「天職一芸~あの日のPoem 95」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「玉突き屋」。

玉突きの音が子守唄 母の背中で聞いていた        何処に居るより安らいだ 母の項(うなじ)の甘い匂い   小さくなった母の背は ぼくを大人に育てた証し      何故追い着けないのかな 若き日のあの母の元へ

岐阜県大垣市のビリヤード場、エグロ会館の二代目、江黒千鶴子さんを訪ねた。

昭和の残像を封じ込めたような建物。ビリヤードと印された看板にも、隔たってしまった時の長さが滲む。

「『玉突きなんて大嫌いや!』って、息子はそう言って足元に纏わり付いて来たもんやて」。千鶴子さんは孫を連れ、散策から戻って来た大きなかつての息子を指差して笑った。

初代の夫婦は戦前、料亭を営んでいたが、立ち退きに会いこの地へ。子供に恵まれず、遠縁であった時正さんを養子に迎え入れた。千鶴子さんは昭和37(1962)年に、美濃加茂市から時正さんの元に嫁いだ。

四つ玉全盛の時代。会館には朝八時から客が訪れ、深夜三時頃まで賑わった。「昔は娯楽の少ない時代やったで、昼休みでも突きに来よった」と時正さん。夫婦は一男一女を授かった。

「あの頃が一番忙しい時代やった。ゲーム取りさんって呼ぶ女性が三~四人いて、ゲームの点数を数えるんやて。忙しい日は、私も赤ん坊を背中に負んで、ゲーム取りしたもんやて」。玉突きの音が赤子の子守歌代わり。奥の静かな部屋で赤子を寝かせると、烈火の如く泣き出した。やがて物心が付き始めると、仕事に明け暮れる両親に対し、満たされぬ想いが募り、冒頭の不満となって現れた。

しかし夫婦には、そこまでしなければならない、拠所ない事情があったのだ。「戦後間もなく義母が亡くなり、そのどさくさに紛れて、土地建物の権利を詐取されそうになったんやて。結果その皺寄せが百五十万円の大金で、自分の家を自分らで買い取るはめやて」。苦し気に時正さんが苦笑い。

「お父さんはここに、まるで苦労をするために貰われて来たみたいなもんやて」。寝癖の付いた時正さんの白髪を、手櫛で撫で付けながら、傍らで千鶴子さんがつぶやいた。「玉突きが好きやったし、他に能力もないし。もう辞めよう、もう辞めようで・・・。気が付いたらあっと言う間に半世紀やて」。

当時は、仕事を終えた客が自転車を会館に横付けし、寝る間も惜しんで技を磨いたという。しかしそんな昔日の撞球士(どうきゅうし)たちは、一人また一人と昭和の記憶の中へと静かに消え入った。

厚さ四㎝の大理石の台に、アメリカ製の羅紗張り、台の下部には古き良き時代を偲ばせる象嵌が施されている。四つ玉、スリークッション、ポケット。この往年のビリヤード台と共に、コーンという小気味良い音だけを残して、幾つもの青春が弾け飛んで行った。

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「天職一芸~あの日のPoem 94」

今日の「天職人」は、三重県桑名市の「炭焼き煎餅職人」。

縁側ポツリ背中を丸め 母は飽きずに庭を眺めた      風に舞う蝶眼で追って 梢の鳥と語り明かした       母の面影佇む縁で 供物の煎餅封を開いて         パリポリと音を立てれば 心をよぎる母の追憶

三重県桑名市のたがねや、五代目の伊藤巧さんを訪ねた。

「よう他人から、『趣味で商売しとるんやないわ』って、怒られますけどな。やっぱり作り手が美味しいと思えやんもん、店に並べとったらあかんわさなぁ」。巧さんがたがねの包みを開いた。微かに何とも言えぬ溜りの香が鼻先をくすぐった。

たがねとは、この地に伝わる素朴な味わいの煎餅。もち米とうるち米を混ぜて搗いた切り餅に、時雨の溜り醤油を付けて振舞ったものが、やがて煎餅になったとか。

たがねやは、初代濱吉が明治5(1872)年に創業。一枚一枚炭火で炙り、丹精込めて焼き上げる手法は、百三十年(平成十六年五月八日時点)を経た今も何一つ変わってはいない。

「たがね」の由来は、稲を一握り分、供物とした時の「束ねる」が訛って「たがね」になったなど諸説ある。

家業を継いで当たり前の家に生を受けた巧さんは、大学を出ると直ぐに茶道を始め、接客法を学ぶため、名古屋の和菓子店に勤めた。

二十四歳の年に一旦店に戻り、その一年後にはアメリカ放浪の旅へ。「当時は、『一生、煎餅屋でええんやろか」って、ずっと矛盾を引き摺ってましてな。ヒッピー同然に一年ほどアメリカ中を彷徨って。父が病で死にかけたんで、慌てて戻りましたんさ」。

二十七歳の年、大学時代の後輩であった、裕子さんと再会。「この人なぁ、割れちゃあ困る煎餅と同じで、生き方に強さがあったから」。固焼き煎餅を物ともせぬ心根の強さに惹かれ、千葉から遥々桑名へと嫁に迎えた。

たがね作りは、最高品質のもち米と、地元産のうるち米を秘伝の配分で混ぜ合わせ、たがねの生地を作る。次に生地を蒲鉾状に長く伸ばし、薄く切り揃え特注の樫の炭火で炙る。「備長炭では、上手く焼けやん。芳ばしさに違いが出てくるでなぁ」。全体にキツネ色の焦げ目が付けば、初代から続く特注の溜り醤油に付けて炭火で再び乾かす。

「ぼくが一番美味しいと思える、そんな焼け方がなかなか出せやんのさ。どうしても焦げに斑があったりして、ようけ失敗も出ますんさ」。各産業が高度成長に突き進む中、機械化の話も持ち上がった。しかし先代たちは、機械化の手招きには応ぜず、代々伝えられる炭火の手焼きだけにこだわり続けた。

「客に阿(おもね)ってはあかん。自分が一番美味しいと思えることこそが、何より肝心なんやさ」。

商人である前に、職人であろうとする誇りが、老舗の暖簾を今日も守り抜く。

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「忘れないで!」

先日、ヤマもモさん?落ち武者ッチさん?モモッチさん?  あ~あややこしい!もういいや! そんないくつもの名前を持つ、ヤマもモさんから、4月28日のコメントで『オカダさん、心に沁みる歌!機会があったら、「忘れないで!」聴かせてください』と、リクエストを賜りました。

昨年12月のLiveで初お披露目をさせていただいた曲、それが「忘れないで!」でした。

正直言ってあの日のLiveで、一番緊張した曲でした。

それは初めて人前で聴いていただく曲だと言うこともありましたが、それ以上にこの曲に込めた想いが、あまりにもぼくの等身大すぎて、歌の途中でこの曲に込めた想いに、ぼく自身が押し潰されてしまわないだろうか、嗚咽で歌えなかったらどうしよう・・・そんな不安ばかりが頭の中を空回りしていたのを想いだします。

独りよがりの想いを綴ったこの曲が、Liveにご来場いただいた皆様に受け入れていただけるだろうか・・・。そんな想いだったのでしょう。

歌い始めて会場の皆様はどんな感じで聴いてくださっているだろうかと、チラッと覗き見ると、ハンカチで目頭を押さえながら聴いてくださっている方の姿が目に入り、直ぐに視線を譜面台に戻したものです。

そんな姿を目にしたままでは、涙に咽てしまって歌えなくなってしまいそうだったからです。

この曲「忘れないで!」は、そんな意味合いからも、ぼくにとってとても大切な、再出発の曲となりました。

これからは怠け者のぼくではありますが、ちょっとだけ精進して、「忘れないで!」とぼくが皆様に願う歌ではなく、皆様から「忘れられない!」そんな歌となるように、心がけ歌い続けてゆきたいものです。

この「忘れないで!」はCD化されておりませんので、弾き語りでお聴きください。

「忘れないで!」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

忘れないで ぼくのこと いつかきっと戻るから

旅に出たら 気付くはずさ 一番君がやさしかったと

 あー生きる事は  容易くはない

 新しい明日 探して歩こう

忘れないで ぼくのこと 心に刻んで

忘れないで 君だけは いつか必ず戻るから

忘れないよ あの日の事 闇に揺蕩う蛍火を

飽きもせずに 見惚れていた 君が堪らず愛おしかった

 あー美しい 想い出だけに

 立ち止まっては 生きて行けない

忘れないよ 君の事 心に刻むよ

忘れないよ 君だけを いつか必ず戻るから

 あー生きる事は  容易くはない

 新しい明日 探して歩こう

忘れないで ぼくのこと 心に刻んで

忘れないで 君だけは いつか必ず戻るから

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「潮干狩り!」。今年は新型コロナの影響で、潮干狩りもままなりませんが、子どもの頃このくらいの時期になると、何度か潮干狩りに連れて行ってもらったものです。鉄工所で溶接をやっていた父が作ってくれた、お手製の武骨な熊手を持って!人間って言うのは本能的なものか、貝を掘り始めるともう止まらなくなるものなのか、お母ちゃんもお父ちゃんも昼ご飯も食べずに、盥一杯になるまでアサリを掘り続けたものです。たった三人家族では到底食べきれないほどのアサリを!とんでもなく重たいアサリをぶら下げ、名鉄電車で疲れ果てながら帰って来たものでした。お母ちゃんもお父ちゃんも、腰が痛い腰が痛いと愚痴りながら!

今回はそんな、『潮干狩り!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.05「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回も、ゴッド君から送っていただいた、あの旬の食材を使って一捻り!

パッと見、まるで小料理屋で注文しちゃいそうな、酒の肴のアレのようですが、そんな簡単なものでは済まさないのが、アマノジャクなぼくの残り物クッキングです!

和風のようではありながら、実はちょいとイタリア~ンな、ちょいと猪口才作品で~す!

さあ、お目が高い皆様は、お分かりになられましたでしょうか?

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「郡上直送の春のおご馳走!」

郡上から今年も鮮度のとても良い山菜が届きましたぁ!

タラの芽、アズキナ、コンテツ(コシアブラ)と、写真には写っていませんがコゴミと盛り沢山!

さっそくまずは天婦羅でプッハァ、あとはお浸しやらで一杯と、たまりませんねぇ!

それとあく抜きをしたコゴミを、辛子マヨネーズで食べると美味しいと、お手紙に認められておりましたので、言われるがままにいただいて見ると!これがまた、超絶品の旨さ!ますますキリン一番搾りがプッハァとすすんで仕方ありませんでした。

今年もありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 93」

今日の「天職人」は、岐阜県羽島市の「料亭花板」。

三味に浮かれる無粋な客の 酒の戯れ心を抉(えぐ)る   どうせ叶わぬ板場の恋よ 粋な花街戻り川         源氏名じゃなく名前で呼んで 腕の枕でそうつぶやいた   叶わぬ想い身を焼きながら 逆さに流る戻り川

岐阜県羽島市の料亭西松亭、三代目女将の西村智恵子さんを訪ねた。

「家の裏を流れる川は、逆川(ぎゃくがわ)と言って、この辺り一帯は堤に咲いた花の町だったんやて」。確かに川面は、下から上へと向かって流れる。誰が名付けた「戻り川」。智恵子さんは、懐かしそうにつぶやいた。

女将は三人姉妹の長女として誕生。昭和45(1970)年、東京の料亭で花板を張っていた夫を婿養子に迎えた。

この辺りは昔旭町と呼ばれ、二軒のダンスホールと十軒以上の料亭が軒を連ね、芸者置屋からは三味の音が川面を遡る風と戯れたとか。

「朝の八時くらいに旦那衆が上がり込んで、芸者を揚げてはドンチャカドンチャカ。疲れ果てて一寝入りして酔いが醒めれば『おおい!空いとる芸者、全部総揚げや』って。一万円札が初めて発行された時なんて、『これが一万円札や!お前らにも見せたろ』って、芸者衆や仲居にまでご祝儀ばらまいて」。

昭和2(1927)年創業の西松亭は、三十年(平成十六年五月一日時点)ほど前から二代目と三代目が試行錯誤を繰り返し、スッポン料理に挑んだ。「『おおぃ、ドチ(スッポンの方言)あるか』ってお客様が、最初の頃は一年に一組あるかないかやった」。それが今や看板料理の一つに。

四代目の花板を継ぐ永根(ひさね)さんは、高校を出ると京都祇園の高級料亭、円山菊乃井に住み込み五年に及び修業。「円山公園が枝垂桜で一番賑わう時に見習いに入り、毎朝四時から翌深夜三時までぶっ通しで洗い物ばかり」。同期入店の十人の板場見習いは、あまりの厳しさに耐え切れず、次から次へと店を去った。しかし高校在学中に調理師免許を取得した程の永根さんは、五年の苦行にも耐え、煮方の脇鍋に。当時一ヵ月の給料六万円は、勉強の一つとして食べ歩く費用に費やされた。

現在、永根さんが腕を揮うスッポン料理は、赤ワイン割りの生血に始まり、絶品のゼラチンと呼ばれる甲羅の縁側の水煮、肝、胸肉、脾臓(ひぞう)、心臓のお造り、皮の唐揚げ、骨で出汁を取った鍋、締めは雑炊。

「六十年ぶりに生まれた男の子やと、お爺ちゃんに可愛がられて。だから店を継ぐのも当たり前。『店はお前が守るんやない。お客さんが守ってくださるんや』って、お風呂で毎晩聞かされてましたから」。白衣も板に付く若き花板は、歴史に阿(おもね)ることもなく、客が守りたくなる程の味の追及に挑み続ける。

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4/28の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「筍とHoney babe!気分はメキシカ~ン小豆のチリビーンズ煮込み」

ゴッド君からいただいた筍で、筍ご飯、焼き筍の味噌田楽、筍とHoney Babeの和風煮など、一通り思いつくまましっかりといただきました。

そして食べきれない分は、あく抜きをして瓶詰にして冷蔵保存してありました。その筍で、ちょっと一工夫をと捻り出しましたる作品がこの「筍とHoney Babe~小豆のチリビーンズ煮込み」です。

長野県飯田市でHoney Babeを生産するわが友は、「オラの作ったHoney Babeと筍を炊いてみぃ、こんなうめぇもん他にないらぁ」と、いつも自画自賛しておりました。それもそのはず、本当にHoney Babeの独特の脂身の甘さが筍全体に染み渡って、和風出汁とお醤油味にドンピシャで、酒のあてにもご飯のおかずとしても絶品で、この時期ならではのぼくの楽しみの一つです。

その筍のためにあるような、Honey Babeのトンカツ用ロース肉と、ゴッド君から頂戴した掘り立ての新鮮な春のご馳走の筍ですから、むろんまずかろうはずなどありません!

まあ一通り、筍のスタンダード料理はいただいてしまいましたので、今回はこんな変わり種にチャレンジです。

まず筍とHoney Babeのトンカツ用ロース肉は、一口大程度の大きさに乱切りにし、たっぷりのバターを溶かして深めのフライパンでソテーし、塩、ブラックペッパーを振っておきます。

そしてそこにトマト缶一缶と、前の晩から水に浸けておいた小豆を水切りして加え、白ワインとコンソメ、塩、ブラックペッパー、タバスコでピリ辛のお好みの味に調え、しばらく筍とHoney Babeを煮込みます。

ほどよく煮込んだら皿に盛り付け、生クリームを注ぎ入れれば完成。

さすがに本物のチリビーンズのうずら豆と小豆では、そもそも豆自体の大きさも味も違いますが、しかしこれがどっこい侮るなかれ!なかなかどうしてな、なぁ~んちゃってチリビーンズ擬きになるからたまりません!

しかもゴッド君の筍と、わが友のHoney Babeとのコラボレーションが実に巧みなものとなり、和風の筍料理とはまた趣の違った味わいを楽しませていただけました。

今回もやっぱり、キリン一番搾りでぷっはあ!極楽極楽!でした。

皆様方も、和風の筍料理にちょっと飽きちゃったかなってな時に、お試しくだされ!

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「天職一芸~あの日のPoem 92」

今日の「天職人」は、三重県津市の「時計職人」。

肩に回したぼくの腕時計 何度見つめても時は止まらない  だけど君を抱いたあの夜から ぼくの人生を刻む時は    君の前に立ち尽くした                  二人で一つの時を刻みたい 心の速度がずれないように

三重県津市の林時計舗、四代目の林俊一さんを訪ねた。

「これは曾お爺ちゃんが、戦争中に付けた傷。そっちはお父さんが、まだ学生やったころのもん。本当にいい時計って奴は、そうやって家族の年輪と想いを刻み込んでくもんやさ」。俊一さんはショーケースの中の一角にある、年代物の懐中時計と腕時計を指さした。

伊勢商人発祥の地とされる分部町(わけべちょう)。林時計舗は、明治23(1890)年に開業。俊一さんは、創業当時の林時計舗を描いたという、錦絵を広げて見せた。俊一さんはこの店の三代目の弟であった教師の父の元に誕生。そして中学を卒業と同時に、子供に恵まれなかった三代目の養子として迎えられた。

高校を出たその日から、祖父の丁稚仲間であった愛知県津島市の時計店へ修理技術の修業へ。一年で帰郷すると今度は、東南アジア七ヵ国を巡る船旅へと向かった。一ヵ月の給料がわずか一万円の時代、五十五日間の船旅の食費に、五万五千円もの大金を費やした。「本当はなぁ、スイスに行きたかったんさ」。

俊一さんの心に、四代目としての自覚が芽生えようとしていた。

来る日も来る日も、機械式時計を三十分でばらしては、また三十分で組み立て上げる練習の繰り返し。「あの頃の時計は、給料の二~三倍。親子三代が使えやんと価値もないでなぁ」。

小さな水晶が振動し、一定の力を歯車に伝えて秒針を運ぶ。「機械仕掛けは、時計職人が産んだ芸術みたいなもんやさ」。

しかし様々な技術革新は、時計産業にも変化をもたらせた。小さな電池一つで動き続けるクォーツの到来で、先代時代からの時計職人が姿を消していった。「ある日のことやさ。記念にもうたクォーツ時計が壊れたゆうて、修理に持ってこられたんやけど、家(うっ)とこでは出来やんでメーカーへ送ったんやさ。で、そん時に『これではあかん』、そう思てな」。俊一さんは、クォーツからデジタルへと日々進化を遂げる近代路線への決別を覚悟した。

「精密な時計は、みな戦争用に作られたもんやでなぁ。すぐに壊れたら、兵士や国の命に係わるで」。

アナログな機械仕掛けにこだわり、精密度を高める時の番人は、三十歳の冬に恋に落ちた。「初めて飲みに行った場所でプロポーズして、一週間断られ続け、ついに八日目にOKをもうたんさ」。妻、恵理子さんと共に、運命の時を刻み始めた。

「時計は生き物。頭と同じで、いつも回転させてやらんとなぁ」。

目を閉じて耳を澄ます。店内のあちらこちらから、小さな小さな振り子の音が聞こえる。

一人に一つの人生という、確かな時を刻む音が。

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「天職一芸~あの日のPoem 91」

今日の「天職人」は、名古屋市昭和区の「染み抜き師」。

心の渇きで眠れぬ夜は 寝酒に君の面影浮かぶ       星の雫が頬を伝えば 叶わぬ想いは闇を渡る        心に染みた涙の痕は 誰にも消せるわけじゃない      微かに明日を燈す君の 小さな約束あればいい

名古屋市昭和区の染み抜き師、二代目の青木昇さんを訪ねた。

写真は参考

「顔の染みと、心の染みだけは、よう取らんでな」。昇さんは冗談めかしてつぶやき、霧吹きを口に咥えて、着物の裾に噴き掛けた。

六畳一間の作業場には、四つの座卓が置かれ、それぞれに天井から蛍光灯が長く吊り下がっている。

昇さんは男四人兄弟の次男として誕生。ちなみに長男と三男は紋付け師。昇さんと四男が染み抜き師として、男兄弟四人が狭い作業場で黙々と技を揮う。「まあ紋付けと染み抜きは、合わせ鏡みたいな関係だて。だって紋付けをうっかり間違ってみい、えらいこっちゃ。まあいっぺん元に戻さなかん。そんだで染み抜きの技術も磨かれたんだて」。

昇さんは高校を出ると、先代が修業した老舗に住み込み、修業に励んだ。当時初任給の相場は、一万三千円。しかしそこは修行の身。食住付きで三千円の奉公だった。五年の修業を終え、幼馴染の美代子さんを妻に迎え、二人の娘の父親に。

「大阪万博の頃までは、まんだ着物を着る人も多て、紋付け染み抜きも忙しい時代だったわ」。しかしその後は、着物から洋装全盛の時代へと。

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「襟や袖口は食べこぼし。後ろは月の物。特に女の人は『胸(だき)』って言って、乳房んとこに汗染みが出来る。肉眼で見ても見ええへんけど、霧を噴き掛けたると汚れに反応して染みが泣く(滲む)んだて。でもボールペンのインクみたいな油性のもんは泣かん。染みも時代と共に変わってまったって。この頃は化学薬品の染みが多いで手間も掛かるって。まるで探偵の謎解きのように、あれやこれやと知恵絞って、染みを取ってくんだて」。

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水にアンモニアを一~二滴落とし霧を噴き付け、棕櫚のポンポン刷毛で染みを叩き出し、晒しを当て汚れを移し取り、熱した鏝の上で乾かす。柄の上の染みを抜くと、柄そのものも色が落ちる。落としてしまった柄には、マッチ棒の先を削り、染料を付けて染め直す。

「お客に『手間賃三千円です』って言ったら、『何でや、一分もかかっとらんがや』って訝(いぶか)るもんだで、『いいえ!わしの手間は、三十九年と一分かかってます』ってゆうたるんだわ」。確かにその言葉は、昇さんの道具が物語る。修業当時長さが十二㎝もあったポンポン刷毛は、わずか三㎝に。十五㎝あった象牙のヘラも四㎝だ。

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「染みは怒らせたら終いや」。小さな染みの感情さえも読み取る。誤魔化し美学こそが、一端の染み抜き師の証なのだ。

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「唐辛子の間引き!」

先日の薬味小鉢の唐辛子を説明書を見ながら、間引きして一番大きなものだけにしてみました。

とは言え、他の苗を捨ててしまうことなどできず、ホームセンターで土と肥料と鉢を買い込んで、苗も今流行りの「密」はいけませんので、それなりの間隔を開けて植えておきました。

また成長記録をご紹介いたします。

どんな色の花が付くのか、毎朝愉しみでなりません。

以前、オンブバッタの肥後ニャンが居たころ、肥後ニャンの定位置だった出窓の日当たりの良いところが、薬味小鉢さんの居場所となりました。

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