「昭和Nostalgia」(461)

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こんな卓上ピアノを見かけると、ついつい思い出してしまう、子どもの頃の1シーンがあります。

ちょうどその日も、原っぱで仲間たちと草野球に夢中になっていると、雲行きが急に怪しくなって夕立に!

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そう言えば最近は、「夕立」やら「入道雲」なんて、とんと聞かなくなってしまい、やおら「ゲリラ豪雨」とかって、何とも風情も感じられない、危険な名称で呼ばれるようになってしまったものです。

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草野球を早々に切り上げ、原っぱから一番近い、同い年の「フミ」ちゃん家の軒先で雨宿りをしておりました。

すると玄関が開き、「フミ」ちゃんが顔を覗かせ、良かったら上がって来て、一緒に遊ぼうと。

「フミ」ちゃん家の茶の間には、こんな赤い卓上ピアノが置かれ、それをおもむろに弾き始めたのです。

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はてさて一体どんな曲だったのかは思い出せそうにありませんが、やがてブリキ製の鉄琴を模したオモチャを使って、「フミ」ちゃんのピアノに合わせて、一緒に演奏する羽目に!

って言ったって、鉄琴なんて一度も叩いた試しも無く、「フミ」ちゃんのピアノ演奏の傍らで、鉄琴擬きを叩いては不協和音を奏でたものでした。

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内心では、こんな合奏遊びよりも、早く夕立が上がってくれて、もう一度草野球がやりたいばかりでしょうがなかった、そんな記憶が大半を占めていた気がします。

やっぱり女子は男子とは異なり、遊び一つとっても、文化度が高くって、粗野な男坊主に取っちゃあ、居心地があんまり良くなかったのかも知れません。


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「昭和Nostalgia」(460)

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子どもの頃を過ごした町内にも、こんな火の見櫓がありました。

もう最近街中では、とんと見かけなくなってしまったものです。

二階建て家屋の2.5倍くらい、5階建てビルに相当する高さだったんでしょうか?

仮に今でも火の見櫓があったにせよ、高層ビルや高層マンションに取り囲まれちゃあ、その役割も果たせず仕舞いかも知れません。

子どもの頃は、火の見櫓の下から、見張り台部分を仰ぎ見たものです。

腕白坊主の中には、見張り台まで登ろうとする、血気盛んな輩もおりましたですねぇ。

高所恐怖症のヘタレなぼくなんて、火の見櫓の下から見張り台を眺めるだけで、既に足がすくんでしまうほどでした。

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江戸時代は、時代劇で描かれるように、町火消しが中心で、町ごとに番屋が設置され、番太郎なる番人が常駐し、24時間態勢で警戒にあったとか。

この番太郎が町全体を見渡せるよう、番屋に櫓を組み、高いところに見張台を置いたことから、火の見櫓と呼ばれたんだそうです。

まあ俗に花のお江戸は、「火事と喧嘩は江戸の花」なんて言われるほど、しょっちゅう火事や喧嘩が頻発していたって事なんでしょうねぇ。

そして火の見櫓の上部には、半鐘が設置され、火災を発見した番太郎が警鐘を鳴らし、火消を招集すると同時に、町人に火災の発生を知らせる役割も担っていたんだとか。

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江戸を皮切りに火消体制が整備され、火の見櫓は昭和の初期になると、全国ほぼ全ての地域に広がったそうです。

その名残か、各地には消防団ってぇのが、今でも残って活動されておりますものねぇ。

ぼくの通う床屋のご主人も、消防団員として、地域の活動に力を入れられております。

そうした地域の方々のご尽力があって、火災から地域を日々守ってくださっているんですねぇ。

ご苦労様でございます!


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「昭和Nostalgia」(459)

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中学に入って、ギターを少し独学で弾き始めようとしていた頃だったでしょうかねぇ?

「明星」とか「平凡」を買っては、って雑誌の記事や特集がお目当てなんかじゃなくって、それに付いて来る付録の歌集が欲しかったからです。

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弾き語り用のコードが記されている奴です!

それを眺めつつ、コードの押さえ方も拾って、ギターを爪弾いたりしたものでしたねぇ。

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ぼくが中学生の頃のギターは、お母ちゃんが近所のお兄ちゃんから手に入れた、お兄ちゃんが使わなくなったと言う、クラッシックギターのお下がりでした。

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それをフォークギターっぽくしたくって、黒いセルロイドの下敷きを買って、ハサミでピックガードの勾玉なような形に切り抜き、クラッシックギターのサウンドホールの下に貼って、ご満悦だったものでした。

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最初に弾けるようになったのは、吉田拓郎さんの「旅の宿」だったかなぁ?

初めてのスリーフィンガーで!


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「昭和Nostalgia」(458)

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こんなレモンの形をした固形石鹸、ご記憶にありませんかぁ?

ぼくはどこで使ったものやら、今となっては思い出せもしませんが、子どもの頃に使ったことがありました。

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このポスターの写真を見ると、小学校の水飲み場とかに、リンゴやミカンが入っていたような、ビニール製の網の袋に入れられ、蛇口に取り付けられていたのかも?

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わが家では、もっぱらこんなミツワ石鹸だったような?

内風呂がわが家に出来るまでは、近所の銭湯へお父ちゃんとお母ちゃんに手を引かれ通ったものでした。

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こんな洗面器の中で、プラスチックの石鹸箱が、歩くたびにカタコト音を立てたものです。

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そう言えば、石鹸箱の傍らには、こんな軽石も入っていたものでしたねぇ。

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両親と銭湯通いをしていた子どもの頃は、シャンプーやリンスなんてぇ洒落たものなど、わが家のお風呂セットには見当たらず、ミツワ石鹸で体も頭も洗ってもらっていたものです。

それに比べると、今のお風呂セットは、あれやこれやと種類も多くなったものですよねぇ。


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「昭和Nostalgia」(457)

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子どもの頃の一文菓子屋の店先には、子どもたちの目を釘付けにして止まない、そんな魅惑的な駄菓子が居並んでおりました。

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中でもこんな麩菓子に、ぼくは目が無かったものです。

当時は今と比べたら随分と不衛生が罷り通っていたもので、こんな麩菓子なんて裸のまんまの一本売りが当たり前。

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子どもたちは薄汚れたままの手で麩菓子を手に取り、これにしようかあれにしようかと、とっかえひっかえ手に取ってはまた元に戻し、別の麩菓子をまた手に取って品定めする、なぁ~んてぇのが日常だった気がします。

それでも一文菓子屋のオバチャンに咎めだてされる、なぁ~んてことも無かったような?

もちろん今のように、ビニール袋で小分けなんてされてませんでしたものねぇ。

そう言えばわが家は、鹿児島生まれのお母ちゃんと、三重生まれのお父ちゃんの家庭だったからか?

同じ麩でもこの地方に根付く「角麩」は、子どもの頃から食卓に上ったことが無く、麩菓子の「麩」と元は同じと言えど、調理用の「角麩」の存在自体を知りませんでした。

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中学に入り弁当持参となり、隣の席のH君の弁当のおかずで、初めてその存在を知ったものです。

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H君の弁当のおかずには、角麩が甘辛く醤油味で煮締められたものが入っていて、H君の角麩とぼくの弁当のタコちゃんウィンナーだったかと、とっかえっこしてもらって、初めて食べた日からぼくはすっかりその食感に魅了されたものでした。

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生麩を知ったのは、随分大人になってからで、これまたこんなにも美味しいものが世の中にはあるんだと、つくづく感心した事を鮮明に覚えております。

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まぁ最近では、コレステロールを気にして、イカフライに見立てた角麩のフライなんぞを作っては、キンキンに冷やしたキリン晴れ風をプッハァ~ッとやって楽しんでおります。


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「昭和Nostalgia」(456)

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しかしまぁ、まだ子どもらの夏休み前だと言うのに、もうクマゼミたちが鳴き始め、百日紅が我が世の春のように咲き誇っています。

それにしてもこんなにいきなり、夏本番の猛暑がやって来ると、たまったものじゃありません!

ましてや熱中症警戒アラートってぇのが発令されようものなら、さすがに呑気なぼくであっても、早くも夏バテ気味となってフラ~ッとしちゃいます。

どうか皆々様も、くれぐれもご自愛くださいねぇ。

こんな日が続く今だからこそ、大汗をかきながらキリン春風を煽り、朝引きの名古屋コーチンなんぞで引きずりを、腹一杯喰らいたくなっちゃいます。

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残念ながら子どもの頃のぼくの家では、引きずりと呼ばれる「かしわ」肉を使った、「ひきずり」ではなく、肉はお値打ちな牛のこま切れや切り落としが、申し訳程度に入ったすき焼きでした!

それでもお母ちゃんの「ひきずり」ならぬすき焼きは大好評で、お父ちゃんと競い合うように肉を取り合ったものでした。

とは言え肉がテンコ盛りならともかく、申し訳程度にしか入っちゃいませんから、あっと言う間に売り切れ!

そう言えばお母ちゃんは、ネギや白菜に糸コンばかり食べていた気がします。

それに気が付いて、「お母ちゃんも肉食べなきゃ」なんてぼくが言うと、「お母ちゃんは肉より、野菜の方がええんや」とかなんとか言って、「お母ちゃんの分の肉も、お前とお父ちゃんでたぁ~んと食べや」と、煙に巻かれたものです。

でもお母ちゃんは肉が嫌いだったわけじゃありません。

申し訳程度の量の肉しかないため、少しでもたくさん、ぼくやお父ちゃんに食べさせたいと言う、そんな母性ならではの詭弁だったのでしょう。

ぼくが初めて「かしわ」の引きずりを食べたのは、50歳をいくらか超えた頃でした。

岩倉にある名古屋コーチンの引きずり鍋の老舗で!

歯応えのある名古屋コーチンが殊の外美味しかったものです。

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何でも「引きずり」の由来は、かしわ肉を白菜やネギの下に隠して、箸で自分の方に鍋底を引きずって、肉を手前に寄せる行為の事だとか。

なんとも親しみが感じられる呼び名でもあります。

さて今夜は、キリン晴れ風をキンキンに冷やして、かしわ肉で引きずりとでも洒落込みますかぁ!


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「昭和Nostalgia」(455)

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ぼくが子どもの頃は、こんな竹の皮が包装紙の代わりとして、よく使われていたものです。

確か牛肉や豚肉、それに鶏肉などの肉屋さんとか、饅頭や羊羹にちらし寿司など、食品類を竹皮に包み、竹皮を細く裂いた紐状のもので縛ってくれていたものでした。

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家のお母ちゃんは、竹皮に包まれた食品を購入した後、それを奇麗に洗って干し、遠足のお弁当のおにぎりやお稲荷さんを包んで持たせてくれたものです。

そして竹皮のお弁当をぼくに手渡しながら、「食べ終わっても、この竹皮を捨てて着たらかん。ちゃんと持って帰って来るんやで。また次に使えるで!」と、そう念を押されたものでした。

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そんな竹皮の記憶があるせいか、未だに竹皮に包まれた羊羹などを見かけると、とんでもなく美味しそうな気になって、ついつい手にしてしまう事があります。

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とは言え昔のように、滅多やたらと竹皮を見かけられなくなっちゃったものですねぇ。

それにしても昔の方は、竹皮の効能をよくご存知だったんですねぇ。

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竹皮は、抗菌力や保湿力に優れ、中身が蒸れにくく、変色を防ぐと言う、自然界のスグレモノ!

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きっとどこかで、竹皮に包まれたおにぎりとか見かけたら、懐かしさのあまり手に取っちゃうんでしょうねぇ。


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何かにつけぼくは不器用で、子どもの頃の遊びであったメンコもベーゴマも、ちっとも上手に出来ず、いつも対戦相手の上客となっていたものでした。

ところが唯一得意中の得意であったのが、ビー玉遊びの中の「メッカチ」!

ぼくらは「メッカチ」と呼んでいましたが、全国的には「目玉落とし」とかって呼ばれていたようです。

片目を閉じ狙いを定め、地べたに置いた対戦相手のビー玉目掛け、親指と人差し指で挟んだビー玉を、目の高さの位置から落とし、対戦相手のビー玉に命中させ、相手のビー玉を手に入れると言う、いたって簡単なビー玉遊び!

参考

他のビー玉遊びは、これと言って特筆すべき腕前があったわけじゃありません。

でもこの「メッカチ」だけは、ほぼほぼ百発百中だったものです。

しかし、今じゃあそんなビー玉遊びに現を抜かしているような子どもたちは、すっかり見かけられなくなり、もうぼくの得意技の「メッカチ」も、無用の長物と成り果ててしまったようです。

って、その前にもう、老眼も近眼も乱視も進んじゃって、百発百中なんて無理!

万に一つってぇのが、関の山でしょうねぇ!

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それはそうと、何でガラス玉をビー玉って呼んでいたのか、今さらながら気になって調べてみてビックリ!

まずビー玉らしきものは、紀元前の古代エジプトやローマの遺跡からも出土しているんだとか!

日本における「ビー玉遊び」の原点は、平安時代の「銭打ち」と呼ばれる賭博遊戯にあると言う説も!

そして江戸時代になると、「穴一(あないち)」と呼ばれ、子供の遊びとなって行ったのだとか。

その過程で、それらの遊びに用いられる道具も、銭から泥めんこ、ムクロジの実(ムクロジ科の落葉高木。黒色の種子は数珠に用いられる)と変って行ったようです。

そして明治時代になると泥玉が作られ、明治30年頃から大阪でガラスのビー玉が出まわり出したとか。

それはともかく、ぼくらが何の疑いも抱かずに「ビー玉」と呼んでいた、その名はどこから来たのか?

やはり諸説あり、ポルトガル語でガラスを意味する「ビードロ」を略した名称とする説やら、ラムネ瓶の中に入れて使える、歪みや傷の無いものをA玉、不良品をB玉としてよりわけ、ラムネ瓶で使えなかったB玉は、子どもたちの玩具として「ビー玉」となって、リサイクルされ普及したとする説やら!

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そんな由来なんて、当時の子どもたちにとっちゃあどーでもいいことで、「取った取られた」で泣いたり笑ったり、日が暮れるまで遊び呆けたものでした。


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「昭和Nostalgia」(453)

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昭和半ばの腕白坊主は、誰か彼かが必ず、こんな腕白勲章なる、油紙の傷あてパッドを、膝っ小僧や肘やらに貼り付けていたものでしたねぇ。

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まずは傷口を、オキシドールで消毒。

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薬液が傷口に染みて、飛び上がりそうなほどの痛さであっても、どんなに泣こうが喚こうが、お母ちゃんは一切お構いなし!

「男の子だったら、歯を食いしばりなさい!」と、情け容赦なく今度は傷口に赤チンをべったり。

その上にガーゼをあてがわれ、最後に油紙を載せ、医療用テープで隙間なくビッシリと貼り付けられたものでした。

あの油紙は、雑菌の侵入を防ぐ効果と、水濡れ防止の効果があったんでしょうねぇ。

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中には腕白坊主だけじゃなく、ゴム飛びに夢中のお転婆娘さんたちも、同じように油紙のお転婆勲章を貼り付けている子もおりましたですねぇ。

しかし昭和も後半に入ると、さすがに油紙の勲章を貼り付けているような、そんな腕白坊主もお転婆娘も、すっかり見かけなくなったものでした。

油紙とガーゼに取って代わったのが、救急絆創膏って肌の色で目立たない、安価で手に入れられる、スグレモノの登場でしたですねぇ。

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もっとも、それよりもなによりも、今の時代の子たちは、ぼくらの頃とは違って、公園とか広場を駆けずり回って、生傷が絶えないなんてぇ子は、いなくなっちゃったかぁ!


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「昭和Nostalgia」(452)

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ご近所に小中学生の頃、女の子の一卵性の三つ子の同級生がおりました。

本当にそっくりで、ぼくなんて最後の最後まで、三つ子の子たちの見分けが付かなかったものでした。

写真は参考

そう言えば、三つ子の子たちの名前も、すっかり思い出せそうにありません。

ただ、例えば「由美・真美・久美」と言った感じで、一文字だけ三人とも同じ漢字が当てがわれていたように、微かに記憶しています。

当時の小中学校は、今のような少子化ではなく、1学年のクラスも多かったものでした。

だから、三つ子の一人と一緒のクラスになることはあっても、三つ子の内の二人や、三つ子全員と一緒のクラスになったことはありませんでした。

だから翌年のクラス替えの時に、また三つ子の一人と一緒になったとしても、それが前年一緒だった子なのか、はたまた別の子なのか、ぼくにはちっとも見分けが付かなかったものでした。

しかし思い返せば先生方は、よくもまぁ三つ子の子たちを見分けられたものだと、未だに感心するばかりです。

って、先生方ももしかしたらぼく同様に、本当は見分けが付かなかったのかも?

参考

そう言えば、TVアニメの「魔法使いサリー」の中にも、男の子の三つ子が登場していましたよねぇ。

こっちも一卵性なのか、三人が三人ともそっくりでした。

ちょっと調べて見ましたら、最近の三つ子の女の子たちに人気の名前は、「清那(せな)羽花(はな)萌杏(もな)」なんてぇのもあるそうです。

となると、担任の先生方は、三人の顔の見分け方にも苦慮なさることでしょうが、名前の読み方でもご苦労なさるんじゃないか?なぁ~んて、入らぬお世話を抱いてしまいましたぁ!

そんなことはともかく、ぼくと同級生だった三つ子の女の子たちは、すっかりお婆ちゃんとおなりになったのは否めなくとも、それぞれにお元気で、お幸せに暮らしであれと、心からそう祈ります!

って、ぼくだって、押しも押されもせぬお爺ちゃんなんですものねぇ!

なんてぇこったい!


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