「天職一芸~あの日のPoem 85」

今日の「天職人」は、岐阜県坂祝町の「雛鑑別師」。

雪洞浮かぶ桃の宵 夜店賑わう浅い春           裸電球燈されて ピヨピヨピヨと雛の声          黄色い産毛あどけない 小さな命の大合唱         「どれが卵を産むかしら」 娘の問いに苦笑い

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岐阜県坂祝町の雛鑑別師、木村秀雄さんを訪ねた。

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「四十年ほど前(平成十六年二月二十八日時点)は、海外行って一年鑑別したら、家が一軒建ったほどやて」。孵化場の入り口で、靴底を消毒しながら白衣姿の秀雄さんが笑った。

「外国へ行きたて鑑別師になったんやて」。地元の農林高校を出ると直ぐ、可児市の孵化場に就職。鑑別師を夢見、下働きを続け二十一歳で孵化場を辞し、鑑別師養成所へ入所。

明けても暮れても雄の雛鳥の首を、小指と薬指で挟み、親指と中指で保定し、肛門を睨み続けた。雄にしかない麻の実のような突起を観察するためだ。その甲斐あって五ヶ月後、普通鑑別師の資格を取得。ついに孵化場に鑑別師として入社。夜毎仕事を終えてから、より高度な練習を積み、岐阜県下八人という高等鑑別師の資格を取得した。九割以上の正確さが求められる海外考査にも合格。二十五歳で念願の海を渡った。

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旧西ドイツを起点に、オランダ、ベルギー、フランスを股に掛け、三年間ヨーロッパ各地で鑑別に取り組んだ。そして一旦帰国し、再びスウェーデンへ。「そりゃもう、ホテル暮らしの豪華な生活やったって」。

大正時代末期、東京帝国大学教授の増井清獣医学博士等によって研究が始まった、初生雛鑑別技術は、昭和2(1927)年にカナダで開催された第三回万国家禽(かきん)会議で発表され、世界中の注目を集めた。そして昭和7年には、鑑別の信頼性が100%に達した。途中、戦争で一時中断したものの、世界中から鑑別師派遣が要請され、戦後は外貨獲得の花形産業の一翼を担った。

秀雄さんは二十九歳で妻を迎え、翌年妻と誕生間もない長女を伴い、再びスウェーデンへ。「まあ家族三人、海外旅行気分やて」。

しかし昭和も五十年代後半になると、鑑別技術が各国に普及し、海外からの派遣要請も次第に減少した。現在秀雄さんは岐阜県に腰を据え、二ヶ所の孵化場を受け持つ。

「生後四~五時間の雛が、一番見分けやすい。でも一日に八千羽もやっとると、途中でフッと気が抜けてまうんやて」。確率は99.5%とか。

一年に二百万羽。三十年以上雛鳥の尻ばかりを見続けたベテラン鑑別師が照れ臭げに笑った。

世界中を震撼させた鳥インフルエンザ。誰よりも騒動の鎮静化を祈る鑑別師の指先は、一羽二.五秒の神業的な正確さで雌雄を選り分けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 84」

今日の「天職人」は、愛知県小坂井町の「布団綿入れ職人」。

親許離れ初めての旅 修学旅行胸躍る           古都の名刹数あれど 枕ぶつけが待ち遠しい        狸寝入りも束の間だけで 枕一つで大騒ぎ         教師の渇で静まれど 枕違いで寝付かれぬ

愛知県小坂井町の昭和4(1929)年創業の、丸文中村ふとん店、三代目の綿入れ職人、中村重蔵さんを訪ねた。

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「昔の人らにとって、布団はひと財産だぁ。今でもおとましい(もったいない)って、戦前の布団を打ち直しに持ってくるらぁ」。重蔵さんは、打ち直し前の弾力を失った綿を取り上げた。

重蔵さんはこの家の長男として誕生。「店は弟に任せるつもりで、元々継ぐつもりはなかっただ」。大学へ進学し、農学部で育種を専攻。奈良県の農業試験場で園芸用苺の栽培に従事。しかし三年後。弟が店から独立し、止む無く家業を継ぐ決心を固めた。

二年に及ぶ見習い修業を終え、静岡の布団屋を後に店へと戻った。それまで店の綿入れを一手に取り仕切っていた叔母が、高齢のため引退したからだ。

打ち直しの場合、綿生地を検めて製綿機でほぐしながら、新しい綿を加える。次に布団生地の中に綿を重ね、耳を整えながら中心が舟形を描くよう丸く高く盛り付け、全体を仕上げ綿で覆う。「そのあと口の開いた生地をくける(縫う)らぁ。そうして袋状の中の綿を慣らして、移動せんように生地と綿を一緒に縫い込んで閉じるだ。

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座布団なんかは、手前から見ると真ん中が『人』って言う字になるように閉じるじゃんねぇ」。最後の仕上げは、綿が逃げず偏らぬよう、四隅の耳に房を取り付ける。「木綿は重たいが、吸湿性に優れとる。だけどお年寄りは軽い方がええで、ポリエステルの綿を芯にしたり。人それぞれの好みを聞いて打ち直さんとかんだぁ」。

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綿と一口に言っても、原産地と用途によって異なる。敷布団には、繊維が太く短めのインド・アッサム地方の手摘み綿。掛布団には、繊維が細長く肌着(はだつ)きの良い、アメリカやメキシコ産が最適とか。「いい綿は、五十年経っても変色一つせんだ。だもんで昔の人は、布団を財産のように大切にしたんだらぁ。綿は打ち直せば、四~五回は生き返るだで」。

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大地に根を張り、実を結ぶ綿は、摘み取られた後も、暮らしの中で息づく。

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「今や不況産業だで、年々手作り布団の専門店も店じまいだぁ」。人生の三分の一は布団の中。その土地の気候を熟知し、心地良い眠りを誘う綿入れ職人。しかし大量生産の影が、ここでもまた一つ伝統の技を蝕んでいるようだ。

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「ありがとうエミリー」

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夕暮れの空港が、ぼくは好きでたまりません。それはテイクオフでもランディングであっても!

特にランディングの時は、空港を取り巻く街の明かりが、散りばめられた無数の宝石のようで。機体が徐々に高度を落とし、飛行場に規則的に並ぶアプローチ・ライトを目にした時は、その美しさに見とれてしまう程です。

逆に夕暮れ時に、テイクオフしてゆく機体を眺めていると、もの悲しさを感じてしまうのはなぜでしょう。黄昏に吸い込まれるように舞い上がってゆく機体。地上には無数の誘導灯だけが、いつまでももの悲しく瞬いているようで。

ぼくは列車も駅も好きですが、それ以上に飛行機や、各国様々な空港の雰囲気が好きでなりません。

30何年か前。あの尾翼にチューリップのシンボルマークが描かれた、ユナイテッド・エアでニューヨークのジョンFケネディー空港に向かったことがありました。

ちょうどビック・アップル上空に差し掛かったのは夕暮れ。窓から煌びやかで巨大な街明かりが眺められ、この世のものとは思えぬほどの美しさに、つい固唾を飲んでいたものです。

機体がビック・アップル上空で、着陸の指示待ちか、何度か旋回を続けていた時、機内に耳馴染みのある曲が流れ出したのです。

そうです!あのクリストファー・クロスの名曲、「ニューヨークシティー・セレナーデ」だったのです。もう全身鳥肌状態!実に記憶に残る、ワンダフル・フライトでした。

今日はそんな夕暮れの空港が舞台の、「ありがとうエミリー」をまずは弾き語りでしっとりとお届けしたいと思います。

「ありがとうエミリー」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

夕闇を引き裂いて 舞い上がる君を見てたAir Port

また逢えるね覚えたての 言葉を君は置き忘れた

 See you again エミリー 結ばれるすべてが 愛だとは限らないよ

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君が去った南の空 一筋の星が流れ消えて行く

語り尽くせぬ幻だけ 遠ざかる距離埋め尽くす

 See you again エミリー 力ずくで君を 奪い去ってしまえたなら

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君の声 君の笑顔 君の涙 君のぬくもり

 See you again エミリー 結ばれるすべてが 愛だとは限らないよ

 Good by my エミリー 生まれ代われたなら もう君を離さないよ

君の声 君の笑顔 君の涙 ありがとうエミリー

続いてはやっぱり30年近く前にレコーディングしたものを、CDに再集録いたしました「ありがとうエミリー」です。ぜひお聴き比べください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「春祭りのお楽しみ!」。本来ならば、昨日一昨日は、飛騨古川起し太鼓と古川祭でしたが、新型コロナの影響で、残念ながら中止となってしまいました。見えない敵のウイルスには、さすがの古川やんちゃといえども、太刀打ちが出来そうにありません。それはそうと、子供の頃こんな時期には、各地でも小さくても春の祭礼が行われ、子供ならではの春祭りのお楽しみもあったものです。ぼくは中でも、地元の祭礼の直来だったのか、子ども会だったかからもらえるベッコウアメの板飴が、楽しみでならなかったものです。長方形の薄っぺらな、ベッコウアメには型抜き状で動物が描かれ、周りの飴を舐めたり割ったりしながら、型押しされた動物を抜き出そうと試みたものです。ところがどっこい!あと少しでっと言うところで、パキッと割れてしまって悔しい思いをしたものです。皆々様の春祭りのお楽しみは、どんなことだったでしょうか?

今回はそんな、『春祭りのお楽しみ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.21「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

ヒントと言うよりも、写真上部の緑色のこんもりとした、付け合わせの上にある角のようなものは、決して八墓村とかをイメージしたものではありません。脂身の甘みが特徴の、長野県飯田市はハヤシファームが育てた、生後210日の雌豚、Honey Babeをアレンジして見ました。これまたキリン一番搾りがグビグビと進んでしまう、相性の良い酒の肴となりました。

さあ、頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 83」

今日の「天職人」は、三重県津市の「削り節職人」。

おっちゃん削った鉋屑(かんなくず) 何でそんなにええ匂い                           思わずうどん喰いとなる 黒い棒切れ何の木や       そないな魚あるかいな 子供騙して面白(おもろ)いか   少し摘んで喰うてみよ 出汁がジュワっと口ん中

三重県津市の「鰹節きよしや」へ、削り節職人の山下清さんを訪ねた。

「芯まで飴色しとる近海もんが、最高にええ出来の本節やさ」。清さんが拍子木ほどの大きさをした、背節を取り出した。

三重県大王町の波切で生まれ、母の勧めで削り節職人の修業へ。

新鮮な生鰹を仕入れ、頭・骨・血合いを取り除き、背割りで二分、背と腹も二分し四つに切り分け、下から火を入れ十分に乾燥させる。日陰で十五日間寝かせ、青い粗目の一番黴を付け、丸一日天日に晒す。そして再び十五日間、日陰で二番黴を付着させ、また天日干し。さらに十五日間、今度は細かい茶褐色の三番黴が付くまで、延べ五十日間作業を繰り返す。「煤けて真っ黒んなった本節を、小刀で滑らかな肌になるまで削ったるんさ。そん時の滓もええ出汁出るんやで」。黴付けから煤の削り落としまでが、削り節職人の腕の見せ所。

清さんは三年の修業を終え、四国へと渡った。「電気関係の仕事が好きやってさ、発電所に勤めましたんさ」。そして一年後郷里へと戻ると、役場から赤紙が届けられた。「まぁ、母が泣いて泣いて」。同県久居市の連隊で三ヶ月間の俄か教育を受け、中国の最前線へ送り出された。「なともならんわ。毎日毎日、人殺しばっかり教えよって」。昭和17(1942)年、内地に無事復員。「このままやとまた招集される言うて、嫁を世話されて海軍工廠に入ったんさ」。同郷のきみえさんを妻に迎え、戦闘機製造に従事し終戦を迎えた。

「この店は戦後間もないころ、ぜんざい屋やったんさ。一杯喰うたろ思て店入ったら、今日で店仕舞(しも)て四日市の人に売るんやと。そんでわしがな『こないな時代に誰が買いに来るもんかさ。まあ、あかなんだらわしが買(こ)うたろ』って、啖呵切ってもうてな」。そしたらその晩、ぜんざい屋が清さんを訪ねて来た。「あんたがゆうた通りやったわ。さあ買うとくれ」と。清さんはなけなしの金を搔き集め、食料品店を開業した。

昭和25(1950)年、鮮魚類の統制廃止を待って、鰹節専門店に鞍替えした。品揃えは、鰹の本節、二つに割いた小振りの亀節、銀ムロ節、ムロ節、鯖節、メジカ節。板場の職人用から家庭使いまで、削り節の混合配分は、清さんの目利き一つ。「所詮化学調味料では、絶対真似出来やん」。

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海の豊かな恵みに囲まれて、この国独自の進化を遂げた鰹節。天然素材の旨味を完全に封じ込める、頑なな古来の製法故に成し得る逸品。

八十路半ばの職人魂から、削り節に勝るとも劣らぬ、味わい深い人生の出汁の香が漂った。

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「天職一芸~あの日のPoem 82」

今日の「天職人」は、岐阜県上之保村の「村の駐在さん」。

社に続く石畳 色取り取りに夜店が並ぶ          金魚掬いに水風船 キラキラ光るリンゴ飴         母からはぐれ泣き出すと 誰かの肩に抱き上げられた    母さんいるかそう問うて 駐在さんが微笑んだ

岐阜県上之保村の駐在所へ、巡査部長(平成十六年二月七日時点)の水谷保住(ほずみ)さんを訪ねた。

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「中二の頃やったわ。テレビドラマの『刑事くん』に憧れたんやて」。保住さんは、窓から茜色に染まった山並みを眺めた。

保住さんは、同県白鳥町生まれ。地元の中学を上がると、片道二時間も離れた高校へと進学。柔道で汗を流しながら、見事皆勤賞で卒業し、警察学校へと進んだ。

そして翌年春、夢にまで見た憧れの真新しい制服に袖を通し、中津川警察署管内の派出所に着任。巡回連絡の傍ら、事件・事故現場へと駆け付ける日々を送った。

昭和59(1984)年。二十七歳になった保住さんは、関警察署の刑事課捜査一係に配属され、強行犯・盗犯事件の捜査を担当。テレビに釘付けとなった「刑事くん」から、十三年目の晴れ姿だった。

それから程なく殺人事件が発生。「ちょうど内勤の宿直日やったんや。すると民家の敷地に不審者がおると110番通報が入ったんやて。でも当時はまんだ今みたいに、物騒な時代やなかったし、内勤やったで拳銃も携帯しとらなんだ。同僚と二人で警棒と警杖(けいじょう)を持って現場へ急行したんや。現場に駆け付けて見ると、体中全身血塗れの男が、目の前で包丁構えとった。エイッとばかりに警杖でタマ(被疑者)を取り押さえ、その場で緊急逮捕やて」。

保住さんは翌月、関市の農協に勤めるゆきえさんと結ばれた。金融機関への警邏中(けいらちゅう)、こっそりゆきえさんを見初めたのだとか。そして翌年には長女が誕生。「とにかく不規則な仕事やで、娘の寝顔しか見たことないもんで、非番の日に娘を抱いても、目付きも悪いで直ぐに泣かれるし・・・」。

平成10(1998)年春、上之保村の駐在所に着任。以来、毎年の家族旅行も見合わせた。「警察の仕事は、いつあるか予定が立たんで心配なんや。この村のことが!だって駐在は二十四時間、コンビニみたいなサービス業やで」。警官という職務を、己が天職と奉るかつての柔男(やわらおとこ)が大きく笑った。「わしな、草刈りが趣味なんや。ほんだで非番の日は、一人暮らしのお年寄りの家で、防犯も兼ねて草刈ったり雪掻きしてやったりしとんや」。

刑事時代は同級生からも、目付きが鋭いと指摘される始末。しかし今では、村人から気さくに「駐在さん」と呼ばれるのが、何よりの誉れだとか。「警邏から戻って来ると、ようけこんなん置いといてあるんやて」。新聞紙に包まれた採れたて野菜に照れ笑い。

その眼光の先には、かつての鋭さが消え、日々村の安寧を願う、「駐在さん」の優しさが滲み出ていた。

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4/14の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「鯉魚門(レイユームン)の石斑(セッパン)ならぬ!なぁ~んちゃって鯉魚門風メカジキの炒め煮」

皆々様からも、非常に正解に近い回答もお寄せいただきました。ありがとうございます。

昨年7月の夏休み。まだ民主化デモも、新型コロナウイルス騒動も無かった、平穏な香港に旅した折。かつて友人のリーさんご夫婦に、よく連れて行ってもらった鯉魚門を訪ねました。

こんな小さな港町に魚屋さんとレストランが犇めいています。

しかしその折は、リーさんご夫婦とお目に掛れず、従って広東語もさっぱりわからぬまま、魚屋の水槽を覗き込んでは、身振り手振りで石斑と思しき魚を購入。

とにかく新鮮です。

そして昔リーさんご夫婦とお邪魔したレストランに魚介類を持ち込み、これまた身振り手振りでぼくが希望する調理法を伝え、何とかかんとか熱望した石斑を食べることが出来ました。

夢にまで見た「石斑」
ご飯の上にのせていただくのが醍醐味

先日無性に石斑が食べたくなったものの、折からの外出自粛要請もあり、冷凍庫内を見渡してみました。

すると特売の日に買い込んで、冷凍してあったメカジキを発見。しかしハタ科の石斑のようにちょっとネットリとした脂分の少ないメカジキですから、蒸した石斑を炒め煮する手法では、メカジキの身が締まってパッサパサになっては身も蓋もないと思い、苦肉の策で編みい出しましたる作品がこの、「鯉魚門の石斑ならぬ!なぁ~んちゃって鯉魚門風メカジキの炒め煮」です。

作り方は超簡単!フライパンでサラダ油を熱し、ニンニクの微塵切りと千切りショウガで香りを立て、解凍したメカジキを焼きながら、手早く醤油、味醂、紹興酒でちょっぴり濃いめに味を調え、最後にごま油を加えて炒め煮、皿に盛り付けます。

その上から白髪ねぎと千切りショウガ、そしてパクチーの代わりに三つ葉を載せ、炒め煮た煮汁を上からたっぷりと振りかければ完了。

もし蒸したハタを使っていれば、ハタ自体の脂分が解け出ますから、ごま油は必要ありません。

まあ確かに、魚の種類が違いましたから、本場の石斑とは似て非なるものとなりましたが、味付けは非常によく似て出来上がったと思います。

ぼくは丼鉢のご飯の上に乗せ、よく冷えたキリン一番搾りでぷっはぁといただきました!

「天職一芸~あの日のPoem 81」

今日の「天職人」は、名古屋市瑞穂区の「三味線皮張師」。

鄙びた家並三味の音響く 名残伝える花街通り       宵の座敷が掛かるまで 端唄にのせる撥捌き        宵に花咲く花街あたり 粋な芸妓がシャナリと歩み     白い項も艶やかに 照れて隠れる朧月

名古屋市瑞穂区の浅田屋三味線店、六代目皮張師の井坂繁夫さんを訪ねた。

「母は名妓連(めいぎれん)の芸妓で、笛専門。叔母もやっぱり芸妓で、小さい頃から三味線や笛の音を子守唄代わりに育ちましてね」。繁夫さんは渦高く積み上げられた、三味線の胴を背に笑った。

江戸末期。浅田屋三味線店は、加藤仙右衛門改め常吉が創業。二代目が浅田屋で修業し、暖簾分けで屋号を浅田屋に。しかし三代目の早逝で、年端も行かぬ四代目は、叔父の故山田隆利に五代目を譲った。

繁夫さんは、隣で暮らす母の姉の夫であった五代目を、父親代わりに育った。「高校を出て直ぐ、何のためらいもなく、親父の下で修業を始めてました」。

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三味線は、「棹師」「胴師」「張師」による分業制。張替えの場合、胴が割れぬよう紐を掛け、破れた皮を剥ぎ糊を落とす。次いで、弾き手の特徴を思い描きながら、皮を吟味し水に浸した布巾で数分湿らせ、肉眼では見えない薄皮をニベと呼ぶ紙で擦り落とす。そして寒梅と呼ぶ糊粉を胴に塗り、巨大な洗濯挟みを模した木栓(きせん)で張り伸ばす。さらに弾き手の好みの音を脳裏に浮かべ、木栓の上から紐を掛け、台座に木製の楔を打ち込み張り具合を補正する。

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さらに微妙な鳴り具合は、モジリと呼ばれる象牙の棒で、紐の締まりを調整。温風器の前に立てかけ、二時間前後乾燥させる。奏者がいつどこの舞台で、演目は何かまでを考慮し、その舞台に相応しい状態で鳴るよう乾燥具合を調えるのだ。「特に歌舞伎座は、乾燥がきついんですわ(平成十六年一月三十一日時点)」。

現在、文楽の太棹奏者は十五人。その皮張を引き受けられるのは、日本に唯一人、繁夫さんしかいない。

「演目と弦の高さを調整するコマを『二匁八分で』と、たったそれだけの注文」。まさに奏者と張師の信頼と、阿吽の呼吸だけが唯一の頼り。

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修業が始まってから十年を迎えようとしていたある日。文楽三味線の人間国宝、六代目鶴澤寛治師から電話が入った。「『これ、ぼくが張ったでしょう。若いから力一杯に張って、強弱がちょっと足りないねぇ。でも良く鳴るよ』って。それまでは親父が張ってましたから、でもその一言で自分の未熟さを知ったと同時に、自信もいただけて。粋な計らいでした」。

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今はそれぞれに、伝統を受け継いだ七代目の奏者と、六代目の張師が、日本の音曲を後世に伝える。

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「天職一芸~あの日のPoem 80」

今日の「天職人」は、三重県二見町の「酒素饅頭職人」。

縁に面した硝子窓 長閑小春日忍び込む          お炬燵(こた)の舟を肩で漕ぐ 老船頭の夫婦舟      幼い頃の楽しみは お炬燵で剥いた蜜柑の香        七輪炙る酒饅頭 若き日父母の笑い声

三重県二見町で大正2(1913)年創業の、旭家酒素饅頭三代目女将の晝河(ひるかわ)笑子さんを訪ねた。

磨き込まれた引き戸を開けると、ほんのりと酒の香が鼻先をくすぐる。「昭和も30(1955)年頃から大阪万博の頃まで、ここらあはよう賑わいましてな。気が付くと客が、広間に上がり込んどるほどやったんさ」。笑子さんが往来を眺めた。学校帰りのランドセル姿が、ふざけ合って屈託のない笑い声を上げながら通り過ぎて行く。

同町生まれの笑子さんは、十六歳も年上の三代目饅頭職人の久男さんの元へと、十八の娘盛りに嫁いで来た。「せやけど祝言は、戦時中やったでモンペ姿で嫁入やさ。当時は憲兵隊が目え光らせて五月蠅(うるそ)うてかなんで、見つからんよう夜遅うにわずかばかり親戚のもん呼んでな。それで固めの盃やったんやさ。何やまるでコソコソと悪い事でもしとるみたいで、味気のうてなぁ」。

当時は統制経済の影響で、小豆も砂糖も極端に不足し、何処も彼処も暖簾を下ろしていった。久男さんはわずかに背丈が足らず、徴兵検査に落ち銃後の守りとして国鉄に勤務。

「戦争も終わったで、先代が達者なうちに修業を積もう」と、昭和24(1949)年に国鉄を辞し、三代目を継ぐための修業が始まった。

まず何はともあれ、真夜中十一時頃から、酒素を一夜仕込みで寝かせ、翌早朝から蒸気が立ち込める中で饅頭を蒸し上げる。季節により酒素を寝かす時間も、蒸し加減も微妙に異なり、饅頭一つ一つに職人が命を吹き込む。「昔の人らは、お伊勢さんと二見の興玉さんでお詣りして、夫婦岩拝んでから、家の饅頭を買(こ)うて帰るんが愉しみやったんさ。この饅頭食べて大きいなっていかれた方は、今でもわざわざ立ち寄ってくれるほどやに」。

昔と何一つ変わらぬ手法で、大正の味をそのまま今に受け継ぐ。翌日には餡子を包む薄皮が固くなるのも、酒素饅頭ならではの特徴だとか。それこそ昔なら、七輪の上でさっと炙るだけで、何とも芳ばしい皮の焦げる匂いと、仄かな酒の香が立ち込める。

「『自分が旨いと思えんような饅頭は、絶対にお客さんに売ったらあかん』ゆうて、息子は毎日二~三個ずつ、『家の饅頭は日本一や』言うのが口癖なんさ」。笑子さんの笑い声に混じって、玄関口から「ハ、ハッ、ハクション!ああっ、誰ぞ噂しよったな」。四代目を継いだ大の餡子好き、智也さんのお帰りだ。笑子さんが息子を背にしてこっそり笑った。

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「天職一芸~あの日のPoem 79」

今日の「天職人」は、岐阜県関市の「桐箪笥職人」。

娘が生まれた祝いにと 庭先植えた桐の木は        泣いて笑って喧嘩した 想いの数だけ枝を張る       嫁入り話が決まった日 桐に礼述べ斧を振る        嫁入り箪笥に姿変え 娘の幸せ託す寂しさ

岐阜県関市の杉山タンス店、三代目桐箪笥職人の杉山弘さんを訪ねた。

「図面なんて頭ん中やで、どこにもあれせん。この検竿(けんざお)一本で、桐箪笥一棹(ひとさお)作っちまうんやで」。長めの胴縁(どうぶち)には、尺寸分の単位で三面に目盛りがビッシリと刻み込まれている。弘さんは使い込まれた検竿を繁々と眺めた。

杉山タンス店は、明治末期に弘さんの父が創業。「親父は最初、大阪で警官になったんや。でも『人に嫌われるで』いうて、直ぐに大工の見習いへ」。修業が身に付くと、これぞという箪笥を購入しては分解し、こっそり技術を盗み取って箪笥屋を開いた。「岐阜の箪笥は、作るのんも早いが、壊れるのんも早い。そこで親父は尾張の良さを取り入れたんや」。

やがて二代目を継ぐ長男と、二男坊の弘さんに恵まれた。しかし、そんなささやかな幸せを嘲笑うかのように、時代は戦争のうねりの中へと突き進んで行った。昭和18(1943)年、父が他界。そしてまるで後を追うように、二代目の兄がマリアナ諸島に散った。弘さんは悲しみに打ちひしがれる余裕も無いまま、各務原の陸軍航空工廠で戦闘機の整備に借り出された。

玉音放送と共に、貧しくも平安な日々が訪れ、父の一番弟子であった職人が箪笥屋を開業。弘さんはその職人の下で修業を積んだ。

そして若干二十三歳の若さで、父と兄の無念を晴らすべく、杉山タンス店を再興。それから五年、悦子さんを嫁に迎え二男一女を授かった。

一棹三年と言われる桐箪笥職人の多難な修業。砥粉(とのこ)と夜叉液(やしゃえき)で、独自の色合い出す最後の仕上げは、未だ弟子に明かすことのない秘伝の一つ。

「昔は娘が生まれると桐の木を植え、嫁入りの時に箪笥にして持たせたもんや。桐はええ木やて。金槌で叩いても元へ戻るし、ぶっつけた傷があっても蒸気吹きかけりゃあ元にもどるんやで」。弘さんは洗濯のために戻って来た、桐箪笥の引き戸を開けた。裏側には擦れた墨書で初代の銘が。「桐は水分の調節が上手く、衣類の湿度管理に最適。火事の時でも水を掛けてやれば、水を吸収してなかなか燃えません」と、四代目を継ぐ康弘さん。

初代が手塩にかけた戦前の桐箪笥に、往時を偲ばせる美しい柾目が蘇る。弘さんはまるで亡き父を偲ぶかのように、引き戸をそっと閉めた。

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