「天職一芸~あの日のPoem 90」

今日の「天職人」は、岐阜県明智町の「紙芝居師」。

童の声に導かれ 自転車劇場坂登る            村の鎮守の境内は 五円握った子らが待つ         太鼓と銅鑼の幕開けは 子供心を釘付けに         正義が悪を倒す度 手に汗握る腕白も

岐阜県明智町で「豆腐のつねさ」の異名を持つ紙芝居師、伊藤恒一さんを訪ねた。

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半ズボンにランニングシャツ。毬栗頭に草履履き。真っ黒に日焼けした少年が、触れ太鼓を打ち鳴らしながらお宮へと向かう。辻々から子供らが涌き出で、五円玉を握り締めたまま、紙芝居屋のオッチャンの後を追う。「こらぁ!ただ見したらあかん!」。前口上の途中、必ずオッチャンは大声を張り上げた。

そんな四十年近く前の記憶が、一人の柔和な老人の顔を通して、鮮明に思い出された。それが恒一さんだ。

恒一さんは尋常高等小学校を上がると、鉄工所へ小僧に出た。二十歳になると戦闘機の製造に従事しやがて終戦。戦後は職もなく、地元で木工作業に携わり、昭和25(1950)年に結婚。それから二年ほど、魚の行商で家族を支えた。

「子供の頃、農村歌舞伎をやっとったのが縁で、村の先輩紙芝居師に誘われたんや」。そして無声映画の活弁士に学び、紙芝居の配給元であった松竹や日活から、紙芝居のネタを仕入れ、毎日山道を二十㌔近くも自転車を漕いでは、瑞浪市や土岐市の駄知町まで営業に回った。

「日曜日やと一日で千円ほど稼げよった。平日やと学校が終わってからやで、三百~五百円ほどや」。当時は大工の手間賃が一日三百五十円。配給元に一ヵ月千五百円支払っても、優に稼げた時代だった。

大きな練り飴が一本五円、小さいのが三円。人気の出し物は、「黄金バット」「怪人二十面相」「鞍馬天狗」。いずれも続き物のため、子供らは連日目が離せない。

「そんなもん、毎日五円玉持って来る子は、裕福な家の子だけやて。後の子らはみんなこっそりただ見やわ」。恒一さんは、子供らの家庭の事情も汲み取り、一応大声でただ見を牽制するものの、後は見て見ぬ振りを決め込んだ。「みんな首に風呂敷巻いて、棒っ切れの刀振り回して」。子供らの喜ぶ顔が何よりの宝だった。

しかし漫画雑誌の発刊や映画の普及により、見る見るうちに紙芝居屋は街角から姿を消していった。

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恒一さんは見よう見真似で「豆腐のつねさ」を開業。家族を支え続けた。

それから四半世紀。大正村の発足に伴い、昭和の終わりを目前に、紙芝居師として六十七歳の年に再び返り咲いた。

「誰もが貧しかった。でも皆逞しく生きとった。ただただ、明日を信じてな」。穏やかに老紙芝居師が笑った。まるで昭和の残像を、額の皺に刻み込むように。

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「天職一芸~あの日のPoem 89」

今日の「天職人」は、名古屋市西区の「飴細工職人」。

田舎歌舞伎の触れ太鼓 幼子連れて楽屋を見舞う      お父さんよと教えても 足がすくんで泣き出す娘      時代がかった髷頭 白い襦袢に隈取顔じゃ         誰が見たって大悪党 こんな父親知らぬと叫ぶ

名古屋市西区の歌舞伎飴本舗、初代の神谷佐恵子さんを訪ねた。

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「ちょっと寸は足らなんだけど、これがまた中々の洒落もんやったって」。佐恵子さんは、夫であった春吉の遺影を見つめた。

愛知県知多市出身の初代春吉は、大須門前町の飴屋で奉公。昭和23(1948)年に同郷の佐恵子さんを妻に迎え、独立して店を構えた。

「まあ畳も入っとらんし、満足な屋根もない家やったわ。そんでも飴を作る端から、行商さんが裏から持っていきよった」。戦後の混乱が続く統制時代。人々は甘いものに生きる希望を託した。

翌年には長男の二代目、近藤博司さんが誕生。「今と違って、夜なんて他にやることもあれへんし、直ぐにこの子が出来ちゃった」。佐恵子さんが屈託なく笑う。すると隣で博司さんが釘を刺した。「またいらんこと、口に出す」。しかしそれもどうやら糠に釘。「そんでもあんたが産まれた言うたら、知多の実家まで満面の笑み浮かべて飛んで来たって!あんな嬉しそうな顔、見たことないわ」。

二年後、春吉の独創的な歌舞伎飴が、世に送り出された。人気の高い助六、暫(しばらく)などの隈取を、金太郎飴の要領で見事な細工を施した逸品。砂糖と水飴を火にかけ、冷ましながら食紅で着色し、隈取に必要な部品に仕分ける。それを海苔巻きの要領で、切り口が隈取を表すように組み立て、直径1.5㎝程の細さに引き伸ばし、1㎝程の幅に切り落とす。全てが手作業。しかし全国各地の歌舞伎小屋で飛ぶような売れ行きとなった。

博司さんは慶応大学へと進学。しかし家業の都合で中退を余儀なくされ、東京の菓子問屋に就職。「せっかく名古屋へ戻って来ても、家をつん抜けてまって嫁の家へ上がり込んどったらしい」。博司さんが思わず咳払いを一つ。六年間の交際を続け、妻久恵さんとの愛を育んだ。ところが久恵さんは近藤家の大事な跡取り娘。博司さんは婿入りを決意したものの、頑固一徹な父を前に心が揺らいだ。「この人、そんで胃に穴が開いてまったんだて」。母が大声で笑った。博司さんは悩みぬいた末、弟で工場長を務める和雄さんに打ち明け打開策を思案。結局、婿入りしても家業は継ぐという条件で、頑固親父を説き伏せたそうだ。

「今や海外の安い大量生産品に押されて・・・」。博司さんは、先代が歌舞伎飴に添えたという、隈取の意匠を表した栞を眺めた。

「敗戦後の子供たちを、甘いもんが勇気付けたように、いつの日かイラクへ行けたら、現地の子供らに飴を食べさせてやりたいわ」。佐恵子さんが風のようにつぶやいた(平成十六年四月三日時点)。

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「最後のプロポーズ」

婚約指輪の歴史は、はるか古代ローマ時代にまで遡るとか。

古代ローマでは、約束を果たす誓いの印として、互いに鉄のリングをはめる習慣があったそうです。

それが2世紀頃になると、金でリングが作られるようになり、恋人同士の愛の証に用いられるようになったのだとか。

一方エジプトでは、象形文字で表す結婚という言葉は、永遠という意味合いを持つ「円」で描かれていたそうで、指輪の円の形には「永遠に途切れない」という、そんな深い意味と願いが込められていたそうです。

婚約指輪というと左の薬指ですが、これにも古くから意味があるようです。

古代エジプトで左手の薬指というのは、心臓につながる太い血管が通っている指、と考えられていたそうです。そこから永遠の 愛を誓うために、左手の薬指に指輪をはめるようになったとか。

永遠の愛の証の指輪が親指では、ちょっとなんだかなぁ・・・ですよね。

今夜は、「最後のプロポーズ」と言う曲を、まずはぼくの拙い弾き語りでお聞きいただこうと思います。

えっ!最後のプロポーズって何よ!と、首を傾げられる方もおいでのことでしょう。

確かに、最初で最後のプロポーズのまま、人生の幕が下ろせたら、そんな幸せなことはありません。ところがどっこい!そうそう理想通りに行かないのが、人生の綾なのではないでしょうか?

皆々様のプロポーズは、いかほどの物でしたでしょうか?

「最後のプロポーズ」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

これが最後の ぼくのプロポーズ

君の心に届くだろうか 遠回りばかりしたけど

 ああ 流れる 星 よ  ぼくの願いを

 叶えてよもうこれ以上は  何も望まぬ代わりに

こんな安っぽい 細いリングでも

指を通してくれるだろうか ぼくの愛の証として

 ああ 煌めく星に 君となりたい

 そして永遠に何億光年も 彼方へと旅立とう

これが最後の ぼくのプロポーズ

君の心に届いたろうか ぼくの愛を受け止めて

ぼくの愛を受け止めて

続いては、CDに収録された「最後のプロポーズ」をお聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「端午の節句のお楽しみ!」。ぼくの子供の頃は、鯉幟なんてものは買ってもらえませんでした。と言うよりも、大きな竹竿を立てて、優雅に鯉を泳がせられるほどの庭が無かったというのが、正直なところです。でも同級生の農家の子の家には、それはそれは立派な鯉幟が揚がっていて、羨ましくてならなかったものです。ぼくの端午の節句のお飾りは、武者人形が一体で、慎ましやかにガラスケースに入っていたものです。まあ子供の頃なんて、食べられるわけでもない、腹の足しにもならない、鯉幟や端午の節句の飾りより、粽や柏餅がそれはそれは愉しみでならなかったものです。だから漢字も知らない子供の頃ですから、「端午の節句」を『団子の節句』とすら勘違いしていたほどでした(汗)。さて皆々様の端午の節句のお楽しみは、いかがなものでしたか?

今回はそんな、『端午の節句のお楽しみ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.04.28「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

あのゴッド君から春のおご馳走が送られてまいりました。これがヒントと言えばヒントですが、写真を見りゃわかっちゃうか!

でも侮るなかれ!もちろん和風ではなく、ちょっとメキシカン風とでも言いましょうか?

さあ、お目が高い皆様は、お分かりになられましたでしょうか?

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 88」

今日の「天職人」は、岐阜市一日市場の「渡しの船頭」。

長良のほとり桜の並木 花嫁乗せて船出す船頭       流れをかわし櫓(ろ)を切りながら 世の荒波へ漕ぎ出す門出                           川面に揺れる金華の山と 白い小さな花嫁の顔       水面の鏡小指の先で そっと紅注す小紅(おべに)の渡し

岐阜市一日市場の小紅の渡し、船頭の棚橋正己さんを訪ねた。

片道たった二分の船旅。それが小紅の渡しだ。春まだ浅い長良川の川面を、対岸の鏡島弘法(乙津寺)裏の、土手を目指し滑り出す。「弘法さんの四月のご開帳ん時は、朝から晩まで櫓を漕いで、五百人ぐらい渡しとるんやて」。正己さんは船頭小屋の窓から、対岸の船着き場を眺めた。

正己さんの一家は、終戦の前年、旧本巣郡本田村から一日市場に移り住んだ。中学を出ても戦後の混乱で満足な仕事もなく、土木作業や農作業に従事。十七歳になって小紅の船頭を務めた。

「今は、誰も乗りゃあせんけど、ここは川の中の生活道路やったんや。だで糞尿入りの桶積んだリヤカーや自転車乗せたり、鏡島に野菜持ってって物々交換する人らをよう渡したもんやて」。小紅の渡しは、歴(れっき)とした県道、文殊茶屋新田線だ。

昭和31(1956)年、正己さんは繊維関係の会社に就職。それから五年後、高知県出身の静子さんと結ばれ、定年まで勤め上げた。「従兄弟がここの船頭やっとったで、毎月弘法さんの命日だけ、わしも手伝っとったんやて」。

従兄弟の引退で、正己さんが船頭を引き継いだ。「川が好きな出来んよ。川の流れと風向きを読んで、櫓を繰り出すんやで。たとえそれが片道二分の渡しでも、年間七~八千人の命を預かるんやで」。正己さんは日に焼けた赤ら顔を綻ばせ、窓から対岸を覗き見た。「向こう岸から手を振るもんがおると、迎えに行ったらなんでな」。

小紅の由来は、昔の女船頭の名とか、紅花を栽培していたからとか、嫁入りの渡しで、花嫁が水面に顔を映して紅を注し直したとか諸説ある。「わしはやっぱり、花嫁が紅注し直した説を、一番気に入っとるんやけどな」。

定員九名の渡し船の座席に腰を下ろし、周りの景色を見渡せば、土手の高さに高層ビルも遮られ、浮世離れした昔日と出逢う。

「でもまああかんて。昔と比べると水量も減っちまって、水位も下がりっぱなしやで」。長良川の流れを誰よりも愛し、半世紀に渡り小紅の風景を見守り続けた、老船頭の言葉が川面に舞った。「長良川は、わしの人生そのもの。命の源やて」。

船を舫(もや)う手を止め“いのけるうちは、まあちょっとやろかな”と、正己さんはまるで長良川に聞かせるかのように、そう呟いて穏やかに笑った。

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「唐辛子の芽が!」

頂き物の「染付小紋 薬味小鉢」の唐辛子の種を蒔いておいたら、こんなに立派な芽が出て来てくれました!

癒されますねぇ。実に!

この後は、間引きして丈夫な苗を選び、大切に育てねば!

花が咲き実が付き始めたら、肥料を与え成長を見守るつもりです。

そして実が赤く色付いたら、わが家のハーベスト!

ペペロンチーノでも作って、白ワインでハーベスト祭と洒落込んでみようかと、今からワクワクです。

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「不要不急ではなく、必要火急の用があり亀山へ!」

先だって外出自粛の折ではありましたが、不要不急ではなく「必要火急」の所用で、三重県の亀山市を訪ねました。

すると蔦の絡まるこんな廃屋のようなビルの前に、ちょっと不思議な自販機を発見!

恐る恐る近付いてみました。

なんじゃこの「POTATO BOY」って?

さては昔あった、あの家族計画用のゴム製品の販売機かしらん?と、さらに近付いてみると!

なんと、ちゃんとポテトチップではありませんか!まあ、それはそれで、駄菓子屋に子供たちが群がり密にならなくて良いのかも知れません。

それよりもぼくは、3番の「チョコあ~んぱん¥130」の方が、気になって気になって仕方ありませんでした。しかし¥130を投じて買ってみる勇気がなくって・・・。

ちょっと気になる街角ウォッチングでした!

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4/21の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「Honey Babeの味噌ステーキ&とんがりコーンと男爵ポテトにホウレン草のディップ添え」

長野県飯田市のハヤシファームで、遠山郷のハチミツを与え、大切に大切に210日前後育てられた、雌豚だけにその名が冠される、ご存知「Honey Babe」。そのトンカツ用ロース肉を、今回は一晩赤味噌と日本酒で漬け込んでみました。

ハヤシファーム Honey Babeはこちらをどうぞ!

https://hayashifarm.jp/info/1105784

その味噌漬けHoney Babeをソテーし、付け合わせにとんがりコーンと男爵ポテトとホウレン草のディップを添えて見ました。

男爵ポテトは皮を剥き、シリコンスチーマーで約8分ほどチンして蒸かし、フードプロセッサーに。お浸し用に茹でてあったホウレン草もフードプロセッサーに入れ、少量の顆粒のコンソメ、塩、ブラックペッパー、白ワイン少々を振り掛け、ホイップモードで攪拌し、こんもりとポークソテーの傍らに盛り付け、子供だましにとんがりコーンを添えれば完了。

とんがりコーンで男爵ポテトとホウレン草のディップを掬っていただいてみました。ちょっとしたナチョス感覚で、なかなか楽しめましたよ。

一方メインのHoney Babeの味噌ステーキは、キリン一番搾りにドンピシャな美味しさで、Honey Babe独特の脂身の仄かな甘みと味噌味で、ビールが進むこと進むこと!

炊き立てご飯の丼飯の上に、千切りキャベツを敷いて、Honey Babe味噌ステーキ丼にしても美味しいだろうと思った次第です。今度やって見なきゃ!

それと男爵ポテトとホウレン草のディップですが、何も別段チーズとかも加えていないのに、男爵イモをホイップモードで攪拌したら、トロットロに仕上がり、とっても美味しくいただけました。

皆様からのご回答、誠にありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 87」

今日の「天職人」は、愛知県田原市の「金物屋」。

日曜の朝目覚めると ランニングシャツ一枚で       父は鋸引き鉋掛け 咥え煙草も様になる          捨て犬見つけ連れ帰り 昨日は父にどやされた       家じゃ飼えんと言ったのに 犬小屋造りに精を出す

愛知県田原市の金物屋「ナゴヤミセ東店」二代目の、山崎昇さんを訪ねた。

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「家は売れんもんしか、置いてないだぁ」。昇さんは農耕牛用の蔓(かずら)で出来た鼻環を差し出した。

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昇さんは高校を出ると直ぐ、地方都市の小さな百貨店、タマコシに勤務。「毎日毎日、明けても暮れても、女もんのパンツばっか売っとっただぁ」。しかし体を壊し一年で帰郷。

家業の傍ら、左官材料の販売から風呂桶の設置、配管工事まで手掛けた。「ほんでもわしが配管やったら、間違いなく絶対漏るで、ちゃんと職人雇っただ」。

とは言えまだまだ二十三歳の多感な青年の心は、ブラジルへの移民の夢に憑りつかれていった。「本気で店閉めて船に乗り込むつもりやったで、勘当寸前だっただぁ。でも『いっくら貧乏してもええ。どうか行かんでくれ』と、母に泣きつかれてまっただ」。敢え無くブラジルへの移民の夢は潰えた。

すると二年後、見合い話が持ち上がった。「いっぺん行き会って見るか」と、ドライブに。「それがねぇ、初めてのデートが、女もんのパンツ売っとったタマコシだっただ。色気も無いらぁ」。帳簿付けの手を止め、妻のまり子さんが笑った。そして三回目のデートで結納。知り合ってから四ヶ月目、四回目のデートが結婚式だった。

「わしが二十二歳の頃だっただぁ。家で仕入れとる左官屋が、どうやら暮れに夜逃げするらしいと、仲間の左官屋から聞いたもんで、親父に相談しただ。そしたら親父が『まあええから、餞別持たしたれ』って。そんなん、泥棒に追い銭じゃないかって言うと『騙すよりも騙される方がましだ』と。親父が頑固だもんで左官屋に『あんた、どこぞか行かれるそうやなぁ』って、餞別渡してやった事があった」。さすがにそこまでされると、夜逃げの足も鈍る。左官屋は後々までかかって、少しずつ返済を続けたそうだ。

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「これ何かあんたら分かるか?」。そう言うと、直径2㎝ほど、長さ1.5mほどの、ガラス管の先がラッパのように開き、反対側が球体になった「ガラス蠅捕り棒」を取り出した。球体部に水を入れ、ラッパの口で天井の蠅を覆うと、蠅が球体に吸い込まれる仕掛けとか。「家の店は、無い物以外なら何でもほとんどあるだ。でも何万点商品があるかは、誰も知らんだらぁ」。

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所狭しと渦高く積まれた埃塗れの商品の中から、昭和を逞しく生き抜いた人々の、暮らし振りや息遣いが聞こえるようだった。

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「天職一芸~あの日のPoem 86」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「駅弁屋」。

売り子の声に伊勢訛り 身を乗り出して品定め       松阪一の駅弁は 天に名高い牛弁当            売り子の台詞につい釣られ 折を解けば香り立つ      肉に絡んだ醤油垂れ 酒も限(き)り無し汽車の旅

三重県松阪市の駅弁屋新竹(あらたけ)商店の三代目、新竹日出男さんを訪ねた。

「そりゃあんた、家(うっ)とこの元祖特選牛肉弁当は、発売当初の昭和34(1959)年に、幕の内弁当の三倍の価格。百五十円もしよったんやで、まったく売れやんだ」。日出男さんは記憶を辿るように目を閉じた。

元々松阪駅前で食堂を営んでいた初代が、明治28(1895)年に旧国鉄参宮線の開通に合わせ、駅構内に売店を開設。当時の駅弁は、竹皮におにぎり二つと沢庵漬け二切れの慎ましやかなものだった。

日出男さんは同県神戸で、海苔養殖と貸し舟業を営む貧しい漁村育ち。二十歳になると地元の会社に入社。四年後親類から、婿入り話が持ち込まれた。「写真を貰(もろ)たんやさ。またそれが豪い別嬪ってな」。トントン拍子で縁談話が進み、昭和33(1958)年に二代目の長女、育子さんと祝言を挙げた。

婿入り後は、毎朝誰よりも早く寝床を抜け出し、竈に火を熾し四升(約7.2ℓ)釜の飯炊きに専念。「何でも自分が先頭立ってせやんと、人なんて誰も付いてこやん」。

翌年先代夫婦が「本物の松阪牛使こて、旅情を掻き立てる日本一高い弁当拵えたろ」と、冷めても味の落ちないミニ・ステーキを考案。独特のタレを絡めて牛肉弁当を発売した。今の価格に換算すると、三千円以上の代物。苦戦を強いられることに。

ところが翌年、大阪の有名百貨店から、駅弁大会で実演販売をやってみないかと持ち掛けられた。「『どうせようけ持ってったところで売れやせんで』と先代がゆうてな。百五十食分だけ用意してったら、開店二時間で売り切れやさ。まぁ、おしっこ行く暇もないんやで。食道楽とは聞いとったけど、そんなんなるとは夢にも思わんさ」。連日千五百食を超える大盛況。大阪での成功は、松阪牛肉弁当の名を、瞬く間に全国に広めた。

「父は本当に働き者です。婿養子って事もあってか、実の両親が亡くなった時も、お線香を上げに戻っただけ。だから家族揃って泊りの旅行に出掛けた記憶なんてありませんし・・・」。傍らで長女の浩子さんが、感慨深げにつぶやいた。

今でも(平成十六年三月六日時点)日に二~三千食製造する弁当は、一~十まで全て昔のままの製法にこだわり続ける。

今のような気忙しさや煩わしさとは無縁だった、昭和半ばの何もかもが緩やかでまったりとした時間が、肉汁と共に口の中に広がった。

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