「天職一芸~あの日のPoem 71」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢うどん職人」。

お伊勢詣りに賑わう参道 暖簾犇めく伊勢うどん      溜まり醤油の出汁の香が 詣でる前から鼻を惹く      帰りは何処に寄ろかしら 妻は今から気も漫ろ       今食べたいと子は愚図り 溜りませんわ伊勢うどん

三重県伊勢市で大正末期から続く、名代伊勢うどん、山口屋の二代目山口浩さんを訪ねた。

「晴れの日の食事やったんさ。正月とか祭りの日は、必ず伊勢うどん喰うて」。浩さんは前掛けを外して腰掛けた。

浩さんは陸軍航空部隊の地上勤務に就き、旧満州への出兵寸前に終戦を迎えた。戦中戦後の物資不足に、軒を連ねたうどん屋は、暖簾を畳み休業状態に。復員した浩さんは、先代と共に近所の配給粉を預かっては麺にして、伊勢うどんの灯を細々と守り続けた。

昭和25(1950)年の朝鮮特需を境に、翌年のサンフランシスコ講和条約による日本の「独立」回復へ。やっと平和を実感する日々が訪れた。

昭和29(1954)年、同級生の妹貞子さんと結ばれ、うどん作りに精を出した。「わしは、ようもてよったんさ」。傍らの貞子さんが鼻先で笑った。

山口屋の伊勢うどんは、自家製のタレと、一時間かけふっくらと茹で上げる太麺が命。溜り醤油に煮干しと鰹節を入れじっくり煮出し、創業以来受け継がれる秘伝の味を加え、麺と相性の良い芳醇なコクを醸し出す秘伝のタレが完成する。

「学生時代によう通うてくれよった人らが、ひょっこり立ち寄って『昔のまんまの味や。丼も一緒やし』言うて。今し皆偉ろうなった人ばっかやけどなぁ」と、貞子さん。

金毘羅さんの讃岐うどんと、お伊勢さんの伊勢うどん。いずれも似て非なる郷土が誇る素朴なうどんだ。麺も出汁も、食し方まで違えども、いずれの神々を詣でる参詣客には「まぁ遠路よう詣でてくれた。さあ帰りにうどんでもたべてき」と、参道に漂う溜り出汁の香が、神々の有難いお告げとなって袖を引く。

三代目を継ぐ敦史さんは、銀行に就職してからも、週末には店の手伝いに明け暮れた。入行から六年目を迎えた頃。異動の辞令が下りた。「配属先がこの店の三軒隣の支店やって・・・。家へ戻れってことかと・・・」。年老いて行く両親の姿に、跡取りの責任を感じ銀行を辞した。

そして伝統を守りつつ、現代人好みの新商品も考案。「『ごちゃ伊勢うどん』言いましてな、お揚げに焼き麩、蒲鉾の加薬に、肉と海老の天麩羅を添えた具沢山の代物ですんや」。どこからどう見ても、元バリバリの銀行員とは思えぬ若大将だ。

ふっくら茹った太麺に、磯の香漂う溜りダレ。溜まらずお代わり、もう一杯。

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「誰よりも誰よりも」

今日はまず、弾き語りやCD音源をお聴きいただく前に、今日の一曲「誰よりも誰よりも」の歌詞からお読みいただければ何よりです。

「誰よりも誰よりも」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

昨日の君まで 好きでいたいなんて 身勝手過ぎることなど 百も承知だけど

もう止まらない 君を愛し過ぎて 出逢う前の君さえも 独り占めにしたい

 ああ出来ることなら 君の記憶さえ  すべてぼく一色に 塗り替えてしまいたい

  昨日の君さえ やっぱり好きなんだ 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

昨日までの日々 流した涙の分 君は幸せになる 権利がきっとある

ごらん足跡(あしあと)を昨日が今日に向かって 真っ直ぐにこのぼくへ歩み続けている

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

 ああ今日を限りに 記憶を閉じて  すべてこのぼくだけに 委(ゆだ)ねてくれないか

  今日も明日も 君を好きだから 誰よりも誰よりも 君に愛されたい

  誰よりも誰よりも 君に愛されたい

この歌詞にあるように、どなたかの事が好きで好きで、どうしようもないほど、狂おしくてたまらなくなったと言う、そんなご経験はございませんでしょうか?

ぼくは誰にでも、誰かを好きになった瞬間、この歌詞にあるような想いを抱かれるものだと思っています。

ただそれがどれだけの大きさであるかは、人によってそれぞれ違いがあるとは想いますが・・・。

それとこの歌詞にあるような気持ちを、仮に一瞬でも心の何処かで想い描いたとしても、それを素直に相手にぶつけることもままならず、むしろ恋だとか愛だとかについて、自分は十分に酸いも辛いも知っているかのような、そんな真逆な素振りをしてしまう。きっとこんな方もおいでのことでしょう。

確かにこっばずかしかったり、柄じゃないとか、ついつい素直に心の内を打ち明けられず・・・。

それでも互いに心が十分に通じ合えれば、それに越したことはありませんが・・・。

如何なものでしょうかねぇ。

ぼくならば、ぶきっちょなもどかしい言葉を繋ぎ合わせてでも、どんなにこっぱずかしかったとしても、やっぱり胸の内を吐露したいものです。

それだけ言葉ってぇのは便利な一方で、煩雑でもどかしくって、何もかも洗いざらいに根こそぎ相手に伝えきるには・・・。ぼくの場合は、いささかいまだに語彙が不足しているかも知れません・・・。

でもきっと、お相手もこちらが必死に心の内を曝け出そうとしていれば、わずかな顔の表情の変化や目の動き一つが、言葉以上にモノを言ってくれるだろうと、そう信じています。

それではまず拙いぼくの弾き語りで「誰よりも誰よりも」をお聴きください。

続いては、CDに収録されている「誰よりも誰よりも」と、お聴き比べいただければ幸です。

★4月8日の明日は、噛み噛みシンちゃんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「初めてのランドセル!」。ぼくが小学校に入学したのは、昭和39年の東京オリンピックの年でした。戦後復興の象徴と言われた東京五輪でしたが、今と比べたらまだまだ貧しい時代でした。ですから入学式のランドセルだって、兄弟や姉妹が沢山いる家の子供たちは、兄や姉のお下がりが普通でした。それは何もランドセルだけに限ったわけでは無く、洋服にしても文房具にしたって同様でした。ぼくは一人っ子だったため、何もかもが新品で友から散々に羨ましがられたものでした。しかし今にして思うと、何もかも新品で揃えなければならなかった両親の負担は、なまなかなものでは無かったことでしょう。しかしそれでも一応曲がりなりにも、何不自由なくそれらを用意してくれた両親に今更ながら感謝感謝です。とは言えまあ、いずれの備品や持ちモノも当然ながら「上」ではなく「並」でしたが!新型コロナの影響もあり、真新しいランドセルを重そうに背負った新一年生を見掛けませんが、懐かしさだけが込み上げてまいりました。

今回はそんな、『初めてのランドセル!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、麺が決め手です!

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 70」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「筆軸木管師(ふでじくもっかんし)」。

泥んこ顔のお転婆が 見違えるほど奇麗だ         打掛に身を包んで 姉ちゃんが三つ指を着いた       親父は冷酒を煽り 古びた筆を取り出した         「孫の名はこれで記せ お前の名付け筆だ」と       「娘はやがて巣立つものと 父さんは深い愛を注いだ    笑顔で送り出せぬ訳 分かっておやり」と母の声

愛知県豊橋市の鈴木木管製作所に、二代目筆軸木管師の鈴木欽一さんを訪ねた。

写真は参考

「一生毛皮は買ってやれんだろう。でもその代わりお前が寒くないよう、死ぬまで一緒に寝てやるだぁ」。何とも乱暴な台詞が、プロポーズだったと、欽一さんは妻の由紀子さんを盗み見た。

鈴木木管製作所は、「木管屋の神様」と讃えられた、初代清一が昭和10(1935)年に創業。紡績用糸巻きの芯を彫る技術を、木管の筆軸や筆鞘(ふでざや)に応用する、画期的な技術だった。だが日毎戦局は悪化。欽一さんが九歳の年、豊川大空襲で一家は工場もろとも焼け出された。

写真は参考

終戦から九年。高校卒業と同時に、名古屋の轆轤師(ろくろし)の元で一年間奉公し、父の元へと戻り修業を始めた。

硫酸鉄を溶いた湯で、竹を小一時間煮立て茶に染める。次に電熱器で竹を炙り、曲がりを矯正。先代が発明した軸切機で両端を切断する。面を取り、溝を彫って木綿糸を巻く。そして木骨(きこつ)を貼り、周りを削って表面を塗装。仕上げは、木骨にリリアン糸の輪を通す。「筆の穂先の吸った湿気が、リリアンを伝って逃げるだぁ。竹は生きとるらぁ」。

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修業から十年を迎えた朝のこと。「今から岡山へ、お前の嫁さん貰いに行ってくるだ」。父が旅支度をしながらつぶやいた。

欽一さんの愛妻由紀子さんは、十六歳で郷里の岡山を離れ、豊橋の病院長宅で行儀見習いをしながら看護師を目指していた。

ひょんな出逢いが二人を紡いでいった。「あの頃はよう風邪ひいただぁ」。傍らで由紀子さんが咳払いを一つ。何のことはない。欽一さんは、とにかく由紀子さんに一目逢いたいばかり。風邪をひいただの腹が痛いだのと言っちゃあ、白衣の由紀子さんに注射を打ってもらいに、ひたすら病院通いの毎日。そんな二人の仲を知った父が、嫁取りへと旅立った。

鈴木家の寿ぎは、一男一女の誕生へと続いた。しかしその喜びも冷めやらぬ四年後。煙草の火の不始末から出火し、自宅と工場が全焼。煙草を一切口にしない欽一さんだったが、最後の最後まで自分の不始末だと押し通したと言う。

「筆軸なんて所詮黒子。筆師さんが穂先を埋めてくれんと物にならんらぁ」。欽一さんの言葉を、三代目を継ぐ美宏さんが引き取った。「でも軸がなければ、筆にはなりません。私も父の様に、筆師さんの信頼を早く得んと!」。

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日本一の六甲矢竹(ろっこうやだけ)は、陽の当たらぬ深い谷で、遥かな天空を睨み真っ直ぐに育つ。まるで筆軸木管師父子の頑なな生き様のように。

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「Monday Walking きまぐれ Shot!~これって盆栽ならぬ、Terrace Bonsai?」

一見、「わー可愛らしい、ミニチュアガーデン」と思われましょうが、ところがドッコイ!よく見れば、暖炉の薪置き場の上に設えられている、ミニチュアのガーデンテラスのようです。

盆栽の域を遥かに超えた大きさで、開放的な窓枠よりも大きなものです。

ちょっと小洒落た裏通りにある、隠れ家風のカジュアルバーのようでした。

そう言えば、そうそう。

30年ほど前に初めてカカポの仕事でニュージーランドに行った時、友人のアラン・ソーンダース氏が笑い話として教えてくれました。

今から35年ほど前までは、ニュージーランドのカジュアルバーはどここかしこも、午後8時の閉店だったそうで、午後8時になると店の店主が客を追い帰さんとばかりに、床にホースで所かまわず水を撒き散らして掃除を始めたとか。

とても当時のニュージーランドは、今よりももっともっと健全だった証ですよね。

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3/31の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

なぁ~んちゃって!「焼きそば~ン・イカ煎タコス」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

正解は、海老煎ではなくイカ煎をタコスの生地のように見立て、広島焼き風にソース焼きそばの残り物ととろけるチーズで、超簡単な手抜きクッキングに仕立てましたのが、この「なぁ~んちゃって!『焼きそば~ン・イカ煎タコス』」です。

何故海老煎ではなく、イカ煎にしたかと言いますと、海老煎は割れやすく粉々になるからです。その点イカ煎は、海老煎よりは割れにくく、具材の焼きそばの油を吸うと柔らかくなり、タコスのように半分に曲げられて、焼きそばを挟んでしまえるからです。

作り方は、超手抜きです。まず残り物のソース焼きそばをレンジでチンして過熱し、イカ煎の中央に盛り付け、とろけるチーズを上からたっぷり振りかけ、そのままオーブントースターでとろけるチーズに焦げ目が付く程度に焼き上げ、上に彩を兼ね紅生姜を添えれば完了。

これが侮るなかれ!イカ煎のパリパリ感に、とろけるチーズが絡んだ残り物の焼きそばが見事に生まれ変わり、キリン一番搾りにドンピシャな、イケテルB級残り物グルメの誕生となりました。

きっとお子様にも喜んでいただけそうな、超手抜きクッキングですので、一度お試しあれ!

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「Sunday Walking きまぐれ Shot!~これって鳩の専用ベンチ?」

ウォーキングの途中でこんな不思議な光景を見掛けました。

このシチュエーションの何処に違和感を感じたのだろうかと、よくよく考えて見ました。

本来ならば、公園の木陰に置かれた木製ベンチであったら、何の違和感も無かったことでしょう。

そしてベンチに腰掛けた老人がパン屑を撒くと、物怖じしない鳩たちが一斉に寄って来たのであれば、これまた納得です。

しかしこのベンチは、周りの風景をのんびり眺められるように、設置されているわけでもありません。

しかもベンチの座面には、鳩の餌の入った器が三つ!

どうりで鳩たちが、我が物顔でこのベンチを占有しているはずです。

きっと黒壁のお宅の方が、鳩たちのためにこんな優雅なベンチを設置され、地べたに餌を撒き散らかさず、ちゃんと餌箱までご用意になっているのでしょう。

公園での鳩の餌遣りなどは問題視されますが、この私有地であればだれにも迷惑を掛けぬ、鳩たちのサンクチュアリなのかも知れません。

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「天職一芸~あの日のPoem 69」

今日の「天職人」は、岐阜県加子母村の「木地師(きじし)」。

山の麓で水車が廻る ゴトゴトゴットンゴットンと     木曽越峠に紅挿せば 加子母の短い秋が往く        轆轤挽くたび大鋸粉(おがこ)散り 秋の陽浴びて風に舞う 老父の周りでキラキラと 木地師の里の昼下がり

岐阜県加子母村の大蔵工芸所、三代目木地師の大蔵光一さんを訪ねた。

写真は参考

「もうここらぁの木地屋は、俺んとこしか残っとらん。永く続いたってことは、始終貧乏背負(しょ)いきりでおるだけやて」。掌の大鋸粉を払い落としながら、老木地師がつぶやいた。

近江を発祥とする木地師の大蔵一族は、江戸末期豊かな森を求めこの地へ入植した。最盛期の明治初頭には、七軒の木地屋がひしめき、四基の水車で轆轤が廻っていたと言う。

光一さんは見よう見真似で木工を始め、十歳を過ぎる頃には何でも出来る程の腕前に。「遊び道具の独楽やヨーヨー、それにジャンジャン車(滑車)は、お手のもんやった」。

戦時中は軍の食器作りに追われ、戦後は土木作業に従事しながら夜学へ。その後家業を手伝う傍ら、名古屋にあった親類の木地屋へも出向き、掛け持ちで轆轤を挽いた。しかし如何に若いとは言え過労が祟り、ついに半年間の闘病生活へ。

「床の中で閃いたんやて」。それは熟練の木地師でも、一日十枚がやっとと言われた菊花鉢を、軽々百枚も仕上げる夢の機械だった。その名も「木工用彫刻機」。仕組みは、養蚕用の蚕の棚を利用し、自転車の車輪に斧(よき)と呼ぶ小型の斧を取り付けたものだ。試行錯誤の末、昭和48(1973)年に特許を取得。「この機械は、本当にようけ儲けさせてくれた」。これまでに七十万枚ほど製造されたヒット商品で、今も祝言の引き出物として欠かせないとか。

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昭和36(1961)年、見合いで妻千賀子さんと結ばれ、一男一女に恵まれた。

「昔の木地屋は、一所の木を伐りつくすと、別の森へ材を求め移り住んだもんや」。しかし流通網が整備された現代では、森を流離う必要もなくなった。「でも所詮人好しでのう、旨い汁はみんな問屋や一流百貨店に持ってかれちまって・・・。本当は子供に継がせたくなかったんや」。光一さんは陽が差し込む工場の片隅で、黙々と一人轆轤を挽く四代目の満さんに目を向けた。満さんは高校を出るとすぐ、父と共に轆轤を挽いた。「カエルの子はカエルやて」。光一さんがやさしく笑った。

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親の心子知らず。されど子は、親を映す鏡。木地の正目を、活かすも殺すも木地師の腕前一つ。損な性分の人好し一家は、四代に渡り加子母の里にしっかりと根を張り続ける。

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「天職一芸~あの日のPoem 68」

今日の「天職人」は、三重県大王崎の「灯台守」。

夕陽浮かべた内海(うちうみ)に 出船入船行き交う汽笛  岬の頂(いただき)入り江の番人 沖を目掛けて灯を放つ  異国流離う旅も終(つい) 瞼の向うに島影滲む      君待つ祖国の入り江では 岬の灯りが我を手招く

三重県鳥羽市海上保安部に、平成の灯台守、小林英則さんを訪ねた。

「子供の頃、アメリカのテレビドラマ『わんぱくフリッパー』が大好きでした。それでコースト・ガード(沿岸警備)の仕事に憧れるようになって」。英則さんは窓から鳥羽湾を眺め、少年のように目を輝かせた。差し出された名刺には、鳥羽海上保安部航行援助センター、主任航行援助管理官とある。

三重県大王崎の灯台守は七名。二十四時間交代制で、無線監視・気象観測・灯台の維持管理に追われる。

英則さんは愛知県額田町生まれ。地元の水産高校の無線通信科から専攻科を経て、昭和48(1973)年に入庁。直ぐに大王崎灯台の航路標識事務所に無線技士として配属された。「私らの職場は、何処まで行っても周りは海しかありません。おまけに宿舎は、灯台の目と鼻の先。木造の古い建物で、船虫や百足に悩まされたもんです」。青春真っ盛りの四年間を、英則さんはここで過ごした。「賑やかな都会より、ここらの方が・・・。地元の子供らと釣りしたり、真っ青な海に潜ったりしとった方が楽しかった」。

大王崎での暮らしを終え、名古屋の第四管区海上保安部へと異動。土建担当と言われる、灯台や宿舎の建設を担当する部署だった。

無線屋とは全く畑違いの職務。夜学に通い建築士の資格を取得した。

翌年、友人が仲を取り持ち、年上の女房と所帯を構えた。若干二十五歳の晴れ姿。後は男の子が生まれ、イルカを手懐けさえすりゃ、いつか夢見た「わんぱくフリッパー」を地で行くはずだった。

しかし現実はそれほど甘くはない。二人の男子には恵まれたものの、全国各地を転々とする運命に。まさに昭和32(1957)年の名画「喜びも哀しみも幾年月」でお馴染みである。

その後、北九州の関門海峡を守る七管本部へ。そして再び四管本部から本庁勤務を経て、第二の故郷とも言うべき、大王崎灯台に平成13(2001)年着任。

「ただただ女房に感謝です。何処へ転勤になろうと、家族一緒でした。だから腰を落ち着けて仕事が出来た。灯台は、沖を行く船にとって、海の派出所ですから」。勤続三十年の表彰を受けた平成の灯台守は、踵を打ち鳴らし鮮やかに敬礼。ぼくもぎこちなく答礼を返した。

中部経済の要、伊良湖水道航路を往く船の無事を祈り、今日も大王崎灯台へと向かう。

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「天職一芸~あの日のPoem 67」

今日の「天職人」は、岐阜県美濃市の「紙漉き簾編師(すあみし)」。

窓辺に微かな瀬音の調べ 板取川を夏が流れる       矢坪ヶ岳が紅く染まれば 蕨生(わらび)の里も秋の装い  裸電球手元を照らす 簾編し老婆の窓辺から        秋の音奏でる虫達が 冬も近いと告げて鳴く

岐阜県美濃市に簾編師、古田あやめさんを訪ねた。

写真は参考

「私の嫁入り行列は、たったの三~四歩やったんやて」。国内有数の美濃和紙の里、蕨生。土間を上がった客間の中央には、簾を編む木製の台がデーンと据えられている。あやめさんは背筋を伸ばし仏間を振り返り、夫の遺影を眺めながらつぶやいた。

あやめさんは大正14(1925)年、隣の家に生まれ、娘時代は紙漉きに明け暮れた。やがて戦況が苦境に立たされた日本軍は、丈夫な美濃和紙に蒟蒻糊を引いた風船爆弾に一縷の望みを託した。愚かしい末路だ。それを敵地のアメリカ本土に向け、偏西風に託した。当時あやめさんは何も知らず、気球紙判の紙漉きに追われたと言う。

フリー百科事典「ウィキペディア」より引用

戦後昭和24(1949)年、姉の口添えで実家のすぐ隣、一歳年上の故要三さんの元へと嫁いだ。あやめさんは祝言の余韻もそのままに、家業の簾編に明け暮れた。

写真は参考

紙漉きの簾とは、漉き舟の桁に乗せる竹籤(たけひご)で編んだ簾。美濃和紙用の簾の幅は、三尺三寸五分(約101.5センチ)。竹籤の直径は0.5ミリ以下で、節から節までの約30センチ程度。従って籤と籤を繋ぎ合わせて三尺の長さに仕立てる。つまり繋ぎ目の籤をさらに半分に割き、二千本の竹籤を特別に紡いだ腰の強い絹糸で、約一週間かけ丁寧に編み込むのだ。「籤は丈夫やで、五十年経っても何ともない。漉いた後にちゃんと水洗いして乾かしとけば、もせる(湿気でボソボソになる)こともないんやて」。

写真は参考

四六時中夫と共に、昼間は川の瀬音と鳥の歌声に耳を傾ける。陽が暮れれば裸電球を挟み、向かい合わせに黙々と簾玉(すだま/絹糸を張る錘)を繰る。「子供の頃から細かい根気のいる仕事が好きやったでな。幸せなこっちゃて」。二人の息子たちは蕨生から巣立ち、里で暮らす夫婦にも老いが忍び寄った。

平成6(1994)年、東京で会社勤めをしていた女性が、何か手に職を付けたいと訪れた。彼女は近くの空き家に住み、貯金で細々と食い繋ぎながら簾編を学んだ。「もうあの娘は、立派な跡継ぎやて」。あやめさんが太鼓判を押した。

それから三年。要三さんは跡取りの成長をその目に焼き付け、静かに息を引き取った。「年取ってから、娘でも出来た気でおったんやろ。あんでも若かりし頃は、ええ男やったんやて」。

あやめさんはポツリとつぶやき、先祖代々受け継がれる簾玉を、鮮やかにその指先で繰り続けた。

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