「天職一芸~あの日のPoem 113」

今日の「天職人」は、岐阜県養老町の「瓢箪細工師」。(平成十六年十月二十三日毎日新聞掲載)

切立つ崖と滝の壺 水面に揺れる紅葉(くれないば)     囀る鳥を指差して 老婆の手引く孝行者(こうこうじゃ)   茶店の軒に揺れるのは 黄金に染まる瓢箪と        養老山の木漏れ日に 浮かんで消える母の影

岐阜県養老町の瓢箪細工師、松本建樹(たてぎ)さんを訪ねた。

「一本の蔓から二つと同じもんは出てこんのやて。どんな瓢箪に育つんやろかって。孫蔓なんて可愛いもんや。それが証拠に、一日に三度も眺めに行くんやで。まるで本当の孫と一緒やて」。建樹さんは、脳梗塞で麻痺した左手を庇うように、壁の瓢箪を取り上げた。

兼業農家の長男として生まれ、高校を卒業した昭和二十五(1950)年、名古屋のメリヤス問屋に住み込みで就職。外商や店番に明け暮れたものの、会社が敢無く倒産し養老町へと舞い戻った。

昭和三十三(1958)年に農協の職員として採用され、翌年妻を迎え二男をもうけ定年まで勤務した。 「ちょうど定年の一年前や。近所で瓢箪を作っとる人の所へ遊びに行って、表情豊な瓢箪に出逢って一目惚れやて。作り方習って種までもらって」。定年後の愉しみを見付けた気がした。

「初めての収穫は、一m四十五㎝もある長瓢箪が十本と、千成瓢箪やった」。瓢箪は雑交配を繰り返すため、千成瓢箪を植えたつもりが、実は百成瓢箪だったということも多々起るとか。

三月に種を蒔き、本葉が三つ出た時点で四月に定植。親蔓が一mほどに伸び、下から十葉目の天辺を摘み取る。

次に出た葉を子蔓として花を摘み取り、そのまた次に出る孫蔓に、盆過ぎまで瓢箪を成らす。その成長たるや、一日に五㎝とも。

千成瓢箪は一株で約五十個。百成瓢箪なら、一株に約二十個が、盆明けに収穫を迎える。 真っ白な瓢箪の蔓が切り取られ、蔓の付け根に穴を開け、十日間ほど水に浸け込む。そして瓢箪の中身を腐らせ、種を取り出し乾燥。すると不思議にも、黄金色に飴焼けした、瓢箪独特の天然色を身にまとう。

真ん中がキュッと括(くび)れた、なんとも妖艶な瓢箪独特の形状。昔の人は、瓢箪の中に植物の種を入れ、保存容器にしたり、それを腰にぶら下げ、マラカスの様な音を発することで、獣除けとしても活用されたとか。

「瓢箪は、連作を嫌いよるんやて。だで三年目は、別の場所へ移してやらんとかん」。一語一語に瓢箪への情愛が滲む。

瓢箪は、真っ白な花を夜になって咲かせ、蛾が実を結ぶとか。 定年直前、第ニの人生に、やっと巡り逢うことのできた、老瓢箪細工師そのもののように。

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「天職一芸~あの日のPoem 112」

今日の「天職人」は、名古屋市千種区の「人形職人」。(平成十六年十月十六日毎日新聞掲載)

小さな君の瞳に揺れた 雪洞燈る雛飾り          やがて君待つ殿様は 父よりやさしい人だろか       小さな君は瞳を濡らし 何で雛様仕舞うかと        「嫁入り話遅れても 父母と一緒」と君が泣く

名古屋市千種区の大手人形、二代目人形職人の大手邦雄さんを訪ねた。

「このお姫様、お顔の汚れ落としたものの、着物の染みが抜けないんで、よう似た生地の着物を見繕(みつくろ)って着せ付けたんだわね」。何ともやさしい眼でお雛様眺め、いたわるような手付きで邦雄さんが人形を掲げた。

邦雄さんは 高校を出ると、腰掛け程度の軽い気持ちで家業に。「あの頃は景気がよくって。子供も多かったし、オリンピックも終わって、どの家も暮らしに余裕が出始めた頃だったでねえ」。それがいつしか天職に。

「親父も他の職人も、誰もなんも教えてくれんのだわ。だで、見よう見真似ってやつだわさ」。人形の首から下の半製品を仕上げ、問屋に納めた。

問屋の友人の紹介で、昭和四十九(1974)年に、瀬戸市出身の幸子さんと結婚。一男一女に恵まれた。さぞや立派な雛祭りと、端午の節句人形であったろうと水を向けてみた。「それがなあ。家は年がら年中、お雛様と武者人形に囲まれとるで、ありがたみも薄いんだて」。

昭和五十(1975)年代に入ると、顔も挿げる完成品を手掛け始めた。西陣織の反物を裁断し、ハトロン紙を裏張りしてミシン掛け。姫には雅を、殿には凛々しさ、そして武者には勇壮さを装い、命を吹き込むかのように着せ付けた。

「着せ付けも、上手く行く時と行かん時があるんだて」。特に藁の胴から左右に伸びる針金の、肩折れ・肘折れと呼ぶ角度決め一つで、人形の表情がまったく異なる。 「姫は撫で肩、殿は怒り肩。気分がむしゃくしゃしとる時は、折ったらかん。やり直せんで。やさしい気持ちの時でないと」。

一端の人形職人までには、十五年の歳月を要すとか。 平成に入り需要が落ち込み始めた。住宅事情が変化し、雛壇を組む場所も奪われ、三人官女や五人囃子も徐々に失業の憂き目に。今では人形師も、最盛期の三分の一。「昔は、子供の成長を願い、贈ったり贈られたりがあったけど。もう少子化で先細りだて」。

今は人形修理に力を注ぐ。「人形に重ねる想い出や愛着を、できるだけそのまま留めておけるよう、必要最低限だけ手を入れるんだわ」。

人形師の匠の技で、化粧直しを終え、人形は再び新たな命を宿し、それぞれに愛される、我が家へと戻ってゆく。

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「君が生まれた夜は」

わたしたち人間には、一人に一つ、何人にも、お母さんが苦しい思いと引き換えに、この世にわたしたちを産み出してくれた、大切な記念日があります。

でもそんなとても尊い誕生日を、子どもの頃はただ単に、「バースデープレゼントが貰え、バースデーケーキが鱈腹食べられる日」くらいにしか、思っていなかったのも事実でした。

とは言え、当時のバースデーケーキは、今のような生クリーム仕立てで、新鮮なフルーツがたっぷり飾り付けられているようなお洒落な物とは程遠く、こってりねっとりとしたバタークリーム仕立てで、中はパッサパサでモッサモサなスポンジだったものです。

卓袱台の上にそんな丸いケーキが据えられ、オレンジジュースかサイダーで乾杯が定番だった記憶があります。

ああっ、そうそう!茶の間の天井には、お母ちゃんお手製の、折り紙の輪飾りならぬ、新聞チラシの輪飾りが垂れ下げられていたものです。

しかしそうしてとても尊い神聖な誕生日でありながらも、思春期を迎えた頃には妙に反抗的になっていたのか、家族三人でバースデーケーキを囲んでお祝いなんて事がこっぱずかしくって、それ以来そんな誕生会も開かれなくなり、バタークリームのバースデーケーキを囲むことも無くなってしまった気がいたします。

ところが時が経ち、両親が亡くなった齢に年々近付くにつれ、せめて一度だけでいいから、なんで自分の言葉で、「お母ちゃん、この世に産んでくれてありがとう。お父ちゃんとお母ちゃんの元に産んでくれて、本当にありがとう」と、言ってやれなかったんだろう・・・。

毎年自分の誕生日を迎えるたびに、そんな後悔ばかりが脳裏をよぎります。

今ではぼくの守護星として、天から見守ってくれている両親ですが、ぼくがやがて両親の元へと戻っていったなら、あの卓袱台の上にもう一度バタークリームの小さなバースデーケーキを広げて、三人でしみじみと味わいたいものです。

今夜は、後程ご紹介いたしますが、ハートさんのお誕生日のお祝いを兼ね、ヤマもモさんのリクエストにお応えしつつ、「君が生まれた夜は」をフルコーラスで歌わせていただきます。

「君が生まれた夜は」

詩・曲・唄/オカダ ミノル

君が生まれた夜は二人だけで祝おう 遠い夜空の果ての君の両親と

ワインでも傾けて君のアルバム開こう 泣きべそ幼い日の君がいとおしい

 Happy birthday この世に生まれて来てくれて

 Happy birthday 二人巡り逢えてありがとう

 これからは二人で一緒に キャンドルの灯を燈そう

君の生まれた夜もこの星空のように 守護星たちが君を見守ってたろう

今日からはこのぼくが 君の守護星となり  どんな時であろうと 君を守り抜く

 Happy birthday この世にただ一人の君と

 Happy birthday やっとやっと巡り逢えた

 これからは二人で一つの キャンドルの灯を守ろう

君が生まれた夜は二人だけで祝おう 遠い夜空の果ての君の両親と

ワインでも傾けて君のアルバム開こう 泣きべそ幼い日の君も抱きしめたい

★毎週「昭和の懐かしいあの逸品」をテーマに、昭和の懐かしい小物なんぞを取り上げ、そんな小物に関する思い出話やらをコメント欄に掲示いただき、そのコメントに感じ入るものがあった皆々様からも、自由にコメントを掲示していただくと言うものです。残念ながらさすがに、リクエスト曲をお掛けすることはもう出来ませんが…(笑)

今夜の「昭和の懐かしいあの逸品」は、「もう一度食べたい一文菓子屋の駄菓子!」。ぼくが子どもの頃は、近所にあった「トシ君家の一文菓子屋」が、腕白坊主やお転婆娘たちの社交場のような存在でした。当時のお小遣いは、一日当たり10円玉一個。だいだい一文菓子屋の駄菓子は、くじ引き付きの物が多く、一回5円が相場だったものです。ですから5円は、駄菓子のくじ引き!紐の付いたアメ玉や、黒ん坊とか、くじ引きの運が良ければ、大きなアメ玉や黒ん坊をゲット!例え外れても、子供騙しな一番小さいサイズの駄菓子が手に入るため、子供らには人気でしたねぇ!そして残った5円で、友達と5円ずつ出し合って、持ち手が二つ付いていて半分ずつに出来るよう真ん中でパキッと割ることの出来る、ソーダ味のアイスキャンディー10円を買って、二つに割って分け合ったものでした。当時のぼくは、マー君といつもアイスキャンディーを分け合っておりましたねぇ。もしもう一度あの頃に戻って、トシ君家の一文菓子屋で5円のくじが引けたら、やっぱり黒ん坊のくじで一等賞を引き当て、菱形に切られた縦10cm横20cm近くの、巨大な黒ん坊を手に入れて独り占めにして食べてみたいものです。皆さんは、どんな一文菓子屋の駄菓子がお気に入りでしたか?

今回はそんな、『もう一度食べたい一文菓子屋の駄菓子!』。皆様からの思い出話のコメント、お待ちしております。

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クイズ!2020.05.26「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」

いやいや意外な事に、苦肉の策のクイズ「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」が好評?で、皆様からも数多くのコメントを賜りました。

そこで益々気をよくして、ぼくからの一方的なブログではなく、皆様にもご一緒に考えていただいてはと、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』をしばらく続けて見ようと思います。

でもクイズに正解したからと言って、何かプレゼントがあるわけではございませんので、どうかご了承願います。

そこで今回の、『クイズ!「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」』はこちら!

今回は和風っぽいスープです。まあ和食では、椀物なんて呼ばれますが、問題は椀種!ちょっとこの写真じゃあ、分かりにくいですかねぇ。

ヒントは、椀種としてはよく使われるアレと、つなぎに緑色した洋物の野菜と言うか実と言うかを使ってみました。

では頭を柔軟にして、どしどしコメントをお寄せ願います。

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「天職一芸~あの日のPoem 111」

今日の「天職人」は、三重県桑名市多度町の「和菓子職人」。(平成十六年十月九日毎日新聞掲載)

四季を彩る和菓子の華が 菓子器の中に咲き誇る      晴の日祝うお茶請けは 松竹梅に鶴と亀          両親の脇和服の君が ぼくの言葉に伏し目がち       「嫁に下さい」震う声 後は野となれ山となれ

三重県桑名市、多度大社の参道脇にある、和菓子の丸繁、七代目和菓子職人の蒔田(まいた)美喜代さんを訪ねた。

流鏑馬(やぶさめ)で賑う多度大社の参道脇。折からの雨が、多度の杜(もり)を洗い清めるようだ。雨乞いの神として知られる社に、木陰に宿る鳥の鳴き声がこだました。山門前を通り過ぎる、農具を積んだ軽トラック。山門に差し掛かると、運転手の農夫はハンドルを切りながら、頭(こうべ)を垂れて行き過ぎた。

「ここらに住んどる者らは、みな車で通りながらも、ああして頭下げてくんさ」。美喜代さんが店先から山門を見つめた。

もともと丸繁は、旧街道の宮川で江戸末期頃に創業され、五代目の時代に大社前へと移転した。代々当主の名には、「繁」の一字が受け継がれる。

しかし六代目は、男子に恵まれず、長女の美喜代さんが家業を継いだ。

短大を卒業すると、名古屋の和菓子屋で、当時女性としては珍しい製造部門へと、住み込みで勤務。男性中心であった菓子職人の世界に飛び込んだ。 「若かったから、怖いもん知らずやさ。あの人らの方が、気遣こてたんと違うやろか」。

幼い頃から両親の仕事振りを間近に見て育った分だけ、菓子作りの飲み込みは早い。和菓子細工に欠かせぬ、細い竹の箸も、使い勝手を良くするため、自らの手で削った。 「細工の飾りをキュッと摘んで、ヨイショッと載せるんやさ」。

四季折々の歳時記に応じ、縁起物から季節を愛でる品まで、甘味をまとった日本の四季が、一口大に仕上げられる。

一年半の住み込み修業を終え、多度へと帰省。両親と共に、参拝客相手の和菓子作りに精を出した。

二十四歳の年に銀行員の夫に嫁ぎ、桑名市内に新居を構えた。とは言え、実家の家業を放ってもおけず、通いで手伝いながら、妊娠・出産・子育てに追われた。 女和菓子職人は、妻として、母として、娘としての、四つの顔を使い分けながら、来る日も来る日も多度へと通い続けた。

「ある人に『毎日、子供ら連れて帰って来るんやったら、ここで暮らしたらええやんか』って、言われて。それもそやなあって」。三年前に、再び蒔田姓へと。

半世紀近く前、先代は雨乞いの神を讃え、最中「雨(あま)ごひ笠(がさ)」を発売。今尚、当時の製法を美喜代さんがしっかと受け継ぐ。

軒を伝う秋の長雨も、雨ごひ笠のご利益か。

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「天職一芸~あの日のPoem 110」

今日の「天職人」は、岐阜県大垣市の「檜桝(ひのきます)職人」。(平成十六年十月二日毎日新聞掲載)

笛と太鼓の祭囃子が 鎮守の杜に木霊せば         豊作祝う獅子が舞い 子供神輿も畦を練りゆく       祭り直来(なおらい)馳走(ちそう)も並び        宴を前に紅を注す                    君に見惚れたおっちゃんが 桝酒こぼし息を呑み込む

岐阜県大垣市の衣斐量器製作所、四代目の衣斐(いび)弘さんを訪ねた。

「いかに世界広しといえども、飲み物入れる器で四角いのは、この桝だけやて」。弘さんは、赤味がかった一合桝を差し出した。檜特有の柔らかな薫りが何とも言えず、気持ちを和ませる。

岐阜県垂井町出身だった初代は、明治初期、木曾檜が集まる名古屋の熱田に住み着き、桝作りを学んだ。そして後に、東海道本線の大垣駅開業に合わせ現在地へ。

工場の裏手には、当時木曾檜を貯木した牛屋川が、わずかに名残を今に留める。

弘さんは大学受験に失敗し、浪人の傍ら家業を手伝いそのまま跡取りへ。

まず、製材した檜を風雨に晒しては、陰干しで乾燥させ、夏目(なつめ)が伸び縮みを繰り返すことで収縮率を抑え、桝に適した状態に整える。「木は一旦死んでも、生きとるんやて。同じ檜でも、芯に近い赤味の柾目(まさめ)が一番やて。性がやさしい(狂いが少ない)でな」。

次に部材に切り分け、桝に組み上げるため、木殺(きごろし)をする枘(ほぞ)を切り込む。枘に組み合わせる窪みは0.四㍉ほど小さく、組み合わさったときに木殺の圧が加わり、凹凸部を強固に固定する仕組みだ。「昔は柾目ばっかやったで、やさしくて割れんかったんやて。でも今は柾目ばっかやないし、枘が0.二㍉大きいだけで割れてまうんや」。

最後に底板を貼り付け、水を付けながら仕上げの削り。水を付けると、檜の艶が増し、鉋切(かんなぎ)れが良くなり、木殺が脹(ふく)らむ。「柾と柾の、なおかつ一本の木から取ったらものやったら、ピタッと見事なほどくっつくんやて」。

一人前の桝職人までには、十五~二十年を要する。

弘さんは昭和四十八(1973)年に、見合いで羽島市から嫁を迎え、三人の子供に恵まれた。 しかし時代は、一人の桝職人を仕上げるまでの、悠長な時間を待てぬほど気忙しく時を刻み始めていた。「木曾の檜も、昔は平坦な山で、ぼんやり育つもんばっかやったんやて。でももう今は、急な斜面に育つ性の悪いもんばっかや。材料は集まらんし、日本酒自体の消費が落ち込んだままやで、桝も同じ運命やて」。

写真は参考

木曾檜の桝に並々と注がれる日本酒。桝の隅に盛られた塩を舐め、五穀豊穣に感謝し、捧げられた神からのお下がりのご酒に酔う。この国に生まれし者の、特権として。

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5/19の「残り物クッキング~〇?〇?〇?〇?〇?」正解はこちら!

「なぁ~んちゃって、イタリア~ンな青椒肉絲パスタ!」

筍の水煮にした保存版とピーマンで、Stay Homeに則り我流で青椒肉絲にチャレンジしました。

お手軽なクックドゥのソースもないため、八丁味噌と豆鼓醤に甜面醤を適当に混ぜ、酒と紹興酒を注ぎ入れ、鶏がらスープの素を加えたものをよく混ぜ合わせ、Honey Babeの薄切り腿肉と筍の水煮、そしてピーマンを加え、前の晩の酒のあてとしていただきました。

その残り物が、タッパーに入ったままでしたので、いっそのことランチ用に、イタリア~ンなパスタにしてしまうかってぇのが、今回の「なぁ~んちゃって、イタリア~ンな青椒肉絲パスタ」です。

作り方なんておこがましい位、超簡単!

まずお好みの茹で加減でパスタを茹で上げ、オリーブオイルを塗して、オリーブオイルをひいたフライパンに投入。

ざっとパスタを炒めたところで、タッパーの青椒肉絲を入れてよく混ぜ合わせ、皿に盛り付けて上からパルミジャーノレッジャーノを摩り下ろして振り掛ければ完了。

何ともお手軽ながら、イタリア~ンな中華擬きに仕上がり、ご機嫌な味についついキリン一番搾りを真昼間っから煽ってしまいましたぁ!

皆様のご家庭でも、青椒肉絲の残り物が出来た時は、ぜひ一度騙されたと思って、超簡単なパスタにチャレンジして見てください!

なかなかどうして、侮れぬ充実のランチとなること請け合いです!

今回も皆様からお寄せいただいたお答えの中にも、大正解に近い方もお見えでしたので「やられたっ!」って感じでございました!ありがとうございました。

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「天職一芸~あの日のPoem 109」

今日の「天職人」は、愛知県蒲郡の「バナナ問屋女将」。(平成十六年九月二十五日毎日新聞掲載)

お昼ご飯はバナナ三本 どれも傷んだお値打ちバナナ    中から一つ選び抜き あの娘の席にそっと忍ばす      昼飯代わりバナナが二本 連れにどんなに笑われたって   食事の後にぼくを見る あの娘の笑顔 胸一杯

愛知県蒲郡市の鈴木バナナ店、二代目女将の鈴木道子さんを訪ねた。

「嫁入り話が持ち上がった時、相手がバナナ屋だって聞いて、すっかりその気になったじゃんねぇ。だってバナナ好きだっただもんで。洋裁学校へ行っとった頃なんて、バナナ五本とジュース一本がお昼ご飯だぁ。だもんで、行きがけに隣の果物屋で、ちょっと傷んで安なっとるバナナ、買っとくだ」。道子さんが懐かしげに笑った。

鈴木バナナ店は、先代が戦前、問屋として開業。とはいえ当時もバナナは、すべて輸入に頼る高級品。戦争の激化と共に、入荷も途絶えがちに。

昭和十九(1944)年、道子さんは豊橋市の染色業を営む家庭に誕生。戦後は、誰もがひもじさと向き合った統制経済下の時代。栄養価の高いバナナは、果物の王様として君臨し続けた。

時代も昭和三十(1955)年代に移ろうと、統制解除と輸入の自由化が、庶民の暮らし向きを徐々に上向け始めた。

そしてついに昭和三十八(1963)年には、バナナの輸入自由化が実施され、輸入量の急増に伴い価格が下落。バナナは徐々に、王様としての地位を明け渡していった。「それまでは、儲かって儲かって、お金の使い道に困るほどだったじゃんねぇ」。

昭和四十三(1968)年、道子さんは「大好きなバナナがたらふく食べられる」と舞い上がり、二代目主人の伊佐雄さんの元へと嫁いだ。「ここへ来た端は、ようバナナをたらふく食べただぁ」。

当時は毎日真っ青なバナナが、店の地下に設けられた七つの室に、二百箱ずつ詰め込まれた。室の温度は年中十六℃に保たれ、真っ青なバナナが黄色く色付くまで、エチレンガスを入れ五日かけて渋を抜く。「室を開けイキリ(ガスで息が切れる)を抜いて出荷だもんで」。一房十五~十六本、一箱五房入りのバナナが、三河の各地に向け出荷された。

「昭和五十五(1980)年にこの家建ててから、商売さっぱりじゃんねぇ。だってバナナと卵だけは、値上がりせんらぁ。だもんで今は、お父さんも勤めに出とるじゃんねぇ」。

道子さんが一本のバナナを差し出した。「このホシ(茶色の点)が出た頃が食べ頃じゃんね」。

バナナ喰いの達人の言葉に嘘は無い。『確かに美味い!』。あの日、母にねだって無理やり買ってもらった、遠い日の甘さが口の中に広がった。

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「天職一芸~あの日のPoem 108」

今日の「天職人」は、三重県伊勢市の「伊勢玩具刳物師(くりものし)」。(平成十六年九月十八日毎日新聞掲載)

子供の世界 スターはいつも               独楽(こま)にヨーヨー 匠な手技            どんなやんちゃな 奴だって               一目置いた ひ弱なぼくに                みんながぼくの 技知りたいと              やんちゃな奴も 弟子入り志願              独楽の違いが 技となる                 父の刳物 独楽の出来栄え

三重県伊勢市の、二代目伊勢玩具刳物師の畑井和生さんを訪ねた。

「進駐軍のやつらは、五本の指にヨーヨー付けて、両手で一遍に回すんやさ。あれじゃあ、戦争にも負けたはずや」。和生さんが両手で真似て見せた。

和生さんは、尋常高等小学校を上ると、軍事徴用で戦闘機のプロペラを製造。戦後は伊勢に戻り、先代に付いて轆轤(ろくろ)を回した。

戦後も落ち着きを取り戻すと、中断されていた「伊勢おおまつり」が再興され、平和博覧会も開幕。 「あの頃は、進駐軍にヨーヨーがよう売れたんやさ。進駐軍の奴らは、両手で十個のヨーヨーを、器用に回すもんやで、それ見て日本人も『なにくそ』ってなもんで、真似るもんやで、飛ぶようにようけ売れよったんやさ」。

この地の刳物業者五軒が、先を競うように足踏み轆轤を回し続けた。

伊勢の神域、神路(かみじ)山から、百日紅やチシャノキ、椿を切り出し、天日に晒し二年間据え置く。「半生のまま作ると、後で黴が来るんやさ」。刳物師たちの先祖は、神路山を神宮林として拠出。その見返りとして、立ち木の払下げが今尚許されている。

戦後間も無く、和生さんは「バット型連発ポンポン鉄砲」なる、コルクの鉄砲を考案し意匠登録を申請。「これが当時の野球小僧にバカ売れや。本当はポンポン銃にしたかったんやさ。せやけど進駐軍から、えらいお叱りもうて(もらって)なぁ」。

最盛期の昭和二十七~二十八(1952~1953)年頃は、ヨーヨー・ケン玉・達磨落しが輸出品として持て囃された。轆轤五台の稼動に、弟子十八人。昼夜を問わず作業に追われた。

昭和二十九(1954)年、同郷の妻を迎え、一男二女が誕生。満ち足りた明日の訪れを、疑うことなどなかった。

しかし昭和四十六(1971)年、ドル・ショックが日本中を直撃。「ドルの値が下がって、儲けあれへんし。あほらしてなぁ」。そこで今度は、修学旅行客向けに販路を求めた。しかし濁流のような時代の流れに抗うことなど出来ず、やがてその客足も絶えた。

「所詮子供騙しみたいなもんや。せやけど独楽もなあ、軸との釣合が取れとれば、ちゃんと行儀よういつまでも回っとるんやさ。今しは玩具の多さを、豊かさと勘違いしとるんやで」。

六十年片時も休むことなく、回り続けた轆轤。まるで刳物師の人生を刻む時計のように。

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「天職一芸~あの日のPoem 107」

今日の「天職人」は、岐阜県瑞穂市の「柳行李(やなぎごうり)職人」。(平成十六年九月十一日毎日新聞掲載)

春秋二度の衣替え 柳行李を引きずり出せば         暑さ寒さが忍び寄る                   空(から)の行李は子供らが 隠れて遊ぶ小さな世界    疲れて眠り高いびき

岐阜県瑞穂市の柳行李職人、三代目松野好成さんを訪ねた。

写真は参考

「もうわしで仕舞やて。柳の灰汁(あく)で手が黒なるし、汚こいでな。おまけに食えんで、誰もせえへんて」。苔生す土間に面した作業場で、好成さんは完成したばかりの柳行李を軽々と抱え上げた。

旧、穂積町一帯の農家では、明治時代に農閑期の副業を求め、兵庫県豊岡市の柳行李作りを学ばせようと、農民を派遣し技術の取得を図った。「米取ってまったら、他に働き口もねぇんやで」。

稲刈りも終わり十二月になると、柳の枝を切って田んぼに挿し、春先に芽が吹くのを待つ。芽が出ると、柳の皮が剥きやすくなるからだ。芽吹いた柳は、明治時代のY字金具の脱穀機で、枝が白むまで皮を剥く。そして部材の寸法に切り分け、水に三時間ほど浸し、柳に粘りが出たところで、一気に二時間程かけて編み上げる。

写真は参考

普及品の行李は、長さ二尺四寸(約七十三㎝)、幅一尺二寸(約三十六㎝)、深さ七寸(約二十一㎝)。周囲は十㎝幅程のズック(麻・木綿の繊維を太く縒った糸で織った布地)で、二~三時間かけ凧糸の手縫いで纏る。

軽くて頑丈な柳行李は、兵隊の私物輸送用に利用され、戦前は一大産地にまで成長した。「学校から帰って来ると、三百本ほど皮剥いて十円の菓子パン一個の駄賃やて」。松野さんは懐かしそうに笑った。

中学を出ると同時に、父の元で職人として腕を揮った。しかし戦後の急速な生活様式の変化は、この国の様々な手仕事を奪い去った。柳行李も例外では無い。昭和三十(1955)年代後半からは転廃業が続出。今では松野さん只一人。

「プラスチックの衣装入れはかん。衣類が湿気吸ってまって、直ぐに黄ななるで。だってこの国は、湿気の国やでな。今では、衣装を大切にする日舞の先生やお寺さん、それにタカラジェンヌに愛用される程度やて」。

今でも宝塚歌劇団では、入団時に衣装入れとして、ピンクのズックで縁取られた一尺(約三十㎝)四方の柳行李を購入するとか。(平成十六年九月十一日時点)

柳は白色から飴色に褪せても、二~三代は十分に使える耐久品だ。「もう柳自体も手に入らんし、身体もえらいで、頑張っても年に十本から二十本程度しか出来んて」。

写真は参考

柳行李一筋に半世紀と五年。節くれ立った指に凍み込んだ柳の灰汁。土間に立って見送る姿は、まるで吹き抜ける秋風と戯れる、小川の辺で揺れる一本の老いた枝垂れ柳のようであった。

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