今日の「天職人」は、岐阜県郡上市白鳥町の「民宿女将」。(平成21年4月28日毎日新聞掲載)
階段下の踊り場で 「晩御飯よ」と声がする 丹前羽織り膳に着きゃ 宿の娘が膝の上 「三月(みつき)も過ぎりゃ民宿は 半ば家族も同然」と 女将の酌にホロ酔えば 我が子恋しや里心
岐阜県郡上市白鳥町、民宿のさとう。二代目女将の佐藤奈々子さんを訪ねた。

「じゃあ行って来るわ」。
「おおきに。気い付けて」。
久しぶりに里帰りした倅が、再び都会へと帰るのだろうか。
走り去る車を、じっと見つめる年老いた母。
「何言っとるの。あれはお客さんやて」。奈々子さんが大笑い。
「家のお客さんはたいがい『行って来ます』って、帰って行きなるねぇ、一己さん」。
女将は調理場の夫に同意を求めた。

「ああ?おう、ほうやほうや」。妻の声が届かぬか、夫は適当な相槌で煙に巻く。
奈々子さんは昭和16(1941)年、旧高鷲村で4人姉弟の長女として誕生。
だが物心が付くか付かぬかの3歳で、父を旧ビルマの戦地で失った。
「顔さえ思い出せんのやで、抱いてもらった記憶なんてねぇ」。
中学を出るとすぐ農協に勤務。
3年後には役場へと転職。
そこでも3年目を迎え20歳が過ぎた。
すると叔母から見合いの話が。
「裸電球の下でお見合いしたんやて。叔母が『奈々子、オリ(俺の方言)が若かったら、絶対一緒になった』って言いないてねぇ。背も高くて顔もいいし、小林旭みたいでそりゃあもてたらしいよ」。
静まり返った調理場に咳払いが一つ響いた。
昭和37年、白鳥町の小林旭こと一己さんの元に嫁ぎ、3人の男子を授かった。
ところが……。
「2目の子が生まれた時やわ。どうもコレが出来たみたいで」。奈々子さんが小指を逆立てた。
「それで子どもら連れて、実家へ20日ほど帰ったったんやて」。まるで他人事のように、大きな声で屈託無く笑い飛ばした。
「今でも気に入らんことがあると、たまにあの事をチクチクッと言ったるよ」。
民宿の創業は、昭和26年。
「最初は、油坂スキー場の民宿として、冬場の土日だけ。嫁に来た頃は、夜中に竈(くど)でご飯炊いて、スキー客のお昼用におにぎり握ったもんやて。水は冷たいし、腕まで真っ赤に赤切れて」。
週末には観光バスが、愛知からのスキー客をこの地へと運んだ。
「ちょうどここは、九頭竜へ向かう交差点にあるもんやで、店先にパンや牛乳を置いとったんやわ。そうしたらダム工事のトラックの運チャンが、パンと牛乳で一服しもって『お母ちゃん、ここでご飯したら』って。田舎のもんしかよう作れなんだけど、それから細々と食堂を開いたんやて。その内に九頭竜から出る五色石を仕入れに、造園屋さんらが来るようになって。そしたら今度は泊めて欲しいって」。
昭和43年から通年での営業が始まった。

「この辺はダムの工事で、長期滞在が多くてね。長い人やと1年近く。だからそんな人には『一緒にご飯食べよう』って声かけてあげて。花見に行ったり、一緒に洗濯物干したり。まるで家族が増えたみたいで楽しいよ」。

奈々ちゃん女将の民(たみ)の宿は、三つ指で傅(かしず)きはしない。
だがそれ以上に、値千金の笑みを持って、何人(なんぴと)をも出迎えてくれる。
このブログのコメント欄には、皆様に開示しても良いコメントをドンドンご掲示いただき、またその他のメッセージにつきましては、minoruokadahitoristudio@gmail.comへメールをいただければ幸いです。
お客さんの要望に答えて形を変えていくなんて、優しいご夫婦ですねぇ⤴️小指も笑い話にしちゃうんですもの。
喜怒哀楽、そのすべてを包み隠さず共有して、手を取り合って生きて行く夫婦の姿には、色々学ばされる思いがします。
こんにちは。民宿さとうさん・・・蔵開きの時の後で皆でワイワイ呑んで食べて本当に楽しい時間を過ごさせていただきその節は本当にありがとうございました。もう6年前の事になるんですね(私の記憶が確かならば2015年だったはず)そうそう去年の12月31日に息子を連れて私の軽トラ君で白鳥の道の駅までドライブしましたよ 家を出るときは晴れてたんですけど白鳥に近づくにつれて雪が強くなってきましてね・・・子供と一緒に楽しいプチドライブができましたよ。
白鳥まで長良川沿いに走る、国道156号線。
ぼくも大好きな道です。
幹ちゃんとのドライブ、きっと思い出深いものになったでしょうねぇ。
写真の中のお二人 素敵な笑顔ですね!
「ただいま〜」って言いたくなっちゃいますよ( ◠‿◠ )
白鳥… 懐かしい…
短大の頃 部活の合宿で 民宿に行った事があります。その民宿もゆったり出来て 居心地が良かったのを思い出しました。合宿中に胸キュンの出来事もあったりして。
あらら、それも含めて青春の甘酸っぱい思い出でしょうか?