「Happy Birthday 多治見のウナちゃん!~君が生まれた夜は」

17日火曜日の22:00に、動画をアップするつもりで用意しておりましたが、ウッカリして失念しておりました。

多治見のマンちゃんから、14日に多治見のウナちゃんがお誕生日を迎えられたので、Happy Birthdayのお祝いをとリクエストいただいていたのです。ところがうっかり・・・とほほ。

ゴメンネ!多治見のウナちゃん!ちょっと遅くなりましたが、ここに動画をアップさせていただきます。

★3月14日は、多治見のウナちゃんのお誕生日でした。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

マンちゃん、ウナちゃん、失礼いたしました。

「桜風」

先日東京で雪催いの中、桜の開花宣言がありました。

わが家のすぐ近くの交差点にある、桜はまだまた蕾が堅そうです。でもこれまたご近所の寺院の枝垂桜は、一つ二つ蕾が開きかけています。

いよいよ桜のシーズン到来です。しかし今年は、残念ながら新型コロナの影響もあって、夜桜を眺めつつの一杯もままならぬようですから、ちょっと意気消沈なぁ~んて方もおいででしょう。

でもお花見は、何も人が多く集まる桜の名所でなくとも、桜並木でなくとも、あちらこちらで愉しめますから、それを愛でるのもいいものです。

ぼくは桜の淡いピンクの花びらを見ると、ついついあの桜餅の匂いを感じる気がするから、不思議でなりません。決して名所の桜並木を歩いても、そんな匂いは実際に感じないのですが、どうしてもあの桜餅の薫りを感じてしまいます。

日本人が愛して止まない桜は、わずかな期間しか眺められないからでしょうが、美しさと同時に儚さや切なさを同時に感じてしまうものでもあります。

まあよくよく考えて見れば、それは桜だけではなく、人間の一生だってそんなものかも知れませんよね。

ぼくの楽曲の中で、桜を描いた作品は、本日お聴きいただく「桜風」と、桜が散り初めた時を唄った「花筏」しかありません。まさに季節商品のような、そんな楽曲でもあります。

今夜は、まず弾き語りで「桜風」をお聴きいただきます。不思議とこの曲を唄うと、郡上白鳥の「元文」が無性に飲みたくなってしまいます。と言うのも、郡上白鳥の原酒造場の中庭でいただいた、花酵母の「さくら」の味を思い出してしまうからです。

それでは先ずは弾き語りで、「桜風」をお聴きください。

「桜風」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君の心に降り積もった雪も 淡い日差しにやがて溶け出す

鳥が囀(さえず)り草木も芽吹き春は もうすぐそこで君を待ってる

 桜風舞い君を明日へ 導いて行く哀しみの淵(ふち)から

 君の頬を伝う大粒の涙  大地に伝い落ちてやがて花咲け

誰かを信じ頼った分だけ やがて傷つき嘆くものなら

独りぼっちで生きていたいと君は 心閉ざして塞(ふさ)ぎ込んでた

 桜ひとひら君の心へ 風に煽(あお)られ舞い降りる

 君は気付くだろうかひとひらの花が  君を見守り続けたぼくの想いと

 桜風舞う君の明日が 陽だまりのように穏やかなれ

 ぼくはいつもいつまでも君だけを見守り 君がくじけそうならばこの手を差し伸べ

 よう

そして続いては、CDより「桜風」をお聴きいただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「桜の花びら型『たいへんよくできました』の判子!」。小学校の低学年の頃って、テストの答案用紙に桜の花びら型の『たいへんよくできました』の赤い判子が押されていると、ランドセルを背負って家路を急いだものです。だってあわよくば、「よくできたねぇ!」なぁ~んてお母ちゃんに褒めてもらって、そいでもって一文菓子屋に行くお駄賃が加算してもらえないものかと・・・。嗚呼、なんて打算的なこと!これってもしかして、まるであの落ち武者殿の幼児期のような!でも正直ぼくも、そんな下心満点で、稀にしかいただけない『たいへんよくできました』の判子が貰えると、鼻高々でお母ちゃんに見せびらかしたものです。ところがお母ちゃんはもう一つ上手。「やりゃあ出来るんだから、この次も頑張らなかんよ」の一言で幕引き!嗚呼、なんて浮かばれない幼少期を過ごした事やら!ぼくなんぞよりは、遥かに出来の良かった皆様方は、『たいへんよくできました』の判子をさぞや沢山貰われたのでは?

今回はそんな、「桜の花びら型『たいへんよくできました』の判子!」。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~広東風しらたき焼きそば」

スーパーでお値打ちなしらたきを見付け、日持ちもすることからついつい余分に購入してしまっておりました。

さすがに肉じゃがばかりじゃ、ちょっと食傷気味で、これで焼きそばの代用にしたら、ローカロリーでいいかも!ってな調子でトライして見ましたのが、この「広東風しらたき焼きそば」です。

作り方は焼きそばそのまんま。

まず冷蔵庫にあった、キャベツとニンジン、そしてピーマンをざく切りにしておきます。

続いて、Honey Babeのしゃぶしゃぶ用もも肉に小麦粉を塗します。

そしてフライパンにごま油を大さじ2杯程入れ、しらたきを炒めつつ、鶏がらスープの素、酒、醤油、塩、ブラックペッパーで薄味に調味し、蒟蒻の水分と調味料の水気を炒め飛ばし、フライパンの中でしらたきが爆ぜるくらいになるまで炒めておきます。

次にもう一つのフライパンに油をひき、ニンニクの微塵切りで香りを立て、豚肉を8分ほど炒め野菜を投入し、軽く塩、ブラックペッパーを振ります。

豚肉と野菜がほどよく炒まったら、炒めたしらたきを加え更に炒めつつ、オイスターソースを塗して最後に天かすを投入して混ぜ合わせれば完了。ぼくは天かすが無かったものですから、スナック菓子の「横綱」をクラッシュして加えましたが、これがなかなかのワン・ポイントとなりとてもお勧めな一品となりました。

ごま油で炒めたしらたきの食感が何とも言えず、なかなかどうしてな、なぁ~んちゃって「広東風しらたき焼きそば」となり、キリン一番搾りがグビグビと進んでしまいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 53」

今日の「天職人」は、三重県名張市の「薬師(くすし)」。

病の床の 母の背を そっと擦って 夜を明かす     微かな寝息 響くたび 幼き日々が 蘇る        風邪に咳き込む ぼくの胸 母は夜通し 手を添えた   世に妙薬は 数あれど あの温もりが 天下一      母の痛みは 取れぬとも せめて孝行 真似てみた

三重県名張市で二百三十年(平成十五年六月十七日時点)以上続く、田中余以徳斉(たなかよいとこせ)薬局、九代目田中トミエさんと、十代目の英樹さんを訪ねた。

「この人なぁ。二十年も前から決まって、月に一回京都で勉強や言うて、一泊で出掛けるんやさ。最初は嫁も『京都に女でも出来たんやろか』って、皆が怪しんでなぁ」。トミエさんが秀樹さんを指差し、いきなりそんな話を切り出した。

屋号に冠した余以徳斉とは、「余りを以って徳を斉す」の意。創業当時より紀州徳川家への出入りが許され、婦人病に効果のある「白水龍王湯(はくすいりゅうおうとう)」を御側目女衆(おそばめしゅう)向きに納め続けた縁で、藩主から拝領したとか。

トミエさんは奈良県榛原町で誕生。昭和24(1949)年、大阪の帝国女子薬専を卒業後、戦後初の国家試験に合格し薬剤師となった。翌年田中家に嫁ぎ、その明くる年に英樹さんを出産。「嫁いで見るとこの家は、天井から薬草の入った油紙の袋が一杯吊り下がっとって『きったないな』言うてみなほかしてもうたわ」。トミエさんが懐かし気に大笑い。

敗戦は日本人の価値観を、悉く豹変させた。漢方一筋を歩んだ田中家の歴史も、最新の薬学を学んだトミエさんの前では、どれもこれも時代遅れの産物にしか過ぎなかった。トミエさんは早速店を現代風に改装。入り口に掲げられた漢方薬製造元の金看板は、見事に取り払われた。「廊下の渡し板代わりに丁度ええし、風呂の焚き付けにつこたった」。

英樹さんは、昭和薬科大を経て国家資格を取得し帰省。二十七歳で嫁を迎え、家業の行く末を思案した。同時に対処療法中心の近代医学に限界を感じ、京都に出向き漢方の権威、渡邊武薬学博士の門を叩いた。「漢方には終わりがない。学ぶことは無限大やで」。以来二十二年(平成十五年六月十七日時点)、漢方に恋した男は、月一回の師との逢瀬を未だ待ち侘びる。

余以徳斉二百三十年(平成十五年六月十七日時点)の歴史の中で、激変に塗れた昭和の半ば。店の生き残りを賭け、漢方を追いやるしかなかった空白の時間は、英樹さんの誕生で埋め合わされた。

「ご立派な跡取りで」と水を向けたら「はい。日本一の孝行者(もん)ですわ」と、トミエさんがにっこりと母の顔を覗かせた。

「薬剤師が患者と向き合わず、処方薬を売るだけでは・・・」。別れ際そう呟いた平成の薬師の言葉に、妙に心が揺さぶられたものだ。

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「天職一芸~あの日のPoem 52」

今日の「天職人」は、岐阜市柳ケ瀬の「眼鏡士」。

何度眼鏡を新調しても 老いた父はその都度失くし    古びた昔のロイドメガネ 箪笥の隅から取り出した    父の形見を片付けながら ロイドのケースに目を止めた  古びた紙片に「ご苦労様」と 在りし日 母の面影筆運び

岐阜市柳ケ瀬の賞月堂、三代目木方(きかた)清一郎さんを訪ねた。

「昔は印判屋(いんばんや)が片手間に、舶来品の眼鏡を扱っとったんやて」。清一郎さんは背筋をピーンと伸ばし、柔らかな物腰で語り出した。

明治7(1874)年生まれの初代、千代五郎は十一歳で印判屋に奉公に上がり、明治26(1893)年に賞月堂を創業。

清一郎さんは大正14(1925)年に誕生。名古屋工業専門学校(現、名古屋工業大学)電気工学部へと進学。しかし日増しに戦況が悪化する中、昭和20(1945)年1月に出征。

敗戦後無事復員し学校に戻ると、無残な学び舎の残骸を目にした。「いつから授業が再開出来るかわからん。もう校舎もあれへんで、あんたもう卒業だわ」。そう言われ藁半紙の卒業証書を受け取った。授業を受けたのは、たったの一年足らず。物も人も何もかもが不足していた。とは言え、例え藁半紙とは言えども、曲がりなりにも工業専門学校の、電気工学部の卒業証書には違いない。さっそく技術者不足に喘ぐ企業が、全く技術の無い清一郎さんに、一月二百二十円の高給を提示した。「ちょうど家も空襲で焼かれ、そんなに貰えるんやったら勤めに行けといわれてなぁ」。

昭和23(1948)年、焼け跡から復興した賞月堂に戻り、妻を迎え家業を継いだ。「昭和30年代は一番忙しかったもんやて。特に花火と盆暮れは。番号札配るほどやったわ」。高度経済成長と歩調を合わせ、店も拡大していった。「戦前はもっぱらロイドメガネ。戦後はマッカーサーのレイバンばっかやった」。しかしやがて時代は、大型専門店化へ。三世代続く老舗といえども、もはや安堵などしていられない。

写真は参考

清一郎さんはそんな危機感から、長男の大学卒業を待ち、英国留学へと送り出した。当時の日本では、まだ誰も取得していなかった、英国の国家資格であるオプトメトリスト(眼鏡士)の資格を取らせようと。「眼鏡をモノとして扱った時代は終わりました。眼鏡を必要とする人が網膜に感じる<自覚>と、検眼師が測定する客観的な数値による<他覚>とを組み合わせ、最適なレンズでどう視力を補うか。それが今求められています」。まるで学者のように、穏やかな口調で語る四代目の言葉に、清一郎さんは黙って頷いた。

印判屋の眼鏡屋に始まった賞月堂は、日本に一握りのオプトメトリストを擁し、鮮明な視力回復に貢献すべく、百年以上を経た今も頑なに挑み続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 51」

今日の「天職人」は、名古屋市中村区の、「活版屋」。

蚊の鳴くような小さな声で 「はじめまして」と君が言う ガチャコン ガチャコン 輪転機の影から「よろしく」と 父は真っ黒な手を差し出した 思わず君が身を引いた   「何の構いもできませんが」と 母は黒い手のまま茶を入れた                           ガチャコン ガチャコン 帰り道真面目な瞳で君が問う  「インクに塗れた手をしても あなたは家族を守れますか?」と                       ガチャコン ガチャコン 「お茶よ!」の声に振り向けば 真っ黒な手に盆を持つ 乳飲み子背負う君がいた

名古屋市中村区の尚栄社印刷所、二代目鳥居朋由(ともゆき)さんを訪ねた。

「まあこれ見てみゃあ。他に人に誇れるもんもないで」。朋由さんは、両手にペンを持ち、右手は正体(せいたい)の漢字を。左手は漢字を裏返した逆さ文字を、同時に見事に難なく書き上げた。「こんなもん、もう何の役にも立たんでかん」。「それなら俺も小学生の頃、よう書いたわ。先生や友達が不思議がっとったって」と、傍らで三代目を継ぐ泰夫さんが茶化した。

朋由さんが工業高校の土木科を卒業した翌年の昭和33(1958)年。それまで印刷工場を持たず、印刷の斡旋を糧にした父が輪転機を購入し、活版印刷所を開業した。「親父が活版屋始めるんだったら、早よそう言ってくれたら・・・土木なんか習わんで済んだのに」。朋由さんは父の活版屋に入り、職人と一緒に原稿片手に鉛の活字を拾う「文撰(ぶんせん)」、真鍮製のステッキに組み込む「植字」、印刷を終えた後、活字を元に戻す「返版(へんぱん)」を徹底的に仕込まれた。

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「一番脂が乗っとった頃は、タイプ打つのと変らんスピードで活字を拾っとったでなぁ。まるで麻雀の盲牌(もうぱい)みたいに」。朋由さんは鼻高々と笑った。「私もこの子を乳母車に乗せたまま、よう返版手伝わされたわ」。妻が泰夫さんを指差した。グーテンベルグの発明以来、世界に君臨し続けた活版印刷は、写植文字に取って代わられ、三百数十年の歴史に幕を下ろした。

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三代目の泰夫さんは、平成元(1989)年、大学卒業と同時に跡継ぎを決意。「七十歳になっても、お爺さんが重い荷物運んどる姿見ると・・・」。わずかな期間ではあったものの、まるで新しい橋の渡り初めの様に、親子三代揃い踏みの仕事が始まった。初代はさぞや晴れがましい想いで、毎日を送ったことだろう。孫の成長をしかと見届け、二年後にこの世を去った。

「印刷屋は時代の合わせ鏡のようなもんだわ。その時代その時代を切り取って、歴史の一頁を刷り込むんだで」。

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町の活版屋朋由さんは、いつの間にかインクの黒ずみが抜け去った指先を、愛おしそうに見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 50」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の、「船番匠(ふなばんじょう)」。

勢田川口(せたがわぐち)の 船溜(ふなだ)まり    村の童が 声上げて                  船蔵目掛け 駆け出した                今日は直会(なおらい) 船卸(ふなおろし)      船大将の 掛け声で                  水主(かこ)が船手(ふなで)に お神酒撒き      伊勢の港に 漕ぎ出せば                朝日に映える 船標(ふなじるし)

三重県伊勢市、兵作屋こと出口造船所、十三代目の船番匠、出口元夫さんを訪ねた。

「家(うっとこ)の先祖は、海賊船造っとったんやさ。孫爺さんからよう聞かされよったでなぁ」と、元夫さんが潮焼けした赤ら顔で笑った。

創業は始祖「兵作」が船造りを始めた、一六五〇年代頃。徳川幕府第三代将軍家光の時代である。

元夫さんは大正13(1924)年に誕生。東京工学院造船科で学んだ。そして昭和19(1944)年12月、伊勢に戻ると召集令状が届けられた。出征祝いの宴の最中、空襲警報が!それでも電灯を笠で覆い酒宴を続行した。「明日の朝早(はよう)に出たらええ。一日(いちんち)でも家で寝て行け」。父は元夫さんとの別れを惜しんだ。

そして敗戦。元夫さんは無事に復員を果たした。すると誰よりも元夫さんの帰りを待ち続けた祖父が言った。「もうお前の顔見たで、いつ逝ってもええわ」と。その言葉通り、それから三ヵ月後祖父は安らかに息を引き取った。

戦時中、多くの漁船は軍に徴用され、敗戦後人々は空腹を満たすため、漁の再開を求めた。兵作屋は漁船の建造に沸き、棟梁の下、和船造りの厳しい修業が始まった。

元夫さんは材を求め、自転車を四時間も走らせ、宮川上流へと通っては、山を学び木を学んだ。「細かい年輪の赤身がかった朝熊杉は、曲げても折れやんでなぁ。逆に強風に晒されとる所の木は『揉め』言うてな、中が傷んどるんやさ。それを知らんと使こたると、淦(あか)が出る(浸水する)んやで」。樹齢百五十年、太さ七十センチほどの丸太を宮川に落とし、筏を組んで勢田川河口の船蔵へと運び、木挽(こび)きで引き揚げる。そして棟梁が板に十分の一の大きさで設計図を描き、それを頼りに船大工たちは鋸を引いた。

伊勢和船

戦後の狂乱物価は、一隻二十五万円の漁船を、わずか一年足らずで百六十万円に跳ね上げた。「契約した時の金額は、材木代で終いやさ」。漁船需要も一段落した昭和25(1950)年からは、最後の和船時代を築いた団平船(だんぺいせん)と呼ばれる、伊勢特有の運搬船造りが始まった。しかしそれも昭和40(1965)年に入ると需要も激減。洋型船時代が到来した。

「和船の伝統を遺したいと、博物館の展示用に造らんか言う話もあるけど、船を陸(おか)に揚げてなとする?金捨てるだけやで。船は海原駆けてこその船やでなぁ」。元夫さんが苦笑い。

写真は参考

伊勢和船。最後の船番匠は三百五十年前(平成十五年五月二十七日時点)と、何一つ変わらず潮を打ち寄せる、伊勢の海原を見つめた。

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「天職一芸~あの日のPoem 49」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の、「筆師」。

君がこの世に生まれた夜は 何度も筆を走らせた     どんな娘になるのだろうと 授けし名前読み上げた    平凡なれどただ健やかに 親の想いが筆を追う      仮名の墨痕和紙に滲めば 命も宿る君の名に

岐阜県美濃市の古田毛筆、二代目筆匠(ひっしょう)の古田久規(ひさのり)さんを訪ねた。

今では既に絶えた名古屋筆。その最後の職人だったのが、父であった故古田理一さんだ。空襲を逃れ郷里の美濃に戻り、生涯の大半、七十年を筆結いに捧げた。「そんでも会心の一本なんて、一年に一回あるかないかやて」。久規さんが斜め前に座す、妻を見つめた。

玄関脇の小さな作業場。年季の入った作業机を挟み、夫婦は黙々と指先を繰る。「子供の頃は、ここが遊び場やったんやて」。先代夫婦もここに座し、秒刻みで目まぐるしく動く世間の慌ただしさを他所に、緩やかな時を静かに刻み続けた。

二十歳を迎えた久規さんは、名古屋の青果市場に就職。決して父の跡を継ぐのが嫌だったわけでは無い。高度成長期は誰もが浮足立ち、書を嗜む心の余裕などなく、筆の需要も落ち込んでいたからだ。その七年後に公代さんを妻に迎え、美濃へと戻り先代と共に筆作りを始めた。

筆の命とも言うべき獣毛は、中国産のイタチの尻毛。毛の油分を抜き取るため、夏は一~二週間、冬ならば二週間~一ヵ月、土の中に埋め置く。そして土から取り出した後、綿毛を取り除き、湯で三十分ほど煮て乾燥させる。次に毛の長さを揃え、籾殻や蕎麦殻の白い灰で、毛が摩擦で温かくなるまで揉みしだき、油を徹底的に抜き取る。さらに十一~十二種類の分板(ぶいた)で毛の長さを合わせ、真鍮製の寄せ金で揃えて元を断ち切る。

先混ぜと呼ぶ筆先から喉までの部分には、タヌキの毛と四~五種類の長さの毛を混ぜる。その下になる腰混ぜには、鹿の毛とやはり四~五種類の長さの毛を練り混ぜ、丸く芯立(しんたて)をしてから上毛(うわげ)で化粧巻きを施す。そして最後に毛の根元を麻糸で緒締(おじ)めし、電木鏝で焼き入れてから軸に挿げ込む。

「一番ええのは、雄のイタチの冬毛やて。でも動物は夏と冬とで毛が生え変るけど、・・・人間の毛はもう二度と生え変わってくれんでなぁ・・・」と、久規さんは白髪混じりに薄くなった自分の頭を小突いた。傍らで公代さんがこっそり笑った。

一本の筆に三十数手の工程。途方もない時間と、細かな手数が惜しみなく注ぎ込まれる。

「弘法筆を選ばず」。だが美濃に唯一人の筆匠は、敢えて多難な筆作りに生きる道を自ら選び取った。

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「ウォーキング雑観~えっ、床屋はどこよ?」

ウォーキングの途中で、こんなハイカラな床屋のサインポールを見掛けました。

さぞかしお洒落な床屋かと、探しては見たものの、どこにも見当たりません。

もしかするとサインポールのお隣の神社の境内の奥にでも、神社のサイドビジネスかなにかの床屋があるのではと、境内を見渡して見ても、普通の神社の境内で、床屋の「と」の字も見当たらないじゃあないですか!

しからば、この黄色い車のお宅が床屋なのかと近付いて見ても、ただ普通の住宅です。

じゃあ一体、このサインポールは何のためにクルクル回り続けているんだろうと、しばらく頭を傾げておりました。

それこそ近所の住人の方にでも聞いて見ようかと思ったものの、誰一人通らないんですから・・・。

ちなみにここから15mほど離れたところに、床屋があるにはあったのですが、そこはそこでサインポールがクルクルと回っておりましたし、果たしてこの意味不明なサインポールとの関連性も定かでは無さそうでした。

なんだかキツネに抓まれたようで、不思議な気持ちになったものです。

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「ウォーキング雑観~なんで民家に?」

ウォーキングの途中の民家の玄関口で、こんな光景を見掛けました。

朝の連ドラじゃありませんが、信楽焼のたぬきです。しかもでかい!

まるで英国王室の近衛兵の様に、来客の品定めでもしているようです。

信楽の土産でたぬきの置物を買ったとしても、いくらなんでもこれは大きすぎます。どちらかと言えば、お店屋さんの入り口でお客様を迎える方が似合っているようにも思われます。

これはあくまでぼくの勝手な想像ですが、昔この家は飲食店か何かをやっておられ、廃業されてからもこの信楽焼のたぬきを処分するのも忍ばれ、入り口においていらっしゃるように感じました。

右手に名古屋のマークの「丸八」と染め抜かれた徳利を手にしているところから、この地方の商店向けに出荷されていたのかも知れませんねぇ。

ぼくが子どもの頃は、どこのお店屋さんにもこんなたぬきがデーンと飾られていたように記憶しています。

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