今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「玉突き屋」。
玉突きの音が子守唄 母の背中で聞いていた 何処に居るより安らいだ 母の項(うなじ)の甘い匂い 小さくなった母の背は ぼくを大人に育てた証し 何故追い着けないのかな 若き日のあの母の元へ
岐阜県大垣市のビリヤード場、エグロ会館の二代目、江黒千鶴子さんを訪ねた。

昭和の残像を封じ込めたような建物。ビリヤードと印された看板にも、隔たってしまった時の長さが滲む。
「『玉突きなんて大嫌いや!』って、息子はそう言って足元に纏わり付いて来たもんやて」。千鶴子さんは孫を連れ、散策から戻って来た大きなかつての息子を指差して笑った。

初代の夫婦は戦前、料亭を営んでいたが、立ち退きに会いこの地へ。子供に恵まれず、遠縁であった時正さんを養子に迎え入れた。千鶴子さんは昭和37(1962)年に、美濃加茂市から時正さんの元に嫁いだ。
四つ玉全盛の時代。会館には朝八時から客が訪れ、深夜三時頃まで賑わった。「昔は娯楽の少ない時代やったで、昼休みでも突きに来よった」と時正さん。夫婦は一男一女を授かった。
「あの頃が一番忙しい時代やった。ゲーム取りさんって呼ぶ女性が三~四人いて、ゲームの点数を数えるんやて。忙しい日は、私も赤ん坊を背中に負んで、ゲーム取りしたもんやて」。玉突きの音が赤子の子守歌代わり。奥の静かな部屋で赤子を寝かせると、烈火の如く泣き出した。やがて物心が付き始めると、仕事に明け暮れる両親に対し、満たされぬ想いが募り、冒頭の不満となって現れた。
しかし夫婦には、そこまでしなければならない、拠所ない事情があったのだ。「戦後間もなく義母が亡くなり、そのどさくさに紛れて、土地建物の権利を詐取されそうになったんやて。結果その皺寄せが百五十万円の大金で、自分の家を自分らで買い取るはめやて」。苦し気に時正さんが苦笑い。
「お父さんはここに、まるで苦労をするために貰われて来たみたいなもんやて」。寝癖の付いた時正さんの白髪を、手櫛で撫で付けながら、傍らで千鶴子さんがつぶやいた。「玉突きが好きやったし、他に能力もないし。もう辞めよう、もう辞めようで・・・。気が付いたらあっと言う間に半世紀やて」。
当時は、仕事を終えた客が自転車を会館に横付けし、寝る間も惜しんで技を磨いたという。しかしそんな昔日の撞球士(どうきゅうし)たちは、一人また一人と昭和の記憶の中へと静かに消え入った。

厚さ四㎝の大理石の台に、アメリカ製の羅紗張り、台の下部には古き良き時代を偲ばせる象嵌が施されている。四つ玉、スリークッション、ポケット。この往年のビリヤード台と共に、コーンという小気味良い音だけを残して、幾つもの青春が弾け飛んで行った。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。