「天職一芸~あの日のPoem 106」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「陶器問屋女将」。(平成十六年八月二十八日毎日新聞掲載)

大きな背負子(しょいこ)荷を解き 行商さんが汗拭う   軒先揺れる風鈴が 夏の終わりの風誘う          絵皿をかざし品定め 父は厳しい表情で          ほならこんだけ貰(もう)とこか 行商さんに笑み浮かぶ

三重県伊勢市、創業三百年とも言われる陶器問屋の和具屋、十四代目の女将、大西とよのさんを訪ねた。

「うちも骨董品なら、店も骨董品やでさ。まあ、お上がり」。御年八十七(平成十六年八月二十八日時点)になるとよのさんは、蔵を改造した自室で手招いた。

ここ河崎町は、伊勢湾へと注ぎ込む勢田川沿いに、商家の問屋が建ち並び、伊勢の玄関口として栄えた。和具屋は全国で産する陶器を一手に扱い、志摩・熊野方面へと出荷。間口こそ京都の町屋同様の狭さながら、昔は奥行き六十mに渡り蔵が建ち並んだ。今でも店の片隅には、奥の蔵へと続くトロッコのレールが敷設されている。

とよのさんは、昭和十(1935)年に、十八歳で故・弥一さんの元へと嫁いだ。女子二人を出産後、夫が召集に。しかし軍事演習中の怪我で帰省。程なく長男を身篭った。「まるで子供作るために、帰してもうたみたいやさ」。

しかし翌年、お腹の子を見ることも叶わず、再び南方洋へと出征。 終戦の翌年、夫が無事激戦地から復員した。「義父は息子が戻ったと、えらい号泣してさ。よっぽど嬉しかったんやろなあ」。大西家十三代は、代々女系続き。弥一さんが初めての跡取息子だった。

戦後は、復興の勢いに乗り、寝泊りの丁稚五~六人、通い番頭二人を抱え、商い一筋に奔走。「家は旅館相手が多(おお)て、師走んなるともうテンヤワンヤ。夜が白むまで糸尻を砥石で擦(こす)とったんやさ」。

しかし昭和も四十年代以降になると、窯屋(かまや)から直売するブローカーが現れ、問屋飛ばしが始まった。

「それがすべての狂いかけやわさ」。とよのさんは、世の移ろいを恨むでもなく、穏かに笑った。

「まあ、あんたら折角来たんやで、めったに見られんもん見といな」。とよのさんは、一抱(ひとかか)えもある、大きな風呂敷包みを取り出した。

見事な歌麿の春画が、綴じ込まれた蛇腹折りの本。

卑猥さなどまったく感じさせぬ、堂々と当時の世相を描き出した美術書のようだ。傍らには、御師(おし)が携えたとされる、日本最古の紙幣・山田羽書(はがき)。

一番奥の蔵には、二百年以上封印を解かぬ品々も眠るそうだ。「三百年続いとるもんを、そのまま遺すのが伝統を守る者の務めと違いますやろか」。

とよのさんは、壁に掛かった漢詩を見つめた。

「歳月(さいげつ)不待人(ひとをまたず)」

東淵明(とうえんめい)の詩が、悠久の時を駆け抜けていった。

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「天職一芸~あの日のPoem 105」

今日の「天職人」は、岐阜市河渡の「靴職人」。

キュッキュと音を立てながら 君が初めて歩み出す      背中に餅を負いながら 得意満面有頂天           ホラホラ言わぬことは無い 調子に乗ってもつれ足     尻餅搗いて泣き出した 忘れぬ君の歩き初め

岐阜市河渡の靴職人、大澤安則さんを訪ねた。

写真は参考

「足全体、足首で履く、先の広い靴が、日本人には合うんです」。安則さんは、何とも人懐こそうな眼で笑った。

安則さんは、昼間電話工事に明け暮れて、夜間の短大へと通った。「器用貧乏なんです」。その言葉通り、幾つもの職を渡り歩いた。車の木型作りからディスプレー職人、居酒屋の板前とホールの接客から、土木の施工監理技師、おまけに美容師を経て、やがて靴職人へと続く岐路の連続。

「癖毛専門の美容師やってた時に、身体のバランスに関心を持ち、一番肝心な足へと。調べてみると、外反母趾に悩む女性が多くって」。

二十九歳の年、美容師や土木の技師を片手間に、靴作りを学んだ。とは言え、もともと手先が器用なことでは天下一品。三~四ヶ月も通う頃には、インターネットでブーツの注文を受けるまでに。

靴職人として自らの技量を問うた。 「大阪から注文があって直ぐに飛んで行きました。相手は、えらいおデブさんの女性と、ふくらはぎの周りが四十㎝もあるオカマさん。そりゃあ見よう見真似ですから、最初は苦情だらけ。でも履き心地を気に入ってくれる方も増えて」。

翌年自宅に、靴の手作り教室を開講。今年七月(平成十六年八月十四日時点)には、現在の工房とショップを開いた。

靴作りは、まずデザイン画を描くことに始まり、型紙をおこして革を裁断。手縫いとミシン縫いで縫製。靴の木型に合わせて形を作る、釣り込みを経て、糊と手縫いで底付け。汚れを落として、ワックス掛けで仕上げる。一足の完成までに丸二日。

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「左右の足の大きさが異なる、整形靴も手掛けました。これ一筋と言うのではなく、どんな注文にも応えられる、そんな応用の利く職人になりたい」。安則さんは、傍らに積み上げられた夥(おびただ)しい量の木型を見つめた。「小手先のデザインではなく、靴をまとった足全体が、力学的にも無理の無いような、美しい自然な流れを描く靴が作りたい」。

写真は参考

靴は地球と人を結ぶ接点。どんなに偉い人でも、わずか一平方メートルたらずの面積を、たった数十年地球からお借りするだけ。だが欲に目が眩み、大きな靴など履けぬのに、地球を独り占めしよう等と思い上がる輩も時として現れる。

明日(平成十六年八月十四日掲載)は五十九回目の終戦。敗戦に泣いた国、歓喜に酔った国。昭和の悲惨なあの日の証人は、確実に遠退いてゆく。しょせん大きな靴など履けもせぬのに、まるで地球を独り占めしたような錯覚に酔い、平和なこの世を踏み躙る愚かな輩よ、二度と現れ出でるな。

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「TASOGARE」

「黄昏」「たそがれ」「TASOGARE」。

同じ意味の「たそがれ」ではあっても、文字にしてみると漢字やひらがな、そしてぼくの曲のタイトルでもある、ローマ字にするのとでは、見た目的にも随分印象が異なって感じられるものです。

高層ビルが影絵のように黒ずみ、やがて地平線の彼方が美しいオレンジの光に包まれてゆく一瞬。

マンションのベランダに出て、缶ビールを片手に、夜の帳が下りてゆくまで、感慨深くその日一日の出来事を振り返りながら、ぼんやりと眺めている時間がぼくはとても好きです。

差し詰め南国の孤島にでもいられたなら、一日の内で最もご褒美のような、そんな美しいひと時に潮風を体中で受け止めながら、シャンパンなんぞをかっこつけて傾け、まったりと「たそがれ」てゆく水平線を見送りたいものです。

さすがに肴は「炙ったイカ」では、とてもシャンパンに似合いそうにありません。ですからそこは一つ、プリティーウーマンのリチャード・ギアを真似、カクテルグラスに入れたストロベリーなんぞを指先で摘むのがお洒落なんでしょうねぇ。

そんな光景を眺めながら、独りで思いに耽るとするならば、やっぱり今日一日の様々な出来事や、これまで生きて来た、様々な心の葛藤なんぞが、独り語りの話し相手にゃお似合いなんでしょう。

だって期待に満ちて躍動感が溢れる、そんな日の出とは一味違い、「日没」間近の「たそがれ」には、昼と夜とが入れ替わってゆく、何とも切ない気分を掻き立てられるものです。

だからでしょうか。

曲がりなりにもここまで生きて来られた人生を、ついつい日の出から日没になぞらえたりしてしまうのは・・・。

でも何と言っても太陽は、水平線や地平線の彼方へと沈み切る寸前に、この世の万物には代え難い美しさを、ほんの一瞬だけ見させてくれる点が最高に嬉しいじゃないですか!

それはそうと皆様は、朝日と夕日、どちらがお好きでしょうか?

今日は、「TASOGARE」をまずは弾き語りでお聴きください。

「TASOGARE」

詩・曲・歌/オカダ ミノル

黄昏の街を行けば 北風が頬を撫でる

君と一つの コートに包まった遠い日よ

黄昏が燃え尽きたら 暗闇に溶けて染まる

知ってはいても 君と二人なら怖くなかった

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

黄昏は物悲しい 君がそう言い残し

灯る町明かり 君の背が浮かんで消えてゆく

黄昏は燃え尽きても 明日はまた生まれ変わる

君とぼくの 恋が宵の中へと溶けてゆく

 今だけに全てを賭け 生きただけのあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

 今だけを信じられた 素直過ぎたあの日

 もうどれほど手を伸ばせど 戻れないあの黄昏

続いては、ガラリと雰囲気を変えて、CD音源から「TASOGARE」をお聴きください。

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「粉末ソーダ!」。いよいよ夏日がやって来るような季節になると、ついつい子供の頃の「春日井の粉末シトロンソーダ」を懐かしく思い出してしまいます。って言っても、もうどんな味だったのかもさっぱり思い出せませんが・・・。まだ昭和半ばの頃の事。チクロなんてへっちゃらだった時代でしたねぇ。グラスに氷をいれて粉末ジュースをお洒落に作ったりなんてせず、袋の端を歯で噛み千切って、そのまんま粉末ジュースの素を口に放り込み、口中シュパシュパになったものでした。ネットで調べて見たら、どこからどー見ても絵はメロンなんですが、それだけが「シトロンソーダ」の名で、イチゴの絵はイチゴのままで、その名もそのまんま「イチゴソーダ」でした。ちなみにネットで見た1袋10円の5袋が縦に繋がったセットには、上から順に「シトロンソーダ」「オレンジ」「イチゴソーダ」「オレンジ」「パイン」となっていたようです。オレンジとパインは、粉末ソーダではなく、ジュースのようです。しかし遠い昔の記憶ってぇのは、どうにも曖昧なものです。ぼくなんてずっと「シトロンソーダ」ばかりだと思っていましたし、家のお母ちゃんは、もっと大きなお徳用袋入りのシトロンソーダを買ってきてくれてあり、それでソーダを作ってくれようものならソーダの粉をケチるもんだから、シャビッシャビで飲めたものじゃなかった苦い記憶まで蘇ってしまったほどです。皆様もシトロンソーダ、お飲みになりませんでしたか?

今回はそんな、『粉末ソーダ!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.19「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

これは写真だけじゃあ、ちょっと分かりにくいかも知れませんねぇ。

ヒントは、春の旬の食材を使った、中華風のイタリア~ンな作品です。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 104」

今日の「天職人」は、愛知県一宮市の「鞄職人」。

小さな背中ピカピカと 大きく揺れるランドセル      君が成長する姿 見守り続け役終える           幾つもついた傷跡は 六年分の泣き笑い          君が大きくなるに連れ 小さく揺れるランドセル

愛知県一宮市のキトー鞄製作所、二代目鞄職人の鬼頭直人さんを訪ねた。

写真は参考

半世紀を捧げ、二十万人の新一年生に、手縫いのランドセルを作り続けた男。それが直人さんだ。

キトー鞄製作所は、初代が大阪で鞄職人として開業。直人さんも大阪で産声を上げた。しかし空襲が激しさを増し、小学二年の年に、親類を頼り愛知県祖父江町に疎開。

中学を上ると、直ぐに、父の元で朝六時から深夜まで作業に追われた。「大学行きたかったんだけど、『職人に大学なんていらん!』って、ど突かれながら毎日修業だて」。

ランドセル作りは、革の裁断に始まり、革の裏側を鉋掛(かんなが)けし厚さを調整。折り曲げる箇所は、「縁(へり)すき」と呼ぶ作業で折りしろを作る。そしてゴム糊で接着し、専用ミシンで縫製。金具を付け、蓋や肩紐を手で縫い取り付ける。製造工程は百手以上。朝から夜まで、熟練工でも一日一個がやっと。

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「昭和三十(1955)年代は、まだ高級品だったで、ランドセル買っても机は後だったでなあ」。 昭和三十七(1962)年、妻俊子さんと所帯を持ち、一男二女を授かった。

「家中ランドセルだらけやで、うっかり長男のを作るの忘れとって。『ぼくのはどれ?』って言われて、確か慌てて傷物(きずもん)持たせたよね」。傍らで妻が懐かしそうにつぶやいた。

しかしその後は、大量生産の合成皮革(ひかく)に押され、受注は激減。ついに二年前工場を閉め、自宅で妻と二人の家内工業に切り替えた。(平成十六年八月七日時点)

するとある日、京都から一本の電話が。

余命一ヶ月と宣告された、娘を持つ母親からだった。入学式に行けるはずも無い我が娘に、ピンクのランドセルを、例えそれがベッドの上であっても、せめて一度だけでも手に持たせてやりたい…。 そんな母の願いが直人さんを突き動かした。

何もかも打っ遣(うっちゃ)って、ピンク色のとにかく軽いランドセル作りに没頭した。「ランドセルを抱く娘の姿と、その姿を間近に見つめるしかない母の気持ちを想うと…。そん時、大学なんか行かんで良かったって思ったって。鞄職人だったで、その母子の最後の望みを、叶えてやることが出来たんだで」。老鞄職人は目頭を潤ませた。

写真は参考

一人に一つのランドセル。形はどれも同じでも、六年かけて詰め込む想いは人それぞれ。

ハレの日、入学式の記念写真。どの子も校門でランドセルを重そうに背負う。でもどこかちょっぴり誇らしげだ。

ランドセルを背負うことが、幼児から子供への階段を上る、まるで大切な儀式であるかのように。

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5/12の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「アラビアータソース& Mozzarellaチーズの山菜満載PIZZA!」

今年も郡上から届いた、「タラの芽」「コシアブラ」「アズキナ」をたっぷり載せ、モッツァレラのピザにしてみました!

今回は、ほとんど多くの皆様が正解でした!

正式には、市販のピザ生地にアラビアータの残ったソースを塗り、その上にたっぷりモッツァレラチーズを敷き詰め、山菜を盛り付けて焼き上げただけの、超簡単手抜きクッキングでございました。

しかしモッツァレラチーズと山菜が見事な美味しさを醸し出してくれまして、春酣の山の幸をちょっとイタリア~ンな気分で、お気に入りの白ワインと共にペロッといただいてしまいました!

ありがたや、ありがたや!

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「ちょっとちょっとあんた!マスクしなさいよ!」

先日、必要火急の用を済ませ、越前花堂駅から名古屋へ戻る途中、敦賀の駅で乗り換えることになりました。

北陸線の次の列車に乗り換えるホームに向かうと、こんな新型コロナが心配されている中、マスクをしていないけったいな方が、ホームのベンチに!

さすが恐竜王国福井といえども、とてもお隣に腰掛ける勇気もなく、傍観しておりました。

異常に口が大きくて長い恐竜には、あの「ア〇ノマスク」が仮に届いたとしても、それでなくとも言い出しっぺのあの方が着けても小さそうですから、恐竜にしたら口の先っちょだけしか覆えそうにありませんよねぇ。

嗚呼ビックリしたなぁ!

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「天職一芸~あの日のPoem 103」

今日の「天職人」は、愛知県飛島村の「筏師(いかだし)」。

沖行く船に背を向けて 丸太操る軽業師                        広い海原自在に翔(か)けて 丸太の文字を海に浮かべた  スキと二文字の片仮名を 海に描いて手を振れば      岸辺に揺れる影一つ 筏乗りから海の恋文

愛知県飛島村の名古屋港木材倉庫に勤務する、親子二代の筏師、加藤勝三さんを訪ねた。

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 「わしら筏師の道具は、この身体一丁と竹竿だけだて」。潮焼けした赤ら顔の勝三さんは、人懐っこそうな笑顔を見せた。

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「わし、勉強が嫌いだったんだわ」。昭和三十九(1964)年、中学を出ると直ぐ、父が筏師の親方を務める会社に入社。筏の一本乗りを始めた。「そんなもん、直ぐには乗れぇせんて。一日に二~三べんはぶち落ちてまって、助けてまうんだて」。

落ちても落ちても這い上がり、七年の月日を経て一人前の筏師に。 「冬場に落っこちると、銭いらんで帰ったろかと思うほど、冷たて痺れよるんだて」。

入社一年目、筏の一本乗り大会新人戦で、見事優勝。

晒しに紺の半纏、白足袋に鉢巻きの出で立ち。約二間(三.六m)の竹竿。根元には、丸太を引寄せるトビと、押し出すトッコ、ロープを切る鉈(なた)の三種の金具が取り付けられている。

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特殊作業の筏師は、一般の給与の二倍を得たという。 昭和四十六~四十七(1971~1972)年の全盛期には、名古屋だけで筏師も千人を越えた。

翌、昭和四十八(1973)年に、港区出身のしな子さんを嫁に迎えた。「姉(あね)さが洋裁の先生で、おっかあが生徒だったもんで。それが逢ったら、ええ女だでかんわ」。

しかしオイルショックの影響からか、一次加工済の外材が、筏師たちから丸太を奪い始めていった。

今では筏師もわずか三十人足らずとか。 筏師たちの仕事は、本船から丸太を下ろし、全方位型のロータリーボートで集める。カンと呼ぶ金具を打ち込み、ロープをかけ、長さ十二mの丸太を五十~百本ほどにまとめて筏を組む。そして引船で一時間かけて貯木場へと曳(ひ)く。

検査を経た丸太に等級別の標が付けられ、筏師が材木商の注文に応じ、貯木場に浮かぶ丸太を一本乗りで寄せ集める。

「自然の風や潮の加減に逆らったらかん。毎日の下げ潮と込(こ)み潮の時間を、身体が覚えとるんだて」。

写真は参考

海は穏かな優しい日ばかりではない。時には時化(しけ)に荒れ狂い、稲妻が海原を駆け抜ける。エンジンも櫓(ろ)も持たぬ竹竿一本の筏師は、海と対話し、竹竿一本で海と陸(おか)との間を自在に翔(か)ける。

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「越前花堂(えちぜんはなんどう)駅で見かけましたぁ!」

またしても必要火急な用があって、日帰りで越前花堂駅にまいりました。

用を済ませ名古屋へ戻るため米原方面のホームに行ってみると、そこでこんな案内板を見かけました!

確か小さな巨人と言われた、あの大先生の歌にあった「越美南線」の長良川鉄道ではなく、「越美北線」ではありませんか!

越美北線は、福井駅と岐阜県の美濃太田駅の間を、岐阜県郡上市白鳥町石徹白(旧福井県大野郡石徹白村)を経由して結ぶ鉄道、越美線の一部として建設されたものの、その計画は果たせなかったものだそうですねぇ。

越美北線は、福井駅から九頭竜湖駅を結んでいるそうですが、乗ってみたいものの乗ってしまえば九頭竜湖で途方に暮れてしまいます。

乗り鉄かも知れないぼくではありましたが、断念してローカル線を乗り継ぎ、4時間半を掛けて戻ってまいりました。

おかげで気分転換の小旅となりました。

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「縁起木の栽培!」

「縁起木栽培セット」の南天の種を、栽培セットの小鉢に種植えいたしました。

説明書によると南天の種を冷蔵庫で一ヵ月休ませ、その後一晩水に浸してから、セットに付いている土に植えるよう書いてありました。

ちゃんと指示通りに一ヵ月冷蔵し、一晩水に浸したのが、写真右手の小鉢の中に浮かんでいる南天の種でして、翌朝さっそく中央の鉢に植えてあげました。

早く発芽しないものかと、楽しみでなりません。

先に間引きして植えた唐辛子も、スクスクと成長を続けており、花が早く付かないものかと、こちらも毎朝眺めるのが楽しみでもあります。

難を転じて、唐辛子で厄除けとでもまいりたいものです。

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