今日はひな祭りですねぇ。「天職一芸~あの日のPoem 41」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の、「時雨煮職人」。

桑名赤須賀(あかすか) 川湊(かわみなと)      秋の時雨が 貝育て                  河岸も俄かに活気付く                 蛤漁の水揚げに                    家並漂う溜りの香り                  河岸に上がった蛤が                  桑名名物時雨煮に                   茶漬けに浮かべ舌鼓

三重県桑名市で時雨煮一筋で創業百有余年を超える、志ぐれ蛤貝増(かいます)商店の三代目女将、服部たゑ子さんを訪ねた。

「何でもあいくさ(相性)が合わんとなぁ。鰻と山椒のように、時雨煮には溜りと生姜がええし、毒気と匂いも消してくれるでなぁ。たいがい夫婦だって、あいくさが合わなんだら、添い遂げられやんで」。たゑ子さんは帳場に顔を出した夫を、目で追いながら笑った。

たゑ子さんは、桑名市の東外れ、長良川と揖斐川が合流し、伊勢湾に注ぎ込む赤須賀の川湊に、八人姉妹の末っ子として誕生。

赤須賀の貝漁は、蛤の「マキ漁」、浅蜊(あさり)の「ジョウレン漁」、蜆の「チャンチャン漁」の三種。多くの者が、貝漁や貝の加工で生計を支えた。

たゑ子さんは高校を出ると、名古屋市西区明道町の姉が嫁いだ菓子問屋に勤務。「漁師だけでは食べれやんでと、母は魚介と一緒に貝増で時雨を仕入れては、名古屋まで負(お)いねてって(背負って)行商しとったんやさ」。母と貝増先代との繋がり。義兄の嫁と姉が同級生だったという繋がり。そして夫となった、三代目時雨職人の豊治さんが、仕入れのため赤須賀の河岸を訪れていた繋がり。いくつもの繋がりが、まるで貝蛤(かいあ)わせのように、たゑ子さんと豊治さんの運命を引き寄せていった。「逞しさに惹かれちゃって」。たゑ子さんは懐かし気に笑って見せた。そして柔道で国体に出場した豊治さんと、二十二歳の年に結ばれた。

時雨煮は、赤須賀で剥き身にされた蛤を仕入れ、沸騰したたっぷりの溜りの中で、蛤の身が浮くように入れて炊き上げる。「晩秋に時雨る頃の蛤が、一番美味しいんやさ。冬を前に栄養を蓄えとるで、身がおおきてなぁ」。たゑ子さんが人差し指と親指を環にして、身の大きさを示した。

「この人なぁ、誰にでも親し気やろ。アゲマンの優秀な売り子さんやで、家(うっ)とこも何とかここまでやって来れたんやさ」。再び帳場を覗いて、豊治さんが嬉しそうに口を挟んだ。

「あの人に上手に仕込まれただけやさ。あの人なぁ、本当、欲得ない人でなぁ。自分で売った時雨の代金も、よう集金に行けやんのやで。嫁いで三十七年(平成十六年七月三十一日時点)。あいくさが合(お)うとったんやろか?せめて主人を先に送り出すまでは、頑張らんとなぁ」。

これはぼくの「貝蛤わせ」の内側です。
こちらが「貝蛤わせ」を合体させた、蝶番の部分です。

まるで時雨煮職人夫婦のような、この世にたった一つきりの貝蛤わせ。二枚の貝を繋ぎ止める蝶番のような絆は、蛤がその命を全うした後も、永遠に二枚の殻を繋ぎ止める。

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「天職一芸~あの日のPoem 40」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「風呂屋女将」。

洗面器の中石鹸が鳴る 泥んこ顔で妹と二人       一番風呂の先を競った                 背伸びで小銭差し出すと 番台越しにお婆の笑顔     湯気立ち込める向こうから 壁の赤富士背負った隠居   手拭い頭に浪花節                   意味も分からぬ二人でも 湯屋の風情が好きだった    一番風呂は小さな褒美 世を下り行く隠居と       荒波に向かう子供らへ 神が与えた湯殿の楽園

三重県伊勢市の喜楽湯二代目女将、中村久子さんを訪ねた。

「おおきになぁ。ええ湯やったわ。あんたに話したらなぁ、何や心まで洗濯したみたいんなって、心が軽うなったわ」。湯浴み客は、思い思いの言葉を残し、番台を後にする。「もう今し、お客も一日十人もおらんでなぁ。履物見ただけで、誰やすぐにわかるんやさ。なんせ家族の風呂みたいなもんやでな」。久子さんが笑った。

久子さんは昭和11(1936)年、七人兄妹の末っ子として福島県で誕生。戦後、中学を上がると集団就職で秩父の織工に。二年後理容師を志し、東京北千住で住み込み見習いを始めた。

唯一の愉しみは銭湯通い。風呂屋の親爺から、「あんたそんなに風呂好きだったら、いっそのこと風呂屋へ嫁いだらどうだ」とからかわれる始末。しかしその一言は、その後の久子さんの運命を暗示していた。

理容師見習いも板に付き始めた頃。電力会社勤務の青年が、久子さん目当てに床屋へ通い詰めていた。いつしか二人は恋仲となり、将来を誓い合う仲へ。

久子さん二十二歳の夏。半年前に伊勢の実家に戻った恋人を訪ね、夜行列車で伊勢を目指した。「遊びに行くつもりやってん。そしたらここのお婆ちゃんに口説き落とされてなぁ・・・。とうとう気が付いたら、一生分のお伊勢詣りしとったんやさ」。着の身着のまま、伊勢での暮らしが始まった。「最初の頃は、『阿呆やなあ』って言葉に腹がたってなぁ。人のこと犬畜生のようにって思てな。でも四十五年も経つと、ええ言葉やわ」。久子さんの言葉に、もう東北訛は見当たらない。

銭湯の原型と言われる蒸し風呂の湯屋は、天正19(1591)年、江戸の銭甕橋(ぜにがめばし)で伊勢与一(いせのよいち)が始めたものとか。しかし昭和も45(1970)年を過ぎると、銭湯は急激に姿を消し始めた。今も(平成十五年三月十八日時点)昼間にパート務めを終え、それからボイラーに製材所から出る木屑をくべ、わずかばかりの客を待つ。

「馴染み客ばっかやで、髪の裾揃えたったりするんやさ。昔取った杵柄で。もういつやめてもおかしない。でも町の人らの団欒の場やで、気張れる限りはなぁ」。久子さんの一生分のお伊勢詣りは、今日も続く。

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「天職一芸~あの日のPoem 39」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の、「麩職人」。

宮の境内石畳 少女の突いた手毬が反れて        牛屋川を流れて下る                  膝を抱えた少女の影と 土手の土筆が揺れている     麩引(ふび)き職人格子越し 哀れな少女に心を揺らし  手毬あん麩を差し出した                土手に腰掛け頬張る少女 頬を西日が伝って落ちた

岐阜県大垣市で明治元(1868)年創業の「ふや惣」五代目麩職人の浅野準一郎さんを訪ねた。

「麩料理は、板長の引退とともに消え、また新たな板長の元で生まれ変わるんやて」。浅野さんが意味深に呟いた。

江戸時代末期。米の仲買をしていた高祖父が他界。高祖母きうと当時十五歳の曽祖父惣吉は、先の暮らしを案じた。そんな折、市内の老舗料亭の旦那衆から「大垣にも麩屋を作ろう」と、出資話が持ち上がった。粋な遊び人であった高祖父を偲び、旦那衆が遺族に行く先を導いた。きうと惣吉は、羽島市竹鼻町で修業を積み、大垣に戻って「ふや惣」を旗揚げた。きうの信条は、「奢ったらかん」。浅野家の窮状に手を差し伸べた旦那衆の温情を、「片時たりと忘るべからず」とした。

昭和20(1945)年7月29日。浅野さん九歳。大垣空襲で焼け出され、一家は小さなバラックで細々と家業を営んだ。昭和24(1949)年、父が宮大工になけなしの七十万円を託し、店の建築を依頼。しかしあろうことか、大工は大枚を懐に入れ雲隠れ。家族六人は、三畳一間のバラックの中で項垂れた。だが今度は、本町筋の旦那衆が救いの手を差し伸べた。

「中学生の頃は、試験の前日でも、関ヶ原や垂井まで掛け取りにいかされたもんやて。借金返さなかんで」。浅野さんは懐かしそうに呟いた。

浅野さんは静岡の大学へと進学し、恩師の勧めで高校の教壇に立った。しかし両親は、跡取りを学校に取られてなるものかと、半年間静岡へと通い詰め、校長を拝み倒し息子を連れ戻した。

一昔前の麩屋は、小麦粉を澱粉とグルテンに分かつ、麩引き作業から一日が始まる。グルテンを取り出し、二人掛かりで足踏機を使って、一分間に八十回、それを小一時間踏み続け、麩のぬめりと色艶を引き出す。現在は機械化されたものの、やはり水都大垣の十四~五度の井戸水と気温、それに熟練職人の五感が頼りだ。

写真は参考

料亭の麩料理は、板長と麩職人とが互いに切磋琢磨し編み出す、一代限りの創作料理。浅野さんは五代に渡って受け継がれた三千にも及ぶ木型を見つめた。

写真は参考

創業百三十五年(平成十五年三月十一日時点)。ふや惣の麩には、向こう三軒両隣の本町人情と、「奢ったらかん」と言い続けた、高祖母きうの信条が練り上げられ、人肌たおやかな食感を今に醸し出している。

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「天職一芸~あの日のPoem 38」

今日の「天職人」は、愛知県刈谷市の、「獅子頭彫刻師」。

二階の窓に白無垢姿 嫁菓子を撒く白い指        授業中の悪戯で 頬つねられた日思い出す        獅子の口から先生見上げ 初恋の苦さ噛み締めた     嫁菓子拾い声上げて 庭先駆ける仲間たち        獅子の頭(かぶり)を大きく振って 叶わぬ想いと邪気払う花嫁行列従えて 幸の門出を獅子はゆく

愛知県刈谷市の獅子頭彫刻師、早川高師さんを訪ねた。

何でも獅子頭彫刻師は、全国に唯一人とか。親子三代に渡り、全国各地の獅子頭を彫り続ける。「爺さんと親父の傍らが、わしの遊び場だった。木っ端でよう軍艦や戦闘機を作ったもんだわ」。早川さんは小学六年になると、せっせと鑿研ぎを手伝った。

高校三年のある日、恩師のアトリエに招かれた。「びっくりしたわ。親父の作っとるのが彫刻やと思っとったで」。そこで西洋の彫刻と出逢った。全体のバランスを重んじる西洋の彫刻に対し、獅子頭彫刻師は獅子頭の分割した部品しか見ていない。恩師から職人の視点と、彫刻家の視点の違いを教えられた。

高校を出ると親子三代が作業場に座し、獅子頭彫刻に明け暮れた。

獅子頭彫刻は、木曽サワラを十六の部材に切り出すことに始まる。獅子頭の前面となる部分は木目を横に、側面は縦目に配置。勘だけを頼りに彫り進む。全ての部材を組み上げ、下地砥粉と膠を混ぜ、真っ白に塗り込む。次に下地漆を塗って、金箔を貼り赤黒の漆で仕上げる。

日本最古の獅子頭は、伎楽面(ぎがくめん)として渡来した正倉院所蔵の雌の獅子。幕末頃から雄の獅子が彫られ、現在の雌雄一対となった。「戦前、この地方の芸人が、伊勢のお札を全国で売り歩くため、獅子舞の門付けをやっとったんだわ。名古屋型の獅子頭は、一キロ程と軽いもんだで、芸人が重宝がり全国に広まってったそうだわ」。

早川さんの元には、全国各地に伝わる獅子頭の復元作業の依頼が舞い込む。「目と鼻に、その地方独特の何とも言えん特徴があるんだわ。でも戦後急激に車が増えちまったで、氏神様のお祭りで獅子舞もやれんような時代になっちまった」。

先代の手による名古屋型の獅子頭を見つめ、「まあ、道具と美術品の境目だでな」と、早川さんはクスッと笑った。

されど道具としての宿命を終えた後、獅子は悠久の時を経て、必ずや彫刻師の業(わざ)を後世に伝える事であろう。

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「天職一芸~あの日のPoem 37」

今日の「天職人」は、三重県答志島の、「離島医師」。

答志港に汽笛を残し 最終便の船は出る         家並の陰に身を隠し そっと手を振る島乙女       儚い恋の片想い 恋の病は医者要らず          切なさ胸を潰さぬように そっと忍ばす恋忘貝(こいわすれがい)

三重県答志島の離島医師、中村源一(もとかず)さんを訪ねた。

「海女薬はうち独自の調合薬で、目眩(めまい)や頭痛に効き、息が長(なご)なる海女の秘薬なんやさ」。おまけに薬袋に鮑のシールを貼り、大量祈願する念の入れようだ。

*イメージ

中村さんは、この答志島で船舶燃料店を営む家の長男として誕生。高校時代は伊勢市に下宿し、その後上京し医師免許を取得。都立病院に医師として勤務した。

その頃答志島では、島の医師が高齢のため引退し、町は躍起になって中村さんを呼び戻そうと、白羽の矢を放ち続けた。二十八歳になった中村さんは、平成元(1989)年、開業を決意。父の案内で新居を兼ねた病院に着いた。「ここならええやろ。海水浴場も真ん前やし。日当たりも抜群や」。真新しい三階建てのビルを指差し、父は胸を張った。「でも後から聞いたら、親父がぼくの名義で借金こさえて・・・。阿呆らし」。中村さんが苦笑い。

「顔はカルテみたいなもんやでなあ」。中村さんは、道端ですれ違う島人の、わずかな顔色の変化にも気付き、癌を早期に見つけ出したことも一度や二度ではない。また嫁姑問題を持ち込む患者も多い。「ここらあは、家が小さい割に、三世代も四世代も一緒に暮らしよるでな。たまには年寄りの愚痴も聞いたるんやさ。それでスーッと胸のつっかえが取れるんやで」。中村さんの治療は、医学書の領域を超える。それと患者のお婆ちゃんから何度も「先生の写真が欲しい」とせがまれたこともしばしば。「お婆ちゃんらと道ですれ違いますやろ。そうするといきなり手を合わせて拝みよるんですわ」。

中村先生は、病の患者と向き合うだけではない。海に囲まれたこの島の暮らしと、この島に生きるすべての島人を見つめ続ける。それが冒頭の海女薬の発想だ。

病に苦しむ者に触れ、常に穏やかな口調で語り掛ける。柔らかな笑みを白衣に纏う中村先生こそが、島人たちにとっての「医王(いおう)」そのものだ。

*「恋忘貝」は、鮑の別名。

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「天職一芸~あの日のPoem 36」

今日の「天職人」は、三重県答志島の、「老海女」。

沖の潜女(かずきめ)磯笛も止み            入日追いかけ海人船(あまぶね)還る          舳先(へさき)掠(かす)める海猫が          浜に豊漁告げて鳴く                  島の女の晴れ着姿は                  潮焼けの肌に濡れた磯着(いそぎ)           焚き火囲んで車座に                  笑いも絶えぬ浜の海女火場(あまひば)

三重県答志島に最年長(平成十五年二月十八日時点で)の海女、四代目浜崎徳枝さんを訪ねた。

「海の底にお金が落ちとるんやで、息こらして(息が切れて)も拾(ひら)てまうんさ」。浜崎さんは、潮焼けした赤ら顔で語った。

答志島

浜崎さんは昭和4(1929)年、この島で七人姉妹の長女として誕生。村の娘の仕来りで、冬場は夏の海女解禁まで、行儀見習いに大阪や名古屋へ奉公に上がった。夏が来ると島に戻り、海女の稽古に明け暮れ、嫁入り修業の和裁を身に付ける。二十歳の年に浜崎家に嫁いだ。

以来海女として、沖を目指し海鼠漁へ。身を切るような厳寒の海は、単衣の磯着を通して冷たい海水が肌を突き刺した。答志島の海女は約二百人。しかし海鼠漁に出るのはわずか二十人。鮑や雲丹に比べ、海鼠の漁場の水深が深いからだ。

浜崎さんは海人船を漕ぐ「トマイ(船頭)」さんと漁場を目指す。「腹にスカリ(網の袋)と腰紐括って、ナンマリ(鉛)爆弾(十五~六キロの錘)抱えて一気に潜るんやさ」。おおよそ一回の潜水は一分以内。「息が上(あ)ごてまう寸前に、腰紐しゃくったるんやさ。そうするとトマイさんが必死に腰紐たくし上げる。まあ、わしら海女の命の管理人みたいなもんやな」。現にトマイは、夫や息子など血縁者が多いと言う。二年前にご主人を亡くし、今は漁師を継いだ長男がトマイを務める。

漁を終え、海女火場に戻って、海女達と共に暖を取るのが一番の愉しみ。「歌(うとう)たり、亭主の愚痴を言って、そりゃあ賑やかやで」。文字通り男子禁制、海女達の裸の集会だ。

写真は参考

「海は愉しいよ。四季折々の色しとって」と、隣の家の海女仲間、山下きよこさんが呟いた。「そやさ!宝の海やでな。海に潜る時は、ドウマイ・センマイ(ドーマン・セーマン)言うてな、この手拭い頭に巻いて、米と小豆を紙に包んで、お酒と一緒に無事を祈って海に撒いたるんやさ」。浜崎さんは古びた手拭いを開いた。真ん中に「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」、左に五芒星、右には縦四本、横五本の格子(魔物の侵入を防ぐ網)が描かれている。陰陽道の魔除けの呪文が、いつしか海女の護符となった。

海と生きて六十年。誰よりも海を愛し、その美しさと気高さを知る老海女。お元気でと別れを切り出すと「わしら海女薬(あまぐすり)いう、ええ薬もうとるで、まだまだ身体が言うこと利くうちは潜るわさ」。島に大きな笑い声が響いた。

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「天職一芸~あの日のPoem 35」

今日の「天職人」は、岐阜県高山市の、「宮大工棟梁」。

童相撲に勝鬨挙がる 宮の境内秋祭り          慣れぬ廻しを引き絞り あの娘横目にもう一番      入母屋(いりもや)修理の宮大工 結びの一番待った無し                          手に汗握り気も漫ろ 鑿の槌音触れ太鼓

岐阜県高山市の宮大工棟梁、袈裟丸(けさまる)時男さんを訪ねた。

「入母屋造りの美しさは、破風(はふ)の反りが命。縄垂れの弛み具合で棟梁の腕が試されるんやさ」。袈裟丸さんが物静かに語った。

入母屋造り(参考)
破風(参考)

大工与三吉(よそきち)の次男として誕生した袈裟丸さんは、十歳にして鑿を片手に大工仕事を手伝ったと言う。

昭和12(1937)年、尋常高等小学校を上がると、「世が安泰でないと、大工じゃ喰えん」と、父は吐き捨てるように呟いた。日華事変勃発で、激動の昭和が不気味な軋み音を発しながら動き始めていた。

袈裟丸さんは鉄道省の試験を受け、高山機関区の庫内手に。蒸気機関車の罐(かま)掃除の日々が続いた。やがて機関助手を経て、高山本線の機関士に。

昭和20(1945)年8月1日夜。貨物を牽き富山に到着。仮眠後再び夜行で高山へと戻るはずだった。「神通川の向こうから、B29が大編隊でズンズン近付いて来るんやさ」。同僚と共に近くの池に飛び込んだ。「もう地獄絵そのものやった。瓦が真っ赤に焼け、ドロドロになって飛び散って来るんや」。辺り一面は焦土と化した。

終戦の翌年暮れ、妻を娶り翌年国鉄を辞し、復興に沸く父の下で大工を始めた。あくる年には長男が誕生。飛騨に遅い春が訪れ、仕事に目鼻が付き始めた矢先のこと。昭和23(1948)年、産後の肥立ちの思わしくなかった妻が、乳飲み子を遺し急逝。その年、高山別院が焼失した。

それから四年後、今度は長男が母の後を追うように、わずか五歳で先立った。相次ぎ家族を失った袈裟丸さんは、哀しさを紛らわそうと仕事に打ち込んだ。ちょうどその年、高山別院の再建が始まり、大棟梁の下、宮大工の一人として加わった。木取りに始まり、二年後上棟式を済ませたものの、再び放火により焼失。二十五人の宮大工たちが皆項垂れた。

平成5(1993)年、袈裟丸さんが棟梁を務め、埼玉県越谷市の能舞台を木曽檜だけで造り上げた。「木曽の檜はおとなしいんやさ」。袈裟丸さんは、狂いの少ない木曽檜に人格を与えた。「白木はやがて黒く、そしてまた風化して白く生まれ変わるんやさ」。

袈裟丸さんが手がけた越谷市の能舞台
越谷市の薪能

百年で約3ミリ。木曽檜の表面は風雨に晒され、やがて毛羽立ち白く見えると言う。宮大工に魂を注ぎ込まれた木曽檜は、過行く時間の中で、風化と言う進化を遂げる。

木曽檜
木曽檜

人は神を崇め、一柱(ひとはしら)と数える。「神々御座(おわ)す宮処(みやこ)かな、家々守る床柱」ミノル

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「奇跡の泪」

「奇跡」。

この言葉は、いろんな場所で耳にしたりする機会があります。例えば、「9回裏2アウトからの奇跡的な逆転ホームランだった」とか、「あんな大事故に遭って、よく奇跡的にそれだけのかすり傷で済んだ」とか。

多くの場合、奇跡が起きたかと思えるほど驚いたと、そんな感嘆の意味合いを重ね合わせ、奇跡ではないものの、奇跡のような事を「奇跡『的』」と言ったりするものです。

では、奇跡の正体っていったいどんなものなのでしょうか?

到底叶いっこないような夢や希望、そして祈りが、あたかも神の思し召しであるかの様に、ふと自分の前に出現することだって、立派な奇跡に違いありません。

どんなに恐れ多い夢や希望、そして祈りであったにせよ、端っから「そんなもの叶いっこ無いって」と諦めてしまっていては、神々だってそんな人間に見向きはしないものでは無いでしょうか?

例えどんなに恐れ多い夢や希望、そして祈りであっても、それがどんなに遠い道程であったにせよ、「奇跡」を信じて直向きに生き続けなければ、神の思し召しに与れるスタートラインにも立てないってことではないでしょうか?

しかしそれだけ直向きに「奇跡」を信じ生き続けたからと言って、必ずしも絶対に「奇跡」が訪れるとは、何の保証もない筈です。

でもだからと言って、端っから諦めていては、夢や希望や祈りに一歩たりとも近付けはしないものです。

だったらどんな夢や希望に祈りであったにせよ、ぼくは「奇跡」を信じて、怠け者ながらも自分で自分の尻を叩きながらでも、もう一歩、もう一歩と、日々を送りたいと思います。

「奇跡」の出現は、少なくともそうして「奇跡」を信じ続け、決して怯む事無く、ただひたすら前を向いて突き進む者にしか、ご褒美の様に現れてくれないものだと、ぼくはそう信じています。

傍から見ればそれがどんなにちっぽけな「奇跡」であっても、それを信じて願い続けた者にとっては、途方も無く莫大な「奇跡」であるに違いないものではないでしょうか?

ましてや「奇跡」は、貧富貴賤を問わず、何人にだって訪れるものではないでしょうか?少なくとも「奇跡」を信じ、一歩前へと踏み出そうとする、全ての者たちにその機会は平等に存在すると信じます。

今日の弾き語りは「奇跡の泪」。この曲もCD化されておりませんので、ぼくの拙いギターと唄でお聴きください。そして皆様にも、素敵な奇跡が訪れますようにと、願いを込めて唄わせていただきます。

「奇跡の泪」

詩・曲・唄/オカダミノル

君が傷付いても ぼくはずっと側に居るよ

擦り切れた心の傷が 癒えるまで手を添えよう

そんなに自分だけを 責めて見ても苦しむだけ

君らしい笑顔が戻る その日まで見届けよう

 奇跡を祈り君が君を信じて うつむかないで歩いてごらん

 君のすべてを受け止めようと まだ見ぬ人が待ってるはず

 奇跡の泪流すだけ流したら 振り向かないで歩いてごらん

 きっと君の足元には まだ見ぬ花がそっと揺れてるはずさ

君が病んだ時も ぼくはずっと側に居るよ

耐え切れぬ痛みならぼくが その全て引き受けよう

夜毎星に祈ろう 朝まででも月を仰ぎ

この世の遍く神に この命引き換えても

 奇跡を祈ろう君よ生まれ代われと もう誰からも邪魔などさせない

 君のすべてを受け止められる ぼくが居る事気付いて欲しい

 奇跡の泪濡れた頬渇いたら 振り向かないで歩いてみよう

 ぼくは君の心の杖に 君はぼくの明日への勇気だから

 奇跡はいつも気付かないだけのこと 信じる事が出来ればいい

 君と二人で生きられたら 月並みだけど何んにもいらない

 奇跡の泪濡れた頬渇いたら 振り向かないで歩いてゆこう

 ぼくは君の心の杖に 君はぼくの明日への勇気だから

さあ、どんな夢や希望に祈りであれ、見返りを求めず「奇跡が起きる」と信じ、自分だけは自分をとことん信じてやって、明日に向かって生きて見ましょうよ。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「絣のモンペ!」。今朝ウォーキングの途中、向こうからやって来る自転車の小洒落たオバチャンに目が留まりました。自転車も普通のママチャリですし、小洒落たオバチャンの上着は、春めいたパステルカラーのセーターに厚手のブルゾン。髪はブロンズ色で、大きめのサングラス。それだけだったらさほど驚かなかったはずですが、下のパンツに目が留まったのです。オバチャンのパンツは、何と何と懐かしい絣のモンペだったのです。絣のモンペのパンツに、ショートブーツと来た日にゃあ、ちょっとビックリ!しかしそれが全然違和感が無く、むしろ良く似合っておいででした。なかなか目から鱗のコーディネートでした。そう言えば、小洒落たオバチャンとは比べ物になりませんが、家のお母ちゃんもモンペをこよなく愛して、どこに行くにもモンペ姿でした。とは言え、さすがにバスに乗ってのお出かけの時には、違っていましたが・・・。でも小学校の授業参観の時くらいは、モンペ姿だった気がいたします。令和の今の時代、なかなか見かけなくなったモンペ。ついお母ちゃんを思い出してしまったものです。皆様のお宅はいかがでしたでしょうか?

今回はそんな、『絣のモンペ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~ニョッキのなぁ~んちゃって桜色カルボナーラ」

使いかけの生クリームが冷蔵庫に残っていましたので、これをとにかく片付けねばと編み出しましたのが、この「ニョッキのなぁ~んちゃって桜色カルボナーラ」です。

まず、溶き卵に生クリームと、すり下ろしたパルミジャーノレッジャーノ、トマトソース少々、塩、ブラックペッパー、コンソメ少々を入れ、良くかき混ぜておきます。

次にニョッキを茹で上げ、水切りしてから、オリーブオイルをひいたフライパンで炒め、そこに溶き卵のソースを加えて炒め、皿に盛り付ければ完了。

今回ぼくは卵をちょっと多めにしてしまいましたので、スクランブルエッグの様になってしまいました(泣)

しかしお味の方は、トマト風味の桜色したニョッキのカルボナーラとなり、中々白ワインのお供にピッタリなワンプレートランチとなりました。

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「天職一芸~あの日のPoem 31」

*うっかりして、Poem31を飛ばしておりました。失礼いたしました。

今日の「天職人」は、名古屋市中川区の、「漆喰鏝絵師」。

幼い頃の思い出が お寺の鐘によみがえる        冬枯れの田んぼ 泥んこ顔の君とぼく          夕暮れ畦道帰り道 お寺の土塀の片隅に         二人刻んだ淡い約束 雨に打たれ風に塗れた

名古屋市中川区の山田左官店、漆喰鏝絵師の山田實さんを訪ねた。

写真は参考。

「『おおい、雀の涙買って来い』って、よう職人にどやされて・・・あんた、何軒薬屋へ走ったかわからんで」。山田さんは目を輝かせた。

山田さんは終戦の年に尋常高等小学校を卒業すると、十三歳で左官見習の奉公に上がった。朝五時から樽に川砂と水、それに苆(すさ)と呼ぶ細かく刻んだ藁を加えて練り、ネタを仕込む。ネタ樽と左官道具満載の大八車を、力任せに曳いて十キロ以上離れた現場へと駆けた。

職人の仕事は、見て盗んで覚えろが鉄則。また職人たちの遊び心は、小僧いびりにも長じていた。それが冒頭の「雀の涙」だ。年端も行かぬ小僧にしてみれば、本当にそんな薬があると真に受ける。「今と違って同じイジメにしたって、昔は洒落心があったんだわさ」と、傍らで二代目の正彦さんがつぶやいた。

山田さんは小僧時代、昼食後の職人の昼寝の隙を狙って、押入れの中に潜り込んでは、人目にも付かず技量も要さぬ壁を相手に修練を積んだ。その甲斐あって、若干二十歳の年に晴れて独立開業した。

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左官の仕事は、壁板への荒塗に始まる。次に「場慣らし」と呼ぶ、柱や貫の間に丸竹を組む。特に柱脇と壁土の接着には、カヤと呼ばれる格子状に編んだ補強用の下地が埋め込まれ、中塗り、乾燥へと続く。ここまでに一ヵ月。一年を経てやっと上塗りを施し完成となる。

一年の間に、柱も壁も痩せてしまうからだとか。とても現代の時間軸では推し量れない。職人の智慧と技量が惜しみなく注ぎ込まれ、絶妙な鏝捌きに託されるのだ。

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「まあ、これ見たってちょう」。山田さんが屋根漆喰を指差した。純白の漆喰壁に浮き上がった二羽の鶴が優雅に大空を舞う。「昔は土蔵の入り口が、左官職の腕の見せ所だったけど、まあ遣りたても遣らせてまえんわ」。山田さんが口惜し気につぶやいた。

鏝一つで吉相を塗り上げる、天晴れ漆喰鏝絵師!

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