「天職一芸~あの日のPoem 102」

今日の「天職人」は、三重県御薗(みその)村の「手筒花火師」。(平成十六年七月十日時点)

夏の夜焦がす花火でも いつか枝垂(しだ)れて消えるもの 土手に寝転ぶ君の声 目尻を伝う花火の雫(しずく)    闇を切り裂き天翔(あまか)けて 見事に華を咲かせ散る  儚き定め花火にも 心震える君を想えば

三重県御薗村に代々続く、手筒花火師の山崎力さんを訪ねた。

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「手筒花火を自分で作って、それを打ち上げてこそ、一人前の男やさ」。力さんは、葡萄棚の下で缶ビールを煽った。両親と兄・姉夫婦を交え、焼肉を肴に酒宴の真っ最中である。

御薗村には三百年ほど昔から、お盆に先祖を供養する念仏踊りと、送り火としての手筒花火が今も伝わり続けている。

この村に生を受け、この村を愛して育った力さんは、代々村の手筒花火を受継ぐ大念仏羯鼓(かんこ)保存会に十五歳の年に入会。父も兄もそうであった様に、手筒花火師を目指した。

とはいえ、職人であっても商人ではない。年に一度の念仏踊りの一晩のためだけに、秘伝の手筒作りを学んだ。 「事故が起こったらあかん。せやで自分で花火を作るんやさ。でも何時の間にか、その危なさに、みな取り憑かれてもうてな」。力さんは空の手筒を取り上げた。

手筒の太さは、二寸半(約七.五七㎝)。竹(現在は紙管)筒の底部には新聞紙を詰め込み、跳(は)ねと呼ばれる爆発力の強い黒色火薬を詰め、その上から先祖伝来の火薬を叩いて詰め込む。この叩き入れる時の感覚は、すべてが永年の勘だより。最後に噴出し穴の開いた木栓で塞げば完了。一晩のために二百本強の手筒が仕込まれる。

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打ち上げ時には、手筒と自分の腕をチェーンでつなぎ、ゴー、シューと音を立て火花の吹き上がる手筒を、両手でしっかと掲げ持つ。「打ち上げの最後んなあ、物凄い音を立てて筒の底が抜けたるんやけど、それが黒色火薬に燃え移って爆発する時の音なんやさ」。力さんは身振り手振りを交え、夢中で手筒の魅力を語った。 「わしの作ったんは、吹き上げる勢いも違(ちご)てな、音も高(た)こうてええ音さすんやさ」。傍らに寄り添う妻が、頼もしそうに力さんを見つめた。思わず奥さんに話かけようとすると、力さんが遮った。

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「これなあ、まだ嫁とちゃうんやさ。わし前に一度離婚してなあ、今度これと一緒んなるんやさ。それで家族に紹介しよ思て。なあ皆そういうこっちゃで、一つ宜しゅう頼むわな」。何の衒(てら)いも無く力さんはそう告げ、ビールを飲み干した。

取材の席は一転、大家族の祝宴に。男たちは酔うほどに、手筒の武勇伝を、何とも誇らしげに語り続けた。

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「天職一芸~あの日のPoem 101」

今日の「天職人」は、岐阜市の「油紙師」。

鯉の昇りに舟下(ふなくだ)り 父と延竿(のべざお)垂れながら                          想わぬ釣果(ちょうか)期待して 母の悦ぶ顔浮かべ    母のむすびを頬張れど ビクとも浮きは動ぜぬに      父と二人で浮かぬ顔 母の溜め息風運ぶ

岐阜市で慶長年間(1596~1615)創業の油紙製造・小原屋商店、十二代目油紙師の河合良信さんを訪ねた。(平成十六年七月三日時点)

 「わし、特攻隊に憧れとったのになあ、赤紙ちっともこうへんのやて」。良信さんは、火の無い火鉢の前に座した。

「元々、信長公の御用商人から始まり、雨合羽や火縄銃の雨避けのため、油紙を納めとったんやて」。その歴史は四00年を溯る。

油紙は、美濃和紙に柿渋を塗って手で揉みしだき、皺を寄せ荏胡麻(えごま)油と桐油(きりゆ)を混ぜ合わせて塗り込む。そして長良の辺で石の上に広げ天日に干し、乾燥まで五~六日を要する。

良信さんは四人兄妹の長男として、代々続くこの家に誕生。尋常高等小学校を出ると、有無を言わさず家の手伝いが待ち構えていた。十八歳の年、軍事徴用で航空機製造工場へ。日に日に激しさを増す空襲で、延焼を食い止めようと、先祖代々の家屋敷も強制取り壊しの憂き目に。慶長の世から受け継がれたこの家の歴史は、愚かな戦の犠牲となって音を立てて崩れ去った。

飛行機乗りの夢も破れ、戦後はひたすら家業に打ち込んだ。「昭和三十(1955)年頃までは、同業者が十二~十三軒もあったんやて」。 昭和三十二(1957)年に、静岡県の三ケ日から一目惚れの妻を娶(めと)った。「でも亡くなってもう三年。わし独りぽっちやて」。良信さんは、かつて妻が座した座敷の一角を、こっそりと見やった。

「ビニールが世に出てからは、油紙は衰退の一途や。みんな同業者は、別の紙産業へと転じるし。家はなまじ先祖代々続いたもんやで、灯を消したらかんって。気が付いたら、残っとるのは家だけやったって」。

今となっては、何時売れるとも知れぬ油紙。生計など成り立とうはずも無い。 良信さんは油紙の応用とも言うべき、のぼり鯉作りも手掛ける。徳川吉宗の享保の改革で、絹の鯉のぼりが禁じられ、和紙で模られたのぼり鯉が作られたとか。型取りから絵付けまで、良信さん独りぽっちの作業が続く。 「体が太過ぎると鮒になってまうし、尾っぽが長いと金魚になってまうんやて」。

大きな真鯉に、菖蒲を鉢巻きに挿した金太郎が跨(またが)る勇壮なのぼり鯉。 見渡せばどこもかしこも、伝統を蹴散らすように、新たな技術や商品が世に溢れかえっている。

この世にたった一人の油紙師が、時代の速度を憂いて、重い溜め息を落とした。

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「まあちゃんのママゴト」

写真は参考

ぼくが小学校の低学年の頃は、近所回しにたくさん子供たちがいたものです。

特に家のお隣やらご近所には、なぜか同じ年の女子がたくさんいて、藁縄一本を輪っかにして電車ごっこや、花いちもんめやゴム跳びにと、それでなくとも少ない男坊主どもは、引っ張りだこの遊び相手でした。

中でも最もぼくが苦手としていたのは、「ママゴト遊び」。

そのお相手となるのは、最もご近所に住んでいた、お隣の「フミちゃん」、その3軒向こうの「タカちゃん」、それに「マアちゃん」が、それぞれに自慢のママゴトを玄関先で広げて、ぼくを待ってるんです。

今となって思えば、その小学校低学年の頃が、ぼくの人生の中で最もモテた時期だったようです。

しかし当時は、なんせ酸いも辛いも噛分けられるほどの人生経験なんてありませんから、3人の女子たちのなすがまま!

やっぱり男坊主どもよりも女子は、そんなに小さな頃であってもおませなものですねぇ。

どこで覚えたんだか、ママゴト遊びのシナリオがそれぞれにちゃんと描かれていて、ぼくの役柄と台詞まで指定されるのですから、たかがママゴトと侮っちゃあいけません。

きっと3人それぞれに、お母さんとお父さんの会話をそっくり真似たものなのでしょうが、ぼくは順繰りに3人のママゴト屋敷に「ただいま!」と、会社から帰って来た夫を演じさせられるのですから、とても人も羨むハーレム状態というわけじゃあありません。

だいたい3人のシナリオには共通点がありました。それはママゴト遊びの道具が、「ママゴト(飯事)」というくらいですから、炊事道具のフライパンや鍋に、プラスチックのオムレツやらハンバーグにウィンナーといったものが大半。よって旦那役のぼくが会社から「ただいま」と帰ってくるところから始まるという筋書き。すると女房役の女子が「あら、あなたお帰りなさい!お風呂になさいますか?それともご飯になさいますか?」と歯の浮くような台詞を並べ立てるという設定。でもそこで間違っても、「じゃあ、ひとっ風呂浴びてくるか!」なぁ~んて宣うものならさあ大変!

だってママゴト遊びには、キッチンとダイニングはあっても、お風呂はあくまで物の例えとして、飾り物のように添えられた言葉でしかありませんし、お風呂場の設定などどこにもないわけですもの。

「じゃあご飯をいただくとするか」とかなんとか言わされて、手垢塗れの汚れが付いたオムレツなんぞを、さも旨そうに食べるふりをせねばならないのですから、たまったもんじゃあありません。

皆様もそんなママゴト遊びのご経験、きっとおありになったのでは?

今夜は、ちょっとメルヘンチックな「まあちゃんのママゴト」を、弾き語りでお聴きください。

昨今の新型コロナの感染予防で「Stay Home!」がスローガンのように聞こえてまいりますが、大切な命を守るため、一人一人が出来るのは、やっぱり「うつらない」「うつさない」ことですよね。

そんなぼくのStay Homeは、もっぱら趣味でもある「残り物クッキング」で、大人のママゴトに精を出しております。

それでは幼い頃を思い出していただきながら、「まあちゃんのママゴト」お聴きください。

「まあちゃんのママゴト」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

垣根に背伸びぼくを呼ぶのは ドングリ眼のまあちゃん

ラジオ体操に遅れるわと おませな口ぶりを真似た

 お昼寝の後は決まって 自慢のママゴト広げて

 プラスチチックのオムレツ差し出し 「さあ、召し上がれあなた」

今夜は娘も夢の中さ たまにゃ二人でどうだい

当たり目安酒酌み交わせば 娘が起き出し「私も」

 起き抜けの後は決まって 自慢のママゴト広げて

 塩化ビニールの海老フライを 「さあ、召し上がれあなた」

 ねぇまあちゃんやっぱり 遺伝子は侮れないね

 小さな君と瓜二つの おませな横顔愛しい

この「まあちゃんのママゴト」も、どうでしょう、今から約40年近く前の作品だったと記憶しています。

近所の同じ年の女子の、「フミちゃん」「タカちゃん」「マアちゃん」の3人の中で、なぜ「まあちゃんのママゴト」になったかと言うと、それほど深い意味合いがあったわけではありません。

単に、「フミちゃん」「タカちゃん」よりも、「まあちゃん」の方が、メロディーに載せやすく、座りがよかったからです。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「ザリガニ釣り!」。なんでも今日5月12日は、「ザリガニの日」なんだとか。昭和2(1927)年に、食用蛙の餌としてアメリカザリガニが20匹持ち込まれたそうです。ところがそれが逃げ出し、あっという間に日本国中で繁殖したのだとか。ぼくが小学校の低学年の頃、昭和40年頃にはわが家の周りの田んぼの用水路とかに、アメリカザリガニがウジャウジャといたものです。ぼくはそこらへんで拾った棒っ切れにタコ糸を結わい付け、学校給食で出た魚肉ソーセージの残りを、糸の先に結び付けてアメリカザリガニの目の前へと放ってやったものでした。すると大きなハサミで器用に魚肉ソーセージを掴むので、それっ今だってな感じで釣り上げたものです。魚肉ソーセージの餌が無くなると、釣り上げたアメリカザリガニを一匹犠牲にして、殻を剥いた尻尾を餌にしたものです。

今回はそんな、『ザリガニ釣り!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.12「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は、先日郡上から届いた、山の幸をたっぷり使ってみました。

お目の高い皆様は、もう既にお分かりでしょうねぇ。今回は、なぁ~んの捻りもありません!直球勝負です!

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 100」

今日の「天職人」は、愛知県岡崎市の「矢師(やし)」。

出逢いを恨む仲ならば こんなに辛いはずは無い       叶わぬ想い身も焦がす 弓に番(つが)えて君を射る     どうして二人出逢ったの 苦しいだけのこれも愛       願えばいつか叶うはず 弓を番えて君を射る

愛知県岡崎市に、五代目矢師の小山金一さんを訪ねた。

写真は七代目泰平氏(小山矢公式HPより)

「親父の仕事振り、いっつも見とったらぁ。だもんで簡単だと見下しとっただぁ。そしたら僕の矢だけが、全部返品されて来るらぁ。そりゃもう不良品の山ばっかじゃんねぇ」。金一さんは、矢竹(やだけ)を撓(しな)らせ、にこやかに笑った。

元々先代までは、愛知県豊橋市に居を構えていたが、空襲で焼け出され岡崎へと移り住んだ。金一さんは中学を上ると、時計製造会社に就職。十年間のサラリーマン生活で、職場の華であった清子さんを手に入れ退社。

父の下で矢師を目指した。だが冒頭の如き不良品の山。「だもんで、給料もなけりゃあ、休みも全然貰えんらぁ」。 矢竹は、寒の頃に切り出される三年古(こ)と呼ばれる中から、太さと節の位置が近い物を選り分ける。

矢竹の長さは、射手(いて)の身長の半分に、指四本分を足す位が最適。一本の矢は、矢尻に続き「居付(いつ)け」「箆中(のなか)」「袖摺(そでず)り」「羽中(はなか)」と、四つの節が入り、弓を番(つが)える「筈(はず)」へと続く。

(小山矢公式HPより)

丸一年、寒晒しに耐えた竹を切り揃え、重さも一本七匁(もんめ/約二六g)に揃える。「弓は撓(しな)りが命だもんで」。次に矢竹の太さを、四千本・千組に選り分ける。一手が二本。二手分四本の矢で一組となる。そして竹の脂を炙(あぶ)り出し、節の曲りを起こし、袖摺り節から矢尻に向け、真っ直ぐになるように削って、川砂で粗磨き。

写真は七代目泰平氏(小山矢公式HPより)

「次は中火にかけて、焦げ目を付けながら真っ直ぐ伸ばすだぁ。そうすると竹が締まって強くなるもんで」。本磨き、本火入れ、艶出し、防水性を高めるために漆を摺り込む。

「そうして四本一組にして切り揃え、四ッ矢で仕上げるだぁ」。弓に番えるための、水牛の角で作られた筈を入れ羽付(はねづけ)へ。一枚の羽を二つに割いて、羽軸(はねじく)の中の髄(ずい)を取り除き、三枚の「矧(はぐ/矢に付けられた鳥の羽)」を膠(にかわ)で矢竹に貼り付け、フクマキと呼ぶ絹糸で巻きつけ固定する。

(小山矢公式HPより)

最後に矢が真っ直ぐ的を射抜くよう、矢師は祈りを込めて矢尻を板付(いたづ)ける。 「三ヶ月で出来た試しがないだぁ。早くて半年、下手すりゃあ一年らぁ」。千組の内、満足の行く矢は二十組足らずとか。

家康公が元康を名乗っていた時代から、三河の地では農工商に至るまで、戦時に備え弓が奨励されたとか。その伝統が今に息衝く。

膨大な時間と手間とを引替えに、矢師が鍛えた一本の矢。射手の心を載せ、一途に的を射ぬかんと飛べ。

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「天職一芸~あの日のPoem 99」

今日の「天職人」は、三重県松阪市の「旅籠女将」。

叩き打ち水涼を呼ぶ 疲れし旅の癒し水          女将の声につい釣られ 不意に口付く「ただいま」と    おかげ詣りの賑わいを 偲ぶ日野町宮街道         草鞋の替えを振舞て お蔭様でと掌を合わす

三重県松阪市で文化年間(1804~1818)創業の旅籠、鯛屋旅館に十代目女将の前川廣子さんを訪ねた。

「わたし結婚式の前日まで、夫を『お兄ちゃん』って呼んでたんやさ」。廣子さんは帳場で上品に笑った。

東京生まれの廣子さんは、強制疎開で母の在所の松阪に。遠縁に当たる鯛屋の、後に夫となるお兄ちゃんに可愛がられた。そして小学一年の年に東京へ。母が教える文化服装学院に学んだ。

「先代の大女将にえろう気に入られ『廣ちゃんを誰かに取られんように』ゆうて、ジャズに目がないお兄ちゃんを上京さして来たんやて。それで二人して、ようベニー・グッドマンとか聴きに行ったもんやさ。その内知らんとる間に『わたしこの人とやって行くんやろなぁ』って思っとったんやさ」。

ついに大女将は、廣子さんの母に「娘として嫁に貰えんやろか」と懇願した。

廣子さんはわずか十九歳で、鯛屋の嫁となった。「着物も自分でよう着やれんと。案山子みたいに、両手を広げて突っ立っとんやさ。後はみんな仲居さんに着せてもうて」。

それからは名立たる歴代の女将に負けじと、一男一女の母として、また若女将として「毎日が宴会」とばかりに、高度経済成長期を駆け抜けた。

やがて大女将は「廣ちゃん。あんたの息子の嫁は、あんたとこの身内からもうといでや。それが何より、安気に商売続けられるコツやで」と言い残し、十三年前に他界。(平成十六年六月十九日時点)

その半年後。廣子さんの長男が、画家である叔父の個展にお祝いを持って上京した。その受付を手伝っていた遠縁の裕子さんと、二十数年ぶりの再会へ。女将の思惑通り、運命の歯車が、ゆっくりと動き始めた。

それからしばらく後。裕子さんが初めて松阪の地を踏んだ。三泊に及び廣子さんの長男と伊勢志摩巡り。和田金で贅を尽くした最後の晩餐。廣子さんは紬の着物で正装し、おもむろに切り出した。

「裕子ちゃん。考えてくれたんでしょうね」と。「さすがに『しまったぁ!』って思いましたよ。だってもう和田金のお肉、ペロツと食べた後だったんですもの」と、若女将の裕子さん。

運命の赤い糸は、女将の廣子さん、長男である若旦那、そして若女将の裕子さん、それぞれの思惑で描かれたシナリオを、見事一つの見せ場に紙縒り上げた。

「大女将に半分、そして旦那に半分惚れて」と、廣子さん。「わたしも!」と、傍らから若女将の裕子さん。

まあ、何はともあれ「メデ鯛屋!」。

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5/05の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「筍とコンニャクの白和えwithジェノベーゼソースと木の芽添え」

筍の水煮にした残り物と、味噌汁の具の残り物の木綿豆腐で、白和えにして見ました。

ぼくの白和えは、すり鉢で豆腐を潰し、湯がいたコンニャクとミックスナッツをクラッシュしたものを加え、練りごまと出し汁と醤油で味付けたゴマダレと混ぜ合わせ、皿に盛り付け市販のジェノベーゼソースと鉢植えの山椒の木の芽を添えて完了です。

ジェノベーゼソースはほんの彩のつもりでしたが、これがまたまた何とも和風の白和えに、オリーブオイルとバジルの香りと風味がピッタリ!

冷やっこくってなかなかどうしてな逸品となりました!

後で気が付きましたが、こんなことなら松の実と彩でクコの実を散らしても、もっと美味しくなっただろうと思ったほどでした。

今年の春は、ゴッド君からと、長野県飯田市のハヤシファームさんから届いた筍三昧で、満足満足な春となりました!

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「天職一芸~あの日のPoem 98」

今日の「天職人」は、岐阜市加野の「岐阜提灯摺込(すりこみ)師」。

病の床を抜け出して 長良の鵜飼訪ねたい         母の小さな願いさえ 叶うことなく四季は逝く       松明燈す庭先で 茄子の馬が母を乗せ           違(たご)うことなく連れ来(きた)る 初の迎え火岐阜提灯

岐阜市加野の岐阜提灯刷込師の、稲見繁武さんを訪ねた。

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「微妙な色が一つずつ入るたび、長良の流れと木々の色合いも深まる。その何とも言えん途中経過が好きやったんやて」。繁武さんは、実直そうにはにかんだ。

繁武さんは中学を上がると、直ぐに鉄工所に入社。しかしわずか一年後に、鉄工所は倒産。知人の勧めもあり、提灯摺込師の元で修業を始めた。

「明けても暮れても、顔料を乳鉢で磨りからかして、型紙切りを覚えるまでに五~六年はかかったもんやて」。八~九色の顔料を親方が調合。「色の作り方をこそっと盗み見るんやて」。一端の摺込師として認められるまでには七~八年が費やされた。

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やっと腕に覚えが付き始めた昭和三十五(1960)年、三つ年上の愛妻、緑さんが嫁いだ。「友達の紹介やったけど、あんまり覚えないんやて」。繁武さんは照れ臭そうに、妻に助け舟を求めた。「どんな仕事しとるかもわからんのに、お父さんの誠実さに惹かれたんやて。だからか学者みたいに気難しい父も『この人なら間違いない』って、太鼓判押したほどやで」。妻が懐かし気に夫を見つめた。

市内の安アパートで、新婚生活が始まった。「六年後に独立するで」と、緑さんへの宣言がプロポーズ代わり。緑さんは洋裁の注文をこなし、安月給の夫を支えながら子育てに追われた。

昭和四十二(1967)年、子供の入学に合わせ、あの日の約束を見事に果たして独立。「まああの頃は、忙して忙して。朝は八時から夜中まで、働き詰めやったって」。源氏絵の雅やかな図柄が摺込まれた一枚の作品を広げた。「これは百二十手かかっとるんやて」。摺込師は、絵師が色付けた絵を見ながら、色の数だけ百二十枚の伊勢型紙を彫り込む。この細かな作業に丸四日。見本付けに二日。完成までに一週間が、惜しみなく注ぎ込まれる。「やっぱり印刷では出せんのやて。薄い和紙に、何度も重ねて摺込むんだで、色が浮き立って来るんや」。

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上品で控えめな色彩が、岐阜の美しい四季の絵柄を一層引き立てる。しかし売れに売れた時代は、バブルの終焉と同時に幕引きを迎えた。「毎日コツコツと。一生こんだけの仕事やて。ようやって来たねぇ」。繁武さんは、苦笑いを妻に向けた。「真面目一筋で、私にはもったいない位の人やて」。妻が夫を見やった。

金の草鞋で手に入れた、姉さん女房の言葉は、ひたむきに生き抜いた老職人への、何よりの誉れとなった。

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「天職一芸~あの日のPoem 97」

今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「黒七輪職人」。

夕暮れ時の玄関先で 腕白共が団扇を扇ぐ         豆炭熾し母の手伝い 七輪の鍋コトコトと         鍋の湯船で小豆が膨れ 黄金色したザラメも溶ける     白玉浮かぶ母のぜんざい 椀にほんのり甘い湯気

愛知県碧南市で三代に渡り、三河の黒七輪を製造する、杉松製陶に杉浦和徳さんを訪ねた。(平成十六年六月五日時点)

路地を曲がれば、置き去りにされたままの昭和の風景が広がる。風雪に耐え、やや傾いた薄暗い木造の工場から、和徳さんが顔を覗かせた。

「最盛期の頃は、黒七輪の窯元も五十軒はあっただ。んでもかん。プロパンの時代になってからは。だもんで儲かれへんで、皆辞めてってまって、もう家一軒しかのこっとらんらぁ」。和徳さんは黒い指先の、細かい土を払い落とした。

三河の黒七輪は、昭和が四十年代を刻み始めるまで、炊事場になくてはならない脇役として重宝がられた。

七輪には、白い珪藻土で作られるものと、瓦に用いる三河土で作られる黒とがある。白七輪は熱に強い反面衝撃に弱く、中央に巻く真鍮製のベルトが特徴。一方黒七輪は二重構造で、珪藻土の内釜を三河土の外釜がしっかりと取り囲む。

「わしらぁ、真鍮のバンドせんことが誇りやっただぁ。この黒七輪は、海沿いの町でようけ使われとっただ。白七輪はバンドが潮で錆びるらぁ。んだもんで、潮に当たらん内陸が主だらぁ」。和徳さんは、三十年連れ添う恋女房に同意を求めた。妻のさだえさんがことりとうなづいた。

七輪作りは、安城産の三河土を土練機(どれんき)に半日かけ、石膏型に流し込んで形成し天日干しへ。手頃な乾き加減の内に面取りを施し、黒七輪最大の特徴である風窓を切る。団扇で風を送る小窓だ。まず形成した外釜に、角度を変えながら切り込みを入れ、長方形の窓枠の半分を切って取り除く。そして残りの半分を風窓の引き戸とする。実に巧みな鎌型の小刀捌きである。「乾き切ってもかんし、柔(やわ)こいまんまでもかんだぁ」。

乾き切ったところで黒鉛を塗って、那智石で七輪の上部を磨く。そしてだるま釜に二日間入れ焼成。最後の火を落とした瞬間に、秘伝の松脂を入れ釜を密封。すると艶消しの黒光りした三河の黒七輪が、この世に産声を上げる。

「一銭より安い、七厘で買えた」。それが転じて七輪とか。「サナ」と呼ばれる、炭を浮かす受け皿に、七つの穴が開いていたからだとか。一回の煮炊きに要する燃料が、七厘で賄えたからとも、七厘の由来は諸説様々。それだけ庶民の暮らしを支え続けた、古来からの立派な調理器具だった。

夕餉の手伝い。団扇片手に豆炭を熾した日々が懐かしい。昭和の名残がまた一つ、確かな速度で遠退いて逝く。

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「天職一芸~あの日のPoem 96」

今日の「天職人」は、三重県四日市市の「手延素麺職人」。

麦藁帽子虫篭下げて ぼくらは夏を追いかけた       蝉捕り飽いて水遊び 影も短くなった頃          腹ぺこたちの家からは 素麺啜る音がした         井戸水張った盥の中に 大きな西瓜プカプカと       夕立後の茜空 縁の風鈴涼告げた             何故こんなにも恋しいの もう戻れないあの夏が

三重県四日市市で代々素麺作りを続ける、渡邉文夫さんを訪ねた。

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「忙(せわ)しいと、素溜まりでも喰いよった。今しは作るもんも、喰うひとらも減ってもうたでなぁ」。文夫さんは曲がった腰を庇うように立ち上がった。

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戦前の最盛期は、近在だけでも三百五十軒が、農閑期に素麺作りを営んだ。

二百数十年前、旅の僧が素麺作りを伝えたのが始まりとされる。朝明(あさけ)川の辺は、素麺に最適な赤柄小麦の栽培が盛んで、水車製粉の水利も得ていた。特に鈴鹿颪の寒風は、素麺を鍛えるに打って付けの気候風土。いつしか農閑期を支える副業となった。

文夫さんは中学を上がると農作業の傍ら、十二月から三月にかけて素麺作りの最盛期に、夜を徹して働き詰めた。「素麺を竹の棒に絡めて伸ばすと、そこだけ束んなって固まるもんやでな、『ふしこき』ゆうて、子どもらが手伝ってそれをばらすんさ」。文夫さんが節くれ立った指で、その作業を真似た。

手延素麺は、高さ二mほどのハタゴという、上下に竹の棒が刺さる台座に、八の字を描くよう手で伸ばしながら掛けられる。一本の長さは、四百mにも及ぶとか。「塩加減一つやさ。ちょっと暑いと塩を利かせ、寒いと甘くせなかんでなぁ」。

作業は二日工程。初日は昼から大きな桶に、小麦を塩水で練り上げる。そして綿実油(めんじつゆ)を塗り、団子状の生地を大根ほどの棒状に伸ばし、その後小指ほどの大きさになるまで紙縒り続ける。そして翌日は、午前二時に起き出して様々な工程を経て、身体を二つ折りにした体勢から、足元の竹の棒に絡めた素麺生地を、立ち上がりながら伸ばす小引き作業を繰り返し、夜明けと共に乾燥へ。全十三工程、二日間で約二十五時間にも及ぶ。「昔からこんな仕事『手延は親の死に目にも会えやん』って言われたもんやさ」。

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それが証拠に、三百五十軒が犇めいた最盛期の姿は何処にもなく、今は十一軒だけが細々と昔を今に伝える。(平成十六年五月二十九日時点)

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夏の涼味を絶やさず守り続けた半世紀。腰に負担の大きな、永年の小引き作業は、老職人の姿までも変え果てた。まるで竹の棒に巻き取られ、二つに折れ曲がった「ふしこき」の節のように。

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