「天職一芸~あの日のPoem 78」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の「潜水夫」。

人は海から来たのだろうか                海の中に潜るたびそう感じてた              進化の記憶などあるはずも無い              なのに身体は何かを感じてる               母の胎内(おなか)で浮遊した記憶の欠片         遠くで優しい声がした至福の時              海の闇も不思議なほど怖くない              いつも母さんが側に居る様で

愛知県田原市赤羽根町の潜水夫、松本成広さんを訪ねた。

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「行って来る」。全身黒のドライスーツに身を包んだ男は、船上の息子にそう一言告げると、藍よりも深い海の闇へと吸い込まれていった。それが成広さんだ。

成広さんは、海から遠く隔たった京都の街中で、中学を出るまで過ごした。「岡山の叔父が、韓国産のサザエやアワビを輸入して、生簀で生かしとったんやけど、ようけえ桟橋の下とかにも落っこちとってな。それを素潜りで拾うのが、あの頃の生き甲斐やった」。

そして叔父から父親を説き伏せてもらい、十七歳の年に潜水会社に助手として入社。酸素ボンベの代わりに、潜水夫に空気を送るフーカーホースの介添えを続け、三ヵ月後には潜水免許を取得した。

それからは鳴門大橋の下部工事、対馬、長崎の大村湾、渥美半島と各地の海中を巡った。

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水深十メートル以内で一日八時間。五十メートルなら一日一時間の潜水時間となる。「海の中にはトイレがないでな。朝は水分控えとかんと、えらいこっちゃ」。

十九歳の年にフリーダイバーとして独立。翌年、岡山県出身の佐久美さんと結ばれ、三人の子に恵まれた。「まぁ、現地調達みたいなもん」。佐久美さんが照れ臭そうに笑った。

昭和59(1984)年から三年間、二十世紀最長となった瀬戸大橋建設では、橋桁の基礎となる海中六十八メートルでの下部工事にも携わった。「毎分十メートルずつしか浮上したらかんのやで、命懸けやわなぁ」。その頃から年々赤羽根町での仕事が増え、昭和63年頃には、年の内十カ月も赤羽に出張する有様に。一家は平成元年十二月に、岡山からの移住を決意した。

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「熊野灘の水深十五メートルんとこで、いっぺんフーカーホースが抜けてもうてなぁ。二十キロのウエイト外して緊急浮上したこともあったわ。それとか体長一.五メートルほどのハンマーシャークに遭遇したこともあったし」。成広さんは潮焼けた顔を綻ばせた。

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危険と背中合わせの仕事故、さぞや妻も心配であろうと水を向けた。すると「父も潜水夫だったんだけど、あんまり仕事の事はよう知らんし。最初の頃は、傘でも差して潜っとんやろと思ってたくらい」。佐久美さんが屈託なく笑った。「まぁ、空気の無い場所で仕事しとるでねぇ」。夫が苦笑い。

今は船上に次男が乗り込み、命綱であるフーカーホースを巧みに操る。海中から日本を支える、潜水夫の父を夢見て。

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「天職一芸~あの日のPoem 77」

今日の「天職人」は、三重県志摩町の「真珠養殖人」。

波間に揺れる月明かり 星と漂う沖の漁火         夜空と海の境界が 溶け出すほどに夜は更ける       月の雫を受け止めて アコヤは深い眠りについた      宇宙(そら)の欠片を身に宿す 至宝の光真珠貝

三重県志摩町で昭和29(1954)年から真珠養殖を営む城山勇さんを訪ねた。

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「アコヤ貝の貝柱は、生のまんま酢味噌で喰うのが一番やさ」。勇さんは筏の上に組まれた、作業小屋の中から身を乗り出した。臨時のお手伝いさん達の笑い声が、英虞湾を臨む入り江に響く。「ここらあのお手伝いさんらは、日当も大事やけど、一番のお目当ては貝柱のお土産やさ」。

勇さんは志摩町の水産高校(現、県立三重水産高校)を卒業後、半年間の陸軍生活を経て、終戦後郷里に復員。程なく三陸沖の遠洋漁業に従事し、カツオやマグロを追った。

昭和23(1948)年、妻ヤチ子さんと結ばれ三人の娘を授かった。「ここらあは、子どもが生まれるとオコゼを食べさす風習があってな。家も娘が生まれる度に、喰わしたもんやさ」。勇さんの養殖場のあるオコジ浦は、「奥地下」が訛ったとも、オコゼが沢山取れるからとも言われる。

「昭和27(1952)年頃になると、親戚のもんらあは、景気も上向いてきたし外貨も稼げるでゆうて、みな真珠養殖に乗り出しよってなぁ」。勇さんも親戚の家で真珠養殖を学び、二年後に独立開業した。「親父がセッセと貯め込んだ、なけなしの百万円が軍資金。不味いもん喰うて、着るもんも着やんと頑張ったもんやさ」。

真珠養殖はアコヤ貝の母貝に、ドブ貝やシロチョウ貝で作った核を埋め込む。そしてそれを沖に出し、十日に一度の割で引き揚げ、付着した汚物を取り除く。寒さも増した十二月の中旬、待ちに待った水揚げ期を迎える。

しかしあくまで大自然が相手。これまでに伊勢湾台風や、チリ地震の津波で、壊滅的な被害を被ったこともあった。また海水が汚染され、プランクトンが減ったり、貝柱が赤く変色する赤変病(せきへんびょう)が発生することも。「真珠の巻きが悪うなって、色が翳んで真珠が死ぬんやさ」。海中に石灰や改良剤を撒いて対策を講じても、「海は広いでなぁ」と苦笑い。「せやけど楽しいよ。玉が光輝いとると。女房に宝石を買(こ)うたったことは一度も無いけど。でも水揚げして一番出来のいい真珠は、毎年こっそりポケットん中へ仕舞い込んどんやで。まぁええやろ」。

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五十四年の歳月を連れ添い、真珠と共に歩んだ老夫婦。ならばいっそあと六年後。酢味噌和えの貝柱を肴に、二度目の真珠婚式を大真珠婚式と洒落込んで欲しいものだ。

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「TOKYO SILHOUETTE」

ぼくがまだ若かりし、22歳前後の頃だったでしょうか?

レコードデビューなんぞを夢見て、縁のあった東京の事務所に籍を置いていたことがありました。

当時のぼくは蒲田にあった友人の実家と、道路一本隔てた5.5畳一間のアパート暮らし。そこから毎日京浜東北線と山手線を乗り継いで、事務所のあった原宿まで通ったものでした。

そんな頃、名古屋のC局で水谷ミミさんが深夜番組を担当されており、ぼくも週に一度その番組に出させていただいておりました。

中でも「電話deデート」だったかのコーナーでは、スタジオのミミさんとぼく、そしてリスナーさんが電話越しに加わり、ショートショートのラジオドラマを演じるというものがありました。毎週ミミさんから、おおよそのドラマのお題をお聞きし、それをドラマ仕立ての台本に仕上げたものです。ところがそんな昔は、PCはおろか携帯メールもあろうはずもなく、すべて手書きです。ましてやまだまだFaxも一般には普及する前でしたから、リスナーさんに台本を電話で伝え、それをリスナーさんが筆記して、それをぶっつけ本番で演じるという、今考えたら恐ろしくなるほどの展開でもありました。

そのC局さんのラジオ生放送に出させていただいていた関係で、毎週東京駅から新幹線に乗り、名古屋へと通ったものでした。

そんな頃に出来たのが、この「TOKYO SILHOUETTE」でした。

今日はまず弾き語りで、「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

「TOKYO SILHOUETTE」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

君のこと忘れない 受話器越しに言い捨てたら

缶ビールポケットに 北へ行く汽車に乗る

 この広い街の中で 君だけが見えなかっただけさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

君のこと忘れない 輝いた日々をありがとう

缶ビール飲み干して 甘い夢握り潰す

 君は今もこの俺の 心の街東京そのものさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 窓越しに今は消えてしまえ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 少し君が気がかりさ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE 見納めに軽く手を振るよ

黄昏のTOKYO SILHOUETTE Good-by 君の東京City

続いては、ラジオの深夜放送でもよく流しておりました、センチとの「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

そしてこちらも深夜放送でよくお聞きいただきました、ヤマハスタジオミュージシャン版の「TOKYO SILHOUETTE」もお聴き比べいただければ何よりです。

そしてこちらは、昔のカセットテープから発掘した、一宮勤労会館でのセンチとのライブ音源から、「TOKYO SILHOUETTE」をお聴きください。

★4月18日は、高山の井坂十蔵さんのお誕生日です。いつものようにささやかに、Happy Birthday~「君が生まれた夜は」でお祝いをさせていただきます。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「フルーツ味の歯磨き粉!」。初めてイチゴ味とかの、チューブ入りの歯磨き粉、と言っても本当の粉ではなく、クリーム状の物を買ってもらったときは、さすがに嬉しかったものです。だって煙草好きだった父は、細長い缶に入った煙草吸い用の歯磨き粉「TABACCO」でしたから、この世にこんなお洒落な歯磨きがあるもんだと驚いたものです。友達の中には、チューブ入りのチョコレート代わりに、食べちゃう輩もおりましたねぇ。皆々様はどんな歯磨きでしたか?

今回はそんな、『フルーツ味の歯磨き粉!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.14「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントは、和風のようですが、ちょっと違った魚料理です。でも本物の現地の魚が手に入りませんので、代表品を利用してみました。

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 76」

今日の「天職人」は、岐阜県美並村の「竿師(さおし)」。

長良の流れ腰に受け 囮(おとり)の鮎に穂先をまかす   胴に伝わる微かな当り 釣り名人と郡上竿         霞垂れ込む川面から 幾重も伸びる釣り人の影       長尺竿を岩場にかざし 我に釣果の誉れあれ

岐阜県美並村の二代目竿師、福手福雄さんを訪ねた。

「ポン、ポン、ポン」。何とも小気味良い音が、竿の継ぎ手から響いた。「この音が郡上竿の命なんやて」。福雄さんは真鍮が巻かれた継ぎ手を差し出した。

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釣り好きの初代、俵次(ひょうじ)は昭和の初め、関東の釣り客が携えた組み立て式の竿に目を留めた。そして直ぐに見よう見真似で竿作りを開始。戦争の影が忍び寄る中、今のような真鍮(しんちゅう)は手に入らず、継ぎ手には空き缶を利用した。「わしもわしも言うて、皆空き缶持参やって」。

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福雄さんも父に劣らず大の釣り好き。昭和25(1950)年、中学を上がると父と共に竿作りを始めた。「昔は鮎も値が張って、竿も売れて売れて!」。

禁漁期は竿作りで稼ぎ、解禁を待ち鮎釣りでもう一稼ぎ。十月初めからは竹切、十一月に入ると大きなトタン板の鍋に灰を入れ、竹の油取りに追われた。そして年の瀬を天日干しに費やし、年が改まるといよいよ竿作りの開始。

四間(約七.二メートル)物の五本継は、穂先-穂持ち-三番-二番-元台と組む。「早く出る竹は重い。逆に遅いと軽くなるんや。枝が三つ出た所で切り出すんが一番なんやて。あんまり竹も、みあいて(ひねて)まうと、しなりが悪なる」。半世紀を費やした、竹選びの目は厳しい。

管継ぎが定まると、真鍮版を何度も火で炙って真っ直ぐ伸ばし、二枚重ねで継ぎ手を取り付ける。次に絹糸を何度も竿に巻き付け、漆で留めて柄を描き出す。さらに元台には、藤蔓(ふじつる)が滑り止めに巻き付けられる。「一本の竿に、九百メートルも絹糸を巻いたこともあった。人が来ると、糸が弛んでまうで、店閉め切ってやらなかんて」。

福雄さんが、自慢の柄の入った竿を取り出した。飴色焼けした光沢の中に、幾何学模様のように巻き付けられた一本の絹糸が描く竿師の意匠。しばらくその美術品とも呼べる美しさに魅せられた。

元台に打たれる釣師の誉れとも言うべき「福作」の銘。「ほんでも使ってもらわな、何にもならん。所詮魚釣るための竿やでな」。何の気負いもなく、竿師はつぶやいた。

今ではカーボン製の竿が主流となり、一年に五十本の生産がやっと。「鮎釣りには、竹竿が一番。でも跡継ぐもんもおらんし、わしで終いや」。

店の前を悠然と流れる長良川。誰よりも長良の流れを愛し、釣りを愛した竿師二代。かつて生活を支えた道具は、美術品と見紛う美しさを手に入れ、やがて儚く消え入ろうとしている。

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「天職一芸~あの日のPoem 75」

今日の「天職人」は、愛知県豊橋市の「女釘師」。

お給料日はひと月で 父が一番偉い日だった        百円握ってスマートボール 母も渋々送り出す       両手に抱えた紙袋 卓袱台の上で店開き          お煎にキャラメル金平糖 父は得意げ赤ら顔

愛知県豊橋市のアサクラスマートボール、女釘師でもある店主の朝倉文子さんを訪ねた。

「ガラガラガラ」。店内のあちこちで、大きなビー玉がスマートボールのガラス板を転がる。試しに百円で挑戦。だがすぐには、うんともすんとも言わない。三秒ほどして、二十五個のちょっと大きめのビー玉が手元へと転がり落ちて来た。「あかんて!まっと左半分に玉を落とさんといかんじゃんねぇ」。前掛けをした文子さんが、台の向うから声を張り上げて笑った。

文子さんは生後間もなく、朝倉家の養女として迎えられ、女学生時代を名古屋で過ごした。しかし終戦間際の空襲で焼け出され、一家は文子さんの実父を頼り豊橋へと移り住んだ。

「戦後間もない頃にこの店借りて、野菜や果物に、かき氷も売っとっただぁ」。昭和23(1948)年、重三さんが婿入り。

それから二年後に、店を借りたいと浜松の男が訪れ、スマートボール店を開業した。「その人の息子が店番任されとったんだけど、売上持っては夜遊びばっか。とうとう一年もせんうちに店仕舞いらぁ」。結局文子さん夫婦が、そのままスマートボールの営業を引き継いだ。

当時は十円で玉が五個。バチンコ屋の大将の勧めで、遊技場組合に加盟し、出玉を景品や現金に換金した。「それが流行ってないだよ。だってパチンコは、玉が真っ直ぐ下に落ちてくけど、これは台が斜めだで、玉がなかなか落ちてけへんらぁ。だで売り上げだってちっとも増えんじゃんねぇ」。

やがてパチンコは手打ちから自動へ。最新のデジタル技術を取り入れ、射幸心を煽って我が世の春よとばかりの隆盛期へ。しかしそれとは裏腹に、スマートボールは衰退の一途を辿った。昭和60年頃には、スマートボールの台も製造が中止に。現存する二十六台が、薄れ行く昭和の名残を今に留める。

「もう全国でも、家と大阪通天閣の二軒だけらしいわ」。最新のコンピュータ制御によるパチンコとは違い、出玉の予測も立たず天候次第とか。

「もうやめようかと思いながらも、結局僅かばかりの年金まで景品代に注ぎ込んどるらぁ。でもやめたら呆けるかと思うじゃんねぇ」。文子さんは愛しそうに店内を見回した。

ついに最後の一個となってしまった玉を弾く。玉はゆっくりと盤上を転がり落ちながら、五と十五の当たり穴の上を行ったり来たり。思わせぶりな玉は、散々迷った挙句、五の当たり穴に吸い込まれた。

「釘師の腕がええで、そう簡単にようけ出る方へは入らんらぁ」。台の向うで女釘師はしてやったり。たった百円玉一枚の戯れ。緩やかな昭和半ばの時間が、心地よく流れていった。

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4/07の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

正解は、レンジでチンすればOKなマルチャンのきしめんを、フィットチーネに見立て、冷凍庫の使いかけで保存してありました、エビとイカに厚切りベーコン、そして湯がいたほうれん草をクリーム味に仕立てたのが、この「きしめんのなぁ~んちゃってシーフード・フィットチーネ~ほうれん草のクリームソース添え」です。

実はほうれん草をおひたし用に茹でた残りが、冷蔵庫に保存してありましたので、それをフードプロセッサーですりつぶしました。そして小鍋にすりつぶしたほうれん草と生クリーム、そしてコンソメと塩コショウに白ワインを加え軽く一煮立ちさせ、味を調えておきます。

厚切りベーコン、海老、イカと、おひたし用に湯がいてあったほうれん草の半分をバターソテーしておきます。

あとは、マルチャンのレンジでチンするだけのきしめんを加熱し、オリーブオイルを掛けて麺をほぐし皿に盛り付けます。

そしてバターソテーした具材を盛り付け、ほうれん草クリームソースを掛ければ完了。

きしめんのもっちりとした食感が、ほうれん草仕立てのクリームソースによく合い、バターソテーした具材ともベストマッチな一品となり、新緑の春が感じられるランチとなりました。

キリン一番搾りにも白ワインにもピッタリで、ついついランチタイムからグビグヒとやってしまいました。

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「天職一芸~あの日のPoem 74」

今日の「天職人」は、三重県鳥羽市の「海女眼鏡職人」。

磯笛響く石鏡(いじか)の浜に 海女舟揺れて鳥が鳴く   濡れた磯着で空見上げ 漁終え外す海女眼鏡        海女の眼鏡に映る景色は 陸(おか)では見れぬ竜宮城   白い磯着で禊して 海棲む神に無事祈る

三重県鳥羽市石鏡町の海女眼鏡職人、二代目の城山巳治夫(みちお)さんを訪ねた。

世界の海に認められた「海女眼鏡」。文字通り海女専用に開発され特許も取得した「城山式水中眼鏡」だ。「ここいら海女の本拠地みたいなもんやで。鳥羽の鉄工所に行っとった親父も、潜りが好きやってなぁ。二十五歳の時にゴムと真鍮に平面のガラス板を組み合わせて、発明したんがこれやさ」。巳治夫さんは、昔の氷枕を思わせる橙色のゴムに、金色の縁取りのある水中眼鏡を取り出した。

ちなみに昔の海女用水中眼鏡は、ニッケル製でレンズが丸く膨らみ、一人一人の海女の顔型に合わせると言う難儀な代物。その難点を改良し、巳治夫さんの父が試行錯誤の末に発明した。

毎日の重労働で、最盛期の海女は顔が細る。それを見越した微調整の機能と、海底から水面が見やすくする工夫も取り入れた。海女の本拠地ならではの細かな気配り。それが口伝となり、全国各地の海女から注文が殺到した。最盛期には年間千個も出荷。とは言え、全ての部品を手作りで組み立てるから大変だ。ガラスを丸く切り出し、枠用の真鍮が弧を描くように曲げて叩き出す。鼻の部分のゴムを削り、小物金具と紐ゴムを取り付ける。「設計図はじぇ~んぶ頭ん中や。木槌も手製やし、なんぼでも出来るわ」。

中には度付きの特製海女眼鏡の注文もあった。さらにはオーストラリアの木曜島やハワイからも注文が寄せられたとか。「そんでもなぁ、とにかく丈夫に出来とるで、海女さんらの方が早うに亡くなるんやさ」。巳治夫さんが冗談交じりに笑った。

巳治夫さんは四男坊として誕生。終戦間際には予科練を志願した。そして復員すると漁船の機関士を経て、父の跡を継いだ。

「なんや爺やん、ここやったんか」。五十年前、巳治夫さんに嫁いだ、現役海女の千代子さんがやって来た。半世紀の間、夫はコツコツと海女眼鏡を作り、妻は夫が作った眼鏡を着け海へと潜り、立派に三人の子を育て上げた。「もう今日び、海女になる人がおらんでなぁ」。夫の言葉に千代子さんもうなづいた。

「もう今し、作っても年間で二百個ほどや」。それでも海に身一つで命を張り、大自然の恵みを糧(かて)とする、逞しい素潜りの海女に愛され続ける城山式水中眼鏡。「まんだ材料はこんなに仕入れたるんやさ」。巳治夫さんは、真鍮の束を重そうに引き摺り出して笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 73」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「切花職人」。

生家の庭の片隅で 今年も忘れず咲く花は         床伏す母の目の保養 幼い娘と植えた秋桜         蕾の開花待ち侘びて 母は静かに旅立った         墓前に手向けた秋桜が 行く秋惜しみ揺れている

岐阜県大垣市で創業百年を越す、西田花店に勤める水野芳子さんを訪ねた。

「求人の貼り紙見てからもう三十二年(平成十五年十一月二十九日時点)。花の勉強からお勝手仕事に花嫁修業まで教わり、おまけにここからお嫁に出してもらって」。芳子さんは感慨深げに語りだした。

芳子さんは昭和27(1952)年、北海道の十勝平野の農家に生まれた。「母は花が大好きで、家の周りは四季折々の花でいっぱい」。

しかし小学五年生の年、大好きな花に囲まれ母が他界。幼い弟妹の面倒を見ながら、父と農作業に明け暮れた。そして北海道生まれの母が亡くなり、父の故郷であった岐阜県養老町へと移住。十八歳になった芳子さんは、大垣市の紡績会社に勤め家計を支えた。「でも毎日同じ仕事の繰り返しばかり。息が詰まっちゃって」。広大な北の大地の大らかさが恋しく感じられた。

翌年春、店先にあった求人の貼り紙に、買い物帰りの足が止まった。そのまま西田花店へ入社。住み込み生活が始まった。「これで毎日、大好きな花に囲まれる」と意気込んだものの、一年間は先代のお婆ちゃんに付き、お勝手仕事と花嫁修業の手習いばかり。二度目の春が巡って来ると、大好きな花が彩を添え芳子さんを迎えた。

花市場から荷が到着すると、余分な葉や棘を取り、水揚げや湯揚げで花に新たな命を与える。牡丹などの特殊な花は、根元を火で炙り真っ黒に焼いてから冷水に。一度は摘み取られた命が、切花職人の手により見事に蘇る。

昭和53年、長野県出身のご主人勝さんと結婚。先代のお婆ちゃんは、まるで我が子の晴れ姿でも見るような想いで、白無垢に打掛姿の芳子さんを送り出した。「滝のような、三段組のキャスケードブーケも自分で作って」。花屋で嫁入り支度を調え、手製のブーケを携える。花嫁を「花の嫁」と呼ぶに相応しい門出であった。

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しかし中々子宝に恵まれず、七年目にしてやっと一人息子を授かった。「家族の縁が薄いのかなあ?でもその分、この店の人たちが家族みたいに温かくて」。忙し気に立ち働く同僚を、芳子さんは見つめた。

「福寿草が好き。だって一生懸命に咲いてるでしょ」。まるで愛しい我が子の様に、切花に新たな命を授ける切花職人。

店先の花に癒された三十二年前。まるであの日の花の心に、報いるかのようだ。

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「Friday Walking きまぐれ Shot!~もしや貴人がお忍びで?鄙びた酒場がご本陣?」

新型コロナの影響に伴う緊急事態宣言下で、夜の居酒屋などには、休業の貼り紙が見かけられました。

そんな中、締め切ったシャッターの前に、こんな歓迎看板が!!!

「水戸黄門ご一行様」に「徳川家ご一行様」、そして「尾張宗春ご一行様」とあるじゃないですか!

尾張宗春とは、おそらく尾張徳川家第七代当主の徳川宗春公の事でしょうが。

こんな貴人方がこの小さな居酒屋で鉢合わせとは・・・。これまた如何に!

しかも水戸黄門様である徳川光圀公の世は、江戸時代前期のこと。徳川宗春公の世は、江戸時代中期であり、仮にこの店が掲げる歓迎看板が事実であるとすれば、ここはこの世ではないあの世かと(汗)

それに徳川家ご一行様とありますが、徳川を名乗る親藩まで含めると、大変な人数であったことでしょうから、これまた無理が・・・。

なんとも理解不能に陥りましたぁ・・・。

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