「天職一芸~あの日のPoem 34」

今日の「天職人」は、名古屋市南区の、「庭師」。

糸の切れた凧を追い駆けた 茜空見上げ泣きじゃくる妹  鎮守の老木も木枯らしに鳴く 枝先の凧目掛け裸足で登った老木から見下ろす小さな町 鐘が鳴る 妹の心細げな顔  生傷と日焼けが誇りの腕白時代             怖さよりも勇気が勝っていた 何時からだろう      勇気を怖さが追い越したのは 何故だろう        そうまでして ぼくらが大人になったのは

名古屋市南区で高塚造園を営む庭師、庭哲、高塚徹也さんを訪ねた。

写真は参考。

「片道切符だけを持っての新婚旅行は、京都の職安でした」。高塚さんが重い口を開いた。

高塚さんは、東京の大学へ進学し、ワンダーフォーゲル部で山と出逢った。しかし危険と隣り合わせ。雪山で落石や滑落で仲間を失った。「あの頃は、『山屋』特有の、崖っぷちの緊張感に惹かれて」。相次ぐ事故を目の当たりにしても、決して山を下りようとはしなかった。そんな頃、山仲間に誘われ造園会社でアルバイトを開始。木に登るのも山登りの練習と嘯きながら。

二十五歳の暮れ。姉が保母として勤める、保育園の忘年会で栄養士だった典子さんを見初めた。結婚を目前に控えた頃、ヒマラヤ遠征の計画が持ち上がった。山の本当の怖さを知らぬ典子さんは、「ヒマラヤ行って来たら」と。しかし遠征前の冬山練習で、先輩が滑落。高塚さんは遂に山を下りた。そして結婚式を終えると、庭師の仕事を極めたいと、新妻を伴い京都へ修業に向かった。それが冒頭の、片道だけの新婚旅行の門出だった。

三千院「五葉の松」

古都の名刹では、樹齢千年に及ぶ古木や、三千院の七百年を超す五葉松が待ち受けていた。五葉松の手入れには、一度に三十人の庭師が必要。毎年春と秋に登った。春は松の芽を折り、秋は剪定と葉毟りに明け暮れたそうだ。

「自分が毎年松に話し掛けるからか、松も自分が来るのを待っとるんですわ」と照れ臭げだ。「人偏に木と書いて『休む』と読むでしょう。やっぱり人の側には、木がないと・・・」。

風雪に耐え、里の暮らしを見守り続ける、鎮守の杜の老木と話す、かつての山屋。朴訥とした口調で、魂の欠片を紡ぎ取る様に、静かに静かに呟いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 33」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「髪結」。

色取り取りの 振り袖姿 雪化粧の 街を染め      二十歳を祝う 声が弾む                慣れぬ足取り 簪揺れる 春の寿ぎ 日本髪       今日を限りの 大和撫子

三重県桑名市の「美容室由季」へ創業者の水谷ユキさんを訪ねた。

写真は参考。

「父の夢なぁ・・・いっぺんも見たことないなあ」と、二代目の恵美子さんがユキさんを見つめた。「この子がお腹ん中入ったのも知らんと、夫は戦地へ出征しましたんやわ」。

員弁出身のユキさんは、昭和17(1942)年、二十一歳の年に桑名で自動車修理業を営む政美さんの元へと嫁いだ。翌年には長女が誕生。小さな幸せが訪れた。

しかし昭和19(1944)年6月、一通の赤紙が届いた。政美さんは新妻と一歳半の娘に見送られ、汽車へと乗り込んだ。「あかん、あかん」。長女は父を乗せ走り去る汽車に向かって、覚えたての言葉を声の限り叫んだ。「そりゃあ、あかんはずや」と、誰かが見るに見かねて吐き捨てるように呟いた。周りで嗚咽が漏れた。すでにその時、ユキさんは恵美子さんを身籠っていたと言う。

翌年3月、恵美子さんを無事に出産し、戦地の夫に通知。翌月、まだ見ぬ次女の成長を願う便りが届けられた。空襲の激化で、一家は員弁のユキさんの実家に疎開。玉音放送が流れ、貧しいながらも安寧な時が訪れたかに見えた。しかしそれも束の間。夫の訃報が!政美さんは一度も次女の顔を見ることもなく、その胸に抱き上げる事も叶わず、祖国を護り戦地に散った。大黒柱を失い、義父の下でギリギリの生活が始まった。ある日、美容院に嫁いだ友人から「手に職を付けるしかないで」と、美容師の職を勧められた。ユキさんは娘二人を抱え、二十八歳の年に美容学院へ。しかし入学の時点で、三ヵ月の授業課程の内の一ヵ月が終了していた。残り二カ月、猛勉強を開始。学科はまだしも、実技など全くの素人。「『頭』がないで、実技の練習が出来やん」。ユキさんは、近所の奥さんたちに頼み込み、頭と髪の毛を借り、特訓に励んだ。「今もその人らは、開業以来のええお客さんなんさ」。その甲斐あって二カ月で国家試験を通過。「子供ら抱えて必死やったでなぁ」。ユキさんが懐かしむように笑った。

写真は参考。

昭和26(1951)年、現在の美容室を開業。「私は技術が未熟やで、真心だけやわ。取り柄なんて」。謙虚なユキさんは、半世紀に渡り現役を続け、娘二人と孫までも立派な美容師に育て上げた。

「私ら姉妹は、別に不自由した覚えなんてないし・・・。ただ記念写真の中に、父親が写っとらなんだだけやったわ」。恵美子さんが目頭を押さえた。

人も羨む髪結いの亭主は、妻と娘二人の記憶の片隅で、今も確かに生き続けている。

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「天職一芸~あの日のPoem 32」

今日の「天職人」は、岐阜県下呂市の、「花街芸者」。

いで湯の里は雪化粧 穢れを知らぬ白無垢のよう     あの日の駅前広場は 無事を祈る人で溢れた       声を限りの万歳に あなたは黙って右手を揚げた     咽び泣くよな汽笛を遺し 戻らぬ汽車は旅立った     いで湯の里は今日も雪 本掛けがえりにあの日を偲ぶ   岸辺の白鷺伝えておくれ 遥かな海に召された人に    今も独りを通していると

下呂市の芸者置屋「住吉」の女将、山崎スミ子さんを訪ねた。

スミ子さんは、今(平成十五年一月十四日)も現役でお座敷に着く、この道六十六年の温泉芸者だ。

写真は参考。

スミ子さんは新潟県長岡市で、大正14(1925)年に七人姉妹の長女として誕生。二二六事件勃発に揺れた昭和11(1936)年春、百五十円で下呂の花街へと、向こう十年間無給の「一生籍ぐるみ」で身売りされた。まだ十一歳のいたいけない少女だった。

置屋の養女とは言え、深夜まで寝ずに芸子の帰りを待ち、朝は五時起きでご飯を炊き上げ学校へと通う毎日。しかしわずか十一歳の娘にとって、竈の火加減は多難を極めた。焦がしたご飯をこっそり裏手の川へ流し、もう一度炊き直し学校へは遅刻ばかり。教師はスミ子さんの身の上を知り、「遅刻してでもいいから、ちゃんと毎日学校へは来るんやぞ」と励まし続けた。

舞妓としての初お座付(ざつき)は、端唄「紅葉の橋」。十六歳になった舞妓は、酔客を前に可憐に舞った。

写真は参考。

戦局は日毎悪化の一途をたどり、昭和18(1943)東条内閣は学徒出陣を決定。その頃、出征を間近に控え、地元の若者三人が芸者を上げた。一人の若者がスミ子さんに入れ揚げ、復員したら所帯を持ちたいと求婚。

しかし出征の日は容赦なく訪れた。若者は舞妓姿のスミ子さんの写真を胸に、不慣れな別れの敬礼を手向けた。それが二人の今生の別れに!

写真は参考。

「あんな時代やったで、手もよう握らんと・・・。遥かな海に散ってしまった」スミ子さんは瞳を潤ませた。還らぬ男の菩提を未だ弔い続ける。「私みたいなオヘチャを、嫁にと言ってくれたんやで。幸せなこっちゃ」。スミ子さんは目頭をこっそり押さえた。貧しき時代故に流れ着いた下呂の花街。芸一筋に激動の昭和を生き抜いた老芸者。その顔は、穏やかな慈愛に満ちた観音菩薩が、まるで舞い降りたのかと見紛う程だった。

*「本掛けがえり」は、干支の一回り六十年の意。

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「お伊勢参りと石神様詣で!」

やっと19日に、お伊勢さんとお二見さん、そして石神さんと、いつものお詣りルートを巡って来ることが出来ました。

遅ればせながらの初詣です。

まずは朝一番の近鉄特急で伊勢市へ。レンタカーに乗り換え、外宮さんへ。でも朝一番とは言え、外宮さんの境内はガラガラ!人込みの苦手なぼくには、ラッキーでした。これも新型コロナウイルスの影響でしょうか?

毎年毎年、あのお隣のお騒がせ国の皆々様で一杯なのに!今年は、一人も見かけません。

そして内宮さんへ。ここもこれまで初めてと言う程、ガラッガラ。

正宮でお詣りを済ませ、宇治橋の方へと戻る途中、神馬に出逢えました。

皇大神宮御料御馬「草新(くさしん)号」です。

さすがに、なかなか精悍な表情でした。

続いて、お二見さんの夫婦岩へ。ここもいつもの年より随分参拝者も少なく、ガラーン。ぼくには、ラッキー!

すると海に突き出た岩の上で、海鵜が日差しを浴びながら、の~んびりと羽繕いの真っ最中でした。

続いていつものように、鳥羽市へと向かい相差の石神様へ。

石神様もご多分に漏れず、参拝者は例年になく少なく、いつもは満車でとても近付けない、一番石神様に近い場所にある一等地の駐車場も、難なくクリア。これまたラッキーでした。

すると石神様の参道に不思議な光景が!草鞋が木に括り付けてあるではないですか!

説明によれば、獅子舞神事の出演者が履いた草鞋を、木に括り付ける450年も続くと言う風習だとか!

草鞋を括り付ける風習の由来が知りたいものでしたが、説明板にそこまでは残念ながら書かれていませんでした。

これで今年も何とか、無事にお詣りを終えることが出来、心がす~っとしたものです。

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「天職一芸~あの日のPoem 30」

今日の「天職人」は、三重県久居市の、「味噌蔵人」。

一斉下校のサヨナラ ぼくは畦道の先を競った      白い息 赤い頬 遠い日 土曜の昼下がり        お帰りの声 茶の間から 母は七輪の土鍋を開けた    オジヤの焦げ 味噌の香 在りし日 母の面影

三重県久居市の味噌傳(みそでん)こと、辻岡醸造に七代目蔵人、辻岡傳治(でんじ)さんを訪ねた。

味噌傳は、明和2(1765)年創業。末っ子として生を受けた傳治さんは、大学進学の夏に終戦を迎えた。本来七代目傳治を継承するはずの兄は、戦争の犠牲となって散った。傳治さんは大学を出ると、大蔵省の醸造試験所に学び、二十三歳になった昭和25(1950)年に帰郷。その前年には、味噌醤油の自由クーポン制が導入され、翌年には自由販売の時代へと激変する、戦後の混乱の渦中であった。

昭和27(1952)年、海山町出身の公子さんと見合いを終えると、六代目は安堵したように急逝。涙の乾く間もなく七代目傳治を襲名し、その年の暮れ所帯を持った。「まだ二十五歳の若造やったで、本当大変やったさ。でも一つだけええこともあったわ。代々傳治を名乗って来たで、印鑑変えんでええし、そのまま使こうたったんさ」と、傳治さんは懐かし気に振り返った。隣で八代目の孝明さんが目を細めた。孝明さんは三人の姉に囲まれて育ったこれまた末っ子。味噌蔵を守る住み込みの蔵人たちと共に、学生時代から仕込みを学んだ。「味噌は敏感やさ。樽の配置や風の通り、それに温度と湿度の具合によって微妙に違(ちご)てくるんさ」。

百年以上使い込まれた、四.六トンの味噌樽が所狭しと並ぶ蔵には、有線放送の艶歌が流れる。「ええ歌聴かせてやると、ええ味に育つんやさ」。傳治さんがボリュームを上げた。

「これ、お口に合いますやろか?」と、公子さんが熱い茶を入れなおし、傳治さんがお袋の味と絶賛する柚干(ゆべし)が供された。柚子皮と味噌の芳香、胡桃と胡麻が絶妙な食感を醸す。

大地の恵みたちが大自然の時を纏い、見事に紡ぎ合い、馥郁たる味わいを織り成し、口の中に弾けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 29」

今日の「天職人」は、岐阜県岐阜市の、「散髪師」。

改札口へ続く駅舎は 今でもあの日の薫りがする     君は北へぼくは西へ 故郷行きの汽車を待った      駅舎に広がるシャボンの薫り 真新しいスーツに似合う様に君と出逢ってからの髪を切った             「社会人か」君の最後の囁きを 発車のベルが掻き消した ぼくは今でもあの日の君を 心の何処かで探し続けてる

旧JR岐阜駅、ステーションデパート二階のカットポイント青木に、初代散髪師青木勇さんを訪ねた。

この場所で孫子三代に渡り床屋を営む。農家の出であった勇さんは、尋常高等小学校卒業と同時に、柳ケ瀬の理容館に修業に出た。当時は洗髪三年、顔剃り三年、一人前までに十年の歳月を要する時代だった。当時の小遣いは、一月三十銭。「一杯十銭の、牛の丼飯食うのが唯一の愉しみやったて」。勇さんが懐かし気に目を閉じた。

昭和17(1942)年、二十歳の暮れにラバウルへと出征。「わしはB29撃ち落して、金鵄勲章を貰うはずやったに、その前に終戦やったて」。勇さんは未だ口惜し気だ。翌年復員し再び柳ケ瀬の理容館へ。昭和24(1949)年、満州から引き揚げた長子さんを嫁に迎えた。

長子さんは子供を預け、朝から深夜まで柳ケ瀬で「お好み焼き」を焼き、夫を支えた。「当時お好み屋がどえらい流行ったんやて。床屋が九人で働いて一日九千円の時代に、お好み屋は女房一人で九千円売り上げる日もあったほどや。わしもあの頃は、昼に髪切って、夜は深夜まで葱切っとったて」。お好み屋の稼ぎで岐阜駅前の一等地を手に入れ、昭和28(1953)年に独立開業。

「ほんでもわしらぐらいやで。お客の頭叩いても文句の一つも言わんと、金貰えるのんわ」。岐阜市の人口の約1/3近くに当たる十五万人の頭を、半世紀掛けて刈り続けた老散髪師が笑った。

これを書きながら、現アクティブGの辺りにあった、ステーションデパートの青木さんの床屋を思い出しました。

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「願い星」

今から21~22年前の事だったでしょうか?

毎日新聞の連載の取材のため、初めてインドのビハール州ブッダガヤの地を訪れたのは・・・。

ホテルで夕食を終えると、TVもラジオも無く、何もすることがない。時折湯が水になるシャワーで一汗流し、涼みがてらホテルの玄関を出た。

ブッダガヤは、その名が示す通り、ブッダが成道した仏教の聖地で、世界各国の仏教国の寺院が犇めき合っている。

その中にある「日本寺」は、日本の仏教界が作った寺だ。しかし日没以降は、寺に照明が付くわけでも無く、辺りは漆黒の闇。唯一の灯りと言えば、濃紺の夜空に隙間なく巻き散らかされた様な、大中小様々な星たちの瞬きと、月明かりだけ。

すると日本寺と舗装されていない農道一本を隔てた、マスティープール村から子どもたちの歌声が聞こえた。と言っても、子どもらの歌の歌詞はヒンディー語のため、ぼくにはチンプンカンプン。とても優しく穏やかなメロディーに耳を傾けながら、夜空の星々を何時間も眺めていたものです。

周りには人工の灯りなど何一つ無いからか、これまでに見たことも無い無数の星々に、ただただ圧倒されたものです。一つ一つの星の光源がとても強く感じられ、星たちがまるで息衝いているかのような錯覚に陥ったものです。

それから都合取材で三度ブッダガヤを訪れましたが、いつもこの世の物とは思えぬ程満天の星空を眺めながら、屋台でインドビールのキングフィッシャーを呑んだものでした。

日本で流れ星を見る機会は、もうすっかり街灯りに消されてしまっているせいか、終ぞありませんが、ブッダガヤでは何度となく大きな流れ星を目にしたものです。

今夜はまず、弾き語りで「願い星」をお聴きください。

『願い星』

詩・曲・唄/オカダミノル

逢いたくて逢えなくて 君の名前呼び続けた

夜空に煌めく星を結び 君の顔を描いて

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君はただ 瞬くばかり

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

そして必ず君だけに 生きて見せると

逢えなくてもどかしいと 心だけが夜を駆ける

君の寝顔に寄り添う心 気付いたろうか

 どれほど愛を語ろうと どれほど心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

 どんなに愛を語ろうと こんなに心震えても

 君の声が ぼくに聞こえない

願い星伝えてよ もう一度だけ逢いたいと

君を奪って二人そっと 生きてゆこうと

それにしても人類は、流れ星に祈りを捧げるようになったのは、いつの頃からだったのでしょうか?

同時に大きく輝く一等星を結んで、様々なモノに見立て、星物語が紡ぎ出されていったのでしょうか?

ついつい子どもの頃の、日曜日の早朝を思い出してしまいます。子供にとって日曜の朝は、一週間でも特別な日です。川の字に布団を並べ、両親の真ん中で寝ているぼくは、雨戸の節穴から差し込む陽射しに、もう寝ても立ってもいられません。早く起きだして日曜日の休日を満喫しなければ、途轍もなく損でもするような、そんな強迫観念に囚われていたのかも知れません。しかし両脇で寝息を立てる両親は、まったくぼくとは逆で、せめて一週間に一度の日曜くらい、誰憚ることなくもう少し布団の中でまどろんでいたい!そう思っていたことでしょう。とは言えぼくは、早く両親が起き出してくれないものかと、何度も寝返りを打ったりしますが、その度に両親はぼくに背を向け、布団を頭からひっかぶったものです。ぼくは成す術も無く、布団の中から天井を見上げ、天井板の木目の図柄を眺めながら、「あっ、あれはムンクの『叫び』だ!(って、そんな小学生の頃ですから、もちろんムンクも『叫び』も知りませんから、ゲゲゲの鬼太郎に出て来る妖怪とでも思っていたかも知れません)とか、あっちは山下先生だ!」と、木目が描く不思議な曲線を擬人化して暇を持て余したものです。そう考えると、星座の星物語を生み出した古代人たちは、少なくとも忙しなく日々を生きるぼくらよりも、ゆったりと満天の星々を眺め、思いを馳せる時間がたっぷりあったのでしょうね。

続いては、CDよりオリジナル版の「願い星」お聴きください。

そしてもう一曲。こちらは即興のジャズバージョンの「願い星」にお付き合いください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「受験のお守り、験担ぎ!」。受験勉強が完璧な人も、そうでない人も、こんな時期になるともう成す術はなく、ただただ幸運を祈るばかりです。ぼくは受験勉強を完璧にこなせるほど、勤勉では無かったものですから、お母ちゃんが授かって来てくれたお守りを、腹巻の中へ忍ばせ受験会場に向かったものです。また、靴や靴下は左から履くとか、玄関の敷居から踏み出す時は右足からとか、お相撲さんのような験担ぎにも頼った記憶があります。まあいずれにせよ、勉強を怠けた自分は棚上げし、一切合切神頼みにすがると言う、そんな体たらくぶりでした。皆様にも、お守りや験担ぎの想い出、きっとおありのことでしょう。

今回はそんな、『受験のお守り、験担ぎ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~春と秋の味覚の饗宴!海女小屋風ピザ」

先週ご紹介いたしました、「ボイルド岩牡蠣~ホワイトワインwithブルーチーズ」の食べきれなかった岩牡蠣を、殻から外してたっぷり保存してあります。

それと先日のLiveで、ご実家で生ったということで、鬼殻と薄皮を剥いた銀杏をお裾分けいただいておりました。

また郡上からは、第二段の山菜「蕗の薹」を送っていただいておりました。

そして買い置いてあった、メカジキのスライスもございました。

ならばそれらをひとまとめに、ピザにでもしてしまえってなもんで、編みい出しましたる作品が、この「春と秋の味覚の饗宴!海女小屋風ピザ」でございます。

まずミラノ風のピザ生地にアラビアータ用の瓶詰トマトソースをたっぷりと敷き詰め、その上にこれまたたっぷりととろけるチーズも敷き詰めます。

次にフライパンでバターを溶かし、ニンニクの微塵切りで香りを立て、牡蠣と銀杏、蕗の薹に、あらかじめ白ワインとハーブミックスに漬け込んで置いたメカジキを賽の目切りにし、塩コショウを軽く振って炒め、ピザの上に盛り付け、その上から再びとろけるチーズをたっぷりとのせ、オーブントースターで少しチーズが焦げる程度に焼き上げれば完了。

トマトソースととろけるチーズの相性は言うまでもありませんが、たっぷりと白ワインとブルーチーズの旨味を吸った牡蠣と、バターとガーリックの風味を纏ったもっちもちの銀杏に、春の苦味がほんのりと香る蕗の薹も、見事なほどマッチし美味しい逸品となりました。また圧巻は、メカジキのバターソテーがチーズに絡んで、これまたとっても美味しいツナとして、その存在感を感じさせてくれたものです。

ぼくはNZマールボロ産のヴィラマリア・ソービニヨンブランをついグビグヒと煽ってしまいました。

そして食べ終わってから思ったのは、トマトソースではなく、辛子味噌ソースでも銀杏や蕗の薹の味をより高められたようにも感じました。また機会があったら、今度は味噌ソースにチャレンジしてみます。

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「ウォーキング雑観」

ついこんな景色に目を奪われ、そぼ降る雨の中、立ち止まってしまいました。

なんだかパット見は、枯れてしまったマリモッコを撒き散らしたかのようでもありますし、小さな真ん丸の生物が寄り添って話し合っているようでもあり、またアフリカ大陸のヌーの様に集団で大移動をしているようでもあり、ついつい歩道にしゃがみ込んで眺めてしまいました。

何の木の実だろうかと思いながら・・・。

帰って調べて見ると、フウの実のようでした。

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「天職一芸~あの日のPoem 28」

今日の「天職人」は、愛知県弥富町の、「瓦師」。

籠を逃げ出た 白文鳥は いぶし瓦の 甍の波に     呑まれて消えた 前ヶ須(まえがす)の宿        筏川から おみよし松へ 下駄を鳴らして 童が駆ける  甍に消えた 鳥の名を呼び

愛知県弥富町で孫子三代に渡り三州いぶし瓦の瓦師を続ける、瓦栄(かわらえい)商店、三代目瓦師山田篤さんを訪ねた。

三州いぶし瓦の瓦師は、神社仏閣の甍を葺けるまでに十五年の修業を要する。瓦師の仕事は、大工が建て上げた屋根を採寸し、いぶし瓦の割り付けを描き出すことに始まる。

瓦は下から上へ、縦に一列ずつ右から左へと葺いてゆく。瓦と屋根の結合部は、山の赤土と畑の土とが絶妙に絡み合った「泥コン」と呼ばれる粘土である。三角形の瓦鏝で塗り込み瓦を葺く。以前まではこれが主流だった。ところが阪神淡路大震災以降、強度の問題が問われ、泥コンに瓦釘を合わせ打つ工法が採用された。新建材の屋根工法では、泥コンを使わない。「ほんでも泥コン塗ったると、保温と断熱にええんだわ」と、篤さんは先達瓦師たちの智慧を讃えた。

一端の瓦師と呼ばれるには、一日七~八百枚が葺けなければならない。修業十五年は、決して伊達や酔狂ではない。ましてや一見同じに見える瓦でも、一枚一枚反りも違えば微妙な曲がりもある。そしてそれは、土台屋根自体にも言える。たとえわずかな誤差であっても、一屋根に何万枚も葺く、大きな仏閣ともなれば、最後には取り返しの付かない誤差が生じる。瓦師は屋根の上で瓦の癖を瞬時に見抜き、勘を頼りに微妙な調整を繰り返す。

そう考えると瓦師とは、まさに誤魔化しの達人であると同時に、鈍色に輝く甍の美しさを描き出す、屋根の上の細工師でもある。

しかし移ろう時代と共に、この地方独特のいぶし瓦の屋根も、新建材に圧される憂き目に。

「親父がきっちり仕事しとったで、五十年経ってもだっても全然傷んどれへんで、葺きかえてまえんでかんて!でもやっぱり、親父みたいなええ仕事せんとかん」。尾張の瓦師が、真っ黒な日焼け顔で笑って見せた。

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