今日の「天職人」は、岐阜県坂祝町の「雛鑑別師」。
雪洞浮かぶ桃の宵 夜店賑わう浅い春 裸電球燈されて ピヨピヨピヨと雛の声 黄色い産毛あどけない 小さな命の大合唱 「どれが卵を産むかしら」 娘の問いに苦笑い

岐阜県坂祝町の雛鑑別師、木村秀雄さんを訪ねた。

「四十年ほど前(平成十六年二月二十八日時点)は、海外行って一年鑑別したら、家が一軒建ったほどやて」。孵化場の入り口で、靴底を消毒しながら白衣姿の秀雄さんが笑った。
「外国へ行きたて鑑別師になったんやて」。地元の農林高校を出ると直ぐ、可児市の孵化場に就職。鑑別師を夢見、下働きを続け二十一歳で孵化場を辞し、鑑別師養成所へ入所。
明けても暮れても雄の雛鳥の首を、小指と薬指で挟み、親指と中指で保定し、肛門を睨み続けた。雄にしかない麻の実のような突起を観察するためだ。その甲斐あって五ヶ月後、普通鑑別師の資格を取得。ついに孵化場に鑑別師として入社。夜毎仕事を終えてから、より高度な練習を積み、岐阜県下八人という高等鑑別師の資格を取得した。九割以上の正確さが求められる海外考査にも合格。二十五歳で念願の海を渡った。

旧西ドイツを起点に、オランダ、ベルギー、フランスを股に掛け、三年間ヨーロッパ各地で鑑別に取り組んだ。そして一旦帰国し、再びスウェーデンへ。「そりゃもう、ホテル暮らしの豪華な生活やったって」。
大正時代末期、東京帝国大学教授の増井清獣医学博士等によって研究が始まった、初生雛鑑別技術は、昭和2(1927)年にカナダで開催された第三回万国家禽(かきん)会議で発表され、世界中の注目を集めた。そして昭和7年には、鑑別の信頼性が100%に達した。途中、戦争で一時中断したものの、世界中から鑑別師派遣が要請され、戦後は外貨獲得の花形産業の一翼を担った。
秀雄さんは二十九歳で妻を迎え、翌年妻と誕生間もない長女を伴い、再びスウェーデンへ。「まあ家族三人、海外旅行気分やて」。

しかし昭和も五十年代後半になると、鑑別技術が各国に普及し、海外からの派遣要請も次第に減少した。現在秀雄さんは岐阜県に腰を据え、二ヶ所の孵化場を受け持つ。
「生後四~五時間の雛が、一番見分けやすい。でも一日に八千羽もやっとると、途中でフッと気が抜けてまうんやて」。確率は99.5%とか。
一年に二百万羽。三十年以上雛鳥の尻ばかりを見続けたベテラン鑑別師が照れ臭げに笑った。

世界中を震撼させた鳥インフルエンザ。誰よりも騒動の鎮静化を祈る鑑別師の指先は、一羽二.五秒の神業的な正確さで雌雄を選り分けた。
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