今日の「天職人」は、愛知県碧南市の「羽子板押絵師」。(平成20年2月19日毎日新聞掲載)
コツンコツンと縁側で 晴れ着でハシャグ君の声 「姉さんズルイ」連発し ベソかき庭で蹲(うずくま)る 父が贈った羽子板は 絵柄淑(しと)やか京禿(きょうかむろ) そんな願いも何のその 勝気お転婆(てんば)末娘
愛知県碧南市、羽子板押絵師の岡田圭子さんを訪ねた。

「結果的には、主人との新婚旅行よりも先に、姑と一緒にハワイ旅行したようなもの。何でって?だってハワイ旅行のツアーで一緒だったのが姑で、帰りの空港で何気なく写真撮られて。それがお見合い写真だったわけ」。圭子さんは、はにかむ様な照れ笑いを浮かべた。
圭子さんは昭和22(1947)年、現在の岐阜県飛騨市で公務員の家庭に長女として誕生。
高校を卒業すると、名古屋の繊維会社で事務仕事に就いた。
しかし二年後、愛知県警の採用試験を受け昭和42(1967)年に婦警に転身。
「親戚中まわりがみんな公務員のせいもあってね」。
名古屋市内で先輩婦警が二人に同期が一人という時代。
名古屋市千種警察署の防犯課少年係に配属された。
「非行の補導が中心で、私服で町中を見回りするの。学校行かずに遊んでる子を補導して、注意を促すのが仕事の中心。あの頃は、今のように子が親を殺したり、親が子を殺すような物騒な時代じゃなかったから、わりと平和だったわよねぇ」。
それから5年後。
昭和47(1972)年に後輩が配属され、休暇を利用しハワイへと渡航した。
そのツアーで人生の伴侶を決しようとは、マナの神憑(かみがか)り的な導きか?
「ハワイから戻ってしばらくすると、写真を持って姑が署へ訪ねて来たの。それで自分の息子だってこと内緒にして、夫との見合い話しを切り出したわけ」。
そうとは知らず翌年見合いの席へ。
「夫はずっと黙ったまま。でもその姿に不思議と安心感を感じたの」。
昭和49(1974)年に結ばれ、夫の転勤で豊橋に移住。
一男二女に恵まれ、9年間の婦警生活を終え育児に専念。
昭和57(1982)年には再び夫の転勤で、現在の実家へと舞い戻った。
「その翌年から、子育ての合間を縫いながら、名古屋の文化教室へと通って、和紙の姿人形作りを学んだの」。
平成元(1989)年には師範に。
「そしたら先生から、今度はさらに高等な押絵を勧められて」。

再び丸8年に及び修練を重ね、平成9(1997)年に師範の資格を取得した。
「昔からぬいぐるみ作ったり、編み物したり。子供の頃はもっぱら、少女雑誌の付録で紙の着せ替え人形作って遊んでたし。手先を動かしてるのが好きなのよ」。
自慢の押絵の羽子板を手にした。
羽子板の押絵飾りは、干支や宝船、舞妓、勧進帳、禿など雅やかな彩りを再現する技法。
まず図柄のパーツ毎に台紙を切り抜き、絵の立体感に合わせて綿を貼り付け、色鮮やかな古布や端切れで綿を付けた台紙を包み込む。
元絵に合わせ図柄を組み合わせ、黒和紙で裏貼りし、羽子板に発泡スチロールでさらに立体感を持たせ釘付け。

最後に岩絵の具で一息に人形の顔を書き込めば完了。
「孫が出来たら特別な押絵を持たせたいわ」。
押絵師の春はもうすぐ、初孫の産声と共にやって来る。
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とにかく凄い方ですね!
修練を重ねて重ねて… 今がある。
もう尊敬しかないですよ。
これもまた 命を吹き込むお仕事。
こんなに素敵な羽子板 手にした事がないのは残念。
子供の頃 お正月に妹と羽付きで遊んでいた時に使ってた羽子板は 板に直接女の子の絵が描いてあるものでした。
買ってもらった時は 嬉しくて嬉しくて。楽しかったなぁ〜( ◠‿◠ )
羽子板で遊ぶ子供の姿って、もうずいぶん目にしていない気がします!
今晩は。
・羽子板押し絵師さんが、見えたのですね。
・羽子板押し絵手作りなのですね。
(写真)羽子板押し絵綺麗ですね。