「天職一芸~あの日のPoem 61」

今日の「天職人」は、岐阜県川辺町の「猟師」。

隣のジッチャは大酒のみで いつも昔を自慢する     村一番の鉄砲名手と 湯呑み持つ手も震える癖に     田畑を荒らす大猪が 月夜の里を駆け回る        ジッチャは長筒獣に向けて 手先の震えもピタリと止んだ

岐阜県川辺町に狩人の渡辺富男さんを訪ねた。

「まぁかん!年取ると的がはずる(外れる)で!」。富男さんは今年の狩猟期間明け(平成十五年八月十九日時点)に銃を破棄すると言う。

十人兄弟の四番目に生まれ、尋常高等小学校を出るとすぐ、名古屋の材木屋へ奉公に上がった。

昭和19(1944)年戦火拡大の最中、たった一枚の赤紙で否応なく出征。何の恨みも無い人間に銃口を向け、己の命を守るがために引金を弾き続けた。戦場では、殺すか殺されるかの二つに一つ。生死を分かつ緊張の呪縛は、玉音放送によりやっと解き放たれた。

復員後郷里に戻り、馬車曳きで農家の大家族を支え、昭和23(1948)年、狩猟免許を取得。

「一発でええ。十七貫目(約六十四キロ)くらいの猪やったら」。当時は、一丸弾のSKB(日本製の猟銃)が主流だった。その同じ年、ウズベキスタン抑留から復員した長兄が他界。妻と子二人を遺して。富男さんは周りの薦めもあり、兄嫁と所帯を持った。それが家族を守ろうとする、昭和元年生まれの頑なな男の姿だった。

「権現山の猟場で、二十五年ほど前までは、ようけ大物仕留めたもんやて。これまでで一番は、四十貫目(約百五十キロ)の大猪やった。ほんでも紀州犬の向こうっ気の強い花子が前足噛まれてまって。そんでも五連発のブローニングの散弾一発分、弾代の二百円が牡丹鍋やで安いもんやて」。現在の狩猟期間は、十一月十五日から二月十五日までのわずか三ヵ月。「まあ狩人だけじゃ喰えんて。それに猟場も年々失われる一方やで」。

昭和23年頃は、川辺町だけで百人を下ら、なかった狩人も、今は趣味のハンターが二十人を切る程度となった。森が狭められ、獣たちの生息域も狭められたせいだ。時の移ろいは、一発(数丸から十数丸)で広範囲を射止める散弾の世へ。

昔の一丸弾時代は、獣に対する木守りの精神が受け継がれていたのだろう。森に暮らす獣たちの明日までも、根こそぎ奪い去るのではなく、彼らの犠牲を最小限に抑えるための。

富男さんは銃を返納した足で、真っ先に鳥獣慰霊碑へ向かい、線香と花を手向けた。

「君だけにMorning」

唐突ですが、ぼくは朝が好きです。昼間よりも夜よりも。

しかも海辺とか山裾の高原などで迎える、誰にも穢されていないような、無垢な朝がとても好きです。

朝焼けに染まった東の空を眺めていると、何だかとっても素敵な事が起きるような気がして、ついついワクワクして心が弾んでしまいます。

人にはそれぞれで、朝型の方も見えれば、夜型の方だってお見えになります。これをお読みの貴方は、どちらでしょうか?

ぼくはどちらかと言えば、朝型の部類に属すると思います。子供の頃から今でも、朝早いのは一向に苦になりませんが、夜っぴて原稿を書いたり、曲を作ったりといった事は、まずもって出来ません。

それよりも心地よく酒を愉しむと、後は勝手に睡魔が手招きをしてくれますから、もうベッドに潜り込んで高鼾です。「まっ、後は明日やればいいや」ってなもんで。

ところが朝はどんなに早くても、ピシッと起きれちゃうから不思議です。朝が弱い方には、申し訳ない限りですが・・・。

今日お聴きいただく「君だけにMorning」は、やはりぼくがまだ22~3歳の頃の作品だったと記憶しています。この曲もセンチのアレンジによる作品と、ヤマハのスタジオミュージシャンによるアレンジ作品3種類があり、それぞれにお聴きいただければ幸です。

まずはぼくの拙いギターの弾き語りで「君だけにMorning」をお聴きください。

「君だけにMorning 」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

ざわめく街を抜け出して 二人で夜を駆け抜ける

海沿いをただひたすらに 朝焼けが見たいから

君への愛を語るには 波打つ調べ聞きながら

朝焼けのライトを浴びて 砂浜のステージで

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

透き通る風を感じて 裸足で駆け出す君の

セピア色に輝く肌 眩しいほど素敵だよ

 君だけにMorning 目覚めた朝に弾ける あどけない笑顔に 口付けを贈るよ

 君だけにMorning やわらかい陽射しを 独り占めして君は 輝いている

セピア色に輝く肌 眩しいほど素敵だよ

君だけにMorning Good Morning I Love You

君だけにMorning Good Morning I Love You

若い頃は朝陽を無限大に感じられていたのに、「あとどれだけ朝陽を、拝めるだろうとそんな数を数えるような人生も晩年。だからこそ、毎日毎日当たり前のように昇ってくれる朝陽を、それがあたかも当たり前のことなどとは決して思わず、感謝の心で拝めるようになって来ていることに、はたと気付いております。

続いては、深夜放送でもお聴きいただいておりました、ヤマハのスタジオミュージシャン版のアレンジによる「君だけにMorning」をお聴きいただきましょう。

そして薄れゆく記憶を手繰り寄せつつ、古びたカセットテープから、センチメンタル・シティー・ロマンス版のLive音源の「君だけにMorning」を発見しました。

こちらもぜひ、お聴き比べください。

そして何と何と、ヤマハのスタジオミュージシャンとデモ・レコーディングする前の、パイロット版のような別のアレンジの「君だけにMorning」も古びたカセットにありましたので、こちらもお聴き比べいただけたらと思います。

アレンジ一つで、同じ曲であっても、随分雰囲気が変わるものです。懐かしい限りです。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「野イチゴ?蛇イチゴ?」。ぼくの小学生の頃の通学路は、田んぼの畦道のような、舗装もされていない凸凹道の細い農道でした。だからこの頃になると、農道の両脇にもレンゲ草にタンポポ、シロツメクサなどが芽吹き、春の景色を彩ってくれたものです。レンゲは花びらを取って蜜を吸ったり、女の子たちはシロツメクサの花冠作りに夢中だったり。そんな中、毎年腕白坊主どもの間で話題になったのが、「野イチゴって蛇イチゴ?」「食べられるんだろうか?」と。さすがに小心者のぼくは、「蛇イチゴ」って名前に怖気づいて、食べたことはありませんでした。でも調べて見ると、とても美味しいものでは無いものの、食べられなくは無いそうですねぇ。それに「蛇イチゴ」と言う名からして、毒でもありそうな気がしますが、これまた全く無毒だとか。「蛇イチゴ」の由来は、どうやら湿った草地や畦道など、如何にもヘビが出て来そうな場所に生えるからとか、蛇イチゴを食べにくる小動物を、蛇が狙いにやって来るから、などとも言われているようですねぇ。皆様は、って女子にはそんなご経験はきっと無い事でしょうが、年季の入ったかつての腕白坊主の方は、召し上がったことがあるやも?

今回はそんな、『野イチゴ?蛇イチゴ?』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

今回の「残り物クッキング」は、一先ず写真をご覧いただき、「なんやろう?」とご想像を巡らして頂く、「残り物クッキングクイズ」とさせていただきます。


今回の「残り物クッキング」は、こちらです!

さて、お分かりになりますでしょうか?

正解は、近日中にアップの予定です!実はこのクイズ。苦肉の策でして、よんどころない事情で原稿が間に合わなかったのです(汗)

でもたまにゃあ、こんな趣向もいいかも知れません!

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「天職一芸~あの日のPoem 60」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「蒟蒻職人」。

母の煮しめが恋しくて 市場であれこれ品定め      牛蒡人参椎茸と プルプルグニャリ平蒟蒻        色も香も瓜二つ どんなもんよと味見れば        何か一味足らぬのは 母の慈愛の一匙(さじ)か

愛知県岡崎市の池田屋、四代目蒟蒻職人の長坂信一(のぶいち)さんを訪ねた。

「平蒟蒻は手で千切り取って、鷹の爪入れてから八丁味噌でコッテコテになるまでイビル(煎る)じゃんねぇ。そうすると味がよう染みて一番美味いだ」。信一さんが身を乗り出した。

池田屋は明治15(1882)年の創業。初代は跡取りに恵まれず、大門(だいもん)の遠縁から婿を得た。しかし三代目も跡継ぎを得られず、池田屋の往く末に一抹の不安が。

信一さんは池田屋二代目を送り出した大門の家に生まれ、農業一筋に休む間も惜しんで働き詰める父の背を見て育った。そして岡崎北高へと進学。背広に革靴姿の銀行員に憧れたと言う。同じ学び舎には、同い年であった池田屋三代目の愛娘、久子さんも通っていた。まさかその後の人生を共に歩む伴侶になろうとは、努々(ゆめゆめ)思いもしなかった。「あの頃は色気も出始め、アレとすれ違っても、眼もよう合わさんかっただぁ」。

それから間もなく池田屋の二代目から、婿入り話を持ち掛けられた。「『米糠一升あったら養子に行くな(「小糠三合あるならば入り婿すな」の変形。男はわずかでも財産があるなら、他家へ入り婿せず、独立して一家を構えよ。男は自立の心構えを持つべきであることのたとえ。また、入り婿の苦労の多いことのたとえ)』って言われとった時代やったで、やっぱりそりゃあ躊躇っただ」。しかし隔世遺伝の成せる業か。二代目同様大門の家から、久子さんの美貌に惹かれ婿入りを果たすことに。背広と革靴は敢え無く白衣に取って代わった。

蒟蒻作りは早朝から、蒟蒻芋を蒸しては摩り下ろす作業に始まる。そして水を加えて凝固剤を入れ、バタ練り(バタンバタンと音を立てながら機械で芋を練る)を繰り返し、型に流して茹で上げる。午前中に仕込みを終え、午後からは配達に追われた。「昔はよう儲かった」。昭和29(1954)年当時、高卒の初任給は三~四千円。しかし信一さんのポケットには、常時一万円ほどが捻じ込まれていたそうだ。「伝票なんてあれせんし、小遣いには不自由せんかっただぁ。でも年がら年中、山葵下ろしみたいな荒れた手しとったで、他所の女の手なんてよう握らんかったじゃん」。昔は石灰を使う水仕事のため、酷い手荒れに悩まされたとか。

「群馬県下仁田の種芋を取り寄せ、作手村で有機栽培した無消毒の蒟蒻芋を使用し、離水せぬよう芋を多く使い硬めに仕上げます」。名大農学部出の五代目光司さんは、優し気な眼を輝かせた。

秋風に乗り天神様の祭囃子が聞こえると、蒟蒻作りも酣。伝統の蒟蒻作り一筋に、半世紀を共に生き抜いた老夫婦。金婚式ならぬ、金蒟蒻式まで後二年(平成十五年八月五日時点)。

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「天職一芸~あの日のPoem 59」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「ラムネ職人」。

湯浴みの髪を束ね上げ 暖簾の奥から浴衣の君が     素顔ほんのり赤く染め 「待った?ゴメン」と上目がち  下駄がカランと音たてりゃ ぼくの心もイチコロン    夏の夜彩る打ち上げ花火 一花咲く度君の声       夜店のラムネ回し飲む 間接キッスに胸躍る

三重県伊勢市で戦前から続く五十鈴鉱泉(いすずこうせん)、二代目の濱口隆生さんを訪ねた。

「昔は、ラムネ瓶の飲み口が証紙で封印してあってな、皆物品税を払(はろ)とったんやさ」。隆生さんは昭和50年頃まで続いたと言う、証紙を差し出した。

初代の濱口九一(くいち)さんは、昭和5(1930)年の十八歳の年、長兄が出資してサイダー製造を開始。名古屋のサイダーメーカーに勤める長兄の肝煎りが、五十鈴鉱泉の礎を築いた。サイダーとラムネ。戦後復興と発展への道を突き進む、昭和の庶民にとって一本のラムネは、爽やかな喉越しとともに、生きる希望が湧き出すような、キラキラ光る小さな泡を吹き出した。

隆生さんは大学を出ると直ぐ、父の元でラムネ作りを学んだ。駄菓子屋に銭湯、昭和の高度経済成長期を支えた庶民の居場所には、必ずラムネの栓を抜く生活音がした。

しかし思いの外の速度で成長を極めたこの国からは、やがて庶民の居場所が蹴散らされ、町中を清涼飲料の自販機が埋め尽くした。飲み口の下が括れたエクボの玉止めを持つラムネ瓶は、無駄の多い形状が祟り自販機時代の波に取り残された。

「十年ほど前から、代々続いた鉱泉も皆、店たたんでもうて。ラムネ瓶も採算が取れやん言うて、十年前(平成十五年七月二十九日時点)から台湾製になったんさ。でもそれも去年までで終いや。ラムネの玉は真ん丸やないと、ガスが抜けてまうでなぁ。せやで玉だけ日本から真ん丸のを送っとったんやで、そりゃ高(たこ)つくわさ」。サイダーよりもガス圧の高いラムネならばこそ、瓶の中のガラス玉を押し上げ固定するからだ。

「子供の頃、家は友達の溜まり場みたいやったわ。朝昼晩と友達がやって来ては、ラムネを呑み放題。あれって俺の人気があったんとちごて、単にラムネ飲みたて集まっとったんやろか?それになぁ、父は九十超しても未だにラムネ飲みやしなぁ」。

百五十年ほど昔、英国に生まれ王侯貴族に愛飲されたラムネは、ペリーの黒船で日本に上陸。炭酸レモネードが訛ってラムネとか。まあ由来はともかく、昭和を必死に生き抜いた庶民の暑気払いには欠かせないものだった。

写真は参考

夕涼みの縁側、線香花火と蚊取り線香、瓶に触れるビー玉のちょっぴり涼し気な音色。記憶の片隅に追いやられた遠き時代は、今ほど便利じゃなかった。だが誰にも平等に、今よりもっと輝く明日が感じられた。

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「天職一芸~あの日のPoem 58」

今日の「天職人」は、岐阜市加納花ノ木町の「和傘貼師」。

悪戯小僧の勲章は 爪の黒さと赤チンの数        鎮守の杜の隠れ家で 時を忘れて駆け廻る        ピカゴロ 不意の夕立に 臍を押さえて家路を駆けりゃ  畦の向こうにジッチャの姿 揺れる番傘 細い腕

岐阜市加納花ノ木町の和傘の貼師、伴清吉さんを訪ねた。

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色鮮やかな美濃本蛇の目傘の大輪。仕事場の壁から天井まで、足の踏み場もないほど傘の花が咲き乱れる。

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傘の柄の天辺から、放射状に伸びる五十四本の竹骨に、古びた刷毛で和紙糊を滑らせ、三末(みまつ)と呼ぶ竹骨三本に、一枚の割合で都合十八枚の美濃和紙を、皺ばむ指先で寸分の狂いも無く貼り込んでゆく。「ちょっとこれ見てみゃーて」。ゆうに二十年以上は使い込まれたろう馬の刷毛を、清吉さんが差し出した。なんと柄は、清吉さんの指の形に窪み、飴色に変色してしまっている。「この辺りは、和傘の本場やでなも」。

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清吉さんは三人兄弟の末っ子。父と兄がそうであったように、何の疑問も抱かず、尋常高等小学校を上がると直ぐに貼師となった。「毎晩火の用心が廻ってくるまで、傘貼っとったて。欲があったでな。一本でもようけえやって、子どもらに美味いもん食わせたろって」。

和傘一本の完成までに、大きく分けて骨師、貼師、仕上師の手を潜り、工程は百を超える。実に貼師の作業だけでも、十八工程に及ぶ。

まず骨師が割き削った骨を、夏でもストーブに翳し一本ずつ歪みや反りを矯正する。「これが一番肝心なんやて」。矯正された五十四本の骨は、元の一本の太い真竹の状態に閉じられ、輪で締め続けること一ヵ月。それから三末ずつ美濃和紙を貼り込み、再び一ヵ月以上の時を掛け、ゆっくりと自然乾燥を待つ。「本当にええ傘は、半年かかるわさ」。貼師の納得がいった傘だけに、貼師の銘札が貼られ、絹の毛で荏胡麻油を塗り込む仕上師へと手渡される。

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しかし戦後の復興とは裏腹に、和傘需要は激減。「ここらぁは昔、家の前が広うしたって、そこら中に傘を干しとったもんやて」。洋傘台頭の憂き目に、職人たちも職を奪われていった。「だって蛇の目差しとるんを、見たことないやろ。今でも和心のあるお茶の先生や、踊りの先生のよな、突飛な人らしか差してくれやんでな」。清吉さんは小さな背を丸め、愛妻の志ず子さんを振り返った。

傘貼一筋、四分の三世紀。三人の子供も立派に巣立った。それでもなお、日がな一日傘を貼る。

バサバサッと小気味のいい音を立て、降りしきる雨が一瞬に跳ね飛んだ。曇天の梅雨空に、鮮やかな美濃本蛇の目の花が咲いた。「明日、天気になぁれ」。

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「天職一芸~あの日のPoem 57」

今日の「天職人」は、名古屋市下之一色町の「漁網職人」。

新川縁(しんかわべり)の 船溜まり          朝陽にはためく 大漁旗                川面に波頭 カモメが群れりゃ             河岸も俄かに 活気付く                軒を寄せ合う 路地裏は                腕白坊主の チャンバラ劇場              面子ビー玉 屑鉄拾い                 ポケット一杯 夢いっぱい               尾張最後の 漁師町                  両郡橋から 眺めれば                 眩い昭和の 残像が                  波紋の渦に もまれて消えた

名古屋市中川区下之一色町で漁網を製造販売する、水谷商店三代目、水谷文雄さんを訪ねた。

「三人兄弟で、俺がババ引いちまったもんで、跡継いで婆あの面倒まで見とんだて、おめえさん」。文雄さんが小声で呟いた。

明治末期、海部郡蟹江町で櫓の職人をしていた祖父が、漁師町として栄える下之一色町に櫓の職人が一人もいないことに眼を付け、両郡橋の袂、大銀杏脇に漁具店を開業。店の真横の船溜まりから、漁師達が数珠繋ぎで陸に上がって来たと言う。

しかし昭和34(1959)年、伊勢湾台風が直撃。その後、高潮防波堤の建設に伴い、漁師たちの多くが漁業権を一斉に放棄。陸に上がった漁師達からは、気っ風のいい声が消え、人手に沸いた商店街の街頭スピーカーからは、うらぶれた演歌だけが虚しく響く。

子供の頃から魚獲りに明け暮れた文雄さんは、高校を出ると早朝から魚市場でアルバイトを終え、父の仕事を手伝った。「親父はコツコツとよう働いとった。婿養子だったでな」。

文雄さんは反物で網を仕入れ、かがり目が解けぬよう一つ一つ手縫いで紡ぐ。大小のタモから、生け簀用のタモに、果ては地引網。そして一度網に入ったが最後の、地獄網まで。魚の生態を知り尽くし、見事なまでに魚の習性を巧みに利用する。

写真は参考

「昔は外国船の船員が、わざわざ三枚網を買いに、千円札を束で持って来よったて。でもよぉ、おめえさん。あいつら靴履きのまんま座敷に上がって来るでかんて」。三枚網とは、三枚重ねの漁網。一枚目と三枚目の網目は大きく、海老も魚も入り込む。しかし真ん中の小さな編目に引っ掛かり、一網打尽となる。実に日本人の繊細な手先が紡ぎ出した、漁網の逸品だ。「でもよう、今はまああかん。遊び漁師の時代だで。喰ってくのもままならんで」。

三枚網の参考写真

文雄さんは生計を案じ、職安通いもした。「伝統漁法の技術だで、遺した方がええって、皆言わっせるが、言う方はええわさ、言うだけだで。そんでもこっちは、生きてかなかんでなぁ。でももうこの歳じゃ、就職口なんてあーせんて。我慢してやっとるだわさ」。文雄さんは切なげに苦笑い。

時の流れは、漁師町の面影を押し流した。しかし澱んだ川面は、あの頃と何も変わらぬ満ち引きを、今日も淡々と繰り返している。

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「天職一芸~あの日のPoem 56」

今日の「天職人」は、三重県美杉村の「萬屋」。

おっちゃんおっちゃん これなんぼ           道草喰うて 菓子買うて                甘納豆の 籤引こか                  どうか当りが 出ますよに               「ハンニャラモンニャラ ペッペッペッ」        変な親爺の 呪(まじな)いが             いつも通りに 始まると                何や知らんが よう当たる

三重県美杉村で萬屋を営む(平成十五年七月八日時点)、三代目眞柄武士さんを訪ねた。

美杉村

実に何ともまどろこしい「床屋」という店名の、魚屋兼萬屋があった。一昔前のコンビニである。異なる点は、刺身や焼き魚、蚊取り線香から虫取りタモや釣り竿まで、暮らしに密着した食料品から生活雑貨が、所狭しと店内に居並ぶ。

写真は参考

「それはなぁ、昔婆さんが、床屋やってんさ」。武士さんが赤道色の顔を綻ばせた。

武士さんが六歳になった昭和21(1946)年、隣の材木屋から出火。祖母が営む「床屋」ともども焼け出され、父は国鉄を辞し山師となり一家を支えた。すると今度は昭和28(1953)年9月、台風13号が直撃。至る所で山抜けが発生。武士さんも中学を上がると直ぐ、工事現場で鶴嘴を振るった。そして昭和33(1958)年9月、焼け出された床屋は十二年の歳月を経て、萬屋へと生まれ変わった。

「魚市場へ仕入れに行くとなぁ、皆『妙な店の名前やなぁ』ゆうて。直ぐに覚えてもうて。結構、役んたったんさ」。

萬屋の開店から三年後。武士さんは軽三輪自動車を購入。それまでの名松線での仕入れに別れを告げ、颯爽と片道一時間半をかけ、松阪に向け軽三輪を走らせた。「当時なんて、仕入れして店へ戻って来ると、客が行列作って待っとったんやで。今とはえらい違いやさ」。棚を飾る商品は、問屋が勝手に置いて行くのだとか。求められれば大工用品まで販売した。「まぁオイルショックまでは、おもろいほど売れよったわ」。

しかしバブル期以降、過疎化が進み高齢化へ。「今し皆歳喰うてもうて。店まで来るのもしんどいで、魚持って行商して廻っとんやさ」。武士さんは毎日欠かさず、近隣に住む独居老人宅を巡る。「『きんのうは刺身喰うたやろ。そやったら今日は、焼き魚にしとき』ってなもんさ。せやけどほんま世話やで」。独居老人問題は切実と言う。ガスの火を点けっ放しで、畑仕事に出掛けていた老婆宅を訪問し、寸でのところで台所の火事を消し止めたり、自室で発作を起こした病人も救った。

「如何に萬屋ゆうても、年寄りの健康管理までせんならんとは・・・」。傍らで愛妻の春子さんが笑った。「もういつ店仕舞いしても可笑しないんやさ。でもなぁ・・・」。

「床屋」と言う名の萬屋の裏山に、ゆっくり陽が落ちる。店先には買い物を終えた老婆の笑い声。軒の裸電球が灯り、暖かな光を放つ。美杉の里の萬屋には、誰もがやさしかった昭和のあの頃があった。

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「天職一芸~あの日のPoem 55」

今日の「天職人」は、岐阜県付知町の「飴職人」。

母に頼まれ 届け物 隣近所を 一巡り         幼い妹 連れ立てば 両手に余る 駄賃飴        白黒紅に ニッキ飴 大人の味の ハッカ糖       夕陽を浴びて キラキララ 両手の中の 小宇宙

岐阜県付知町の勝野製菓へ二代目の勝野観(かん)さんを訪ねた。

掃き清められた土間に、ハッカの匂いが漂う。思わず大きく息を吸い込んだ。鼻の奥の方に、忘れかけていたあの頃を感じた。

「親指と人差し指の先っちょに、煮えとる飴を一寸付けて指を開くんやて。よう煮えとるとパリパリ言うで、飴炊きの温度もわかるんやて」。観さんがその仕草を真似た。

昭和5(1930)年、初代の故勝野良二は、この地方に古くから伝わるハッカ糖を主力商品とする店を開業。「昔はこの辺りでも、ようけ薄荷草(はっかそう)が採れて、それを絞っとったらしいわ」。

観さんは六人兄弟の次男として誕生。中学を上がると、北恵那鉄道(昭和53年廃止)を中津川で乗り換え、名古屋で日用雑貨品を扱う問屋へと住み込み奉公に上がった。高度経済成長時代の訪れで、石鹸や剃刀も飛ぶような売れ行きに。三年の奉公を終え、休養のつもりで郷里へと戻った。すると跡取りの兄から「俺の代わりに、お前が飴作れ」と。「まあどうせ一時のことだろうと思っとったら、何が何が。知らん取る間に、兄貴は他所へ勤めに行っちまって」。観さんは、子どもの頃手伝った記憶を頼りに、父とハッカ糖や生菓子作りを開始。このころの昭和30年代初頭。大手の製パン業者が付知の町にも大量の和菓子などを運び込んだ。

「まさに付知の菓子屋の戦国時代やて」。観さんも生き残りを賭け、あの手この手と知恵を絞り、キャンプ場や下呂温泉へと新商品の販路を求め、ハッカ糖の灯を絶やすまいと守り抜いた。「生菓子は日持ちがせん。それに引き換え、飴は日持ちがええ」。やがて観さんの心は、先代が遺したハッカ糖一筋へ。

素朴な風味が魅力のハッカ糖は、砂糖と水飴の飴炊きに始まる。「何より火加減が肝心。飴のカリカリ感を出すには、二百度の高温と経験が頼りやて」。次にハッカの原液を加え、冷やして丸く固める。「柔らかすぎても、硬すぎてもあかん。時間との戦いや」。それを棒状に伸ばし、鋏で一粒大に切り分け袋詰め。「昔はみんな手作業やったで、肩が凝るとこれを首筋に擦り込んだるんやて。そうするとスーッとしてええ気持ちになるで。ちょっと塗ったろか?」。観さんはハッカの原液を掌に広げ、首筋に擦り込んだ。

さわやかなハッカの薫りが立ち込め、傍らで妻の恵美子さんがにっこり。

「深山裏木曽(みやまうらきそ)ハッカ糖 仲睦まじき飴職人」

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「天職一芸~あの日のPoem 54」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「表具師」。

母の十八番の 芋饅頭 どれどれどれが 大きいか    迷う間に 手が伸びて あっと言う間に 姉の口     憎つくき姉に 跳び蹴れば 襖ぶち抜き 大目玉     それが因果か わからぬが 今じゃ表具師 襖貼り

愛知県岡崎市の錦昌堂(きんしょうどう)に、二代目の原田直好さんを訪ねた。

参考

初代の父、好光の口癖は「わしの腕の分かる者は、この岡崎にゃあおらんだぁ」だったそうだ。なぜなら好光は戦前、宮内庁より「大経師(だいきょうじ)」の位を得、職人としてますます磨きがかかっていた頃。東京大空襲で焼け出され、止む無く妻の在所を頼り疎開した。そして戦後再び上京し、東京で店を再興するものの、戦後の荒波と逆風に翻弄されることに。「そんな時代、ほとんどが喰うが先。こんな仕事は贅沢品らぁ」。直好さんはぶっきらぼうだったと言う父の呟きを真似た。

参考

昭和25(1950)年、一家は再び岡崎に舞い戻った。父は大経師の位もうっちゃって山へと分け入り、木炭車用の薪を切り出し一家を支えた。

一方直好さんは中学を出ると上京。婦人靴職人を目指し、浅草の製靴会社に就職。

昭和37(1962)年、ついに父は大経師の腕に積もった埃を叩き落とし、岡崎の地で錦昌堂を再興。その二年後、東京五輪は世界の人々に、焼け跡からの復興振りを示して閉幕。その年の暮れ、一日に三十五足も婦人靴を仕上げる、熟練の靴職人となった直好さんが帰省。オートメーション化の波が押し寄せ、職人から手仕事を奪い取っていったからだ。「今更、会社員にもなれんらぁ」。直好さんは父の跡を継ぐ決心を固め、修業を始めた。

掛軸の主役となる書画を、大和和紙で二回裏打ちし、周りを装飾する金蘭などの布(きれ)にも「着物着せたらんと」と、労わる様に二回裏打ちを行なう。次に布継(きれつぎ)と呼ばれる工程で、書画を引き立てるため布の柄や色合いと配置を決める。「一に色彩、二に技術。まあどれもこれも、持って生まれた勘だらぁ」。最後に揚裏(あげうら)と呼ぶ仕上げの裏打ちが施され、柴の木の軸棒を巻き、上部には風帯(ふうたい)を垂らし無地の部分に風合(ふうあ)いを飾り、軸先を取り付け一幅の掛軸が完成する。

参考

「国宝級の物だったら、まず一年はかかるらぁ。四季を通してゆっくりと仕上げたりゃあ、何百年先もこの国の湿気に耐えられるだ」。直好さんの言葉に、京都で修業積んだ三代目の国男さんもうなづいた。「孫を仕込むまでは、死んでも死に切れん」と、口癖にしていた初代好光であったが、その願いも虚しく昭和57(1982)年、仕事中に倒れ還らぬ人に。だが大経師の心根は、孫子の代へと見事に受け継がれた。

参考

何百年もの時の彼方で滲んだ、一幅の墨痕。親子経師は今日も、刷毛を片手に永久へと続く新たな生命を、一幅の掛物に注ぎ込む。

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