今日の「天職人」は、三重県伊勢市宮町の「弥吉の孝行鰻職人」。(平成21年10月7日毎日新聞掲載)
外宮を詣で一休み 「これからなとしょ」父が問う 「なとしょゆうても昼やしな」 「ほなら飯でも喰うてこか」 「孝行鰻二人前 それにお銚子一本」と 馴染み気取りで父が言う 勘定だけを押し付けて
三重県伊勢市宮町の料理旅館おく文。五代目となる奥田守さんを訪ねた。

「これが160年前から代々伝わる、弥吉の孝行鰻ですんさ」。守さんが、朱漆塗りの上品なお重を差し出した。
そっと上蓋を持ち上げる。

するとたちまち、鰻特有の濃厚なタレの香りを、炊き立てのご飯の湯気が鼻先へと運ぶ。
一斉に唾液が何処からとも無く、口中に沸き出でる。
口に含むと鰻の身もとろけ出し、絶妙なタレには上品さが漂う。

鰻は脂気も程よく抜け落ち、全くしつこさも無く、あっという間に一人前を平らげてしまったほどだ。
宇治山田市史によれば孝行鰻とは、幼名奥田文三郎、のちの長谷川弥吉の名で紹介されている。
奥田文左衛門の三男として天保6(1835)年に誕生した文三郎は、5歳で両親を失い、2つ上の姉と途方に暮れた。
隣に住む左官の長谷川弥平は、そんな姉弟に同情を寄せる。
だが弥平も所詮貧しい職人暮らし。
姉だけ親戚に預け、文三郎を養子として引き取り弥吉と改めさせた。
弥吉も左官見習いを始めるが、家計を支えるまでには至らない。
ならばと、幼い弥吉は蒲焼きを重箱に詰め、風呂敷に包んで山田(伊勢)の町を売り歩いた。
毎日毎日、雨の日も風の日も。
その姿に心打たれた町衆から、いつしか「孝行鰻」と呼ばれ贔屓に。
やがて山田奉行の耳にも入る事となり、孝行心を褒め称え青銅五貫文が与えられた。
その後妻を得、二人の息子を遺し、明治21(1888)年に54歳で他界。
その5年後、弥吉の次男の文吉が奥田文左衛門家を再興し、孝行鰻を継いだ。
以来、「孝行鰻」の名で親しまれ続けている。
守さんは昭和12(1937)年、4人兄弟の長男として誕生。
高校を出ると直ぐに家業に就いた。
「家は昭和2年から、料理旅館を始めてましてな。孝行鰻はもちろんやけど、その他の日本料理も、板前さんに付いて修業せんならんし」。

いかに跡取りとは言えども、板場修業に手加減など無い。
昭和40年、同市二見町から恭子さんを妻に迎え、二男二女を授かった。
「妻の実家は、取引先の八百屋でしたんさ。もともと戦時中までは、外宮さんの傍で商売しとったんやさ。それが強制疎開で二見町へ移転させられてもうて」。
昭和50年、晴れて板場を任された。
160年前と変わらぬ孝行鰻作りは、三河一色産天然鰻の、背開きに始まる。
まずは軽く素焼きし、一之タレに潜らせる。
代々継ぎ足して使い続ける一之タレには、脂の旨味が溶け出しコクが深い。
再び焼き、仕上げの二之タレに潜らせ、とろみと照りを付ければ出来上がり。

孝行鰻職人は、家業の謂(いわ)れに驕る事無く、弥吉を敬いその志を継ぐ。
暇を乞い表へ出ると、老婆の声が。
「どやった?美味かったやろ。ここのは、本家本元やでな」と。
まるで見ていたように笑う。
孝行鰻が、今も町衆の誇りであり続ける所以(ゆえん)だ。
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最近は食べてないですが、子供の頃からうなぎ丼は大好き。タレの味も大事なんだよなぁ⤴️
タレの味もさることながら、ぼく的にはご飯の硬さが重要です。
ベッチャベチャな柔らかなご飯では、鰻丼の美味さが半減しちゃいますもの。
ぼく的には、一粒一粒が立っているような、そんな炊き上がりのご飯じゃなきゃやっぱり駄目です。
唯一お気に入りで、墓参りの後に必ず寄っていた鰻屋も、一度ご飯がベッチャベチャだったため、もう二度とそこには行かなくなっちゃったほどです。
伊勢というと海が近いのでうなぎのイメージはないので意外な感じがしました。でも五十鈴川という清流もあるので川魚も良いものが獲れるのですね。還暦にもなったし一日かけて伊勢を巡ってみたくなりました。
今年のお伊勢参りと、石神様詣では、緊急事態宣言下にあるため、しばし延期中です。
孝行鰻で一献は、しばしお預けです。
なんだか盛り付け方が斬新⁈
でも好きですけどね(笑)
物凄〜く美味しそうに見えます。
料理旅館 いつになったら行けるかなぁ?
電車や美味しいお料理やお酒やお風呂…
想像しただけでワクワクしちゃう( ◠‿◠ )
ワクチンが打てるようになってからでも、まだまだマスクを着用しなければならないんでしょうかねぇ?
でもお出掛けが出来るようになって、少人数でマスク無しで笑ってお食事が出来る日が一日も早く来てもらいたいものです。