「天職一芸~あの日のPoem 27」

今日の「天職人」は、三重県多度町の、「縁起玩具職人」。

狩衣(かりぎぬ)の 馬上の射手(いて)が       矢壺(やつぼ)射る                  多度の流鏑馬(やぶさめ) 秋の寿(ことほ)ぎ     八壺(やつぼ)峡 紅の葉に              彩られ                        白馬天翔(あまか)け 神々来たる

三重県多度町で縁起玩具の「はじき猿」を作り続ける、二代目水谷復四郎(またしろう)さんを訪ねた。

水谷さんが営む宮川屋は、多度大社正面にあり、三百年ほど前から宮甚(みやじん)と呼ばれ、参拝客相手に商いを続ける。

多度名物と言えば、大豆を核に黄粉と糖蜜で丸め、白砂糖を塗した素朴な味わいの銘菓「八壺豆」。そしてもう一つが、明治中期頃から厄や災いを「はじき去る」と掛け、縁起物玩具として持て囃された「はじき猿」だ。

長さ三十センチほどの竹の先は細目に割かれ、太鼓のような流鏑馬の的である矢壺が取り付けられている。竹棒中ほどの、薄く割いた弓なりの竹跳ねが、矢壺との間を上下する猿の人形を弾き飛ばすもの。

至って単純な構造の玩具だが、昔の子供達には喜ばれる土産物の一つだった。しかし戦後の高度成長時代の片隅で、全国各地の郷土玩具が辿ったように、はじき猿も店先からその姿を消した。昭和40(1965)年頃、元々手先の器用だった先代が、絶え果てようとするはじき猿を憂い、見よう見真似で復元したのだ。

「ようお客さんに言うたるんやわ。そんなもん千円出して子供に買(こ)うたっても、今の子供は直に壊してまうでやめときって」。水谷さんは自虐的に笑い飛ばした。だが全国各地の民芸品蒐集家が、わざわざ遠方より買い求めに訪れたり、毎年決まって初詣の縁起物として求める参拝客も後を絶たない。

「まあ遅かれ早かれ廃れるもんやろな。でも物事あんまり考えんのが一番やさ。うざこい(うっとおしい)だけやでなぁ」。淀みのない笑顔で水谷さんがまた笑った。

水谷さんが作る「はじき猿」よ、どうか人の心に棲む邪悪な心や煩悩を、ものの見事にはじき去ってくれ!

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「天職一芸~あの日のPoem 26」

今日の「天職人」は、岐阜県伊自良村の、「連柿農夫」。

鈍色の 雲を引き連れ 木枯らしが           伊自良の里を 包み込む                指先に 息吹きかけて 柿を編む            朱染めの暖簾 軒に連柿 老夫婦

岐阜県伊自良村で大正時代より代々連柿を作り続ける農夫、佐野治一さんを訪ねた。

伊自良の連柿には、伊自良大実と呼ばれる渋柿が用いられる。伊自良の大地は肥沃さを欠く痩せた砂地だが、それが逆に柿の糖度を高めるとか。

連柿作りは、木守りの実一つを残し、伊自良大実の渋柿を収穫する作業に始まる。「木守り」とは文字通り、柿の木を守り翌年の豊作を願う、大地の恵みを受けて生きる人々の智慧そのものだ。

収穫した柿は蔕を取り、皮を剥き粒を揃えて竹串に刺す。一串に柿三個。それを縦に十串藁で編んで繋ぎ一連とする。「これを硫黄で燻(くすべ)ると、黴も吹かんしええ色になるんやて」と、佐野さんは押し入れのような燻蒸室を開けた。

次に母屋全体を包み込むように樽木を組み上げ、橙色の大玉暖簾のように連柿が天日に干される。そして約一月。連柿は伊自良の寒風に晒され、濃厚な甘みとふくよかな柔らかさを身に纏う。干し上がった柿はほぐされ、白い粉(果糖とブドウ糖)を吹かせるため、皮に束子を擦り付け、新しい藁で編み込まれる。

「ここから四キロ離れただけで、柿の色が黒ずんでまうんやて。ご先祖は偉い人やったんやろな。ここが連柿作りに、日本一適したことを見抜いとったんやで」。佐野さんは陽だまりの中、椅子に座し藁を編む妻の指先を見つめた。

大きく長い化粧箱に収められた伊自良の連柿は、ご進物としてもとても迫力ある逸品です。

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「天職一芸~あの日のPoem 25」

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の、「提琴師(ていきんし)」。

バスを待つ雨の日がすきだった             坂の途中の洋館見上げ                 ぼくは窓越しに君を探した               傘を打つ雨音に バジイオリンの甘い調べが 重なった   君の影が揺れるたび                  バスを待つ雨の日が好きだった             そしてぼくは君が・・・

明治20(1887)年創業の鈴木バイオリン製造、四代目の鈴木隆さんと奥様の香里さんを訪ねた。

初代の鈴木政吉は尾張藩士で、維新後に三味線製造を手掛けた、鈴木正春の長男とし安政6(1859)年に誕生。十七歳の年から三味線製造を学ぶが、急速な西洋化の波に先行きを案じ、唱歌の教員を目指し西洋音楽理論を学んだ。そこで学友が手にしていたバイオリンに釘付けに!政吉は貴重なバイオリンを借り受け、一晩で全ての部材を採寸し模写。そのまま寝食も忘れ、憑りつかれたように試作づくりに励んだ。

それから一週間。見よう見真似で、日本初のバイオリンが完成。日本のアントニオ・ストラディバリの誕生だった。その後、本格的な生産を開始。

しかし大正3(1914)年、第一次世界大戦が勃発。ヨーロッパが戦禍にまみれた。ところが皮肉にもこの戦争が、鈴木バイオリンを世界のスズキに押し上げることに。ヨーロッパの製造が停止し、飛躍的に海外からの受注が増加。

だが政吉は、素直に喜べなかった。「いつか世界の名器を越えたい」が口癖だったと言う政吉の本意は、生涯一職人にあった。

現当主の隆さんは、先代の次女であった香里さんと、学生時代からの交際を実らせ鈴木家に婿入りした。隆さんは結婚一ヵ月前に入社し、一筋縄ではいかない職人の世界へ飛び込んだ。そして六年間の修業を経て、バイオリン作りを習得した。

今後の目標はと、隆さんに問うた。すると「政吉が遺したバイオリン作りへの職人魂を、守り抜くのが我々の務めですから、事業を広げる考えなど毛頭ありません」と、毅然と言い放った。

政吉の魂は曾孫に宿り、欲を捨て名器作りに励もうとする孫娘の婿を、きっと頼もし気に眺めていることだろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 24」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「浅沓司(あさぐつし)」。

浮世の禊(みそぎ) 神所(しんじょ)を行けば     俗世の穢れ 祓い清める 玉砂利の音          古市(こいち)の旅籠 精進落とし           酒肴勧みて お国自慢に 夜も耽(ふけ)やらぬ

三重県伊勢市で浅沓を作り続ける、西澤浅沓調進所、浅沓司の西澤利一さんを訪ねた。

浅沓は、公卿や殿上人(てんじょうびと)、又神職高官が神事参勤時に着用する履物として、現在に受け継がれる。古来は革製。後に桐を刳り貫き、外側に黒漆を塗り絹布が貼られた。

また、苧麻(からむし)の麻糸で作ったものが「麻沓(あさぐつ)」と呼ばれ、後の世に深沓に対する浅沓と表記されるようになったとか。

伊勢地方での浅沓の歴史は、江戸期に入ってからで、型作りから仕上げまで、今では西澤さんたった一人が手掛ける。西澤さんは十八歳から祇園祭の山鉾の模型を父親と共に作り、京都へと納めていた。

昭和59(1984)年、伊勢最後の浅沓司が高齢のため、跡取りを求めていた。西澤さんは三十四歳にして弟子入りし修業を開始。しかし丸一日修業を務め、日当はたったの千円。子供と年老いた両親を抱え、修業を終えて戻ると、夜鍋仕事で山鉾の模型を作り家計を補った。しかし山鉾作りの基礎が活き、一年半で独り立ち。

程なくして初仕事が舞い込んだ。伊勢神宮内宮の宇治橋渡り初めの大仕事だった。楠の底板に四国産の和紙十四~十五枚を張り合わせ型を作り、砥粉に生漆を混ぜ、浅沓全体を覆うように何度も繰り返し塗っては磨く。最後は漆黒の艶を引き立たせる本堅地(ほんかたじ)色塗りで仕上げ、正絹の甲当て枕と呼ばれる綿の詰め物が添えられる。一足の完成までに約一月。片時も気が抜けぬ真剣勝負である。

内宮の玉砂利を踏みしめ、静々と進む神官の浅沓は、神宮の杜の木漏れ日を浴び、悠久の時の狭間で独特な輝きを放っていたものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 23」

今日の「天職人」は、岐阜県平田町の、「女板長」。

揖斐川の 流れを染める 山茜             養老おろし 秋も暮れ行く               油揚げは 千代保詣での 縁結び            稲荷の耳に 恋し名を呼ぶ

岐阜県平田町で文政年間(1818~1830)創業の川魚料理八穂長(やほちょう)、六代目板長の吉田有子(ともこ)さんを訪ねた。

日本三大稲荷の一つ「お千代保さん」の門前。稲荷の耳を模し、荒縄を通した三角の油揚げと蝋燭を、参拝者が買い求める。

有子さんは昭和17(1942)年、十七歳の年に八穂長を営む吉田家の養女として迎え入れられた。忌まわしい戦争の真っ只中だ。「この家に貰われてすぐ、挺身隊で落下傘作っとったんだわ。飯なんてあんたぁ、ブリキの皿に蒸かし芋たつたの二切れ」。有子さんは、懐かしそうに笑い飛ばした。

昭和も30年代に入ると、昔ながらの平穏な輪中の暮らしが戻った。「当時はまんだ竹鼻線の大須駅からバスが通っとってな。バスが一台着くと五~六人。みんな油揚げ買ってお参り済ませ、帰りに鯰を食べに寄ってかすんだわ。皆ゆうたんか(のんびり)やったわ」。

有子さんが四十になった年に「暖簾だけは頼むで。門前の灯を消すでないぞ」と、義母はそれだけを言い遺し逝った。江戸時代から続く暖簾の重さを感じたと言う。

有子さんは毎日、庖丁に全体重を掛け鯰を捌く。女手には過酷な重労働だ。右肩だけ筋肉が盛り上がり、手首は腱鞘炎の手術も受けた。

鯰の蒲焼は、何と言っても三年以上寝かせた、秘伝の溜まり醤油に尽きると言う。百九十年前から頑なに受け継がれた真っ黒なタレが、炭火の熾りに滴りジュッと音を立て爆ぜた。

跡取りはと問うと、「気が付いた時には婚期もとっくに遅れてまっとったで、まあお陀仏こいたらそれまでだわさ」と、下呂膏を貼った右の手首を擦った。

「大きい夢見たらかん。正直にコツコツやつとりゃあ、お千代保さんはちゃあんと見とって下さるで」。お千代保稲荷の門前を行き交う参拝客を、目を細めながら眺めていた女板長の顔が、今でも浮かんでくるようです。

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「哀しいほど君が好き」

あなたは、「哀しいほど」誰かの事を、好きになったことはありませんか?

もどかしくて、切なくて。じっとしていられないほど、堪らなく恋しくて愛しくてしかたない。そんな感情の高ぶりは、きっとどなたにもあったことでしょう。

誰もがその感情は永遠に続くものと信じて・・・。しかしその時に思い描いた、とってもピュアな感情のまま、永遠に生きる事はさぞかし大変な事ではないでしょうか?

恋も愛も、その時々の状況に応じ、日々刻々と姿かたちを変えてゆくもので、永遠に「あの日」のまま立ち止まることは許されないものなのでしょうか?

しかし恋も愛も姿かたちを変えて、二人の間で成長を続けてゆく場合もあれば、姿かたちを変えることで二人の間にわだかまりが生じたり、心の距離が開いてしまう場合もあるのでしょうね。

でも少なくとも、「哀しいほど」誰かの事を好きになった瞬間には、その時点が全てであって、その先にどんな事が待ち受けているかは、神様でもない限り何人にも分からないから、その時点に抱いた思いを信じる事しか出来ません。

まあ、先が分かってしまっていたら、誰も好んで恋や愛にエネルギーを無尽蔵に費やさないかも知れませんよね。何もかも未来なんて、分からないことだらけだけど、少なくとも「哀しいほど」好きになったその人に対する自分の想いだけは、とことん信じて見るしかないように思えます。

今日はCD化されておりませんので、弾き語りで聴いてください。「哀しいほど君が好き」。

「哀しいほど君が好き」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

哀しいほど好きだなんて 君はきっと笑うだろう

だけど言葉はもどかし過ぎて ぼくの心を伝えきれない

哀しいほど逢いたくなる 逢えばただそれだけで

ぼくの心は穏やかになる  君の魔法のkiss一つで

 だからだからだからもう一度 ぼくの夢の中へ現れて

 今宵も一人 酔い潰れ果て 君を想って 眠りつくだけ

愛しただけ切なくなる やるせない想いだけが

メリーゴーラウンド心空回り この恋しさは伝えきれない

哀しいほど君が好き 君はやっぱり笑うかな

でも言葉じゃ言い尽くせない 君を愛しく想う心は

 だからだからだからもう一度 ぼくの夢の中へ現れて

 今宵も一人ギター爪弾き 君を想って唄い明かそう

 哀しいほど君が好き 哀しいほど君が好き

 今宵も一人  夜空眺めて 君への想い星に託そう

しかし恋や愛は、何も若者だけのものではありません。例えいくつになったとしても、「哀しいほど君が好き」と純粋に想えたら、それはやっぱり素敵ですね。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「受験勉強のお夜食!」。こんなぼくでも、一応こんな時期には、受験勉強をしたものです。でも大半は、勉強しているふりをして、ラジオの深夜放送にうつつを抜かしていたに違いありませんが。でもお母ちゃんはそうとは知ってか知らずか、受験勉強の夜食を作ってくれたものでした。おにぎりや、インスタントラーメン、それにうどんとか。なかなかプラスチックのフォーク付きの、カップヌードルは買ってもらえなかったように記憶しています。お母ちゃんが寝間着に着替え、布団に入る前に運んでくれたことを、今もって感謝したい思いです。受験勉強とは名ばかりで、深夜放送ばかりに夢中だったことが、今でも後ろめたい思いでなりませんが!

今回はそんな、『受験勉強のお夜食!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」

友人から今年も沢山岩牡蠣を贈っていただけました。ありがたや、ありがたや!

そこでさっそく、チリワインのシャルドネ3ℓ入りを1箱と、デンマーク産のブルーチーズを2パック買ってまいりました。

まあ今回は、残り物クッキングではありませんが、そこはご容赦願います。

まず岩牡蠣の殻に付着している汚れを、金束子でこそぎ落とし、大きな鍋に入れて置きます。一番大きく、深い鍋を使いましたが、とても一度には入りきらず、半分で一杯になってしまいましたが、第一弾を食べ終えてから、残りの岩牡蠣を白ワインとブルーチーズのスープの中でボイルしたほどです。

そして大鍋にチリ産のシャルドネ3ℓを惜しげもなく注ぎ入れ(って言っても、イオンの箱入りの3ℓで1,400円程度のチープなものです)、火に掛けながらブルーチーズ2パックをこれまた惜しげもなく加え、加熱しながら白ワインに溶かすだけ。

後の調味料は一切ありません。たったこれだけ!

以前、ニュージーランド南島の最北端、クック海峡に面したハブロックの港で、絶滅に瀕した飛べない鳥「カカポ」のHokiが保護されているモード・アイランドに渡る船を待つ間、シーフードレストランの「マッセルボーイ」で、ムール貝の白ワインとブルーチーズのボイルをいただいたことがありました。

ハブロックの港の周りでは、ムール貝の養殖が盛んで、お値打ちに沢山食べられちゃうんです。

それを応用したのが、この「ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」です。

白ワインとブルーチーズのシンプルなスープが基本ですから、牡蠣の味わいを損なうことなく、尚且つ磯臭さも全くなく何個でも食べられちゃいます。

ぼくは生牡蠣がちょいと苦手なため、このスタイルが一番好きです。

食べ残った牡蠣は、ボイルした後に殻を外してタッパーで保存し、パスタやピザ、グラタンにカキフライと、色々と楽しませていただけるのも何よりです。

ぼくはニュージーランド・マールボロ産のヴィラマリアのソービニヨンブランをグビグヒとやりながら、頂きました!

今年もありがとう!友よ!

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「天職一芸~あの日のPoem 22」

今日の「天職人」は、愛知県甚目寺町の、「畳刺(たたみざし)職人」。

春も宵 萱津堤(かやづづつみ)に 朧月        波陀米(はだめ)の里の 藤娘             お初穂に 畑の実りと 藻塩添え            藪の香物 阿波手杜(あわでもり)

愛知県甚目寺町で江戸末期から続く畳職、伊藤畳店四代目の伊藤あや子さんと、あや子さんの孫で六代目を継いだ秀さんを訪ねた。

あや子さんは、昭和25(1950)年、故四代目に嫁いだ。「戦後は喰うが先。畳なんてもっと後だわ」。あや子さんは、畑作で夫を支えた。昭和33(1958)年、次女を出産。その直後、亡き夫が胸を患い半年間の闘病を余儀なくされた。あや子さんは三代目の義父に付き、いろはを学び急場を凌いだ。

「リヤカーの鉄製の轅(ながえ)に乳飲み子を括り付けて、そんであんたぁ、荷台に畳六枚も載せるんだて。一枚二十七キロのを!百六十キロも積んで萱津橋越えて、枇杷島まで運ぶんだで」。あや子さんは、当時を振り返った。「赤子は乳欲しいって泣き出すし、坂の途中で立ち往生してまうし。そんでもあの頃は、誰かかんかが助けてくれよったでなぁ」。

翌年、伊勢湾台風が襲来。一家は災害復興の特需に追われ倉庫を新築。しかし二年後、隣の火災の貰い火で全焼。

名古屋市中区の畳店の三男坊を、長女の婿として五代目に迎えた。再び一家に明るさが兆した。ところがそれも束の間。秀さんが小学六年の時、五代目は四十一歳の若さでこの世を去った。四代目は「まっと出来の悪い子でええで、なんで長生きせんかった!」と号泣した。自慢の婿だったのだ。

秀さんが大学四年になるのを待っていたかのように、四代目も召された。「後を頼むでなぁ、秀くん」の一言だけを遺して。卒業と同時に秀さんは、京都の畳職の下で一年間修業を積んだ。

「父が生きていたら、違う世界へ進んだでしょう」と、秀さんは父の形見の畳庖丁を握り締めた。

職人に道具の貸し借りは無用。昔は、畳庖丁も棺に入れたそうだ。秀さんは修業を切り上げ、あや子さんを案じ甚目寺へと戻った。「ぼくにとっては、親そのものですから」。秀さんは爽やかな笑顔を見せ、畳表の髭を裁った。

上って下る、吉凶対なす人の道・・・。「幸あれ」老婆と孫の畳算(たたみざん)。

*「畳刺し」は、畳職の別称。「波陀米」は、甚目寺町の旧村名。「阿波手杜」は、萱津神社周辺の森の名称。「畳算」は、占いの一種。簪(かんざし)を畳に落とし、畳の目の数で吉凶を占った。

秀さんは、とてもお婆ちゃん思いの、今時珍しい爽やかな若職人でした。

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「天職一芸~あの日のPoem 21」

今日の「天職人」は、三重県磯部町の、「伊勢根付(ねつけ)木彫師」。

早乙女が 古式彩る御田植か              伊雑宮(いざわのみや)に 夏は寄せ来る        風待ちや 水主(かこ)も浮き立つ           鳥居崎 一夜詣での渡鹿野島(わたかのじま)よ     はしりがね 無事かえれよと              伊勢根付 帯に忍ばせ出船見送る

三重県磯部町の伊勢根付木彫師、櫻谷直弘さんを訪ねた。

根付は元々、印籠や煙草入れの帯留め。江戸も元禄を迎えると、粋筋の間で根付自体の美が競われた。中には、大名お抱えの根付師もいたという。

櫻谷さんは昭和9(1934)年、十五歳で伊勢根付三代目正直の最後の弟子となった。しかし根付は、維新以降国内での需要が激減。代わりに西欧の蒐集家が美術工芸品として価値を見い出し、正直を冠した伊勢根付は、海外での人気を追い風に、七つの海を渡った。

櫻谷さんの伊勢根付も師同様、樹齢百年ほどに成長した、幹周り七~八メートルに達した、自生の朝熊黄楊(あさまつげ)のみを使用。構図を描き硬質な朝熊黄楊に、丸刃(がんとう)で細かな細工を刻む。掌にすっぽり収まる根付一つに、一ヵ月以上の時が無尽蔵に費やされる。顔料の紅殻(べにがら)と墨を混ぜ合わせ、図柄によって濃淡を加える。最後に椿油をすり込み、何度も布で磨き上げ独特の艶を引き出す。

櫻谷さんの根付には、「無事かえる、客を引き込む」の願いを込め、ヒキガエルが浮き彫られる。櫻谷さんは、古井戸から引き上げたような、朽ち果てた釣瓶からヒキガエルも一緒に顔を覗かせる根付を取り出した。釣瓶の横板は片方が朽ちて剥がれ落ち、飛び出した和釘までが象嵌を施す念の入れよう。彫師の魂が刻み込まれた銘品だ。

幅2.5センチ、高さと奥行きも約1センチの小さな小さな根付。しかし小さな根付に描かれた彫り物たちは、まるで今でも生きているかのようでした。

*「はしりがね」とは、渡鹿野島が江戸時代の廻船の風待ち港であり、水主(船乗り)の相手をした一夜妻の意。

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「天職一芸~あの日のPoem 20」

今日の「天職人」は、岐阜県可児市の、「笛師」。

虫さえも龍吟(りゅうぎん)の音に唄いだす       鳩吹山に 月夜の宴                 神々が出雲に集う神無月                ご加護祈願の 龍鳴響け

岐阜県可児市の横笛工房「九華」に、笛師の田中敏長さんを訪ねた。

龍笛(りゅうてき/別名は、龍吟、龍鳴)作りは、竹選びに始まる。囲炉裏で燻され続け、何十何百年と時を経た煤竹が最高の部材だ。一節の長さと太さ、曲がり具合が吟味され、鼠歯錐(ねずみはぎり)で穴を開ける。竹はそれぞれに内径が異なり、微妙に音程も異なるため、下地漆を二十回も根気良く擦り込む。息を吹き込む歌口の壁には、水を含めた和紙を詰め、試し吹きを繰り返し、仕上げに朱の漆を五回擦り込む。また外側には、桜樺や籐が飾りと補強を兼ね巻き付けられる。仕上がりまでに悠に一年以上。完成した龍笛には、笛師の号も一切刻まれない。

写真は参考。

「この二百五十年前の龍笛にも、きっと笛師が仕上げた年号と、銘の入った和紙が歌口の先端に錘として詰まっているはずです」。古の笛師から現の笛師へ。封印された先達の言霊はいつの日か蘇るであろう。

余談ではあるが、龍笛と能管(のうかん)の指孔は七つ。神楽笛と高麗笛(こまぶえ)は指孔が六つ。現存する雅楽の楽曲では、六孔しか使われないそうだ。「では龍笛が秘めたもう一孔を使った楽曲とは?」遠く奈良時代に、もう一つの指孔を使ったと言う楽曲への浪漫が馳せた。

田中さんの魂を宿した龍笛の音は、息吹に震え時を流離い、馨しき音色を現の世に運び来た。

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