあき)さんが呟いた。「子どもの頃、友達が来ても、母は挨拶一つしませんでしたから」と。

飛州盆地の遅い春に、柔らかな陽射しが一筋舞い込んだ。『世の中は 満免(まめ)でまるうて 屋和(やわ)らかに かみて味阿(あじあ)る 人と奈連(なれ)かし』。昭和天皇の侍従であった小泉さんが、店に遺された歌に、人の世の情け深さと味わいを感じた。

こんな寒い日。炬燵に入って、ウィスキーを傾けながら、三嶋豆をあてに一杯、ついついやりたくなってしまうものです。

*「斑鳩」はスズメ目、二十センチメートルほどの小鳥。各地の山林で一年中見られ、澄んだ美しい声で「ツキヒホシ」と鳴く。異名は「豆回し」。

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「くされ縁」

写真は参考。

一人っ子だったぼくは、姉か妹が欲しくて欲しくて、何度も何度もお母ちゃんに強請って、お母ちゃんを困らせたものでした。

ぼくの結婚時の前夜だったか、母と二人で食卓を囲んでいた時の事。と言ってももう深夜でしたから、遅く帰ったぼくに酒のあてを作ってくれて、ぼくが一人手酌で呑んでいた時だったと思います。「いよいよ明日、お前も嫁さん貰うんやな」。母は感慨深げにそう言って、珍しくぼくに酌をせよと、グラスを差し出したものです。しばらく他愛ない昔話に興じていると、母が一人語りを始めたのです。「お前は小っちゃい頃、お姉ちゃんや妹が欲しい欲しいと、泣いてぐずるからお母ちゃんも困ったもんやった。でもさすがにお姉ちゃんは今更出来ぬ相談だけど、妹ならばと真剣に考えたもんや。本当はお母ちゃんのお腹の中に、お前の妹か弟が出来るには出来たんやけどなぁ・・・。ところがあかなんだ。本当にお前には申し訳ない事した。すまなんだなぁ・・・」。母はほんのりと顔を赤らめ、目頭を押さえてぼくに詫びたものだ。初めて聞かされたことだっただけに、お母ちゃんをどう宥めればいいかもわからず、結果としてぼくがお母ちゃんを苦しめてしまっていたことを、今更ながら悔いたものでした。

ですからぼくは、本物の兄妹の関係とか絆とかを、身をもって体験したことが無く、ただただ空想の中で兄妹の理想像を追い求めていただけだったのかも知れません。

そしてもし仮にぼくにも妹がいたとして、その妹の嫁ぐ日が訪れたとしたら、ぼくはどんなお兄ちゃんでいただろうと、そんな空想を曲にしたのが、この「くされ縁」です。

まずは、弾き語りで「くされ縁」をお聴きください。

「くされ縁」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

親父の涙を見た大粒の涙拭いもせず

 湯呑に冷酒をついで一思いに飲み干した

門出に涙は禁物とたしなめるようなお袋の声

内掛けに身を包んだ妹が三つ指をついた

 鮮やかに時は舞い 想い出を運び来る

 泣き虫泥んこ顔が 見違えるくらい綺麗だ

幸せ半分もしももしも ぼくのでよかったら

荷物にならないさ持ってお行きよ 何も無い代わりに

お袋は想い出をまるで手繰り寄せるように話す

親父の元へ嫁いだ喜びそして哀しみ

親父はくされ縁だと赤い顔で笑った

妹はうつむいたまま小さく一つうなづく

 鮮やかに時は舞い 想い出はよみがえる

 やり場の無い思いを胸に 妹を送り出した

幸せ半分もしももしも ぼくのでよかったら

荷物にならないさ持ってお行きよ 何も無い代わりに

 人は誰もがいつも 幸あれと願うもの

 連れ合い連れ添う時の 永さは愛の重さだ

幸せを幸せと言えず照れ笑い 親父の言葉のように

「くされ縁よ」とお前が言えるまで この家の敷居は跨ぐな

この曲が出来た当時は、「くされ縁」ではなく、妹の結婚と言う祝宴の宴だということで、当て字で「くされ宴」としておりました。しかしなかなかどなたにも、そのぼくの勝手な当て字の真意は伝わらず、ご批判をいただいた物でした。そしてそれを曲げ、「宴」ではなく「縁」を用いるようになったのです。まあ、その方が、何より分かりやすいっちゃー分かりやすいですものね(汗)

続いて、CDに収録されている、アコースティックサウンドの「くされ縁」を、弾き語りとお聴き比べいただければと思います。バックに薄っすらとストリングス系のシンセとベースかぶせられています。

写真は参考。

姉も妹も結局おらず、一人っ子のままでしたが、それでも貧乏ながら、両親の愛情を独り占めに出来たから、他の何物にも代えがたいものです。

★今日2月4日は、お二方お誕生日の方がおいでです。愛知県のももかさん、そして日置江のヒロちゃんの今日はお誕生日。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのバレンタインチョコ!」。初めてバレンタインのチョコレートをいただいたのは、中学3年の事だったと記憶しております。ちょうどクラスでも交換日記が流行っていた頃で、ぼくもクラスの女子A子さんと他愛もない事を綴った日記を交換していたものです。自分が日記に書き込んだら、翌日彼女の机の棚の奥に、こっそりと大学ノートを忍ばせると言う、これまたなんの捻りも無いシステムでしたねぇ。そして迎えたバレンタインデー。とは言え、バレンタインデーの事は知るには知っていましたが、自分とは住む世界が違う気がしていたのか、無関心だったような気がします。そしてその日は、A子さんが交換日記をぼくの机の棚の奥にこっそり入れる番。まさかA子さんからその日、人生初となるバレンタインチョコをいただけるなんて、これっぽっちも期待しておりませんでした。周りの男坊主どももみんな押しなべて野暮ったい奴ばかりで、バレンタインのバの字すら感じられなかったものです。でもクラスで一番秀才のB君だけは、こっそり女子たちから何かを貰っては、コソコソッと自分の学生鞄の中に仕舞い込んでいたものです。まあ、それがバレンタインチョコだろうなって、皆見て見ぬふりをしたそんな調子だったものです。ぼくは放課後、いつものようにA子さんから回って来た交換日記を鞄に詰め込んで家へ。なんだか今日の交換日記は、異常に分厚いなと、そう思った程度でした。そして家に帰って日記を開いてビックリ!奇麗な紙で包んだ小さなボール紙製の箱が!中を開けると、ちょっと歪な形をしたハート型のチョコレートじゃないですか!でもそのちょっと歪なハート型のチョコレート。ビターな感じのチョコレート色と、ミルクが分離したのか、マーブル柄のよう。その様子を覗き見ていたお母ちゃんが、「なんやのそれ!あっ、もしかして手作りのバレンタインチョコやないの!どれどれ味はぞうやろ?」と、ぼくがこの世に生まれ初めていただいた、例え歪とは言えハート型したバレンタインチョコを、真っ二つにバキッと折って、「これ半分、あんたにも上げるわ!」と。この時ばかりは、無神経すぎるお母ちゃんに怒りを覚えたものでした。

今回はそんな、『初めてのバレンタインチョコ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~イカカレーステーキとココアパウダー添えニョッキwithクリームソース」

まずレッドデビルの別名を持つ、アメリカオオアカイカ、いわゆるスーパーでみかける、ロールイカです。これを解凍し、よく表面の水分を拭き取り、塩コショウ、そしてSBの赤缶カレー粉を擦り込み、フライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立ててから、カレー粉を塗したイカを焼き、ある程度焼き上がったところで、白ワインを少々加え焼き上げ皿に盛り付けます。

彩でホウレンソウと赤パプリカをバターソテーし、皿の傍らに添えておきます。

続いて小鍋で生クリームを温め、コンソメ、塩、コショウ、白ワインでお好みの味に調え、クリームソースを作ります。

最後にニョッキを茹で上げ、皿に盛り付けクリームソースをたっぷりかけ、ココアパウダーを振り掛ければ完了。

ぼくの家には、ココアパウダーを振り掛けるための、お洒落な甑のようなものなどなく、味噌を溶く甑にココアパウダーを入れて、振りかけて見ました。

カレー風味のイカのバターソテーとクリームソースも見事に合い、これまたちょっとビターな味でチョコレートの香りのするココアパウダーと、クリームソースの絡み合ったニョッキがこれまたとんでもなく、大人のお味となり、久しぶりに白ワインがグビグヒと進んだものでした。

もちろん言うまでも無く、ホウレンソウと赤パブリカのバターソテーとクリームソースも絶品でした。

どうかどうか一度、お試しあれ!

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「天職一芸~あの日のPoem 16」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の、「古代型石灯籠石工(いしく)」。

過ぎ往く夏が 恋しいか つくつく法師 秋あかね    石都三河に 鳴り響く コヤスケの音と 石工節     伊賀川上の 道標 春日灯籠 石仏           兄弟石工 鎚振るう 石神(しゃくじ)の里の 貴セキレイ

古代型石灯籠一筋に彫り続ける石工、柴田徹さんを訪ねた。

全国一の石都岡崎の歴史は、室町末期の1452年、三河守護代西郷稠頼(つぎより)が、岡崎城築城に地元産の御影石を多用したことに始まる。

柴田さんは終戦の五日後に産声を上げ、16歳で石匠に付き丁稚奉公が始まった。来る日来る日も朝一番の仕事は、兄弟子たちの石鑿二十本ばかりを火床で焼き上げた。四年後年季明けを待ち、別の石匠の元で灯籠造りを学んだ。

「石の良し悪しは、叩きゃあわかる。鈍いと割れるし、高い音の出る石が良質だぁ。音色で鑿入れを思い描き、部材の配置を考えるだ」。柴田さんは石の肌を撫でた。

春日灯籠は、上部から順に「宝珠」「笠」「火袋」「中台」「竿」「基礎」に分かれる。中でも六角柱の火袋は、二面に雌雄の鹿、もう一つの二面に雲形の日月が彫られ、残りの二面は彫り貫かねばならず、最も技術が問われる。

「不思議だけど『この辺りで火袋彫ってくりょ』って、石神様の声が聞こえるだぁ」。柴田さんは冗談めかして笑い飛ばした。

「まぁ、何だかんだ言ってもやっぱり、わしは石が好きなんだって。何でか?ってか。そりゃあ石は、絶対文句言わんらぁ」。汗と石粉が染み込んだシャツ姿。身長150センチメートルの小さな巨人、石都岡崎の石工は、照れ臭げに笑った。

同じく石工の弟と二人で、寡黙に日がな一日鑿を振るう姿が、今でも蘇ってきます。

*「コヤスケ」は、石を大きく割る道具。

*「セキレイ」は、石工が尻を上下させ、鎚を振るう姿から、セキレイの異名がついた。ちなみに岡崎市の鳥は、「ハクセキレイ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 15」

今日の「天職人」は、三重県海山町の、「山部(やまべ)」。

始神(ししん)峠の 山踏みゆけば 山井の水が 疲れ労う                          尾鷲檜を 夏日の笠に 熊野詣の 蟻の巡礼       山子(やまご)唄いし 樵(きこり)唄かな 蝉も聴き入る 山彦節(やまびこぶし)よ             神々住まう 紀国(きのくに)の杜 山部の手塩 天下の檜

二百有余年続く山林業、八代目の速水勉さんを訪ねた。

「その土地の木が、一番その土地の建物に相応しい」。速水さんは、大工やハウスメーカーに持論を説き続ける。植林から八十年、高さ二十五メートル、太さ三十センチメートルに育って、ようやく尾鷲檜と銘打たれる。

「木を作るのが今は一番楽しいんです。子供と同じで、植えてから五~六年は一番人手がかかります。でもこの時期にいい加減に育ててしまえば、人間でも同じでしょう。やっぱり愛情をいっぱい注いでやらねば」。二百年以上に渡り、尾鷲檜と神々の住まいし森を守り続ける平成の山部は、立派に育った尾鷲檜を見上げた。

手入れの行き届いた尾鷲檜の山林は、檜が浄化した空気が満ちて、そこに佇んでいるだけで、とても癒されたものです。まさに「Mammy’s Forest」でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 14」

今日の「天職人」は、岐阜県飛騨古川の、「煎餅職人」。

瀬戸川沿いの 桜ほころぶ 白壁の町 古川祭り     夜さり引き連れ 丸子(まるご)提灯 千の灯りに 開く出格子                         起し太鼓が 闇を破れば 晒し姿の 若衆たちも     勇を競いて 付け太鼓打ち 辻を駆け出す 古川やんちゃ

明治41(1908)年創業の、井之廣味噌煎餅本舗、三代目の当主 井之丸祐八郎さんを訪ねた。

煎餅生地は、地鶏のさくら卵と、秋田産大豆に古川町産のコシヒカリ、そこに三年掛けて熟成した自家製味噌が練り込まれる。長い鋏のような柄の先の、丸い鉄板に生地を広げ火に炙る。そして焼き上がった煎餅が冷めるのを待ち、刷毛で一枚一枚砂糖蜜を塗り上げる。

「親父は何にも教えてくれんのやさ。そんなもん数作るうちに覚えるもんやと」。祐八郎さんは、初代が書き記した和綴じの製菓法帖を眺めた。そんな祐八郎さんも煎餅を焼き始め40年目に脳梗塞で倒れた。夫の看病と言う錘を背負い、暖簾を守り続けた妻の敏子さん。長男裕幸さんが四代目を継ぎ母を支えた。

「こんな身体になって、煎餅屋が煎餅焼けんのやでなあ。女房見とると何ともけなるいさ」。祐八郎さんはそう言いながら、麻痺の残った左手に右手を添え、長柄で煎餅を挟む真似をして、すまなさそうに笑った。

この取材の後からも、TVのロケやラジオの公開生放送などで古川に出掛ける度、井之廣味噌煎餅本舗をお訪ねし、味噌煎餅をはじめ新作のお煎餅を土産に買ったものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 13」

今日の「天職人」は、愛知県鳳来町の、「硯刻師(けんこくし)」。

音為川(おとなせがわ)の 瀬音掻き消す蝉の声     千の石段 続く瑠璃山行者越              大傘杉が 月を隠して闇染めりゃ            霊山の杜 声が木霊す仏法僧

鳳来町で明治20(1887)年から続く、鳳鳴堂硯舗(ほうめいどうけんぽ)、五代目硯刻師 名倉利幸さんを訪ねた。現在は、先代の雅号を襲名され、名倉鳳山と名乗っておられます。

鳳来寺硯は、平安朝の頃より、都人に持て囃されたと伝えられる。硯の石材は、金鳳石(きんぽうせき)、煙巌石(えんがんせき)、鳳鳴石(ほうめいせき)の三種。最も良質とされるのは、金鳳石。石色は、漆黒の闇を母体に、まるで金銀に輝く星が浮遊する小宇宙のよう。日本一の硯材に相応しい輝きを宿す。

写真は参考。

「昔は日本の武に対し、中国は文の国。日本の刀に対し、中国は硯を貴人は下賜されたそうだ。日本は刀で人を治め、中国は筆で国を統治した。だからこそ、筆、硯、紙、墨を文房四宝(ぶんぼうしほう)とまで崇めた」と、名倉さんは鑿を振るう手を止めた。

名倉さんの金鳳石の硯は、見ているだけで小宇宙の中へ吸い込まれてゆくようなほどでした。

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