「昭和Nostalgia」(343)

「広報ひだ」の『飛騨びと 言の葉綴り』がこちらのP20kotonohaのコピー

残念ながら広報ひだの本誌は、紙面のスペースに限りがあり、掲載文は抜粋版となっております。文字数制限のないweb版も飛騨びと言の葉綴り~河合町・岡崎賢一郎さん – 飛騨市公式ウェブサイト併せてご覧いただければなによりです。

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そう言えばわが家にも、こんなマガジンラックがありましたですねぇ。

とは言え、洋風なリビングのソファーの傍らにあったのならともかく!

櫓炬燵が部屋の真ん中にデーンと居座り、お母ちゃんが鳴り物入りで、他所のご家庭の真似をしようと買い込んだマガジンラックは、その居所もどうにも定まらず、茶箪笥の前で違和感剥き出しのままうずくまっていたような?

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それに肝心要のマガジンラックに納まっていたのは、新聞や折り込み広告と、お隣さんから回って来た回覧板と言った類で、とてもとてもお洒落なファッション誌など、まったくもって見かけられなかった気がいたします。

するとやがてその内にマガジンラックは、お父ちゃんの孫の手やら、お母ちゃんの家計簿といった、身の回りの品々が独占するようになり、洗濯物がなかなか乾かない冬の日なんぞは、お父ちゃんのまだ生乾きの作業着が広げられていたりしたものでした。

残念ながらわが家のマガジンラックは、いつまでたってもわが家の景色に馴染めず、儚くもその務めを終えて行ったものです。

きっと皆様方のお宅じゃあ、そんなこたぁありませんでしたよねぇ。


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「昭和Nostalgia」(342)

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ぼくも小学校の何年生の頃だったかに、こんな地球儀を買ってもらったことがありました。

けっこう地球儀が好きで、まだ見ぬ国の位置や、指で触って標高の高低差を体感したものです。

そしていつの日か、地球儀で眺めただけの国に出掛けてみたい、そしてそこで暮らす人々に出逢ってみたいと、一人で夢を膨らませたものでした。

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同時に、地球儀の中のちっぽけな日本列島の、そのまたちっぽけな列島のさらにちっぽけな町で暮らしていることそのものが、にわかには信じ難く実に奇妙に思えてならなかったものです。

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そう言えば月に一度、お母ちゃんに連れられて名古屋駅の名鉄百貨店に出掛けると、市バスが笹島の交差点を曲がって名古屋駅前へと北上すると、大名古屋ビルヂングの天辺に、地球儀のように自動で回る森永の球体電飾看板が目に入ったものでした。

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それにしても懐かしい地球儀擬きの球体看板でしたねぇ。


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「昭和Nostalgia」(341)

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これまた昭和の頃に、会社の事務所や銀行の窓口とか、そこら中で見かけられた腕カバー姿ですねぇ。

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ぼくも小学生の頃、お母ちゃんお手製の端切れで作ってもらった腕カバーを、教室の中で着けていたものでした。

鉛筆で書いたノートの上に、袖口を載せると鉛筆の黒色が服に付いちゃうのを防ぐためだったのやら、水彩画の絵具が付いちゃうからだったのやら?

そんな腕カバーをしなきゃなんないような、高級な服なんて誰一人として着ていないのに?

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それとも腕カバー流行りだったのやら?

そう言えば30数年前、ニュージーランドの確かダニーデンにあった、コーンウォール・ジュニアスクールで、子どもたちがカカポの水彩画を描き、それをお母さん方が写真に撮り、赤や青の画用紙に貼り込み、お手製のポストカードを作って、街頭でチャリティー販売してカカポのドネーションを集めると言った催しがあり、その同行取材をしていた時の事でした。

教室にやって来る子どもたちは、みんな手に手にお父さんが着古したワイシャツを手にしてやって来るではないですかぁ!

するとそのワイシャツの背中側を自分の胸側に宛がい、前後反対のまま袖を通して、お母さんたちがワイシャツのボタンを子どもの背中側でとめ、それを腕カバーならぬ、お絵かき用のエプロン代わりとしていたのです。

そりゃあもう、子どもの体はお父さんの着古したワイシャツで、すっぽり首から下全身が覆われてますから、どんなに悪戯をして絵筆で悪さされたってヘッチャラ!

実に理にかなっていて、とても感動したものでした。


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「昭和Nostalgia」(340)

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昔の車には、こんな数珠のようなシートカバーを着けている車があったものでした。

一般車はもちろん、タクシーの運転席や後部座席でも見かけたものです。

ぼく的には、お尻や背中に数珠玉が当たり、ゴリゴリとしてあまり快適であった記憶はありませんでした。

ところが昭和の時代が終わり、平成の世となり、取材でインドを訪れた時の事。

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アンバサダーと言うタクシーで、ガイドと共にあちこちを巡ったものでした。

そのタクシーの中が全くその昔の、昭和の時代そっくり!

もう数珠玉が連なったシートカバーが、運転席やら後部座席にも辺り一面に張り巡らされ、それでなくとも凸凹道でガッタンゴットル揺れて大変なところへ持ってきて、シートカバーの数珠玉が背骨やらお尻に当たって痛いのなんのって!

でも暑い国ですから、シートと数珠玉との間に僅かな空間が生じることで、エアコンの無い車内の暑さが凌げていたようにも思います。

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一方こんな清潔感漂う、レースのシートカバーなんてぇのもございましたねぇ。

でも手入れの悪いタクシーなんかだと、レースが汚れて黒ずんだままだったり、日に焼けてレースが黄色く変色しているものもあったりして、そんなタクシーに出くわしてしまうと、ゆったりと背もたれにもたれることも出来ず、ちっとも落ち着かなかったものでした。

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中には、レザー張り風に、こんなシートカバーをする若者もおりましたねぇ。

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そう言えば、何でもござれのバブルの時代になろうものなら、こんな企業の宣伝広告がビッシリと貼り付けられたタクシーもございましたですよねぇ。

ぼくだったらこんなタクシー、後部ドアーが開いた途端、「あっ!ゴメン間違えましたぁ」とかって言って、乗車するのをきっと辞退したことでしょう!


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「昭和Nostalgia」(339)

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ぼくは小学生の頃からずっと、こんな味気の無いデコラ張りの学習机を使っていたものです。

机の天板は傷だらけで、引き出しにはお菓子のおまけについて来た、鉄人28号や鉄腕アトムにエイトマンなどのシールがベタベタと貼ってあったものです。

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中学に上がる頃になると、小学生の頃に貼ったシールが幼すぎる気がして、恥ずかしくなり剥がそうとしたものの、これがまた手強いのなんのって!

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結局上手に剥ぎ取れず、ますますみすぼらしくなったものでした。

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女の子の家にお邪魔すると、こんなお洒落な勉強机があって、羨ましくてならなかったものでした。

ぼくもこんな勉強机を買ってもらえていれば、もっともっと勉強したのになぁなどと、思ったものでした。

でも勉強の出来不出来は、そんな勉強机のせいじゃありませんものねぇ。

まぁ今となって見れば、幼い頃から怠け者だった、ぼく自身のなせる業でしかなかったってぇことですねぇ。


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「昭和Nostalgia」(338)

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昭和半ばの頃は、いたるところでこんな木製やプラスチック製の縄暖簾を見かけたものです。

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喫茶店や食堂や中華飯店は元より、一般家庭でも部屋と部屋の間仕切りのような感じで、吊り下げられていたものでした。

とは言え、縄暖簾で向こうの部屋が見えないわけでもないんですが、どんな役割だったんでしょうかねぇ。

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縄暖簾をジャラジャラと音を立てて掻き分けたのは、「そっちの部屋に入りますよ~っ」とでも言う、チャイムのような役割だったんでしょうかねぇ。

わが家にもこんなプラスチック製の縄暖簾が吊り下がっていたものでした。

きっとご近所のお家の縄暖簾に、お母ちゃんも刺激されちゃったんでしょうかねぇ。

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ぼくなんぞは、赤提灯の灯された居酒屋の、縄暖簾を潜る瞬間が好きだったものです。

これもまた、すっかり見かけなくなっちゃった、昭和半ばの風景の一つですねぇ。


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「昭和Nostalgia」(337)

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ぼくが子どもの頃は、月に一度くらいだったでしょうか?

こんな感じで七輪で豆炭を熾し、金網を乗せて味噌味のとんちゃんをお父ちゃんが焼いてくれたものでした。

この日ばかりは、お父ちゃんが鍋奉行ならぬ、とんちゃん焼き奉行。

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おそらく月に一度の給料日恒例、わが家におけるお父ちゃんのお疲れ様会だったんでしょうねぇ。

お父ちゃんはキリンラガーの大瓶からグラスにビールを注ぎ、ご機嫌な様子でとんちゃん奉行を務めてくれたものでした。

ぼくはまだ子どもでしたから、キリンレモンをビール代わりに、グビグビやりながら、濃い味付けのとんちゃんを、チューインガムのように味噌味がすっかり無くなるまで噛み続けたものでした。

そう考えると、わが家は親子二代に渡って、筋金入りのキリンビールフアンに違いないってことです!

その肝心要のとんちゃんは、お母ちゃんがバスに揺られ、隣の区にあるとんちやん販売店まで買い求めに行っていたものです。

ぼくも何度か一緒に行ったことがありました。

つい先日、その店のあった旧街道を車で通る機会があり、お母ちゃんに連れられて行ったとんちゃん屋さんらしき店が、今でもそこで店開きされているのを見て、ひどく感激したものでした。

今度その店を訪ねることが出来たら、お父ちゃんとお母ちゃんと共に突っついた、あの味噌とんちやんを焼きながら、キリン晴れ風でも煽って見ようと思っています。

って、その前に七輪と豆炭を購入しなきゃなんないかぁ!

なんてぇこったぁ!


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「昭和Nostalgia」(336)

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昨日、近くの中学校は卒業式を迎えていたようです。

校門に国旗が掲揚され、大きな字で「卒業式」と墨書されていて、ぼく自身の中学の卒業式を思い返しておりました。

卒業式の後、高校進学で離れ離れになる事もあり、仲良し四人組の男坊主で、長野県白馬村のスキー場へ生意気にも卒業旅行へと出掛けたりしたものです。

もちろん親のすねかじりでしかありませんでしたが。

白馬村の民宿に、確か3泊4日滞在した記憶があります。

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6畳1間の部屋の中央には、こんな掘り炬燵が切られていて、一番底の格子の下に豆炭が熾っていて、電気炬燵とは似て非なるホッコリとした温もりが、冷えた体にとっても優しかったものです。

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炬燵のテーブルには、薬缶一杯の番茶が出され、お茶菓子として「野沢菜」が皿一杯にテンコ盛りで出されていたものです。

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夜寝る時には、部屋の中心にある掘り炬燵の四辺に、布団を「十」の字になるように敷き入れ、足を掘り炬燵に突っ込む形で眠りに就いたものです。

しかし足癖の悪い友が、寝ぼけたまま掘り炬燵の中で靴下を脱ぎ捨ててしまい、靴下の先っちょが炬燵の格子の下へと落っこち、豆炭の炭火で焦げてしまい、その燻される様な臭いでみんな飛び起きたこともありました。

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中にはこんな天板の下に豆炭を格納する炬燵もあったようですねぇ。

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当時わが家の炬燵と言えば、こんな電気炬燵でした。

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テーブルの天板をひっくり返すと、こんな麻雀用のテーブルに早変わり!

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とは言え、家はお父ちゃんもお母ちゃんも麻雀はしませんでしたので、もっぱらトランプや人生ゲームで遊んだものでした。

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そう言えば、最後に炬燵で温まったのって、何十年も前の事だったような?

いつの日か旅先の雪国ででも、ほっこりと炬燵に入って、雪見格子から降りしきる雪を眺めつつ、漬物を当てに真宗寺燗をキュ~ッと煽って見ますかぁ!


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「昭和Nostalgia」(335)

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昭和半ばには、朝を告げる音があったものです。

牛乳配達や新聞配達のオジちゃんやオバちゃんが、自転車のブレーキ音を「キィ~ッ」と軋ませ、牛乳箱に牛乳瓶が投入される「ガチャガチャコトン」と言う音。

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新聞受けに朝刊が投入される「ゴトン」と言う音。

子どもの頃のわが家の新聞受けは、木製だったような?

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わが家もこんな郵便受けでしたねぇ。

子供の頃の元日は、朝早くから何度も何度も、年賀状が届いていないかと、郵便受けを確認しに行ったりしたものでした。

って、ぼく宛ての年賀状なんて、たかが知れた数でしたが!

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街角でこんなポストももう見かけなくなっちゃいましたねぇ。

まぁ、去年一年を振り返って見ても、ぼく自身一度もハガキや封書を送った記憶すらありませんから、街角でこんなノスタルジックなポストを見かけたとしても、昭和チックなオブジェにしか見えないかもしれませんねぇ。

なんてったってやっぱり今じゃあ、瞬時に済ますことが出来る、E-mailやLineにすっかり頼っちゃってますからねぇ。


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「昭和Nostalgia」(334)

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まだまだ寒い日が続いておりますが、そこかしこに春の予感が感じられるようにもなって来た気がします。

日に日に桜の枝もうっすらとピンクがかって来たように見えますし、生きとし生けるもの全てが、間もなく訪れる春の準備を始めているようです。

春が近づくと思い出されることがあります。

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それはぼくがまだ小学1年の頃だったかに、お父ちゃんとお母ちゃんとぼくの三人で、近くの川の堤防でヨモギを摘み、お父ちゃんが「昔取った杵柄やぁ」と言いながら作ってくれた、春の香り満載の「ヨモギ餅」。

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三重県松阪市の西の外れで生まれ育ったお父ちゃんは、尋常高等小学校を出ると、菓子職人を目指し京都の御菓子司へ住み込みで修業に入ったそうです。

そこで見よう見真似で覚えたのが、ヨモギ餅だったのかも知れません。

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しかし菓子職人としての修業も、赤紙一枚で召し上げられ、お父ちゃんは菓子職人の夢も捥ぎ取られ、中国戦線の最前線へと送られてしまったようです。

戦後復員してからは、菓子職人とはかけ離れた鉄工所で、溶接工として働きぼくを育ててくれました。

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もしその時代も平和で、お父ちゃんが菓子職人となっていたら、もっとたくさんの菓子を作ってくれたんじゃないのかなぁと、幼心にもそう思ったものでした。

生涯お父ちゃんが、ぼくとお母ちゃんに作ってくれたお菓子は、そのヨモギ餅ただ一つきり。

お父ちゃんが「昔取った杵柄やぁ」と嘯きながら作ってくれた、唯一無二のヨモギ餅の味、いまでも仄かに覚えています。

でも待てよ!

もしお父ちゃんに赤紙が舞い込まず、京都で菓子職人となっていたら、ぼくはこの世に産まれい出ることもなかったのかぁ!


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